常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

「金」の可能性

2012年07月08日 | 社会

日本の財政が破綻するか否かについては、さまざまな議論がなされ得るようですが、そのひとつの大きな論点は、日本の借金は、「国内でお金をグルグル回しているだけ」というものです。つまり、国が借金をし、それを負担していくのが国民ならば、国にお金を貸して、その分の債権を得るのも国民なのだから、それが破綻するのはあり得ないというわけです。その考え方に立てば、よく言われる「国の借金を次の世代に背負わせる」というのは、「国に対する債権を次の世代に引き継がせる」ことで、相殺されるということになるのかもしれません。

ところで、そうした「財政は破綻しない論」は、国内でお金をグルグル回しているところに対して言えるのであって、そうでない国々にとっては、事情が大きく異なるとみるべきでしょう。近年では、ギリシア、スペイン、イタリアなど、欧州における財政危機が大きく取り沙汰されています。これらの国々では、国の借金を国内で賄っているのではなく、外国も絡むかたちで、お金が回っているため、日本とは事情が違うわけです。そのことは、欧州に留まりません。基軸通貨とも言われるドルの米国でも、同じようなことが言えます。具体的には、中国や日本といった外国が、米国債を買っており、米国政府に巨額のお金を貸しているわけです。

こうした国々においては、「国内でお金をグルグル回している」わけではないため、財政破綻は現実的なものとして捉える必要があるでしょう。そうした場合、例えば、米国のような超巨大国家の財政が破綻したら、何が起こるのかを考えなければなりません。これに対しては、実に様々な意見があるものと思われます。もしかしたら、世界が米国を破綻させるようなことはさせない、というような意見もあるかもしれません。しかし、上述のような考え方を整理していけば、可能性の問題としてでも、米国が破綻するかもしれないと考えるべきでしょう。

先日、仲間とこうした議論をしているなかで、これからの時代における資産保全の観点から、「金」の重要性を見直すべきという話になりました。

今、市中に出回っているお金というのは、言い方によっては、所詮紙切れです。各国家の枠組みの中で、それらの信用に基づいて、多くの人々に「価値があるモノ」と認められてはいますが、国家の信用が失われてしまったら、何の価値も持たなくなる脆いものでもあります。ある国家の財政が破綻するということは、そうしたお金の価値が崩壊する可能性を指すわけです。

そこで、そのように紙切れ同然になったお金に代わって価値を持ちうるもの、あるいはそうした世情に左右されず、常に「価値があるモノ」として認められるものとして、「金」に注目してみたのです。「金」は、有史以来、人類にとって、価値があるものとされてきました。それは、国家がどのようなかたちに変わっても、さほど大きくは変わりません。今でこそ、金本位制はなくなりましたが、これから国家の信用に基づいた貨幣経済が崩れるとなると、「金」の重要性は、ますます高まってくる可能性があります。

このことが、ただちに金本位制への移行を意味するのかについては、ここでは詳しく論じません。ただし、それに近いものになる可能性は、否定できないと考えます。金本位制の復活はあり得ないとする立場からは、金本位制のいろいろな問題が指摘されます。それらが、分からないわけではありません。

ただそれでも、今の貨幣システムが崩壊し、世界の基軸通貨であるドルが紙切れに化してしまうとしたら、嫌でもそれに代わる何かを生み出していかなければなりません。その際には、誰が何と言おうが、どんなに金本位制の欠点を論おうが、「金」を大量に保有している人々が、紙切れと化したお金を否定し、それに代わる「金」中心の貨幣システム、自分たちのルールを押し通してくることが想定され得ます。現状から、金本位制の欠点や実現性を論じるというのではなく、世界的な通貨危機が起こったときに、何が起こりうるのかという観点から、「金」の価値は見直されるべきではないかと思うのです。

今後、世界経済がどのように動いていくのかは分かりません。また、「金」なる貴金属自体が、私たちを豊かにしてくれたり、幸福にしてくれるとも思いません。ただ、可能性の問題として、世界的な通貨危機を考えないわけにはいかないし、その際の「金」の価値を認めることは重要でしょう。私は、そうした可能性を踏まえた上で、新しい経済システムの構築を進めるというスタンスでいきたいと考えます。

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破綻しない財政

2012年05月13日 | 社会

日常的にメディアを通して私たちが耳にするのは、日本の借金は900兆円を超えており、このままいけば政府は早晩破綻するというものです。感覚的に、借金が膨張すれば、財政が破綻するというのは理解できます。こうしたテーマについては、このブログでも度々触れてきました(「国家信用と貨幣システム」等参照)。

ただ一方で、日本の財政は絶対に破綻しないという議論もあります。これは、日本の国債は、90%以上が国内で買われているものであり、政府が借金をするというのは、即ち国民の資産が増えるということを意味しており、国債を発行するという行為自体、基本的にお金が日本国内をぐるぐる回っているだけであるという考え方からくるものです。これはこれで分からなくもありません。しかし、それが延々と回り続けてくれるのか、借金が際限なく膨らむということが本当に許されるのか、いま少しはっきりしません。

先日、このテーマについて、仲間内で議論をしました。結果、たしかに日本国内で国債が買われ続け、国民の資産が、政府が発行するだけの国債を引き受けるだけの規模、きちんと残っていれば、すぐに財政が破綻するということはなさそうだという結論に達しました。そういう意味では、メディアが煽り立てるほど、深刻な状況ではないと言えるのかもしれません。ただし、それが永続的な安定を意味するのかというと、けっしてそうでもないように思います。

例えば仮に、「こんな借金だらけで、政府の財政は本当に大丈夫なのだろうか?」と疑念を抱いた人々が、自分たちの持つ資産を海外の口座に移したり、貴金属に替えるような行動を起こしていくようになると、このループは成り立たなくなります。お金をぐるぐる回すゲームから外れる人々が出始めると、それが一気に全体の流れになるようなことも否定できません。

また、外国政府における財政破綻の影響等も気になります。現在、考えられるシナリオとしては、こちらの方が現実味があるのかもしれません。つまり、日本のように国内でぐるぐる回しているだけの国債ではなく、他国に国債を引き受けさせている国は、破綻する可能性が高いということです。

米国では2011年、債務が法定上限である14.3兆ドルを越えるということで、大きなニュースになりました。この時点における米国債の海外保有高は、4.5兆ドルでした。この数字から明らかなとおり、米国の場合、とても日本のように、「お金を国内でぐるぐる回している」ような状況ではないのです。こうした国では、為替相場などによって、大いに運命を左右されてしまうわけです。問題は、そうした世界経済の事象が、日本経済を直撃するであろうことであり、そのことが日本の国家財政においてどのように作用するのかということでしょう。

明確な根拠があるわけではありませんが、私はこうしたことを想定してみるとき、どうしても「金」を意識してしまいます。今の経済システムは、金本位制ではありませんし、金本位制への移行というのは、時代に逆行するものであるという指摘も分かります。私自身、「金」にそれほどの価値があると思っていませんので、むしろ金本位制に対する違和感すらあります。しかしそれでも、ある大国の財政が破綻するような事態が起こった場合、それを立て直す手段として、金本位制への移行を否定しきれるのかどうか、ちょっとした不気味さは感じています。このあたりの問題は、もう少し時間をかけて、注視していきたいところです。

さらにもうひとつ。日本の国債が本当に国内をぐるぐる回るだけだとして、「膨らむ借金」は国家財政の破綻を意味するのではなく、乱発される国債や日本円の価値暴落を招くだけかもしれないということです。借金は国内だけの問題であり、政府が膨大な量の国債を発行したとしても、それを(民間の銀行を通じて)日銀が刷った紙幣で買い取れば、問題ありません。そうなると、「借金によって破綻する」ということはない代わりに、国債や日本円の価値が著しく下がることになるわけです。そのことによって困るのは、多くのお金を銀行に預けている富裕層でしょう。むしろ、ローン等の借金で悩んでいる庶民たちには、ありがたいことになる可能性すらあります。そう考えると、財政が破綻するかもしれないという危機感を煽り、それを避けるために庶民たちからの税収を増やそうとする行為は、ただ富裕層を守るための方便という言い方もできます。

国家の財政が、今の経済システムのなかで、どのような道を辿っていくのか、これから先も一人の国民として、注意深く観察し、検証していきたいと思います。

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正確な日本語を使うべし

2011年12月29日 | 社会

今朝の毎日新聞の記事で、「中間貯蔵施設:「期間は30年以内」環境省が地元に約束」という見出しを見つけました。本文を見てみると、汚染土壌の貯蔵について、「国が示す「貯蔵期間は30年以内」について、政権交代しても必ず守ることを約束した」と書いてあります。

この文章を見て、私が最初に思ったのは、「政権交代しても必ず守る」という約束をするなど、あまりにも無責任ということでした。政権交代したら、いくらでも変わるであろうこと(政策)について、それを後回しの問題とし、安易に「必ず守る」など、けっして言うべきではないでしょう。

少々、この記事に違和感と不快感を覚えながら、読み進めていくと、次のような文章にたどり着きました。

===================
複数の町村長によると、高山政務官は政権交代があっても「貯蔵期間30年以内」を絶対に担保できるような方法を検討すると約束したという。
===================

こういうことなら話は別です。

「方法を検討する約束をした」というのは、結果までをも約束しているわけではありません。あるべき方向に向けて努力することを約束しただけです。したがって、「国が示す「貯蔵期間は30年以内」について、政権交代しても必ず守ることを約束した」という結果までをも約束したと受け止められる表現は、誤っていると言えます。

「政権交代しても」という部分についても、「政権交代しても必ず守る」という無責任な約束をしているわけではなく、政権交代しても受け入れてもらえるような現実的な解決策を生み出したい、そのための検討を進めるという約束をしていると読み取れます。それはけっして、「他の政権になっても必ず守る」という約束をしたことにはならないでしょう。

この記事自体、「複数の町村長によると」という伝聞調になっているので、その時点で、情報の曖昧さが残ってしまっている感があります。それもスッキリしない原因ではありますが、それにしても、その伝聞を「政権交代しても必ず守ることを約束した」と表現するのは、あまりにもお粗末な気がしてなりません。

仮にも、記事を書かれたのは、言葉を使うことを職業とした記者さんのはずです。そうであるならば、聞き取った日本語の意味を正しく理解し、それを正確に表現する必要があるでしょう。文章を書くにあたって、いろいろと思惑があったり、思い入れがあるのかもしれませんが、それによって事実を捻じ曲げるような書き方は、プロとしていかがなものかと思います。

あるいは、こうした方々ばかりが「マスコミ」として、社会の総意を代弁したり、それを伝えたりという役割を担うには、少々、厳しい時代になってきているのかもしれません。また、それを読んだり、聞いたりする私たち側も、そうした情報に対して、注意深く接していかなければいけないということでしょう。

そういう意味で、次の時代に向けた、新しいメディアシステムの構築は必須なのだと思います。

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個人信用の経済システム

2011年11月28日 | 社会

私にはお金がありません。けっして、貧乏だとは言いませんが、お金に余裕がある生活をしているわけではありません。ただし、精神的に追い込まれているかというと、まったく違います。それは、常に私には、社会に対して果たす役割があり、それを正当に評価してくれている人々が、必ず周りにいるであろうと信じているからです。つまり、そういう人々に支えられ、何だかんだ言いながら、私はきちんとあるべき生活水準を保つことができるだろうと思うのです。したがって私は、今後も私のすべき事をきちんとしてさえいれば、生活に苦労するようなことはないだろうと思っています。

人々は、実に多様なかたちで、社会に対して貢献をしています。それを分かりやすく数値化して、交換できるようにしたのが、貨幣制度でしょう。つまり、私が社会に役立つことをしていると思う人が周りにいてくれれば、それが貨幣制度に基づいて数値化され、何らかの報酬をいただくことになり、結果として私の生活は成り立つわけです。

しかし一方で、私は、その評価してくれる人にお金がなくても構わないと思っています。つまり、今の貨幣制度における「お金」というかたちでいただけなくても、いいだろうと思うわけです。例えば、「竹内はとてもよくやってくれているので、何かしてやろう」と思ってくれる人がいて、たとえその人にお金がないとしても、食べ物があればそれをいただくことができます。それが食べ物に限らず、権利だったり、作品だったり、便益だったり、知恵だったり・・・そうしたものが寄り集まることで、最終的に私の生活は成り立ち得ると思うのです。

つまり、私の生活は(サービスなどを含む)多様な財によって成り立つわけですが、それらの財を、貨幣を介して頂戴するのではなく、直接、そのままの財として提供してもらえる人々の協力によって、成立することも可能だろうということです。このことは、実は至極当たり前の話です。何故なら、価値交換の基本は物々交換だからです。多様な財を扱っている無数の人々と直接結びつくことができれば、究極的に物々交換でも生活が成り立つというのは、それほど不思議な話ではありません。

現代社会では、それらの価値を数値化し、分かりやすく取引できるように各国家の信用に基づいた貨幣制度があります。しかし、これはツールに過ぎず、取引の本質は、「その人に対価を払う」という行為自体にあるとも言えます。そう考えた場合、必ずしも、国家の信用に基づいた貨幣制度を介す必要はないかもしれません。あるいは、価値交換の利便性を考慮し、たとえそれらを数値化するにしても、国家の信用に基づいた貨幣制度によって数値化させる必要性は消え失せる可能性があります。

極論すれば、無数の人々を直接結びつけるネットワークシステムを構築し、各人の社会貢献の結果を可視化させ、それを独自に数値化させるシステムでまとめあげることができれば、国家の信用に基づいた貨幣制度は要らなくなると言えるわけです。そしてその場合、数値は(国家など)ある特定の組織の信用というよりも、各人の信用の集積の結果、成り立つものであると言えるでしょう。

国家の信用に基づいた貨幣制度が、役に立たないと言っているわけではありません。これはこれで、長い人類の歴史の中で生み出された知恵の結晶であり、非常に便利なものだと思っています。しかし一方で、世界中で国家財政の危機が叫ばれるようになるなか、国家の信用に基づいた貨幣経済の仕組みにばかり頼るのではいけないとも思うのです。そう考えたとき、経済の本質とは何かを見極め、各人の価値や信用を可視化させるネットワークの構築こそが、次の時代に求められるのではないかと思うのでした。

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国家信用と貨幣システム

2011年11月05日 | 社会

最近、ギリシャの財政危機に関する報道が多くなされています。いろいろな見方があるとは思いますが、とりわけギリシャという国は、財政破綻してもおかしくない様々な問題を抱えていたという見方があるようです。それはそれなりに的を射ている指摘なのでしょう。

ただ私は、今回のギリシャ問題を、単にギリシャの特殊な事情だけで説明するのではなく、地球上のあらゆる国家に対しても通じる問題をも包含した視点から眺める必要があるのではないかと思っています。それは、国家の信用に基づいて成り立っている現在の貨幣システムの限界です。

人類は長らく、金や銀といった貴金属に価値を置いて、これらを交換することで経済を回すというかたちをとってきました。それはつい最近まで、ブレトンウッズ体制という金本位制でも行われていたものであり、具体的には、金1オンスを35米ドルに固定し、その米ドルに対して各国通貨の交換レートを定めたものでした。この時、日本の円は1米ドルあたり360円とされていました。この制度に基づけば、各国通貨の価値は、すべて金によって測れるのであり、各国で流通している貨幣は、すべて金によって裏付けがとれる状態にあったとも言うことができるわけです。

しかし、1971年のニクソンショックにより米ドルと金の兌換は停止されました。これによって、米ドルは金本位制ではなくなったわけです。米ドルの金兌換停止に続いて、米ドルと各国通貨間も変動相場制になりました。現在では、各国通貨同士や通貨と金とを結ぶものが、各外国為替市場であったり、金取引市場であったりするのであり、各国通貨は、謂わばそれぞれの国家の信用によって成り立つ状態になったわけです。このことは、それまでの貨幣が金によって裏付けされていたものであったのに対して、国家の信用によって裏付けされた貨幣へと様変わりしていったことを意味します。

今回のギリシャの問題は、その国家財政が破綻するということから、国家信用が失墜するために引き起こされる通貨危機にも直結するわけです。

ただし、国家の信用不安なるものが、ギリシャだけで起こっているとは言い難いのが現状です。近頃、盛んに言われる「歴史的円高」は、日本の円が高く評価されているというよりは、アメリカをはじめとした諸外国の財政状態が思わしくなく、相対的に円の価値が上がっているだけと言えるでしょう。私たち日本人は、日本の財政状態が良くないことくらいよく知っています。それにも関わらず、これだけの円高になるというのは、その良くない日本以上に財政状態が芳しくない国家が増えているということです(日本国債は、ほとんど海外で売れていないため、全体的な流れとしての「世界不況」の影響を受けにくいという事情もあるのかもしれません)。そのマシだとされている日本の国家財政も、かなり大変なことになっています。これを健全化するというのは、極めて難しいことでしょう。言い換えれば、それだけ世界中の国家、あるいは国家財政に対する信用不安というのが、大きく広がってきていると言えるわけです。

私は、国家や国家財政に対して、過度な期待をしてはならないと考えています。もっと言えば、国家の信用に基づいた貨幣システムというのは、早晩、限界を迎えるのではないかと思っています。例えば、アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)議長だったグリーンスパン氏は、金本位制を主張する人物としても有名です。おそらく彼は、国家の信用に基づいた現在の貨幣システムが、早晩破綻するであろうことを見通しているのではないかと考えます。そして、仮にそうだとすると、彼と私の見解は一致していることになります。

ただし、次の貨幣システムのかたちについては、彼と私とではビジョンが異なります。私は、けっして金本位制になるとは思っていません。私が考えているのは、国家ではなく個人の信用によって成り立つ貨幣システムです。これは、まったく新しい考え方であり、その実現には高度に発達したITネットワークが必要になります。その内容については、またいろいろと説明書きを要するので、ここでは詳述を避けます(「個人信用の経済システム」参照)が、いずれにしても、国家の信用によって成り立つ現在の貨幣システムには、過度な期待は禁物だろうというのがポイントです。

国家は大事です。先人たちが作り上げてきたこの枠組みには、その歴史の分だけの重みがあります。そして、それに基づく貨幣システムを無視することはけっしてできません。しかし、それを妄信することなく少し距離を置いて、その限界と次のかたちを考えるということも、同じくらい大切なことではないかと思うのです。

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批判対象を持つ国民の実力

2011年04月14日 | 社会

福島原子力発電所での災害について、政府や東京電力に対する批判が強まっています。

そのなかには、原発で何が起こっているのか、正確な情報が開示されていないのではないかという疑念の声が多く聞こえてきます。つまり、「真実を教えてもらえないから不安になり、一層混乱をきたすのだ」という指摘です。たしかに、例えば放射能が人体に与える影響というのは、「影響がある」、「ない」とはっきり言えるようなものではなく、確率論的、統計論的な情報から、各人がそれを判断すべきものではないかとも考えます。そうした意味で、十分なデータの提供がないまま、「ただちに影響はない」とだけ言うのは、問題であると言えるでしょう。これのみならず、建屋の爆発や汚染水に関することなど、原発で起こっている事象に関する発表のタイミングや報道されてくる内容を見る限り、「情報がきちんと開示されていない」という批判には、それなりの正当性があるように思われます。

私としては、こうした批判によって、災害対応に関わる政府や東京電力の責任者の方々が、誠実に対応していただけるようになるのであれば、それは大変結構なことではないかと考えています。

ただし一方で、情報が正しく開示されることによって、パニックを起こす人々がいるのも事実でしょう。震災直後、被災地から離れた場所で起こった買い占め現象など、まさにそれを証明しています。ショッキングな情報によって、パニックが起こるのであれば、それを回避するために、極力ショッキングな情報を伏せようとし、結果として正しい情報が開示されなくなるということは十分に考えられます。

冒頭の政府や東京電力に対する批判については、彼ら自身の保身という側面があるかもしれません(そうだとしたら、十分に責められるべきです)が、社会を混乱させないようにという彼らなりの気遣いもあるような気がしてなりません。

実際のところ、政府や東京電力の真意がどこにあるかは分かりません。しかし少なくとも、私自身、国民(あるいは消費者)の一人として、同じ国民のなかに、「パニックを起こす人々」がいる以上、(あくまでも可能性の問題だとしても)それに気遣ったかもしれない政府や東京電力の関係者の方々ばかりを、一方的に責めるのは難しいと思っています。逆の言い方をすれば、国民一人一人が、パニックを起こさぬように自らを律することは極めて重要であり、その結果として、国民全体が律されていなければ、政府や東京電力ばかりを一方的に責めることはできないだろうということです。

けっして、無批判を推奨するわけではありません。

批判することも非常に大切なことです。繰り返しですが、そのことよって政府や東京電力の責任者の方々が、きちんとした対応をとってくれるようになるかもしれませんので、それ自体を否定することはできません。

ただ、批判をする以上、政府や東京電力の対応が、自分たち国民の言動によって決定づけられている可能性についても、十分理解しておく必要があるのではないかとも思うのです。今日の政府や東京電力の対応を巡る議論や批判は、買い占め現象が発生してしまうような、今日の国民レベルを示しているのかもしれません。それが今の日本国民の実力であるという可能性です。

私は一人の国民として、上記から誰かを批判するつもりはありません。一度批判を始めたら、全てを批判しなければいけなくなります。むしろ、今回のこうした一連の議論は、現在の国民、国家の姿を映し出しているものと謙虚に受け止めたいと思っています。大切なのは、それを受け入れた上で、次の時代に求められる国民の資質とは何か、国家ビジョンとはいかにあるべきかについて考えることではないかと思うのです。

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組織の膿とがんとの見極め

2011年02月15日 | 社会

相撲協会の八百長問題で、全容解明が叫ばれています。こういう問題について、妥協なく調査を進め、けじめをつけるというのは、もちろん大切なことだと思います。ただこの問題、個人的には全容解明などというのは、ほとんど無理なのではないかというのが実感です。

この問題の解決方法は二つで、一つは全容解明を求めずに適当な線で許すか、もう一つは徹底的な全容解明をさせて、それによって協会を潰すということではないかという気がしてなりません(私個人の立場は、相撲にさほど強い思い入れもないため、前者に近いものです)。

全容解明というのは、要は情報公開です。しかし、情報公開をしないことで生き永らえてきた組織というのは、情報公開をしてしまったら、一旦は死ぬしかないのではと思うのです。

「膿を出す」という表現があります。情報公開をして膿を出し、次の体制で組織を回していくということが可能なケースもあるでしょう。しかしその場合、その膿が「膿レベル」でなければなりません。そうした問題を先送りにして、「情報公開をしないことで生き永らえる」という選択をした組織は、その膿と組織が一体化してしまい、それがもはや「膿レベル」ではなく、大きな「がん細胞レベル」にまで発展してしまいます。情報公開をしないで生き永らえるというのは、それを社会が許さない限り、結果として、その膿をがん細胞に育ててしまい、体全体がそれに蝕まれるようなかたちになるのではないかというのが、「そういう組織は一旦死ぬしかない」という言葉の真意です。

現在、相撲協会を揺るがしている問題は、随分昔から疑問視されてきたものであり、もはや「膿レベル」ではなく、とても大きな「がん細胞レベル」にまで発展してしまっているのではないかという気がします。そういう意味で、この問題は、どこか適当な線で社会が許す(妥協する)か、あるいは協会を潰すかの二者択一になっていくのではないかというのが、私が感じるところなのです。

ところで、こうしたことは、相撲協会に限らず、あらゆる組織について言えることでもあるでしょう。

先日、上海に行ってきました。中国では、当局による情報統制が厳しく、ある特定のインターネットサイトにはアクセスできないようになっていました。そのせいで、私自身、ネット生活には大変苦労をしました。おそらく、チベット問題や尖閣諸島での漁船衝突事件など、インターネット上の情報を統制しないと、国内の世論をコントロールできなくなってきたということでしょう。

つまり、中国政府は、情報公開をしないことで生き永らえているわけです。これが許される時代というのはあります。今までは、そういう時代であったと言えるかもしれません。しかし、情報化が進み、同時に国家が抱える問題が深刻化すればするほど、情報公開が求められるフェーズに移行していくことになるでしょう。つまり、中国政府の情報公開をしないという行為は、次第に社会や世界から許されなくなり、同時に当局が膿を出すという選択をしない以上、それをがん細胞に育てるという選択をしているということになるわけです。そういう意味で、中国という国家を過大に評価することなく、冷静にその実力や限界を見極めるというのは、とても重要なことであると思います。

さらに、同じ国家という意味では、日本についても同じことが言えるでしょう。既存の組織が、組織として成り立ち続けるためには、数多くの公言できない事情があるとみてよいと思います。私自身、日本の国家にも、大いにそうした事情があるものと考えています。それは事の善悪ではなく、その組織が抱える限界を知るという意味で、とても大切なことだろうと考えます(「与件として考えない天皇制」等参照)。

無条件、情報公開をせよということではありません。それをしなくても許されるケースや時代というのがあるでしょう。ただし、これからの情報化社会というのは、とても多くのことについて情報公開が求められる時代の到来を意味しているわけです。組織には、それが成り立つ背景があり、存続し続けるための公言できない事情が多々あるものです。これからの時代、それをそのままにしておくことが難しくなるということだと思います。

私たち個人は、いろいろな組織に所属をしますが、それに縛られ続けるものではありません。それぞれの立場から、そうした組織の限界や問題について、それらが膿なのかがん細胞なのかを冷静に見極めながら、これからの新しい組織を創っていく、あるいは新しい時代を切り開いていくということが、何よりも重要なのだろうと思うのでした。

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「タイガーマスク」でない道

2011年01月12日 | 社会

タイガーマスクからのランドセルのプレゼントが、社会現象化しているようです。これはこれで、大変結構なことだと思います。人間が生きる意味は、他人の役に立つことであり、人間はそれを喜びとして生きることができる生き物です。他人の役に立つというのは、広く考えれば社会貢献であるとも言えます。人間は、社会貢献を生きがいに生きることができるのでしょう。

ただし、この「タイガーマスク現象」はひとつのかたちでしかありません。

-自分は、自分のやり方で、他人の役に立っている-

こう胸を張って言い切れる人は、別に「タイガーマスク」になる必要はありません。自分なりの社会貢献をしていけばいいのです。

逆に、これを見いだせない方々は、人生、少々もったいないことをしているかもしれません。焦る必要はありませんが、それに値するものを、じっくりと考えていく必要があるような気がします(「遅過ぎるということはない」参照)。

先日、ある人とこうした社会貢献の話をしたところ、「土地を持っていて、その不動産収入だけで暮らしている人は社会貢献していないのか?」という質問を受けました。私の答えは、「否」です。

例えば、駅前の土地を持っていて、そこを駐車場にして不動産収入を得ている人は、駅を利用する人たちに車を停めるスペースを提供するという社会貢献をしているわけです。これはこれで、ひとつの立派な社会貢献と言えるでしょう。少々違う話ですが、こうしたことは産油国特有の仕組みで生計を立てているような方々に対しても、共通して言えることかもしれません。

ポイントは、それで「他人の役に立っている」と胸を張って言い切れるかということです。「駅を利用する人々に便益を与えている」という社会貢献で満足するのであれば、それはそれです。それこそが、その人の人生の選択なのですから、それを否定しようはありません。

しかし、それだけでは満足できず、胸を張って「自分は社会貢献している」と言い切れない人々は、違う何かを探さなければならないはずです。それはつまり、もっと大きな社会貢献、もっと多くの人々に役に立つための何かを探すということです。それはそれで、ひとつの大切な人生の選択でしょう。私としては、そうしたより大きな社会貢献や、生きがいを求めることを勧めておきたいと思います(「大きな矛盾を抱えるべし」参照)。そしてこのことは、より強い自分自身を保つための原動力にもなるものと考えます(「自分を大切にしていい理由」参照)。

私は、私なりの問題意識を持って、私自身のやり方で社会貢献をしていこうと考えています(「子供たちへのバトンタッチ」、「産業から始める理由」等参照)。そうした活動をしているなかで、今、話題に上がっているような「タイガーマスク現象」は、明らかに自分ではできないことであり、自分がしようとも思わない活動であると再認識させられます。要は役割分担であり、裏を返せば、自分は自分のやり方を通すつもりだし、そのやり方に対して自ら責任を持って生きていくということでもあります。

社会貢献のかたちは、人それぞれです。少なくとも、私は「タイガーマスク」にはなれません。そして、私と同じような人たちは、きっとたくさんいるのではないかと思うのです。私としては、そういう人たちが、頑張って「タイガーマスク」になるのではなく、各々が堂々と、それとは違うやり方で社会貢献できる道を見つけることができたら、それはその人にとっても、社会にとっても、非常にいい効果を生むのではないかと思います。

各人が胸を張って言い切れる社会貢献の実現、各人がそれを率先してできる生き方をすること・・・これがポイントなのでしょう(「全員が真のリーダーたれ」参照)。

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凄くない治世者の厳重警護

2010年11月16日 | 社会

先日、横浜で開催されたAPEC、警備体制が大変のようでした。私は、直接、検問等を受けることはありませんでしたが、周辺の高速道路等で、そのピリピリした雰囲気を感じ取っていました。

ところで今回、各国首脳といった「凄い人たち」が集まったから警護が凄かったとみるべきかについては極めて疑問です。少なくとも、私はそうではないと思っています。

仮に、各国政府首脳が治世者だとして、この人たちを護衛しないといけないというのは、世界がうまく治まっていない、彼らに害を及ぼしたいと思う人たちがたくさんいるということで、そうした問題が山積しているということでもあります。

領土、紛争、宗教、貧困・・・国家の枠組みだけでは、解決しない問題があるのも事実でしょう。しかし一方で、国家が背負ってきた歴史を含めて、国家首脳たる治世者たちに責任があることも間違いありません。即ち、警護を厳重にせざるを得ないということは、それだけ治世者が治世者として無能であるということでもあると言えるわけです。つまり、「凄い人たち」ではないということです。真に凄い治世者であれば、世はよく治まり、物々しい警護なんて必要ないはずです。

もちろん、現時点では、いろいろと仕方がないところもあると思います。一般的な見方として、今日の世界で、治世者たちの警護を厳重にせざるを得ない状況、十分に理解します。有権者の一人として、そんな「凄くない治世者」を許してしまっている責任も感じます。

しかし、その現状に甘んじていてはいけません。

これから先の世界は、大きく変わるでしょう。それは、もっと究極的な姿に変化していくのだろうと思います(「性善説と性悪説の決着」等参照)。その未来における治世者たちの姿、警備のあり方というのは、横浜でみられたそれと、だいぶ異なるような気がするのでした。

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高めるべき成田の役割

2010年10月21日 | 社会

今日から、羽田空港の新国際ターミナルが運用開始ということで、ずいぶんと話題になっているようです。羽田は、首都圏でのアクセスも良いですし、これまでの成田空港に比べたら、格段に使いやすいと言えるのではないかと思います。

一方で、成田空港では、羽田空港の動きに対して、発着枠を増やす等の対抗策をとることによって、利用客の確保を図っているようです。私自身、こうした努力自体、それなりに評価するべきだろうと思います。しかし一方で、これによって、成田が盛り返すというのは、いささか楽観論に過ぎるのではないかとも考えます。それは、業界が業界なりの努力をすべきながらも、その枠組みの中だけでは、問題の解決に至らない局面があるということも、また事実だからです。

つまり、この首都圏の交通インフラを巡る問題に関して言えば、交通インフラそのものの問題というよりも、そもそも、当該交通インフラを使いたい(あるいは使わざるを得ない)環境になっているのかという点が、より重要なのではないかと思うのです。そうした観点からの施策は、成田空港のみならず、社会実験と称して、わざわざ行政が予算をとって値下げをしている、東京湾アクアラインのような交通インフラにとっても共通して言えることでしょう。

この点、既に本ブログの中でも述べている通りです(「値下げ以上の知恵」、「負担から投資への発想」)。即ち、自ずとその交通インフラを使いたくなるような環境作り、社会投資が、より重要になってくるのではないかということです。具体策については、既に繰り返し述べている通りですので、詳述はいたしません。端的に述べるならば、日本のコンテンツを最大限に活かした一大観光エリアを造成するということです(「別世界の演出ができる国」、「観光立国日本へのヒント」、「コミケとディズニーランド」等参照)。

こうした施策によって、成田空港は観光というテーマで差別化ができるようになります。羽田空港は、首都圏からのアクセスが申し分なく、その利便性は覆しようがありません。したがって、成田空港は、羽田空港にはない別のテーマを掲げるわけです。つまり、成田空港を日本観光の玄関口として、外国からの大勢の観光客を招き寄せる拠点として活用し、一方で、首都圏からのアクセスについては、東京湾アクアラインのようなインフラを最大限に活かして、その近さを訴えるわけです。

もちろん、こうした計画の実施には、膨大な投資を必要とします。しかし、この問題は小さく成田だけの問題には留まりません。これから、世界のリーダーともなるべき日本という国が、いかにして世界に対して自国の文化を発信していくか、さらにはそれをどのようにしてビジネスに繋げていくかということとも大いに関係することなのです。これは、とても重要な世界的テーマです。そうした問題意識に立った上で、日本が持っている資産を最大限に活用するための投資と考えれば、その膨大な投資も十分に合理的なものとなり得るでしょう。

蛇足ですが、先日、箱根に行ってきた弟がお土産として買ってきたのは、エヴァンゲリオンのクッキーでした。これは、エヴァンゲリオンというアニメ作品が、箱根を舞台にしているからですが、アニメをひとつの資産として活用している一例だろうと思います。もちろん、この程度では、まだまだ不十分です。本来ならば、エヴァンゲリオンのオブジェが(等身大ではなくとも)ひとつくらいあってもいいのではないかと思います。観光という視点から考えた時、日本には、とてつもなく良質かつ大量な資産が眠っていると言えるのです(「日本に眠る宝物」等参照)。

本日、羽田空港の新国際ターミナルがオープンしましたが、私なりには、そんなことを考えつつ、成田空港も大いに役割があるのではないかと思うのでした。

《おまけ》
個人的には、房総半島に日本のコンテンツを活かしたテーマパーク群があって、その中には、例えばガンダムワールドのようなものができたらと思っています。一攫千金のアメリカンドリームを象徴するレジャー都市・ラスベガスには、巨大なホテル群があります。そこにはピラミッドのかたちをしたホテルもあり、その中で泊まれるようにもなっています。翻って、このガンダムワールドには、お台場に出現したような等身大のガンダムはもちろん、ジオン軍のモビルスーツもずらりとあって、ホテルはホワイトベース(戦艦)というのが面白いでしょう。ホテルの中に入ると、戦闘員の居室のようなルームに宿泊できるようになっていて、浴衣の代わりに連邦軍の軍服が着られるとか・・・。まぁとにかく、こういう施設があったら、とっても楽しいと思うのです。

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甘やかさない力量の重要性

2010年10月04日 | 社会

尖閣諸島の問題を巡って、日中政府間での駆け引きが続いています。事の成り行きや、それに対する意見等については、既にいろいろなところで記事化されているため、敢えてここで取り上げる必要はないように思います。

読売新聞の世論調査によると、本問題に対する中国側の一連の対応について89%が行き過ぎと考えており、中国からの謝罪と賠償の要求については94%が納得できないと答え、中国を信頼しているかという問いに対しては84%もの人々が信頼していないとの結果が出ています。

世論調査というのは、一部、マスコミの思惑が関与するものでもあるでしょうから、これをもって、何かを断ずるつもりはありません。しかし、一方で事ここに至れりという印象です。

今日の中国政府の危さについては、既に本ブログでも述べている通りです(「信頼に値する国家」)。そして、今回の件に関して言えば、こうした問題の経緯があるなかで、日本に謝罪と賠償を求めてくるということからすると、彼らが訴える歴史問題等、聞く耳を持つに値しないことの根拠として、十分なのではないかという気さえしてきます。要は、いい加減な事をでっち上げておいて、隙あらば、それに乗じて奪うことに長けている方々なのではないかということです。これはこれとして、彼らの性分をきちんと受け入れればよいのかもしれません。

同時に私自身、性善説の立場をとるので、こうした中国政府の問題点について、言論上の攻撃対象にしたり、それをもって「悪」と決めつける考えはありません(もちろん、中国国籍の個人を責める等もってのほかです)。さらに、こうした問題ある中国政府に対して、筋を通すことができないような日本政府であるならば、その図式を成り立たせてしまっている一人の日本国民として、大きな責任を感じます。

筋を通せないというのは、一種の甘えです。それは、通すべき筋が見えないという力不足の可能性を含めて、筋を通すという当たり前のことができないという意味で、甘え以外の何物でもないと言えるからです。

私は国民の一人として、日本政府をそのように甘やかせてしまっている責任を感じていますし、その結果、中国政府を甘やかせてしまっているようにも思うのです。換言すれば、甘えを許してしまっているが故に、日本政府がつけ上がり、その隙に乗じて中国政府がつけ上がっているということでしょう。これ自体、悪い事だとは言いません。ただやはり、こうしたことはお行儀が悪いと思いますし、それはけっして良い事でもないと考えます。これから先、こうした甘えはきちんと正していく必要があるでしょう。

日本という国の良さは、相手の不条理すらも甘んじて受け入れるというところにあると思います。それは、「Noと言えない日本人」という言葉に、象徴されるところでもあります。私は、そうした日本的なところが、大好きです(「「No」と言えないことへの誇り」)。しかし、それが故に、社会に甘えの構造を生み出してしまっているようではいけません。相手を受け入れると同時に、自分を律し、相手を斬るくらいの緊張感もあって然るべきでしょう。

これは、幼い子供に接するのと全く同じ事です。甘えた子供はしつけなければいけません。それが大人の人間であるならば、それも全く同様に扱うべきでしょう。人間社会は、これからの数十年間で、全く違う次元へと移行するように思っています。子供じみた「ゴッコ遊び」からは卒業しなくてはいけません。今日の人間社会に、それを許してしまうような甘えがあるとするならば、それはきちんと排除していく必要があります。

国家間の関係で言えば、甘えている中国政府に対しては、それを正すような日本政府が生まれてこなければなりません。つまり、そうした甘えを正していく力量こそが、これからの時代の政治家にとって、とても重要なのではないかと思うのです。そうした意味で、私たち国民は、そういうリーダーを輩出できるような意識を、きちんと持たなければならないでしょう。併せて、中国国民の側にも同じような意識が生まれてきたら、日中関係を始めとした世界の国家間の関係は、次の時代に向けて、大きく変わっていくのではないかと思います。

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薬としての景気浮揚策

2010年09月08日 | 社会

エコカー補助金が予算の底をつき、期限である9月末を待たずに打ち切られるとの報道がありました。元々、今年の3月で終了するものだったといいますから、9月までもったというだけで、随分頑張ったと考えてもいいのではないかと思います。

ところで、こうした景気浮揚策では、国の経済や産業の姿が根本から変わることはないと考えるべきでしょう。景気浮揚策なるものは、弱った経済や産業を一時的に回復させる薬のようなものです。財源の問題等もあるため、この薬を飲み続けることもできません。

健康は、必ずしも薬によって成るわけではないのです。

私たちの肉体において、健康は内なるエネルギーが活性化し、それが外に溢れ出た時に達成されるものだと考えられます。病気に負けないように、薬を服用するというのは、健康を取り戻すための方法として、間違いなく有効です。しかし、薬によってのみ健康が手に入るということではありません。薬で病気の症状を抑えつつ、内なるエネルギーを活性化させ、体力をつけることによって、初めて健康を手にすることができるわけです。

このことを景気浮揚策の話に戻して捉え直すと、経済や産業が内なるエネルギーを活性化させるというのは、大きな社会ニーズにきちんと合致したサービスや製品を市場に出していくことだと言えます。それによって、国の経済や産業は、景気浮揚策を必要としない、健全なかたちに生まれ変われるわけです。したがって、本質的には大きな社会ニーズに合致した(自ずと大ヒットして、社会全体を大きく変えていくような)サービスや製品を生み出していくことこそが、何よりも重んじられなければならないのです。少々、批判めいた言い方になりますが、社会ニーズを把握できていない、即ち事業センスを持たない政治家が、「政治主導」という名の下、雇用政策を打ち出すというのは、かなり的を外しているのではないかと思っています。

それはさておき、こうして考えてみれば景気浮揚策というのは、あくまでも経済や産業が、真の活力を取り戻すための時間稼ぎに過ぎないとも言えるわけです。経済や産業を担う人々が、景気浮揚策の本質を見失い、ただそれに振り回されているだけでは、本当の回復は実現しません。

このあたりの問題について、どうも既出の経済界、産業界の方々には、少なからぬ甘えがあるように思います。それは彼らの限界かもしれません。そして、もちろん私を含めて、未だに結果を示せていない者たちにも、そうした現状に甘んじている部分があることを素直に認めなければいけません。

ただし、私や私の仲間たちは、それに甘んじ続けるつもりもありません。今、打たれている景気浮揚策の類は、私たちが次時代の枠組みを作るための時間稼ぎの「薬」と捉えつつ、着々と自分たちがすべき準備を進めていけばよいのだろうと思っています(「産業から始める理由」参照)。そういう意味で、現在のあらゆる景気浮揚策に対しては、心から感謝したいと思います。

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哨戒艦沈没報道への感想

2010年06月10日 | 社会

最近、朝鮮半島情勢に関して、どうも腑に落ちないことがあります。それは他でもなく、韓国の哨戒艦沈没を巡る動向についてです。本日の報道によると、北朝鮮が国連安保理に書簡を送り、哨戒艦沈没は、米国主導の陰謀であると申し立てているようですが、それには一理あるように思うのです。

哨戒艦沈没が起こったのは、2010年3月26日でした。当時、私の家族が韓国にいたこともあり、大変、心配したのを覚えています。

-北朝鮮からの攻撃だったら、戦争になるし困るなぁ・・・-

しかし、その不安は、ひとまず解消されました。それは、当時の報道で、北朝鮮が関与している可能性は低いとされていたからです。

以下は、3月28日の「nikkansports.com」からの引用です(当時は、もっとあちこちで報道されたと思うのですが、どうも今見るとなかなか見当たらず・・・)。

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韓国哨戒艦2つに割れ沈没、不明者捜索

韓国軍は28日、北朝鮮との南北境界水域で沈没した韓国海軍の哨戒艦(1200トン級)について、艦船や航空機を動員し行方不明者46人の捜索を続けた。国防省によると、哨戒艦は爆発が起きた後、船尾からほぼ3分の1のところで船体が2つに割れて沈んだことが新たに判明した。

在韓米軍トップのシャープ司令官は同日、報道資料を通じ、これまでに北朝鮮の軍に「特別な動きはなかった」と言明。沈没に北朝鮮が関与した可能性が低いとの見方を示した。

沈没の原因究明に向け、船体の状況確認などのため韓国海軍の特殊救難隊員が現場海域に潜ったが、激しい潮流のため作業が難航。29日からは米軍の救助艦も捜索に加わるという。

李明博大統領は、哨戒艦沈没後4回目となる安保関係閣僚会議を招集し、原因の徹底調査を指示。鄭雲燦首相を現場に派遣した。政府高官によると、その後の情報分析でも、当時、周辺海域に北朝鮮の軍艦艇が侵入したり、北朝鮮地域から砲撃が行われた形跡はない。

国防省によると、船尾部分は白■島の南西約1・9キロの沈没開始地点で見つかり、船首部分は東南方向に約7・4キロ流されていることが分かった。船尾は爆発直後に沈み、行方不明者のほとんどは船尾にいた兵士とみられる。

韓国政府は日米など6カ国協議関係国に、状況を順次伝えている。

一方、行方不明者の家族の一部は軍艦艇で現場海域を訪れ、捜索の様子を見守ったが、「説明が不十分だ」と不満を募らせている。(共同)

※■は令の右に羽の旧字体

[2010年3月28日23時4分]
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結果として、当初、このように可能性が低いとされていた「北朝鮮からの攻撃」に落ち着いたわけです。私としては、そうであったにもかかわらず、どうして最初に、このような報道がなされたのか、大変、不思議に思えてしまうのです。

そして、いろいろと情報を漁ってみると、実はこの事件、韓国哨戒艦と米国原子力潜水艦の衝突事故だったという話があるようです。その論拠については、既にいろいろな方が、さまざまな視点から書かれているので、ここでは省きます。ただ、私なりには、そのように考えた方が、その後の北朝鮮や米国の反応を含めて、しっくりとくるような気がするのです。

一方で、韓国の主要メディアでは、米国の原子力潜水艦関与説を「怪談」と称して、こうした説の拡散を防ごうとしているように見受けられます。

中央日報(日本語版)では、「米軍核潜水艦と衝突して沈没?…「天安艦怪談」取り締まりへ」と題して、「ソウル地方警察庁サイバー犯罪捜査隊は天安艦沈没事件に関して犠牲将兵の名誉を毀損したり検証されない内容を真実であるかのように流布したりすれば、その行為を厳重に取り締まると明らかにした」と報じています

「怪談」の性質をどのように捉えるかはさておき、 「怪談」が出回るには、それだけの理由があると考えるべきでしょう。それには、この事件を巡る当局のチグハグな対応も含まれると思われます。そしてまた、その「怪談」を厳重に取り締まるというのには、(当局にとっては都合が悪い)それなりの背景があるものと考えます。

マスメディアを通じて発表されるものをどう捉えるかは、それぞれの自由です。これを強制することはできません。ただ少なくとも、それに大衆が乗せられ、戦争という多くの生命が犠牲になるような事態は、避けなければならないと考えます。そしてまた、万が一、その情報が虚偽であった場合には、それを信じた大衆を含めて、その犯罪への加担者となるということを忘れてはならないと思うのです。

そうしたことから、私なりには、マスメディアからの情報に触れる大衆の一人として、常に「多くの生命が犠牲になる可能性」を鑑み、それだけの覚悟と緊張感を持って、マスメディアからの情報に触れなければならないと思うのでした。

《おまけ》
上記のような観点から、今回の件を巡っては、私なりに北朝鮮の言にも一理あるように思っています。ただし、だからと言って、彼らの肩を一方的に持つつもりもありません。彼らの主張が国際社会で通用しないのは、これまでの彼ら自身の言動に起因しているもので、彼ら自身の問題だと考えます。また一方で、これからの日本としては、きちんとした独自の調査能力を有し、それに基づいた意思決定ができる体制を整えることが課題となるでしょう。私としては、そうしたことを含めて、次世代の情報通信システム(次時代インターネット)をきちんと構築しなければならず、それは我々が成すべきことであろうとあらためて強く思うのでした。

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「優秀な若者」たちの氾濫

2010年04月02日 | 社会

新年度のスタートとともに、新社会人の話題が多く取り上げられていました。新しい時代を担う人々として、大いに活躍していただきたいと思います。

一方で、就職できなかった人々も多く、そういう若者はハローワークに通ったり、来年の新卒採用を狙って、わざと留年したりということまでしているようです。

-自分がダメ人間になったような気がします-

就職できなかった若者が、テレビのインタビューに答えていました。これはこれで、大いに悩めばいいのだろうと思います。

先日、とある企業の人事担当の方とお話をしましたが、優秀な学生は、企業間でかなり熾烈な取り合いになるとのことでした。企業にとっては、新規採用となれば、優秀な人材を確保すべきであることは当然のことですし、そこから漏れた学生は、やはり優秀な人材ではないと言うこともできるのだろうと思います。

しかし、私個人としては、それだけが全てではないとも考えます。むしろ、とてつもないパラダイムシフトが予見される今日において、なかなか就職できずに苦労をしている人、今の枠組みで評価されなかった人の方が、これからの時代における優秀な人材となる可能性を秘めているように思うのです。もう少し踏み込んで言えば、これから先、戦後ベンチャーを超えるような巨大ベンチャーが次々と興るべき時代において、「いかに逆境に強いか」が求められる重要な資質なのであり、そういう意味で、現在、就職できずに苦労している若者の方が、就職できてしまった若者たちよりも、リアルに「逆境」を経験しているわけです。これは、将来に向けて、非常に大切な資質を磨いていると見ることもできるでしょう。

こんなことを考える私から見た場合、すんなりと就職できた若者、いわゆる「優秀な若者」には、ほとんど魅力を感じることがなく、一方で就職難で苦労している学生の方が、「優秀な若者」に見えてしまったりします。

例え話として適当かどうかは分かりませんが、日本が将来の道筋を見失いかけ、混迷を極めた幕末の時代、若者の生き方は、いくつかのパターンに分かれたのではないかと思います。そのなかで、結果的には滅びゆく幕藩体制を支える側の勢力のために命を懸けた新撰組のような人々もいました。特段、新撰組の生き方を否定するつもりはありません。ただし、現存の企業に就職して、その中で何とかなるとばかり考える若者がいるとしたら、それは「新撰組ではないか?」と思ってしまったりするのです。そして、私なりに次時代の姿を見据えつつ、現代社会の枠組みの限界を考慮すると、そこに収まらない若者たちに大きな可能性を感じるとともに、大いなる声援を送りたくなるわけです(「軽々に動くことなかれ」参照)。

こうした観点から、報道にもあるように就職浪人が増えるということ自体、過度に悲観するような話ではなく、もしかしたら「優秀な若者」が溢れ返っているということかもしれない点、ちょっと指摘しておきたいと思うのでした。そして、そうした「優秀な若者」たちの氾濫は、いずれ大きな「優秀な若者」たちの反乱となって、世の中を劇的に変えていく原動力になっていくような気がします。

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信頼に値する国家

2010年03月29日 | 社会

国家なるものに、秘密がないとは言いません。国家とは、各々がそれぞれの歴史のなかで、数多くの複雑な事情を抱えつつ生まれたものです。その形成過程においては、とても深刻な問題もあったはずですし、それを隠したり、偽ってみたりということがないことの方が、むしろあり得ないだろうと思います。

しかし、それが即ち、「国家は嘘をついてよい」ということには繋がりません。多くの人々が深い関わりを持つ国家が、誠実であるべきことは自明の理でしょうし、それがこれからの地球規模の問題解決にも不可欠であろうと考えます。然るに、国家運営に関わる方々は、常に誠実な言動が求められるのであり、それが国外においては信頼を得られるようなものでなければならないと考えます。

そうした意味で、日本という国家の運営に関わる方々が誠実に行動しているか、国外から信頼に足る発言をしているかは、極めて重大な問題です。そして、それはあまり胸を張って誇れるような状況にはないため、日本人として、そのような自国の問題を差し置いて、一方的に他国について論じるのは、あまり好ましくないだろうと思います。しかしそれでも、ここ数日、毒入りギョーザ問題を巡り中国に関してなされる報道は、とても看過できるものではないとも感じるのです。

中国の毒入りギョーザ問題に関しては、既にこのブログでも触れた通りです(「「信頼」は自分の問題」参照)。本問題については、基本的に「起きてしまったことは仕方ない」と考えます。ただ一方で、一旦、事が起こってしまった以上、これに対してどのように対応するかが、非常に大きな分かれ道であろうとも思います。私なりには、事件発覚時点で、中国側の説明になかなか納得できない点が散見されながらも、今後の当局の対応に期待したいという思いがありました。

それが今回、完全に裏目に出たように思います。以下、読売新聞からの抜粋です。

======================
その発表では、呂月庭容疑者が事件に使った注射器やメタミドホスを入手したのは、「2007年7、8月」で、同年10月1日、初めて冷凍庫でメタミドホスを注入した後、10月下旬と12月下旬にも同じように注入したとしている。

ところが、08年2月に、福島県内の店舗で同じ有機リン系殺虫剤ジクロルボスが検出された天洋食品製のギョーザは、前年の07年6月に製造されており、一連の薬物混入を、呂容疑者の「単独犯」とする中国公安省の見解では説明がつかない。これについて警察庁幹部は「一方的に発表内容が伝わって来るだけなので、検証しようがない」と困惑した様子で話した。

中国側は、さらに2本の注射器について「工場内の通路脇の下水道内に捨てられていた。今月21日に発見した」と発表したが、「事件から2年もたって、いきなり下水道で見つかったと言われても……」と、別の同庁幹部は首をかしげた。
======================

私としては、中国の誠実な対応を期待していましたが、今回の中国側の発表は、またしても腑に落ちないことだらけです。

中国というのは、広く知られている通り、共産党の一党独裁体制で成り立っている国家です。国内においては、情報統制が強く効いていますし、多少、不自然な説明がなされたとしても、それを国民に押し付けるだけの力があるのでしょう。ただ、そうした行為を国家を跨いでしているとするならば、それは大変心外です。今回の中国側の説明は、日本側から見た時に不自然な点が多く、それらの点については、きちんと真相が解明されなくてはなりません。

少々、論点が変わりますが、今回の中国側の説明が、不自然であるにもかかわらず、彼らにこうした発表を許してしまっているのには、これまでの日本の態度にも責任があるかもしれないと考えます。

日本は、これまで中国政府やその関係者が主張することを、(論拠が乏しいものを含めて)あまり明確に否定するようなことがなかったように思います。これは、日本の良いところでもあるでしょう(「「No」と言えないことへの誇り」参照)。しかし一方で、そのことによって、「日本はいい加減な話をしても受け入れる国」という認識を生んでしまっているようにも思うのです。特に歴史の問題については、中国をはじめとした一部の国々に、そうした日本のイメージを定着させてしまっている可能性がある点、もしかしたら、私たち自身、真摯に反省すべきなのかもしれません。今回の件に限って言えば、少なくとも、中国という国に対して、日本は歴史の問題も含めて、きちんと言うべきことを言うようになる必要があるかもしれないということです。

そういう意味で、日本は日本なりに、今回の中国の対応から学ぶことがあると思いますし、また中国政府やその関係者の方々に対しては、今後、中国という国が信頼に値する国家となるべく、大いに努力していただきたいと思うのでした。

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