常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

次時代のコンテンツ評価

2008年02月02日 | 産業

マスメディアは、不特定多数(大衆)に対して、決まったメッセージやコンテンツを送るのにうまく機能します。例えば放送については、「同報性」という言葉を使ったりしますが、要するに同じ時間に同じコンテンツ(番組)を、不特定多数の人々に発信するというのが、放送の得意とするところなわけです。

反対に、ライフスタイルやコンテンツの多様化が進んでしまっているような現代において、マスメディアはそうした多様化したものに対応するということが、あまり得意ではないと言えるでしょう。テレビ放送について、その理由を端的に言えば二つの拘束、つまり「チャンネル」と「時間」に集約できると思います(ラジオ、雑誌、新聞等についても、同じように「拘束」要素があると考えますが、ここではマスメディアの代表として、テレビを例に挙げて、説明を続けたいと思います)。詳しく説明するまでもありませんが、テレビの場合、基本的に1つの放送局が1つのチャンネルを持っており、そこに1日ある24時間の内、それぞれ適当な時間帯に番組を割り振って、視聴者にコンテンツを発信しています。なかにはゴールデンタイムと呼ばれるような、多くの人々にリーチすることが期待できる時間帯があったり、深夜のように視聴者が少ないため、若干試験的なコンテンツを流すような時間帯がある等の濃淡があります。放送局はそれらをうまく使い分けながら、視聴者に対してコンテンツを発信しているわけです。

こうした仕組みにおいて、視聴者は放送局が持つチャンネルと、放送局が設定した時間帯に合わせて、そのコンテンツを楽しむというのが、基本的なスタイルになります。テレビ放送が始まった当初、「街頭テレビ」と呼ばれるものがありましたが、これなどはまさにテレビの基本スタイルであり、放送局が指定したチャンネルと時間帯(さらにはテレビが置かれた場所)に合わせて、多くの視聴者が楽しむことを前提としていたわけです。

しかし、視聴者のライフスタイルが多様化することで、テレビを巡る環境も徐々に変わってきました。最初に起こったのは、時間からの解放です。つまり、視聴者の生活が忙しくなり、見たいコンテンツが、都合のいい時間帯に放送されないというケースに対応する仕組みが生まれたのです。それがビデオです。ただし、まだこの段階においては、放送局は自らが持つリソース(1チャンネルと時間(最大で1日24時間))内で、視聴者の「コンテンツを楽しみたい」という欲求を満たすことができていたと言えるでしょう。即ち、この段階におけるビデオというのは、あくまでもテレビの視聴を促すための補助的な役割を果たしていたに留まり、テレビは従来どおりの放送を続けることができていたということです。

ところが、次第に状況が変わってきます。まずはビデオの普及によって、視聴者はテレビで放送されていないコンテンツを楽しむことができるようになりました。例えば、映画やミュージックビデオ等が、これに当たります。本来、テレビ放送の「時間帯」という制約条件を克服し、視聴者に対してテレビコンテンツの視聴を促すために生まれたビデオが、テレビとは別のコンテンツを楽しむための道具となり、結果としてテレビコンテンツの視聴時間を奪う効果を生むことになったのです。ただしこのことは、テレビにとって多少ネガティブな効果があったにせよ、視聴者にとっては、ニーズや楽しみ方の多様化を意味しており、歓迎すべきことであったと思います。

そして、レンタルビデオビジネスの急速な成長によって、映画コンテンツ等についても、こうしたDVDによる収入を見込むようになる等、テレビ以外のコンテンツ市場は劇的に拡大し、視聴者はより一層、そうした多様化したコンテンツを楽しむようになったのです。またこうした多様化の流れは、テレビ放送を前提としないコンテンツ制作を促すことになりました。VシネマやOVA等がそれであり、こうしたコンテンツはテレビを経由せず、視聴者の家にあるビデオやDVDプレイヤーで再生されることを前提に制作されたものです。

さらに最近では、情報通信インフラが高度に発達し、PCやインターネットを通じて、そもそも営利目的としないアマチュアのコンテンツ等も含めて、無数のコンテンツが出回るようになりました。もはやこうなると、テレビの放送局が持っている1つのチャンネルと限られた時間(1日24時間)というリソースで、それらすべてを扱うことは到底不可能となります。結果として、テレビは無数にあるコンテンツのなかから、ごく少数のコンテンツを引っ張りあげて、放送して流すことしかできなくなるのです。これが冒頭に指摘したように、マスメディアは多様化への対応があまり得意ではないという理由です。

しかし私は、このことを単に、マスメディアの問題としてのみ捉えるべきではないと思っています。かつてのコンテンツ制作は、極めて限られた人々にしか門戸が開かれていませんでしたが、今日においては、コンテンツ制作に関する様々な技術革新により、その裾野は広く一般に開放されています(「コンテンツ制作体制の未来」、「「才能の無駄遣い」の克服」等参照)。このことは、コンテンツの制作者が、無数に生まれつつあるということと、それら制作者の質が平準化していくことを意味しており、今後、こういう状況をきちんと汲み取ったかたちで、メディア作りをしていかないと、これからの日本のコンテンツ業界全体が活力を失う可能性があるのではないかと考えます。

ただその議論に入る前に、「平準化」という言葉の意味については、誤解の恐れがあるので、若干の補足をしておきます。まず、これまでのテレビに代表されるマスメディアは、特定の限られた人々によって、特定の限られたコンテンツを配信できるシステムということで、ここでは仮に「クローズドメディア」と呼びたいと思います。クローズドメディアでは、無数のコンテンツと制作者の全てを相手にすることができないため、そのいくつかをピックアップして、発信しています。その結果、そのメディアの上に乗れる極少数の「スター」と、そこには乗らない大勢の「落ちこぼれ」を生んでしまっているというのが、クローズドメディアの現状です。そして極少数の「スター」は、(たとえ一時的にせよ)社会的な評価も報酬も非常に高い水準で得られるようになる一方で、大多数の「落ちこぼれ」には、それらはほとんど得られないという格差の構図を作り出すことになっているのです。しかし、上記のようなコンテンツ制作技術の発達によって、実はコンテンツの質や制作者の才能の差は、社会的な評価や報酬の差ほどはなく、またその差は、どんどんと狭まってきているというのが、ここで言う「平準化」です。

こうしたコンテンツの質や制作者の才能の平準化が進むなかで、私たちが考えるべき問題は、クローズドメディアから溢れてしまっている才能が、社会的評価や報酬を得られないまま、報われずに死んでいく可能性です。これは大変もったいないことであり、この問題を放置して、事態が深刻化するようなことでもあれば、そうした制作者にとっての不幸に留まらず、本来コンテンツを楽しむべき立場にある一般視聴者たちにとっての不幸にもなりかねません。私はこうした問題について、インターネット等、参加型の「オープンメディア」による、コンテンツ配信が有効に機能する可能性があると考えます。オープンメディアでは、従来のように極少数の「スター」を輩出するような、派手なことはないかもしれませんが、大多数の「落ちこぼれ」に対して、それなりの評価を与えるといったことはできるわけで、それはニーズの多様化が進んでいる現代において、当然のことであり、またあるべき姿ではないかと思います。これからは、むしろそうした多様で無数のコンテンツに対応して、それぞれの才能に見合った評価をしていくかということの方が、肝要ではないかと思うのです。

もちろん、これらの仕組みを用いて、各制作者に対していかに「報酬」に結び付けていくかといった課題は残ります。それには、著作権やシステム的な課題があることも事実ですが、私はそれらの課題は十分に解決可能であり、またそうしたオープンメディアを積極的に活かしていくことが、これからのコンテンツ業界を活性化させるためには必要であろうと考えるのです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「バンブーブレード」のOP | トップ | 光速を超える方法 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

産業」カテゴリの最新記事