常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

論戦できぬ不当な主張

2012年08月23日 | 政治

領土問題に関する議論が、ずいぶんと活発になってきています。本ブログでも、これまで領土問題に関しては、いくつか私見を述べてきました。その中で、竹島については、どちらが是というわけではなく、双方言い分がありながらも、自分の言い分が通らないからといって、武力に訴えるやり方はよろしくないというスタンスをとってきました(「常に問われる国家の品格」参照)。

しかし今回、事の成り行きを見守っていく中で、韓国側の主張には説得力がなく、日本側の言い分が是であると考えるべきであろうと思うに至っています。こう結論を出す理由は、ただ一点、日本から提案された国際司法裁判所への付託に対して、韓国側が全く応じようとしないからです。国際司法裁判所への付託提案は、これまでも何度かなされてきましたが、ことごとく韓国側から拒否されてきました。そして今回も、韓国の外相が「一顧の価値もない」と発言してみたり、挙句、日本側からの正式な親書に対して、何の返答もないまま送り返してくるなど、韓国側には議論をしようとする意思を全く感じません。

考え方は、自由でいいと思います。今、私の手元には、韓国の外交通商部が日本語で作成した「独島」というパンフレットがあります。ここには、竹島が韓国領であるとする論拠が、30数ページにわたって書かれています。これはこれで結構なことでしょう。しかし、領土問題という相手がいるテーマについて、自国の論ばかりをもって、ただ武力を使って占拠するという行為には、何の正当性も見出せません。領土問題で、相手の論を無視してよいというならば、武力侵攻こそ正しいということになります。そんなことが通るはずもありません。韓国が竹島の領有権を主張したいのならば、堂々と日本との議論に向き合うべきです。それができない限りは、論を待たずして、韓国の主張は不当であると断じてよいでしょう。

今、私の手元にあるパンフレットには、竹島問題の国際司法裁判所付託について、これを拒否する理由が以下のように書かれています。

=====================
日本政府の提議は司法手続きを装ったもう一つの虚偽の試みに過ぎない。韓国は独島に対する領有権を持っており、韓国が国際裁判所でこの権利を証明しなければならない理由は何一つない。

日本帝国主義による韓国の主権侵奪は、1910年に簡潔するまで段階的に行われ、1904年日本は強制的に締結した「韓日議定書」や「第1次韓日協約」を通じてすでに韓国に対する実質的な統制権を獲得した。

独島は日本による韓国侵略の最初の犠牲である。日本の独島に対する非合理的で執拗な主張は、韓国国民に日本が再び韓国侵略を試みようとしているのではないかという疑義を抱かせる。韓国国民にとって独島は単なる東海上の島ではなく、韓国主権の象徴である。
=====================

日本側の「正当な司法手続きをしようとする行為」が、どのような虚偽にあたるのか全くもって理解に苦しみます。あるいは、韓国という国では、隣の敷地に建物を建てた人間が訴えられても、「お前の訴えは偽モノだ」で済むのでしょうか。

国際司法が、全て正義であるというつもりはありません。人間の作った仕組みには、必ず何らかの限界があると考えてよいでしょう。ただし、そのことが「国際司法を軽んじてよい」ということには繋がりません。仮に国際司法の仕組みがまやかしであるというのなら、それはそれで結構ですが、それならば、現在の仕組みに対する代替案も同時に出すべきでしょう。韓国外交通商省の報道官は、親書返送の理由として、「日本の主張が極めて不当」と言ったとされていますが、その不当である理由を堂々と国際司法の場で述べてもらいたいところです。述べられないのは、韓国の主張こそが「極めて不当」だからでしょう。繰り返しですが、どんなに強固な理論武装をしたとしても、それを堂々と国際司法で語れない以上、それは論を待たずして、「不当な主張である」と断じてよいと考えます。

竹島が、韓国にとって、独立の象徴であることは理解します。しかし、この問題に対する同国の対応は、あまりに稚拙で身勝手です。今はまず、竹島が国際社会における同国の「稚拙さ」、「身勝手さ」の象徴にならないことを祈るばかりです。

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政治家と官僚の役割分担

2012年02月02日 | 政治

官僚主導の体制を害悪として、「脱官僚」、「政治主導」を標榜する人々がいます。これはこれで、ひとつのかたちなのでしょう。しかし、官僚との協業ができない政治家・政権は、ひとつ間違えれば、単なる傲慢に成り下がります。重要なのは、役割分担でしょう。

「脱官僚」、「政治主導」をスローガンに、国会答弁には政治家のみで対応するという試みもなされました。しかし、この結果透けて見えてくるのは、政治家たちの力量不足でした。

国会の議論を眺めていると、時折、野党から重箱の隅をつつくような質問がなされることがあります。当然、細かいことを把握できていない大臣は答弁に窮し、それをみた野党が、鬼の首をとったかのように騒ぎ立てるということが起こります。これでは、建設的な議論が進みません。

元来、大臣がすべての案件について、詳細まで把握している必要はないものと思われます。国の根幹に関わる重大な意思決定を行うための情報さえ、きちんと把握できていれば、適切な判断はできるはずです。その重大な意思決定をするために必要な情報を大臣が把握しているのか、野党が問いただすのは重要なことです。しかし、それに当たらない質問、あるいは詳細な数字を求めるような質問については、いちいち大臣ではなく、各担当者(官僚)が答えればいいはずです。

そうした官僚と政治家の役割分担(あるいは、官僚の方々の能力)を無視して、安易に「脱官僚」などというスローガンを掲げてしまっては、それらの質問について、大臣をはじめとした政治家が全て答えなければいけないということになります。これができない場合、それはもはや「脱官僚」を標榜した政治家の自業自得と言うほかありません。

そういう意味で、政治家は官僚の方々と、大いに協業しなければいけないのです。そのなかで、政治家が成すべきことは、官僚の方々を惹きつけるだけのきちんとしたビジョンを示すことでしょう。官僚の方々も、官僚である前にそれぞれが一人の国民です。国民を惹きつけるビジョンをもたずして、政治家が、その職責を果たせるはずがありません。ここにこそ、本来あるべき「政治主導」のかたちがあるのではないかと思います。

「脱官僚」、「政治主導」が間違っているとは言いません。戦後からの高度成長時代が過去のものとなり、多くの人々が国の行く末を見失っているなか、何か新しい試みをしようというのは大切なことです。その試みのひとつが、「脱官僚」、「政治主導」という言葉に表れているのでしょう。ただ、そうした大変な国情であるからこそ、なおのこと政治家は、自分たちのビジョンを明確に示し、多くの官僚の方々を巻き込んでいかなければならないのだろうと思います。重要なのは、両者の役割分担なのでしょう。

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良好な関係構築のためのケジメ

2012年01月21日 | 政治

アメリカ議会の公聴会で、さんざん叩かれたトヨタの電子制御システムの欠陥疑惑問題、全米科学アカデミーから「シロ」の判定が出ました。既に、米運輸省からも、欠陥がなかったとする最終報告が出ており、本問題に対する調査は、これで終了ということになるそうです。この問題については、当初から疑念があったので、やはりそうだったのかという印象です(「訴訟大国アメリカの限界」参照)。

それでもまず、調査終了というのは結構なことだと思います。ただ一方で、これで本問題を終わらせるというのでは困るとも思います。公聴会でなされた、あの証言は何だったのか、きちんと説明を求めるべきでしょう。

政府の役割として、自国の産業保護・育成が含まれるのは言うまでもありません。それは、政府による海外への強引な売り込みの類を指すのではなく、この問題で言えば、少なくとも真摯に物作りをしていた自国企業が言いがかりをつけられたとも言えるわけで、このようなことが二度と起こらないように毅然とした態度を取るべきでしょう。それが真面目にやっている自国産業の保護につながるはずです。

外国叩きは、自国の内政問題のはけ口として起こることが多いとも考えられます。トヨタ問題の少し前、アメリカでは大手自動車メーカーの経営が破綻し、これが国有化されるという事態に陥りました。一連のトヨタ叩きには、こうした問題も背景にあったのではないかと推察されます。またトヨタ叩きには、アメリカ議会の公聴会という舞台も使われたわけで、これが政治利用された側面は否定できません。アメリカが政治問題化するというのであれば、日本政府としても、同じようにきちんと政治問題化し、これを外交問題として追求するという姿勢があって然るべきでしょう。それは、トヨタ叩きという個別の件に対する解決のためだけでなく、今後、自国の内政問題のはけ口として、安易な外国叩きをするような国々に対して、日本は屈しないという強い姿勢を示すためでもあります。

毅然とした態度の積み重ねが、これからの世界における日本の立場を強くしていくでしょう。不用意に責めてくる国家、人々に対しては、オープンな議論を通じて、きっちりと責任を取らせることが重要だろうと思います。お互いのためにも、言いがかりは、けっして許してはいけません。

本問題、最終報告書も出て、まずは良かったと思います。しかし、これを単純に過ぎたこととして、水に流してしまうのはよろしくありません。ケジメをつけさせず、ただ許してしまうというのは、また同じ過ちを犯させることにもつながります。これから、国家同士の良好な関係を築いていくためにも、ひとつひとつケジメをつけさせていく作業というのは、とても重要なのではないかと思うのです。

 

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重要な仕事をしている政治家

2011年07月09日 | 政治

菅総理大臣の言動をはじめとした、最近の政治のドタバタ劇を指して、「日本は他の分野で頑張っているのに、政治だけはレベルが低い」などと評する方がいらっしゃいます。言わんとすることは分からないでもないですが、それでも敢えて言うべきは、今の政治のレベルこそが、私自身を含めた日本国民のレベルを示しているということです。

政治のレベルが低いというのは、国民全体のレベルが低いということです。

少々言い方を変えるならば、自分たちが投票して選んでおきながら、その投票行為に対する自らの責任を棚上げしたまま、「裏切られた」、「アイツが悪い」などと言っている、低レベルな国民が数多くいるということになります。そうした国民の無責任さが、今の政治にそのまま表れているとも言えるでしょう。

そういう意味で、菅総理大臣のレベルの低さは見事です。

ただし、物事の見方というのは実に多様です。レベルが低いというのは、ある特定の価値基準からの評価であり、ちょっと違った物差しをあてることで、とても素晴らしい政治家であるという評価も可能でしょう。

私なりに、今の政治家たちは、これからの新しい時代に向けて、政治を国民に返すための仕事を捨て身で行っている、素晴らしい方々という評価もできるのではないかと思います。ここで言う「新しい時代」というのは、「直接民主制の時代」という意味です。

本来の意味での民主制は、直接民主制であることは言うまでもありません。現在、世界中でとられている間接民主制のように、選挙を経た代理人(いわゆる政治家)を立てているのは、空間的・物理的制約から情報伝達や手続き上の支障があるため、個別の法案などの案件について、有権者全員が投票活動を行うというのが事実上不可能だったからです(衆愚政治を避けるために間接民主制をとっているという意見もあろうかと思いますが、たとえ衆愚政治に陥ったとしても、純粋な直接民主制を行えていれば、それも含めて、本来あるべき民主主義の姿であろうと考えます)。つまり、本来ならば直接民主制をとるべきところ、やむなくとっているのが間接民主制なわけです。

しかし、情報通信技術の発達により、これからの時代においても、間接民主制をとり続けなければいけない理由はなくなるかもしれません。いやむしろ、これからの時代における情報通信インフラは、直接民主制を可能にするくらいの利便性を求められて然るべきでしょう。そう考えると、国民ひとりひとりが、有権者としてのきちんとした自覚を求められることになります。間接民主制では、政治の責任を、間に入った代理人に押し付けることができますが、直接民主制の政治においては、誰も責めることができないのです。つまり、それだけ有権者ひとりひとりが、自らの責任を自覚していないといけないということになるわけです。

翻って、今の国民にそれだけの自覚があるかというのが問題です。

長らく間接民主制を使ってきた多くの国民は、それをごく当然のものと捉えてしまっているような気がします。結果として、政治の責任を、間に入った代理人になすりつけるクセがついてしまっているのではと思うのです。それでは、自らが直接的な責任を負わなければならない、直接民主制を使いこなすことはできません。

つまり、国民ひとりひとりが、政治参加に意欲を持ち、それに責任を持とうとする姿勢こそが、これからの時代に求められると思うわけです。

そうした時代の転換期にあって、今の政治家の方々は、自らの政治家としての無能をさらけ出しつつ、国民ひとりひとりの政治参加を呼びかけているとも言えます。少々乱暴な表現になるかもしれませんが、「あんな無能な人でも政治家ができるなら、自分でも政治家ができるだろう」、「アレなら、自分が政治家した方がマシ」と思わせてくれるというのは、将来、直接民主制時代を迎えるかもしれない有権者に対して、必要な政治意識、責任意識を芽生えさせるために、とても重要なことと言えるのです。そうした重要な仕事を、「無能」、「低レベル」というネガティブな評価を受けつつ、身を削りながら進めている政治家の方々が、素晴らしくないはずがありません。

今の政治が酷いという主張はよく分かります。しかし、そうやって他者を責めてばかりいても、何も好転しないでしょう。次の時代を見据えつつ、国民ひとりひとりが、淡々と自ら為すべきことを進めていれば、政治家は政治家なりに、とても熱心に重要な仕事をしていると思えるのではないかと思うのでした。

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大虐殺の全地球的議論

2011年03月10日 | 政治

今日は、東京大空襲があった日です。東京大空襲では、10万人近い方々が亡くなったとされています。そして、この攻撃は、アメリカによる無差別爆撃であるという点で、大変、重大な問題を孕んでいたといえます。ここで、敢えて「孕んでいた」という過去形を使ったのは、既にこの問題が、サンフランシスコ平和条約等、国際社会における戦後処理の過程の中で、一旦の決着がつけられているからです。

翻って、アジアに目を移してみると、一部の国から、日本による民間人大量虐殺があったというような批判や主張が見受けられます。そうした議論を全否定するつもりはありません。ただし、アジアにおける日本加害者論については、まずもって根拠となる事実認識がはっきりしないところもあり、そうしたことをきちんと検証していくことが、大切であると思われます。そして、何よりも重要なのは、そうしたアジアにおける問題も、ごく一部のケースを除いて、基本的に各国との戦後処理問題が終結しており、現在の政府にとっては、ほとんど外交イシューになり得ないということです。

そういう意味で、こうした問題について、外交要素や力学が働くというのは、けっしてあってはならないことだろうと考えます。

一方で、こうした過去の問題について、学術的観点から研究や検証を行っていくというのは、あって然るべきでしょう。そこに言論の自由があるのも、至極当然だろうと思います。しかし、そうした学術的観点からの問題整理をする上で、グローバルな視点、世界のボーダレス化に相応しい視点というのは、非常に重要ではないかというのが私見です。

兎角、アジアの中における日本責任論は、アジアに限定された世界観の中で展開されているような気がしてなりません。しかし、そのように責任を問われるべき行為というのは、全地球的規模で検証されるべきものであり、それこそがグローバルやボーダレスと呼ばれるようになって久しい世界において、極めて当然ではないかと思うのです。

即ち、グローバルという視点から、日本の責任を論じるのであれば、これと同時に、東京大空襲のようなアメリカの無差別爆撃による民間人大量虐殺の責任についても、併せて論じられるべきではないかということです。グローバルな世界観が定着した現代において、アジアの中の日本責任論だけでは、問題の全体像や本質は見えてこないでしょう。したがって、仮に日本の政治家が、学術的な意味合いで、こうした問題について言及するにしても、そうしたグローバルな視点を持って発言すべきではないかと考えます。

さらにボーダレスという観点からは、例えば中国共産党による文化大革命のような、中国国内における大虐殺の責任について論じることも軽視できなくなります。文化大革命では、1000万人以上の人々が犠牲になったとも言われています。情報のボーダレス化が進めば、議論や論点のボーダレス化が進むというのも、とても自然なことです。従来であれば、内政干渉とされ得るような海外からの議論や指摘も、ボーダレス化が進むことで、それらが重大な意味を持つようになるわけです。中国共産党が、自分のことを棚に上げて、日本責任論ばかりを論じるようなわけにいかなくなるというのが、世界のボーダレス化がもたらすひとつの効果かもしれません。このことは、中国に限らず、内政問題のガス抜きに、日本責任論を外交問題化させるという一部の外国政府の手法に、大きな影響を及ぼし得ます。日本の政治家は、外交イシューとしてではなく、学術的な意味での日本責任論についても、安易に振り回されなくなるでしょう。

過去の問題を、あれこれ論ってネガティブな発想をしていくというのは、未来を生きるべき私たちにとって、必ずしも良いことではないと思います。東京大空襲の日に、過去のアメリカの責任ばかりを論じるのもフェアではないとも考えます。ただし仮にそうした問題について論じようというのであれば、上述のようなグローバル、ボーダレスといった全地球的視点が、今後、とても重要になってくるのではないかと思うのでした。

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2010年参院選の結果

2010年07月13日 | 政治

先日の参院選の結果、イメージ通り過ぎて、面白すぎます。以下、私が「旧時代政治終焉のシナリオ」で整理した「政治」が終わるまでのシナリオです。

第一段階:力があってビジョンを失った人々(自民党)
第二段階:それなりの力があってビジョンがない人々(民主党)
第三段階:力もビジョンもない人々(その他小政党、無所属)
 ※「力」については、時を追う毎に無力化していくと思われますが・・・

今回の選挙結果は、上記の記事のなかでも述べている、軽い揺り戻し現象を起こしつつ、第三段階への予兆が見え始めていると考えます。

即ち、「民主党の過半数割れと自民党の粘り」が「軽い揺り戻し現象」であり、「みんなの党の躍進」が「第三段階への予兆」です。

近い将来、みんなの党のような政党が、政権の中枢に入り込んでいくことでしょう。それによって、ようやく旧時代政治が最終段階に入ります。そしてさらに、それらの政党でも立ち行かなくなって、はじめて、新しい理念を持ち、新しい時代を切り開く政治家たちが誕生することでしょう。

そこでの政治は、これまでの常識をひっくり返す姿になっていると思います。

極めて順調な感じがしており、とてもワクワクします。

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ダイレクトメディアと政治

2010年06月28日 | 政治

民主党の方々が、時折、マスコミ報道について、批判されることを耳にします。お気持ち、分からないでもないですし、マスコミ報道に問題がないとは言いません(だからこそ、私自身、新しいメディアシステムを構築しようとしています)。

「私は(各党に消費税の議論を)呼びかけると申し上げたが、皆さんが書いている見出しだけ読むと書いていない。もうちょっと正確に言ってほしい」

菅直人さんの「消費税発言」の真意が、どこにあるのか分かりません。ただ、ご本人がそうおっしゃる以上、報道のかたちに何かしらの問題があるのでしょう。

しかし一方で、そうであるならば、そうした批判をされるご自身たちが、直接、情報発信するための努力をしているのかを問う必要もあるだろうと思います。

今やコンピューターとインターネットの普及によって、誰もが簡単に情報発信できる社会になりました。ブログやら、Twitterやらのツールを使えば、マスコミの手を経ることなく、ダイレクトに国民に声を届けることができるわけです。特に元来、政治家の方々が理解すべき日本の成長戦略を考える上で、基本的なITの知識や感性は不可欠です。そういう意味で、そうしたダイレクトメディアを使いこなせないというのは、まったく言い訳になりません。

逆の言い方をすると、そうした努力をされていない方々に、マスコミ批判が多いようにも思います。もしかすると、ダイレクト発信ができないが故に、マスコミでの情報発信に頼らざるを得ず、だからこそ、思うように情報発信をしてくれないマスコミを批判したくなるのかもしれません。そのあたりの原因分析はさておき、少なくとも、他者批判の前にすべきことがあることだけは確かでしょう。

蛇足ですが、最近の菅さんの発言で焦点が当たり始めている、消費税引上げの議論に関しては、率直に「よく言った」と思っています。過去、ありもしない財源を「ある」と言ってしまった方に比べると、随分と真面目に財政再建を考えているのではないかと思うのです。バラ色の未来像を示すことも重要ですが、それがないのであれば、甘い言葉で国民を惑わすのではなく、厳しい現実を国民に突き付けることも、政治家の大切な役割でしょう。

本論に戻って、こうしたダイレクトメディアと政治の問題は、必ずしも政治家だけの問題ではないように思います。国民一人一人が、国政をわが身のことと考え、それを政治家等の他者ばかりに預けず、自分たち自身がどう関わっていくかという意識を強く持つ必要があります。

直近の世論調査では、消費税引上げ議論の影響で、内閣支持率が下がったと聞いています。これは、内閣(あるいは広く政治家)への過度な期待の結果かもしれません。過度な期待とは、的外れな期待であり、相手の力量に対する誤認でもあります。そして同時に、国民たちが自分自身の力を過小評価している結果とも言えるでしょう。しかし、それではいけません。

国家の財政は厳しい状況にあり、それを立て直すことは急務であることは間違いありません。政治家に期待する気持ちは分かりますし、民主党政権以降、それなりに評価されている「事業仕分け」のような無駄を削る作業も重要です。しかし、財政を健全化するための財源アップのための方策、そうした根本解決のための仕事の重みは、もはや政治家だけに任せるレベルを超えていると見るべきでしょう。国民、一人一人が大いに関わっていかなければならないのです。

そして、そのように国政をわが身のこととして真剣に考える国民は、情報収集をマスコミだけに頼らず、自ら進んで行っていくでしょう。また、そうした国民の前で、政治家はさらに真剣にダイレクトメディアの活用を考えるようになると思います。そのことは結果として、「カネのかからない政治」にも繋がっていくことになると考えます。例えば、少なくとも政治ビラやチラシ、ポスターの印刷や配送だけで、簡単に数百万円単位のお金が飛んでいくという現状は、大きく変わるはずです。

そういうことを含めて、現在の政治家のレベルは、そっくりそのまま、今日の国民の政治に対する意識レベルを表していると考えるべきでしょう(「政治家に見る国民の実力」参照)。それはマスコミを批判する政治家からも、見て取れるように思うのです。 

もちろん、現時点での、各人の努力を全否定するつもりはありません。今できることについて、国民一人一人、政治家一人一人が一所懸命取り組んでいることは事実でしょうし、それぞれのベストは尽くしているのだろうと考えます。ただ、それだけではいけません。今後、新しい未来を切り拓いていくためには、それぞれがもっともっと変わり続けることが、とても重要だと思うのでした。

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複雑化する税制の限界

2010年06月23日 | 政治

内閣が変わって、政治にも新しい論点が生まれてきたように思います。

そのうちのひとつが、税制です。去年まで、財源があると主張していた民主党でしたが、さすがにここにきて、新たな財源確保が必要であるとの認識が生まれてきたのでしょう。ここのところ、消費税10%という話が、頻繁にメディアに登場するようになってきました。最近の不況下では、低所得者層には厳しいということで、消費税率を引き上げた場合の低所得者の負担軽減策について、「いまのところ一番良さそうなのは、5%分を返す」という発言が、与党幹部から出てくるようにもなりました。

私としては、税制の話になると、何かとこのように特例措置等が議論の対象となり、その度に税制が複雑化していくような気がしています。

もちろん、社会全体が新しい有効な「財」を生み出せなくなり、それに伴い税収が減っているのですから、増税の議論が避けて通れないのは理解します。そして、そうなると、ますます生活が苦しくなる人々が出るのだから、それに応じた特別措置を講じなければいけないという点も分かります。そういう意味で、こうして税制が複雑化していくような議論には、必然性すら感じます。

ところで、増税をしておきながら、一方でその一部を還付するというのは、社会全体でみると、大変な無駄であることも間違いありません。上記の消費税の一部還付で言えば、その低所得者をどのように定義し、それをどのように知らしめ、その額をどのように算出し、どのような手続きをもって還付するかということを考えると、それらがすべて社会全体で負担しなければならないコストになるわけです。これを個別にやらないといけないとなると、それなりのコストになるであろうことは間違いありません。

ただでさえ、社会全体の生産性が落ち、新しい有効な「財」を生み出せなくなりつつあるなかで、社会にとっての新しいコスト要因を生むというのは、あまり好ましいものではありません。もちろん、その善し悪しは増税分との比較になるため、単純に論じられるものではないでしょう。しかし、少なくともその増税分をもってして、新しい有効な「財」を生み出せるような体制作り、生産性の高い社会構造に繋げていくような方策を打たない限りは、根本的な解決にはならないことは間違いないと思います。

私なりには、新しい財源確保に向けた根本的解決のためには、きちんと経済を立て直すことが必須であり、これには従来のような金融手法や税制改革ばかりに頼らず、しっかりとした産業育成のための政策に依らなければならないと考えています。それが即ち、新しい産業インフラとしてのコンピューター(インターネット)システムやメディアシステムの構築であろうと考えるわけです(「産業界の舵取り」、「インターネットのリアル化」等参照)。

ただし、こうした産業育成プランを策定するためには、産業に対する深い理解、新しい時代を見据えた明確なビジョンが必要であり、これを持ち合わせない既出の政治家の方々に、これを期待するのはいささか酷なのかもしれません。

そういう意味で、何らかの経済活動に携わっている国民は、その一人一人が、そうした政治家の方々に代わって、日本経済を活性化するつもりで行動していかなければならないのだろうと考えます。

政治家の方々が議論されている税制改革を全否定するつもりはありません。しかし、社会全体が活力を失い収縮傾向にあるなかで、次第に複雑化していき、逆に社会コストを押し上げるようなそれに過度な期待をしてはいけないとも思います。私個人は、国民の一人として、複雑化していく税制の限界を見据えたうえで、次の時代において経済を支えるだけのしっかりとした産業基盤を構築するつもりで、自らの本分を果たしていきたいと思うのでした(「産業から始める理由」参照)。

《おまけ》
複雑系の果てには、「シンプルな一手」しかないと思うのです。複雑化していく解決策で問題解決を図るのも結構ですが、その延長線上には答えはないような気がします(「「最高の一手」の妙」、「カオス世界の読み取り方」参照)。

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基地撤廃に向けたビジョン

2010年05月06日 | 政治

鳩山さんが明言してきた普天間基地移設の問題が、ずいぶんと世間の耳目を集めています。いろいろな意見がありますし、「所詮、実力のない人が出しゃばっただけ」という見方もできますが、もう少し建設的な考え方も必要だろうと思います。

特に現在、政界にいらっしゃる方々は、この問題について、ずいぶん威勢よく現政権に噛み付いているように見えます。しかし、それだけでは何も生まれません。もう少し言えば、現政権批判等、少々知恵がついた小学生にだってできることです。それにも関らず、そうした批判を繰り広げることが、政治家(野党?)の役割であると考えているとしたら、それは大きな間違いであると言わざるを得ません。

鳩山さんも、野党時代にはずいぶんと威勢よく与党批判を展開していました。しかし結果として、それらは見事に自らの首を絞めています。「ブーメラン効果」等という言葉を使う人もいるようですが、このことは鳩山さんに限らず、あらゆる人々に対して、共通して言えることであると考えるべきでしょう。それを読み切れず、相変わらず現政権批判を繰り返す人々は、鳩山さんの二の舞を演じることになるだけのような気がしてなりません。

重要なことは、解決策を示すことです。社会を導く役割を担っている人々が成すべきは、基地撤廃に向けた明確なビジョンを示すことであると言えるでしょう。

私自身、現時点において、政治家になるつもり等サラサラありませんし、また、なろうと思ってもできるような状況にはありませんが、それでも一応、一人の国民として思うことはあるので、ここにその要点をかいつまんで整理しておきたいと思います。

1.最高の抑止力は文民統制

基地撤廃の議論を始めると、まず最初に挙げられるのが、戦争抑止力や平和構築のための代案です。基地撤廃は、実現しなければいけない課題でありつつも、米軍基地を抜きにどのようにして国土を防衛するのかという視点が抜けてしまっては、単なる「間抜けな理想論者」になってしまいます。

ここには、戦争の本質まで掘り下げた考え方が必要でしょう。つまり、戦争の抑止力として、「武力には武力」といった従来のパワーバランスではなく、最も有効な戦争抑止力は、隈なく広がる強大な情報ネットワークに裏付けられた文民統制であろうということです。(詳細は「ウイグル暴動に思うこと」、「四次元戦争の時代」等参照)。

基地撤廃を論じるのは、平和を実現するための議論として、大いに結構だとは思います。しかし、それに代わる抑止力、私なりには、その力としての文民統制をいかに機能させるかという準備を進めておくことも、極めて重要であると考えます。

2.一般市民が発信者となるメディア構築

強力な文民統制を実現するためには、強大な情報ネットワーク、メディアシステムが存在しなければいけません。そして、その可能性は、インターネットに見出せるだろうと思います。近年、インターネットの発展によって、これまで特定の人々からしか発信できなかったニュースの類が、一般の人々からも発信できるようになりました。このことによって、戦争を誘発するようなメディアのミスリーディングを避けられる可能性が出てきたと考えます。そして、この点、従来のメディアからすると、大きな革命であったと言えるでしょう。

しかし、まだまだです。

第一に、現在のインターネットは、まだまだ匿名性が高く、非常にいい加減な情報が紛れ込んでしまっています。これを排除する仕組みがない以上、これを信頼に足るツール、戦争を抑制させるだけの文民統制を実現させるツールとして使うには、難しいと言わざるを得ません(解決策については、「責任を伴う「場」の提供」等参照)。

第二に、現在のインターネットは、テレビに代わるほどのメディアにはなりえていません。このことは、インターネットが、いい加減な情報が紛れ込む「信頼度の低いメディア」であるという点もさることながら、ハードウェアとしての利便性や、その普及度合い、つまり電源スイッチさえ押せば起動するテレビのような手軽さがなく、故にテレビほど大多数の人々から見られることもないという側面もあろうかと思います(解決策については、「シン・クライアントの潜在力」等参照)。

第三に、現在のインターネットは、大量の情報から、欲する情報をえぐり出してくるという機能が貧弱です。同じメディアシステムであるテレビが、適当にチャンネルを変えさえすれば、(不要、あるいは不適切な情報をフィルターしたうえで)それなりの情報を届けてくれるのに対して、今のインターネットは、そこまで便利ではありません。こうした問題を克服しない以上、インターネットが戦争抑止力までをも担える、テレビに代わるようなメディアになることはないでしょう(解決策については、「共有という楽しみ方」、「個別最適化する倫理規定」等参照)。

こうした問題は、政治家の口先だけでどうにかなるような問題ではなく、もっと国全体を挙げて、取り組まなければいけない課題になるだろうと思います。

3.日本とアメリカという国を知る

「彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず」と言います。米軍基地の問題は、言うまでもなく、アメリカという国との交渉事になるわけです。「勝ち負け」という言い方は好きではないので、「交渉事に勝つため」とは言いませんが、「百戦して殆うからず」という言葉通り、「交渉事に負けない」ためには、日本という国、アメリカという国を、それぞれ熟知しなければなりません。

まず、日本とはどういう国かを知る必要があります。それには、建国史にまで遡った歴史を見つめ直すという作業も含まれます。私なりには、そうしたものを踏まえたうえで、ようやく日本という国に宿る精神が見えるのであり、そこで初めて、世界における日本の役割というものがはっきりするのではないかと考えます。こうした作業は、同じくアメリカについても言えることです(「脱亜入欧の終焉」等参照)。

交渉をする上で、そうした作業がきちんとできていれば、基地の扱いに関する話し合いも、十分に可能になるでしょう。これは、アメリカという国や米軍自体を否定するような類のものではなく、日米両国が、互いに気持ちよく手を結んでいける道筋の延長線上に、基地撤廃の姿を見出すということでもあります。

以上、本当にポイントを示しただけなので、これらが基地撤廃に向けた方策にどのように繋がっているのか、見えにくい部分があるかもしれません。ただ少なくとも、こうしたポイントを挙げる等して、ビジョンを示していくということが、社会の指導者の成すべき仕事であろうことは間違いないと思います。

ひとまず、私は私なりに、一国民として、できることから上記を実現するためのアクションを起こしています。それらが実を結ぶまでの間、私はあくまでも一人の国民として、社会の指導者とされる方々がどのように動いていくのか、その一挙手一投足を注意深く見守っていきたいと考えます。

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「区別と差別」の区別

2010年03月17日 | 政治

高校無償化の問題で、その対象から朝鮮学校を除外することに対して、国連が懸念を表明するというニュースがありました。記事によると、日本で出されている朝鮮学校の除外は、「子供の教育に差別的な影響を与える行為」とし、「教育機会をめぐる差別が生じることがないよう適切な措置を求めた」ということです。

かなり違和感があります。

そして、この議論、区別と差別を混同しているように思うのです。差別の意味をネットであさってみると、「偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること」となっています。

ポイントは、「偏見や先入観などをもとに」ということでしょう。逆に言えば、偏見や先入観によらず、正当な理由をもって問題の切り分けをし、各種の意思決定を行った末、結果として「特定の人々に対して不利益・不平等な扱い」となってしまうのは、差別にはあたらないわけです。それは区別した結果にほかなりません。

国連が、こんなレベルかと思うと、少々、残念な気にもなります。

今回の高校無償化に対して、その対象から朝鮮学校を外すという議論に関しては、その論拠として、教育内容などについて、日本政府が関与できていないという点が挙げられています。高校無償化は、日本政府が費用負担をするものであり、お金を出しておいて、教育内容には手をつけられないというのは、税金を納めている一国民として、私も疑問に思わざるを得ません。

区別は必要です。すべてが同じはずもなく、民族や国家が入り乱れ、そのなかでさまざまな仕組みが交錯している現代世界において、区別は必然だろうと考えます。そうした区別の結果、一部の方々に対して、「不利益・不平等な扱い」と見えることがあるのは、ある意味、仕方のないこととも言えます。

そうした区別を差別と騒ぎ立てるのは、物事を区別する能力に欠けているからかもしれません。つまり、区別する能力を持たないため、その区別の意味を理解できず、さらにその理由を偏見や先入観であると思い込み、勝手に差別と考えているかもしれないということです。そして、もしそうだとしたら、これはとんでもないことです。私としては、自らの(区別するという)能力の未熟さを棚に上げて、他者のせいにするような行為に対しては、真正面から議論していくべきであろうと考えます。

また差別には、差別だと主張する人自身が、その差別の根源である可能性もある点、看過できません。「それは差別だ!」と批判をするような方のなかには、「そういう可哀相な人たちがいるのを知らないからだ!」という論を展開する方もいらっしゃいます。しかし、これはまったくのあべこべかもしれないのです。つまり、そういう方々は、自分と他者との違いを理解せず、区別できないまま、ただ一方的にそうした人々を可哀相な人々と、勝手に差別している可能性があるということです。

国連から指摘されているような、「教育機会をめぐる差別」についても、まったくの的外れである可能性があります。つまり、日本に居住する者の教育機会は、一般の日本の学校に通うという選択肢を取ることで、きちんと開かれているのです。朝鮮学校に通うことを考えている方でも、本当に無償で通いたいのであれば、普通の日本の学校に通えばいいだけのことです。あるいは、どうしても無償で朝鮮学校に通いたいということであれば、日本の実情を説明して、北朝鮮本国に掛け合うというのが筋でしょう。こうした点を十分に考慮したうえで、日本は堂々と見解を述べるべきだと思います。一般の学校に通うという選択肢を取ることを通じて、十分に教育機会が開かれているのに、それがないかの如き主張に対しては、正面から異を唱えて然るべきだと考えます。

このように安易に差別という言葉を持ち出すのではなく、それは当然あるべき区別ではないかという点、きちんと切り分けながら、物事を整理する必要があるのではないかと思うのでした。

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軽々に動くことなかれ

2010年02月15日 | 政治

文藝春秋の中吊り広告を見ていたら、みんなの党の渡辺喜美さんの記事で、「民主でも自民でもない「政界再編」の核となる」、「わが第三極宣言」という見出しがありました。最近は、「楽天新党」等という言葉を目にすることもあり、日本の政治は、いよいよ旧時代の終焉に向けて、着々と進んでいるように思います。

日本の政界については、新時代幕開け前の旧時代終焉までの動きとして、私なりに以下のとおり予見しています(「旧時代政治終焉のシナリオ」参照)。

第一段階:力があってビジョンを失った人々(自民党)
第二段階:それなりの力があってビジョンがない人々(民主党)
第三段階:力もビジョンもない人々(その他小政党、無所属)
 ※「力」については、時を追う毎に無力化していくと思われますが・・・

冒頭のみんなの党や「楽天新党」というのは、ここで言う第三段階のプレイヤーであるという位置づけです。

そして、私なりには、真に新しい時代を切り拓きたい、新時代を担っていきたいと考えている若い方々に対して、上記の第一から第三段階までの旧時代の枠組みにはまるのではなく、今しばらく時を待って、それらが終わった後の「新時代」にて活躍できるよう、じっくりと準備を進められてはどうかと思っています。

現在、NHKの大河ドラマでは、「龍馬伝」が放送されていて、幕末期に対する関心が高まっており、現代をその幕末の時代と重ねて見ている人も多いのではないかと思います。ただし、幕末から明治にかけての変革は、前時代の整理を含めて、それなりの時間と労力がかかりました。前時代の発想を超えるビジョンや体制を実現するためには、それが実行可能なレベルに到達するまで、水面下にて、かなりじっくりと準備を進める必要もあります。

これと同様、私はこれから起こってくるであろう変革についても、それなりの時間がかかるものと思っています。そして実際、5年や10年ではなく、もっと先の次時代を担う人々は、それを見据えて、今日現在、それなりに腰を据えた動きをしているだろうと考えています。

尊王攘夷の志士、新撰組のような佐幕派たち・・・しばらくカオスのような、それぞれが入り乱れた戦いを繰り広げることになるでしょう。しかし、何も死に急ぐことはありません。未来ある若者たちにとって、今はじっくりと腰を据えて、自分たちが生きていく時代、または子供たちの世代の時代に思いを馳せつつ、傷つくことを避けてきちんと生き延びることが重要なのではないかと思うのです。

-軽々に動くことなかれ-

下手に動いて、陥ちていく人々や仕組みに巻き込まれてはいけません。旧時代の幕引き役のような人々とつるんでしまっては、後々の活動において、致命的な手かせ足かせとなるかもしれません。その手かせ足かせは、「新時代」の世界において、かつての志士たちの「死」と同じくらい重大な意味を持つ可能性もあるのです。そういう意味で、今は、山のようにドッシリと構えていても良いのではないかと思います。

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笑いすぎてごペンなさい

2009年12月26日 | 政治

ペンギンの問題」、いつも楽しく見ています。くだらないと言えば、くだらないのですが、主人公・ベッカムの人を小バカにしたようなところが、可笑しくてたまらないのです。

一方で、最近の民主党による政権運営が、可笑しくてたまりません。総理大臣を含めて、政府関係者の方々は、彼らなりに一所懸命やられているのでしょうし、努力されているのでしょうから、安易に笑うようなことがあってはいけないと思います。

しかし、あまりにも酷すぎるというのも事実でしょう。最高責任者の政治資金の問題、財源不足と国債発行の問題、脱官僚を目指した人事の問題・・・。まだ、新内閣発足から100日余りしか経っていないにも関わらず、公約されていた事柄について、これだけ見事にボロボロと問題が出てきてしまうというのは、決定的に何かがズレていると言わざるを得ないと思います。

元はと言えば、何もかも公約に掲げてしまったが故の問題です。こうした公約を掲げたことによって、政権を取ったのであれば、当然、それらの事項について、堂々と説明できるような結果、あるいはそれに向けての歩みを進めていかなければなりません。しかし、これまでの成り行きを見る限り、それらを示せていないどころか、逆に裏切っているのではないかという疑念を抱かせるような問題が、短期間に噴出しているわけです。約束をしておいて、それをこれだけ見事に破ってくれると、約束した相手、即ち国民をバカにしているという謗りを免れないということにもなりかねません。この点、公約を掲げてしまっている以上、細心の注意が必要です。

繰り返しですが、私としては、現政権に関係している方々が、それなりに一所懸命やられていると思うので、とにかく頑張っていただきたいというエールを送りたいと思います。しかし一方で、私は私なりに、国や世界のために努力しているつもりですし、その範囲外において起こっている政治の問題については、もはや私の力ではどうすることもできないというのは事実です。これを前向きに捉えようとすると、もう笑うことくらいしかできませんし、問題に対する向き合い方として、こうした向き合い方も許されるのではないかと思っています。

昨日、政治問題(国債発行額)について、大笑いしたことをTwitterに書いたら、ある方に「笑えません」と言われてしまいました。たしかに、そういうご指摘は、もっともだと思います。ただ、私としては、現時点における自らの実行能力や責任範囲をわきまえた上で、 「もはや笑うしかない」という思いで、笑い飛ばさせていただきました。それはある意味、私自身の精神衛生を保つための問題解消法程度に考えていただけると幸いです。

ところで、こうした問題があまりに深刻化して、「国民をバカにしている」という風潮が、いよいよ高まってしまったとき、私の笑い方は少し変わってきてしまうかもしれません。

-ベッカムみたいに、人を小バカにしているあたりが最高に可笑しい-

現在、政権運営に携わっている方々におかれましては、私ごときにこんなことを言われぬよう、課せられた責務に対して真摯に向き合われ、国民の皆様から信頼していただける言動をなさることを切に願うばかりです。

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旧時代政治終焉のシナリオ

2009年12月25日 | 政治

日本の高度成長は、戦後の大型ベンチャーを中心とした経済界を背景とし、それを力の源としたビジョンある政治家たちが成し遂げたのだと考えます。高度成長を成し遂げる過程においては、今日、癒着と揶揄されるような構造的問題もありますが、それは、今でこそ問題として論じられるものであり、当時、日本を大きく成長させるための仕組みとして、立派に機能していたと考えるべきでしょう。そういう意味で、自民党というのは、かつて力とビジョンを兼ね備えた政党であったと言うことができると思います。ここでいう力とは、組織力という言葉に置き換えても良いかもしれません。

そう考えた時、現在の自民、民主の二大政党に所属している政治家、それ以外の政治家は、以下のように分類できるのではないかと思います。そして私は、古くなったパラダイムを整理し、旧時代の政治に幕を下ろす役回りは、この上から順番に担当していくのではないかと考えています。

第一段階:力があってビジョンを失った人々(自民党)
第二段階:それなりの力があってビジョンがない人々(民主党)
第三段階:力もビジョンもない人々(その他小政党、無所属)
 ※「力」については、時を追う毎に無力化していくと思われますが・・・

この整理のなかで、現在は第二段階にあたります。

ただし、このように整理すると、民主党の方々から、「ビジョンがないとは何事か!」というお叱りを受けるかもしれませんので、一言付け加えておきます。

民主党の方々は、これまでまともに政権を取ることがなく、政権運営に携わった実績がほとんどありません。したがって、たとえ何らかのビジョンがあったとしても、それを実現したとは言えず、それは単なる「絵に描いた餅」に過ぎないとも言えます。現状、政権与党ですので、もし確固とした正しいビジョンがあるのならば、かつての自民党の方々が成し遂げたような、新しい日本をきちんと作り出していくことになるでしょう。そういう意味で、民主党の方々には、きちんと結果としてお示しいただきたいと思うのです。もし、かつての自民党の方々の実績に比して、見劣りしないような結果を残された場合、私は、率直にお詫び申し上げなければなりません。ただし、この点、私は極めて懐疑的に見ております。それが、上記において、民主党の方々に対して、「(どっちにしても大した)ビジョンがない人々」としている理由です。

話を元に戻しますが、現状は、第二段階に過ぎません。民主党政権によっても、大した前進が期待できないと分かったら、この国の政治は、いよいよ第三段階に移行していくことになるでしょう。もちろん、最終的な第三段階に移行する前に、政権が自民と民主を行ったり来たりするような、多少の「揺り戻し現象」があるかもしれません。しかし、たとえそうした局面があったとしても、それは一時的な現象に過ぎず、どちらにしても第三段階が最終段階になることには変わりないと考えます。

第三段階は、もっと悲惨です。ビジョンがないだけでなく、そもそもの力の源泉すら持ち合わせていない、ほとんど口先だけの政治家ばかりになってしまいます。もちろん、ここで言う「ビジョンがない」という表現についても、もし現職の政治家の方々から反論があるようであれば、是非結果でお示しいただきたいと思います。少なくとも私は、彼らが大した結果を残せるとは思っていません。然したる力を背景に持たない政党や、個人だけで動くだけの無所属議員に、新しい日本をリードできる力はありませんし、次の時代は担えないというのが私見です。

そして私は、そうした意味での第三段階において、ようやく国民の多くが気付くのではないかと思うわけです。

-自分が政治家をやってもいいんじゃないか?-

こうなった時、いよいよ国民一人一人が政治家になるくらいの責任感を持って、政治に参加する時代になると言えるでしょう。第三段階のような悲惨な状況に陥るまで、新しい時代が訪れないと考えると、それはそれで大変なことではあります。しかし、日本という国の行く末について、国民一人一人がきちんと責任感を持てることができるということは、とても素晴らしいことだと思います。そして私は、それこそが、新しい時代における正しい政治の姿ではないかと思うのです。

昨日の鳩山さんの政治資金に関する会見に対して、いろいろと不満を述べられる国民の方々もいらっしゃるようです。それはそれで、心情としては非常によく理解できます。しかし、今起こっていることを、上記の整理に基づいて考えると、新しい時代に至るまでの第二段階の始まりに過ぎず、まだまだもう少し時間がかかりそうであることを指摘せずにはいられません。そして、私としては、自らが為すべき事を淡々と進めつつ、次の時代の到来に備えておきたいと考えます。

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政治家に見る国民の実力

2009年12月10日 | 政治

ある地方自治体において、議会と首長が対立しているという報道を見ました。これは、なかなか面白いことだと思います。それというのも、意見対立をしているのは、それぞれ有権者による直接的な選挙で選ばれた人たちだからです。ここでいう「直接的」という意味は、内閣総理大臣の指名のように、有権者の代理人である国会議員によるような「間接的」な選挙ではないということです。

ところで、このように直接選んだはずの人たち同士が、衝突するという事態が起こってしまう背景には、もともと政治システムが想定しているタイムスケールの問題が挙げられるでしょう。つまり、大体の選挙は数年毎に行われることになっており、それほど小回りが効かないということです。もちろん、そこには「政治にはある程度の時間がかかるもの」という考え方から、長期的視野での政策が実現できるというメリットもあろうかと思います。しかし、やはり今日のように変化が激しい時代においては、そうした変化に即応できないという問題は否定できないだろうと考えます(「産業から始める理由」参照)。

今回の一件については、議会が自民・公明であるのに対して、首長は無所属ながら民主推薦なので、ここ一年間の政権交代に向けた動きの中で、その政治システムが抱えている「小回りが効かない」という特徴が、タイムラグとして出たように思います。

もちろん、問題はそれだけではありません。もっと根本的な話をすれば、そもそも政治の世界におけるビジョンがなかったり、それを示せるリーダーがいなかったりということが問題なのだろうと思います。今、政治の世界を見渡すと、今回の地方自治体の問題に限らず、実に様々なところで衝突が起こっているように思います。

本来、一枚岩であるべきはずの閣僚同士が怒鳴り合うほどの意見対立が表面化したり、二人三脚で国を動かすべき与党議員と官僚が予算縮減を巡って衝突してみたりということは、政権交代以降、立て続けに起こっています。それはつまり、国家の要職にある方々の考え方がバラバラで、それをまとめるべきビジョンやリーダーが不在だからと言えるだろうと考えます。この問題は、先に触れた政治システムの「タイムラグ」といった問題よりも遥かに深刻で、且つ本質的なポイントなのではないかと思うのです。

ただし、本件に関して私見を述べるならば、そうしたゴタゴタは、今の日本人にお似合いといった気もします。もっとはっきり言うと、そうした政治家を選ぶことしかできないということ自体が、今の日本人の実力を示しているのではないかということです。

今のあらゆる政治問題について、政治家の方々を批判したくなる気持ちは分かります。また「リーダー待望論」のような話をしたくなる心境も理解します。しかし、まずもって主権者たる日本国民に、自分たちが選んだ人たちを責めたり、誰か他の人の登場を待つ程度の責任感と真剣味しかないのであれば、所詮、その程度の政治家しか輩出し得ない国なのだろうと思うのです。逆の言い方をすれば、今の政治家の実力こそが、今の日本国民の実力であるということです。

このように考えた上で、私自身も一人の日本国民として、まだまだやるべきことが、たくさんあるのではないかと考える次第です。到底、愚痴を言ったり、誰かを責めたりしている暇はありません。それは私だけでなく、あらゆる日本国民に、もっと国を良くするだけの実力があるということです。政治家が悪い、官僚が悪いと言う前に、国民一人一人が、もっと真剣になって国全体を考え、それを躊躇なく実践していくことこそが、優秀な政治家を輩出することに繋がるのであり、また結果として、豊かな国作りを実現させるのだろうと固く信じています。

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先人たちへのご恩返し

2009年12月03日 | 政治

最高のご恩返しとは、師を越えることだと思います。師はたくさんいます。端的に言えば、過去を生きた全ての人々が、私にとっての師です。

今日まで、私はこの社会に育てられてきました。今の私があるのは、この社会にある様々な仕組みや制度に基づいた生活があったからこそです。私としては、そういう意味で現代社会の形成に、何らかのかたちで関わってきた全ての先人たちは、例外なく私の師と考えることができると思います。

そして、これから先、そうした先人たちにご恩返しをするということは、彼らが残してくれた社会の枠組みを越える仕組みを新しく作り上げていくことになるのでしょう。

今朝、デフレや円高の影響を踏まえて、政府の対応に関するニュースがありました。もちろん、何もしないよりは、何かをしようと努力することは立派だと思います。しかし問題の所在は、既にそうした対症療法的な手法では解決できないところまで進展し、その本質は現代社会の仕組み全体にまで及んでいると思うのです。

私は、鎖国明けの日本を西欧列強がしのぎを削る世界の中で、立派な近代国家に導いた明治政府の関係者の方々に、最大限の敬意を表したいと思います。またその後、戦争に敗れた日本に自立をもたらし、高度経済成長の礎を築いた政財界の方々にも心から感謝したいと思います。

しかし一方で、それらの時代に立てられた大きな柱たちが、新しい時代の中で、いよいよ朽ち果てようとしていることもまた事実ではないかと思うのです。

自民党の前総裁は、周知の通り明治政府の関係者の血筋です。また現在の日本の首相は、戦後の日本政治の礎を築かれた方の血筋です。もちろん、血筋だからということではありません。しかし、私としては、過去の日本の仕組みを作られた先人たちの関係者の方々が、それが朽ち果てようとしている真っ只中で、その後始末をするかのようにいらっしゃるということには、何か運命的なものを感じずにはいられません。そして同時に、私が見る限り、そうした血筋を引いた方々が、今のところご自分たちのご先祖を越えよう等という発想を持ち合わせていないように思います。

私は、ここからが今を生きる全ての国民にとって、非常に重大な分かれ道になるのだと考えます。

まだ、今の社会の仕組みに何かを期待するというのであれば、そうした先人たちの成したものを信じ、もしかしたら、その後始末をしているかもしれない方々と運命を共にするほかないでしょう。

一方で、もはや社会全体の仕組みに限界がきていると考える方々は、今の仕組みの中で、何かを求めたり、期待するのではなく、自分たちが何を成すべきかを真剣に考えなければいけません。いつまでも先人たちの偉業に甘え、それに頼ってていてはならないと思うのです(「歴史上の誰よりも偉い人」参照)。

その選択の時は、国民一人一人に着実に迫ってきているのではないかと思います。

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