瀬崎祐の本棚

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詩集「長老の愛した女たちの季節」  安川登紀子  (2013/10)  七月堂

2013-12-30 19:29:15 | 詩集
 第5詩集。121頁に41編が収められている。
 正方形の判型の表紙には、お下げ髪の女子高生が軽いタッチで描かれている。カバーも帯もない装幀は、剥き出しのものを差し出してきている内容によく合っている。作者の年齢は知らないのだが、女の中にはいつまでも少女がいるのだろう。
 そんな女たちを愛する長老だが、作品「長老」では、「あぶなっかしい/古い布でできた部屋」で女たちは「スッポンスッポンと/赤ん坊を産んでいる」のである。

   私もそこにいた
   部屋から降りると
   袋のようなその部屋を下から眺めている
   長老がいる

 優しいようでいて、そのあまりの優しさが残酷なものを差し出してきているように感じられてしまう。私が産んだのは「古めかしい四角い詩集」であり(この詩集か?)、「空ろな目をした/亡くなった父に/渡した」のである。
 「呼び出されて」。高校生だった私は、父に言われて子猫を捨てたのだが、そのときに子猫はスカートの上にうんちをしたのである。その日、私は担任の先生に呼び出されて、「あなたはみんなが笑っているときに/一緒に笑ってはいるけれど/心から笑っていない」と言われる。他人との関係を保つために私の中で葛藤するものは、おそらく多くあったのだろう。先生と話している間中に私が思っていたのは、

   捨ててしまった哀れな子猫の
   ゆくすえではなかった
   作り笑いを咎められ
   途方に暮れていたのではなかった
   制服のスカートから漂う
   子猫の残していったうんちの臭いが
   気になってしかたなかった

 傍目には滑稽に思えるようなこの心理状態が、必死に生きていくときの真の姿なのだろう。そのことが愛おしく思える。
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エッセイ集「歌の履歴書」  吉田義昭  (2013/12)  洪水企画

2013-12-27 00:09:55 | 詩集
 「『ミスティ』はもう歌えない」という副題が付いたエッセイ集である。
 端正な抒情を孕んだ作品を収めた4冊の詩集を出している吉田は、40年以上もステージで歌ってきた本格的なジャズ・シンガーでもある。彼は先年まで教職に就いており、その仕事の合間にステージで歌っていることは私(瀬崎)も知っていたのだが、若いころはクラブ歌手として活動をしていたことまでは知らなかった。
 ジャズにはスタンダードと言われる佳曲がいくつもあるのだが、このエッセイ集には、彼が生きてきた道筋のふしぶしでながれていたジャズの曲が登場する。亡くなった母の思い出に沿うようにあるのは「アメイジング・グレース」であり、突然死したピアニストの思い出には「マイ・ウェイ」が付いている。
 それこそ生命に関わるような分岐点に立った時にもジャズは吉田の傍らにあった。急性心筋梗塞の緊急心臓カテーテル手術。そのときにも「ミスティ」がながれており、「奇妙な果実」があったのだ。

    なぜ、私は今、歌っているのだろう。死にかけてから、また、歌うことになった自分の運命
   にも感動していた。自分がこうして今、生きていて、歌を歌っていることにも怯えていた。そ
   の時、私の身体は急に熱くなり、身体の震えはなかなか止まらなかった。
                             「詩の方角 「ミスティ」はもう歌えない」より。

  
 彼を支えるものとして”詩”があるのは疑う余地もないことだが、それと同等に、あるいはそれ以上の重みを持つものとして”ジャズ歌唱”があることに、このエッセイ集で知らされた。
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地上十センチ  5号  (2013/11)  東京  

2013-12-25 23:55:41 | 詩集
 和田まさ子の個人誌。表紙にはフィリップ・ジョルダーノの軽快でひょうきんで、そしてどこか不気味な絵が使われている。
 今号のゲスト、暁方ミセイの「機能」。  
 夜の中で彼女は煩悶しているようなのだ。淀んだどす黒い感覚が伝わってくる。「瞳の蟻をぼろぼろと洗い落とした彼女は、/あすの朝を/用意する」のである。そんな夜は「絶望の方がしずか」なのだが、彼女は絶望を何と比べているのだろうか。それとも、絶望は、これから向かっていく方角を有していたのだろうか。希望などというものは見えないところに置かれているのだろうか。

 
   何かをみつけてしまえば、
   叶いもしないことをまた始めてしまう。
   叶いもしないことをまた始めてしまう。
   それは演技だ。
   冬はきた。街や空気の流れが、
   彼女のおしまいを望んでいるのに、
   彼女はそれを望まないで、
   からだに絶叫をねじこめておく。

 彼女を取り囲む街のすべてのものが彼女を押し潰そうとしているようなのだが、それに必死に抗っている様が息苦しいほどだ。
 そして、作品の最後に”あすの朝”から午後にかけての光景が9行にわたって描写される。凍った椿の枝は「瞼の裏で青く燃え続け」、その氷を溶かした「どろどろの太陽は」「やわ、やわと、/虹色の乳を吐いて隠れ」るのである。その光景のなんと非現実的で白々しいことか。しかしそのような明日がめぐってきてくれることが作者にとっての”機能”なのだろう。
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詩集「カルシノーマ」  伊藤公成  (2013/11)  澪標

2013-12-23 00:19:05 | 詩集
 第3詩集。100頁に24編を収める。
 詩集タイトルからは、”病としての癌”を取り上げているのかと思ったが、違っていた。癌は作者の研究対象として存在しており、取り上げられているのはその研究過程で向き合った実験動物たちの命であった。
 臨床ではなく、基礎。それゆえに生命そのものが剥き出しになって眼前にあらわれている。そこに在る生命は、生活も感情も剥ぎ取られた純粋な組織の、細胞の生命だ。
 人間の生命のために、実験動物の生命を利用する。ときには薬剤を与え癌を人工的に誘発する、あるいは癌細胞の増殖抑制効果を検討している。「年の瀬」では、妻とふたりでだれもいない実験室で、

   季節のない熱帯の国の 年のかわり目
   ふたりは没頭する
   強力な発がん剤の計量に

 そして「どうぞ 毒が動物に効きますように/来年は立派なガンを/たくさんあたえてくださいますように」と今年最後の空を仰ぐのだ。
 個々の生命体にとって癌は否定したいものであることは言うまでもないだろう。しかし作者には、もっと大きな視点の宇宙規模で生命をみたとき、癌にもそれが存在する合目性があるのかも知れないと考えているようだ。そのように使われる生命を見詰めている。そのように生命を扱う痛みを感じている。

   どこをどうすれば
   「死体」になるのか
   Sampleになってくれるのか
   内臓がかわきはじめている
   はさみによって切りこわされた渡し橋
   道を失ったいのちが
   そこで立ち往生している
   血のりが紙いっぱいにひろがる
                     (「赤い地図」より)
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詩集「夕顔」  藤田晴央  (2013/11)  思潮社

2013-12-20 23:19:11 | 詩集
 卵巣癌で亡くなられた奥様へ捧げられた第7詩集。
 あとがきによれば、疾病が明らかになってからわずか9ヶ月あまりで奥様は旅立たれている。この詩集には、闘病中に書かれた作品24編、亡くなられた後に書かれた作品6編が納められている。
 「夏至」では辛い妻の言葉がある。「来年の夏至にはもうこの世にいない/そう 妻は言う」のだ。お互いにそれぞれに覚悟はしている妻の余命だったのだろうが、それが具体的に感じられてしまうものとして突きつけられている。普通の人には毎年当たり前のようにめぐってくる季節だが、今日の季節の日を二度と送ることはできないという、悲しみさえ通り過ぎてしまったような思いが伝わってくる。

   妻は
   突然みじかくなった
   わずかな昼を
   手のひらにのせ
   何かの種でもあるかのように
   みつめている

 「同じ言葉」。おそらくは病状がかなりすすんだのであろう、入院生活となった「おまえは/自転車で来たの?/と言う」。それは春に入院していた病院へ見舞った時に言っていた言葉だったのだ。その頃はまだ「治療の先に明日が信じられてた」のだ。しかし今は「家から遠く離れた緩和病棟(ホスピス)」にいるのだ。

   今
   喜びの泉も枯れ果てて
   うれしかったその朝と
   同じ言葉を
   おまえは言うのだった

 「ぼんやり目覚めた」妻の言葉に、何ヶ月か前にあった状態と今目の前にある状態が否応なく比べられてしまう。どこにも向けることのできない感情がただただ沈んでいく。
 奥様のご冥福をお祈りします。
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