瀬崎祐の本棚

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詩集「イナシュヴェ」  たなかあきみつ  (2013/04)  書肆山田

2013-05-28 22:15:39 | 詩集
 多くの翻訳詩集を出しているたなかの第4詩集。140頁に24編の自作詩と4編の翻訳詩を収めている。
 硬質のイメージが無駄を排した言葉で書きとめられる。そこでは曖昧さや柔らかさを拒否したような世界が展開されている。影の淡いにかすむような部分はなく、すべてが陰と陽にくっきりと描かれる。
 たとえば「鶏卵と喉笛を瞬時に変換するかのように/バサッと幾何学の外へ断ちおとされる風景」と始まる「闇の線」でも、提示される事物は無機質な光沢を放っている。するとそこに巨大な工場群に感じるような美しさがあらわれてくる。最終部分は、

   かっての夜行列車が通過したばかりの
   冬の駅がくるぶしのようにそこに点滅する
   それとも冬の花屋の店頭で
   造花ならぬ人造トンボがしきりに旋回する

 詩集後半には人名が冠された作品が並ぶ。それは画家であったり、写真家であったりする。画像と対峙することによって言葉を引き出すことを試みているのだろうか。
 作品「声の痣」から終連の美しい詩行を書き抜いておく。

   ギュスターヴ・モローまで逆行する鉈どころか
   その逃げ水までも
   しきりについばむめす
   (略)
   あの昼さがりの獲物は
   隕石よりも焦げくさい
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詩集「さくら館へ」  森やすこ  (2013/04)  思潮社

2013-05-26 22:01:56 | 詩集
 第3詩集。102頁に23編を収める。
 前詩集「おお大変」もそうだったが、森の作品には妙な脱力感がある。そこには他人には理解不可能な、きまじめな本人だけが必死になっている事柄がある。傍目には、なぜそれほど必死になっているのかが判らなくて、妙に脱力してしまうのである。.しかし、それはとても面白い脱力感なのだ。
 「さくら さくら 桜山」では、皆が花見に繰り出している。すると、「この騒ぎ なにごとか」と祖母は薙刀を抱えてお社のくらやみから出てくるし、割烹着の母も大泣きしている弟も論語よみ論語しらずの父もあらわれる。

   愛と憎しみの果てに桜は終わった
   小石になって生きることにした
   小石になって生きることの喜び
   神もほとけも子守唄も要らない
   ただひとつ小石になる夢
   だれにも邪魔されない夢
   ひとつの形容詞も要らない夢
   希望も絶望も喜びも悲しみも要らない
   こうして ことしの桜 見終わる

 ひとときの栄華である桜が喜怒哀楽のすべてを奪って散っていったようだ。華やかな大騒ぎのあとの虚脱感そのものであるのだが、そこから続く説明無用の決意がなんとも面白い。
 「見る 見た 走った」では白ねこや黄ねこ、黒ねこがあらわれ、父や母や弟の夢に私はあらわれている。このように、この詩集では、亡くなった人たちばかりが私を取り囲んでいる。脳天気なようでいながら、どこかが切ないのはそのためだろうか。
 ”哀しい町”であるO町についての作品「O町へ」の感想は詩誌発表時に書いた。
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詩集「ぴーたーらびっと」  細田傳造  (2013/04)  書肆山田

2013-05-20 09:10:11 | 詩集
 昨年の詩集「谷間の百合」に続く第2詩集。126頁に28編を収める。
 淡々と覚めているような表現なのだが、言い過ぎていない奥に味わいが隠されている。在日として自分のルーツを問い直す詩編、邪心のない孫との交流から生を見つめる詩編などが、意外に大きなうねりを持って差し出されてくる。
 「区境まで」は、偶然に子ども時代の知り合いを見かける作品。「おまえすっかり曝ばえたなぁ」と内心で思いながら昔の家業のことを何気なく尋ねてみるが、男は無言で小さく首を振るばかりなのだ。でもやはり「あれはぜったいに」志村青果店の志村なのだ。

   さようなら枯葉よ
   さようならきょうの落日よ
   拙者は急ぐ
   区境までの道を急ぐ
   区境の病院でたらちねの母が
   降り積もる落葉(らくよう)の中で眠っている
   いつまでも
   三年二組にいた男をかまっていられない

 わざとらしい大げさな物言いに飄々としたユーモアがあるのだが、その陰には折り重なる年月の重さと、母を見舞う今の自分への感慨がある。
 「島翳」は「北から砲弾がとんで」くる情景が詩われた作品。必死に逃げようとする話者は皆に危険を告げるのだが、皆には日常生活が絡みついていて、閨房ごとに余念がなかったり、貝や蟹を焼いたりしている。悪夢のように現実感が乏しく、それゆえにかえって奇妙な恐ろしさが際立っている。本当の恐ろしさはこういう感じで迫ってくるのだろうと思わされる。
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詩集「闇風呂」  細見和之  (2013/05)  澪標

2013-05-17 16:56:51 | 詩集
 第6詩集。93頁に30編を収める。
 前詩集「家族の午後」は家族と自分の関わり、そして家族と一体となった自分と世間との関わりにこだわりつづけていた詩集だった。今回の詩集は詩集タイトル作にもあらわれているように、家族と一緒に温かい風呂に入っているはずなのに何も周りが見えないような状況を描いている。状況は重いものなのだが、あくまでも作者独特の軽い口調でさしだされてくる。
 「鴨川」は、川べりの茶店から自分の死体がゆっくりと流れていくのをながめている作品。

   あのときの傷口はさっくりと開いたままだ
   流れて行ったね
   流れて行っちゃったね
   とつぶやきながら
   俺はうどんをすすっていた
   俺はうどんをすすっていた

 自分にとっての一大事であるはずなのに、他人事のように突き放して状況に対峙している。一種の諦観ともとれるが、それ以上に、静かに甘受している自分の生き様の淋しさのようなものが読み手にしみこんでくる
 「ちゃらんぽらんな生涯」では、口論となった妻が言った「あんたがちゃらんぽらんやから!」を幼い娘が真似をして「チャンポラパン!」と囃し立てる。作者はいささか自虐気味に自分がたしかにちゃらんぽらんに生きてきたと思い返す。

   おれがくたばったときにも
   娘を先頭に
   葬列は進んでゆけばいい
   チャンポラパン!
   チャンポラパン!
   淋しく陽気に

 ここでも自分の人生を突き放して眺めているのだが、その人生そのものが”淋しく陽気”だったわけだ。”ちゃんぽらぱん”という言葉が印象的で、いつまでも耳に残る。
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詩集「ピノキオ」  米山浩平  (2013/04)  土曜美術社出版販売

2013-05-08 23:31:44 | 詩集
 「現代詩の新鋭」シリーズの1冊。93頁に22編を収める。
 付いてくるものには神経質にならずに、とにかく言葉を探り当てようとしている。しがらみを捨てた言葉が自由に組み合わされ、新しいイメージを形づくろうとしている。どこまでも堅苦しさとは無縁である。

   終わったときに
   麗らかな午後であったなら
   それと知らずに通り過ぎたことも
   遠方から
   望遠鏡で概観したことも等しく
   うららかな午後のおこした企てである
                   (「ピノキオ」より)

 
 あらわしたいイメージのために用いる言葉が内側から湧いてくるのを待つのではなく、散らばっている言葉を拾い集めているようだ。それは、無意識のうちにおこなってしまう言葉への自己規制をとりはらうためには、有効な方法であるともいえるだろう。
 しかし、その同じ理由で言葉は事物から浮いている。多彩な言葉が提示されてくるのだが、その肌触りは淡泊である。付いてくるものがないままにどこまで疾走できるのか。いささか心配ではある。

   床
   テーブルのうえにも整然と
   散らかったガラスの破片のいくつか
   地を這う赤ん坊が口に含んだことを告げるコンパクトを
   女が閉ざす
   赤ん坊は偶然あった三面鏡に飛び移り
   二本足で立つ
                    (「ヘッドライト」より)
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