常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

一太刀の重み

2009年05月25日 | 武術

スポーツのひとつとして「剣道」があります。私は、これをまったく否定するつもりはありません。「剣道」を通じては、いろいろなものを学ぶことができるでしょうし、それに携わる方々は、それぞれの信念や思いをもって、関わっていらっしゃるのだろうと思います。またスポーツには、健全な青少年の育成のみならず、大人たちの趣味や楽しみとしての効用も大きく、そうした観点において、大変意義があるのだろうと考えます。

ただ竹刀を使うような、いわゆるスポーツとしての「剣道」を持ってして、命をかけた真剣での技量や優劣を決することができると考えるのは、いささか問題があるような気がしてなりません。

単純な話、真剣は鉄でできており、竹刀とは比べ物にならないほど重いのです。「剣道」では、打ち込んだ後に、すかさずその竹刀を元の位置に戻すことができますが、真剣ではそうはいきません。構えた真剣を振り上げてから振り下ろすまでには、それなりの時間がかかりますし、さらに振り下ろしきってから、真剣を元の位置に戻すまでには、竹刀とは比較にならないほどの時間と労力を要することは、容易に想像できるでしょう。

このように、振り下ろす動作やそこから元の構えに戻るまでの動作に時間がかかってしまう真剣を使って、自らの生命を賭けなければいけない、文字通りの真剣勝負をしなければならないとなれば、それは相当慎重でなければなりません。つまり、相手に一撃を加えるということは、自らにそれ相応の隙を作るということと同義であり、真剣勝負で勝つためには、原則として一撃必殺で相手を倒さなければならないということなのです。こう考えると、むやみに剣を振るってはならないということが、ある程度、理解できるのではないかと思います。そしてまた、真剣勝負における強者とは、一撃で相手を倒す術を心得ている者であると考えられるでしょう(「抜かせてはならぬ最強の剣」参照)。

ただし、その必殺の一撃を繰り出すということは、あくまでも「隙を作る」ということと紙一重の関係にあります。私としては、そうした真剣の勝負における紙一重の世界のなかで、必殺の一撃とは、相手の攻撃を受ける防御から生まれてくるのではないかと考えます。(詳細について、イラストで上手く描ければよいのですが、その才能がないためきちんと表現できません。申し訳ありませんが、とりあえずは「正中線を保つことの重要性」をご参照ください。)

ところで、真剣での勝負について、このように整理してみると、剣と剣とを激しく打ち合わせる「チャンバラ」が、どうして成り立つのかということについて、疑問に思われる方がいらっしゃるかもしれません。もし、こうした疑問を持たれる方がいらっしゃるとするならば、その方は、真の意味での「武」を深く理解されている方かもしれません。つまり、一撃必殺の技を持ち合わせている達人であれば、何度も剣を交えるような戦い方、「チャンバラ」はしないはずであると理解できているかもしれないからです。私としては、こうした疑問や指摘が、真剣勝負における剣の本質を突いたものであると考えます。そして、そうした視点から導き出される私なりの結論は、真剣勝負における「チャンバラ」とは、一撃必殺の技を持ち合わせていない者、真の強者ではない者同士の斬り合いということになるだろうということです(あるいは、一撃の重みについて、真剣ほど考えなくてよい竹刀での勝負なら、「チャンバラ」は成立するということかもしれません)。

真剣勝負では、一太刀が大変重いのです。本当に真剣を扱う者は、むやみに剣を振るうことがないように気をつけなければならないということでしょう。

また、真剣勝負とは、単に物理的な「真剣」を使った勝負だけを指す言葉ではありません。日常生活のなかで「真剣勝負」、「真剣み」、「真剣な・・・」という言葉がよく使われているとおり、「真剣」は私たちの日常に溢れているのです。その「真剣」のひとつは、私たちが普段使っている言葉ではないかとも考えます。言葉は、人間と人間とを結び付ける役割を果たしており、それは時に、精神的な意味でとてつもない武器になり得ます。もし、一太刀の重みを知っているとするならば、私たちは言葉が持つその重みをきちんと認識した上で、慎重に使っていきたいものです(「分からないことは言わない」参照)。

「真剣」に生きていくとは、そうした「一太刀の重み」を知ることではないかと思うのです。

《おまけ》
「侍戦隊シンケンジャー」は、シンケンレッドがカッコよくて大好きなのですが、稽古のシーンが、きまって竹刀なのが残念でなりません。そもそもシンケンジャーなのだから、稽古も真剣(譲って木刀)にしてくれたらと思うのです。主題歌も「チャンチャンバラ♪♪、チャンバラ♪♪」という部分で、記事本文のような問題意識から、「えぇ~。シンケンジャーなのに、チャンバラなのかぁ~」などと思ってしまうのです。まあ、元々子供を相手にしているものだし、子供が真似をして真剣でも振り回したがったりしたら問題でしょうから、仕方がないことなのでしょうけどねぇ・・・。

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正中線を保つことの重要性

2008年02月11日 | 武術

真の強者は自ら仕掛けることをしません。体の中心軸(正中線)をまっすぐに保ちつつ、相手の攻撃を呼び込みます。いわゆる「隙のない構え」で、相手の攻撃を待つのです。逆に弱者は、殺されてしまう恐怖や自信のなさから、むやみに攻撃を仕掛けてしまいます。「弱い犬ほどよく吠える」という言葉がありますが、まさにそのことです(「抜かせてはならぬ最強の剣」参照)。

「武」の真髄は、その字の如く「戈を止める」ことにあります。究極の強者同士では、互いに構えるのみで打ち込むことはありません。したがって、真の強者同士の間には、結果的に争いごとは生じ得ないことになるのです(「風林火山と「武」のあり方」参照)。ドラマやアニメで、武術の達人同士が、互いの構えで力量を量るような場面があったりしますが、それはこういうことを意味しているのだと思います。

ところで、こうした強者はどのように戦っていくのでしょうか。極めて端的に表現するならば、「相手の攻撃の力を、自分の攻撃の力に転じて戦う」と言えるでしょう。

もう少し、説明を加えると、構えをとっている強者に対して、相手の攻撃が打ち込まれたときから、強者は防御に入ります。このときの防御は、相手の攻撃を「(ガチッと)受け止める」ようなイメージではなく、「受け流す」イメージです。正中線を保ったまま、相手の攻撃を「受け流す」ことによって、相手は徐々に体勢(正中線)を崩していきます。これは防御の開始時点から生ずることであり、その意味で、強者にとっての防御は、「相手の体勢を崩す」という攻撃の開始でもあります。また、相手の攻撃が強ければ強いほど、相手は大きく体勢を崩すことになります。こうした相手の攻撃を「受け流す」所作は、同時に相手の攻撃を「呼び込む」動作にもなります。つまり、相手が強い攻撃を仕掛ければ仕掛けるほど、強者は相手の攻撃を自分の懐に、深く「呼び込む」ことになるわけです。

そして、いずれ相手の攻撃は、臨界点を迎えます。つまり、体勢が崩れきるわけです。強者は、そこで技を使います。ただし、それには大きな力を用いません。あたかも「伸びきったゴムの端を放す」ような、極めて単純で小さなスイッチのようなものを押すイメージです。臨界点に達している相手は、体勢を崩しきっており、このスイッチで見事に倒れていくわけです。このとき、強い攻撃を仕掛けた相手は、大きく倒れていきますし、攻撃が弱かった相手は、小さくしか倒れていかないことになります。表面的には、大きく打ち込んできた者には、大きなダメージを与え、小さくしか打ち込んでこない者には、小さなダメージしか与えないという戦い方に見えることになります。

いずれにせよ、大切なことは、真の強者は自ら技を仕掛けにいくのではなく、相手の攻撃を呼び込んで相手を倒すのであり、その呼び込む深さによって、相手に与える攻撃力が決まってくるということです。

相手を倒したい一心で、自ら技を仕掛けにいったり、十分に呼び込みきっていない(相手の攻撃が臨界点に達していない)状態で技を使ったりすると、技の入りが浅くなり、物理的な「力の強さ」に頼らなくてはならなくなります。こうなると、いわゆる「力技」になり体力を消耗するばかりでなく、相手に力負けしたときには、自分が負けるというリスクまで抱えることになります。これは真の強者の戦い方ではありません。

ところで、上記、強者の戦い方のなかで、最も大切なことは「正中線を保つ」ということです。「受け流す」、「呼び込む」という所作への説明は、なかなか省くことが難しく、こうした部分に焦点が当たりがちになりますが、最も重要なことは、正中線を保ち続けるということなのです。正中線がぶれてしまっては、「受け流す」、「呼び込む」といった所作が、かえって相手に隙を与えてしまうことになります。武を極めるにあたっての基本は、正中線をしっかり保つことであり、これが真の強者の絶対条件でもあります。

また、正中線を保つことの重要性は「武」においてのみ通ずるものではなく、人間のあらゆる所為についても言えることでないかと思います。心の持ち方、生き方、信念、正義・・・。真の強者たらんためには、ひとりの人間として、どのような正中線を持つべきか、常に自問自答を繰り返していく必要があるのだろうと思います。

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一番難しい「山」

2008年01月24日 | 武術

「風林火山(疾きこと風の如く、静かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如し)」の極意はメリハリだと思います。やる時は徹底的にやる、やらない時は何があっても絶対に動かない。その局面に応じて、徹底した姿勢を貫けるかどうかが「風林火山」の実践において、大変重要なことになります(「風林火山と「武」のあり方」参照)。

このなかで「風」や「火」は、比較的派手でカッコいいイメージもあるかもしれません。「風」の如く相手の弱点まで近づいて、「火」の如く相手にダメージを与える。これこそ、相手を倒す真髄に通ずるものがあるという印象があっても、おかしくないと思います。しかし私は、「風林火山」で最も難しいのは「山」であり、これにこそ強者の真髄があると考えています。

「山」は、自分に相当の自信がないとできません。「今は違う!」、「いずれ変わるはず!」、「大丈夫、向こうからやってくる!」。こう思えるからこそ、「山」でいられるわけであり、周囲が忙しく動いていても、じっとこらえられる忍耐力は、強い者の証でもあると思うのです。

ちょっと話が逸れますが、ドラマや映画の主人公は、大体こういう行動をとっています。たまたま今、頭に浮かぶのは「フラガール」という映画で、ダンスの先生と生徒たちが列車の駅で別れるシーンです。ダンスの指導を続けられなくなった先生が列車に乗り込み、列車が走り始めると、反対側のホームにいた生徒たちが別れを惜しみ、列車と同じ方向に一斉に走り出します。しかし、主人公の生徒だけはじっと動きません。すると列車は少し走り始めたところで停車し、列車から先生が降りてきます。そして先生は、再びダンスの指導を始めることになります。このシーンで主人公がじっと動かなかったのは、単にその方が「絵になる」、「美しい」という理由だったのかもしれません。ただ、そうだとして、そのシーンに美しさがあるということは、自ずと「山」であることの強さ(そこには先生を信じる強さがあったのだと思います)の普遍性や重要性が描かれるのであり、またそれが非常に難しいことであることが表されているのだと思うのです。

逆に「風」や「火」のときは、何かをしているわけで、人間はその「何かをしている」ことで、その「何か」が本当に必要であるか、大切であるかを問わず安心できてしまうという罠にはまってしまう可能性があります。何かをしていることで安心したいと思う心理から何かをするというのは、むしろ弱者がすべきことであり、「風」や「火」の表面的なイメージから、それに憧れて、行動しているような人の心には、真の強さはありません。

そうした意味で、本当に難しいのは「山」であり、それこそに人間の真の強さがあると考えます(「抜かせてはならぬ最強の剣」参照)。

そして日本には、安易に妥協しない、「山」を実践している大勢の「強者」がいるようにも思うのです。現代社会の経済システムに安易に妥協しない「無職」の人々(「ニートたちの言い分」参照)、政治状況やシステムに安易に妥協しない「無党派」の人々、思想や哲学に安易に妥協しない「無宗教」の人々。これらの人々は「持てない」のではなく、安易に「持たない」強さを持っているのであり、「山」を実践している人々だと思います。そういう意味で、多くの日本人は「持たない」ことをもっと誇りに思っていいはずです。そして、そうした強い忍耐力の持ち主であり、強者であり、妥協しない姿勢を貫ける多くの人々は、その理想に向かって、必ず次の時代を切り拓いていくことができると思います。

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抜かせてはならぬ最強の剣

2007年07月27日 | 武術

「武」という字は、戈(ほこ)を止めると書くといいます。「武」の真髄は相手を傷つけたり、殺したりすることにあらず。傷つけず、殺し合わぬことこそに「武」の真髄があるのです。したがって最強の武者は、むやみに剣を抜きません。強者が剣を抜くときには、確実に相手を殺すときです。けっして、戯言で剣を抜くことはなく、剣を抜いたときは、すべてが終わるときなのです。強者にとって、物事を終わらせることは簡単です。切り捨てる所作は一瞬であり、確実に決められます。だからこそ強者は、そのようないつでもできることは敢えてせずに、じっとしていられるのです。このように最後の最後まで、抜くことをしないのが強者の剣です。

この逆が、弱者の剣です。弱者は、一瞬で相手を殺すことができないし、その自信もありません。一太刀、二太刀と重ねながら、相手を傷つけつつ、その延長線上で相手を殺すことを試みるのです。だから、むやみに剣を振ります。けっして抜いたときが終わりではないから、さっさと剣を抜いてしまうのです。しかも剣を抜いた後は、「もしかしたら、自分が死ぬかもしれない」という内なる恐怖と戦いながら、外にいる相手との斬り合いに臨みます。その意味で、弱者には、立ち向かうべき敵が多いと言えます。自分の内にも外にも敵がいるのです。これは非常に辛いことでもあります。

ただし、言い方によっては、その不安や恐怖こそが、弱者にとっての強さの源泉であるとも言えるでしょう。おおよそ、子供向けの漫画やアニメの悪役キャラクターの力の源泉はここにあります。つまり、弱者が内に抱える不安や恐怖は、「死にたくない」という必死さや、「それを受け入れたくない」という憎しみの感情を生み出し、その者の強さになるということです。しかし、実際には、そうした不安や恐怖は、弱者の証であり、ゆえに迷うのです。そうした心の迷いは、必然的にその者の剣を曇らせ、けっして一撃必殺の剣になることはないのです。

-俺の奥義をみたときは、貴様が死ぬときだ-

漫画の主人公の台詞に、こんな言葉があります。これはつまり、真の強者に剣を抜かせてはならないということです。強者に中途半端はありません。戦うときは奥義を尽くすし、そのときは確実に相手が死ぬのです。

ところで逆説的ですが、実は真の強者、最強の武者は奥義を出すことすらしません。何故ならば、そもそも最強の武者は、自分より強い者がいないということを知っているし、またそのことに絶対的な自信をもっているため、真剣に相手と戦う必要がないからです。

したがって、最強の武者が、彼に対して剣を振りかざす者にするのは、これと戦わず、ひたすら遊び、相手の攻撃に耐えることなのです。そして、「武」とは何かを教えるのです。

「真の武とはこんなものではない。真の武を知るときは、本当にお前が死ぬときだ。しかし、それは知らずにおればよい。死んでしまっては、何もかもがおしまいだ。自分はお前を殺そうとはしていない。お前は死ななくてよい。恐怖を乗り越えて、心を安らかに保て。そして剣を収めろ。殺しあう必要はないのだ。そうすれば、貴様も生きるし、俺も生きる。」

最強の武者は、こうして遊びや忍耐を通じて、剣を振り回さない真の「武」を教えていくのです。平和を保つための真の強さとは、こうした真の「武」の実践であり、このことこそが戈(ほこ)を止めるという「武」の真髄でもあります。

ところで、このような剣の扱いや「武」の実践の話は、物理的な次元においてのみ語られるべきものではありません。現代社会においては、人間の心のあり方についても、まさに同じような強さが求められていると思います。つまり、いろいろな大きな問題が山積している現代社会において、それらに関連して他人を非難したり、中傷したり、責任を押し付けたりする人間の行動は、まさに弱者が剣を振り回すのと同じ行為であり、その人間の弱さの表れであるということです。

人間とは弱い存在です。しかし、それに甘んじていては人類に未来はありません。人間は、未来に向かって強い存在になっていかなければならず、そのために安易に剣を抜くようなことをしてはならないのです。さまざまな問題について、謂れのない理由で非難され、中傷され、責任を押し付けられたとしても、それに対して同じように剣で返してはなりません。何があろうと、剣を抜かずに受け止めるだけの心の強さを持つ(「打ち克つべき相手」参照)。このことは、高い忍耐力を求められる行為であり、非常に辛いことでもありますが、こうしたことこそが、これからの時代において、真に求められてくる人間の強さなのです。次の時代で大切なことは、人間ひとりひとりが、自分が最強の武者であるという自信と強さを持つということであり、自分が携えている剣は、最後まで抜かせてはならない一撃必殺の最強の剣であるという誇りとプライドを持つということでもあります(「全員が真のリーダーたれ」参照)。

強くあれ。そして、剣を振り回すことなかれ・・・。

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武士と騎士の違い

2007年02月10日 | 武術

人間は、現代の競争社会に生きながら、常に他者と戦っています。他者を陥れることで、自分を優位に立たせようとします。ところが、戦いは勝者を生む一方で敗者を生み、必ず禍根を残します。この連鎖は、断ち切られることなく続いていき、さらなる戦いの種を撒き散らしながら、大きくなっていくのです。これが人間の戦いの歴史であると考えます。

しかし、戦わなくて済むかというと、けっしてそういうわけでもありません。既に戦いの連鎖が始まってしまっている以上、そこでまったく戦わないなどという選択肢はないのです。残念ながら、人間は戦っていかなければならないということも、また事実でしょう。

それでは、人間はどのように戦っていかなければならないのでしょうか。そのヒントは、古来の戦う人々の生き方にあると思います。

日本には「武士」という戦う人々がいました。そして武士には、武士として生きるべき道、武士道というものがあります。これに対して、西洋にも戦う人がいました。騎士です。そして騎士にも、日本の武士道と同じように騎士道というものがあるといいます。

ところで武士にしても、騎士にしても同じ「戦士」ではありますが、その精神は全く異なるのではないかと思います。以下、端的に比較してみました。

騎士道には十戒というものがあります。

 1.不動の信仰と教会の教えへの服従
 2.教会擁護の気構え
 3.弱者への敬意と憐れみ、弱者を擁護する確固たる気構え
 4.愛国心
 5.敵前からの退却の拒否
 6.封主に対する厳格な服従。ただし神に対する義務に反しない限り
 7.異教徒に対する休み無き、慈悲無き戦い
 8.真実と誓いに忠実であること
 9.惜しみなく与えること
 10.悪の力に対抗して、何時いかなる時も、どんな場所でも正義を守ること

もともと騎士道は、キリスト教を守る戦士のための戒律であるため、「弱者への敬意と憐れみ」といったキリスト教的思想が入ると同時に、「教会の守護」や「教会への服従」のほか「異教徒との戦い」といった考え方が取り込まれています。

これに対して、武士道にはさまざまな考え方、解釈があるため一概には言えませんが、例えば梅谷忠洋氏著の「武士道の智恵」では、武士道を以下10の言葉で表しています。

 1.仁:苦しんでいる人の隣にいて、苦しみを共にすること
 2.義:相手に迷惑を掛けないこと
 3.礼:他人に対する思いやりを形で表現すること
 4.智:知っているだけでなく行動に移すこと
 5.信:義と誠を身につけることで自ずとついてくるもの
 6.勇:社会や他人に不愉快な思いをさせないこと
 7.誠:嘘をつかないこと
 8.名誉:名を汚さぬ心
 9.廉恥:自分の未熟を悟り、恥を知ること
 10.忠義:義があれば自ずとたどりつくもの

この武士道と騎士道を比較すると、以下のことが言えると思います。

1.他者の位置づけ
武士道にも、騎士道にも同じように「他者」が出てきます。騎士道の場合には「弱者」、「悪」、「異教徒」、「封主」、「教会」というように、同じ「他者」についても、いくつかの分類がなされています。これに対して、武士道では「弱者」も「強者」もなく、「善」も「悪」もなく、「仲間」も「敵」もありません。あるのは単に「他人」、少し表現を変えるとしても「社会」、あるいは「相手」といった程度です。そこにはその「他者」とは何であるかを問題にしておらず、すべての「他者」は等しく「他者」であるのです。

2.意思の所在
人間は意思を持つ生物ですが、武士と騎士では、明らかに意思の所在が異なります。武士は自らの意思をもち、それに伴う責任において行動をとります。これに対して、騎士は自分の意思を持たず、行動規範を他人に預けてしまっています。教会は明らかに他者ですが、それが正しいかどうかの自ら判断することは許されておらず、その教会や教えに対する不動の信仰心は、まずそれありきである。教会や封主に対する厳格な服従も然り。そこには、自ら考えるということが許されておらず、その姿はほとんど機械に等しいのです。

3.戦うことの意味
騎士道では「教会の擁護」、「封主への服従」、「異教徒の殲滅」、「悪への対抗」といった理由を挙げつつ、これに対する慈悲なき戦いこそが正義であると位置づけています。決められた正義のために多くの人々を殺す、そのことこそが騎士としての価値になっています。これに対して、武士道のなかにはそもそも「戦う」という言葉がありません。敢えて言うなら「名誉」を守るため、名を汚さぬために最後の手段として戦うことがある、といったところでしょうが、決して「戦え」と言っているわけではないのです。

以上のことを整理すると、端的に表現すれば、騎士とは自ら考えることを許されず、与えられた正義のために、ひたすら多くの人を殺す、いわば戦闘マシーンです。これに対して、武士とは尊厳ある意思をもった人間であり、常に自らの正義を問い詰め、またそれを他人に押し付けることはなく、好んで戦わず、しかし尊厳や名誉を守るためには、やむを得ず剣を抜く戦士であるということができるでしょう。

競争原理で成り立っている現代社会において、人間は戦っていかなければなりません。けれども、騎士のように自らの正義について、真剣に問い詰めることもなく、ひたすら人を陥れていくような戦い方をしていては、この戦いの連鎖はけっして断ち切れないと思うのです。

戦いの連鎖を断ち切っていくためには、人間ひとりひとりが、常に武士の心持ちでいることが大切です。人間としての尊厳をもち、自ら考え、そもそも戦うべき相手が誰なのかを問い詰めていくという思考を続けていくことが必要であると思います(「打ち克つべき相手」参照)。すべての人間が騎士ではなく、武士のような戦い方ができる戦士になったとき、人類の戦いの歴史には終止符が打たれるはずです。

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風林火山と「武」のあり方

2007年01月28日 | 武術

「風林火山」の極意。それはデジタル思考ではないかと思います。つまり「やる」、「やらない」のメリハリをつけ、曖昧な行動や思考を徹底して排除することが、「風林火山」のポイントではないかと考えるのです。

去年の秋。私は、娘の幼稚園の運動会に参加しました。そのなかの種目である騎馬戦、私は娘を負ぶって馬になりました。帽子をかぶった娘が、敵チームの負ぶられた子の帽子をとるというのが基本ルールなのですが、とにかく私は強かったです。

「よーい、スタート!」

一斉に50組近いパパ騎馬がフィールドに入り、敵味方入り乱れて帽子を奪い合います。もうスタートしてから、あちこちで帽子を取ったり、取られたリが始まります。しかし、私は絶対にこれに加わりません。

要は風林火山です。

【山】
フィールドの隅でラインを背にして、絶対に誰も後ろに回れない位置でじっと待つ。 近づいてくる他のパパ騎馬があっても、適当にラインを背にフラフラして、絶対にしかけることはしない。

【風】
たまに前から攻撃をしかけてきそうなパパ騎馬があると、反対側のラインに向かって、全速力で走りぬく。全速力で走るから、誰も我々の帽子を取ることはできない。そして反対側に着いたら、またラインを背にしてじっと待つ。

【林】 しばらく待っていると、我々の存在に気付かずに、私に背を向けてウロウロしている他のパパ騎馬が現れる。このときがチャンス!!そっと、そして素早く近づく。

【火】
背後から、サッと帽子を奪い取る。

【山】
奪い取ったら、また全速力でラインに向かって走り、ラインを背にして待ち続ける。 これを繰り返していると、私にはまったく危ないシーンがないまま、帽子を奪い続けることができるのである。

「やるべきときは徹底的にやる。やらないときは徹底的にやらない」

絶対に中途半端なことはしない0か1かの世界。このデジタル的な行動及び思考パターンが、まさしく「風林火山」の考え方の根底にあるのではないかと思うのです。これは、私の「妥協は許さない」という考え方にも通じます(「妥協が許されない理由」参照)。

ところで、こうした0か1かのデジタル的な考え方は、他のところにもみてとれます。

たとえば古武術。古武術は、いわゆる人を殺傷するための術であり、これを発動するときは、人を殺すことになることを想定しなければなりません。つまり、一度その術を使用するときには、徹底的にやるのです。それこそ、人の命を奪うつもりでやらなければなりません。だから、できることなら戦わないほうがよいのです。戦いは極力避け、極力耐えるのです。しかし、どうしてもというときには、やらなければいけません。真の武術家が戦うときというのは、こうしたギリギリの葛藤のなかで、大きな覚悟を決めて戦うのだろうと思います。そして一度戦うと決めたときは、死を賭して行動に移さねばならず、それこそ生き残るためには相手を殺すつもりで戦わなければならないのです。だからこそ、真の武術家であればあるほど戦わないのであると思います。

「武」の字は、「矛を止める」と書くといいます。つまり、真の「武」とは、それをもって殺しあうことではなく、互いの矛を止めることにその真髄があるというのです。「戦うときは、徹底的に殺すつもりで戦う」、「戦わないときは、何があっても絶対に手を出さない」。

「弱い犬ほどよく吠える」とは、よく言ったものです。弱い犬は、噛んだところで大した傷は残さないし、そのことを知っているから、むやみに吠え、むやみに噛もうとするのです。しかし強い犬は、自分が動いたときの怖さを知っています。だから吠えもしない、噛もうともしません。しかし、一度吠え、そして噛もうとしたら、とんでもない力を発揮するのです。強い者であればあるほど、まさに0か1かのデジタル思考を実践し、また強い者こそ人には優しく接することができるものなのでしょう。

蛇足ですが、古武術で歩く動作は、単に右足を前に出し、次に左足を前に出す、というものではありません。四股立ちで両足が開いている状態から、両足を揃える。揃えた状態から反対側の四股立ちとなる。この繰り返しが、古武術でいう歩く動作なのです。つまり「開」、「閉」、「開」・・・で前に進むのであり、「開」と「閉」の中間という考え方はありません。「1」、「0」、「1」・・・のデジタルの繰り返しのなかで、歩く動作が生まれるのです。この繰り返しの結果として、いわゆる「摺り足」のようなかたちで歩く動作になるというのが、古武術の歩き方です。これも、まさにデジタルです。

いずれにせよ、真の「武」とは、その強さゆえに、使わざるところに真髄があると考えるべきでしょう。「風林火山」で言えば、武を発動するときは、徹底的に「火」の如くであり、これは限りなき滅びへの道となるのです。「風林火山」の真意を知り抜いていれば、「武」は本来の意味のように、矛を止めるために、互いに動かず徹底的に「山」の如く、であるべきであることを理解できるようになるでしょう。

そして、だからこそ「武」は、競争をすることなく、平和を保つための有効な道具になるということができるといえるのだと思います。

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