瀬崎祐の本棚

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詩集「ひよこの空想力飛行ゲーム」  秋亜綺羅  (2014/08)  思潮社

2014-08-30 10:16:36 | 詩集
第3詩集。111頁に16編を収める。
 秋の作品には抽象的な言葉はひとつも使われていない。作品にあらわれる素材はみな見ることができて触れることができて名前を持っているものばかりだ。秋はそれらの具体的な素材を抽象的に組み合わせる。言葉では名前をつけられないものに、そうやって秋は形を与えていく。

   がれきたちが手に入れたはずの自由の地平は
   ビルとひとだらけの街に戻っていた

   さあ街じゅうみんな両手をひらひらさせて
   ちょうちょになろうよ

   パラパラ漫画みたいにみんなで踊ろう
   ここまで爆弾が落ちて来たってさ
   みんな踊りつづけようよ
                   (「ちょうちょごっこ」より)

 そして少しばかりの嘘の理屈も混ぜられる。それも、はじめはもっともらしい本当のことを言っておいてから、同じ論法を利用して嘘をつく。嘘の理屈は、言い換えれば夢の理屈だ。「さみしいがいっぱい」の最初と最後はこうだ、

   すべてのものはゼロで割ると無限大になる

   (略)

   伝言はないんだね、さむいとか
   ひとはいつゼロになれるのだろうね
   もう一軒いこうよ
   百年の孤独のゼロ割を注文しようじゃないか

 夢の理屈は世界をどこまでも広げてくれるわけだ。
 作者の発行している個人誌「季刊ココア共和国」にエッセイとして発表された「秋葉和男校長の漂流教室」も詩として収められている。この作品についての感想は以前にここで書いた。こんな事を言うと失礼なのかもしれないが、この作品が一番好きだ。生身の作者を感じる。
 ということは、他の作品にはあまり生身の作者を感じないということなのだが、もちろん、作者はそんなことは承知の上で、というか、そんなことを狙って書いているのだろう。生身を捨てれば、軽くなった分だけ自由になれる。ひよこだって空を飛べるぐらいだ。
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詩集「かわいくて」  紺野とも  (2014/07)  思潮社

2014-08-28 18:23:29 | 詩集
 第1詩集。86頁に20編を収める。川口晴美、渡辺玄英の栞が付く。
 まずは圧倒されるのは名詞の乱舞である。それも現代のファッション用語、ブランド品をはじめとする商品名、コンピューター用語などである。たとえば、

   ショコラ・ショーはお湯に溶かしてのんびり飲むチョコだけど近道したって別
   にいいじゃない。ニキビができたってかまわないんだ、あごにひとつだけの思
   われニキビってたまらなくいとしいよ。大寒波にはUGG(アグ)のムートンブ
   ーツがベスト、らくちんで安全でそれでも足りないヘモグロビン。納品に間に
   合わないからもう動かなくちゃ、スクラップされた時間の紙屑踏んで動き出す。
                          (「BI嬢(じょう)」より)

 ここには作品を差し出す相手への配慮を無視しようとし居直りのようなものも感じられる。それは覚悟を決めた強さでもある。そこまでしてでも”今”に固執しているのだろう。それは”今の”自分をあらわすための手段であるのだろう。そして、おびただしい名指しなのだが、名を持たせることによって対象との関係を安心しようとしているようにも思える。
しかし、ただそれだけではない。それらのものを受け止める感覚が、確かに作者の肉体に根付いている。

   このごろ恋人を呼んでいません。呼ばないのに欠片は目障りに光見つめれば
   眼に残像を残します。それがひんやりとした棘のように筋肉の繊維を傷め苛立
   ちがつのりぶつけてしまいたくなったから、痛む腕を懸命に振って壁に投げつ
   けました、
   それなのに! 割っても・・・・・・面積を増した欠片はよけいにわたしを苛みつづけ
   るのです、かわいそうな小さな光たち。
                           (「燐光」より)
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詩集「ひな」  秋山基夫  (2014/07)  ペーパーバック

2014-08-21 22:49:44 | 詩集
 表紙も背表紙も黄色なら、中の頁もすべて黄色の用紙といった、徹底的に挑戦的な詩集。198頁に作品「ひな」ただ1篇を収める。
 「ひな」の初稿は1987年の春ごろに書きはじめられ、12月までに7稿が書かれたとの記述がある。その後、10年の放置期間の後に8稿が書かれ、さらに10年余りが経って今回の9稿の形になったようだ。ということは、25年以上にわたって書き継がれた作品ということになる。
 その制作期間にも驚かされるが、作品の形態にも呆気にとられる。作品は壱から四に分かれ、それぞれに「「ひな」のためのノート」という註が付いているが、それだけではない。作品自体にもゴシック体の註のような部分がいたるところに挟み込まれているのだ。それは詩行そのものの自注であったり、詩行が書かれた背景であったり、歴史的な考察であったりする。8稿にこのゴシック体の註を書き加えたものが9稿となっている。
 その作業の結果、この詩集はあちらこちらで枝道が分かれた迷路のような姿となっている。枝道を進んで妙なところにワープしたり、あるときは枝道が袋小路となっていたりもする。秋山はゴシック体部分を「単なる注ではなく、これを含めた全体が「ひな」の作品世界なのだ」と言っている。
 作品の内容についてはなんの紹介もしなかった。というのも、秋山がこの詩集で差し出そうとしているのは、おそらく”書く”という行為そのものなのではないかと思えたからだ。
 この詩集には、秋山がこの作品とともに在った時間が封じ込められている。だから、その一部を抜き出してみてもまったく意味はない。詩集まるごと1冊を読まないかぎりはなにも始まらないのだ。
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詩集「揺れる家」  今井好子  (2014/07)  土曜美術社出版販売

2014-08-20 17:24:16 | 詩集
 第3詩集。86頁に20編を収める。
 この詩集に収められているのは、親しみやすい風景のはずなのに、どこかが日常の感覚からずれているような違和感がある、そんな肌触りの作品である。独り言によって展開される作品世界にはどこにも尖ったところはないのだが、その滑らかにみえていたものは、詩行を追っているうちに微妙に歪んでいくのだ。
 「ずっと気になっていることがあって」は、家の鍵をかけ忘れてきてしまったという独り言の世界。里芋は鍋の中だし、仏様のお供えもそのままなのだ。

   夢をみるようになりました
   住み慣れた家が折紙のように
   一辺一辺丁寧に折りたたまれていく夢を
   指の疼きでめがさめて
   そういう夜は決まって嵐が
   深いところから吹いているのです

 そんな夢をみると、もう「かけ忘れた鍵の形が滲んでいく」のだ。すると、家はどんどんと勝手に変容してしまうようなのだ。気にすればするほどに家は怖ろしい状態になってしまうのだろう。気にすることは、怖ろしいことなのだ。
 「祖母の買い物かご」は、納戸のおくに置かれている「もち手ひとつのあみあげかご」を詩っている。祖母が出かける買いものに、幼いわたしはその「買い物かごにちょこっと手をかけ」てついていったのだ。おそらく長いこと置かれていたそのかごに「ちょこっと手をかける/をやってみたくて」

   祖母の買い物かごをひっぱると
   小さな悲鳴のあと
   ぱあっとちりぢりにくだかれ
   わいわいがやがや
   わいわいがやがや
   ふぶきがふってきた

 そして納戸はゆれだして祖母が買ってきたものがちっていくのだ。人の思い出の中にあるものは、ときに思いがけないほどの凶暴な光景を見せつけてくるのだろう。だから「西日すらさしこまない納戸のおくで/わたしのつま先は/しんしんと冷えてい」くだけなのだ。
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詩集「シアンの沼地」  高谷和幸  (2014/07)  思潮社

2014-08-18 19:21:08 | 詩集
 115頁に16編を収め、倉橋健一の栞が付く。
 生き続けている肉体と思考の動きを言葉で書きとめている。時間とともに揺れ動くそれは断片化されて差し出されてくる。当然、そこに説明はないわけだから、断片化された言葉たちは他者への意味の伝達を担ってはいないだろう。個々の細かいことではなく、作者まるごとの総体としての生き様を浮きあがらせようとしているのだろう。
 に収められた2篇、そしての「Cyanの沼地」はそれぞれ180行から300行余りの長い作品であり、上記のたたずまいが著明にあらわれている。一部を引用することは、その全体を掴むためにはさほどの意味はないのだが、

   ・遠く離れる。自分の残してきた半身を定着させ
   るために、自分に向かっての歩み。さようなら。

   ・私の庭は全体になろうとして失敗するので/す。

   ・一方で、「完璧な庭」を受けとる。毎日を漂流
   物が打ち上げられる波打ち際に立っているのかも
   しれない。空へ遡行しようとする渚。漂流した日
   用品から可笑しな忠誠心と不死が顔をのぞかせて
   いる、そこから。
                         (「若草色に根を忘れる」より)

 の13篇は動きを止めての発語であるのだが、やはりその場で言葉は渦巻いている。
 「ふとんの前と後ろに雨が降っている」という魅力的な詩行ではじまる「ふとんの前と後ろ」。

   もしも虹をわたるあなたたちならば、多元の末路
   交差する人の早さの、それぞれの荷電体に名前
   をつけようとされるでしょうか? 疑いもなく、
   水面に浮かぶ波紋のような、あれは小鳥たちの鳴
   き声ですよ。ふとんの前と、それから後ろに。


 総体としての作者は、名指しをした日常に絡め取られてもがいているように思える。名指しをしなければその日常は空虚なものとなるわけだが、名指した瞬間に裏切られるのだ。その状態はかなりに必死なことなのだ。
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