瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

tab  18号  (2009/09)

2009-09-30 16:59:24 | ローマ字で始まる詩誌
 「老後」タケイリエ。
 未だ若々しいタケイが描く老後は、加齢によってやってくる老後ではない。肉体的な老後は、おそらくタケイの想像の外にある。だからタケイが描いているのは概念としての老後である。だから老後を詩いながらも、その肉体は弾んでいる。「こんなにも沈んだ日は/わたしをトランクに詰めて/東北を旅してほしいのですが」と、本当は、概念として捉えているのは老後ですらないのかもしれない。しかし、この無頓着さでいいのだ。

   そんなふうに でも
   われわれが老いぼれる日について
   考えはじめると怖くなる
   愛についても同じで
   手が 伸びるか伸びないか
   それだけのことに
   きっと弱々しくなって
   犬みたいに淋しく尾を振るのだろう   (最終連)

 ただ、この最終連の3行目の「怖くなる」が敗着だった、この作品の魅力は、言葉の意味を利用して軽快に跳ねる、あるいは曲がりくねっているところにある。それなのに、老いの日が怖い、ではあまりにも減速してしまうではないか。そのあとで「手が 伸びるか伸びないか」と、すばらしく跳ねているだけに、なんともここは惜しい気がした。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「女将」  山本十四尾  (2009/09)  コールサック社 

2009-09-25 18:14:46 | 詩集
 かってのLPレコードのジャケットの大きさを思わせる大判の詩集。料亭の女将をしていた伯母をモチーフにした27編の散文詩を収めている。人生の先達である女将の言葉、立ち居振る舞いから学んだ事柄が、日本の伝統が持つ奥ゆかしさといった風情を感じさせてつづられている。
 「弁慶草考」での女将は、「おまえは不良になりなさい」と言う。「良の反対語は不でなく悪だよ」と。

   この弁慶草 この草は不良草といわれている 引きぬいて折ってもしお
   れない 土に挿せば活着する いかなる環境のなかでも生きようとし 
   生きてきている その活力がみてごらん ほれぼれするほど均整のとれ
   た肉つきにあらわれている

 女将の不良への勧めは、「女がおもわずふれてみたくなる男の秘所に似て」私の細胞や血液にとけているとのこと。料亭には芸妓もいて、男女の機微についての蘊蓄もさまざまな教えがあったのだろう。季節の移ろいを大事にしていた女将には、臈長けてなお、時に艶めかしい存在感がある。
 詩集の最後には「女将への花信」と副題を付けた捧げた「散花」春夏秋冬4編の作品がおかれている。優美な趣をたたえた1冊である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橄欖  85号  (2009/08)  東京

2009-09-24 19:22:09 | 「か行」で始まる詩誌
 「ノクターンの風の日」早矢仕典子。
 前半は行わけ詩の形態で、風の音が強い部屋の中にいるモノローグ。後半は散文詩形となり、立ち話をしている二人の女があらわれる。風は女たちの頭髪を吹き分けて地肌をしろく見せている。書きとめられる言葉は、それこそ風に吹き飛ばされまいと性急で、発話者は女たちの観測者なのか、それとも女自身なのかも混沌としてきている。

   それにしても 今の彼女を ただ否定するしかなかったんだろう
   か あなたの居場所はそこじゃないのに、と 何度もいった 彼
   女は 今のじぶんを否定されたくなかっただけだ 肯定 絶対的
   に肯定してくれる相手がただ必要だった 風がつよい なんとか
   ここに踏みとどまっている

 風に吹き飛ばされそうになっているものは、女たちの感情なのだろうか、言葉なのだろうか。風の中で聞き取りにくい言葉を、必死に叫んでいる危機感のようなものが迫ってくる。風は「烈しい物語」を連れてくるのだな。
 それにしても、日差しは強く、夜でもないのに何故ノクターンなのだろうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

反・上方  1号  (2009/09)  京都

2009-09-23 10:12:00 | 「は行」で始まる詩誌
 森川慶一が発行人となって創刊されている。他の4人の執筆者は寄稿ということなので個人誌なのだろう。地名に関係した寄稿者の評論が4編掲載されている。森川は「地名論」という詩集を今年はじめに出していることからも、地名に関してのこだわりが強いと思える。
 森川の「瞑想への様式」は狩野山雪の屏風絵を題材にして、そこに展開される空間的、時間的な旅を捉えている。

   (太湖石は)
      何かの腰掛
   け。あるいはジャ
   ンプ台。そして、
   その台の上に乗る
   のは時間のトラベ
   ラーである山雪自
   身。おのが照準を
   その位置へあわす
   ことによって、そ
   こに立つものを救
   済するのか。

 この1行8文字という詩形は、病のために今はコミュニケーションの唯一の手段となった携帯メールのスタイルとのこと(前詩集あとがきによる)。作者がどのような肉体的状況なのかは知る由もないが、その地に在るという意識があってはじめて旅の意味が出てくることを考えれば、肉体を離れた意識だけの旅が広がるわけだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩集「invisible あんびじぶる」  左子真由美  (2009/08)  竹林館

2009-09-17 21:13:58 | 詩集
 第7詩集。62頁に26編の作品を娘さんの写真と共に収めている。
 「賭け」は、「肉体は/さみしい遭難者/ちいさなランプを灯す/イカ釣り船のようだ」と始まる。肉体という一言ではとらえどころの困難なものを、「イカ釣り船」に例えている斬新さに驚かされる。そして、肉体を持つことはひとつの賭けだと詩う。生きていくことが肉体を維持していくことと不可分となってしまった宿命を感じているのだろう。肉体の危うさを賭けることによって、はじめて私たちは生きていくことができるのだと。

   神は
   わたしたちに
   肉体を与えてしまった
   ちいさなランプひとつを
   舳先に掲げさせて

 冒頭の、夜釣りをする小船の直喩をふまえながら、ここではさらに闇の中に漂う存在そのものへと、肉体を変容させている。「ちいさなランプ」は生きていくことの道しるべを照らし出してくれるのだろうか、それとも、ただそこに在ることの印でしかないのだろうか。
 平易な言い回しでありながら、かっちりとしたイメージを伝えて、余韻の残る作品となっている。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする