常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

Googleにも見えていない

2010年02月26日 | 産業

Google Videoに投稿されたビデオに関連して、Googleの幹部がイタリアで訴えられ、プライバシー法違反で有罪になったという報道がありました。

はっきり言って、メチャクチャな判決だと思います。Googleは控訴するとしており、最終的にどうなるのかは分かりません。ただこのことは、所詮、今のインターネットの仕組みが、そういうメチャクチャな判決を出させてしまうほど、大したものではないということの表れなのだろうと考えます。

今日のインターネットの限界については、私がこのブログの中で、繰り返し述べてきております(「大量犯罪者時代への分岐」、「責任を伴う「場」の提供」、「インターネットのリアル化」等参照)。そして、インターネットやコンピューターの業界に携わっている関係者の方々は、こうした問題に対して、今後、真剣に取り組まなければならない点、私なりに述べてきたつもりです。

しかし、今回の一件を見る限り、業界のトップランナーであるGoogleでさえも、このことには気付けていないように感じます。

本問題について、Googleは「あらゆるソーシャルサービスはユーザーが投稿するテキスト、画像、ファイル、ビデオなどすべてのコンテンツについて責任を負うことになり、現行のWebは成り立たなくなる」と主張しているようです。言いたいことはよく分かります。私の感覚からしても、今回の判決はメチャクチャですし、Googleの言う通りだというほかないと考えます。しかし、そもそも「現行のWeb」の仕組みを信じ過ぎている、「現行のWeb」の限界を理解していないことが、業界のトップランナーたるGoogleの致命的な限界であるようにも感じるのです。

Googleが指摘する通り、こんなことがまかり通るようでは、早晩、「現行のWeb」は成り立たなくなるでしょう。否、もともと「現行のWeb」等というものは、それほど大した仕組みではなく、成り立たなくなって当然なのです。その思考ができていないことの方が、現在の業界にとっての大問題かもしれません。

「現行のWeb」が荒れれば荒れるほど、新しいプレイヤーにとっては、チャンスになるでしょう。そして、その時が訪れた暁には、Googleですら見えていないものを見据えている人々が、これまでにない新しい価値や仕組みを提供するようになると思うのです。

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訴訟大国アメリカの限界

2010年02月25日 | 社会

トヨタのリコール問題について、公聴会が開かれ、社会の耳目を集めています。この報道を見ていると、訴訟大国とも言われるアメリカの限界を感じるとともに、同国の行く末も見えるような気がしてきます。

今回の一連の流れの中で、トヨタに非がないとは言いません。顧客の声を真摯に受け止めず、問題と向き合ってこなかった姿勢は、厳に反省を求めるべきでしょうし、またそれは至極、理に叶っているものだと思います。ただ、今回の公聴会の議論には、そうしたトヨタの隙を突いて、過度な言いがかりをつけている可能性も否定できず、それは偏に今日のアメリカ社会の限界であるかもしれないと思うのです。

公聴会の最初の証人、ロンダ・スミスさんの証言は非常に興味深いです。

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2006年10月、新車の「レクサスES350」を運転中、高速道路に合流したところで、アクセルの制御が利かなくなった。ギアをニュートラルやバックに変えたり、両足でブレーキを踏みながらハンドブレーキを使ったりしたが、車は時速160キロまで加速を続けた。
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この証言から、当初、アクセルの不具合はフロアマット等の物理的要因と言われていましたが、電子制御部分の問題である可能性が指摘されているわけです。これに対して、トヨタ側はその可能性を否定し続けています。こうした問題について、断定することは極めて難しいですが、私の感覚として、指摘されているような電子制御系の問題であるとするならば、これは自動車が自動車として成り立たなくなるほどの極めて重大な欠陥であろうと思います。ブレーキ、それもハンドブレーキやミッションも効かないというのは、自動車の基本的な機能障害と言わざるを得ません。

要はアクセルを踏まず、一方でブレーキを踏んでも、ミッションを切り替えても、勝手に走ってしまうのですから、もうどうすることもできないわけです。ほとんど自動車が勝手に動き出す、SF映画の世界に近い状態です。これについて、トヨタはいろいろな調査をしており、電子制御には問題ないと言っていますが、それは当り前でしょう。なぜなら、そんなことが本当にあり得るのであれば、もっといろいろなところで(SF映画でロボットが人間に反乱を起こすように)自動車が暴走しているはずです。同型車種が、どれくらい出回っているのか分かりませんが、少なくともトヨタが作っている大量の車が走っている中で、(単なるアクセルが戻らないというレベルではない)そんな暴走車両の事例がろくに報告されていないのに、その証言をそのまま信じろというのは、いささか無理がある話です。この無理な話を円滑に説明しようとなると、二つの可能性に絞られます。それは、それだけあり得ないことが証言者であるロンダ・スミスさんの車に起こったか、あるいはロンダ・スミスさんが偽証しているかのどちらかということです。

この公聴会は、そうした可能性があるにもかかわらず、証人の発言に対する信憑性を見極める機能が不十分で、かつその証人に「恥を知れ」等という一方的な罵声を許すという極めて歪な仕組みであると言わざるを得ません。

私なりに、ここには訴訟大国とも言われるアメリカの事情が、深く関わっているのだろうと考えます。そして、そのことから今後のアメリカという国の衰退への道筋も見えてくるではないかとも思っています。

以下、ロンダ・スミスさんが偽証しているという可能性に絞って、訴訟大国アメリカの限界について考察してみたいと思います。

今回のトヨタの件もそうですが、消費者が企業等を相手取って行なう集団訴訟というものがあります。これについての詳述は避けますが、要は、企業の商品やサービスに問題があった場合、消費者が企業を相手取って多額の損害賠償を求められるのです。この方式自体、善良な消費者を守るためという目的で、きちんと作用していれば、特段、問題が認められるものではないでしょう。むしろ消費者を守るための社会システムとして、有効なものであると考えるべきだと思います。しかし、実情を見ると、金銭目的で訴訟を起こすような人々がいたり、日本に比べて大量に存在する弁護士を食わすためのシステムとして機能しているような側面を否定できないのも事実です。

もちろん、広義における集団訴訟自体は、アメリカ特有のものではなく、またそれは単にそうしたネガティブな側面があるというだけなので、それで事の善悪が決するわけではありません。ただし、今回の公聴会に登場しているロンダ・スミスさんのケースを含めて考えた時、その原告となり得る人々の言い分、立ち振る舞いを想像しないわけにはいかないのです。

即ち、アメリカで事業を行なう場合には、そうした消費者たちによる集団訴訟リスクをどのように考えるかということが、非常に大きな課題であろうということです。逆の言い方をすると、そうした事業リスクを抱えるような国において、真剣に事業を展開しようとする企業は、今後、減っていくかもしれないということです。順調に事業がうまくいっているかと思ったら、言いがかりのような理由から高額の賠償金を支払わされるようでは、たまったものではありません。これは企業にとってのマイナス以上に、世界の企業が撤退してしまうアメリカという国にとってのネガティブインパクトにもなるでしょう。そして、私なりには、こうした状況が続くようなら、その流れは間違いなく顕在化し、結果として、アメリカという国にとって非常に大きな打撃になるだろうと思います。

別に、アメリカという国が嫌いなわけではありません。むしろ、これまでアメリカという国が、世界をリードしてきたことについて、素直に敬意を表したいと思います。ただし、今回のトヨタリコール問題を巡る一連の議論から、訴訟大国とも言われるアメリカの限界について、ちょっと考えてみたのでした。

《おまけ》
アメリカという国の流儀に沿って、同地にて事業を展開し、それによって収益を得てきた企業については、上記のようなリスクと向き合って然るべきだろうと考えます。そういう意味で、今回のトヨタの件、特段、同情したり肩を持ったりというつもりはありません。トヨタという会社がアメリカという国のおかげで、これまで享受できた恩恵を考えれば、今回の件でのダメージは、それほど大きなものではないとも言えます。ただし、「どこで事業を展開するか」ということは、それだけ慎重に考えなければならないということは間違いないでしょう。例えば、今日、「中国が成長市場」等と言って、次々と中国に進出していく企業がありますが、それらには必ずリスクがあるということも重要です。それをきちんと認識せず、不用意に他国に出ていくということは、後々、相応の代償を払わなければならなくなるかもしれない点、注意を払う必要があるだろうと考えます。

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Twilogにしてみました

2010年02月24日 | 日常

Twitterでの投稿内容は、そのまま垂れ流しになってしまう可能性があり、ストックをする仕組みを取り入れたいと思って、Twitterのまとめ投稿機能を使っていました(「Twitterのまとめ投稿」参照)。一応、この機能を使うことで、Twitterの投稿内容はストックされるようになり、垂れ流しの問題は解決されました。ただ一方で、Twitter特有の拡散した浅い内容が、ブログ内に充満してしまうような感覚もあり、少々、抵抗感を覚えていました。

こうした問題を解決すべく、昨日からTwitterの投稿内容ををストックする仕組みとして、Twilogを利用してみることにしました。

http://twilog.org/sukune888

これは、なかなか便利です。ブログと違って、元々、Twitterの投稿内容をまとめるための仕組みになっているので、ブログのまとめ投稿よりも、並び替えやら検索やらが使いやすいですし、投稿内容の分析ツール等もついていて面白いです。

特段、何があるというわけではないですが、Twitterの内容をまとめたいと思っている方には、これがおススメだと思ったのでした。

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2.5GHz帯を巡る責任

2010年02月23日 | 会社

ここ数日、本ブログ記事に対するコメントで、総務省の電波政策に関する内容をいただいております。私自身、過去に電波に関する事業に携わっていた関係もあり、議論するのは全く構わないと思っております。ただし、当該記事は、元々南京大虐殺に関する議論を巡る内容(「丁寧に議論するための分量」参照)であり、コメントが本来の論点からかけ離れてしまったため、あらためて、ここで整理をさせていただくことにしました。

いただいているコメントは、以下の通りです。

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「総務省へ」

ウィルコムを企業再生支援機構という半官半民族の仕組みを使って、救済し、何故ZTEとファーウェイに次世代通信システムLTETDDをやらせるのか。説明せよ。いい加減にしろよ。

「総務省の中国ベンダ育成」

許せないのは、総務省がPHSを失敗した事ではない。勝敗は兵家の常。関係者が責任を取ればいい。
問題は、総務省がPHSの失敗隠すために、800MHz電波割当を餌にソフトバンクにウィルコム救済を依頼をした事だ。
結果、ソフトバンクは企業再生支援機構が支援を乗り出す事を前提に、2.5GHz帯を利用して、LTE TDDシステムの導入を中国ベンダ2社を中心に検討してる。日本勢は入っていない。総務省は本件把握しているのか?

LTEはWCDMAで失敗した日本にとって、生命線だろう。TDSCDMAは北京オリンピックで失敗が明らかになった。中国勢はLTE参入の巻き返しのために、日本市場での参入をウィルコムを使って仕掛けてきている。

何故、国の税金を投入して創られた産業再生支援機構を使って、中国通信産業の育成に戦略的に手を貸し、NECや富士通潰しを、総務省が手を貸すのか。日本の国益を考える官僚の仕事だろ。いい加減にしろよ。

「審議会制度を守れ」

ウィルコムに割当された2.5GHz帯は、元々、総務省が第三世代移動通信方式の拡張バンドとして、アジア全体の取りまとめに取り組んできた。しかし、米国インテル社のWIMAX技術普及の流れに屈して、敢えて同周波数帯は移動通信技術を対象から外した。
総務省はウィルコムが保有する2.5GHzを電波返上せずにLTE TDD方式での利用を認めてはならない。

LTE TDDは3GPP方式であるため、技術的条件で定められていない。もしウィルコムがLTE TDDを利用するならば、ウィルコムは、一旦、電波を返上し、新たに電波割当の審議会プロセスを経なければならない。最低1年は必要である。

そもそも報道の通り、ウィルコムを2社に分離して、電波を保有する事業を売却するのは、電波の転売を認めるのと同じである。一体、何の為の審議会だったのか。

審議会制度は公明正大なプロセスである。中国の利権屋に屈して、形骸化させるな。
今、総務省の良心が問われている。

============================

上記のご意見に関して、私自身、実情がどのようになっていて、それを総務省がどこまで把握しており、またどうしようとしているのか、全く情報を持ち合わせておりません。したがって、これらに対する具体的なコメントを返すのは難しいだろうと思っております。

ただ一点、2.5GHz帯の扱いについては、当時、私も多少、関わっていたので分かります。ご指摘の通り、2.5GHz帯の技術的条件の策定は、当初Wi-Max一色で、かろうじて次世代PHS等が滑り込んだ状況でした。この時点で、3GPPのような移動体通信方式は、徹底的に排除されたのを覚えています。これは、私も関わっていたことで、最終的に3GPP等の移動体通信方式については、今後の課題という記述を入れ込むのがやっとだったと記憶しています。

非常に基本的なことですが、周波数帯の割当は、当該周波数帯の技術的条件が策定した後、それを踏まえて事業者を募るという順序になっています。したがって、周波数帯の割当に名乗りを上げる事業者は、その技術的条件を確認した上で、応募の是非を決めることになります。ご指摘のように、もしその前提たる技術的条件が改定(同一技術方式のバージョンが上がった等の次元ではなく、全く新しい技術方式を導入するというレベルで改定)されるのであれば、その新しい条件の下、あらためて事業者の募集を行なうというのは、至極、当然の流れであろうと考えます。当たり前のことながら、このプロセスの中で、ウィルコムは電波を返上しなければなりません。

しかし仮に、このプロセスを経ずに、総務省がウィルコムに2.5GHz帯の継続保持を認めながら、技術的条件を改定するということであれば、それは同省の責任者、担当者の方が、「国策」として、そうした対応が必要であると判断したと見るべきでしょう。この場合、それは日本国政府としての判断であり、そうした裁量を否定することはできないと考えます。ただし、そうした政策実行には、必ず責任が伴います。したがって、このような措置を取ることの意義や重要性については、その責任者や担当者の方々が、必ず説明責任を求められることになるでしょうし、私たち国民は、その責任者、担当者とは誰なのかを注視する必要があるのだろうと考えます。

その中で、ご指摘のような中国ベンダーに関する問題があった場合には、今後、それなりの説明があるのかもしれません。

ただ、私個人としては、中国ベンダー云々もさることながら、そこまでウィルコムに肩入れしておいて、万が一、ウィルコムの2.5GHz帯事業がおかしなことになったら、それこそ大変なことになるのではないかという気がしています。ウィルコムを支援すると報道されているソフトバンクについては、その経営状態の脆さに関して、いろいろな情報が飛び交っています。仮に、そうしうた状況を把握しているにも関わらず、見通しの甘い意思決定をしておいて、後々になって、その損害を国民に押し付けるようなことがあったとしたら、それは絶対に許されません。もちろん、その場合の損害は到底一個人で負えるようなものではありませんので、そうしたことを十分に肝に銘じつつ、同省の責任者、担当者の方には、文字通り、命を懸けてお仕事に臨んでいただきたいと思うのです(「命を張る仕事」参照)。

そういう意味を含めて、ウィルコム関係の問題を裁く同省の責任者、担当者の方々の立ち振る舞いには、一人の国民として、今後も注意深く見守っていきたいと思います。

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テガミバチからのメッセージ

2010年02月22日 | ヒーロー&アニメ

テガミバチ」を見ていて思うことは、他者を批判したり、否定したりするときは、極めて慎重にするべきだということです。

「テガミバチ」で展開されるストーリーには、何かと不気味だったり、陰湿だったり、卑怯だったり、狡賢いと思われるような人々が出てきます。主人公のラグは、最初、それらをちょっとだけネガティブに見てしまうのですが、彼の銃には、そうした人物がそうなってしまうまでの経緯を明らかにする力があり、各話の終盤では、それぞれのキャラクターがそういう性格になるまでの裏話が判明します。その裏話では、みんなが大変な苦しみを背負っていることが明らかになり、それを知ったラグは、それまで持っていたネガティブな見方を捨て去り、そうした人々に歩み寄るようになるのです。

要は、みんな良い人々、一所懸命な人々だということでしょう。みんなそれぞれの事情を抱えて苦しんでおり、その苦悩の末、各人がワケありな性格になっていくという点、つまりそれぞれ人には事情があるという点が、「テガミバチ」の各話で伝えられるとても重要なメッセージであると思うのです。

そういう意味で、そのようにそれぞれ事情があるであろう他者を批判したり、否定したりするということに対しては、極めて慎重でなければならないということが、とても大切なのだろうと思われます。言い換えれば、他者を批判したり、否定したりする場合には、「(人の生死を含めて)いかなる事情があろうとも」という覚悟が必要であるということです(「「ダメ出し」には要注意」)。

もちろんこれは、他者を批判したり、否定したりすることの善悪を断じるものではありません。また実際、私自身、他者の批判や否定を全くしないわけでもありません。

ただし、他者を批判したり、否定したりする前に、「こんな事情があるのかも・・・」、「すごく大変な状況なのかもしれない」、「いろいろとワケがあるんだろうなぁ」と一通り考えてみることも、また重要だということです。そのように様々なシミュレーションを重ねて、最悪のケースまでをも想定して、それでも批判したり、否定したりする「ダメ出し」をしたくなるのであれば、それは本物の「ダメ出し」であり、何もためらうことはないでしょう。そして、どうせ「ダメ出し」をするのなら、そのようにとことん突き詰めてからやった方がいいと思うのです。

こんなことが、私なりに「テガミバチ」という作品から読み取るメッセージなのでした。

おや!?うん、そういう意味で言うと、私の「ダメ出し」は、少々、厄介かもしれません。まぁ、それはそれとして、その点は悪しからず・・・。

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「中途半端さ」がNG

2010年02月19日 | 社会

オリンピック選手の服装問題が話題となりました。これについては、賛否両論があるようです。賛否両論というくらいですから、私としては、どちらでもよいと思っています。しっかりと着こなすべきだという意見も分かりますし、着こなしの自由なファッションがあってもよいのではないかとも考えます。

ただ一点、本件については、選手の「中途半端さ」が問題なのではないかと思います。

今回の件、オリンピックに関するものであり、そこにはメディアをはじめとした多くの方々が携わっています。そうである以上、そうした方々の意見や感性を無視するわけにはいきません。仮にそれを否定するというのであれば、今日のオリンピックをオリンピックたらしめている、メディア関係の方々を含めた人々と、真っ向勝負する気概が必要でしょう。

一方で、若者の尖がったところというのは、私自身、とても大好きです。そういう力が社会を変えてきたし、今後も変えていくであろうことを考えても、若者は尖がるべきだとも思います。

しかし、中途半端はいけません。

もし、オリンピックという一大イベントに関わった方々に反抗してでも、我流を通したいというのであれば、「オリンピック出場辞退も止むなし」くらいの意気込みでやっていただきたかったと思います。つまり、もしそれがファッションだと言って、自分のスタイルを主張したいのであれば、それくらいの覚悟でやっていただきたかったと思うのです(その覚悟がないなら、最初から尖がっちゃダメです)。

ところが、後日の記者会見で、すんなりと「反省してまーす」と言ってしまいました。重ねて言えば、ここも中途半端ではいけません。反省していないのなら、真っ向勝負で、オリンピック出場辞退のつもりで我を通して然るべきだし、そうでないなら、真摯な態度で反省の意を示すべきであろうと考えます。

服装問題を引き起こした時点での覚悟も中途半端なら、その後の記者会見の対応も中途半端・・・。本件、この「中途半端さ」こそが最大のポイントではないかと思います。

この問題を巡っては、「まだまだ若いのだから、目くじらを立てるな」という意見もあるようです。もちろん、今回の問題を引き起こした選手がまだ若いというのは、ひとつの見方ではあるでしょう。それが彼を許容してあげようという論拠にもなり得る点、否定はいたしません。しかし、私としては、「若いのなら、中途半端なことをせず、とことんやっていただきたい!」とも思うのです。

本件、一貫した「中途半端さ」が、何よりも煮え切らないように感じると同時に、これからの若者には、目一杯、真剣勝負に臨んでいただきたいと思うのでした。

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2010年1月期のアニソン

2010年02月18日 | ランキング

今期のアニソンは、作品毎にはっきりしているような気がします。いろいろと聴いているはずなのですが、気に入った曲や印象に残った曲を書き出してみると、元作品がまとまってしまうのです。とりあえず、それらを整理してみると、10曲くらいは挙げたくなったので、以下にリストアップしてみます。ランキングにはしていますが、それぞれ拮抗していて、実際のところ順位はほぼ同列です。

順位 タイトル アーティスト 元作品名
一言感想
1位 風と丘のバラード Real Paradis with のだめオーケストラ のだめカンタービレ フィナーレ
雰囲気があるし、やたらと切なくなるような感じの良曲でしょう。
2位 LEVEL5-judgelight- fripSide とある科学の超電磁砲
まず前奏からやってくれちゃっていますし、一貫してノリが大好きです。
3位 時の向こう 幻の空 FictionJunction おおかみかくし
このリストにも複数の曲が挙がっている通り、梶浦由記さん全開ですね。
4位 光の旋律 Kalafina ソ・ラ・ノ・ヲ・ト
OPアニメと合わせると、古きよき時代のジブリみたいで好きです。
5位 Real Force ELISA とある科学の超電磁砲
OPにしても良いくらいのインパクトがあって、ノリもいい感じの曲です。
6位 Trust Me 松下優也 デュラララ!!
なんか、個人的にこういう曲を歌えたら良いなぁ等と思いつつ・・・。
7位 月導-Tsukishirube- 南里侑香 おおかみかくし
アニメ本編の怪しげな感じとマッチしていてグッドです。
8位 Errand 飛蘭 聖痕のクェイサー
普通にカッコイイ曲だと思います。
9位 裏切りの夕焼け THEATRE BROOK デュラララ!!
OPで、ちょっと台詞が入っちゃうあたりとかが良いと思います。
10位 Girls, Be Ambitious 戸松遥 ソ・ラ・ノ・ヲ・ト
元気一杯な戸松さんが、とてもいい感じで良いのです。

「おおかみかくし」は、OPやEDの曲のみならず、本編のBGM等が、とても効果的に使われている気がして、非常に良いように思います。それとランキングに入れるのは見送りましたが、「バカとテストと召喚獣」のEDである「バカ・ゴー・ホーム」とかは、なかなかストレートな感じがして、個人的には好きです。

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人間の体が持つ力の重要性

2010年02月17日 | 人生

冬場は乾燥するので、体の機能が低下する寝ている間に、鼻の粘膜がやられて風邪をひくというのが、私の定例行事でした。これを予防するため、数年前までは寝るときには加湿器をガンガンかけるようにしていましたが、最近では、これを一切やりません。

ポイントは自分の体です。つまり、自分の体そのものを「人間加湿器」にしてしまうのです。即ち、水をたくさん飲むことによって、体の内なるところから水分がにじみ出てきてくれるようになり、鼻の粘膜がやられることもなくなるのです。その代わり、水はものすごい勢いで飲みます。私の場合、昼間にもガンガン飲みますが、夜寝るときから起きるまでの間、ちょくちょく目を覚ましながら、1.5リットルは飲み干します。

健康対策には、いくつかの方法を組み合わせていますが、少なくとも、これらを実践するようになってから、私の定例行事であった冬の風邪はなくなりました。

それにもかかわらず、昨日、ちょっと体調を崩しました。理由は、やはり水不足です。一昨日の晩、お酒を飲んだので、アルコールの分解に必要な水(アルコールの量にもよりますが、私の場合の安全圏として、飲み会に行ったら、無条件1.5リットルの水をがぶ飲み)と、普段の冬対策用の水の量から考えたら、最低でも3リットルは必要としていたところ、通常よりちょっと多めの2リットル程度にしてしまったのが失敗でした。朝起きたら、鼻の粘膜がやられていて、夕刻まで悪寒が続くという状況に陥ってしまったのです。一応、昨日から今日にかけて、水を浴びるように飲み、体調はほぼ回復しました(「「聖水」である理由」参照)。

少々、前置きが長くなりましたが、私が伝えておきたいポイントは、人間の体が持つ力のすごさです。乾燥を防ぐために加湿器を使ったり、風邪気味の体調を整えるために薬を服用したりということも、立派な健康保持のための方策であるとは思います。しかし、人間自身が持つ体の力を軽視してはいけないし、これを有効に活用することが、とても大切なのではないかと思うのです。もちろん、病気の治療に必要な薬を否定するわけではありません。体が持つ力、免疫力を越えた病気や疾患に対しては、大いに薬を利用していかなければならないでしょう。けれども、そうした外的な力ばかりに頼りすぎて、体が持つ本来の力、内なる力を育てておくことも忘れてはいけないだろうと考えるのです。

少し先の話になってきますが、今後、インフルエンザの脅威というのは、一層増してくるであろうと考えられます。今のところ、新型インフルエンザの脅威というのは、まだ社会全体を脅かすようなレベルには達していないかもしれません。しかし今後、(それが人為的か、非人為的かを問わず)インフルエンザウィルスがさらなる進化を遂げていく可能性は、誰にも否定することができないのであり、いずれ社会全体がひっくり返るような、とんでもない脅威に発展するかもしれません。

そしてもし、それが現実となった場合、人々は先を争うようにインフルエンザのワクチンを求めるようになるでしょう。人間の体が持つ力、免疫力を高めていられなかった人々にとって、ワクチン入手の成否は、文字通り生死を分けることになるかもしれません。そういう意味で、社会は大混乱をきたす可能性もあります。

そういう状況を考えてみても、常日頃から人間が持つ力、免疫力を高めておくことは、とても大切ではないかと思います。もちろん、自分の体を大切にするためには、自分自身の存在意義、生きている価値を高めておく必要もあります。それらは言うに及ばず、それと併せて、普段から自分の体と向き合い、きちんと免疫力を高めておくことも、非常に重要なのではないかと思うのでした。

《おまけ》
「みずみずしい肌」等という表現がありますが、それを欲する前に、そもそも体がきちんと水を求めているかという点も重要だと思います。体がきちんと水を求めていれば、自ずと水分補給をするようになるし、それが自然に「みずみずしい肌」として現れてくるのではないかと考えます。化粧品の類を否定するわけではないですが、体が水を求めてもいないのに、外から一所懸命、水やそれに準ずるものを与えてやったところで、その効果は知れているようにも思うのです。

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軽々に動くことなかれ

2010年02月15日 | 政治

文藝春秋の中吊り広告を見ていたら、みんなの党の渡辺喜美さんの記事で、「民主でも自民でもない「政界再編」の核となる」、「わが第三極宣言」という見出しがありました。最近は、「楽天新党」等という言葉を目にすることもあり、日本の政治は、いよいよ旧時代の終焉に向けて、着々と進んでいるように思います。

日本の政界については、新時代幕開け前の旧時代終焉までの動きとして、私なりに以下のとおり予見しています(「旧時代政治終焉のシナリオ」参照)。

第一段階:力があってビジョンを失った人々(自民党)
第二段階:それなりの力があってビジョンがない人々(民主党)
第三段階:力もビジョンもない人々(その他小政党、無所属)
 ※「力」については、時を追う毎に無力化していくと思われますが・・・

冒頭のみんなの党や「楽天新党」というのは、ここで言う第三段階のプレイヤーであるという位置づけです。

そして、私なりには、真に新しい時代を切り拓きたい、新時代を担っていきたいと考えている若い方々に対して、上記の第一から第三段階までの旧時代の枠組みにはまるのではなく、今しばらく時を待って、それらが終わった後の「新時代」にて活躍できるよう、じっくりと準備を進められてはどうかと思っています。

現在、NHKの大河ドラマでは、「龍馬伝」が放送されていて、幕末期に対する関心が高まっており、現代をその幕末の時代と重ねて見ている人も多いのではないかと思います。ただし、幕末から明治にかけての変革は、前時代の整理を含めて、それなりの時間と労力がかかりました。前時代の発想を超えるビジョンや体制を実現するためには、それが実行可能なレベルに到達するまで、水面下にて、かなりじっくりと準備を進める必要もあります。

これと同様、私はこれから起こってくるであろう変革についても、それなりの時間がかかるものと思っています。そして実際、5年や10年ではなく、もっと先の次時代を担う人々は、それを見据えて、今日現在、それなりに腰を据えた動きをしているだろうと考えています。

尊王攘夷の志士、新撰組のような佐幕派たち・・・しばらくカオスのような、それぞれが入り乱れた戦いを繰り広げることになるでしょう。しかし、何も死に急ぐことはありません。未来ある若者たちにとって、今はじっくりと腰を据えて、自分たちが生きていく時代、または子供たちの世代の時代に思いを馳せつつ、傷つくことを避けてきちんと生き延びることが重要なのではないかと思うのです。

-軽々に動くことなかれ-

下手に動いて、陥ちていく人々や仕組みに巻き込まれてはいけません。旧時代の幕引き役のような人々とつるんでしまっては、後々の活動において、致命的な手かせ足かせとなるかもしれません。その手かせ足かせは、「新時代」の世界において、かつての志士たちの「死」と同じくらい重大な意味を持つ可能性もあるのです。そういう意味で、今は、山のようにドッシリと構えていても良いのではないかと思います。

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ノロティの優しさと力

2010年02月14日 | 歌詞&台詞

戦う司書 The Book of Bantorra」の第20話の冒頭、ノロティとエンリケのやり取りは、思わず書き留めてしまいたくなりました。

======================
<エンリケ>
ひとつ聞く。けっして敗北を認めず、命を狙ってくる敵がいるとしよう。お前は、その敵を殺すか否か。

<ノロティ>
殺しません。叩きのめして捕まえます。

<エンリケ>
生かしておいて、また戦いを挑んできたらどうする?

<ノロティ>
また、戦います。・・・エンリケさん、容赦ないんだから。戦って、また勝ちます。

<エンリケ>
なぜそこまで、殺すのを厭う?

<ノロティ>
うーん・・・。何というか、難しいなぁ・・・。誰に言っても分かってくれないんですよ。実は、この世界は私のものなんです。

<エンリケ>
何処から、何処まで?

<ノロティ>
全ての国と人と、海と山と街の全部です。あと、エンリケさんもです。・・・うん、私の世界なんですよ。エンリケさんが今、こうして一緒に生きているのも。
======================

はっきり言って、ノロティ自身の神宣言です。「この世界は私のものなんです」だって?!・・・惚れました。ノロティ、すごいです。これについては、おそらくこの物語のなかで、至高の存在である「楽園管理者(神の化身?)」の発言からも読み取れることと思います。

======================
思い返せば、奇妙な話だ。ハミュッツにマットアラスト、イレイアにユキゾナ。キラ星の如く実力者はいたが、誰も私を追い詰めはしなかった。彼らは結局、私の手の内から一歩も出ていない。ただ一人、ノロティ・マルチェだけが、私の想定の外に出た。不思議なことだよ。あの心優しいだけの少女が、最も私を追い詰めたのだ。
======================

まったくの同感です。ハミュッツ・メセタ、恐るるに足らずといったところでしょう。

ところで、この話の展開、どう考えてもノロティは死んでしまっています。まだ、ストーリーがそこまで至っていませんが、とてもとても残念です。ひとつ言えることは、自身の神宣言というのは、それだけのリスクを伴うし、またそれに見合う強さを持っていなければならないということなのでしょう。ただ、それでもノロティの心意気、考え方そのものについて、私としては全面的に賛同したいと思います。

「楽園管理者」には、いずれ辿り着くはずです。

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なのはシリーズから思うこと

2010年02月13日 | ヒーロー&アニメ

ここしばらくの間、「魔法少女リリカルなのはStrikerS」を見ておりました。同作品は、「魔法少女リリカルなのは」、「魔法少女リリカルなのはA’s」に続く三期目のタイトルで、第一期では小学三年生だった主人公・なのはが、大人のようなキャラクターとして登場するところが、とても印象的で良かったと思います。

調べてみると、この企画は19歳のなのはのラフイラストが持ち込まれたところから始まったらしいです。私個人としては、こういうキャラクターを大切にする精神は、とても好感が持てるところです。StrikerSのメインキャラクターは、スバルやティアナといった若手陣に入れ替わり、主人公だったなのはやフェイトは、彼らを指導する教官、あるいは先輩としての役回りとなっています。このように同じ世界観ながらも、時を経た設定にすることで、それぞれのキャラクターたちの成長や人間関係の発展性を感じられることは、とても新鮮で楽しいと思いました。

そして、これを見ながら思ったのは、「次期プリキュア、こんな展開はダメ?」ということでした。今週から、新しいプリキュア「ハートキャッチプリキュア!」が始まっている最中、こんなことを書くのは不謹慎かもしれませんが、物語の連続性という意味では、非常に面白いのではないかと思うのです。

これまでのプリキュアの流れは、1年ないし2年毎に、まったく新しいタイトルに切り替わって、映画等の特別な作品での設定を除いて、それぞれのプリキュアの世界はブツ切りになるというものでした。しかし、例えばなのはシリーズのように、前作のキャラクターが先輩役として登場し、新しく出てきた後輩キャラクターたちを指導するという展開でも十分通用するような気がするのです。

こうした試みについて、例えば昔、「ウルトラマンレオ」で、ウルトラセブンがレオを教育、指導するような設定がありました。幼心に、セブンのスパルタぶりがあまりに厳しく、それほど好きではなかったのですが、これはこれで、ストーリーの展開としてなかなか面白いのではないかと思います。また、なのはシリーズでは、空尉だの執務官だのという組織の難しい設定があるので、プリキュアに適用する際には、そうした難しさについての工夫が必要だと思いますが、こうした流れそのものは、とても楽しいのではないかという気がしてなりません。

個人的に、これをプリキュアでやる場合には、作品の質の割に1年で終わってしまったSplashStarをベースにして、咲・舞コンビ、プラス満・薫コンビが先輩役として登場し、新しい伝説の戦士プリキュアを育てるという設定はどうかと思います。話の展開によっては、初代プリキュアのなぎさとほのかが、たびたび登場するというのもアリでしょう。この場合、ウルトラマン的に考えると、通常は登場しないゾフィや初代ウルトラマンが助けに来てくれるような、かなり貴重でスペシャルな扱いにすると盛り上がるような気がします。

自分で書いておいて何ですが、これらは、ほとんど私の妄想の域を出ていません。しかし、キャラクターを大切にするという発想自体は、やり方次第でビジネスの効率化や生産性向上という意味で、矛盾をきたすことなくうまく機能するのではないかとも思います。そして何よりも、次から次へと新しい作品を生み出し、同時に(いわゆるキャラが立たない)ジャンクのようなキャラクターを増やしてしまうよりも、多くのファンに喜んでもらえる作品になるのではないかという意味で、こうした試みがなされたら、一ファンとして、とても嬉しいだろうと思うのです。

実際のところ、どうなるかは別にして、以上、ここ最近、「魔法少女リリカルなのはStrikerS」を見て思ったことでした。

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全国民のための建国記念日

2010年02月11日 | 日本

今日は、建国記念日です。この日は、初代天皇の神武天皇が即位された日とされています。

しかし、本ブログにて繰り返し述べているとおり、私は記紀に傾倒した日本史観というものに対しては、一定の距離を保ちたいと考えており、また神武天皇や日本の建国史についても、少々、違った見方から、この祝日を捉えたいと思っています。

つまり、あくまでもこの国を建国したのは出雲大社の大国主大神であり、日本建国から「出雲の国譲り」に至るまでの過程で、本当に「和の精神」を体現したのは、この人物にほかならないのではないかということです(「「国譲り」の二面性」参照)。神武天皇というのは、「神武の東征」という言葉があるとおり、九州に発して大和の国を治めることになりますが、これは「出雲の国譲り」の後、和が乱れた大和政権内部を取り成すかたちで、大和を追われた出雲系の大王として召還されたのではないかというのが私の仮説です(「日本建国史の再考」参照)。

そういう意味で、神武天皇というのは出雲系であり、本来の建国の主・大国主大神側の人物として、それを素直に祝えばよいのかもしれません。ただし、記紀というのは、天照大神をはじめとした「国を奪った」側の正当化に使われている可能性があり、それ以降の歴史解釈に関しては、慎重を期す必要があるだろうという点は変わりませんし、また本来の建国主は、やはり大国主大神ではなかったということは、忘れてはならないように思うのです。

ところで、そのように本来の建国主が大国主大神であったとしたら、その子孫こそが、本当の意味での「和の精神」を体現した正統なる大王の血を引く人々ということになります。「出雲の国譲り」というのは、あくまでも平和的譲位であり、当時において一族郎党皆殺しのような血生臭い事件があったとは考えられません。そうだとすれば、この日本には出雲の大国主大神の血を引く人々が、多数いると考えられるわけです。むしろ当時の人口から、今日の人口に膨れ上がる過程における血の交わり方を考えるならば、国民ひとりひとりが大国主大神の子孫かもしれないとも言えます。

そういう意味で、本日の建国記念日は、国民ひとりひとりの先祖かもしれない大国主大神の建国を考える日と思ってもよいかもしれません。そして、そう考えると、今日は全国民にとっての建国記念日と考えてもよいのではないかと思うわけです。そんなわけで、本日のブログのタイトルバナーには、その大国主大神を入れてみました。

蛇足ですが、一緒にいるのは、本ブログのアカウント名の源にもなっている「武内宿禰」です。彼は長らく国政を支えた大臣とされておりますが、私の解釈では、彼は出雲系の人物です。そしてまた、正統なる大王と非常に深く結びついていた人物、あるいはそれそのものであり、私が出雲系と考える神武天皇や、正統なる大王を葬ったかもしれない天智・天照大神系の持統天皇や藤原家(「東国の神々へのご挨拶」参照)と一線を画す天武天皇等に、それぞれ「武」の字が入っていることとも関係しているように思っています。

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理想主義と現実主義

2010年02月10日 | 自分

「理想主義」と言われることがあります。一般的に、この言葉は「現実主義」の対極にある概念ですが、私の場合、果たしてそうなのかという気がしています。

少なくとも、私にとっての「理想主義」と呼ばれるそれは、何もないところから生まれたわけではありません。社会や世界の現実と向き合い、それを直視するなかで、その大きく深刻な問題を打開すべく必然として生まれてきたように思うのです。感覚的には、「必要は発明の母」といったところでしょう。目を背けてはならない現実を打開するという必要性から、生まれてくるヒラメキ(発明)であり、ビジョンといった感覚です。

そういう意味で、私の場合、「究極の現実主義」から「究極の理想主義」が生まれたと言ってもよいと考えます。

中途半端な「現実主義」から、「理想主義」を否定して欲しくはないし、中途半端な「理想主義」によって、「現実主義」を軽視してもいけません。否、真剣に「現実主義」的思考をするのならば、それはいずれ本当の「理想主義」に辿り着くであろうし、また真剣に「理想主義」を突き詰めると、結果として本当の「現実主義」に行き当たるのだと考えます。

私たちの世界が球でできていると分かってから、ある意味で、「東」と「西」は対極概念ではなくなりました。果てしなく東に向かう人と、果てしなく西に向かう人は、いつか交わるということが分かったのです。対極の概念で、物事を決め付けられる時代は、そろそろ終わるような気がします。

「個」と「全体」、「保守」と「革新」、「右翼」と「左翼」、「科学」と「宗教」・・・。突き詰めていくと、それらが意味するところは同じであり、そこにはこれまでの人類が知り得なかった新しい発見、ヒラメキ、気づきがあるのだと思います。

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3D映画時代到来への疑念

2010年02月09日 | 産業

3D映画、「アバター」が話題になりました。映画というのは、常に映像の最先端技術を利用できるところに位置しており、それを世の中に届ける役割を果たしてきたであろうことを考えると、3Dのような技術をもって話題を集めるというのは、とても分かる気がしています(「日本に眠る宝物」参照)。

ところで、こうした流れを受けて、「3D時代到来」というような文句が踊ったりするのですが、そこはもう少しじっくりと見てみる必要があるようにも思います。もちろん今後、3D映画が多くなってくるであろうことくらいは予見されてもいいと思うのですが、それが今までの2D映画にとって代わるだけの存在になるかどうかは、しばらく見極める時間を置いてもよいのではないかと思うのです。それは、私自身が、その最先端技術の映像を見て、どれだけの衝撃を受けたかという点から感じることです。

かつてのハリウッド映画では、例えば「ターミネーター2」や「ジュラシックパーク」のような作品において、CGによる衝撃がありました。液体金属でできたT-1000が、鉄格子をすり抜けるシーンや、あたかも本当に生きているかのような恐竜が大画面で再現させられたCGは、当時、とても話題になったように思います。

-CGすっげぇ!これはマジで半端ないでしょ!!-

私自身、その映像から、とても強いインパクトを受けたことを覚えています。「ジュラシックパーク」に至っては、3度も映画館に足を運んだように記憶しています(ちなみに、私のこれまでの人生において、同じ作品を映画館で2度以上見たというのは、これだけです)。

一方で、今回話題になった3D技術に、かつてのCGほどのインパクトがあったかと聞かれると、少々、口ごもってしまうような気がするのです。3Dの長編映画という意味では、最近、「アバター」とほぼ同時期に公開されていた「カールじいさんの空飛ぶ家」を観ました。もちろん、従来の2D映画に比べて、それなりの面白味はあっただろうと思います。臨場感という意味では、これまでの映画よりも優れていると言えるでしょう。しかし、それをかつてのCG映画時のインパクトと比べてしまうと、そう大きなものでもないように思うのです。

もちろん、これはあくまでも主観の問題ですので、3D技術のインパクトが、社会全体として、どのように受け止められたのかは不明です。少なくとも、3D技術によって、大きな衝撃を受けたという方々もいるでしょうから、それはそれでよいのではないかと思います。そしてまた、そういう方々が「3D映画時代到来」というフレーズを使うのであれば、その心情はとてもよく分かります。

ただ、ある事象の方向性を見極める際、その見極める人間が自分である以上、その主観と感性は大切にするのは当然であり、それに基づいた観測をしてみたいと思うのです。

-3Dも良いけれど、正直、2Dも2Dでそれなりに・・・-

このように感じ、また考えたとき、これからの映画は「本当に3D時代到来か?」という問いに対しては、もう少し時間を置いて見守っていきたいと思うのでした。

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凧が揚がる理由

2010年02月08日 | 日常

晴天の下、凧揚げをしてきました。とてもきれいな青空で、適度な風もあり、絶好の凧揚げ日和だったように思います。

ところで、こんなに気持ちよく凧が揚がると、「この糸を離したら、すごい勢いで飛んでいくのだろうなぁ」などと思ってしまいます・・・が、当然のことながら、凧糸を離してしまったら、瞬間的にすごい勢いで飛んでいくことにはなるとしても、まもなく落ちるだろうと思われます。

あまり真面目に論じる必要もないかもしれませんが、凧が揚がる原理は、風の方向はもちろんですが、風そのもののエネルギーを縦方向に活かすところにあります。つまり、凧糸を握っている人が、凧をきちんと一定の地点に留めておくことで、凧の態勢を保ち、風のエネルギーを横方向には逃がさず、きちんと縦方向に向けさせることにより、それを揚げていくことができるということです。それなのに、「すごく引っ張られていて、凧も飛んでいきそうだから放してあげよう」等といって、凧が自由に動けるようにしてしまったら、凧の態勢が崩れるだけでなく、せっかくの風のエネルギーを横方向にも使えるようになってしまい、結果として、凧が落ちていくことにもつながるだろうというわけです。

これは何となく、人生にも通じるようなものがあるように思います。要は、どんなに調子がよくても、油断するべからずです。どんなにいい風が吹いているとしても、きちんと自分の凧を揚げ続けるためには、自らの立場や本分をわきまえた行動をすること、きっちりと凧糸を握り締めていくことが肝心だということです。

そんなわけで、適度な風を浴びながら、調子よく揚がっている凧を眺めつつ、きっちりと凧糸を握り締める重要性を考えてみたのでした。

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