常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

人間の優劣と競争社会

2006年08月29日 | 社会

一人の人格のなかで起こることを考えます。

「自分は存在価値がある人間だと思いたい。だから、自分は誰かより優れていると思いたくなる。そして、他人は劣っていると思おうとする。しかし、他人が劣っている思うと同時に、実は自分も世界一優れているとは思ってはいない。必ず自分が、他人よりも劣っているところがあることも知っている。だから、実は他人が優れていることに気づいている。」

ここに矛盾が生じます。

「そうだ!たしかに優れている人もいるが、やはり自分よりも劣っている人間もいる。劣っている人々は、馬鹿で間違っていて、やはり自分は優れていると感じるし、そう思う。」

堂々巡りです。

結局、弱い人間は、自分の優れた部分をみつけて安心しようとするのです。と同時に、それが唯一自分の存在価値になるため、必死にそれを守ろうとするのでしょう。自分の欠点を受け入れられなくなり、謙虚になれず、結果として人の非を責めたり、それをもって自分が優れていると主張するわけです。これが疲れる競走社会の実態でではないかと思います。

一方で、こういう考え方もあると思います。

「否、人間の本質はそうではない。自分も他人も、みんなそれぞれ優れている。優れている部分が違うだけである。したがって役割が異なってくる。それだけだ。」

優れている部分があるように、人には必ず欠点があります。欠点は、自分にも他人にも等しくあります。そして、自分の欠点に気づいていれば、人の欠点を受け入れることができるようになります。人間の能力は想像できないほど多様で、限りありません。だから、一人一人に優れたところが必ずあるのです。それらを受け止めることができれば、一人の人格をどんなに尊重することがあっても、否定することはけっしてできないはずなのです。

「相手の人格は、長所も短所もすべて受け入れて、尊重する。自分に対してもまったく同じことをする。」

これは、矛盾しません。ここに人の優劣は存在せず、あるのは役割や個性の違いだけになるのです。

人間の脳は、数パーセントしか使われていないと言います。まだまだ未知の能力が多くあるらしいのです。説明のつかない能力を評価する軸を十分にもっていない我々が、今ある尺度だけをもって、人の優劣を論じることは不可能です。

ただし正確に言うと、人の優劣を論じることは不可能ではありません。たとえば、暗算という能力については、その優劣を測るだけの十分な評価手法があります。人間にはさまざまな能力がありますが、暗算という能力の評価対象に焦点を絞り、それにあわせた軸を使って、その分野における人間の優劣は、きちんと測ることができるのです。しかし、それが人間の価値を意味するものではありません。この点が非常に重要なのです。

人間は、自分たちが持ち合わせている評価軸で、人間の価値や優劣を評価しようとしています。そして、それらの評価軸は、自分たちが価値があると考えている能力を評価対象としているのです。

たとえば、スポーツでいえば、野球の能力、サッカーの能力、テニスの能力、ゴルフの能力・・・。会社でいえば、経営の能力、営業の能力、技術の能力、経理の能力・・・。学校でいえば、数学の能力、英語の能力、歴史の能力、物理の能力・・・。芸術でいえば、ピアノの能力、絵画の能力、彫刻の能力、演技の能力・・・。

今の社会では、このような評価対象に合わせた評価軸によって、成績や能力を決め、そのことで人の価値を決めるようになっています。結果として、それらから収入や地位などの社会におけるステータスが決まったりするのです。突き詰めると、そうしたお金や名誉を欲しいがゆえに、人々はそのような評価軸のなかで、自分が優れている側に属そうとするわけです。このように人間が、限られた評価軸上で、互いに優劣を争うことによって、競争社会が生まれていきます。

しかし繰り返しですが、人間の価値は、そのような限られた評価軸では測れません。人間にはそれぞれ等しく価値があるものです。人それぞれ違うのは、優れている部分が必ず違うということであり、これが社会においては、役割分担や個性が違うということを意味するのみです。

たとえば理性や人間性といった能力を評価対象にした場合はどうでしょうか。

優しさという能力を対象にした評価軸がないこともないですが、それによって社会的に収入や地位が直接影響することはありません。優しい人は、競争社会のなかで、勝ち残っていけないことが多いし、けっして金持ちになるわけでもありません。しかし、優しい人は、周りの人を穏やかにすることができます。そのように穏やかな気持ちになれた人々が、気持ちよく働くことによって、結果として競争社会で勝ち抜いている人たちの経済力や地位を支えていることもあります。社会はひとつにつながっているのです。

競争社会のギスギスした人間関係のなかで、優しさをもって、社会に潤滑油を与えるということ自体には、素晴らしい価値があります。評価されずとも、いわゆる経済活動とは別に、重要な役割分担を担っていると言えるでしょう。結局、お金や名誉を得ている人たちは、自分ひとりの力ではなく、みえないいろいろな人たちの力、役割分担によって、それらの栄光を手にしているだけなのです。

しかし、今の社会システムは、とかく人間に優劣を競い合わせ、競争社会を煽り立てています。一時期、教育制度の見直し論議などもありましたが、社会全体がそもそも資本主義であり、競走原理で動いているなか、全体を変えずに一部の変革を試みるなどは、本質的な問題解決にはなり得ません。

他人が自分と違うことを素直に認め、他人がいてくれることや、自分とは違う役割を担ってくれていることに心から感謝する。そして、自分は自分のよさと役割をきちんと認識し、その存在意義に喜びを感じる。

社会に住まう人々に、そのような意識が生まれたとき、人間社会は次のステージに移行することができると思うのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「いい会社」と資本主義

2006年08月27日 | 社会

サラリーマンの方々に問います。「あなたにとっていい会社とは?」

「人を大切にする会社」、「収益性の高い会社」、「将来有望な会社」、「夢のある会社」、「ビジョンのある会社」、「顧客から愛される会社」・・・。

いろいろな意見が出てくることでしょう。また、せっかく働くのであれば、やはりいい会社で働きたいと思うでしょう。

しかし、「いい会社」を選ぶということは何も社員だけに許されている特権ではありません。会社からみたときにも、まったく同じように会社にとって「いい社員」を求めるものです。「いい会社」は当然「いい社員」を求めます。「いい会社」は、他のどんな会社よりも、入社してくれた人々に対して、「いい社員」になってくれることを願います。

すなわち、「あなたにとっていい会社とは?」という質問に対して求めれば求めるほど、その会社は個人としてのあなたに厳しく求めてくるのです。「いい会社」で働くということは、各社員が「いい個人」であることを求められるということなのです。

企業は人なり。

「人を大切にする会社」を望むあなたは「人を大切にする人」でしょうか。
「収益性の高い会社」を望むあなたは「収益を上げられる人」でしょうか。
「夢のある会社」を望むあなたは「夢のある人」でしょうか。
「顧客から愛される会社」を望むあなたは「顧客から愛される人」でしょうか。

こう考えると、個人が会社に求める前に、まず自分自身がそれを求めるだけの人になることがいかに重要かが分かります。会社のあり方を論じるより先に、まず個人が、本当に社会にとって必要とされるような大きな夢を持っているか、会社のあり方を論じるほど、自分自身が個人のあり方を理解しているかが重要になってくるのです。

個人のあり方として、たとえば単に、自分は「社長になりたい」、「年収XXXX万円を目指したい」、「カリスマ経営者になりたい」といった価値観で、仕事を決めようとする人々がいます。しかし、そのような利己的な価値観で仕事をしていると、困難に直面したときに簡単に諦めるようになってしまいます。利己的な動機だけから発する仕事をしているとき、自分が諦めて迷惑するのは自分自身でしかありません。そこに社会は関係しません。

しかし仕事をする動機として、「せっかく自分が、この世で生きているんだから、何か社会に役に立つことをしたい」、「これをやらないと、社会に住まう人々が困ってしまう」といったことを考えると、そのために仕事をすること、そして生きることは、自分自身だけの問題ではなくなります。仕事をやり遂げるかどうかは、もはや自分だけの問題ではなく、社会全体の問題となり、たとえ困難な問題に遭遇したとしても簡単に諦めることができなくなってしまうのです。

仕事をしようと思うとき、このような社会に対する思い、人々の幸せを願う思いを具体的な夢やビジョンとして捉えることができたら、その人はその実現のために、非常に強い人になることができます。

「いい会社」は、そういう夢やビジョン、信念をもった人を求めます。「いい会社」は、個人に対して、各自が夢やビジョンをしっかり持って、それを実現するために、大いに会社を利用してくれることを願います。個人は、社会のために貢献したい、人々を幸せにしたいという願いから発した、自らが持つ大きな夢やビジョンを叶えるために「いい会社」に入って、それらを実現していくのです。

「いい会社」とは、そうした多くの個人の夢やビジョンをすべて受け入れ、そのなかで共通する部分を、単に会社のビジョンとして掲げるだけです。そして会社自身は個人の夢やビジョンを実現するための道具となって機能することを望みます。単なる道具であるから、主体はあくまでも「個人」となります。

こうした構図の中にある会社の危機というのは、個人の夢にとっても危機であり、個人が思い描く理想の社会にとっても危機となります。会社の危機は、けっして会社の問題だけではなく、各個人の夢の危機を意味するのです。だから、個人は会社の成功のために一生懸命働くわけです。

「いい会社」に集う「いい個人」にとって、会社の成功は、自分の夢の実現のための必要な一歩であり、社会にとっても幸せの増大を意味しています。このとき会社、個人、社会の利害は完全に一致します。

また「いい会社」は、会社そのものの存続を目的とはしません。「いい個人」が集まり、各自の夢を実現することを通じて、結果的に会社が発展すればよいだけのことです。大事なのは、「いい個人」がそこに集まり、社会のために価値を出していくというところにあるのです。

しかし現実では、なかなかこうはなりません。「いい会社」のあり方は理想論であり、夢ばかり追う「いい個人」などなかなか存在しないと一蹴されてしまいます。だからこそ、「いい会社」は「いい個人」を集めきれないし、「いい個人」もなかなか「いい会社」にめぐり会うことができないのです。現代社会では、会社は資本主義を基盤とした競争ルールのなかで成り立っています。資本主義のシステムがあってこそ、社会があり、会社があり、個人がある。これが「いい会社」と「いい個人」が、なかなか出会えない原因でもあります。

そもそも資本主義とは何か。経済に価値観の主眼を置き、一定のルールに則って、社会に最適な価値を提供する仕組みではありますが、本当に社会にとって、求められる価値の提供を保障できるほど、今の資本主義は万能ではありません。資本主義を否定する必要はありませんが、それですべてが解決すると考えるべきではないでしょう。

その資本主義のなかで、会社は既存の事業を守るためにサービスを提供していないでしょうか。業界や会社、株主の都合による顧客不在の経済活動はしていないでしょうか。会社が「いい個人」が働けるような度量を持てずにいないでしょうか。

こうした問題に関連して、たとえば「会社は誰のものか」という問いがあります。

株主のため、経営者のため、従業員のため、社会のため・・・。現代社会では、未だにこのような根本的な議論すら整理できていないような状況にあります。こうしたなか、今の資本主義の枠組みのなかで、本当に「いい会社」、「いい個人」が存在しうるのでしょうか。

答えはYesであると思います。資本主義のルールのなかでも、そのルール上の成功だけには縛られない、新しい価値観と夢を持った「いい個人」は必ず出てくるし、それらの人々が集える「いい会社」は必ず生まれてくるでしょう。

そうした輪が、広がっていったとき、今の資本主義のあり方そのものが大きく変わり、あらゆる個人、会社、そして社会の利害がピッタリと一致した、新しい時代の枠組みができ上がっていくのだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万能でない科学

2006年08月20日 | 科学

学校では、科学がいかに素晴らしいか、世の中の事象を解き明かしてきたかを学ばされてきました。たしかに、今の社会は、それら科学の産物、文明の利器によって、便利になったし、多くの物質的な豊かさを獲得することができるようになりました。これは事実です。しかし、子供たちに対して、今の科学で分かっていることを教えると同時に、科学によって解明できていないことがいかに多いかについても併せて教えるべきではないかとも思います。

最新の科学では、宇宙の質量の90~95%がダークマターという未知なる物質で占められていると言います。科学の最先端の現場では、鋭意研究が進められているといいますが、要するに、今の私たちが住んでいる世界は、何でできているのかすら、未だほとんどわかっていないということです。

また、物理学においては、粒子を粒ではなくひもであると考える超ひも理論というものが存在します。ブレーンと呼ばれる様々な次元の超空間が10次元のなかに存在するとされており、これによると、私たちが認知できている3次元よりさらに高次元の世界があることになるのだそうです。謎だらけの宇宙を既存の理論で説明するのは、非常に難しかったのですが、この超ひも理論によって、これまでになく簡単に宇宙を記述できるようになるらしいのです。しかし、私たちは3次元の世界にいるため、この理論を裏付けるための観測や認識ができず、この理論は証明されるにいたっていません。ただ要は、この世の中は、科学でひも解いても、分からないことだらけ。いや正確に言えば、科学をもってして、世の中がいかに分からないかが、判明しているとも言えます。

こうして考えると、そもそも科学で解明できないことの方が多い、分かっていないことの方が多いということを受け入れることが、我々のあるべき姿ではないかと思うのです。

科学が万能であるかのように、子供たちに信じ込ませるようなことは、決してすべきではありません。何故ならば、そのような教育の結果、分からないこと、不思議な事象に対する子供たちの旺盛な好奇心は奪われることになるからです。いや、このことは子供だけに留まりません。大人も謙虚に、今の科学の限界を受け入れ、未知の事象や不思議な現象について、これを事実として受け入れる度量を持つべきでしょう。

このことは、今の常識を疑うことにもつながります。

相対性理論によって、3次元の世界は見事に説明できている、と言う人がいます。その意味で、相対性理論の正誤を論じるのは意味がない、とまで言う人もいます。

2次元の世界がうまく説明できている理論は、間違いなく正しい理論です。しかし、それがすべてではありません。3次元もあるということを説明できていないことは、その理論の限界であり、そのことは、素直に認めなければならないはずなのです。

そもそも、分からないことだらけのなかで、3次元までしかないということを決め付けることのほうが不自然であり非合理です。

繰り返しですが、世の中、分からないことだらけ。

テレパシー、超能力、錬金術、霊魂、意識、精神・・・。「常識的」にありえないことは、本当にありえないと言い切れるのでしょうか。人間は、このまま3次元の世界観に基づいた唯物論のなかに生き続けるのでしょうか。

私は、もっと他の次元があった方が自然であり、合理的であると考えます。そのことで、新しい次の世界が開けていくように思うのです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢を持てる社会

2006年08月17日 | 社会

社会のため、世の中のために役立つことをしようと思えば、それはその人にとって大きな生きがいとなり、そのことのために生きるということが、その人にとっての幸せとなります。

人は、そういう大きな夢やビジョンを持つと、豊かな人生を送ることができるようになるのです。そのときの夢とかビジョンというものは、単に個人がそれをしたいというのではなく、それを実現するということは社会のため、または社会に住まうあらゆる人々のために必要で、それを実現しなかったら、社会が困るというものです。

たとえば、とある私の友人が、「砂漠の緑化」をしたいと言っていました。実に素晴らしい夢だと思いました。そのことに自分の人生を捧げるというならば、その人の人生は間違いなく豊かで、充実したものとなり、彼も社会も幸せになるだろうと感じたものです。

しかし、彼は真剣にやろうとは考えていないとも言いました。何故ならば、そんなことを本気でやりたいなどと口にしては、周りから馬鹿にされてしまうからだというのです。

ここには、社会と個人の両方に問題があります。

「砂漠の緑化」というような、本来実現すべき素晴らしい夢について、真剣に応援しない社会とは何事か。また馬鹿にされるからという理由で、その実現を諦めてしまうという個人は、一体自分の人生を何にかけようというのか。

本当に、社会のために実現すべきと考える夢やビジョンをもつならば、そのことができなかったら、いかに社会が困るかということを考え、また感じなければなりません。

人任せの生き方をしてはならない。自分がやらなければならないと思えばこそ、そこに強い信念が生まれる。そして、その夢やビジョンが大きければ大きいほど、そのためだったら、人生をかけてもいいと思えるようになり、そのために自分の命を使ってもいいという、文字通りの「使命感」が生まれる。

こうした強い信念を持つことができる人は、同時に非常に柔軟で謙虚な人でもあります。

強い信念と柔軟性。これらのことの両立が、矛盾しているように感じる方々もいらっしゃるようですが、まったく矛盾しません。大きな夢やビジョン、それを実現するための強い信念がある人は、その大きな仕事を何が何でもやりきらなければならないと考えます。しかし、そんな大きな夢やビジョンを実現するには、絶対に自分一人ではやりきれません。自分一人でできる仕事の大きさなど、所詮しれています。大仕事をするには、必ず、多くの人々の協力を必要するし、多くの人々の知恵を必要とします。

だからこそ、真剣に大きな夢を実現しようとし、そのことに信念を持っている人は、周りにいる他人の意見に真摯に耳を傾けるのです。謙虚に、素直に他人の助けを請うのです。そして、そういう多くの人々の存在を心から尊重し、大切にするのです。

今、人間がやらなければいけないことはたくさんあります。一人一人が大きな夢を持ち、信念を持つことで、個人が変わり、みんなが変わっていきます。

「常識的」にできることやできる範囲を勝手に決めてしまってはいけません。常識をわきまえた大人になったフリをする必要はないのです。今私たちは、自分がすべきことは何かを素直に考え、それに向かって、無心に進んでいくべできあるし、そういう社会にしていかなければならないと思うのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生きがいと幸せ

2006年08月14日 | 人生

生きがいを感じるということはどういうことでしょうか。

生きる意味を感じるということであり、生きがいを達成することで、幸せを感じることができるということであると思います。また、生きがいがある人というのは、その生きがいを守るために、困難には屈しない強い人でもあり、幸せな人であると考えます。だから、人間は生きがいを見つけなければいけないのでしょう。ところで、生きがいとは何でしょう。

みんなそれぞれ生きがいを持っていると思います。恋人のためであったり、家族のためであったり、顧客のためであったり、社会のためであったり、国のためであったり、世界のためであったり・・・。いろんなもののために、「やってやろう」と強く思えるようになり、そのことが生きがいとなって、その人を支えていきます。

有名になってやる、金持ちになってやる、権力を握ってやる・・・。人によっては、こういう生きがいを感じている人もいるでしょう。これはこれで、立派な生きがいだと思います。

しかし、問題の本質は、それを誰のためにやろうとするのかだと思うのです。純粋に自分のためだけの生きがいだとすると、その生きがいのためには、自分一人分のパワーしか出ません。困難にぶち当たったとき、自分一人が諦めてしまえば、それで済むことになってしまいます。

一方、より多くの人のための生きがいを持っている人は、自分一人のための生きがいを持っている人よりも強いです。困難にぶち当たっても、「自分が諦めてしまったら、みんなが困る」と思うことで、自分が考える「みんな」の思いを背負って、その分、大きなパワーを発揮することができるのです。

より多くの人々の幸せのことを考える。そのことは、とても難しいことです。しかし、たくさんの人々が「こうなれば幸せになれるのに」ということのために、生きようと思ったら、その人はそれだけ大きな困難を背負うと同時に、生きがいを得ることができ、その結果として、大きな幸せをつかむことができるようになります。

困難を受け入れることと、幸せになることは表裏一体。

人間として、大きな幸せをつかんで生きていくためには、たくさんの人たちのことを思い、その人たちのための大きな生きがいを見つけることが必要なのです。

今の資本主義、競争社会の世の中で、それを徹底できている個人は、どれだけいるでしょうか。それができている会社はどれだけあるでしょうか。

本当に今の社会は正しいのか。このあたりが、私の問題意識の出発点です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸せは一人では築けない

2006年08月10日 | 人生

人間にとって、幸せとは何か。まず、このことからきちんと考えないと、今の「常識」の検証はできないと思います。

あなたにとって幸せとはなんでしょう?お金、地位、名誉、家族、仲間・・・、いろいろとあると思います。答えとして、一番、多いのはお金でしょうか。お金があることで、いろいろなことができるようになります。手に入るものが多ければ、それだけ幸せな気分を味わえます。たしかにお金は必要なもの。しかし、お金と幸せはイコールではないでしょう。それは、間違いないと思います。

たとえば、お金があれば幸せになれるとして、いくらあれば満足なのでしょう。1億円でしょうか、100億円でしょうか、10兆円でしょうか。とりあえず、一生、ゆったり生きていけるだけの金が手に入ったとします。そうしたら、あなたは本当に幸せでしょうか。

所詮、命は有限です。

一生遊んで暮らせていける金を手にしたあなたが、仮に本当に遊んで暮らしていたとしたら、あなたにとっての自分という存在は、世の中の役にも立たず、ただ自らの快楽だけのために消費を続け、年老いていくだけの存在になってしまいます。 楽だし、楽しいかもしれませんが、次に思うことは、「いつまでもこれを続けていたい、死にたくない」と思うはずです。

少々、話が飛びますが、秦の始皇帝という人は、まさにそんな人間だったのではないかと思います。彼は、当時の彼の世界のなかで、欲しかった全てを手に入れた人物でした。そして、次に欲しくなったのが、永遠の命です。秦の始皇帝が不老長寿・永遠の命を欲したというのは、有名な話です。しかし、そんなものは手に入りません。しかし、無理だと分かっていても、永遠の命を欲するようになり、ひたすら今あるものを守るために生きるようになるのが、欲の突っ張った人間というものです。そして、そうした無理なものを欲するがあまり、最後には周りにいる人たちに優しくすることも、優しくされることもなく、寂しく死んでいくのです。

もう少し単純に考えましょう。限られた人生のなかで、単純に「嬉しい」を積み重ねていけば、幸せになれるでしょう。それでは、「嬉しい」のはどんなときでしょうか。誰かに何かをして「嬉しい」と思われたとき。自分の存在が、人の役に立ったと思えたとき、または思ってもらえたと感じたとき。本来、この嬉しさをお互いに与え合う(仕合せ)が、幸せの基本なのではないでしょうか。

自分の幸せは、自分ひとりが何かを得たことによって達成できるのではなく、誰かに何かを与え、そして与えられたときに生まれる。自分ひとりだけでは、決して本質的な意味での幸せにはなれない。

人間は、自分ひとりではなく、必ず他人との関わり合いのなかで生きているもの。人の幸せは、必ずそうした人と人との関係のなかにあると思うのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜ「常識」について考えるか

2006年08月08日 | 自分

自分が間違っているのか、世の中が間違っているのか。
子供が大人になる過程で、失っていくものがたくさんある。
それは「世の中ってこういうものだ」って諦めているからだと思う。

でも、本当に今の世の中が正しいのか。このままの社会が続いて、地球がだめになって、人間が住めなくなるとしたら、今の世の中のほうが間違っているのではないか。

ひとまず「常識」について、素直な心で考えてみたいと思うのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする