常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

自分の頭で掴む世界観

2010年04月30日 | 宗教

-自分の人生を否定された-

テレビを見ていたら、こんなコメントに出くわしました。悔しい気持ち、よく分かる気がします。そして、これから時が進めば進むほど、こう言いたくなる人々や場面が多くなるようにも思います。ただ一方で、そう言ってしまうのと同時に、自分とは何かという自分自身への問いかけも非常に重要だろうと考えます。

自分は何を為そうとしているのか、自分の存在意義とは何か・・・。それを突き詰めてもいないのに、被害者ぶるのは、ある意味でその人の驕りでもあります。自分の人生や存在価値を否定されたと嘆く前に、自分自身について、真剣に考える必要があるでしょう。つまり、自分なりの「きちんとした世界観」を持ち、その中における自分の存在意義や役割というものを、しっかり理解する必要があるということです。

ちなみに、私の個人的な経験からいうと、その「きちんとした世界観」なるものが地球レベルではダメのような気がします。ダメとは、つまり、いずれ誰かに否定され、立ち行かなくなるということです。冷静に考えてみれば、地球規模という意味で使われる「グローバル」というのは、既にだいぶ使い古された言葉であり、それは現代において、誰もが当たり前に考えるべき、当然過ぎるスケールであるとも言えます。

そういう意味で、これからの「きちんとした世界観」は、宇宙規模で考えなければならないと考えます(「宇宙人としての自覚」参照)。

ただし、宇宙等というと、実感が湧かず、ずいぶんと難しく考えてしまう人も多いようです。これもまた、個人的な経験ですが、こうしたテーマについては、宗教が取り上げてくれていることが多く、それをそのまま鵜呑みにしているケースが多いような気がしています。そして、こうした人々の場合、世界観等、自分の生き方の礎ともなる部分を他者に委ねてしまっているせいか、極めて重要な事項について、自分の頭で考えない傾向があるような気がしてなりません。そういう意味で、私としては、人生において核となるべき部分を宗教に頼って、その人の人生が、明るく拓かれ続けるというのは幻想に思えるのです。

もちろん、宗教を全否定するつもりはありません。宗教は、宗教で有用であることは間違いないでしょうし、これまで人類を救済してきたという側面や功績があったことは事実だと思います。しかし、そこに核心を委ねてはならないとも考えます。宇宙レベルの世界観を持つという意味で、既にそれを謳ってくれている宗教は、大変、便利なツールではありますが、あくまでもツールに過ぎないということも重要です。主従逆転してはなりません。

大切なことは、宗教に拠らず、自分自身の頭で考え抜いて、最終的には自らの力で、宇宙レベルの「きちんとした世界観」を掴むということです。最近では、科学の飛躍的な発展に伴い、宇宙について(何が謎であるかを含めて)だいぶいろいろなことが明らかになってきました。こうした分野についても、しっかり注視できていれば、宇宙とは何か、宇宙規模の世界観とは何かを考えることは、けっして難しくないはずです。そして、そうした世界観を持つことができたうえで、自分自身の存在を位置付けることができたら、それはきっと揺らぎない自分へと繋がっていくことでしょう。

-自分の人生を否定された-

これはこれで、事実として、きちんと受け止めるべきです。ただし、ここで「社会が悪い」、「世界が悪い」等と居直ってしまったら、その時点で、その人はこの世における役割を終えてしまうことになります。後に残った人生は、後片付けのための時間にしかなりません。

そこからもう一歩、踏み込んで考えてみるべきでしょう。

-自分に何が足りなかったのか???-

これを突き詰めていくことで、その人の世界観は、その度に広がっていくはずです。

整理してしまえば、極めて、単純な作業でもあります。自分の人生を否定される度に、自問自答をしてみるというだけの話です。これだけの話のなかに、宗教が絡まなければならない理由は認められません。やろうと思えば、いくらでも自分自身で答えを見い出せるはずですし、本来、人間にはそうした力が備わっているとも思います。

そんなことを考えつつ、私としては、これからの人類の行く末が、とてもとても楽しみなのでした。

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思考法を鍛える重要性

2010年04月28日 | 教育

中学時代、数学の授業(たしか中学二年の最初の数学の時間だったと思います)で、「点」の定義を考えさせられました。中学生なりに、あれこれ考えて、それぞれ自分たちの意見を出してみるのですが、なかなか正解が出ません。ことごとく先生に穴を突かれて、ダメ出しを食らうのです。この時、定義というのは、厳格にそれを定めるものであり、いかなる反論にも耐えられるものでなければならず、かなり神経を使って考えなければならないものだと感じました。

最終的に、先生が教えてくれた「点」の定義は、「位置があって、大きさがないもの」というものでした。それまで、「当たり前にある」と思っているものの概念について、いちいち「定義」なるものを考えたことがなかった私にとっては、とても新鮮な体験でした。

この後、「直線」や「三角形」等の定義を考えていくのですが、子供ながらにいちいち「なるほど」と思わされたものです。定義された「点」を使って「直線」の定義が生まれ、さらにその定義された「直線」から「多角形」の定義が生まれていく過程は、実に見事でした。これらの定義は、最初の「点」の定義、謂わば土台の定義がしっかりしているからこそ成り立つものであり、もし「点」の定義が崩れてしまったら、それ以降の定義が全て危うくなるという点においても、大変、興味深かったことを覚えています。

その中で、未だによく分からないのが「円」の定義です。クラスメイトがどんな答えを出したのか、まったく覚えていませんが、自分なりには、相当の自信を持って答えを出した覚えがあります。

-ある点から同じ距離にある点の集まり-

これしかないでしょう!と思って答えたところ、即座に先生からの尋問がありました。

■先生
「点」の定義は何だい?

■自分
位置があって大きさがないものです。

■先生
ほぉ?んで、大きさがないものの集合って、一体何かになるのかい?

■自分
・・・(ぎゃぁっ!!)

たしかにその通りです。そして結局、この「円」の定義については、先生も正解を教えてくれませんでした。以降、この問題は、私の中で未解決のままです。たまに、「点の集合じゃなくて、点の集合で切り取ったもの?あるいは「線」を定義して、それで説明する?」等と思ってみたりしていますが、私は数学者でもないので、今はほとんど考えないようにしています。

ただそれでも、私としては、こうした体験を通じて、思考法を学ぶ楽しさを知りましたし、またそれがとても大切であると思うようになりました。答えの正誤も重要ですが、それを導く過程で、どのように思考しているのかというのは、その人間の生きる力そのものであり、これを軽視するわけにはいかないと思うのです。特に現代のような時代では、なおさらのことでしょう。

臨機応変に対処する、柔軟に物事を捉える、解決策を見出す・・・といった能力は、まさに思考法の問題です。つまり答えの正誤というよりも、どのように思考するかという点がポイントだろうということです。これは、諸々の価値観やシステムが限界を迎え、新しい仕組みが必要とされる現代においては、ますます重要性を増していくだろうと考えます。そういう意味で、今後の子供たちの教育において、こうした思考法の鍛錬というのは、さらに重視されるべきだと思うのです。

また、私としては、この数学の授業における「点」の定義の位置づけについても、なかなか面白みを感じています。つまり、二次元の平面世界を考えていく中で、「点」の定義が、極めて基礎的な地位を占めており、その積み重ねの上に、二次元世界の解釈が成り立っているということです(厳密に幾何学の世界で、「点」の定義がどう論じられているかはさておき、中学生の時分にひとつの幾何学的な解釈を試みる中で、全てが「点」の定義から出発しているという点に、極めて重要な意味があると考えます)。

そして、こうした問題は、幾何学の世界に留まらず、広く自然科学、社会科学を含む、科学全般に通じて言えることだとも思います。

若干、別の話かもしれませんが、例えば、物理の世界においては、上記の話における「点」の定義、つまり全ての議論の土台、基礎ともなるべき素粒子については、まだまだ分からないことだらけというのが実情です。これは即ち、物理の世界が極めて曖昧であることの証左でもあります(「優等生なアインシュタイン」、「揺らめく現実世界」等参照)。

基礎が定まらずして、その上が盤石であるはずがありません。「点」の定義が揺らげば、「直線」や「三角形」の定義が揺らぐでしょうし、「点」の定義に不備が認められれば、それ以降の定義は、全て見直しをせざるを得ないわけです。現代の物理学というのは、そうした心許ない状況にあるとも言えるでしょう。そして、このような問題は、物理に限らず、あらゆる科学に通じて言えることだと思うのです。

子供たちに、科学的知識を植え付けることは重要です。しかし同時に、「科学の危さ」を認識した上で、それを紐解くための思考法を授ける、あるいは思考能力を伸ばすための努力も、同じように重要なのではないかと思います。近年論じられる、独創性のある子供、創造性のある子供を育てるということは、即ち、思考法を鍛錬するということでもあるしょう。私なりには、思考法を鍛錬する新しい教育を実践するため、「点」の定義を考えさせるような授業の中に、何かしらのヒントが隠れているように思えてなりません。

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「後片付け」に感謝

2010年04月27日 | 人生

-社会が後片付けを始めている-

最近、何となくそんなことを思うようになっています。政治、経済、教育、国家、宗教、科学・・・それぞれの分野で、リーダーとされる方々が頑張っていらっしゃいますが、今、彼らは懸命になって、次の時代に向けた「後片付け」をしているように思うのです。

このブログで、繰り返し述べていることですが、これから先、人類は全く新しい段階に入っていくでしょう。これに合わせて、これまで人類が築き上げてきた社会システムや観念は、大きく変わっていくことになると思われます。つまり、「新しい人類とは何か?」、「新しい人類の資質とは?」、「新しい人類の社会システムとは?」といったことが、次々と具現化していくであろうということです。

率直な感想として、そうしたテーマについて、真に新しい段階を見据えて行動しているリーダーがいるかどうかについては、今のところ「皆無」と答えるしかないだろうと考えています。それは私なりに、日本や世界のリーダーとされる方々の思考やビジョンを読み解いていった末の結論です。

しかし一方で、その「リーダー」たちは、新しい時代に行き着く前の「後片付け」を懸命になってしてくれているとも思います。こうした「後片付け」は、とても重要です。それは「新しい人類」の姿を見据え、そのための社会システムを構築しようとしている者たちには、けっしてできない仕事でもあります。一人の人間には限界があり、それぞれが役割分担をしながら生きていかなければいけないことを考えれば、それは当然のことなのかもしません。

旧時代の「後片付け」がなければ、新しい時代の仕組みが機能することはありません。この「後片付け」には、旧時代の社会システムを終わらせるということのみならず、それにいつまでもしがみつこうとする人間の甘え、そこに蔓延った人間の甘えを除去するという意味も含まれています。

「新しい人類」の時代について考える際、その社会システムというのは、極めて当たり前のことながら、「新しい人類」のためのものでなければなりません。これを言い換えると、新しい時代の社会システムは、現在の人類には相応しくないということでもあります。今の人類は、私を含めて「新しい人類」ではありません。それは即ち、旧時代から引きずっている「甘え」があるということです。これを引きずったままでは、「新しい人類」のための仕組みが、きちんと機能するはずがないのです。この仕組みが機能するようになるためには、人類の側が新しい仕組みを操れるだけの力を備えなければならないということです。

身近な例を挙げると、今、民主党による事業仕分けなるものが行われています。私の立場からすると、こうした作業によって、真に新しい時代が開けるとは思いませんし、そうした手法に頼らざるを得ない方々が、新しい時代を作れるはずもないだろうと考えています。しかし同時に、こうした作業をしてくれないと、たとえ新しい社会システムを作ったとしても、それは旧時代の「甘えた構造」に慣れてしまった人間たちに食い潰されるだけで、全く機能しなくなるだろうとも思うのです。

つまり、事業仕分けというのは、旧時代の遺物、それに巣食ってしまった人間たちの「甘え」を取り除く作業として、非常に重要だろうと考えるわけです。これは今日においては民主党ですが、この先しばらくの間、みんなの党をはじめとする「しがらみなき新党」でも続くことであり、これらは新しい時代や社会の創造に至らないまでも、旧時代の「後片付け」という意味では、大変重要な役割を果たすだろうということでもあります。

このように考えると、新しい時代を作る能力やビジョンを持たぬことが、即ち、「悪」なのではなく、そのなかでも懸命にやるべきことを見つけて、「後片付け」という仕事でも、淡々と行ってくれることが、とても大切なのだろうと思えてくるわけです。

人間には、それぞれに役割分担があります。一人の人間が、全てをやり遂げる等というのは幻想でしかありません。今、社会は懸命に「後片付け」をしてくれているのです。真に「新しい時代」、「新しい人類」の姿を見出している人々は、そのことを肝に銘じ、また感謝しながら、自らの「甘え」を取り除きつつ、思い描く社会作りにまい進していけばよいのでしょう。

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シーズンに向けた準備

2010年04月21日 | 日常

-体、大きくなりました?-

ふと、休憩時間に聞かれました。

はい、間違いなく大きくなりました。若干、太ったようにも見えますが、偏に筋トレの効果です(「分かりやすい肉体鍛錬」参照)。きっと、普通に会社勤めをしている方々よりも、時間的余裕はあるし、筋肉の回復期間を考慮したりする等、一応、それなりに真面目にやっているので、きちんと効果が表れたということでしょう。

半年足らずの努力で、着衣越しにでも分かるような効果が出るというのは、それなりにやり甲斐を感じます。もちろん、「継続は力なり」なので、続けていかないといけません。さらに、これがボールを投げたり、走ってみたりという運動の中で、効果を感じられるようになると、一層、筋トレの意義を実感することになるのでしょう。

ただし、筋トレは、あくまでも冬ごもり(引きこもり?)の期間を利用した準備運動に過ぎないので、これからの暖かい季節に向けて、きちんとした運動ができるような環境を整えていきたいと思います。

グラウンドの確保とか、メンバー集めとか・・・。具体的には、野球をしたいと思っているので、その辺りが今後の課題です。

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「なんちゃって」の重要性

2010年04月19日 | 日常

最近、本を読んでいます。

普段、あまり読書をすることはないのですが、先日、友人が飲み会の最中、わざわざ中座して書店まで行って、自分のために書籍を買ってきてくれたので、それを読んだりしています。「○○って本、読んでみなよ」というレベルだったら、多分、読んでいないでしょう。今回のケースでは、わざわざ雨の中、飲み屋を出て、本屋まで行ってくるという行為にまで及んでくれた友人に対して、私なりに、その心意気にきちんと応えなければと思った次第です。

渡された本は数冊あります。そのうちの一つが、ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」なる本でした。

総論、言いたいことはよく分かる気がします。細かい言葉の定義や捉え方等については、往々にして書き手と読み手の間に、ギャップがあるものですし、これは訳文でもあるので、細部に関して何かを言及するほど、隅々まで書き手の意図を理解しているとは思いません。ただし、言わんとすることは、一度は自分も思いを巡らせたものであり、非常によく分かる気がするのです。特に個人的には、イエス・キリストという人物に対する思いには、とても通じるものがあるようにも感じました。

ところで、私なりには、所々で「ツァラトゥストラ君、もう少し、肩の力を抜いていいんじゃないのかな?」と突っ込みたくなってしまいました。もう少し言うと、言葉の最後に「なんちゃって」と言ってのけるくらい余裕があってもいいのではないかというのが、私の率直な感想でした。

世界は、常に二面性を孕んでいます。表と裏、陰と陽、光と影・・・。ツァラトゥストラ(あるいはニーチェ?)の問題意識、世界観、人類への熱い想いはとても立派ですし、それは個人にとっても、人類全体にとっても非常に大切なことだと思います。

しかし、彼の言は、そのうちの片面ばかりが強く出ている点、否めません。

物事を論ずる以上、視点を定めなければいけませんし、そうでなければ論ずること自体が不可能になってしまいます。したがって、その視点を定めること自体は、致し方ないことだろうと考えます。ただし、それだけに拠ってしまっては、二面性を抱える世の片面しか言い当てることができず、もう片面については、バッサリと切り捨てざるを得なくなります。これこそが、論じるということの限界です。これを踏まえたうえで物事を論じる為には、「白」と言った瞬間、次に「黒」と言えるくらいの余裕が必要になるわけです。

つまり、「+1」を論じつつ、「-1」も受け入れる姿勢がとても大切だという事です。これは話のテーマが大きくなっても変わりません。「+100」を論じたら、「-100」を許容しなければなりませんし、「+10,000」を主張する一方で、「-10,000」を否定しない姿勢は、極めて重要であるということです。

特にこうした考え方は、今後の新しい世界秩序の形成において、とても重要なことだと思います(「脱亜入欧の終焉」等参照)。ニーチェが生きた時代、世界の仕組み、宇宙の姿、人類の存在意義、超人や創造主のあり様等を論ずるには、それらを一面から捉えていくということは、とても自然なことだったでしょうし、むしろそれで十分だったのではないかと考えます。しかし、これから先の時代においては、瞬時に両面を捉えるということが、これまで以上に重要でなるであろうと思えてなりません。

そういう意味で、ツァラトゥストラの言葉は、肩意地が張りすぎていて、現代から先の時代においては、通用しないスタイルになっているように思われるのです。私なりには、もう少し逆の視点や違った立場からの意見に対しても、柔軟に受け答えができるように、全ての言葉の最後に「なんちゃって」を付けるくらいのユーモアと余裕があったら、この作品はもっと先の時代にも、十分、通用する書物になるのではないかと思うのでした。

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2010年4月期のアニメ

2010年04月16日 | ランキング

4月から始まったアニメ、一部を除いて、大体一巡したようです。いつものことながら、こういうものを明確にランク付けするのは、非常に難しいです。きっと明日には、全く別のランキングになっていたりするのでしょう。ただ、それでも、とりあえず今の気分で、適当に「楽しみにしているランキング」をつけてみるのも面白いので、そういう軽いノリで、以下の通り、整理してみました。

順位

タイトル
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WORKING!!
何といっても、ぽぷらちゃんです。プルプル震えながら、背伸びするぽぷらちゃんは可愛すぎます。いつまで経っても、「カタナシ君」で許されるのも納得!

けいおん!!
やっぱり、けいおんは面白いです。唯、相変わらず、緩くてよろしいです。OP曲もノリノリでサイコーですね。

荒川アンダーザブリッジ
自分的には新しいアニメです。ニノさん、大好き!実在されたら困るでしょうが、テレビ越しに見ているだけなら、とっても愉快なキャラだと思います。

GIANT KILLING
サッカーアニメは、あまり見たことがないのですが、これはとてもよく出来ていると思います。今後のETUの浮沈に注目しております。

会長はメイド様!
少々、空回り気味ながら、一所懸命頑張っている会長さんに好感を覚えます。ツンデレの原型といった感じでしょうか・・・。

おおきく振りかぶって~夏の大会編~
とにかく、爽やかなところが良いです。自分も、高校時代に野球をやっていましたが、こんなに爽やかに楽しめたらとつくづく思います。

B型H系
山田の暴走ぶり、妄想ぶり、勘違いぶりが楽しいです。それとともに、チェリー君の行く末がちょっと心配・・・(笑)。

MAJOR 6th Series
6期とか・・・それだけで、すごいでしょう。

閃光のナイトレイド
まだ話の全容が掴めていませんが、とにかく絵がキレイだし、すごく作り込まれている印象です。とりあえず、今後の展開を楽しみにしています。

10

真・恋姫†無双~乙女大乱~
三国志キャラは、とにかく基本的に好きです。今期は一騎当千もありますが、個人的には、セクシー系を強調されるとひいてしまうので、そういう意味で、こっちをランクインです。

その他、今期のアニメで見ているのは、「HEROMAN」、「いちばんうしろの大魔王」、「Angel Beats!」、「薄桜鬼」、「kiss×sis」、「迷い猫オーバーラン!」、「一騎当千 XTREME XECUTOR」、「裏切りは僕の名前を知っている」、「さらい屋五葉」といった感じです。相変わらず、各作品、終盤に向けて何が起こるのか分からないので、できる限り、ついて行きたいと思います。

ちなみに3月で終わってしまったものは、「君に届け」、「とある科学の超電磁砲」、「戦う司書 The Book of Bantorra」等も良かったですが、意外と最終回で盛り上がったのが、「こばと。」や「おおかみかくし」でした。特に、「おおかみかくし」は、ずっとシリアス展開だったところに、最後にきてギャグ回で終わらせるという、少々反則っぽい最終回でしたが、あれはあれでとても良かったと思います。

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アニメ業界の自虐行為

2010年04月14日 | 産業

「借りぐらしのアリエッティ」の声優陣が発表されました。大体、予想をしていたことではありますが、キャストがタレントばかりだったことに、少々、ガッカリしております。

今のメディアシステムで映画を売っていくためには、こうした手法が有効なのでしょう。そうした手法を駆使した人たちが、業界を制していくというのは、ある意味、仕方がないことだと思います。

ただ一方で、それを手放しで受け入れるほど、寛容でいられるわけでもありません。いろいろな思いが頭のなかを巡ります。

=========================
作品としてのクオリティは保たれるのか?

声優を目指して努力している若者たちの未来はどうなのか?

健全なアニメ界の発展に寄与しているのか?

こうした手法が格差社会の是正に繋がるのか?
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書き出すとキリがありませんが、とりあえず以下、ミクロとマクロの視点から感じることを整理してみます。

まず、ミクロな視点でいえば、単純に高いお金を払って観に行くのはゴメンです。

これは極めて個人的なものですが、前作をそれなりの料金を支払って、映画館で観た時、「もう観たくない」と感じました(「名に恥じぬ仕事」参照)。それを踏まえての今回のキャスト発表は、今後、同所から出てくるアニメを、お金を払っては一切見ないと決心するのに十分なものでした。今後、何か新しい要素が出てこない限り、ここから発表されるアニメはチェックしなくて済みそうです。

ちなみに、前作において、興行収入の高さが話題になりましたが、これを単純に「それだけ高い評価を受けた」と解すべきかは不明です。むしろ、多くの観客を動員させて、それだけたくさんの人々に「もうゴメンだ」と思わせた側面もあるのではないかと思うのです。このあたりについては、今後、メディアシステムの変質とともに、じっくりと見守っていきたいと考えます。

一方で、今回のキャストをマクロな視点からいうと、アニメ業界の廃退を予感させます。

アニメ業界を隆盛させるには、それを支える人々に活気を与えなければなりません。しかし、一般的に声優業については、ギャラの低さが問題視されたりしています。実際には、こうした問題は声優業に限らず、アニメ制作に携わる多くの方々に言えることのようです。いずれにせよ、少なくとも声優のギャラが低いというのは、言い換えれば、それだけアニメの価値が認められていないということであり、単純にアニメの社会的地位が低いということかもしれません。これはこれとして、現状を素直に受け入れるべきでしょう。

しかし、私自身、日本のアニメには世界を変えるだけの大きな力を感じていますし、それを支える方々には、それなりの評価と報酬が与えられて然るべきだと強く思っております(「観光立国日本へのヒント」、「コミケに見る可能性」等参照)。そういう意味でも、声優という仕事はアニメのなかで重要な役割を果たしていると思うのです(「声優をナメちゃいかん」、「声優のハリウッドスター化」参照)。

翻って、今回の「借りぐらしのアリエッティ」のキャストを見る限り、これがアニメ業界の方々(それもかなり上とされる方々)による声優業の否定ではないかとも思えるわけです。このことは、社会的地位云々の次元ではなく、アニメ業界の人々が自らの首を絞めている行為でもあると言えると思います。この点、アニメ業界の将来にとっては、非常に大きな問題であると捉えるべきでしょう。

さらに、この問題は、今日の格差社会の助長にも繋がることに注意を払わなければなりません。つまり、顔が売れているタレントに仕事を回して、実力があっても無名な声優には仕事を回さないという流れから、両者の溝をますます深めていると言えるわけです(「被害者意識を乗り越えて」、「次時代コンテンツの評価」等参照)。こうした動きが、今後の健全なアニメ業界、さらには発展的な社会を構築していく上での重大な障害になりかねない点、けっして忘れてはならないと思います。

いずれにせよ、こうした観点から、今回のキャスト発表は、アニメ業界による自虐行為ではないかと思えてなりません。私自身、本件の当事者でない以上、これに関わることはできませんが、私なりに今日のメディアシステムの限界をひしひしと感じつつ、あらためて新しいメディアシステムの構築に注力していなかなければならないと思うのでした。

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それぞれの危機感

2010年04月11日 | 人生

-君たちが持っていない危機感を我々年寄りは持っている-

とある新党の結成記者会見で述べられた言葉です。きっと、そうなのでしょう。まったく否定するつもりはありません。

ただし、こうも言えると思います。

-あなたたちが持っていない危機感を若い人たちは持っている-

若さというのは、生きるべき未来を多く抱えているということでもあります。当然、若者は、未来に対して真剣にならざるを得ず、ある意味で年配の方々よりも、そうした問題に真正面から向き合っているとも言えるでしょう。それをうわべだけで判断し、「若者たちには危機感がない」などと決め付けるようなことは、けっしてあってはならないと思います(「若者だからこそ真剣」参照)。

この「若い人」というなかに、(年齢的に)自分を入れて良いのかは分かりませんが、もちろん私にも私なりの危機感があります(「子供たちへのバトンタッチ」参照)。

結局、危機感というのは、人それぞれであり、またそれを解消するための生き方も、人それぞれということなのでしょう。

「年寄りなりの危機感」、これはこれで大いに結構なことだと思います。そう考える方々は、ご自分たちが信じられる道を、それぞれ進んで行かれたら良いのだろうと考えます。

一方で私、あるいは私たちは、そうした年配の方々とは別の危機感に基づいて、異なる視点から、必要とされる行動を取っていけば良いはずです。

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「賢者の石」を使う覚悟

2010年04月05日 | 歌詞&台詞

鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST」に出てきた台詞に、生命を食らわねば生きていけない自分たちのあるべき心構えを感じました。

以下、絶体絶命の場面で、人間の命で生成された「賢者の石」を使うことを躊躇うアルフォンスに放たれた言葉です。

===========================
あぁ知ってる。こいつは人の命でできてるってんだろ?(中略)だったら、お前のためじゃなく、世界を守るために使ってやれ。こんな石ころになってるのに、まだ人の命として認めてるお前だから頼むんだ。(中略)どんな見てくれになったって、大事なものを守るために戦いたいんだよ。こいつらにも戦わせてやってくれ。
===========================

この言葉を聞いてふっ切れたアルフォンスは、「賢者の石」を使うことを決めました。私なりには、このことが私たちの食事のあり方と結びつくような気がするのです。

私たちは、生命の大切さについて語りますし、それを守るために生きています。しかし一方で、他の生命を犠牲にして食べていかなければ、自分の生命を保つことができないという矛盾を抱えています。ただ、その矛盾について、「賢者の石」を使うことを躊躇うアルフォンスのように躊躇するわけにはいきません。通常、私たちは、何か特別なことがない限り、毎日、「いただきます」と言って、そうした生命を口にしなければいけないのです。そして、それが宿命ならば、そうした生命を口にしながら生きながらえる自分の命を、自分のためだけではなく、世界を守るために使うことが求められて当然ではないかと思います。

少々、横道に逸れるかもしれませんが、人類は「霊長類」として分類されます。つまり、全ての霊の長たる存在なのです。その人類が、全ての生命についてきちんと思いを馳せ、他の生命たちのために生きるというのは、とても重要ではないかと思うのです。それと同時に、食事というのは、その人類が他の生命を犠牲にするのですから、それなりの覚悟を持って望むべきは、至極、当然だろうとも考えます。

そのように考えると、毎日の食事に出てくる「終わった生命」が、かたちを変えた「賢者の石」に見えてくるかもしれません。そして、それは大変に重いものであることも理解できるようになるでしょう(「「いただきます」の言い方」)。

そういう意味で、食事というのは、とても神聖なものなのだろうと思いますし、アルフォンスが「賢者の石」を使うときのような覚悟が必要なのではないかと思ったりするのでした。

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「優秀な若者」たちの氾濫

2010年04月02日 | 社会

新年度のスタートとともに、新社会人の話題が多く取り上げられていました。新しい時代を担う人々として、大いに活躍していただきたいと思います。

一方で、就職できなかった人々も多く、そういう若者はハローワークに通ったり、来年の新卒採用を狙って、わざと留年したりということまでしているようです。

-自分がダメ人間になったような気がします-

就職できなかった若者が、テレビのインタビューに答えていました。これはこれで、大いに悩めばいいのだろうと思います。

先日、とある企業の人事担当の方とお話をしましたが、優秀な学生は、企業間でかなり熾烈な取り合いになるとのことでした。企業にとっては、新規採用となれば、優秀な人材を確保すべきであることは当然のことですし、そこから漏れた学生は、やはり優秀な人材ではないと言うこともできるのだろうと思います。

しかし、私個人としては、それだけが全てではないとも考えます。むしろ、とてつもないパラダイムシフトが予見される今日において、なかなか就職できずに苦労をしている人、今の枠組みで評価されなかった人の方が、これからの時代における優秀な人材となる可能性を秘めているように思うのです。もう少し踏み込んで言えば、これから先、戦後ベンチャーを超えるような巨大ベンチャーが次々と興るべき時代において、「いかに逆境に強いか」が求められる重要な資質なのであり、そういう意味で、現在、就職できずに苦労している若者の方が、就職できてしまった若者たちよりも、リアルに「逆境」を経験しているわけです。これは、将来に向けて、非常に大切な資質を磨いていると見ることもできるでしょう。

こんなことを考える私から見た場合、すんなりと就職できた若者、いわゆる「優秀な若者」には、ほとんど魅力を感じることがなく、一方で就職難で苦労している学生の方が、「優秀な若者」に見えてしまったりします。

例え話として適当かどうかは分かりませんが、日本が将来の道筋を見失いかけ、混迷を極めた幕末の時代、若者の生き方は、いくつかのパターンに分かれたのではないかと思います。そのなかで、結果的には滅びゆく幕藩体制を支える側の勢力のために命を懸けた新撰組のような人々もいました。特段、新撰組の生き方を否定するつもりはありません。ただし、現存の企業に就職して、その中で何とかなるとばかり考える若者がいるとしたら、それは「新撰組ではないか?」と思ってしまったりするのです。そして、私なりに次時代の姿を見据えつつ、現代社会の枠組みの限界を考慮すると、そこに収まらない若者たちに大きな可能性を感じるとともに、大いなる声援を送りたくなるわけです(「軽々に動くことなかれ」参照)。

こうした観点から、報道にもあるように就職浪人が増えるということ自体、過度に悲観するような話ではなく、もしかしたら「優秀な若者」が溢れ返っているということかもしれない点、ちょっと指摘しておきたいと思うのでした。そして、そうした「優秀な若者」たちの氾濫は、いずれ大きな「優秀な若者」たちの反乱となって、世の中を劇的に変えていく原動力になっていくような気がします。

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