みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

90年前の今日、賢治は何をし何をしなかったのか。

2017-01-09 10:00:00 | 賢治渉猟
《Fig.1 昭和2年1月9日付『岩手日報』》
大正15年、隣の紫波郡内はヒデリによる大凶作だった
 このブログの先頭の紙面は今から90年前の今日、1月9日付『岩手日報』夕刊のいわゆる一面である。ほぼ全面が紫波地方の旱害被害に関する報道であった。
 では、幾つかの部分に分けて報告する。まず、
《Fig.2 昭和2年1月9日付<*1>『岩手日報』》

についてだが、文字に起こすと次の通り。
 未だかつてなかつた紫波地方旱害惨状 飢えに泣き寒さに慓ふ同胞 本社特派員調査の顛末発表
 紫波地方昨夏の旱魃は古老の言にもいまだ聞かざる程度のものであった水田全く変じて荒野と化し農村の人たちはたゞ天を仰いで長大息するのみであった。したがって秋の収穫は一物もなかった、なんといふ悲惨事であらう、飢に泣き寒さに慄へる幼き子どもらを思ふとき我れら言ふ言葉がない、我社この哀れな同胞の実生活を調査せしむべく記者小森秀、写真班小原吉右衛門を特派したがこゝにその視察記を発表する次第である。
 赤石村に劣らぬ不動村の惨めさ 灌漑は全く徒労に終わって収穫は皆無
 不動村は赤石村に劣らない惨害を受けたが鉄道が多少離れてゐて惨害が比較的一般に知られてゐない、村役場の調査によると耕地反別五百三十一町歩中植つけ不能段別四十七町一反歩、植えつけはしたが枯れて仕舞又は結実せず収穫が皆無のもの六十三町歩、七割減収が六十三町歩、五割減収が六十八町歩、三割減が三十四町歩、三割以下の減収が三十三町歩といふ数字を示し耕地面積の半分に近い二百四十一町歩余は収穫皆無又は半作以下で地租免税の申請をなしたものが百八十六町歩に達した、ために収穫高もカン害を受けた昨年一万三百六十石の半ばにたらぬ、四千五百石で純小作百三十戸、自作兼小作二百七十戸が生活せねばならないのであるから既に生活資金に窮するに至つたのである
 水稲のみだけでなく畑作の麦、青刈大豆等も三割以下の減収の上揚水機の設備に多額の金を投じた、動力使用の揚水機を設備したのは十ヶ所で一ヶ所平均九百円を要し九ヶ所は買ひ入れたものであるが内早くから設備した二ヶ所である他は焼けつく様な炎天に雨を待ちどうにもならなくなつてから設備したため十ヶ所の揚水機で僅かに四町歩の旱害をなしたに過ぎなかつた、手ぼりの井戸は百八十ヶ所で之も三十円から五十円の経費を要した之とて焼石にそゝぐ様なものカン害状態視察の得能知事が
 ソウして昼夜水をかけてなん反歩の灌漑が出来るか
と聞いて涙ぐんだほどで灌漑水については悩み苦しんだ上結果から見れば何等の効果もなかつた揚水機設備に貴重な一万余円を空しく投じてしまつたのである。この揚水機もむなしく手をつかねて雨を待たずに設備をしたならば夫れ相当の効果はあつたのであらふも時機を失した為徒労に帰したのみでなく更に疲弊困難に陥入るの因をなすに至った
 斯くして得たる米も玄米一駄(七斗)十五六円でもつき減りが多く『砕け』のみになるといふので買ひ人がないといふ有り様である、仝村に足を入れ小学校付近に行くとむなしく雪に埋づもれ朔風の吹きまくるに委せて居る水稲がある、幾つかの藁みよが並んで居るがこの藁みよには穂がついて居るが、聞くと刈つては見たが米はとれないから肥料にする外ないので積んで置くのだといふ、油汗をたらし血を流す様な努力を重ねた結果肥料にする藁を得るに過ぎか(な?)かつた時農民の心中は如何なる思ひに満たされたことであらう
 県ではかん害救済資金として一万五百円を代用作物種子代と動力使用揚水機設備補助に支出することになつたが揚水機補助は兎も角代用作物種子代補助も斯くの如きは当村で馬糧にする青大豆を僅かに五反歩植えつけたにすぎなかつた、之は大豆、稗其他の代用作物を植えつければ翌年の収穫に影響を及ぼすため県でイクラ種子代を補助すると参事会に代決を求め決定しても植えつけなかつたのでこの点は県の見込み違いで救済方法としては当を得なかつたが通常県会に要求の勧業奨励費二万円の追加はかん害地の衣食に窮する農民に対しては本当に救済の実を挙げることが出来るものである
 
 おそらく読者は、この時点までもしばしば赤石村の旱害被害が甚大だということは報道されてきたからそれは知っていても、この記事を見て初めて不動村の未曾有の旱害被害、過酷さを知って吃驚してしまったに違いない。以前に報告したように、赤石村の旱魃被害に対しては宮城、はては東京の小学生からさえも義捐があったくらいだから広く知られていたのだろうが、たしかにこの惨状は赤石村のそれとさほど違いはなく単に報道されていなかったというだけのことだったのだろう。

 では次は、このブログの先頭の記事の中の次の写真部分である。
《Fig.3 昭和2年1月9日付 『岩手日報』》

あまり鮮明でないが
    ・右上の写真は不動村の老人・婦人が筵を織っているところ
    ・その左下の写真は不動村役場付近の不稔の為に刈り取りをやめた水田

であるという。とりわけこの後者の写真からは、農民の無念さが伝わるし、その凄まじさが手に取るようにわかる。後ろに見える山は不動村であることも併せて考えれば東根山であり、その麓には刈り取りもされずに雪の中に倒れている稲が放置されているという当時の惨状の実態ということになる。
 因みに、当時の赤石村、不動村、志和村、水分村等の地理的位置は下図のようになっている。
《Fig.4 昭和10年の紫波郡の地図》

             <『昭和十年岩手県全図』(和楽路屋発行)より抜粋>
もちろんこれらの村々は花巻の直ぐ北隣であるから、賢治は手に取るようにこの惨状がわかっていたはずである。
 ちなみに、ここ数年、
《Fig.5 下根子桜の高台下の水田は今の時期でも刈り取られることもなく》(平成29年1月6日撮影)

《Fig.6 倒伏した稲が放置されている》(平成29年1月6日撮影)

《Fig.7 が、もちろん不稔ではない》(平成29年1月6日撮影)

この違いをどう受け容れればいいのだろうか。

 さて、同紙は県の奨励した副業・筵織りについて以下のように報道していた。
《Fig.8 昭和2年1月9日付 『岩手日報』》

 男の出稼ぎも利益は少ない ゴザと畳表の副業で幾分助かつて居る
 仝村従来冬季間の副業として男子は出稼ぎで多くは酒屋稼ぎであるが本年は県外では宮城県八十一人を最上とし北海道の四十人、青森県十六人を初めとし秋田、山形その他で百五十七人出て居り県内には約其倍ほど出て居るが収入は月十八円乃至二十五円位で期間は三ヶ月から四ヶ月で之等出稼人が一冬働いて五十円位送金するが持ち帰る者は上成せきで十八九から二十四五歳位の間は衣類その他となく家の食物を減らさなかったといふ結果に終はるといふから実際村全体の青成年が出稼ぎしても幾らも表面上の利益にならぬらしい
 副業は従来ゴザと畳表の製作で多く男子が出稼ぎのルスであつたが三年続けてのかん害で非常な真剣みを加え単に暇つぶしや小遣取りといふのでなく生活費を稼ぎ出すといふ風に変わつて来たといふ畳表の原料の葦草は近年大部分他県にあほがねばならず十枚分で三圓かゝるので間に合わず今ではゴザも山根に少し残って居るに過ぎない、それで今年は県の奨励に依つて藁工品を作ることなし一組合二十人以上の製筵組合が二十四組出来て筵を製造することになつた、県から補助が配給になつたので二十五台あるが村としてはモット欲しくこの機会は製作者の能力上予定よりおくれて近く到着する筈で手織りにすると一日十銭くらいの手間だが機械織りだと手間が六七十銭になるので幾分助かるだらうとの事で藁の大部分が馬りようが肥料にすらならず筵用のものは他から求めねばならぬので県では無賃輸送方を希望してゐる
 一読すると、出稼ぎは月18~25円、一冬で50円くらい送金できて結構儲かるじゃないかと受け取ってしまったが、これは上成績の場合であり、18~25歳の場合などは単に食い扶持が減った程度にしかならないということである。まさしく見出しの様に
    男の出稼ぎも利益は少ない
ということであり、せいぜいゴザと畳表の副業で幾分助かつて居るというのが副業の実態だったのであろう。

 さらに、同紙面の記事は以下のように続く。
《Fig.9 昭和2年1月9日付 『岩手日報』》

 この冬をどうして暮らす 赤石と本村は同様 菅原不動村長語る
 十三年と十四年は植つけ後のかん魃であつたから収穫は減ることは減ったが今度のようにヒドクはなかつた、今度は植つけないうちからかん魃であつたから全然無収穫になつたので前二年続けてかん害に疲弊してゐる所に今度のですから全く暮しに困る事になつたのです、赤石の方はヒドイ様に思はれてるが同村とて之と甲乙がなく、赤石は鉄道に近く村の人達も事を大きくして騒ぐので一般に知られているのだと思ふ、来年からは鹿妻堰の幹線工事が出来たから水に困ることはないと思が此の冬をドウして暮らすか副業以外にないが藁工品を作るにしても二尺ソコソコの藁では何も出来ないからやはり他県から買わねばならぬし製筵機も県から二十五台配当されただけで不足だから之も増して何とか此の冬だけを凌いで行きたいと考へているが今まで景気がよいのになれ贅沢になつて居たから之を引き締めるには却って良いかも知れません
 弁当を持たぬ小学生のいぢらしい姿 校長は毎日泣かされて居る とても正視はできない
 村民の生活もやうやく窮乏を告げ初め旧正月に餅をつき得ない者が大部あらうとの見込みで地主さへももち米は買はなければならないといふ、之は自分の田で出来たものはろくな餅にならないからである、村民の食物は小学児童の昼食弁当で大体を察知することが出来るが岡村校長は
 高等科の生活は割合によい家庭だが弁当をもたづにくるものが十二三人あり三年以上五百五十人中八十九人は弁当をもたずに来て昼の休み時間は他人の弁当を食べてゐるのを見かねて屋外で遊んで居る姿は実際可愛想です、弁当を持つてきても夫々見られるのがいやで新聞紙の中に顔を埋づめる様にして時々周囲の眼を見渡しながらマルデ盗んだものでもたべてる風にして居り会食の教員も涙なくして見られぬといつて居りますが親たちの身になつてみれば自分は食わずとも子供にべん当を持たせてやりたいのが人情ですのに夫さへ出来ないものとみへます、べん当の多くは大根が半分以上這入つたものか、くだけ米の団子、小麦粉をねつたもの等で通学の途中ある児童は一昨日から団子ばかりたべてるが米の御飯がたべたくなつたと話したそうですが…(以下略)…

 そして、この他にも同紙面には次のような見出しの記事がある。
 ・水分は軽微
 ・炭俵の売日なく赤石村民糊口の糧苦む
 ・志和も不動と大差ない惨状
これらの3本の記事の中身は割愛するが、ここまでのこの日の報道から、
 大正15年の紫波地方の旱魃被害は凄まじい惨状にあり、その惨状を呈しているのは赤石村のみならず、不動村も志和村も同様であった。
ということが如実に伝わるのだった。

その頃賢治や羅須地人協会員は何をしていたか
 ではその頃、賢治や協会員は何をしていたのか。不思議なことに、賢治研究家の誰一人としてこの時のヒデリと賢治に関して論じていない(私の管見だろうか)ようだ。なぜならば、下根子桜に移り住んだ最初の年のこの大旱害に際して賢治はどのように対応し、どんな救援活動をしたのだろうかと思って、「旧校本年譜」や『新校本年譜』等始めとして他の賢治関連資料も渉猟してみたのだが、そのことを示すものは何一つ見つけられなかったからだ。
 逆に見つかったのは、伊藤克己の次のような証言だった。
 その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた。近村の篤農家や農學校を卒業して實際家で農業をやつてゐる眞面目な人々などが、木炭を擔いできたり、餅を背負つてきたりしてお互い先生に迷惑をかけまいとして、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間ではあつたが、そこで農民講座が開講されたのである。大ぶいろいろの先生が書いた植物や土壌の圖解、あるひは茶色の原稿用紙に靑く謄寫した肥料の化學方程式を皆に渡して教材とし、先生は板の前に立つて解り易く説明をしながら、皆の質問に答へたり、先生は自分で知らないその地方の古くからの農業の習慣等を聞いて居られた。…(筆者略)…私達は湯を沸かしたり、大豆を煎つたりした。先生は皆に食べさしたいと云つて林檎とするめを振舞つたり、そしてオルガンを彈いたりしたのである。ある日午後から藝術講座(そう名稱づけた譯ではない)を開いた事がある。トルストイやゲーテの藝術定義から始まつて農民藝術や農民詩について語られた。從つて私達はその當時のノートへ羅須地人協會と書かず、農民藝術學校と書いて自稱してゐたものである。また或日は物々交換會のやうな持寄競賣をやつた事がある。その時の司會者は菊池信一さんであの人にしては珍しく燥いで、皆を笑はしたものである。主として先生が多く出して色彩の濃い繪葉書や浮世繪、本、草花の種子が多かつたやうである。…(投稿者略)…
 私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴァイオリンは先生の斡旋で木村淸さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネットは當分獨習すると云う事だつた。そして集まりも不定期になつた。それは或日岩手日報の三面の中段に寫真入りで宮澤賢治が地方の靑年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時思想問題はやかましかつたのである。先生はその晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いては濟まないと云う事だつた。
           <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)、395p~>
 そこでこの伊藤の証言に従えば、
《Fig.10 冬の羅須地人協会》

           <賢治詩碑わきの掲示板より>
の中で「樂しい集まりの日が多かつた」ということになる。
 新校本年譜』等によれば、大正15年12月頃~昭和2年1月頃の間の賢治の動向は、
◇大正15年
11月 29日 羅須地人協会としての最初の集会
12月 1日 羅須地人協会定期集会。持ち寄り競売を行う。
12月 2日 上京
12月 3日 着京、神田錦町上州屋に下宿
     エスペラント、タイプライター、オルガン習
     得図書館通い、築地小劇場や歌舞技座の観劇
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席
12月15日 政次郎に二百円の送金を依頼
12月29日 帰花
◇昭和2年
1月5日 伊藤熊蔵、竹蔵来訪、中野新佐久往訪
1月7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪
1月10日 羅須地人協会講義 農業ニ必須ナル化学ノ基礎
1月20日    〃     土壌学要綱
1月30日    〃     植物生理学要綱
2月1日 『岩手日報』の報道を境にして活動から手を引いていった。
ということだから、「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」というところの「」とは本来ならば大正15年12月頃~昭和2年2月頃の間となろうが、この場合それはもっと限定されてしまって、
 伊藤が、「その頃の冬は樂しい集まりの日が多かつた」という期間は昭和2年の1月のほぼ1ヶ月間のことである。
となってしまうであろう。なぜならば、その冬の12月中の賢治はほぼ滞京していたし、明けて昭和2年の2月1日は「悲しい日がきてゐた」ということでもはやそれ以降は、楽しい集まりになり得なかったと判断できるからである。

 したがって逆に言えば、隣の郡内の紫波一帯は大旱害であることが知れ渡っていた昭和2年1月頃に、賢治と羅須地人協会員は協会の建物の中でしばしば「樂しい集まりの日」を持ってはいたが、彼等がこの旱害の惨状を話し合ったり、こぞって隣の村々に出かけて行って何らかの救援活動を行っていたりした昭和2年1月であったとはどうも言い難いようだ。少なくとも伊藤克己はそのようなことに関しては一言も触れていないからである。
 しかし、「貧しい農民たちのために徹宵東奔西走した」と巷間言われている賢治ならば、東京の小学生でさえも義援金を贈っていたというほどのこの時の紫波郡内の大旱害でもあるから、賢治はその救援のために徹宵東奔西走していたはずだ。それは、老農とか聖農といわれる賢治にまさにふさわしい献身だからでもある。当然そのような賢治の献身は多くの人々が褒め称え語り継いでいたはずだ。ところがいくら調べてみても、残念ながらそのような証言等は誰一人として残していない。したがって、賢治はこの大旱害の際に、何一つ救援活動をしていなかったと判断せざるを得ない。しかも、実は下根子桜に移り住んでからの一年間の間に、この時の大旱害について詠んだ一篇の詩も見つからない。
 となれば結局のところ、大正15年の大旱害で近隣の多くの農家が苦悶していて、東京の小学生からも義援金が届くような、赤石村への救援活動が連日のように報道され、松田甚次郎も慰問していたわけだが、この時の旱害に際して賢治自身が、あるいは協会員と共にそのような救援活動をしていたわけでもない。しかも、その時の12月に賢治は約一ヶ月の滞京をしていたわけだし、あげくその際に父に200円もの大金の無心をしていたことが政次郎宛書簡から明らかだから、その頃の賢治はこの時のヒデリに無関心だったし、おのずから、羅須地人協会の活動は地域社会にリンクしていなかったとなってしまうのではなかろか。

 どうやら、極めて残念なことだが、
 大正15年の大旱害においては、
  「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
であったということになってしまうし、それだけでなく、
  賢治はこの時の大旱害に対して無関心でいた。
ということになってしまう。延いては、
  少なくともこの当時の賢治も羅須地人協会も、そしてその活動も地域社会とはリンクしていなかった。
という、思いもよらぬ結論を出さなければならなくなってしまった。
だから当然、この無関心と社会性の欠如は後々賢治の良心を苛む大きな要因になっていったはずだ。そして、その慚愧が〔雨ニモマケズ〕に繋がっていったのではなかろうか。
 そしてこのことは、昭和5年3月10日付伊藤忠一宛書簡〔258〕の中の、
 たびたび失礼なことも言ひましたが、殆んどあすこでははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
という慚愧が傍証していると考えられないだろうか。そこでなおさらに私は思う、私たちは賢治の言ったことをもっと素直にそして真摯に受け止めるべきだと。

 なお、このことに関しては拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』をご笑覧いただきたい。もっと詳しく、実証的に論じています。

<*1:註>ここで気になるのが題字の下の日付と欄外上部の日付である。おそらく、1月8日は夕刊が作られた日、1月9日が配達日だろう。

 続きへ
前へ 
 “『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)          ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今、下根子桜に行けば会える... | トップ | 今年も無事に咲いた節分草 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治渉猟」カテゴリの最新記事