瀬崎祐の本棚

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石の詩  77号  (2010/09)  三重

2010-09-30 19:19:35 | 「あ行」で始まる詩誌
 「住宅展示場の鳥」北川朱実。
 北川の作品を読んでいると、なんて素直に書く人だろうと思ってしまう。まるで自分は何も持っていなくて、外からの風景が挨拶をしながら入ってくるような感じがある。だから入ってくるものとの間には反発はなく、つねに軽い驚きがある。気持ちはいつも彷徨っている。交差点に立ったり、展示場に行ったり。
  久しぶりに友人にも会うのだが、その人は「大きな耳になり 口になり」、それから、

   クジラの尾ひれになって
   あたりをずぶ濡れにしたあと

   ふいに黙った

   一瞬の静けさの中で
   グラスの氷が
   からん、と澄んだ音をたてたけれど

   あれは
   彼女がのみ込んだ言葉ではなかったか

 こういう瞬間のことは、ああ、よくわかるな、と思ってしまうのだが、そう感じさせる切り取り方が巧みなのだろう。展示場には鳥がいて、もうすぐ北へ帰るらしい。
 北川の視線とその先からの思いと、そんなものが提示されて、読む者もまた彼女と同じようにぶらぶらと彷徨っている。それだけのことなのにとても心地よい。普通だったら、こんな他人の思惑に付き合ったりしたら、退屈するか腹が立つかのどちらかなのだが、そんなこともない。そこが素直に書きながらも、しっかりと選び取ったもので構築している世界があるからだろう。
 でも本当は、素直に書くふりをして、こっそりと読む人を騙そうとしているに違いない。それに心地よく騙されてしまって、だから面白いのだろうな。
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詩集「明石、時、」  陶原葵  (2010/09)  思潮社

2010-09-29 18:21:39 | 詩集
 128頁(頁数が印刷されているのは121頁までだが)にただ1編の作品が収められている。作品は80の章に分かれており、さらに作品の前後にいくつかの短章が記されている。詩集全体で絡みあった世界を構築して、それが起き上がってこちらに向かってくる。

   失ったばかり のひとと
   森のおくへゆく

   (いや この水の下には 多くのものが泥土に埋まって
   埋まって名前を与えられて  決めつけられて 諦めきっている
   森のおくに こんな大きな墓の流れがあるなんて
                            (「」初連および終連)

 何を失って彷徨っているのか? 話者の感情はどこにも表現されていなくて、感覚や思考ばかりが詳細にこれでもかと記述されている。感情はここを訪れた人にゆだねられており、それは何かを書こうとした時の正しい姿勢だろう。いわば映画的というか、脚本的とも言えるだろう(A.G.イニャリトゥ監督の映画から引用したような語句もあった)。埋められても名づけられて、諦めがくる。まるで名前で呼ばれることは死ぬことと同義のようだ。とすれば、ここでは生あるものは名前を失っているのだろう。

   晩冬の真夏日には  摘むだろう
   正直にまちがえた草を
   汗ばむ土に 手にしたがってつぎつぎ抜ける根に
                               (「・」全)

 だからこの詩集には他者はあらわれない。話者以外のものは名前を持たないので、呼び寄せることもできないのだ。話者はいつまでも名前の周りを彷徨っている。語られたものは仮の姿でしかなく、とりとめもない連想のように消えていく。言葉がものをあらわすなどということは不可能であるからには、夥しい言葉の残渣ばかりが堆積していく。この詩集はそうした言葉たちが一つの存在として立ち上がってきた印である。
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詩集「豆腐とロバと」  井宮陽子  (2010/09)  詩遊社

2010-09-28 19:28:09 | 詩集
 第1詩集のようだ。99頁に32編を収める。詩遊叢書の1冊。
 これはなんとも暖かい詩集である。表紙カバーにはショートケーキを載せたロバがカラフルに描かれている。難しい理屈はどこにもない。ただ書かれていることをそのまま受けとればいいんだという安心感があり、それだけで十分に満たされるものを持っている。
 たとえば「たまには、ええな」。ケーキ屋をしている作者がお饅頭が食べたくなり、4人家族なのだが、6個入りを購入する。

   和菓子の好きな息子が二個
   食べたくて買った私が二個
   あと夫と娘で分ければいい
   甘いものは余り好きでないもの

「たまには和菓子もええもんやな」という夫の声を聞いた後で

   箱を見たら
   もう二個しか残っていなかった
   残ったお饅頭に
   息子の名前を書いておいた
                                (最終部分)

 私の思惑で買った6個のお饅頭だったが、家族の予想外の反応で私の食べるお饅頭はなくなってしまった。しかし、私はおそらく夫と娘が二個ずつ食べてしまったことを喜んでいる。お饅頭を買ってきたという私の行動が予想以上に家族に喜んでもらえたことを、私は喜んでいる。作品に余分なものはなく、これ以上何も付け加えることもない。
 おそらくこの詩集の作品はしかめっ面をした大層な評価を受けることはないだろう。しかし、そんなこととは無縁なところで、もう十分に意味のある作品となっている。
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ヒーメロス  15号  (2010/09)  埼玉

2010-09-24 18:21:33 | 「は行」で始まる詩誌
 「六本木猫坂」河江伊久。
  二つの坂が交わっているところにある小さな二階家の外階段が、作品の舞台である。階段の上の方には黒猫がいて、下の方には雉猫がいる。その外階段の上の方には四十二歳の老人だと名乗る男が座り、わたしは下の方に座る。わたしがコンビニのおにぎりを階段に置いてくると、それはなくなっているのである。そして、

   たのむよ
   と、かれは言った。何だかしらないがたのまれてなるものかと思った。
   たのむよ
   と、続けてかれは言った。黒猫を引き受けてくれというのか。積もり積もった
   家中のごみを何とかしてくれというのか。自分の死体を含めて、死後の後始末を
   してくれというのか。ここにたまたま座っただけで、そんな面倒くさいことを引
   き受けてなるものかと思った。だから聴こえなふりを通すことにした

 ここに描かれたのは一種の出会いと別れである。かれが寄りかかろうとした時に、わたしはその重さを引き受けることを拒否したのである。何が二人を隔てているのか。かれは「たのむよ。おれはこのクロと同じで、ここから下には降りられないんだ」という。わたしは「いやだね。わたしもここから上には上がれないんだ」と答える。最初から二人の間には越えられない境界があったのだろう。それならば、その境界が判っていながらの出会いにはどんな意味があったのだろうか。階段に放置されたおにぎりは、鳥に突っつかれてとびちっているだけなのだ。
 河江の作品は毒を孕んだおとぎ話である。だから、いくら苦くても、おとぎ話に意味を求めてはいけないのである。
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詩集「夜の中の家族」  万亀佳子  (2010/08)  花神社

2010-09-23 21:51:13 | 詩集
 第2詩集。107頁に33編を収める。
 普通に見ていればなんでもないことなのに、捉え方が捻れるとこんなにも奇妙な物語になる。おそらくはそんな風にして作者のなかで捻れて広がっている世界が、提示されている。
 たとえば、どこかがまともではない家族が描かれている。ひまわりが咲いている季節に妹は菊見に行こうと言い出す。私は、きれいでしょう、懐かしいでしょう、と言われて怯んでしまうのだが、いつのまにか「ねじりきられたひまわりの首に/私の首がすげ替えられている」のだ(「菊日和」より)。家族の有り様がどこか捻れている。しかし、本当に捻れているのは、実は話者である「私」かもしれないのだ。
 「石かぼちゃ」に出てくる家族は、「いつも不機嫌な父とおどおどした母」、それに「言葉を覚えない妹」だ。空き地に育てているかぼちゃのつるには、

   半分死んだ母がぶら下がっていて
   重いつるを
   引っ張ってくるのが私の仕事だった

   石のように硬い踏み切りかぼちゃに
   かんかん かんかん かんかん

   ひがな一日鳴っている開かずの踏み切り
   レールを跨いで
   妹だけが私に馴染んでいた
                           (「石かぼちゃ」最終部分)

 中ほどでは社会的な意識の含まれた作品もあらわれるが、やはりこの詩集の魅力は、個人の目から見える狭い世界の捻れ具合であろう。繰り返しになるが、これは見ている目の方が捻れているのだ。その目が捉えた世界だから、これは面白いはずだ。
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