常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

荒らしを封じる自制心

2010年08月26日 | 産業

インターネットにおける匿名性の問題は、このブログでも再三、指摘しているとおりです(「責任を伴う「場」の提供」等参照)。この問題は、これからのインターネットを構築していく人間にとって、大真面目に向き合っていかなければいけない課題だと考えています。


ちょっと下が騒がしい?


何やら罵倒の嵐・・・


と思ったら「荒らし」だった

先日、ピグで遊んでいたら、「荒らし」を目の当たりにしました。上掲の写真は、ピグの「清水寺」です。ここでは、滝の前でお参りをして遊ぶのですが、そこでどうやらもめているようなのです。よく見てみると、滝の前に陣取って、ずっと動かない人がいるため、みんなが滝の前でのお参りをすることができないでいました。

困ったもので、この迷惑者は完全なる確信犯でした。プロフィールをみると「荒らしとして名を馳せる」という名前になっています。周囲の人々からの苦情そっちのけで、むしろ挑発する発言を繰り返すばかりです。ピグのシステムでは、こうした人々を積極的に排除したり、何らかの不利益を与えるような仕組みがないため、荒らしに遭った人々は、ただ我慢するしかありません。

ここには、今のインターネットの根本的な問題があると感じます。それはつまり、インターネット上における評価システムが脆弱であるということです。仕組みとして迷惑行為に規制をかけるとか、荒らし行為を取り締まるとかいうことではないところがポイントです。こうした行為に対して、誰か特定の人間が取り締まるような発想では、その取り締まっていくコストが膨大化するだけで、大きな仕組みとして成長させることができません。

ポイントは、そうした行為に対するネガティブ評価を、参加者に行ってもらい、それをきちんと反映できる仕組みにするということです。上記の例で言えば、荒らしに遭っている人々は、ただ我慢するしかないわけですが、こうした人々のネガティブ評価をきちんと反映させる仕組みにすることによって、荒らし行為をする者たちが、十分な不利益を被るようにするのです。そのことで、これまで荒らし行為をしていた者たちが、荒らしをしたいという欲求とその不利益とを天秤にかけて、より強く自制心を働かせることができるようになるでしょう。即ち、荒らし行為に対しては、そうした自制心によって抑え込む仕組みが重要だろうということです。インターネット全体をこうした仕組みにしておけば、それがどんなに大きく成長しても、荒らし行為の取締りといったようなコスト負担に頭を抱えることはないわけです。

こうした自制心を効かせて、迷惑行為を減らすというのは、単純に現実世界でも行われていることです。私の指摘は、そうした現実世界でも十分に発揮している自制心を、インターネットにも持ち込めるようにすればいいというだけのことです(「インターネットのリアル化」参照)。

ピグは、とても楽しいと思います。ピグでは、荒らしとは正反対に有難いことを自ら進んでしてくれている方々も大勢います。これについては、既にブログでも書いているとおりです(「ボランティアさんに感謝」参照)。ただやはり、そうした方々に対しても、きちんとした評価ができず、またそれに対価を支払うことができないというのが、今回の荒らし問題と併せて、表裏一体の問題としてあるような気がしてなりません。

この問題は、いつまでも引きずる話ではなく、近く解決されていくものであると考えます。そして、これが既出の関係者の方々の手に余るというのなら、いずれ私や私の仲間たちが、新しい仕組みを整えていくことでしょう。そういう意味で、あまり心配はしていませんが、現状にけっして満足したくないとも思います。

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位山に見る日本古代史

2010年08月21日 | 日本

飛騨高山にある位山に行ってきました(外部ブログ「飛騨に行ってきました」参照)。

地元の方に案内していただき、興味深い話を聞きながらのお参りになりました。


飛騨一宮水無神社


奥宮がある位山


位山の天の岩戸

位山には、「天の岩戸」なるものがあります。「天の岩戸」といえば、天照大神が隠れた伝説で有名です。それがここにあるというのは、ちょっと不思議な気がします。

地元の方の話によると、古事記や日本書紀等、いわゆる記紀に書かれていることというのは、すべて真実でないとのことでした。それには大いに同感です(「日本建国史の再考」参照)。

一方で、竹内文書についても聞かされました。竹内文書とは、古代日本において、長らく大臣を務めたとされる竹内宿禰に関わる古文書です。その方によると、この位山は「竹内の山」であり、そこにある「天の岩戸」というのは「竹内の神社」であるという話でした。

その方のお宅にお邪魔すると、神功皇后と竹内宿禰、竹内宿禰に抱かれた赤子の応神天皇の三人の像が置かれていました。私自身、応神天皇が祀られている鶴岡八幡宮は地元であり、幼い頃から訪れている場所でもあるので、こうした置物にはとても愛着を感じます。そして、同時に思ったのは、そもそも天皇とは何者かということを議論するならば、竹内宿禰とは何者だったのかということについても、きちんと検証されなければならないだろうということです。それは、記紀に囚われた歴史観では割り出せません。しかし、それを乗り越えてでも、真実を見極めようとすることが何よりも肝要なのであり、歴史を学問とし扱っている方々にとっても、非常に大切なことなのではないかと思うのです。

もちろん、実際のところ、何が本当なのかは分かりません。その方もおっしゃっていたことですが、竹内文書にしても、すべてが真実であるとは思えません。しかし、記紀の記述に真実でないことが含まれているとしたら、それを補うに足る内容が、竹内文書に書かれている可能性は、けっして否定できないだろうと思います。

今回の位山での旅では、そんなことを思いながら、しばし天皇や日本古代史について考えさせられたのでした。

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類は友を呼ぶ

2010年08月18日 | 人生

仕事仲間とは、実にいろいろな話をします。

ビジネスはもちろんのこと、政治、科学、宇宙、教育、宗教、国家、歴史、文化、芸能、スポーツ・・・。そして、そうした多岐に渡る分野についての意見交換ができると、「これは、生涯の仲間になる!」と勝手に思うようにしています。

先日、そうした仲間の一人と、日本の古代史についての話をしました。ここ数年、その彼とは、実にいろいろな話をしてきたはずなのに、日本の古代史についての意見交換は、まったくの初めでした。そして、とてもビックリしました。

何から何まで、古代史に対する自分の見解と一致するのです。

記紀の位置づけ、蘇我氏と藤原氏の関係、邪馬台国の場所、台与と豊受の解釈、神武・崇神・応神・神功等の捉え方、大国主大神と天照大神の国譲りの見方、そして私のアカウントでもある「竹内宿禰」の正体、等々々・・・。

これらのポイントに関して、古代史の解釈には諸説あり、それらがことごとく一致するというのは、尋常ならざることだと言えるでしょう。それが、見事に一致するというのは、ちょっと奇跡的なことだと思うのです。

諸説あるなかで、何故、そういう見解になるのか、私が尋ねてみたところ、いろいろ調べていくと、それが最も納得性があるというような話をしていました。とても分かる気がしました。

-これぞ、「類は友を呼ぶ」というものなのだろう-

「類は友を呼ぶ」という時の「類」というのは、目には見えなくても、きちんと根っこで繋がっているものなでしょう。そして、それが「友」として集まってくるのは、至極当たり前のことなのだと思います。「類は友を呼ぶ」という言葉は、まさにそうした事の必然性を表しているのだろうということです。

仕事仲間でビジネスを共にするとか、ビジネスの話をするというのは、とても大切なことです。ただ一方で、ビジネス等というのは、ある意味で枝葉末節に過ぎません。本当の仲間というのは、枝葉末節だけで繋がっているわけではなく、その元となる幹、あるいは根っこが繋がっているのでしょう。だからこそ、ビジネスという枝葉末節だけではなく、政治、科学、宇宙、歴史、文化、芸能、スポーツ等の各枝葉末節でも、心地よい会話が成立するのだと思うのです。それは、それらの根底にある思想や哲学の一致なのかもしれません。

一方で、「類は友を呼ぶ」という言葉を、ネガティブな意味での「群れる」と捉える人もいるようです。つまり、「群れたがる人間同士が群れる」だけという解釈です。もちろん、そういう側面があることは否定しませんし、実際にそのようにして群れる人々がいることも事実でしょう。しかし、他人は自分の鏡であり、ネガティブに「群れる」人々が周囲にいるのは、自分自身にそうした弱さがあるからかもしれません。

少なくとも、私の周りにある「類は友を呼ぶ」は、それとはもっと違った次元で起こっているような気がしてなりません。即ち、同じ思想や哲学、感性を持つ者同士が、自ずと呼び合い、引き寄せられていくような感覚です。

そして最近、この「類は友を呼ぶ」力は、次第に増しているような気がします。引力が互いを結びつけ合い、それによって大きくなってくるグループ同士が、さらに大きな引力で結びつくような連鎖が起こりつつあるように思うのです。時が進むにつれて、そうしたなかなか楽しい感覚が増幅されていくような気がして、とても面白いように思います。

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愛をとりもどせっ!

2010年08月11日 | 独り言

プリキュアのMAD動画が消されたぁ・・・(涙)。

「ふたりはプリキュア Splash Star」の動画に、妖精帝國の「Valkyrja」をBGMに加えた作品でした(「個々人の音楽ランキング」参照)。

あのMAD動画は、とってもとっても愛情に溢れていた作品だったのです。どこのどなたかは存じませぬが、音楽に合わせた細かいカット割り等、あの手間暇のかけ方は、ちょっと見ているだけで、プリヲタ総統にも負けない作者の溢れんばかりのプリキュア愛を感じたものです。

それなのに、それなのに・・・。

今のネットシステムでは、著作権の問題でどうしようもないことは理解します。既存の著作権者の方々からすると、許されざる事情があるのでしょう。しかし、それを甘受したままでは、インターネットの未来はありませんし、この問題を解決しない限り、次のインターネットの時代は来ないと思います。

書きながら思い出しましたが、以前、ブログでも書いたアンパンマンのMAD動画も消されています(「熱くカッコイイアンパンマン」参照)。

今の仕組みでは、MAD作品の類は著作権者の方々にとって、単なる害悪に過ぎないのかもしれません。しかし一方で、そうしたMAD作品を作る方々が抱く、その素材作品に対する愛情は、とても深いのではないかと思えてなりません。それは本来、もっときちんと評価され、ポジティブな方向で活かされるべきだと思うのです。

私は、この問題の原因が、今のインターネットの仕組みにあると考えています。そして、MAD作品が、原作者のためにもなり得るし、それがきちんと感謝や感動のかたちとして、収益に繋がるような仕組みは構築できると信じています(「次世代インターネット」等参照)。

作り手の愛情を、踏みにじるような仕組みだったら、もう要らないっ!・・・そーだ!作品に対する愛を自由に表現できる仕組み、それらが守られる仕組みを作らないといけないんだっ!

よーしっ!愛をとりもどせぇ~っ♪

あ、独り言カテゴリーなので、少々油断して、若干壊れ気味になりました・・・失礼。

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富士山に行ってきました

2010年08月03日 | 日常

8月最初のイベントとして、富士山に行ってきました

 
大混雑の五合目


七合目の山小屋群


八合目からのご来光

今、富士山はものすごい人気のようで、スバルラインの終点である五合目は、とんでもない混みようでした。

一応、私も山頂を目指してみたのですが、今回は諸事情から富士山の頂を踏むこと叶いませんでした。ただそれでも、八合目からはきっちりとご来光を拝むことができ、それだけでも大いに満足です。

まずは日本一の山にもお参りできたし、これからいろいろと動くことになるでしょう・・・きっと。

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