常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

実践への誓い

2007年12月30日 | 自分

このブログを始めて、一年以上の歳月が流れました。当たり前のことながら、人間とは成長するもので、私がこのブログを書き始めた当初に比べて、私自身、だいぶいろいろなことに気付かされました。

このブログのタイトルが「常識について思うこと」となっているように、当初私は、常識に囚われている多くの人々から看過されている世の中の重大な問題について、提起・指摘していくことを目的として、このブログへの書き込みを始めました。ただし当時は、それらの問題点の提起に留まっており、具体的な解決策やアクションについて、明確な結論を出すには至っていませんでした。

しかし2007年も残すところ僅かとなり、ようやく上記の問題の本質や解決策などについて、私はひとつの結論に至り、またそれに向かっての道筋をはっきりと見出すことができるようになりました。

私が、ここに書き記していることは、正直に言って、非常に生意気なことばかりかもしれません。「地球を思え」、「大義を持て」、「己に打ち勝て」、「宗教に頼るな」、「科学の最先端を探求せよ」・・・。このブログをご覧になっている方々のなかには、私という人間を直接ご存知の方もいらっしゃいますが、大半の方々は私のことをご存知ないでしょう。そんな方々にしてみれば、「お前は口先だけではないか?」、「何を偉そうに言うのか?」というご批判もあろうかと思います。幸いにして、今のところ、そういうご意見はありませんが、そういうご批判があっても当然であり、私としては、私の言葉が口先だけでないことを証明するには、これからの自らの人生のなかで、実践を通じてお見せするしかないものと思います。

言葉で伝えるというのは、大変難しいものです。同じ言葉でも(聞く人が不変であるということを前提にすれば)、その言葉を発した人間が誰であるかによって、その言葉の重みというものは変わってしまいます。とくに、人々が陥りやすい過ちは「その人間が誰であるか」という部分を、人間の地位や肩書きで判断してしまうということです。

そこで地位も名誉もない私が、「人間の言葉の重みをよく考えよ。地位や肩書きで判断するな」と言ったとします。しかし、これで何が変わるでしょうか。所詮、地位も肩書きもない負け犬の遠吠えになってしまいます。そして結局、私の言葉によって、地位や肩書きで判断してしまう人々の考え方を変えるまでには至りません。

けれども、私がブログを通じて書き記していることの正しさには、絶対的な自信があります。そして、そのことは、多くの人々にきちんと伝えていく必要があるものと考えます。

「地位や肩書きで人を判断してはならない」
「人の重みは地位や肩書きでは測れない」

誰がなんと言おうが、私は、この言葉を繰り返し、主張し続けます。そして、こうした言葉に重みを持たせ、「地位など大したことではない」ことを大真面目に聞いてもらうために、私は強大な地位や名誉を獲りにいきます。このことは、一見逆説的ですが、こうした実践こそが、このブログを通じて私が書き記してきたことの正しさを証明するための唯一の手段だと信じます。

今はなかなか伝わらないかもしれませんが、このブログを読まれている全ての方々が、いずれこの意味を分かるようになると思います。今日現在、私のことをご存じない方でも、「あれがこのブログを書いていた奴か」と思うときが必ず来るようになるでしょう。逆にそうならないと、私が書いていることの正しさは証明されません。

2008年以降、私は自らの人生をもって、そのことを証明していきたいと思います。

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報酬は感謝・感動の証

2007年12月19日 | 人生

報酬は、働いて稼いでいる人にとって労働の証です。したがって、たくさんの報酬を得ている人は、うまく働いている人であるし、裕福な暮らしをできる人でもあります。そしてまた、たくさんの報酬を稼げていると、自分の存在価値をそれだけ多く実感することができるから、その人にとっても自信になります。いい事尽くしです。

しかし、この点ばかりに目を奪われると、本来の報酬の意味を見失います。即ち、報酬は労働の証である前に、感謝や感動の証であるということです。あなたが働いたことによって、それをありがたいと思う人がいて、その人が「ありがとう。これからも頑張ってください」と思うから、お金を出してくれるのであり、その結果が労働の証という名目で、目の前に報酬という現金として現れるのです。

したがって、本来、たくさんの報酬を得ている人は、たくさんの人々に感謝され、多くの人に感動を与える仕事をしている人なのです。これはごく当たり前のことであり、お金や報酬の概念を考える上での原則論とも言えるでしょう。

しかしながら、現実の競争社会ではこの原則論が通じなくなりつつあります。その理由を挙げていったらキリがありません(「人間の優劣と競争社会」、「社会ルールの欠陥」など参照)が、究極的には、この世界が物質世界である以上、人間は目に見えるものに囚われるからと言うことができるでしょう。即ち、自分の存在価値に自信をもつことができない弱い人間は、上述のようにたくさんの報酬を得ていること(さらにそれを数値化し、可視化させること)で安心したがるのです。そこで、原則論を無視した競争が起こるわけです。

多くの人々に感謝されることやたくさんの感動を与えることよりも、他者より多くの報酬を得ることで、自分が優秀であると認められたいという弱い人間の自己防衛と他者攻撃の心理により、競争はさらに激化します。その結果、競争社会で勝ち上がった既得権益者(強者)は自分たちを守るために、自らの手でますます社会システムを硬直化させていくのです。このような社会において、「多くの人々に感謝される仕事」、「たくさんの人々に感動を与える仕事」などと悠長なことを言っている者は、まともな報酬を得ることもできず、たちまち二度と這い上がれない弱者へと転落してしまう恐れがあるわけです。

けれども、この世界は長くは続かないのではないかと思います。労働に携わっている人々は、原則論に立ち返り、必ず「感謝」や「感動」に裏付けられた仕事をしなくてはならなくなるだろうと思うのです。顧客たる消費者を脅すように「この条件を飲まなかったら、仕事はしないぞ」、「この仕事をするから、これくらい払え」というやり方は、通じなくなるでしょう。他に選択肢がないことをいいことに、ある権利やシステムに頼りきったビジネスは、早晩限界を迎え、その有り様を変えていくことになるのではないかと思います。

ひとつの例を挙げましょう。次の一文は、ある音楽業界の関連団体(社団法人私的録音補償金管理協会)が出しているものです。

「今日も私たちが音楽を楽しめるのは、そこに創り手たちの豊かな才能と熱い想いがあるからです。家庭内での「私的な」コピーは一定の条件下で許されていますが、それが全体で膨大な数になればアーティストたちの不利益となり、創作活動を困難にしてしまいます。」

至極、真っ当なことを言っていますが、前提条件として確認しなければいけないのは、今日の高度なデジタル化及びネットワーク化が進んだ現代社会において、音楽ファイルのコピーやその流通を法制度によって統制することは、事実上不可能であるということです。その意味で、上の記述にあるように「それ(コピー)が全体で膨大な数」になることは、時代の潮流であり、避けることはできないと言えるでしょう。

見極めるべき問題の本質は、むしろそういう社会において、創作活動が困難になってしまうアーティストには、そもそも人を感動させる力はないし、その価値もないということです。残酷な言い方になりますが、これからの高度に情報化された社会において、そういうアーティストは沈むべくして、沈むということです。逆の言い方をすれば、才能あるアーティストは、けっして消えることがないでしょう。

素晴らしいアーティストの作品は、それがコピーだろうが何だろうが、人を感動させる力を持っているわけであり、そんなアーティストが創作困難になったということになれば、ファンの人々が募金でも何でもして、そのアーティストに創作活動を続けさせるはずです。また本当に才能あるアーティストに対しては、聞き手側(ファン達)が彼らにきちんと余裕ある(裕福な)暮らしをしてもらいながら、より良い作品を作ってもらいたいと願うでしょう。結果として、より多くの人々にたくさんの感動を与えられるアーティストに潤沢な資金が集まり、彼らが裕福になると同時に、素晴らしい作品を創ってもらえる環境が整っていくのです(問題の本質は、現代の社会システムが、そういう仕組みを用意しきれていないことである)。

ラジオ、テレビ、CD、DVD・・・。こうした媒体から、さまざまなコンピューターとそれらを繋ぐネットワークの発達という大きな環境の変化が起こっているなか、それらの技術を駆使して、きちんと人々に愛される仕事をしているか、感動を与えようとしているかが問われる時代に入ったのだろうと思います。

新しい技術によって、社会の仕組みが大きく変わるとき、人々はそれぞれの労働や報酬の意味を見つめなおすべきではないかと思います。自分が得ている報酬は、労働の価値に対する感謝の証なのか。自分は本当にあらゆる手を尽くして、人々に感動を与える仕事ができているのか。そうした個人個人の問いかけが、次の時代を創る大きな原動力になるのではないかと思うのです

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宇宙人としての自覚

2007年12月02日 | 異次元

あなたは、なに人ですか?この問いに、あなたはどう答えるでしょうか。
私には、いくつかの答え方があります。

「私は日本人です」
「私は地球人です」
「私は宇宙人です」

ちょっと違和感がある部分もあるかもしれませんが、これらはどれも本当のことです。とくに宇宙人と言うと、「地球外生命体」というイメージを持つ方も多いと思いますが、けっしてそんなことはありません。この宇宙に住んでいるという意味で、私は宇宙人だし、あなたも宇宙人です。

こんな話をすると、とても不思議がられるかもしれません。しかし、ひとつの世界が限界を迎え、人々の世界観や視野が広がってくると、人は自分をより大きな次元で定義するようになるのであり、こういうことは過去にも繰り返されてきました。

例えば、明治維新以前の江戸時代では、日本人は日本という国に属していながらも、各藩への帰属意識が非常に強く、人々は日本人としてよりも、むしろ各藩人として自らを定義していたようです。つまり長州藩であれば「長州人」、薩摩藩であれば「薩摩人」、会津藩であれば「会津人」といった具合です。そして、狭いとはいえ、その閉じられた世界がきちんと機能していれば、これらの藩への帰属意識から藩同士が憎しみ合い、争うということも起こるわけです。逆の言い方をすれば、お互いに争うだけの余裕があったということもできるでしょう。

しかし黒船来航以降、各藩が独自で国を治める体制には限界があると気付いた人々がいて、彼らはより大きな世界観を持つに至りました。そして、「日本」をひとつの国として捉え、これを中心に国家をまとめていかなければならないという意識から、以降、私たちは「自分は日本人」という概念を生み、自らをそのように定義するようになったのです。

さらに日本人としての意識が確立すると、日本という国をどのようにしていかなければならないかを考えるようになります。福澤諭吉が唱えた「脱亜入欧」というのは、賛否両論はありながらも、まさに自らを日本人として強く認識したときに生まれた当時の最先端ビジョンのひとつだったと言えるでしょう。そのビジョンは、世界の中で日本をどうするべきかという、日本人としての視点からの展望であり、その意味で彼には、その時代にして既に国際感覚を持ち合わせ、日本人から、国際人あるいは地球人としての意識が芽生えて始めていたと言うことができると思います。

こうしたことを考えたとき、現在、地球規模で非常に重大な問題が生じて始めている状況にあって、自分たちが地球人としてどう生きるべきかという意識が生じるのは、むしろ当たり前ではないでしょうか。「日本人」であるとか、「アメリカ人」であるとかいう国家を軸にした自己意識は、かつての日本人が、自らを「長州人」、「会津人」と考えていたのと同じです。今や国家に依拠した自己意識を乗り越え、「国際人」、「地球人」としての感覚は、世界中の人々に持たれて当たり前の時代に入っていると言えるでしょう。

そしてこのことは、福澤諭吉が日本人としての意識から、日本のあり方を考え「脱亜入欧」を唱えたように、私たちが地球人として、次の地球のあり方を宇宙レベルでどのように捉えるかについて、真剣に考えるべき時代に入ってきたことを意味していると思うのです。つまり私たち人類は、「地球人」からさらにその上の「宇宙人」としての自覚を持ってよいのであり、実際に宇宙に生きる存在として、「私は宇宙人です」と言ってよいはずなのです。グローバル化とか、ボーダレス化といった言葉が、当たり前のように使われており、その意味で「地球人」という意識があって、何の不思議もない現代にあって、さらに次の時代においては、「宇宙人」としての自覚が生まれるだろうというのは、至極自然な指摘であると思います。

「地球外生命体にも遭遇していないのに、何で宇宙のことを考えるのだ?」
「他の宇宙人も確認せずして、何故宇宙人としての自覚など芽生えるのか?」

こんな質問が聞こえてきそうです。そういう意見にも、一理あると思います。

しかし、今の私たちは、そもそも宇宙とは何かを知りません。現在、科学の最先端は、宇宙の成り立ちや正体を必死になって探しています(「「創造主」の正体」、「アイディアの重要性」参照。現代科学の現況について、専門的なバックグラウンドなしに要点の理解を促すものとして、前田恵一/リサ・ランドール(2007)「次元とは何か?~宇宙は何次元?~」『Newton』2008年1月号などもある)。この大きな謎について答えを出すことが、人類が宇宙人としての自覚をもつことに大きく近づくのではないかと思えてなりません。つまり、宇宙とは何かを知ったとき、また宇宙の成り立ちを知ったとき、自分たちが「その宇宙に生きる存在なのだ」ということは、自ずと強く意識できるようになるだろうし、そのときは自らを自然と「宇宙人」と呼ぶことができるだろうと思うのです。

逆説的には、私たちが宇宙人としての自覚を持つくらいでなければ、地球規模の問題は解決し得ないとも言えるでしょう。つまり、人類に宇宙人としての意識が芽生えることで、「私たちは宇宙人。私たちが宇宙の一部である地球のことを真剣に考えるくらいは当たり前」と思うことができるのであり、地球人全員がそのレベルに自らの意識を高めることで、真に地球規模の問題を解決することができるようになると思えるのです。

「宇宙人としての自覚を持つ」。まだピンとこないかもしれませんが、これからの時代を生きる人類にとって、自ずと生じてくる意識ではないでしょうか。

コメント (2)
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