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みちのくの山野草

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「10番稿」封印の理由(木村東吉氏によれば)

2017-03-12 11:00:00 | 賢治作品について
 さて、賢治は何故
    『この篇みな/疲労時及病中の心ここになき手記なり/発表すべからず
ということで封印したのだろうか、ということを私は疑問に思ってここまでいわゆる「10番稿」を少しく通読してみた。当初は、賢治が〔もう二三べん〕において詠み込んでいた「冷笑や慢」を彼は後に読み返して慚愧に堪えなくなって、これと似たようなことを詠み込んでいた詩稿も含めて「10番稿」に収めたのかなと私は思っていたのだが、通読してみたところ、確かにそのようなことが詠み込まれている詩もあるにはあった。そのことについては先に〝賢治が封印した詩稿群(「第三集」分) 〟及び〝賢治が封印した詩稿群(「第三集」以外) 〟で投稿したところである。
 ただし、そうとばかりも言えない詩稿もあるということもまた知った。言い換えれば、
    「心ここになき」こと=冷笑や慢
という等式は成り立たず、「心ここになき」にはもっと別の要素も含まれているということになりそうだ。

 そこで今回は、「春と修羅 第三集」に所収されていて、「10番稿」に収められた詩のいくつかについて、木村東吉氏はどのような考え方をしていたのかということを調べてみたい。具体的には同氏の論文、「宮沢賢治・封印された「慢」の思想 -遺稿整理時番号10の詩稿を中心に-」(『国文学攷』第一七六・一七七号合併号(広島大学国語国文学会編2003年)所収)を読んでみた。そこでは次のようことなどが論じられていた。

 まず、「一〇二一和風は河谷いっぱいに吹く」についてだが、木村氏は、
 この作品がなぜ「疲労時及病中の心ここになき手記なり」として封印されるのか。この作品だけを見ていては理解に苦しむところである。しかし、考えてみれば、気象状況などからして、周囲の稲田との間に差があったことが当然考えられる。そうした状況を踏まえれば、自分の稲の成功を単純に喜べないのではあるまいか。
と推論し、それ故に封印したと考えているようだ。そして同氏は続けて、
 同日の作品に、一〇八八〔もうはたらくな〕とこれが番号と日付を失った形の〔降る雨はふるし〕がある。パセティックな詩人の姿が出ている作品だが、これも10番稿に分類されている。併せて考えてみると、作者の作品選択の事情がより明確になる。
と論じ、
 〔降る雨はふるし〕において、「保険をとっても辨償すると答へてあるけ」とまで自分を鞭打つ状態であればもはや「和風は河谷いっぱいに吹く」を公表できる状況にない。
とその封印の理由を推理している。

 なお、私としては何故この詩が10番稿となったのかということについては、先に〝「和風は河谷いっぱいに吹く」〟で論じたように、そこには賢治らしからぬ虚構、つまりそれこそ気象条件や収穫高に関しての「心ここになき」虚構をしてしまったからであると思っている。つまり、「和風は河谷いっぱいに吹く」における「今日はそろってみな起きてゐる」は嘘であり、「一九二七、八、二〇」の現実は「おれが肥料を設計し/責任のあるみんなの稲が/次から次と倒れたのだ/稲が次々倒れたのだ 」だったからである。
 それに伴って、賢治は、「保険をとっても辨償すると答へてあるけ」と自分を鞭打つような詩を書いては見たものの、そのような行為は周りから反対されたし、実はこのような弁償行為こそ己の「慢」の為せる業だということに後に気付いたからこそ、賢治は〔もうはたらくな〕も〔降る雨はふるし〕も封印したと私は判断している。
 そういう意味では、木村氏が続けて
 これもまた倨傲あるいは「慢」の思想と捉えたとして不自然ではない。これらの作品を作ったのも作者だが、これらに封印した事実にこそ作者の最晩年の思想的到達点があることを、我々はこれまで見逃してきた。
という見方と指摘はまさにその通りだと肯んずるところである。まさに、「これらに封印した事実にこそ」 最大の意味と価値があると、そこに賢治の素晴らしさがあると私も確信している。

 そして木村氏は次のように続けている。
 類似のテーマを持つ作品で、やはり10番稿に収められているものに七一五〔道べの粗朶に〕等もある。一〇一五〔バケツがのぼって〕「停留所にてスヰトンを喫す」のような、象徴的表現をとったものであっても、やはり10番稿含められている。…(投稿者略)…佐藤泰正はここに「蒼き<神話>への投身の身振りもない」とするのだが、詩人自身の自己を見つめる目はもっと厳しい。
と。
 なお、私としては〔道べの粗朶に〕については、次の連
   そっちはさっきするどく斜視し
   あるひは嘲けりことばを避けた
   陰気な幾十のなのに
   何がこんなにおろかしく
   私の胸を鳴らすのだらう
に詠まれている冷笑と慢を賢治は恥じて封印したと思っている。そういう意味でも、木村氏が続けて
 作品選択基準が…(投稿者略)…高踏的な姿勢で農民批判をした作品群が10番稿に整理されている理由も容易に理解できる。《第三集》の七三五「饗宴」(補遺形〔みんなは酸っぱい胡瓜を噛んで〕)『口語詩稿』の〔もう二三べん〕等がこれにあたる。
と論じているのもその通りだと思う。

 それは、賢治が最晩年に、詩稿を分類した際にこれらを読み返したならばそこに高踏的な自分を見出して忸怩たる思いになるのは当然であったであろうからである。何となれば、昭和5年には
根子ではいろいろとお世話になりました。
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
               <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
と伊藤忠一に詫び、そしてさらには
    『この篇みな/疲労時及病中の心ここになき手記なり/発表すべからず』
と「黒クロース表紙Eの力紙」に賢治は書いていたからである。
 そしてそもそも私達だって、これらの詩「饗宴」や〔みんなは酸っぱい胡瓜を噛んで〕に詠まれた「権左エ門」や「熊氏」そして「顔のむくんだ弱さうな子」の立場になってみれば、あまりいい気分ではないし、賢治も最晩年になって当時の自分が高踏的だったということに気付いたということは、相手の立場にも立てるようになったということだろうからやっとそのことにも気付いたはずだ。まして、〔もう二三べん〕についてはなおさらであり、そのことについては先に〝〔甲助 今朝まだくらぁに〕(〔もう二三べん〕)〟において主張した通りである。

 さて、木村氏は〔あすこの田はねえ〕に関しても次のように論じていて、
 むしろ驚かされるのは、農業指導に関することでも、詩人自身の指導者意識が現れたものは封印されていることである。一〇八一〔あすこの田はねえ〕などがそれにあたる。この慈愛に満ちた祈りをこめた作品すら10番稿にしているところに、作者の自省の厳しさが見られるところである。
さらに、「教え子への指導者意識は明確で、同一の地平に立った表現でないところに削除の理由はあるのかもしれない」と推測してる。
 基本的にはこの論文の木村氏の見方と指摘は私も賛同するところだが、このことに関しての私の見方は少し違っていて、端的に言えば
    あつちは少しも心配ない
    反当三石二斗なら
    もう決まつたと云つていゝ

という連を書いたことを悔いたからだと思っている。そのような収穫高を安易に教え子に伝えたことを恥じたからであると。つまり、このことは当時の賢治の場合には「心ここになき」ことだったからであると。

 そして、木村氏は最後に
 このように考えるなら、七四〇「」が10番稿に収められているのも、農業指導の場に向かう場面を描いたものであるためと了解できる。一〇二二〔一昨年四月来たときは〕が10番稿になるのも同じ理由であろう。
を取り上げて、10番稿に収められた理由を論じていた。 
 もちろんそれが大きな理由であろうと私も思うが、それだけもないような気もしている。まず「七四〇 秋 一九二六、九、二三、」については、ちょうど高瀬露が羅須地人協会に出入りし始めたのは「一九二六」年の秋からであり、しかもこの「秋」に登場している「上鍋倉」とはまさにその露が勤務していた寶閑小学校のある場所であるから、実は賢治は「上鍋倉の年よりたち」に会いに行っただけではなく、露に惹かれてそこへ行ったということも否定できないから、賢治が「心ここになき」詩篇だとした可能性も否定できないのではなかろうか。
 一方の、「一〇二二 〔一昨年四月来たときは〕一九二七、四、一、」については、
   人は尊い供物のやうに
   牛糞を捧げて来れば

という表現をしていたことを悔いたということもありそうだし、それ以上に最後の
   そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た
という記述に忸怩たる思いになったからだということも考えられる。そしてやはり「心ここになき」詩篇だったということで10番稿にしたということも私は否定できない。
 なぜならば、「一九二七、四、一、」 とは、昭和2年4月1日ということだから、まずは「一昨年四月来たとき」は「大正14年4月来たとき」となる。そして「去年の春にでかけたとき」は「大正15年の春にでかけたとき」となるので、最後の「そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た」とは、「大正15年の夏あの恐ろしい旱魃が来た」となる。そして、確かに大正15年の夏の旱魃はおそろしいものだったのだが、稗貫のみならず、取り分け隣の紫波郡はこの大旱魃で赤石村等は未曾有の旱害だったので、あちこちから陸続として救援の手が差し伸べられたのだが、賢治は何一つ救援活動をしなかったから、他人事のように「そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た」と詩の最後を締め括った自分に忸怩たる思いになったはずだから、まさに「心ここになき」ものとして、100番稿に入れて「発表すべからず」と書いて封印しようと思ったのだと私は判断している。

 したがって現時点での私の見通しは、次の近似式
 はじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもの心ここになき
が成り立つ、ということである。

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