「老後」タケイリエ。
未だ若々しいタケイが描く老後は、加齢によってやってくる老後ではない。肉体的な老後は、おそらくタケイの想像の外にある。だからタケイが描いているのは概念としての老後である。だから老後を詩いながらも、その肉体は弾んでいる。「こんなにも沈んだ日は/わたしをトランクに詰めて/東北を旅してほしいのですが」と、本当は、概念として捉えているのは老後ですらないのかもしれない。しかし、この無頓着さでいいのだ。
そんなふうに でも
われわれが老いぼれる日について
考えはじめると怖くなる
愛についても同じで
手が 伸びるか伸びないか
それだけのことに
きっと弱々しくなって
犬みたいに淋しく尾を振るのだろう (最終連)
ただ、この最終連の3行目の「怖くなる」が敗着だった、この作品の魅力は、言葉の意味を利用して軽快に跳ねる、あるいは曲がりくねっているところにある。それなのに、老いの日が怖い、ではあまりにも減速してしまうではないか。そのあとで「手が 伸びるか伸びないか」と、すばらしく跳ねているだけに、なんともここは惜しい気がした。
未だ若々しいタケイが描く老後は、加齢によってやってくる老後ではない。肉体的な老後は、おそらくタケイの想像の外にある。だからタケイが描いているのは概念としての老後である。だから老後を詩いながらも、その肉体は弾んでいる。「こんなにも沈んだ日は/わたしをトランクに詰めて/東北を旅してほしいのですが」と、本当は、概念として捉えているのは老後ですらないのかもしれない。しかし、この無頓着さでいいのだ。
そんなふうに でも
われわれが老いぼれる日について
考えはじめると怖くなる
愛についても同じで
手が 伸びるか伸びないか
それだけのことに
きっと弱々しくなって
犬みたいに淋しく尾を振るのだろう (最終連)
ただ、この最終連の3行目の「怖くなる」が敗着だった、この作品の魅力は、言葉の意味を利用して軽快に跳ねる、あるいは曲がりくねっているところにある。それなのに、老いの日が怖い、ではあまりにも減速してしまうではないか。そのあとで「手が 伸びるか伸びないか」と、すばらしく跳ねているだけに、なんともここは惜しい気がした。