常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

過去への感謝、未来の創造

2007年03月25日 | 人生

物事には必ず二面性があります。その二面性を考えるヒントとし、現在を境に「過去」と「未来」に分けて物事を捉えると分かりやすいかもしれません。

現在を生きる人間にとって、未来を切り開いていくことは、非常に大切なことです。なぜなら、未来を切り開いていくこと自体が、人間にとって生きる目的となり、そのために人間は力強く、そして前向きに生きることができるからです。ところで、未来を切り開いていくことは、現在あるものを否定し、新しいものを創っていくということでもあります。しかし、現在あるものをばっさりと切り捨てることはできません。否定されてしまうそれは、たとえ未来において必要がないものであったとしても、過去においては非常に大きな役割を果たしてきたのであり、それがあってこそ現在があると考えれば、それに感謝の念を持って接していかなければならないからです。

ひとつ例を挙げましょう。

人々の移動手段は大きく発展を遂げてきました。もともと、自分の足で歩くことでしか移動できなかった人間は、さまざまな手段を使って、効率的に移動できるようになりました。産業革命以前まで、人間を高速で移動させるのは「馬」でした。馬に直接乗るということもあれば、馬に車を引かせて馬車にするという方法もあります。いずれにせよ、人間にとって高速移動手段として、馬の役割がきわめて重要な時代があったのです。それが、産業革命による新しい動力源の登場により、馬は高速移動の手段として、急速に役割を失い始めました。新たに人間を運ぶ道具となったのが鉄道であり、自動車であり、飛行機などです。

しかしこの移動手段の発展の過程のなかで、新しい動力源の登場が、たちまちにして鉄道や自動車などを生み出したのではありません。それまで、馬を中心に発達した交通インフラがあり、その便利さを人々が知っていたからこそ、新しい動力源を使った機械の発明が生まれたのです。産業革命時点における「現在」において、鉄道や自動車のような「未来」の創造は、馬を中心とした「過去」の交通システムがあったからこそ誕生したと言えるのです。

このように、現在において切り開いていかなければならない未来は、必ず過去に立脚して存在しうるのであり、その過去を完全に否定しきって、成り立つことはありえないということなのです。

このことは、未来を切り開いていくことを使命として課せられた人間にとって、非常に重要なことだと思います。

今、地球は人類が成してきた所業により、急速な変化を始めています。このまま無策な状態を続けては、環境問題はますます深刻化し、いずれ取り返しのつかない状況に陥ると思われます。人類が地球に住まい続けるため、子供たちの世代にきちんと地球を渡していくためには、現在を生きる我々が未来を切り開いていかなければなりません。未来を切り開くとき、過去の産物は役割を終えたことを認識し、そのうえで新しいものを創り出していかなければならないのです。大切なことは、そうは言っても、現在は過去の産物により立脚しており、それがあるからこそ新しいものを創り出していけるのであるということを理解することです。現在は、過去と未来の接点であり、その現在において、我々がすべきことは、過去を切り捨てずに感謝し、それらをすべて背負いながら、未来を切り開いていく挑戦を続けていくことです。

それでは、切り捨てずに感謝し、背負うべき過去とは何でしょうか。

それは、過去のものすべてです。自分を取り巻く過去の産物すべてに対して、例外なく敬意を払い、感謝し、背負ってこそ、未来を切り開くための力を得ることができるのです。家庭、職場、業界、制度、法律、国家、宗教・・・。あらゆるものが背負っていくべき対象となるでしょう。そこまでの根本的な見直しができなければ、人間同士の争いは絶えず、地球環境の問題は解決しえないのです。

過去の産物は、現在を現在たらしめるために大きな役割を果たしてきました。時間は巻き戻すことができません。それらの過去は、けっして変えることができないものなのです。未来において、それらが過去と同じように存在できないとしても、それらは過去に存在していたものであるから、その事実は事実として受け入れていかなければならないと考えます。受け入れると同時に、感謝の念を持ち、それを大切に背負っていくことができたとき、はじめてそれらに代わる新しいものを創り出し、未来を切り開くことができるのです。

現在目の前にあるものの二面性。それは過去においてどうだったか、未来においてどうであるかという、このような視点において生み出されます。

たとえば、宗教についても考えてみたいと思います。

宗教は過去において多くの人々を救済してきました。大きな功績があると言っていいでしょう。しかし、宗教が存在することによって、人類の歴史は争いの繰り返しでもありました。地球環境問題を目前にした我々人類にとって、相変わらず現存の宗教を許したままで、その歴史を繰り返していてよいものでしょうか。未来において、もはや宗教は不必要なのではないでしょうか。そんな問いかけが必要な時代に入ってきているのではないかと思うのです。

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感情の主人たれ

2007年03月24日 | 人生

生きていれば、いろいろと感じるものがあります。喜怒哀楽。必ずしも、この4つに集約されるわけではありませんが、人間はさまざまな感情をもち、それをエネルギーにして生きていくことができます。

例えば、スポーツ選手が一所懸命に努力をするのは、勝利したときの喜びを味わうためであったり、屈辱的な扱いを受けたときの怒りであったり、ライバルに負けたときの悔しさであったり、賞金を手にしたあとの楽しみであったり、いろいろなものが入り混じった感情があるからでしょう。それが表に出る選手と出ない選手がいますが、それは内に秘めたものとしてコントロールしているかどうかの差であって、感情の有無の問題ではありません。人間には誰しも感情があり、それが大きければ大きいほど、大きなエネルギーとなって、人間を突き動かすわけです。

このことはスポーツ選手に限らず、この世に生きる人間にとって共通して言えることです。多かれ少なかれ、人間は日々の暮らしのなかで、さまざまなことを感じ取り、そこに感情が生まれ、その感情から欲望が生じ、行動を起こしているのです。したがって、感情は人間が生きるのに欠かすことのできない大切なエネルギー源とも言えるでしょう。

しかし、だからといって、感情に振り回されてはなりません。

喜びや楽しみといったポジティブな感情をもつことは大事ですが、現在の「良い状態」に酔いしれて、するべきことを怠ってしまうと、その現在の「良い状態」はたちまち過去のものとなり、未来における「良い状態」を失ってしまいます。「勝って兜の緒を締めよ」という言葉があります。喜びに我を忘れて、うつつを抜かすようなことがあってはならないということです。

反対に怒りや悲しみのようなネガティブな感情をもたざるを得ないこともあります。しかし、現在の「悪い状態」に暮れていては、明るい未来を迎えることはできません。現在の「悪い状態」は、次の瞬間には過去のものとなります。現在の「悪い状態」から発する怒りや悲しみといったネガティブな感情を乗り越えて、前向きに生きるからこそ未来は開けていくのです。

感情はあくまでも内に秘め、それをコントロールしながら、正しく生きる原動力に変えていかなければならないのです。感情が豊かなことは大事です。それは生きるためのエネルギーを生み出す大きなエンジンを持っているということに等しいと言えるでしょう。しかし、そのエネルギーは、常に正しく使われるようにコントロールされなければならないのです。

ところで、感情をコントロールするとはどういうことでしょうか。

それは「良い状態」も「悪い状態」も自分で決めよということです。それらを自分で決められるようになるということこそが、自分を取り巻く状態の捉え方をコントロールできるということであり、そのことにより感情をコントロールできるようになるということになるのです。

先ほど「良い状態」、「悪い状態」という言葉を使いましたが、そもそも「良い状態」、「悪い状態」というのは、その状態に置かれている人間の主観的価値基準で決めていることであり、実際にはすべて「良い状態」ということもできるし、すべて「悪い状態」ともいうことができるのです。本来、人間はいかなる状況においても、それが「良い状態」なのか「悪い状態」なのかを自分で決める力を持っており、そのことで感情をコントロールしながら、生きることができるのです。このことにより、すべてのことが自らのコントロール下に置かれた、いわば「制御された良い状態」となるのです。

このような「制御された良い状態」は、単なる「良い状態」ではないため、それに我を忘れて、うつつを抜かすということはありません。喜びは喜びとして感じつつ、それによって自分をひけらかしたり、他人を陥れたりするような、おかしな喜び方もすることなく、純粋なる幸福感を得ることができるのです。

また逆に「悪い状態」と思われるような状況にあっても、その環境に置かれている人間自身の考え方によって、「制御された良い状態」にすることができます。そもそも「悪い状態」というのは、望ましくない状態のことです。しかし、過去に何があったとしても、既に過去は過ぎ去ってしまっており、現在のその時点において、たとえ望ましくない状態に置かれていたとしても、それはそれとして受け入れていかなければなりません。そして次に考えなければならないことは、未来のために、現在の望ましくない状態を、どのように望ましい状態に変えていくかということです。このことは生きていく目的となり、生きる喜びに変わっていきます。この発想をすることで、「望ましくない状態」は、生きる目的や喜びを持てるという「良い状態」と捉えることができるようになるのです。これにより、人間は「望ましくない状態」のなかで、常に喜びを見出し、前向きでポジティブな人生を歩むことができるのです。

ところが人間は不完全で、弱く、未熟です。そして弱く未熟な人間ほど、感情のコントロールができず、感情が向くままに行動をとり、それを発散することで楽な生き方をしようとします。しかし、そうした生き方をしていくことは、周囲を陥れたり、傷つけたりすることとなり、同時に自分を貶め、傷つけるという結果を招くのです。

ときには感情を抑えきれず、我を忘れて喜んだり、泣き喚いたり、怒鳴り散らしたりするのが人間です。その姿は不完全な人間としての、人間らしい姿でもあります。しかし、感情の発散そのものでは、問題の根本的な解決には至りません。感情を持つことは非常に大切なことながら、それを爆発させ、発散してしまうということは、不完全な人間らしい行動ではありつつも、未来を生きる人間としては、恥ずべき行為であることに気付かなければならないし、そのような人間は猛省をしていかなければならないのです。

人間には常に未来のあるべき姿に思いを馳せ、その可能性を信じることにより、「制御された良い状態」を保持し続ける努力が求められています。そして、その結果として感情をコントロールできる、いわば感情の主人となっていけるのであり、人類は明るい未来を切り開くことができるようになると思うのです。

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