常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

事業の本質と存在価値

2008年07月30日 | 会社

社会は、行き詰りつつあると思います。私自身、そうした問題が起こるであろうことが予測できなかったとは思いません。しかし最近、社会の仕組みに起因するような大きな問題が、私たちの生活に直結したダメージを及ぼす事象が顕著になり、メディアなどでも大きく取り上げられるようになったため、多少、現実味をもって、そうした問題について議論できるようになったような気がします。そして一方で、これから先、社会に対する不安感は、ますます増していくことになるのではないかと考えます。

けれども、当たり前のことながら、私ごときが「大きな問題に真剣に向き合え」と叫んだところで、何も始まりません。差し迫った危機感もないのに、心の底から解決策を見出そうとしないのは、至極当然のことでもあります。逆の言い方をすれば、いろいろと大きな問題がありながらも、それでも人々の生活が、それなりに成り立っているというのが、今日の状態なのでしょう。もちろん、困った問題が山積していることも事実ですし、困窮している方々が大勢いらっしゃることも間違いないと思います。しかし、それでも世の大多数の人々にとって、これまでの自分たちの生活や信じてきた価値観をガラリと変えるほど、死に物狂いで解決策を見出そうとする必要がないというのも、また事実なのではないかと思うのです。そうである以上、今日の諸問題が、社会的・世界的な問題であると言ったところで、それらはそれほど深刻ではないと言うことができるのかもしれません。

しかし私は、それはあくまでも現在の話であって、早晩、社会の大多数の人々が、死に物狂いで解決策を見出さなければならないような状況に陥るのではないかと考えています。世の中全体が、実際に良からぬ方向に動き出し、あらゆる分野での大きな問題が顕在化したり、深刻化したりしている現状において、何もせずとも明るい未来が待っているなどとは、到底思えません。

今の私にできることは、小さいながらも警鐘を鳴らしつつ、自分自身で実行できるアクションを淡々と進めていくことです。そのなかのひとつが、最近の会社設立でした。

私の会社は、社会的・世界的に深刻化している諸問題を解決するための第一歩として、入り口にある事業を進める実体とすべく立ち上げたものです。口先だけでも、他者に頼ってばかりでも、何も変わらないだろうという思いから、自らがきちんと実践していくためのかたちが必要だろうと考えたのです。

ところで、わりと公的な場所で、会社設立や事業立ち上げといった言葉を使うと、なかには眉を顰める方々もいらっしゃるようです。そういう方々からすると、会社や事業というのは、あくまでも個人の金儲けのために存在する卑しいものであり、社会全体を論じるような公的な場所に出すべき類の話ではないという考え方が、頭にこびりついているような印象を受けます。たしかに、それはひとつの側面としては当たっています。とくに、近年のように、金融手法を駆使した結果、実体経済とかけ離れて成長している事業が、成功事例と評価されるような社会的風潮があるなか、個人の私的利益ばかりを追求していると思われる事業が、多く見受けられるという点は、否定できないと思います。

しかし、そうした視点でのみ、私が考えるような事業の全てを説明しようとするのは、極めて不十分であり、また致命的な欠陥を有していると言わざるを得ません。むしろ、そういう考え方に支配されている方々の場合、自分たちが関わっている会社や事業が、金儲けに縛られており、そうした体験に基づいた先入観を通じて、私が考えるような事業を歪めて見ている可能性があります。つまり、事業は卑しいものと思っている方々は、自分自身が卑しいと思われても仕方ないかたちで事業をしている、あるいは関わっている可能性があるということです。

ここであらためて、整理したいと思います。

会社というのは営利目的で動いており、通常、会社が行う事業は、金儲けのためにあるものというのは、ごく一般的な考え方であり、それは正しいのだろうと思います。実際、成功している事業というのは、金儲けにも成功しているわけですし、金儲けをしたい人々が事業を興しているというのは事実でしょう。

しかし、それが全てではないとも思います。少なくとも、私が考えるような事業は、社会的・世界的な諸問題をいかに解決するかという意識から発しているものです。事業が営利目的で展開されるのは、そうした社会的・世界的諸問題を解決するために、その事業が成立しなければならず、それを成り立たせるための資金確保という意味で、金儲けが必要だからであると考えます。

これらをきちんと整理しなおすと、結局のところ、事業とは「社会のため」と「金儲けのため」を両立させることで、成り立つものなのだということでしょう。そして、よく考えれば、これは実に当たり前のことでもあります。

一般的に、「事業=金儲け」という図式が強調されているとしても、金儲けが成功するためには、きちんとお金を払ってくれる人々(利用者や消費者)がいるわけで、そこには社会ニーズが存在するのであり、社会が困っているということでもあります。即ち、金儲けができる事業というものは、困っている社会のために存在するということでもあるということです。これは「個人的な卑しい金儲け」とは、全く性格を異にするものであります。

これとは別に、時折「国家事業」という言葉を使う方々もいらっしゃいます。そこには、「国家」を冠ることで、「個人的な卑しい金儲け」との区別をしようとされる意図も見え隠れしますが、所詮「国家事業」も事業の一形態に過ぎません。「国家事業」にしてみても、当然のことながら、採算性を度外視するわけにはいかないのです。国家の責任ある方々が明確なビジョンを持って実行したときには、それは自ずと採算性が取れる「国家事業」として成立するわけですが、事業の本質として、金儲けをしなければならないという点は、等しく事業という意味において、その主体が個人だろうが、国家だろうが全く変わらないと言うことができるでしょう。

これらのことを整理しながら思うことは、私自身、特段、事業を成功させたいという強い願望があるわけではありませんし、そうした願望に基づいて会社を立ち上げたわけでもないということです。事業がうまくいかないということは、私が危惧しているような、社会的・世界的な危機が訪れないということなのでしょう。それはつまり、これからも世の中が平和であり続けるということなのだと思います。そうだとしたら、それはそれで、とても良いことです。

ポイントは、これからの世界において、私が考えるような事業が必要とされるのかどうかということだけです。その結果は、時間の経過とともに、自ずと明らかになってくるのでしょう。

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認めざるを得ない強い二人

2008年07月29日 | ヒーロー&アニメ

「機動戦士ガンダムSEED」を初見しました。世代的な問題かもしれませんが、「機動戦士ガンダム」と言えば、アムロやシャアたちが繰り広げる一年戦争の「ガンダム」が全てという先入観がありました。ずいぶん前から「機動戦士ガンダムSEED」を見るように薦められたことがあったのですが、何となく「ガンダムと言えばアムロ・レイ」的な思考から抜け出せず、なかなか見るに至らなかったのです。

そして今回、ようやく「機動戦士ガンダムSEED」を見ました。戦争を題材にしているため、いろいろと鬱の要素もありましたが、主人公のキラ・ヤマトが求め続けた真の強さに共感させられ、またそれを命懸けで支えたヒロイン、ラクス・クラインの強さに魅せられてしまいました。正直、この二人の強さは認めざるを得ません。

ここで重要なポイントは、まず強さとは何かということでしょう。一般的に、強さとは力であると理解されがちですが、私は、けっしてそれだけではないと思います。

「力を以って力を制する」というルールのなかでは、相手を打ち負かすことだけが、自分が生き残る道になります。そして、このことは「殴られたら殴り返す」、「撃たれたら撃ち返す」、「殺されたら殺し返す」という負の連鎖を生み出します。この負の連鎖は、さらに大きな悲しみと憎しみの輪を広げ、「殴り合う」、「撃ち合う」、「殺し合う」だけの世界を加速化させていきます。

しかし私は、これからの時代において、単に他者を打ち負かす力を持つことだけが強さではないという考え方が、より重要になってくるのではないかと思っています。もちろん、相手を打ち負かすだけの力も、ある種の強さであるとは言えるでしょう。それは否定し得ません。しかし、それだけでは片手落ちです。真の強さとは、悲しみや憎しみを内に秘めて、それらを受け入れていく心の強さを伴っているのであり、真に守るための戦いというのは、いかに負の連鎖を終わらせるかという戦いであると思うのです。

戦争という過酷な状況下にあって、負の連鎖を断ち切りたいという思いを抱えつつ、ギリギリの状態をくぐり抜けながら、主人公のキラ・ヤマトは、守るために戦うことの大切さを知ります。そして、その戦いは単に「力を以って力を制する」という戦争のルールすら変えていくという、とてつもなく高度で別次元の戦いに発展していくのです。

同作品のなかで、この難しい戦いを実践していくキラ・ヤマトは、真に強い男だとつくづく思いました。そしてまた、そのキラの内面の強さを見抜き、国家反逆罪という大罪を犯しつつも、自らの命を賭して、彼に最強のモビルスーツを与えたラクス・クラインは、その強い男に相応しい強い女性であるとも思いました。

「思いだけでも、力だけでもダメなのです。だから・・・」

キラにモビルスーツを与える際に、ラクスが放ったこの言葉は、キラの心の強さを理解しているが故に生まれたものなのでしょう。相手を打ち負かすだけの力も、ある種の強さではありますが、その強さは心の強さを伴っていなければいけないことを、よく知っているのです。そして、このモビルスーツを与えられたキラは、戦場で相手を殺すことをせず、常に相手を「戦闘不能」な状態にさせるという戦い方に徹していきます。

これこそが、真の強さであり、真に守るための戦いではないかと思います。

「機動戦士ガンダムSEED」が放映されてから、だいぶ経ってからの視聴にはなりましたが、その他にも、人類の夢と遺伝子操作の関係、「エリート」とは何かといったテーマなども含まれているように感じました。これらのテーマについては、また長くなるので割愛しますが、いずれにせよ、なかなか見応えのある作品でした。

最後に一点、同作品のなかで一人二役(フレイ役、バジルール役)をされている声優の桑島法子さんには、感嘆させられました。物語が始まって間もない頃、「フレイ」という女性が出てきており、その声優さんが、もの凄い演技をされているにも関わらず、エンディングで「フレイ」のキャスト表示がなかったので、少々不思議な気がしていたのですが、「バジルール」というもう一人のメインキャラクターを演じていたからなのでしょう。時折、「フレイ」と「バジルール」が直接会話をするシーンなどもありましたが、同一人物であることなどまったく分からないほど、極めて自然な感じで、当たり前のことながら、あらためて、声優さんのお仕事はすごいと思ったのでした。

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小さく大きなパワーの源

2008年07月28日 | 自分

相変わらず、バリバリとアニメを見まくっています。

最近、見ているのは、割と戦争に関するものが多いです。そこには、愛する人や肉親が亡くなったりするなか、力強く生きていく人々の姿が描かれています。

自分自身も、そんな風に力強く生きていかなければいけないと思いつつ、ふと「もし自分の子供がいなくなったら・・・」などと考えてみました。

-う~む、到底パワーが出る気がしない-

ダメダメ。

社会の皆さんには本当に申し訳ないけれど、彼らがいなかったら、僕はとても「社会をどうしよう」などと真剣に考える気がしないと思います。

一人の男として、子供たちの世代に希望ある社会を残したいと思うことはあります。しかし、それだけでは、とてもパワーが出る気がしないのです。

その思いに力を与えて、僕を突き動かしてくれるのは、間違いなく自分の子供たちです。一人のパパとして、自分の子供たちに絶望しなくて済む、希望をつないでいける社会を受け継がせたいと真剣に思います。

彼らは非常に小さな存在ですが、計り知れないとても大きなパワーをくれるのです。

感謝!感謝!

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無意識にある神道と自分

2008年07月24日 | 宗教

日本は無宗教の人々が多いと思います。もちろん、特定の宗教を信じているという人々がいるのも事実ですが、世界的に見て、何の宗教も持たないという人々の比率は圧倒的に多いと言えるでしょう。

ただし、日本には固有の宗教、神道があるという見方もあります。そう考えた場合、大多数の人々が神道信者であると言うことができるかもしれませんし、それはそれで間違いではないでしょう。そして実は、この神道という宗教が、日本人に意外と根深く浸透していると言ってよいかもしれないという状況にあるのも事実です。

初詣、観光、諸々の祈願のために、神社に参拝するということは、何も特別なことではありません。私たち日本人にとって、神社にお参りするということは、日常に溶け込んだ至極自然な行動のように思いますし、場所によっては、自分たち用に神棚を設置しているところもあるくらいです。

しかし、神社はけっして宗教と無関係ではありません。

教会やお寺というと、○○教やら○○宗といった宗教名を冠していることが多いため、何となく自然と宗教をイメージされる方々も多いと思います。しかし、神社については、あまり宗教を意識されない方々が多いのではないでしょうか。実はこれが、私が「神道という宗教が、日本人に意外と根深く浸透している」と言っている根拠でもあります。

基本的に、神社は宗教法人によって運営されています。知っている人からすれば、至極当たり前のことですが、ほとんど意識されていない方々からすると、少々戸惑われるかもしれません。神社を運営する宗教法人は、いろいろとありますが、なかでも最も大きいものは、日本全国約8万社の神社を包括するという神社本庁です。一般的に、伊勢神宮が神社の頂点とされているのには、この神社本庁が同神宮を本宗と仰いでいることとも関係があります。神社を管轄している宗教法人のうち、神社本庁に属さないものもありますが、基本的には何らかの宗教法人によって、運営されているというのが神社の実体です。ご存知なかった方にしてみても、神社がきちんと存続するためには、それらを管理・運営する主体が必要であることは確かなわけで、当たり前といえば当たり前の話です。

私は、神社の管理・運営主体として、宗教法人が必要であったろうことについては、そのとおりだろうと思いますし、それが宗教法人に限らず、時代を経ながら、永きに渡って、いろいろな神話を受け継ぎつつ、神社を存続させてきた人々がいてくれたことに感謝したいと思います。そしてまた、それが神道というかたちで、ある種の宗教の体を成しつつ、日本人独特の精神や文化を育ててきたことに、大変な意味があっただろうし、そのことが多くの日本人を指して神道信者と言わせるほどの根拠にもなり得ると考えています。

ただし、ここで指摘しておきたいポイントは、神社にお賽銭を投げるときに、ほとんどの人々が、そうした「宗教法人」の存在を意識していないであろうということです。特定の「宗教法人」に対して、無意識かつ自然にお賽銭を投げていることは、それだけ根深く、その宗教が定着しているということではないかと思うのです。つまり、多くの日本人にとって、神道という宗教が、意識するまでもないくらい身近にあるということでもあります。

私は、このこと自体、それほど悪いことであるとは思いません。特別な勧誘や信仰の強要をせず、黙々と社を構えて、信じたい者にはお賽銭を投げさせるというかたちをとりながら、これまで脈々と受け継がれてきた神社組織や神道的な考え方には、親しみを覚えますし、ある種の懐の深さすら感じます。

しかし一方で、お賽銭を投げる側の人間として、そのお賽銭が、どのような人々の懐に入るのかについて、きちんと考えることも大切であるように思います。それは、神社という存在が、私たち日本人にとって、あまりにも自然であるが故に、普段意識しないことではありますが、そうであるからこそ、きちんと考えることに大切さがあるように思うのです。

そこで考えるべきは、伊勢神宮を頂点と仰いで、日本の大部分の神社を包括するという神社本庁のことです。ブログ内でも、何度か触れていますが、日本建国の歴史は謎だらけです(「日本建国史の再考」、「東国の神々へのご挨拶」参照)。神社本庁が本宗とする伊勢神宮について、それを頂点とする構造が本当に正しいかについては、議論の余地がありますし、そこに問題意識を持つこと自体、お賽銭を投げる人間としての立場からすると、非常に大切なことではないかと思うのです。

ただし、これを考え始めるとキリがありません。結局、そうしたことがはっきり分からないまま、私自身、神様たちへのご挨拶という意味で、神社にお参りはしますし、お賽銭を投げることもあります。

そして、そんなことを考えながら、結局、行き着く結論は、人はそれぞれ自分自身を信じるしかないのだろうということだったり、単純に神社参りを楽しめばいいのだろうということだったりするのでした(「「自分教」の神社」参照)。

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真の強さのポイント

2008年07月22日 | 短編

本当の強さとは、弱さを認めることだと言う。

たしかに、それは自信がないとできないこと。
弱さを受け入れるだけの自信は、本当に強くないと生まれない。

けれども、それだけではちょっと足りないと思う。
真の強さとは、弱さを強味にしてしまうこと。

持たざることも財産、力なんだってばさ(「すべてが財産」参照)。

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東国の神々へのご挨拶

2008年07月21日 | 日本

鹿島神宮入り口

鹿島神宮の鹿

香取神宮入り口

鹿島神宮と香取神宮に行ってきました。この二つの神社については、いろいろと思うことがあります。鹿島神宮の入り口の鳥居前には、大きな鹿の像があり、境内にも飼育されている鹿がいます。今でこそ、奈良県の奈良公園で放し飼いされている鹿が有名ですが、その鹿は鹿島神宮に由来しているものであることは、あまり知られていないかもしれません。そして、利根川を挟んで鹿島神宮の反対側には香取神宮があります。非常に、狭い地域に肩を並べた二つの神社ですが、これら二つの神社には大変な興味を覚えます。何故ならば、日本建国の歴史を考えたとき、これら二つの神社は、非常に大きな役割を果たしていると考えられているからです。

元来の日本を建国したとされるのは、出雲大社の大国主大神であると言われています。日本において、10月のことを「神無月」と言うのに対して、出雲においてだけは「神在月」と呼んだりするのは、日本における出雲の特殊性を反映していると思います。

その後、大国主大神に対しては、有名な「国譲り」があり、天照大神が国を建てて、神々の頂点に立つことになります。このとき、出雲大社の大国主大神に対して「国譲り」の交渉を受け持ったのが、伊勢神宮の天照大神の命を受けた武甕槌命(鹿島神宮の祭神)と経津主命(香取神宮の祭神)でした。

大国主大神の日本建国を第1期建国とするならば、第2期建国は天照大神が為したものであり、その実行者が天照大神の命を受けた、鹿島神宮の武甕槌命や香取神宮の経津主命であったわけです。そういう意味で、武甕槌命も経津主命も建国の大功労者と言えるでしょう。平安時代に「神宮」を称した神社は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の3社だけだったという話もあるので、それを考えるだけでも、この2柱の役割の大きさは、容易に想像できるのではないかと思います。

ところで、日本の建国には、大きな闇が潜んでいた可能性は否定できません。「国譲り」というのは、第2期建国をした天照大神側の論理であり、それは一方で「国獲り」の側面もあったのではないかと考えるのが自然でしょう。当時の正義が、大国主大神と天照大神のどちらにあったのかは別にしても、現在を生きる私たちが、「正史」という言葉に惑わされ、「日本書紀」のような書物を通じて、「国譲り」の側面ばかりを信じる理由はないと思うのです。もっと別の言い方をすれば、第2期建国をした天照大神たちは、本来の国の主であった大国主大神に譲位を迫った大逆賊であったという見方もできるという可能性があるわけで、そうであるにもかかわらず、天照大神や他の2柱に対して、手放しに賛辞だけを送るということには、問題があるかもしれません(「「国譲り」の二面性」参照)。

ただし私自身は、こうした神話を理由に、武甕槌命や経津主命が本当に逆賊のような行為を犯した可能性があるということについて、疑問を持っています。もっと端的に言えば、武甕槌命や経津主命は、創作された神話によって、天照大神の命を受けて「国譲り」に加担したことになっているだけの可能性もあるということです。

日本の歴史は、大化の改新以降、大きく書き換えられた可能性があります。大化の改新を境に、それまでの史書であった「国記」や「天皇記」が焼失し、新たに「日本書紀」が編纂されました。「日本書紀」は「正史」としての位置付けにあり、現在の一般的な日本史は、こうした「正史」がベースとなって考えられています。しかし、日本史の真実を知るためには、それ以前の歴史についても、きちんと考慮しない限り、全体像は見えてきません。

以下は、そうした全体像を捉えるための仮説に基づきます。

もし大化の改新で、日本の権力構造が大きく変わっているとしたら、それ以降の権力の座についたのは、その実行者であった中大兄皇子や中臣鎌足、その関係者であったと考えるのは自然です。壬申の乱などの混乱もありましたが、日本の権力構造の頂点に立ったのは、中大兄皇子の娘である持統天皇であり、中臣鎌足の息子である藤原不比等でした。

仮に、こうした権力構造の大転換があったとして、新たに権力の座についた者がしなければならないのは、自らの正当性を確保することです。ここに神話が利用された可能性は、大いにあります。つまり、女性天皇である持統天皇とそれを補佐する藤原氏という体制を、女神たる天照大神とそれを武甕槌命や経津主命といった神々が補佐するという構図に置き換えているかもしれないということです。ちなみに「日本書紀」が扱っているのは、神代から持統天皇までの時代です。

また実際、藤原氏の氏神を祀った春日大社には、第一殿に鹿島神宮から迎えられた武甕槌命、第二殿に香取神宮から迎えられた経津主命が祀られています。現代の一般的な認識としても、天照大神の伊勢神宮が神々の頂点として祭られていることを考慮すれば、天照大神=持統天皇、武甕槌命・経津主命=藤原氏という構図で理解するのは、それほど無理があるようには思いません(詳しくは、「日本建国史の再考」参照)。

そして私は、この仮説を採択するならば、武甕槌命や経津主命が、天照大神に協力して「国譲り」をさせたと断じることは、逆にできないと考えています。

少々、分かり難いかもしれませんので、きちんと整理しながら進めたいと思います。

もし、権力の大転換が起きて、新たに権力を掌握した人々がいたとするならば、その権力の正当性を必要としていたのは、その実在の人々であったということです。つまりは、大化の改新以降、「日本書紀」の編纂によって、自らの権力を正当化させるために「国譲り」をさせた(あるいは、そのストーリーを必要とした)のは、あくまでも実在の人間たる持統天皇や藤原氏だったであろうということでもあります。

一方で、神々としての武甕槌命も経津主命も、それぞれ何らかのかたちで祀られる対象ではあったのでしょうが、「日本書紀」に登場した神々の振る舞いは、そのストーリーに合わせて創作されただけの可能性もあるということです。このことは即ち、武甕槌命も経津主命も、「国譲り」には関わっていなかったかもしれないということでもあるのです。

別の言い方をすれば、日本建国史に関しては、武甕槌命や経津主命に、それぞれ二つの顔が持っている可能性があるということです。それは東国の鹿島神宮、香取神宮に祀られているという「本来の顔」と、春日大社に藤原氏の氏神として祀られているという、権力者によって「被された顔」です。

持統天皇や藤原氏が「日本書紀」で展開されるストーリーに、必要なキャラクターとして武甕槌命や経津主命を登場させたとしたら、本来、鹿島神宮や香取神宮に祀られていた武甕槌命や経津主命の行いとは違ったかたちで、「日本書紀」の記述が進められた可能性があるのです。また今日まで伝えられている神話に纏わる常識も、相当間違っているかもしれないということにもなります。藤原氏としては、「日本書紀」に登場させたキャラクターやストーリーに沿って、2柱を自らの氏神として、春日大社に迎えたのかもしれません。そうだとすると、上記の「被された顔」ばかりが世間に広まり、今日まで「本来の顔」が隠され続けている可能性があるわけです。そうなると、私の興味は、武甕槌命や経津主命の「本来の顔」とは、一体何だったのかということに注がれます。

いずれにせよ、歴史の真実は、まだまだ分からないことだらけです。しかし、疑問を持ち続けることは、非常に大切なことだと思います。こうして考えてみると、武甕槌命や経津主命だけではなく、天照大神の「本来の顔」も隠されているような気がしてなりません。当然のことながら、「日本書紀」が編纂される以前から、伊勢神宮はあったでしょう。そうだとすると、天照大神の「本来の顔」とは何だったのでしょう。一説によると、天照大神は男神だったともいいます。

ポイントは、思考停止を起こさないことです。そんなことを思いながら、鹿島神宮と香取神宮での神様へのご挨拶を終え、帰途に着いたのでした。

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実在するエターナル

2008年07月20日 | 独り言
「Yes!プリキュア5GoGo!」の敵組織エターナルは、世界中の宝物を集めている。ひどい連中だけど、今日出てきたエターナルの館長曰く、宝物は価値が分かる者が持って、はじめて輝きを放つらしい。

ほぅ?それでいいのか?って感じだ。

ところで、このエターナル。僕は行ったことある気がする。
今や世界言語となっている言葉の源流となる国にあって、仰々しい名前を冠した博物館だったような・・・。そこの館長も、エターナルの館長と同じようなことを言うのかな?などと思ってみたり・・・。

何にせよ、ローズパクトだけじゃなく、守らないといけないものは、いろいろとありますよねぇ~。

信念は、人それぞれ。館長にとって、人から奪おうが何しようが、そこに集めて置いておくことが、「守る」ということであるならば、それはそれとして信じてやるしかないでしょう。何が正しいかは、時代が決めることだと思うのでした。プリキュアの世界で言えば、それが決まるのは、来年の1月末頃だろうね。
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次世代インターネット

2008年07月19日 | 産業

インターネットのことをウェブ(くもの巣)と言いますが、これは、インターネットのネットワークが、くもの巣のように張り巡らされていることに由来します。インターネットでホームページなどを閲覧するときに、アドレスにWWWと記述したりします。それは「World Wide Web」の略で、「世界的規模のくもの巣」という意味です。

ところで、このように「インターネット=くもの巣」と理解するのは、正確ではありません。後述するように、インターネットが開発された時点において、「インターネット=くもの巣」と理解するのは、正しかったと言えるでしょう。この考え方に沿って、インターネットをウェブと呼ぶこと自体、間違っていなかったと思います。しかし、現在あるいはこれからのインターネットにおいては、それは本質を突いているとは言えません。そして、従来のくもの巣の発想から抜け出さない限り、今日、インターネット上で起こっている諸問題を解決することはできないだろうと考えます。

インターネットは、アーパネットに端を発していると言います。アーパネットとは、アメリカの国防総省が構築したコンピューターネットワークであり、その目的については諸説あるようですが、少なくとも軍事的な目的があったことは確かだろうと思われます。

戦争では、情報が勝敗を分けます。ある情報中継基地が破壊されることによって、情報経路が途絶えてしまうことは、戦争において決定的なダメージを及ぼしかねません。したがって、複数の情報中継基地が破壊されたとしても、必ず情報収集ができるようなシステムを構築することには、軍事的な見地から大変な意味がありました。大規模な破壊活動があっても、作戦本部に情報が届き、また作戦本部から指示が出せるように、無数にネットワークを張り巡らせるというのは、まさにくもの巣の概念に沿っていると言えるわけです。

ここで重要なことは、くもの巣には中心点があるということです。もともと、インターネットをアーパネットのような軍事的意味合いがあるネットワークとして考えた場合、すべての作戦を指揮する総本部こそが、くもの巣の中心点であり、その中心点があるからこそ、そのネットワークをくもの巣と認知できるということが大切です。

しかし、インターネットが発達し、そのネットワークに誰もが参加し、また自由に情報を発信できるようになると、本来中心点ではなかったポイント(交差点)が、中心点のような振る舞いを始めるようになります。このことによって、これまでインターネットを単なるくもの巣と捉える人々にとって、大きな障害が生まれるようになりました。つまり、自らをくもの巣の中心点であると考える人々からすると、情報を統制したり、収集したりするということがインターネットの価値であったのに対し、無数の中心点が生まれてしまったことで、それをうまく扱えなくなってきたという決定的な問題を抱えてしまったということです。

さらにややこしい問題は、その無数の交差点が中心点となり、独自のくもの巣を張り出し始めたことです。こうなると、従来のくもの巣の中心点からは、全体像がまったく見えなくなってしまいます。このことにより、インターネットはカオス化し、ますます統制不能な状況に陥るわけです。

これは、現在のインターネットと著作権の問題についても言えることです。放送や出版のようなメディアにおいて、情報の流れは基本的に一方通行であり、情報の発信側と受信側がはっきりと分かれています。これが今日の著作権に関するルールを成り立たせている大前提です。こうしたメディアで流通している著作物を、従来の著作権ルールに適用させながらコントロールしようとすると、インターネットにおける「くもの巣の中心点」を定める必要があります。その「くもの巣の中心点」が、いわゆる既存メディアにおける「発信者」となるわけであり、そこから広いくもの巣の世界を統制していくわけです。しかし実際には、そこに一度著作物が流通してしまったら、無数に展開する交差点が中心点となり、独自のくもの巣を展開して、それらの著作物を勝手に流通させてしまうという問題が生じるのです。これは、インターネットの仕組み上、避けることができないことだと言えるでしょう。

私は、これらの問題が、インターネットを「単なるくもの巣」として捉えていることに起因していると考えます。インターネットは「単なるくもの巣」ではなく、「無数のくもの巣集合体」なのです。この概念をイメージにすると右図のようになります。ご覧のとおり、インターネット全体を3次元に捉えることで、「無数のくもの巣集合体」を表現することは可能でしょう。このなかから、ひとつの中心点を抽出し、引っ張り出せば、それは従来のくもの巣のようなかたちをしています。

インターネットの検索には、いろいろな仕組みがありますが、これからのインターネットの検索システムには、この概念が取り入れられていなければなりません。つまり、ひとつの対象物に対して、検索をかけたときに、その検索結果はくもの巣のかたちで返してこなければならないのです。

著作権に関した事例で示すならば、ある著作物について検索する場合、その権利についての結果は、くもの巣のように関係を整理して見せる必要があるということです。例えば、インターネット上で流通しているひとつの著作物が、複数の著作物の流用によって作られているようなケースは、往々にしてあります。そして、そのコンテンツを作るために流用されたそれらのコンテンツも、さらに複数の著作物の流用によって作られており、さらにそれら流用されたコンテンツも・・・といった具合に、インターネット上のコンテンツの著作権は、まさにくもの巣のように関係しているのです。これからのシステムでは、こうしたくもの巣のような著作権関係を、きちんと整理して出力することが重要であるということです。それは、これまでのように、インターネットの中心点をひとつとして捉えるのではなく、中心点が無数にある(著作物の数だけある)ことを前提に、インターネットにおける著作権を考える必要があるということでもあります(「3次元DBと著作権」、「「ウェブで管理する」ということ」など参照)。

インターネットの中心がひとつであるというのは、インターネットの原型であるアーパネット的な発想ではないかと思います。インターネットは広く普及し、多くの人々が日常的に利用するようになってきました。その時代にあって、アーパネット的な旧世代のインターネットは大きく生まれ変わり、次世代インターネットへと移行していく必要があるでしょう。

基本に立ち返れば、インターネットの構造は、敢えて言及するまでもなく、「単なるくもの巣」ではないことは明白です。ずいぶん前から、「無数のくもの巣集合体」として機能しているのです。問題の本質は、それを実体として捉えてきれていない、あるいは真面目に向き合えていないことにあるのだと考えます。そしてその責任は、関連する業界の方々に負わされているのでしょう。

難しい課題があるのも事実ですが、それらを解決して、現実に即した新しいシステムを構築していくことこそが、新しいインターネットを切り拓いていく人々が負うべき役割であり、任務ではないかと思います。そして、これを実現していくことで、インターネットは旧世代から次世代へと大きく生まれ変わり、社会に大きな活力を与えてくれるのではないかと考えます。

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小さなスタート

2008年07月17日 | 会社

諸事情あり、会社を立ち上げました。

ブログの内容について、之を口に言うのみならず、躬行実践以って・・・。

さぁ、これから世の中が変わります。

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巨匠への疑問

2008年07月17日 | ヒーロー&アニメ

いろいろな分野で、巨匠と呼ばれる方々がいますが、アニメの世界において、巨匠とされているある方の作品について、少々疑問に思うことがあります。それは声優さんです。

どうもしっくりこないというか、その方の作品が名作と呼ばれる割には、声優さんの演技に張りを感じないのです。ただ、私も素人なので、「そういうもの、こういう作風が名作たる所以なんだろう」と思うようにしていましたが、ついこの間、この話を友人としていたら、その友人も私と同じように思っていたと言うので、少し考え直してみました。

その方の昔の作品は、声優さんの演技にそれほど違和感を覚えませんでした。その方の名前が売れて、注目を浴び始める頃に、何となく異質なものを感じるようになるのです。そして、友人と話しているなかで、僕が声優さんに違和感がある作品のキャストには、いわゆるテレビタレントが多く起用されていることが分かりました。

-なるほど、そういうことか-

テレビタレントに才能がないとは言いません。テレビタレントのなかにも、声優としての才能に溢れている方々もいらっしゃいます。ただしそれは、すべてのテレビタレントに共通して言えることではないと思います。

テレビタレントを起用すれば、テレビ的にも話題になるでしょうし、いろいろな関係からプロモーションをかけやすいといった事情があるのかもしれません。けれども、真の意味で、名作を生み出すための論理とは違うように思えてならないのです。

いろいろな理由や事情があるので、これをもってして、その「巨匠」の方を責めるつもりなど毛頭ありません。せっかく素晴らしいアニメを作っても、広く知れ渡ってくれなかったら、それはそれで残念に思うはずです(「感動のすごいアニメ」参照)。

ただ、だからといって、広く名前が知れ渡ったアニメやそれを生み出した方に対して、手放しに「名作」、「巨匠」と言って、褒め称えるだけというのも違うような気がするのです。

そして、あらためてアニメにおける声優さんの仕事は偉大だと思うのでした(「何か出たココ!」、「声優をナメちゃいかん」参照)。

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休漁にみるエネルギー問題

2008年07月15日 | 社会

原油高の影響により、漁業で生活を営んでいる方々が、大きなダメージを受けているようです。本日、関係者の方々が、その窮状を訴えるために、全国で一斉休漁するという報道がありました。私は、現在の社会において責任ある地位の方々が、この問題に対して根本的な解決ができ得るのかということについて、あまり期待をしていません。もちろん、現在の枠組みのなかで、できる限りの対策を検討し、対処していくことはあろうかと思いますが、原油高という根本的な問題を解決できるような策を講じるのは、極めて難しいだろうと考えます。

つい数ヶ月前、ガソリンの暫定税率分である25円が重大問題であるかのように振舞った政界の方々、それをしきりに取り上げたマスコミの方々、さらにそれらに振り回された多くの国民がいました。

私は、一介の素人ではありますが、エネルギー問題の深刻性や危険性については、以前より気付いたことがあったので、それに関して指摘をしてきました(「有限のエネルギーを巡って・・・」、「エネルギー問題への違和感」など参照)。それは、私の周囲にいる方々に対して、口頭で直接伝えてきたことでもありましたが、当時のほとんどの人々にとって、それはあまり現実的な話ではありませんでした。

つい先日、ある方から、「最近、世の中が怖い。社会に先が見えない。鬱のようなものだ」という告白を受けました。その方にも、ずいぶん前から社会が向かっている将来の危険性については、申し述べさせていただいていましたが、ようやく今になって、私の言葉の意味を理解していただいたような気がしました。その方にとって、私の話が多少なりとも現実的な話として、聞こえるようになったようです。

しかし、だからと言って、私の言葉が正しいとか、信じろなどと言うつもりもありません。

目前にある難解な問題について、既存の枠組みのなかでの解決を図るということ自体、良いことですし、何とかなると信じる自由があることは確かです。やるだけのことをやって、もし既存の枠組みではどうにもならなくなったとき、人々は自ずと真剣に、新しい枠組みとは何かについて、考えるようになるでしょう。

たまたま私は、現時点において、既存の枠組みでは、根本的な解決し得ない問題が多々あると思っており、これから別の枠組みを作っていく必要があると感じている人間であるというだけだと思います。そんな私がするべきことは、現在、私たちが直面している問題が、本当に既存の枠組みでは解決しないということが確定したとき、社会がスムースに次の新しい枠組みに移行できるよう、淡々と準備しておくことなのではないかと考えています。

そしてまた、世の中が悪くなるということは、一方的にマイナスの意味だけがあるとは思いません。社会全体の悪化現象は、それだけ多くの人々が、将来のことを真剣に考えるようになることと直結しているように思うのです。このことは、社会全体にとって大変重要であり、大切なことだと考えます。

昨日、ある方とお話をさせていただいた際、たまたま「パラダイムが変わる」という言葉が出てきました。パラダイムシフトという言葉は、ずいぶん前から使われています。しかし私は、真のパラダイムシフトはまだ起こっておらず、まさにこれからが、本格的なパラダイムシフトの時代なのではないかと考えています。

今回、休漁をされた関係者の方々にとって、既存の枠組みのなかで、様々な解決を試みる、あるいは訴えていくということは大切なことであり、それらには、多くの方々の生活が懸かっている点、見逃すことができません。つまり、それだけ深刻な状況に陥りつつあるということです。しかし、それでも事態を改善できず、出口が見つからないような絶望的な状況になったとしても、その先には、それまで見えなかった新しい道が拓けているように思うのです。

私の話には物騒な内容が含まれていることも多いので、現実にならないで済むのなら、それはそれで大いに結構なことです。例えば、今回の休漁は、エネルギー・原油価格の高騰という事象が、漁業に及ぼした結果として起きたものでしたが、エネルギー問題は、生活に直結したあらゆるところに多大なる影響を及ぼします。到底、漁業や鮮魚といった分野に納まる類の話ではありません。これから先、私たちの生活は、もっともっと大変な状況に追い込まれても、おかしくないのです。そして、社会に対する警鐘としての私の言葉が、現実味を帯びるということは、これからますます、社会が絶望的な状況に陥るということを意味するのだろうと思います。

しかし、もしそれらが現実味を帯びるほど、社会が荒廃してしまったとしても、一方でそうした絶望的な状況を経るということは、次へのステップに向けてどうしても必要な過程であり、それは必ず明るい未来へと繋がっていくものではないかと考えています。そして、どんな状況になったとしても、新しい社会を構築するための努力は怠ってはならないと思うのでした。

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常に問われる国家の品格

2008年07月14日 | 日本

竹島問題に絡んで、日韓間での議論が若干騒がしくなっているようです。報道によると、中学校の学習指導要領の解説書において、竹島に関する既述を明記した日本に対して、韓国が駐日大使を一時帰国させるとのことです。

私は、現時点において、どちらの主張が正しいかについて、言及するつもりはありません。ただ一点、両者の主張が食い違っているということについては、事実として受け入れるしかないのだろうと思います。

それぞれ、隣り合わせている国同士、領有権について何を根拠にするのかをはじめとして、両者の議論が食い違うことは、大いにあり得ることです。これは、きちんと議論を重ねていけばいいでしょう。議論で解決しないこともあるでしょうが、それでも武力に訴えるのではなく、まずは話し合いを続けていくということが大切なのであり、それが「大人の対応」というものではないかと思います。

以下、日本人や韓国人のうち、特定の個人や政治家を指して述べるのではなく、あくまでも国家・中央政府としての日本や韓国の公式見解や立場を考慮したうえで、整理してみたいと思います。

これまで日本は、自国民の歴史教育の内容について、周辺国に大変な気を遣いながら、検討を進めてきたと思います。賛否あるでしょうが、様々な経緯を踏まえ、ひとまずの対応として、これまで日本がとってきた教育の方針や内容について、ある程度の評価がなされてもよいのではないかと考えます。

一方韓国は、日本への教育に様々な要求をつけるだけでなく、自国民に対しては、日本を貶めるようなかたちで、愛国精神を高揚させていると取られても仕方ない歴史教育を展開してきました。それが多くの日本人に対して、いろいろと複雑な感情を呼び起こさせたことも間違いないでしょう。しかし、日本はそれらを全て飲み込んで、韓国の自国民に対する教育について、日本が口出しすべきではないという立場を貫いてきました。私は、これも良かったのではないかと考えます。

過去に何があったにせよ、国家として存在する以上、そこには尊厳があって然るべきであり、国家同士は互いに尊重し合わなければなりません。そして、少なくとも(個人の政治家レベルでの発言を巡る議論などがあったにせよ、政府レベルの公式見解のなかで)日本は、教育問題について、韓国の意見を最大限尊重してきたと思います。私は、これらをもって、日本が韓国という国をできる限り尊重し、そのひとつの表現として、内政干渉をしないという立場をとってきたと解釈することができると考えます。

戦後の歴史教育を巡る問題について、日本は、韓国における愛国精神や歴史教育のあり方について言及しないことは、もちろんのこと、韓国からの日本に対する様々な要求があっても、ひとまずそれを受け止めるという姿勢を示してきました。つまりこれは、内政干渉とも取れる韓国の日本に対する要求に対して、それに異を唱えるという内政干渉すらしなかったという意味で、十分評価されるべきではないかと考えるのです。

さらに、歴史問題において大切なことは、過去から学ぶということの大切さです。過去から学ぶのは、日本だけではありません。あらゆる国々が、過去から学ぶ必要があると考えます。

万が一、韓国は過去から学ぶ必要がないというのなら、その理由を聞かなければなりません。そしてもし、韓国も過去から学ぶ必要があることを認めるのであれば、それは何だったのかを自ら問い直していただく必要があるのではないかと思うのです。

ある私の知り合いの韓国人が、「歴史的に、韓国に力がなかったのがいけなかった」と言ったことがあります。このことから、もし韓国にとって、過去から学ぶべきことが「武力を持つべき」、「武力に頼るべき」ということであるならば、竹島の占拠は、その教訓を大いに活かしているということができるかもしれません。しかし、もしそうなら、韓国が日本に対して、過去の(いかなるかたちであれ)武力行使の問題を取り上げて、一方的に批判することはできないようにも思います。そこを曖昧にして、本問題を通り過ぎることはできません。

私は、日本にとっても、韓国にとっても過去から学ぶべきことは、「武力では解決しない」ということではなかったかと考えます。いろいろな事情や情勢があるにせよ、武力による解決は、相手に禍根を残し、本質的な解決には至らないということが、お互いに学ぶべきことではなかったかと思うのです。武力により、辛い思いをしたから、もう学ばなくて良いということはないと思います。辛い思いをしたのであれば、今後は辛い思いをしないようにどうすればいいかを考えると同時に、他者に対して、同じように辛い思いをさせないようにどうするべきかということを考えなければならないでしょう。

然るに、竹島の議論に合意点が見出せないからと言って、警備隊を派遣し、武力占拠するという韓国の行動が、本当に過去から学んでいる結果なのかという点が、本問題におけるポイントのように思うわけです。

私は、竹島をはじめとする両国の歴史問題などについて、双方の立場や議論に食い違いがあることは、やむを得ないと思っています。しかし、それが気に食わないといって、武力に頼った行動に出るということは、あってはならないというただ一点において、韓国の行動には再考の余地があるのではないかと考えます。

議論は大いにすべきです。気に食わないこともあるでしょう。しかし、だからと言って武力に頼ったり、接点を切ったりするのは、必ずしも品格ある国家の対応ではないと思うのです。韓国の行動は、果たして品格ある国家の行動であるのかどうか、責任者の方々は、あらためて考えてみる必要があると思います。

しかし一方で、私自身、韓国に対してどうせよと言うつもりもありません。竹島に警備隊を派遣しようが、駐日大使を帰国させようが、国家のあらゆる決定は、その国家の自由意志に委ねられる問題だと思います。好きなようにすればいいでしょう。ただ、それら全ての行動について、国家は常にその品格が問われているのであり、国家運営を任されている方々は、その重大な責任を負わされているという点については、きちんと明らかにしておきたいと思うのです。

また一点、本問題について付け加えたい重要なことは、韓国という国が、大変長きに渡って、侵略や属国扱いを受けるという、辛い経験を強いられてきた国だということです。これは、私たち日本人が経験をしていないことでもあります。そういう意味で、武力に対する思いや感性は、私たち日本人にはないものがあるのかもしれません。

私は、歴史問題を巡り、これまで展開されてきた日本に対する韓国の一連の主張は、そうした過去の辛い経験から生まれてきたようにも思います。いわば、過去のトラウマから生じる、当然の自己防衛本能の表れのようなものかもしれないということです。それは、私たち日本人には、永遠に理解できないのかもしれません。

そういうことを含めて考えると、上記のような「国家の品格」といった整理をしながらも、これまでの韓国の主張や行動に対して、否定したり批判したりするつもりもありません。「国家の品格」が問われるであろうことは、指摘してしましたが、それをもって、韓国が「品格のない国家」であると決め付けているわけではありません。また、日本だけが、一方的に「品格ある国家」と言っているわけでもないのです。

常にチャンスは開かれています。大切なことは、どのような未来を創っていくかということです。明るい未来に向かって、両国がどのように付き合っていくべきかについて、日本も韓国も、真剣に考えていく必要があります。互いが相手の国家を尊重し、それぞれが「品格ある国家」として、堂々と胸を張れるようになったとき、両国の関係は、次のレベルに発展していることでしょう。それを大いに期待したいと思います。

《おまけ》
上記は、国家レベルの筋論として、私なりの見地から整理したものです。ときどき、日韓の政治問題などを持ってして、特定の韓国人(個人)を責めたりする日本人もいらっしゃいますが、それはそれで、日本人としての品格を下げることになるということについて、自覚が必要でしょう。その責める対象となる韓国の方が、日韓の政治問題を解決し得る立場にある人物であるならばともかく、こうした問題のはけ口として、一般の人々に対して矛先を向けるのは、まったくの筋違いであるということに、注意していただく必要があるかと思います。

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まったく満たされない条件

2008年07月14日 | 独り言

「デキる男」は収入より貯金

ある雑誌の記事のタイトルに、こんなのがありました。
うわぁ~、収入とか貯金とか・・・。どっちも終わってるっ!

僕は、まったく条件に入らない。
けれども、かと言って、その記事の言葉に何の焦りも感じない。

逆に、条件を満たしていないことこそが、「最強の力」の源泉だと思う。
うほぉ、楽しい~っ!!

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ちょっとした「動」

2008年07月13日 | 日常

今朝のゴーオンジャー、仮面ライダーキバ、プリキュア5・・・。

いずれも何となく動きがあるストーリーだった。
来週がちょっと気になる展開に、結構満足だったりするのだ。

でも、ニューアイテムの販促はゴメンかも。

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巨匠だけではない世界

2008年07月13日 | ヒーロー&アニメ

アニメ界の巨匠と言われる方の新作が出るとのことで、テレビで特集が組まれていました。その方のアニメは、私も大好きなので見ようとは思いますが、アニメの名作は、それだけではないことを痛いほど知っているだけに、あまりその方のアニメばかりに焦点が当たるような物の言い方をされると、ちょっとばかり違和感を覚えます。

何年もの間、ひとつのアニメ映画の制作に携わるということは大変なことでしょうし、それがきちんとヒットしていくということは、それはそれで素晴らしいことだと思います。また、そこに辿り着くまでの道程も、長く険しかったでしょうから、そういうことを含めて、スポットライトを当てながら振り返る、あるいは賞賛していくということは、あってよいのだろうと思います。

しかし一方で、小さい会社ながら、限られた時間やリソースで、毎週30分のアニメ番組を制作していく方々もいて、そこから数々の名作が生まれているのも事実だと思うのです。

もちろん、クオリティの問題はあります。バラつきもあるでしょう。あらゆるアニメ番組が、作品として秀でているというわけには、いかないだろうと思います。しかし、全国民的にそれほど知名度があるわけではない作品のなかにも、巨匠の作品を超えるようなクオリティや感動を誘うような名作があることは事実であり、それは間違いないと思うのです。

私には、アニメ界の巨匠に比して、そうした数々の名作を生み出している方々に、あまりにもスポットライトが当たっていないように感じられます。また、巨匠にスポットが当たれば当たるほど、スポットが当たっていない方々が思い出され、それがとても残念な気持ちにさせるのです。

巨匠を否定するわけではありません。巨匠は巨匠なのだから、放っておいたって名作を生み出し続けるはずですし、それらは自ずと評価され、巨匠を巨匠たらしめるでしょう。大切なことは機会平等です。視聴者が公正に作品の良し悪しを判断できる環境こそが、最も重要なことではないかと考えます。公正で開かれた環境があれば、巨匠は実力で巨匠の地位を守り続け、一方で知名度が低くても、実力がある作り手の方々が、きちんと評価され、それに相応しいスポットライトが当たるようになると思うのです。

機会平等、公正で開かれた環境・・・。こうしたことを実現できるのがオープンシステムであり、それがインターネットに期待されている新しいメディアとしての役割なのだろうと思います。

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