昨年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送が終了し、井伊の赤備えで赤く染まっていた静岡県西部地方(浜松市など)も普段の風景に戻りつつあるような気がします。
(井伊の赤備えと言われた所以の赤い鎧等)
大河ドラマの放送の後のことになりますが、「おんな城主 直虎」が、後見した井伊直親の子の直政(幼少名は虎松と万千代)は徳川家康に仕え徳川の四天王と言われているが、 直虎の没後、1590年家康が関東に入国した際に、家康に尽くした功で関東の知行割の際、箕輪藩12万石を井伊直政に与えられています。(箕輪藩は現・群馬県高崎市箕輪町)
直政の新赴任地でした。その箕輪城のある資料や写真を知人よりいただきましたので、 直虎亡き後の直政のその後の活躍した動向をご紹介します。
(箕輪城跡の石碑と本丸跡)
箕輪城は現在天守等の建物はありませんが、平成10年からの発掘調査が行われ、郭馬出し西口の出入り口に、大きな門跡が確認され、現在立派な「郭馬出西虎口門」として平成28年に立派な門が復元されています。
(再建された郭馬出西虎口門=カクウマダシニコグチモン)
(二の丸跡と本丸広場)
赴任後直政は箕輪藩を盛り立て、八年間在任した後、家康は信州や越後への幹線道路の整備や関東北辺の守りを固めるなどの理由から直政を和田の地へ移しました。和田を高崎と改名し高崎城を築き初代藩主となっています。
その2年後(1601年)には直政は滋賀県の佐和山藩18万石の藩主(城主)となり、彦根藩の基礎を築いています。
そして、1602年2月1日、関ヶ原の戦いで大けがをしたことに因を発した直政は死亡しました。
大河ドラマ「おんな城主 直虎」を1年間見たことで、直虎が後見した直政のその後の動向が気になるところですが、いい機会に勉強させていただきました。