常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

迫力のある人間

2010年03月31日 | 短編

死に方も決めていない人間に、迫力などあろうはずもありません。

現世にのみ囚われた人間の虚勢は、その薄っぺらさを雄弁に語ります。

どうせこの世界に生きるのなら、真の迫力を持っていただきたいと願います。

それが、仲間として共に歩む人間でも、敵として向き合うことになる人間でも・・・。

《参考》
生き方の裏にある死に方」、「各人が定義する「成功」」等

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信頼に値する国家

2010年03月29日 | 社会

国家なるものに、秘密がないとは言いません。国家とは、各々がそれぞれの歴史のなかで、数多くの複雑な事情を抱えつつ生まれたものです。その形成過程においては、とても深刻な問題もあったはずですし、それを隠したり、偽ってみたりということがないことの方が、むしろあり得ないだろうと思います。

しかし、それが即ち、「国家は嘘をついてよい」ということには繋がりません。多くの人々が深い関わりを持つ国家が、誠実であるべきことは自明の理でしょうし、それがこれからの地球規模の問題解決にも不可欠であろうと考えます。然るに、国家運営に関わる方々は、常に誠実な言動が求められるのであり、それが国外においては信頼を得られるようなものでなければならないと考えます。

そうした意味で、日本という国家の運営に関わる方々が誠実に行動しているか、国外から信頼に足る発言をしているかは、極めて重大な問題です。そして、それはあまり胸を張って誇れるような状況にはないため、日本人として、そのような自国の問題を差し置いて、一方的に他国について論じるのは、あまり好ましくないだろうと思います。しかしそれでも、ここ数日、毒入りギョーザ問題を巡り中国に関してなされる報道は、とても看過できるものではないとも感じるのです。

中国の毒入りギョーザ問題に関しては、既にこのブログでも触れた通りです(「「信頼」は自分の問題」参照)。本問題については、基本的に「起きてしまったことは仕方ない」と考えます。ただ一方で、一旦、事が起こってしまった以上、これに対してどのように対応するかが、非常に大きな分かれ道であろうとも思います。私なりには、事件発覚時点で、中国側の説明になかなか納得できない点が散見されながらも、今後の当局の対応に期待したいという思いがありました。

それが今回、完全に裏目に出たように思います。以下、読売新聞からの抜粋です。

======================
その発表では、呂月庭容疑者が事件に使った注射器やメタミドホスを入手したのは、「2007年7、8月」で、同年10月1日、初めて冷凍庫でメタミドホスを注入した後、10月下旬と12月下旬にも同じように注入したとしている。

ところが、08年2月に、福島県内の店舗で同じ有機リン系殺虫剤ジクロルボスが検出された天洋食品製のギョーザは、前年の07年6月に製造されており、一連の薬物混入を、呂容疑者の「単独犯」とする中国公安省の見解では説明がつかない。これについて警察庁幹部は「一方的に発表内容が伝わって来るだけなので、検証しようがない」と困惑した様子で話した。

中国側は、さらに2本の注射器について「工場内の通路脇の下水道内に捨てられていた。今月21日に発見した」と発表したが、「事件から2年もたって、いきなり下水道で見つかったと言われても……」と、別の同庁幹部は首をかしげた。
======================

私としては、中国の誠実な対応を期待していましたが、今回の中国側の発表は、またしても腑に落ちないことだらけです。

中国というのは、広く知られている通り、共産党の一党独裁体制で成り立っている国家です。国内においては、情報統制が強く効いていますし、多少、不自然な説明がなされたとしても、それを国民に押し付けるだけの力があるのでしょう。ただ、そうした行為を国家を跨いでしているとするならば、それは大変心外です。今回の中国側の説明は、日本側から見た時に不自然な点が多く、それらの点については、きちんと真相が解明されなくてはなりません。

少々、論点が変わりますが、今回の中国側の説明が、不自然であるにもかかわらず、彼らにこうした発表を許してしまっているのには、これまでの日本の態度にも責任があるかもしれないと考えます。

日本は、これまで中国政府やその関係者が主張することを、(論拠が乏しいものを含めて)あまり明確に否定するようなことがなかったように思います。これは、日本の良いところでもあるでしょう(「「No」と言えないことへの誇り」参照)。しかし一方で、そのことによって、「日本はいい加減な話をしても受け入れる国」という認識を生んでしまっているようにも思うのです。特に歴史の問題については、中国をはじめとした一部の国々に、そうした日本のイメージを定着させてしまっている可能性がある点、もしかしたら、私たち自身、真摯に反省すべきなのかもしれません。今回の件に限って言えば、少なくとも、中国という国に対して、日本は歴史の問題も含めて、きちんと言うべきことを言うようになる必要があるかもしれないということです。

そういう意味で、日本は日本なりに、今回の中国の対応から学ぶことがあると思いますし、また中国政府やその関係者の方々に対しては、今後、中国という国が信頼に値する国家となるべく、大いに努力していただきたいと思うのでした。

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「自分教」神社の撤収

2010年03月27日 | 日常

神棚を使って、「自分教」神社などと言って遊んでいました(「「自分教」の神社」参照)が、本日、これを撤去いたしました。特段、大きな意味はありません。敢えて言うならば「飽きたから」です。放っておくとほこりも被るため、適宜、フィギュアの掃除をしたりしないといけないのですが、この手間も面倒くさくなってきてしまい、とりあえず今日、一旦片付けることにしました。

だいぶ、スッキリしました。

この「自分教」神社では、いろいろと楽しめましたし、宗教とは何たるかについて学ぶ意味でも、なかなか面白かったのではないかと思います。

別に捨てたわけでもないので、また何かの機会があったら、出してみようとも思います。ただ今回は、ひとまず撤収です。

《おまけ》
以下、これまでブログに掲載した写真です。いやいや、なかなか楽しかったです(「「自分教」の神社」、「偶像崇拝とフィギュア」、「神棚に追加メンバー」、「「自分神社」への初詣」、「SOS団のご降臨と遷宮」、「ナギ様のご降臨」、「カブト様のご降臨」等参照)。

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人脈は勝手に広がるもの

2010年03月26日 | 人生

人脈の広げ方に関するノウハウというのは、結構、多くの人々の関心を集めるようで、それをテーマにした書籍やら記事やらを見かけることがあります。そうしたノウハウには、それなりの根拠があるでしょうし、それに従うことで、自分の世界が広がるというのであれば、それはそれでとても結構なことだと思います。

ただし、気をつけなければいけないのは、人脈を広げるということは、良くも悪くも多くの人々に自分を認知させることであるという点です。もし、「ダメな人間」が人脈拡大に走れば、広げた人脈の分だけ、自分が「ダメな人間」であることを知らしめる結果を招くということに注意が必要でしょう。

つまり、「自分を磨く」という作業がない限り、いくら人脈を広げたところで、それはかえってマイナス効果になってしまうだろうということです。もう少し別の言い方をすると、「自分を磨く」ための努力を怠ったまま広がった人脈などというのは、所詮、「類は友を呼ぶ」で、「自分を磨く」ための努力を怠った者同士の繋がりでしかなく、大した人脈ではないかもしれないということです。

これを敢えて逆から言います。

人脈などというものは、努力して広げるようなものではなく、勝手に広がるものです。

ノウハウ本に書かれているような事項に基づいて、意識的な人脈作りに励むというよりも、じっくりと自分を鍛え上げ、地道に内面を磨いている人間は、それほどガッついた行動はとりません。ただし、誰かと対面している時、それがどんなに短い時間であっても、極めて簡単な言葉遣い、あるいは非常に細かな仕草や態度などで、相手がどのような人間かを瞬時に見極めることができるものです。そして、こういう人間同士が出会うと、それは即、互いを認め合うことに繋がり、その瞬間から非常に深くて強い絆を形成するのです。これが一旦できあがると、それぞれ自分が持っている人脈を(それなりの人物と認めた)相手に繋げていくようになるので、この人脈が自然に拡大していくことになります。

こうした流れで広がっていく人脈は、ノウハウ本に基づいて自発的、積極的に作り上げていくような人脈のイメージにはあてはまらないでしょう。むしろ、勝手に自己増殖していくアメーバのようなかたちをとることになります。

「自分を磨く」という当たり前の行為の重要性については、特筆する必要がないのかもしれません。また一部、ノウハウ本のような内容のなかには、そうしたことの重要性についても書かれていると思われるので、これら一切を否定するつもりもありません。

ただし、人脈を広げるという意識ばかりが先行して、顔を売って歩くというのはネガティブな効果を生む可能性がある点は、指摘しておいてもよいだろうと思いますし、また見方によっては、上記のように、人脈などというものは広げるものではなく、きちんと自分を磨くことさえできていれば、「勝手に広がるもの」、「自己増殖するアメーバのようなもの」という考え方も、あってよいのではないかと思うのでした。

《おまけ》
「自分のやり方でできる」という確信をもって行動するようになってから2年半足らず、実に多くの人々と出会い、また素晴らしい人脈を形成することができました。これは、これから先、とてつもない勢いで広がっていくようにも感じています。そういう意味で、日頃からお付き合い頂いている方々、今後ともよろしくお願いしますっ!

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遊びの発明家たち

2010年03月24日 | 日常

うちの子ども二人が向き合って、パンパンと手を叩いて、その後に各々が「はーめ」とか「封印」とか言いながら、それをジェスチュアで表現して繰り返す遊びをしています。

「はーめ」という時のジェスチュアは、両手の人差し指から小指までを電車の連結器のようにはめ合わせるものだったり、「封印」は左の手のひらに右手をこぶしにして載せるものだったり、ひとつの言葉にひとつのジェスチュアが決まっています。見ていると、「はーめ」や「封印」の他に、「跳ね返し」、「バリア」、「ブラックホール」、「お葬式」等々、多彩な技があるらしく、とても難しそうに見えます。

さらに、これは一回で勝負が決まるわけではなく、パンパンと手を叩いた後、自分が「はーめ」と言っているのと同時に、相手が何を言っているのかを聞きながら、さらにそのままパンパンと手を叩いて、次のジェスチュアに移らなければいけないので、結構大変そうです。見ている限り、カードゲームのようなルールみたいですが、とにかくよく分かりません。

-それって何ていう遊び?-

ちょっと気になって聞いてみたところ、名前はないとのことでした。娘曰く、この遊びは娘のクラスメイトが考え出したものらしく、そこから小学校全体に広まったということらしいのです。そういうわけで、特段、遊びの名前が決まっているわけではなく、技やジェスチュアも、ちょくちょく新しいものが開発されている様子でした。

見ている限り、それなりに完成度が高い遊びにも見えたので、小さな一クラスで始まったというこの話がにわかには信じ難く、もしどこかで同じ遊びがあるのなら、是非、教えていただきたいと思ったりしています。

ただいずれにせよ、この遊び、どこかの子どもが編み出したであろうことは間違いなさそうなので、そういう意味で、子どもというのはつくづく遊びの発明家だと感心させられたのでした。

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オールスターズ2ですっ!

2010年03月23日 | ヒーロー&アニメ

プリキュアの映画、「プリキュアオールスターズDX2 希望の光レインボージュエルを守れ!」を観てきました。プリキュアシリーズは、今年で7年目に入っており、これまでに登場したプリキュアは、全部で15人になります。今回は、その15人に加えて、Max Heartのひかりと5のミルクを合わせて、17人のプリキュアということになっていました。以前から、こうした異なるシリーズのプリキュアが一度に登場する作品を切望していたので、この映画上映は、とても嬉しかったりします(「視聴者として願う「夢の競演」」参照)。

思えば、一昨年の秋の映画で、オールスターズの短編が上映されたのを皮切りに(「実現した「夢の競演」」参照)、去年の今頃、「プリキュアオールスターズ DXみんなともだちっ奇跡の全員大集合!」が公開され、本格的なヒロイン揃い踏みの長編映画を楽しむことができるようになったのです(「オールスターズですっ!」参照)。

今回は、その長編第二弾というわけで、もちろん、面白かったです。以下、ネタバレ注意です。

まず、それぞれのプリキュアが互いに「ともだち」になっているという設定は、なかなか嬉しい感じがしました。ココの「何か出たぞ!」も久しぶりで良かったです。志穂の懐かしい3連続口癖もありました。満と薫は、戦闘能力を失っているようでしたが、みのりと仲良くしている姿が、実に微笑ましかったです。ベンチャーを起こしたはずのブンビーさんも、遊びに来てくれていました。キントレスキーやミズシタターレだけでなく、カレハーンの「カレッチ」と呼んでくれの台詞まで健在でした。肉弾戦は、やはりなぎさ&ほのかペア、咲&舞ペアの迫力が圧倒的だったように思います。それから、各プリキュアのOPテーマをダンスしてくれるEDは、当然のことながらアイマスのMADを遥かに超越したクオリティで、とてもとても良かったです。

また少々別の観点から、この映画で将来のヒントになると思えたのは、物語の舞台となったフェアリーパークです。このフェアリーパークは、プリキュアに出てくる妖精(?)たちを題材にしたテーマパークで、そのキャラクターたちのプチコスプレをしたり、パレードを楽しんだりすることができる遊園地なのですが、そこらへんが千葉県にあるアメリカ生まれのテーマパークにも似ているのです。私は常々、アメリカの演出力は凄くても、コンテンツ力については、日本のアニメの方が格段に上だと思っており、これをきちんと活かすべきであろうと考えています(「コミケとディズニーランド」参照)。そうした意味で、フェアリーパークのような施設の展開は、将来における日本の観光政策の方向としても、十分にアリだと思うのでした(「負担から投資への発想」、「観光立国日本へのヒント」)。

こんな感じで、今回の映画は、いろんな意味で非常に良かったと思います。

ただ一方で、各プリキュアの活躍ぶりは、前回の方が全体としてバランスが取れていたように感じました。さすがにプリキュアも7年目に入っているので、昔のキャラクターは、「小さなおともだち」に馴染みが薄いということで、その存在感が薄められた感は否めません。このあたりは、昔からのプリキュアファンである「大きなおともだち」からすると少し残念でした。

少々、話が逸れるかもしれませんが、ウルトラマンで喩えれば、1~2年目のMax Heartの面々は初代ウルトラマンであり、3年目のSplash Starの咲や舞はウルトラセブンのような存在と言えるでしょう。ウルトラマンの場合、何十年か経過して、新しいシリーズが展開されても、初代ウルトラマンやウルトラセブンの存在感は、やはり大きいと言えると思います。例えば、私の場合、ウルトラマンやウルトラセブンというのは、昔のキャラクターで、リアルタイムでは分かっておらず、どちらかというとウルトラマンタロウやウルトラマンレオあたりの方が馴染みがあるわけです。しかしそれでも、番組の再放送はもちろん、各種グッズ等を通じて、ウルトラマンやウルトラセブンにも触れているため、その存在感はけっして衰えないのです。今回のプリキュア映画では、そうした存在であるべき昔のプリキュアたちが、存在感を薄めてしまっているように思うわけで、これはいささか残念と言うほかありません。

もちろん、時代の変化を受け入れる必要はあるでしょう。今のメディアの仕組みでは、制作費を拠出するスポンサーの力は非常に重要で、その玩具やキャラクター商品の売上げを増やしていかなければならない以上、昔のキャラクターはさっさと使い切り、新しいキャラクターに入れ替えないといけないという事情はよく分かります。また、その存在感の薄さは、映画の中だけでなく、そうしたグッズの商品戦略によるところもあるのではないかと考えます。しかし、それらを含めて、プリキュアという作品全体がそちらの方向に走ってしまい、昔のように時間をかけてキャラクターを育て、じっくりと子供たちの間に浸透させることができないのは、それはそれで残念だと思うのは仕方のないことです。

このあたりの問題については、私なりに新しいメディアシステムを立ち上げていきながら、解決を図っていきたいと思います。

いずれにせよ、それはそれとして、今回は久しぶりに歴代プリキュアたちの元気な姿が見られて良かったです。

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天道総司という生き方

2010年03月22日 | ヒーロー&アニメ

最近、ちょくちょく「仮面ライダーカブト」を見直しています。平成仮面ライダーには、いろいろありますが、私にとっては、仮面ライダーカブトがダントツの一番です。理由はいろいろありますが、単純に言ってしまえばカッコよさでしょう。まずカブトのデザインやライダーキックのカッコよさは、まったく他を寄せ付けません。もちろん、好みの問題もあるでしょうが、私からすると、このあたりのカッコよさはまったくの別格だと思います。

それともうひとつ、カブトを語る上で外すことができないのが、主人公・天道総司の生き方です。

-天の道を往き、総てを司る男-

自らのことをこのように言って憚らない天道は、ただ者ではありません。それは、他の天道語録にも、たっぷり表れていると思います。

以下は、そこからいくつか抜き出したものです。ひとつひとつの言葉が、私が考える世界観や宇宙観に通じるように思えてなりません。

-俺が望みさえすれば、運命は絶えず俺に味方する-
  ※「「運も実力のうち」の真意」等参照

-二兎を追う者は二兎とも取れ-
  ※「矛盾との付き合い方」等参照

-戦いはへそでするものだ-
  ※「腹式呼吸のコツ」等参照

-悪魔の囁きは時として天使の声に聞こえる-
  ※「神と悪魔と「祟る神」」、「「天国に行ける」という罠」等参照

-子供は宝物。この世でもっとも罪深いのは、その宝物を傷つける者だ-
  ※「子供たちへのバトンタッチ」等参照

-本物を知る者は偽者にはだまされない-
  ※「噛み合わない問答の意味」等参照

-俺の進化は光より速い。全宇宙の何者も俺の進化にはついて来れない-
  ※「達人が見せる早業」等参照

-人が歩むのは人の道、その道を拓くのは天の道-
  ※「「特殊な存在」という自任」等参照

-俺は世界の中心。ならば世界は俺が救ってやる-
  ※「「自分教」の薦め」等参照

-正義とは俺自身、俺が正義だ-
  ※「正義がひとつになる時代」等参照

こうした台詞のひとつひとつに対して、「良いこと言うなぁ」等という生ぬるい感覚ではなく、心の芯から共鳴してしまう感覚があって、もう見ていてたまらないのです。さらに、上記は天道が放つ言葉の一部にしか過ぎません。「仮面ライダーカブト」を見ていると、これら以外に天道がいろいろな言葉を発するわけです。私からすると、そうした天道の一言一言が、いちいち自分の真芯から発せられているような感覚がして、見ていてとても面白いのです。

以下は、先日見ていたシーンの中で、ゼクトの岬さんから尋問されている時のやり取りです。

========================
《岬さん》

カブトの正体はあなたなの?

《天道》
愚問だな。太陽に向かってあなたは太陽ですかと聞くか?

《岬さん》
なぜあなたがライダーベルトを持っているの?

《天道》
それも愚問だな。太陽に向かってなぜ輝くと聞くか?
========================

何これ?と思われるかもしれませんが、これが天道です。少々、生意気に聞こえるかもしれませんが、けっして、ふざけているわけでも、傲慢なわけでもありません。

私としては、この言葉の意味を心の奥底で味わいながら、また、思わず笑ってしまいました。

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呼び起こすべき子供の良心

2010年03月21日 | 教育

子供を叱るのも、常に真剣勝負です。甘く見てはいけません。

子供の叱り方などについては、ノウハウ本のようなものも出ていますが、個人的には、あまりそういうテクニックに頼りすぎるのもどうかと思います。要は子供の人格を認め、きちんと尊重しつつ、また自分の言葉にも重みと責任を持って、語りかけることが大切だということでしょう。テクニックは、その結果論と見ることができます。

子供を叱っていると、屁理屈をこねられるということもあると思います。

-こういう風にされたら嫌でしょう?-

-ううん、僕(私)は平気だもん・・・-

こんなやり取りになってしまうと、多くの親は、そうした屁理屈に対して、「言い訳するな!」とコミュニケーションを切ってしまうようです。しかし、それでは親の負けです。

念のため、はっきりさせておきますが、親が全体の状況を把握できていなかったり、子供の側にも言い分があるにも関わらず、それを十分に聞かないまま叱るのは論外です。ここでは、そうした全体把握を十分にした上で、子供が悪いことがはっきりしている状況下における叱り方を論じています。

子供がしたことが、本当にやってはいけないことであれば、子供は子供なりに、悪いと思っているはずです。子供が悪いことをしたのが明白であるにも関わらず、屁理屈をこねるのは、子供がそれを素直に認めたくないからだと見るべきでしょう。つまり、子供には子供なりのプライドがあって、親に対してささやかな抵抗をしているわけです。

そういう意味で、子供の人格を尊重しながら叱らなければならない親としては、ここからが勝負です。私の場合、このようなケースにおいて、子供のプライドを守りつつ、彼らを諭すために、今後に向けた約束をすることにしています。

-分かった。でも他の人は嫌なんだから、今後、同じことをするなら○○にしよう-

屁理屈に対して、グダグダ話しても仕方ありません。ただ本当に間違っていることをしているのならば、親は、それが他の人に迷惑にならないように対処しなければなりませんし、そのことをきちんと子供に対して宣言しておく必要があります。他人が嫌がったり、迷惑になる言動を繰り返すというのであれば、子供に対して、今までと違う待遇にしなければならないことを伝えるのです。

これに対して、子供は「うん」と答えるしかありません(「嫌だ」と答えたら、「じゃあ、これからは止めようね」ということで話は終わります)。これが親と子供の約束になります。その約束は、叱られている子供にとってネガティブな条件(行かれない、食べられない、遊べない等々)になりますが、子供が自分で間違っていると思っていれば、口答えできないので、その条件は飲まざるを得ません(子供が間違っていると思っていなければ、何かしら他の言い訳をするでしょうから、その場合には、真摯に耳を傾けなければならないでしょう)。

ここまでの約束ができたら、あとは見守ることです。親は、それ以降、同じような場面で、子供がどのように振る舞うかをきっちり観察しておくのです。そして、そこでもし、子供が前回と違って、正しい振る舞いができたら、きちんと褒めてあげることが大切です。

-見てたぞ、良くできたな-

ここまでで、ひとつの教育完了です。この時点で、子供に対してネガティブな条件を飲まされるという約束は、実行されなくて済むことになります。つまり、すべてが円満に片付くわけです。

私の経験上、子供がどんな屁理屈をこねたとしても、上記のような約束させれば、なんだかんだ言いながら、それ以降は、きちんと言ったとおりの言動をしてくれるようになってくれます。つまり、子供に対して、行かせない、食べさせない、遊ばせないなどの条件を飲ますことはなく、きちんと親の言うことを聞いてくれるわけです。そして、それを褒めてあげると、なかなか照れくさそうにしたりします。

ここから私が感じることは、どんなに屁理屈をこねようが、言い訳をしようが、子供たちは子供たちなりに何が良くて、何が悪いかを感じ取ることができているということです。親が間違いを指摘した瞬間、一時的に屁理屈をこねて抵抗しようとも、本当に悪くないと思っているわけではないのです。そういう意味で、親としては、そうした一時的な子供の抵抗にカリカリするのではなく、冷静に子供の良心を呼び起こしてあげるような叱り方をしなければいけないのだろうと思います。

大人の方が弁が立つし、腕力もあるのは当然のことです。そういう意味で、親が子供を力でねじ伏せるのは、とても容易なことだろうと思います。しかし、それは親の慢心であり、大人の驕りです。子供を叱る際には、そのような力技でなく、子供を一人の人格ある人間として尊重しつつ、彼らがいかに間違っているかを諭し、二度と同じ過ちを繰り返さないように導いていかなければなりません。子供たち自身の良心を呼び起こしてこそ、叱る意味もあるというものです。

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「区別と差別」の区別

2010年03月17日 | 政治

高校無償化の問題で、その対象から朝鮮学校を除外することに対して、国連が懸念を表明するというニュースがありました。記事によると、日本で出されている朝鮮学校の除外は、「子供の教育に差別的な影響を与える行為」とし、「教育機会をめぐる差別が生じることがないよう適切な措置を求めた」ということです。

かなり違和感があります。

そして、この議論、区別と差別を混同しているように思うのです。差別の意味をネットであさってみると、「偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること」となっています。

ポイントは、「偏見や先入観などをもとに」ということでしょう。逆に言えば、偏見や先入観によらず、正当な理由をもって問題の切り分けをし、各種の意思決定を行った末、結果として「特定の人々に対して不利益・不平等な扱い」となってしまうのは、差別にはあたらないわけです。それは区別した結果にほかなりません。

国連が、こんなレベルかと思うと、少々、残念な気にもなります。

今回の高校無償化に対して、その対象から朝鮮学校を外すという議論に関しては、その論拠として、教育内容などについて、日本政府が関与できていないという点が挙げられています。高校無償化は、日本政府が費用負担をするものであり、お金を出しておいて、教育内容には手をつけられないというのは、税金を納めている一国民として、私も疑問に思わざるを得ません。

区別は必要です。すべてが同じはずもなく、民族や国家が入り乱れ、そのなかでさまざまな仕組みが交錯している現代世界において、区別は必然だろうと考えます。そうした区別の結果、一部の方々に対して、「不利益・不平等な扱い」と見えることがあるのは、ある意味、仕方のないこととも言えます。

そうした区別を差別と騒ぎ立てるのは、物事を区別する能力に欠けているからかもしれません。つまり、区別する能力を持たないため、その区別の意味を理解できず、さらにその理由を偏見や先入観であると思い込み、勝手に差別と考えているかもしれないということです。そして、もしそうだとしたら、これはとんでもないことです。私としては、自らの(区別するという)能力の未熟さを棚に上げて、他者のせいにするような行為に対しては、真正面から議論していくべきであろうと考えます。

また差別には、差別だと主張する人自身が、その差別の根源である可能性もある点、看過できません。「それは差別だ!」と批判をするような方のなかには、「そういう可哀相な人たちがいるのを知らないからだ!」という論を展開する方もいらっしゃいます。しかし、これはまったくのあべこべかもしれないのです。つまり、そういう方々は、自分と他者との違いを理解せず、区別できないまま、ただ一方的にそうした人々を可哀相な人々と、勝手に差別している可能性があるということです。

国連から指摘されているような、「教育機会をめぐる差別」についても、まったくの的外れである可能性があります。つまり、日本に居住する者の教育機会は、一般の日本の学校に通うという選択肢を取ることで、きちんと開かれているのです。朝鮮学校に通うことを考えている方でも、本当に無償で通いたいのであれば、普通の日本の学校に通えばいいだけのことです。あるいは、どうしても無償で朝鮮学校に通いたいということであれば、日本の実情を説明して、北朝鮮本国に掛け合うというのが筋でしょう。こうした点を十分に考慮したうえで、日本は堂々と見解を述べるべきだと思います。一般の学校に通うという選択肢を取ることを通じて、十分に教育機会が開かれているのに、それがないかの如き主張に対しては、正面から異を唱えて然るべきだと考えます。

このように安易に差別という言葉を持ち出すのではなく、それは当然あるべき区別ではないかという点、きちんと切り分けながら、物事を整理する必要があるのではないかと思うのでした。

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家康から学ぶこと

2010年03月11日 | 人生

Twitterで、こんなことを書きました。

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歴史上の人物を敬ったり、手本にするのは良いことだと思います。ただし、憧れは危険です。敬うと同時に、その限界を知ることも大切です。誰かに憧れているうちは、真に自分らしい生き方など貫けません。今を生きているなら、既に死んでしまった歴史上の人物を越えなければならないのは当然のことです。
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この真意については、既に述べている通りです(「歴史上の誰よりも偉い人」、「龍馬がやり残した仕事」等参照)。歴史上の人物に学ぶことは大切ですが、その限界に目を向けず、ただ尊敬するだけでは、自分の生きる道を見失うのではないかと思うのです。ところで、こんなことを書いていると、「お前はどうなんだ?」というツッコミがあるかもしれないので、簡単に自分のことについて記しておきます。

ミクシィの私のプロフィールでは、2010年3月現在、「好きな有名人」という欄に、以下のように記載してあります。

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天道総司(仮面ライダーカブト)、ベルダンディー(ああっ女神さまっ)、セイバー(Fate/stay night)、ラクス・クライン(機動戦士ガンダムSEED)、メレ(獣拳戦隊ゲキレンジャー)、レイラ・ハミルトン(カレイドスター)、真紅(ローゼンメイデン)、大原さやか、ゆかな、田中理恵、戸松遥、沢城みゆき、槇原敬之、徳川家康、関羽雲長
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はっきり言って、歴史上の人物は、それほど含まれていません。一応、関羽さんもいますが、これはどちらかというと漫画・横山光輝さんの「三国志」に出てくる「青龍偃月刀を振るう関羽」が好きというレベルなので、歴史上の人物として、どうこうという話ではないように思います(一応、歴史上の人物として捉えて、彼に限界があったとするならば、劉備という人物の弟に収まってしまったこと・・・でしょうか)。そういう意味では、唯一、徳川家康のみが、私の好きな歴史上の人物ということになるのかもしれません(最近は、織田信長の心境も分かる気がしたり、いろいろとありますが、とりあえず、ここでは細かいことは省きます)。

徳川家康という人物については、時間をかける生き方に共感を覚えます。以下はブログ記事、「大きな矛盾を抱えるべし」からの抜粋です。

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徳川家康という人物を喩える言葉として、「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス」というものがあります。これは戦をしなければならない戦国大名として、戦の時代を終わらせるという矛盾に対して、彼なりに「時間をかける」という生き方で、見事に解決したことを示しているように思えてなりません。もちろん、戦をすること自体、戦国大名としての宿命であり、それを完全に避けることはできませんでした。そういう意味で、彼の「鳴くまで待とう」も完璧ではなかったのだろうと思います。

しかし、少なくともそれ以前の戦国大名が、自分の覇権によって戦国時代を終わらせようと、自らの武力を持って、他者の武力を制するという手法に頼ったのは、偉大なる「時間の力」を見失った行為のように思えてなりません。その点、徳川家康は「時間の力」の凄さを知っており、それをうまく活用することで、長らく日本全体が、概ね秩序を保ち続けられる仕組みを作り出したのではないかと思うのです。戦国時代にあって、「真に平和な時代をもたらしたい」と願う大きな志は、それに見合うだけの長い時間をかけたからこそ、次の時代の礎を築くという偉業を可能にさせたのではないかと思います。
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時間を味方にするというのは、とても大切なことです(「時間との付き合い方」参照)。徳川家康という人物は、それをとことん実践したのであり、その生き方は、平和社会の基盤作りに、非常に大きく貢献したのではないかと思います。

ただし、彼の限界は、天皇の部下である将軍に収まってしまったことです。戦国時代の末期、当時の日本に平和をもたらすためには、新しい強固な幕府を開くということで事足りたのだと見るべきでしょう。したがって、ここに彼の落ち度があった等と考えてはならないと思います。しかし、このことは、のちの西欧列強と対峙していく時代において、国家の最高位にある天皇との関係で、様々な問題を引き起こすことになりました。結果、明治維新での薩長勢力による力技を許すほかなく、現代に至っているわけです。

その後、時代は大きく変わりました。そもそも、平和な社会の実現は、日本に限らず、地球全体で達成されなければならなくなりました。さらに、そうした新しい世界の平和を実現するにあたって、私たちは、誰か特定の人間の部下として振る舞う必要はなく、一国の主権者として行動できるようになっているわけです。これは徳川家康ですらできなかったことを達成できる環境に、私たちがいるということでもあります。こうした今日における私たちの環境、あるいは地位は、徹底的に活かしていかなければいけません。

徳川家康という人物の生き方には、とても強い共感を覚えます。しかし、それは憧憬ではありません。かつての徳川家康が生きた時代、彼が為したことと為せなかったことの両面を見据え、その限界を理解した上で、現代に身を置く自分の生き方に反映していかなければいけないと思うのです。

-適当に収まってはいけない-

これが、私なりに徳川家康という人物から学ぶことなのです。

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神と悪魔と「祟る神」

2010年03月09日 | 宗教

-触らぬ神に祟りなし-

特段、説明する必要はないと思います。「下手に手出しをせず、知らん顔をしていた方が良い」という意味の諺です。これとは別に、私としてはこの諺に含まれる言葉が、「神とは何か」を考える上で、とても深い意味を含んでいるように思えてなりません。

つまり、「神は祟る」ということです。

一神教的な考え方からすれば、人に祟るのは悪魔であり、神が人間に祟るというのは、少々、滑稽に聞こえるかもしれません。しかし、多神教的な世界観からすれば、何も不思議なことではありません。つまり、神にもいろいろいるのであり、人々を救ってくれる神もいれば、人々を苦しめる神もいるというのは、特段、おかしなことではないということです。

一例を挙げれば、学問の神として名高い菅原道真は、「祟る神」としても有名です。神田明神が平将門を祀ったのも、彼を「祟る神」と畏れるが故でした。もしかすると、国を譲った(奪われた)大国主大神が祀られた出雲大社も、国を譲られた(奪った)当時の権力者から「祟る神」として畏れられ建てられたのかもしれません。いずれにしても、多神教的な日本の神社には、単にそこに祀った神様を敬うだけでなく、畏れるという側面も強くあるわけです。

このような「神にもいろいろいる(あるいは、いろいろある)」という考え方は、人間の神に対する接し方にも、大きな影響を及ぼすものと考えられます。つまり、同じ神であっても、その神に接する人がどのような人であるかによって、それが「救う神」にも、「祟る神」にもなり得るということです。神というのは偉大な存在であり、人智を越えた力を持つ存在として敬われながらも、人間が間違ったことをしたときには、その力が大いに人々を祟るとして、とても畏れられるわけです。

このことは、神に接する人間に対して、緊張感をもたらします。そして、そうした人間と神との間にある緊張感が、人間自身の自律を促し、冒頭の「触らぬ神に祟りなし」という諺を生む背景にも影響したのではないかと思うのです。

翻って、一神教を考えたとき、神はただ「救う神」としての顔しか持たず、人間の側の自問自答を促せない危険性を孕んでいると思われます。「救う神」としての顔しか持たない神は、人間との間にあるべき緊張感を失います。つまり、神は救ってくれる存在であり、人間が背負う罪を許してくれるという側面だけで語られると、それが人間の自律する力を殺いでしまうわけです。自らを律する力を失った人間に対して、これを苦しめる日本的な「祟る神」は、一神教的には悪魔になってしまうため、もはや人間は聞く耳を持たなくなります。こうして、人間は暴走を始めるわけです。

私なりには、神との間に緊張感を持たず、自らを律する力を失って、ただ許されると信じる人間が奉る神こそ、人間の心の隙に蔓延る悪魔ではないかと思います。

そういう意味で、一神教的な神は、とても悪魔に近いところにいることに注意が必要です。また逆に、災いを振りまく「祟る神」こそが、人間を自律させてくれる有難い神である可能性についても、きちんと認識しておく必要があるでしょう。

別に宗教を否定するわけではありません。ただ、神や悪魔という概念の狭間で、「祟る神」は、とても面白い位置にいると思うのでした。

《おまけ》
一神教の信者と思しき方々が、とても自らを律しているとは思えない状況下において、さも全てが許される呪文のように神の名を唱える場面を目にすることがあります。このあたりには、非常に大きな違和感を覚えます。それは神ではなく、貴方の心を手玉に取っている悪魔なのでは?ちゃんと自分を律しています?神様って本当は怖いの知ってます?と突っ込みたくなるのです。

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分かりやすい肉体鍛錬

2010年03月04日 | 日常

バッティング練習を真面目に始めて(「左打席の可能性」参照)以降、基礎的なトレーニングの必要性を感じるようになり、昨年の終わり頃から筋トレをしています。これは、かなり面白いです。何が面白いかと言えば、一言で「効果が一目瞭然」だからです。

これまで、ブログを通じて書いてきたことは、私なりの「精神鍛錬」を通じて感じたことを軸にしており、その効果というのは、なかなか目に見えないものばかりでした。もちろん、それがもつ重要性は変わらずあると思いますし、精神や心といった目に見えないものがあってこそ、目に見える物質世界が成り立つという側面は、けっして否定できないだろうとも考えます。ただ、いかんせん時間がかかるし、分かりにくいものなのです。

それに引き換え、肉体鍛錬は単純明快です。やれば、結果が目に見えるかたちで表れます。しかも、学生時代はただがむしゃらにやっていたトレーニングでしたが、一通りの人生経験を踏まえて、「肉体とは何か」を突き詰めて、それに相応しい方法を追究していることもあり、学生時代よりも、だいぶ効率的に進められているような気がしています。

おかげで、筋トレを初めてまだ3ヶ月程度しか経っていませんが、体のつくりもだいぶ変わってきました。当初組んだ筋トレメニューも、ずいぶん簡単になってきたので、今月からはメニューの回数や種類を増やして臨んでいます。

最近は、精神修養にも飽きてきたので、その容れ物である肉体の方を磨いておくのも悪くないだろうという思いもあり、当分、こっちに力を入れてみたいと思います。

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JASRACからの問題提起

2010年03月03日 | 産業

-Twitterで歌詞をつぶやいたら利用料が取られる-

JASRAC幹部の方から、Twitterに関する発言があったようで、ネット上で軽い議論が沸き起こっているようです。事の善悪は別にして、JASRACは著作権者の総まとめ役ですから、こうした方の発言は、極めて重く受け止める必要があるだろうと思います。

この方向性でいくと、今後、利用料を払わずして歌詞を(部分的にでも)投稿してしまったら、犯罪者ということになるのでしょう。少なくとも、私の場合、Twitterに限らず、ブログでも歌詞の引用をしているので、後日、JASRACから請求書が届くようになるのかもしれません。一応、「歌詞を書いても著作権法に抵触しないのは、報道や批評、研究など、「引用」の正当性が認められた場合に限る」ということなので、私としては、そのあたりの考え方と併せて、何らかの動きがあるものと承知しておきます(今のところ、これまでのスタイルを変えるつもりはありません)。

それにしても、先日のGoogleの訴訟騒動(「Googleにも見えてない」参照)といい、ネットの世界は、いよいよ殺伐としてきたように思います。今後、歌詞に限らず、あらゆる著作物のネット掲載を巡って、利用料請求や訴訟等が次々と起こってくるであろうことを考えると、インターネットは着実に「犯罪者の大量生産装置」に近づいていくと思われます(「大量犯罪者時代への分岐」参照)。

しかし私は、これらの問題の根本的な原因が、従来のインターネットのタダ乗り・無責任な仕組みにあるのであり、今後、インターネットの仕組みそのものを変えていき、こうした問題を解消していくことは十分可能であると考えています。

今回の著作権を巡る問題に関して言えば、現在のインターネットの仕組みが、従来のメディアルールを与件として考えている、既存の著作権者側の要求に応えられていないことが、決定的な問題なのです。私は、これを解消することは、十分可能であり、そうしたインターネットを実現することこそ、今日、インターネットのビジネスに関わる者の使命であると考えています。その具体的な方策については、既に本ブログの各記事にて述べている通りなので、ここでは詳述いたしません(「「関係図」可視化の重要性」、「重み付けを考慮した評価」、「インターネットのリアル化」、「携帯電話システムの強み」、「次世代インターネット」、「3次元DBと著作権」、「「ウェブで管理する」ということ」、「被害者意識を乗り越えて」、「次時代コンテンツの評価」等参照)。

ただし、現在のJASRACの著作権管理の手法が、新しいメディアの仕組みに相応しいかは別問題であることも、併せて付しておきます。メディアの仕組みが変われば、そのルールも変わって然るべきです。その折には、著作権管理の手法が、全く異なることも考えられるため、そうした時代において、JASRACにどのような役割が期待されるのかは、その段階において、あらためてきちんと議論がなされることでしょう。

いずれにしても、これまでのインターネットやコンピューターというのは、世界の覇権国・アメリカがリードして、築き上げられたものです。そして、そうした技術や産業というのは、単にビジネスモデルの次元ではなく、その根底に流れる思想や哲学によって定まるものでもあります。そう考えると、現在のインターネットやコンピュータの姿というのは、単にアメリカという国の思想や哲学の表現物に過ぎないとも言えるわけです。

近年、議論されるようになってきたインターネットやコンピュータ、さらにはメディアシステム等に関して、次々と表面化してきている問題については、表層部分の手直しでは効かず、その根底に流れるアメリカ的思想や哲学からの見直しが必要なレベルに達しているのではないかというのが、私見です。そういう意味で、私なりには、こうした産業における問題を通じて、アメリカという国の限界が示されているのであり、代わって、日本という国が、その思想や哲学に基づいたリーダーシップを発揮していく時代になってきているような気がしています。

ちなみに、今回のTwitterに関連したJASRACからの問題提起については、「著作権者とリスナーが共に幸せになる道を目指していきましょう」という、個人的な願望くらいは述べておきたいと思うのでした。

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ノロティの死から学ぶこと

2010年03月02日 | ヒーロー&アニメ

ノロティ、死んでしまいました(「ノロティの優しさと力」参照)。「この世界は自分のもの」と言ってのけていた彼女の死は、とても残念です。

===================
どこかで誰かが幸せになったら、それ全部私のものなんですよ。
私はこの世界がすごく大事なんです。大事で大事で、たまらないんです。
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こんなことを真剣に言える人は、とても貴重だし、これからの人類にとって手本となるべきキャラクターではなかったかと思います。

ただし、彼女は決定的なミスを犯しました。それは殺されてしまったことです。これでは、実世界で言うところのイエス・キリストが為したことと大差ありません。私は、これからの世界において、人類がイエスという人物から十分に学び、それを超える存在になっていかなければならないと考えます(「イエスから学ぶもの」、「クリスマスシーズンを迎えて」等参照)。然るに、これからの世界における人類は、イエスと同じレベルではいけないと思うのです。

イエスという人物は、人々に愛の重要性を説き、憎しみや悲しみを乗り越えなければいけないことを口にしながら、結果として、それを説いていた人々に殺されてしまいました。これでは愛の本質、憎しみや悲しみを乗り越えることの重要性は伝わりません。もっと意地悪く言えば、「愛を主張したら殺される」という悪しき前例を残したとも言えるのであり、ここに彼の限界があったと思うのです。

これに鑑みて、ノロティの死を見たとき、残念ながら彼女の死もこれと同じではないかと考えるわけです。他人の幸せを自分の幸せとして喜ぶことができ、けっして人を憎んだり、殺したりしないノロティのような素晴らしいキャラクターは、本来、殺されてはいけないのです。その彼女が殺されてしまうというのは、何かが決定的に間違っていると言わざるを得ません。

ただし一応、私なりには、彼女の死に、彼女自身の問題があったと見ています。

ノロティは、この物語の中で、「武装司書」として働いていました。彼女は、「武装司書」という職業を通じて、世界を守ろうと考えていたわけですが、「武装司書」とは何なのかについて、きちんと知りませんでした。私が見る限り、その世界を守るために、「武装司書」という肩書きを持ち続けることには無理がありました。「武装司書」が働く図書館を作った権力者には、それを作るだけの理由と思惑があるのです。当然、そこで働く「武装司書」には、それを守るための役割が期待されています。そして、それらは世界の裏側で繋がっており、非常に強大な仕組みになっているのです。

ノロティが、「この世界は自分のもの」と言い張るのであれば、そうした世界の仕組み、その中における図書館の位置づけ、さらには「武装司書」の役割などについて、きちんと知る必要がありました。その上で、「武装司書」を続けるならよし、違うのであれば「武装司書」を辞めて、世界を守る別の方策を考えなければならなかったはずです(個人的には、武装司書から敵対されながら戦ったヴォルケンも、惜しいキャラだったと思っています)。

そういう意味で、自分が置かれている「武装司書」としての立場、所属している図書館という組織の位置づけ、その世界全体の仕組みを知らずして、「この世界は自分のもの」と考えてしまったノロティには、死ぬ道しかなかったのかもしれません。

私自身、自らを神と考える「自分教」を提唱している(「「自分教」の薦め」参照)ため、ノロティの考え方自体には、非常に大きな共感を覚えます。しかし、それを口にしたり、実行したりするためには、それに相応しい世界観を持たなければならず、また、それに応じた身の置き方をしなければいけないということでしょう。今回、ノロティは自らの死をもって、そのことを教えてくれているように思うのでした。

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道具の効用と使う心

2010年03月01日 | 歌詞&台詞

トミカヒーロー レスキューファイアー」は、総じて良いです(「トミカヒーローの良い所」参照)。前回放送分の台詞回しも、なかなか気に入りました。

==========================
《子供1》
俺、絶対レスキューファイアーになる。それで、トライバッシャーで火炎魔人をコテンパにやっつけるんだ。

《子供2》
だな。俺も火炎魔人をぶっ飛ばしてやる。

《タツヤ》
あのね、ファイアースーツもビークルも魔人をやっつけるためにあるんじゃないんだ。

《子供2》
え?だって火炎魔人をやっつけてるじゃないか。

《タツヤ》
ファイアースーツとビークルは、超火災からみんなを守るためにあるんだ。分かる?

《子供1&2》
うーん・・・。

《先生》
どんなに素晴らしい道具でも、それを使う人の心が捻じ曲がってたら、恐ろしいものになってしまうのよ。魔人をやっつけるより、火災で困っている人たちを助けたい。そういう気持ちを持っているタツヤ君たちが使うから、スーツもビークルも頼もしい道具になるのよ。
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もう当たり前すぎて、あまり論じる必要もないだろうと思います。物心両面から見ることの重要性、見えるもののみならず、見えないものを見ることの大切さが述べられているという解釈で良いでしょう。「魔人をやっつける」という目に見える表面ばかりに囚われていては、人々を助けたいと思う心が軽んじられ、主従違えた過ちを犯す危険性があるということです。

また、ここで言う「道具」とは、広く「力(権力、武力、金力等を含む)」に置き換えても良いだろうと思います。そういう意味で、今、力を持っている方々は、それらに溺れないよう十分に注意する必要があります。力には、「それを使う人の心が捻じ曲がっていたら、恐ろしいものになってしまう」だけではなく、そういう心で使ってしまった本人(国家を含む組織)を破滅に追い込むことにもなるからです。

まぁ、こういう方々は、言っても分からないことが多いので、どれだけ意味があるのかは分かりません。ただ一応、私なりに警告の意味を込めて述べておくのでした(例えば、電子レンジにしても、みんなの生活が豊かになるようにという心で、きちんと使え続けたらいいんですがね・・・)。

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