アーダ、コーダ、イーダ!

浮かんでは消えていく想い。消える前に名前をつければ、何かにつながるかもしれない。何処かにいけるかもしれない。

お寺のお仕事について考える

2007年12月28日 14時54分56秒 | Weblog
 友人の父親の葬儀に行ってきた。
 いつも思うことだが、お経の意味がわからない。昔、永六輔が講演で「これからこういう意味のお経をあげますって、お坊さんは言うべきと思います」と言ったが、そう思う。意味のわからないお経を聞いてもありがたくも何ともない。
 戒名。死者に対して、金でランク付けする俗悪さ。加えて、その人がどんな人だったかを知らないで戒名付けられて、何の意味があるのか。
 たとえば、葬儀社は商売だから金で葬儀にランクをつけるのはわかる。また、家族の誰かが死んだ時、どういう風にすればいいかを指導してくれるので、むしろ助かる。しかし、僧侶は死に、死者に向き合う。それを坊主の数やお経の長さ、戒名でランク付けをするのは間違いだろう。今日の葬儀は寺で執り行われた。お経の間、本堂の造りをチラチラ眺めたが、いい木材を使っている。昔、ある寺が本堂の改築を行い、檀家からお金を集めたが、台所まで改造したというので怒っている檀家の一人がいた。
 宗教は文化の一つ。生き死には自然。その自然に文化が介入したところで、力はない。もっと遺族に寄り添った仕事をしないと、先細りするだけではないのか。ちなみにぼくは、ぼくの葬儀に坊主も戒名もお経も要らないと考えて、その旨、伝えてある。そういう人が増えていることも知っている。

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