常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

「いただきます」の言い方

2007年08月14日 | 人生

殺生はいけないことです。生きているものを殺してはなりません。これは絶対的に正しいことだと思います。やむを得ず他の生物を殺すことがあったり、人と人とが殺し合う戦争の歴史があったりもしますが、これは仕方なく起こった悲劇であり、けっして正しいことではないと言えるでしょう。

それがたとえ、自分が生きていくためでもです。生きていくためには他の生物を殺して食べなければなりません。自分という個体が生命を維持するためには、その殺生は必要なことであり、それは正しいこととされるかもしれません。戦争はそれぞれが異なる正義を信じるもの同士が殺しあうことであり、一方からみたときには、その「殺す」という行為が正しいこととされるかもしれません。しかし、それらは仕方なく起こってしまっていることであり、けっして「絶対的に正しい」ということではない点が重要です。

もし、生きているものを殺すことが、絶対的に正しいというならば、私たちはもっと積極的に「殺す」という行為をしなければならないはずです。そのことは、周囲のあらゆる生命体を殺すこと、目の前にいる知人、友人、親、兄弟・・・そして自分までをも殺すことこそが、真に正しい道ということを意味します。当然、そんなことが正しいはずもありません。

しかし、現実世界に目を向けると、私たちの世界は「殺生」で溢れています。

それら「殺生」のなかで、ここでは特に人間が生きていくためには、必ず他の生き物を殺して、食べていかなければならないという現実に着目したいと思います。他の生き物を殺して食べないと、生きていけないというのは、人間に限らずほとんどの生物にとっても共通して言えることです。今更言うまでもありませんが、ひとつの生命は、多くの他の生命の犠牲によって成り立っています。

宗教によっては、ある特定の動物は神聖な生き物だから、食してはならないといった戒律があったりします。こうした戒律の存在は、「殺生はいけないこと」という原理原則に忠実であるという意味で正しくはありますが、その対象を「ある特定の動物」に限るところに、本質的な意味や価値を見出すことは難しいと思います。生命は等しく生命なのであって、複数の宗教が食べる対象について、それぞれ異なる動物に特例を設けるというのは、それらがけっして普遍的であるとは言えないことの証左でもあるし、宗教の限界でもあると思います。

宗教のなかにこうした戒律が存在するのは、「殺生はいけないこと」という原理原則と、「殺生しなければ生きられない」という人間が生きていくための現実との矛盾のなかで、自分たちが納得して他の生物の命を奪うための論拠が必要だったからではないかと思われます。

いずれにしても、根本的な問題に立ち戻れば、人間は殺生を繰り返すことでしか、生きていくことができないというのは紛れもない事実であり、そのことと同時に、それがいかなる理由をつけようとも「絶対的に正しい」こととして、正当化されるべきものではないことを認識しなければならないでしょう。これは、人間が「殺生」という罪を重ねながら生きていかなければならないということでもあり、人間はこの現実を受け入れながら生きていかなければならないということでもあります(「原罪とは・・・」参照)。

ところで、このように他の多くの生命を殺してまで、自らを生き長らえさせるという事実を受け入れるということは、実は非常に重いことです。昨日まで生きるために奪ってきた命、今日生きるために奪う命、明日以降も奪い続けなければならない無数の命があってこそ、自分の生命を保てるというのは、大変な重荷になって然るべきであろうと思います。

簡単にイメージしてみましょう。例えば、目の前に出されたトンカツ。さぁ、これから食べようと思うとき、ふと自分のために死んでくれた生命のことを思ってみるのです(「限りなく想像し、創造せよ」参照)。

トンカツの材料は、言うまでもなくブタ肉です。ブタは、所詮ただのブタ。大したことはないと思うかもしれません。しかし、されどブタです。生き物です。感情もあります。できれば生き続けたいと願っていたはずです。そのブタは、どこかの養豚場で育てられたに違いありません。イメージしにくければ、ハリウッド映画に出てくるような「しゃべるブタ」を想像してみてもいいでしょう。養豚場には、親兄弟もいたでしょう。親とは、ずいぶん前に死に別れたかもしれません。大事なことはブタが生き物である以上、たとえ本能的であったとしても、愛憎や喜怒哀楽のような感情や願望といったものが宿っていたはずであるということです。ところがある日、そのブタは親兄弟から引き離され、不安のなかで殺され、痛々しい過程を経て、トンカツとなって、あなたの目の前に現れたのです。

あなたのために死んでくれたこのブタに対して、あなたはどのように考えるでしょうか。少なくとも、自分が生きるためには、他の生物を犠牲にしなければならないのです。自分が生きるためには仕方のないことであり、正しいことでもあります。しかし仕方がないからといって、そのブタの死を無視したり、軽んじたりするべきではないと思います。本来、殺してはならないのです。 こうした矛盾と真剣に向き合ったとき、あなたのなかに自ずと死んでくれたブタに対する感謝の念が芽生えるだろうし、心の底から「いただきます」という言葉が出るようになるでしょう。

そして大切なことは、こうしたことが毎日起こっていて、また今後も続くであろうということです。あなたがこれまで生きてきた過去においても、これから訪れる未来においても、数知れない多くの命を犠牲にしてきており、そのようにして成り立っているのが自分自身なのです。そのことを真剣に考えれば考えるほど、日々自分のために死んでくれている生命に対して感謝の念を持つとともに、それらによって成り立っている自分自身の存在の尊さをかみ締め、さらに自分に命を捧げてくれた生物に対して、自分ができることを真剣に考えるようになるでしょう。

-地球の未来を考え、そのために人生を捧げる-

こうした人生の目的を持つことは、人類のみならず、自分のために命を捧げてくれた生物たちの子孫のためにもなると思います。そんなテーマを持つことができれば、自分自身の尊さを実感できるようになるだろうし、そんな尊い自分の命を繋がせてくれた他の生命に対して、憐れみの心を持ちながらも、堂々とそれに対して感謝し、「いただきます」と言うことができるようになるでしょう。

少しずつでもいいと思います。人間ひとりひとりが、自分自身の存在について、その真の尊さに気付いてくれることを願います。そうしたときに、その人は食べ物を目の前にして、それに対する深い感謝、憐れみ、覚悟の念を持って、心から「いただきます」という言葉が言えるようになるはずです。

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使える人と使えない人

2007年08月06日 | 人生

「あの人は使える」、「あの人は使えない」などと言うことがあります。使える、使えないだけではありません。「あの人は優秀だ」、「あの人はよくできる」、「あの人は頭がいい」、「あの人は信用できる」、「あの人は人望がある」・・・などと言うことがあるし、それとは対照的に「あの人は劣っている」、「あの人はダメだ」、「あの人は頭が悪い」、「あの人は信用できない」、「あの人は人望がない」・・・などと言うこともあります。いずれにせよ、こうした評価をしていくなかで、人間は自分に都合の良い人を「使える人」とし、都合が悪い人、あるいはどうでもよい人を「使えない人」に分類していきます。

ところで、このように評価をするということは、客観的なものと主観的なものの2つに大きく分けることができます。

客観的な評価とは、いわゆる定量的な評価、数字で明確化できるものです。例えば「優れている」という定義を「数学の能力が優れている」と置き換えれば、数学の試験を行うことで、その人の能力についてある程度の目安を測ることはできます。それが「数学」でなくても構いません。語学、芸術、スポーツ・・・何でもよいのです。何かしらの評価対象を決めることができれば、それにあわせた評価軸を当てることができます。この場合で言えば、「数学」という評価対象を決めれば、「試験」という評価軸を当てるといった具合です。

ただし、こうした定量的評価を行うには、必ず評価対象を限定しなければならず、それにあわせた評価軸を設定しなければならないという点に注意が必要です。実は、この評価対象を限定するということだけでも大変なことであり、こうした限られた評価対象のみを持ってして人間を評価することに、如何に限界があるかを考えなければなりません。実は、数学だけでも代数学、解析学、幾何学、応用数学などといった分野によって、それぞれ得意・不得意が分かれるため、この評価対象がよいかどうかも判断が非常に難しいのです。これらは語学、芸術、スポーツなど、それぞれの分野についても、すべて同じように当てはまることです。本来、限定すべき評価対象は無数に存在し、そのうちのひとつの評価対象を持って、人間の絶対的な価値を測ることなど、到底できないということを我々は肝に銘じておく必要があるでしょう。評価対象の絞込みだけでも、これだけの問題があるわけですから、これにあわせた評価軸の設定が如何に難しいかは言うに及びません。

人間に対する定量的評価のこうした問題は、至極当然のことであると知りつつも、現代社会に住まう人間は、兎角それを忘れしまい勝ちとなっていることが恐ろしいことでもあります(「人間の優劣と競争社会」参照)。数字を用いた定量的な評価は、優劣を明確化でき、評価値を可視化できるという点において、説得力を持ちやすくはなるし、参考情報程度にはなり得ますが、けっして絶対的なものではないことに十分注意しなければならないし、それに頼りきってもならないことを忘れてはなりません。

同じように客観的な評価とされうるものとして、定量的評価以外にも受け入れられがちなのが、一般的な社会認識とでもいうべき、いわゆる多数決の論理の結果としての評価です。一般的に社会通念上、「そう思われることが妥当である」とされるものがあり、そうした評価は、客観的な評価として受け入れられやすいものです。例えば「あの人は○○大学出身だから頭がいい」、「あの人は前科があるから信用できない」といった具合で、人間を評価することがこれに当たります。こうした評価は一般的に広く認められやすいため、圧倒的な大多数の主観が同じような評価をするということから、「客観的評価」と思われる傾向にあります。

しかし、この場合の客観というのは、あくまでも多数決の論理の結果であり、基本的には自分以外の主観の集合体でしかない点を見逃してはなりません。他人の主観を軽んじる必要はありませんが、「主観」とは自分自身の見方である、という本来の意味から考えれば、他人の主観以上に自分の主観を重視すべきであることは自明の理です。したがって、この場合のような他の主観の集合体としての客観的評価についても、定量的評価と同じように参考情報程度にしかならないことを十分理解しておく必要があります。

少々、前置きが長くなりましたが、要するに人間の評価というものは、最終的には評価する人間自らがもつ主観によってしか行うことができないということです。そして、評価を行った人間が、その評価結果に基づいて、評価した人間を「使える人間」と「使えない人間」に分別していき、「あの人は使える」、「あの人は使えない」という発言になるということです。

ここでひとつ自問自答していただきたいと思います。あなたの主観で考えていただきたいと思います。

あなたの周囲にはどれだけの「使える人」がいるでしょうか。また、どれだけの「使えない人」がいるでしょうか。周囲だけではありません。この世の中で生きているすべての人々に対して、あなたはどのように「使える人」、「使えない人」を分類できるでしょうか。

「使える人なんてほとんどいない」と答える人がいるかもしれません。「自分は一所懸命やっているが、周囲が使えない人間ばかりで困る」などと言う人もいるでしょう。しかし、端的に言って、このような人は自分の無能さを大いに恥じてほしいと思います。「周りが使えない」というのは、「自分が優秀だけど、他人は無能で使えない」という意味で使っているように見受けられる人がいますが、これは大きな間違いです。まず周りの人々が「使えない人間」としか映らない自分の無能さを恥じるのが先です。

「使える人」がほとんどいないと感じるのは、自らがすべきことをほとんど何も見出していないからです。自分が成すべき大義もなく、ビジョンもなく、またそういうことをやり切ろうとする覚悟もないため、人を「使えない」と安易に切り捨てているに過ぎません。自分が大義をもっていれば、それを真剣にやりきるのに如何に大きな力が必要かを知っているし、多くの人々の手を借りる必要があることを理解しているはずです。そして、それらをやり切ろうという覚悟があれば、周囲にいる人々が残らず「使える人」に見えるはずなのです。

あなたの周囲には、どれだけの「使える人」と「使えない人」がいるでしょうか。周囲だけではありません。地球上には、実にたくさんの人々が生きています。それらの一人一人の人間について、あなたの主観はどのように評価を下して、「使える人」、「使えない人」に分類しているでしょうか。

今すぐでなくてもよいと思います。しかし「使える人」は、多くなっていかなければならなし、「使えない人」は、少なくなっていかなければなりません。そしていつの日か、あなたにとって、あらゆる人が「使える人」になってくれたとき、あなた自身も世界も大きく変わることになるのだと思うのです。

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