みちのくの山野草

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「一本足」論争(経過報告7)

2024-07-13 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

*****************<(20)↓投稿者H氏/2013年10月 9日 16:59>**********************
鈴木さん、こんにちは。
このたびは、私の書き込み内容に対してご憂慮をおかけしまして、痛み入ります。また、ご親切にその対処方法の助言までいただきまして、感謝申し上げます。
私の書き方がひねくれていたために、鈴木さんにこのような誤解を招いてしまったのかと思いますが、以下にご説明するように、私の方は大丈夫ですので、どうかご安心下さい。

鈴木さんは、私が上の書き込みにおいて、『澤里は12月と言うつもりなのに11月と言ってしまった』、「賢治の最愛の愛弟子の一人が間違いを言ったと強く主張」したと理解されたようですが、私はそのような意味のことは述べておりませんので、これはやはり、一種の誤解だと思います。

私は、その前の書き込み最後で鈴木さんが「澤里の書き間違いだとでも仰るのでしょうか」と尋ねられたことを受けて、「間違いでないと断定することはできないが、そんな答えの出ない議論に入り込んでもしょうがないので、次のように考えれば、沢里が11月と言った理由を理解できるのではないでしょうか…」という趣旨のもとに、それ以降の文章を書いたのです。

つまり私は、「沢里が間違いを言った」とは、全く主張していません。
そうではなくて、「(沢里を含めて)どんな人でも、絶対に間違わないということはない」という、当たり前の一般論を述べただけです。
そして、この一般論は、沢里氏を誹謗中傷したことには当たらないので、これを理由に沢里氏や関係者に謝罪したり、書き込みを削除したりする必要はないと、考えております。

鈴木さんにおかれましても、もう一度冷静に読み返していただければ、ここで私がご説明しているところは、きっと理解いただけるはずと、信じております。

ただ私としては、このような誤解をきっかけに、せっかくのこの場での鈴木さんとの意見交換が、お互いに不本意な幕切れを迎えてしまわないかということの方を、今は危惧しています。

ということで、さて、よろしければ、またビジテリアン大祭の論壇に戻りましょう。
沢里武治氏は、関登久也『宮沢賢治物語』に収録された証言をした段階で、賢治の上京をまだ昭和2年と考えていたのか、訂正して大正15年と考えていたのか、鈴木さんのお考えはいかがでしょうか・・・。

*****************<(21)↓投稿者鈴木守/2013年10月 9日 19:09>**********************
 さて、今問題となっているのは「新校本年譜」の大正15年の12月2日記載内容ですが、仰るようにこの典拠は関登久也の著作の中の澤里武治の証言であると私も思っていて、この点では意見は一致しております
 そして、あなたはその中でも『宮沢賢治物語』が妥当だと言っております。そこでその澤里武治の証言を見てみると、

『どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る。」
と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。…(中略)…その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。…(略)…単身上京されたのです。…(略)…
 そういうことだけに幾日も費されたということで、…(略)…先生は三カ月は滞京なされませんでしたが、お疲れのためか病気もなされたようで、少し早めに帰郷されました。』

となっております。
 ところが、この中での重要項目である
・「昭和二年十一月ころ」
・「先生は三カ月は滞京なされませんでしたが…(略)…少し早めに帰郷されました」
を今まであなたは澤里の記憶違いであり正しくない言ってこられましたが、さらには、前々回のコメントにおいて
・「その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした」
も怪しいものだと表白したわけです。
 ということは、この澤里の証言をあなたはかなり疑っているわけですから、あなたはこの証言はもうぼろぼろで、殆ど信頼度がないということを主張したことになります。
 すると大正15年の12月2日の「賢治年譜」の「現定説❎」、

『セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。』…………❎

の中身もおのずから信頼性が欠けているということを結果的に主張していることになります。しかし、一方であなたはこの内容は正しいと仰るわけです。
 なおついでに申し上げておきますが、私は賢治が大正15年の12月2日に上京していないなどとは今まで一度も申し上げておりません。拙著にもそんなことは書いておりません。
 長くなりますので、今回はこの辺で。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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