常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

交錯する正義と悪

2009年01月31日 | 人生

-何が正義か分からない-

こんなことを言う人がいます。たしかに100人いれば、100人の正義があるというのは、ひとつの側面として正しいと思います。しかし、これを認めたうえで、敢えてもうひとつの側面についても、触れておく必要があるのではないかと考えます。

-ひとつの絶対的な正義が存在する-

この言葉の意味は、極めてシンプルです。「ひとつの絶対的な正義」とは、自分が掲げる正義です。つまり、自分自身の存在こそが、唯一無二の正義ということになります(「「自分教」の薦め」参照)。

「何が正義か分からない」という言葉を否定するつもりはありませんが、この言葉を裏返せば、「自分の正義に自信が持てない」ということでもあるということです。また、今日のように混沌とした世界において、他者が主張するいくつもの正義が濫立してしまっていては、ますます自分が掲げる正義に自信を持てなくなってしまうというのは、仕方のないことなのかもしれません。

しかし私は、人類の未来を考えるにあたって、そうした濫立してしまう程度の正義が、次の新しい時代にまで持ち越されていくことは、非常に難しいのではないかと考えます。

正義が濫立するということは、それら正義間での争いを生む原因になり得ます。無数の正義の存在は、無数の争いを生むことになるのであり、地球という星が、人類の生活の場として、さまざまな意味で限界を迎える時代にあって、そうした争いは、人類自らの滅びを招きかねない状況にあると思うのです。つまり、そうした濫立してしまう程度の無数の正義が、次の時代に持ち越されてはならないというのは、誰か特定の人間の意思というよりも、人類が生き延びていく上での必然と考えても良いのでないかということです。

こうしたなかで、濫立して存在している正義は、最終的に「究極的な正義」、即ち「ひとつの絶対的な正義」として、ひとつにまとまっていくことになるものと考えます。この正義のポイントは、「究極的な全体」のために存在するということです(「正義がひとつになる時代」参照)。

この点、もう少し説明すると、現在のように正義がバラバラで、濫立してしまっているということは、それら正義の存在理由が、「究極的な全体」のためのものでなく、どこか閉じられた「全体の一部」、あるいは「小さな全体」のためだけのものである可能性があることにほかなりません。それを分かりやすい言葉で表現すれば、その正義の存在理由が、特定の家族だけであったり、特定の会社だけであったり、特定の国家や宗教だけに閉じた世界ということになるでしょう。つまり、濫立した正義というのは、そうした「小さな全体」のためだけに存在する「小さな正義」である可能性があるということです。また、このことが、異なる正義同士の争いを生む原因にもなるのです。

ただ逆に、こうした無数の「小さな正義」が存在してしまっているとしたら、本来、正義を育てる側の悪にも、「小さな悪」しか存在していないということができると思います。つまり、「小さな悪」しかないが故に、「小さな正義」しか育たないということです。

悪は当たり前のことながら、悪いことなので、本来好ましくないものと考えるべきです。しかし一方で、悪が存在するが故に、人々は何が正しいのかを見つけようとすることができるという部分も見逃せません。

もし悪が全く存在せず、何の問題もなければ、そもそも何をもって正義とするかについては、真剣に考える必要がなくなります。つまり悪もなければ、正義もない世界が成り立ち得るということです。私は、もしこの世界が、正義も悪もない状態で、均衡を保てるとしたら、それはとても理想的なことだと思います。そして本来、世界はそうあるべきではないかとも考えます。しかし、それはけっして、今日の世界における現実ではありません。

このことを換言すると、悪があるから、正義が目覚めるということでもあり、もう少し違う言い方をすれば、悪が正義を育てるということかもしれません。

ところで、これらの問題を考えるときには、常に時間軸を整理しなければなりません。時間は、果てしなく流れ続け、過去から現在、現在から未来へと繋がっています。大切なことは、上記の「小さな正義」と「小さな悪」で、十分世界が成り立っていけるというのは、あくまでも過去から現在における時間軸においてであるということです。一方の現在から未来の世界においては、それが許容されない可能性があると思うのです。

そして私自身、そうした未来の世界に向けては、「ひとつの絶対的な正義」があって然るべきだと考えますし、それは今日時点において、私のなかに確固として存在しているように感じています。この「ひとつの絶対的な正義」は、現在から未来に向けた時間軸において、現存する無数の「小さな正義」を統合していくかたちで成長していくでしょう。

ただし一点、逆説的ではありますが、そうした「ひとつの絶対的な正義」は、「ひとつの絶対的な悪」のように振る舞う側面もあると思われます。それは、未来に向けて流れていく時間のなかで、現存する無数に散らばった「小さな正義」を「ひとつの絶対的な正義」に育てるという悪ならではの役割を果たしていくということでもあります。

そうした意味で、「ひとつの絶対的な正義」とは、「ひとつの絶対的な悪」でもあり、次の時代においては、成長した異なる「もうひとつの絶対的な正義」に倒されることで、はじめてその役割を終える、使命を果たすことができるのではないかと考えます。

私は、これまでの世界は、このように正義と悪が交錯しながら成立してきたのではないかと思っています。またそれらは、単に交錯を繰り返してきただけでなく、交錯を通じて、互いが互いを高め合い、その度に成長をしてきたのだろうと思うのです(「カオス世界の読み取り方」参照)。

これからの時代において、その成長する規模が地球だけに留まらず、宇宙までをも包含した世界観にまで発展していくであろうという意味で、私自身、大変面白いのではないかと考えています(「実践への誓い」、「大きな矛盾を抱えるべし」参照)。

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新しい世界の国作り

2009年01月29日 | 短編

昔、国と言えば薩摩、長州、会津・・・だったので、それを「日本」というひとつの国にしました。

今、国と言えば日本、アメリカ、中国・・・なので、それが「世界」というひとつの国になるのです。

そうやって、新しい世界の秩序は生まれてくるのでしょう。

「Novus Ordo Seclorum」は、もう古いのです。

《参考》
宇宙人としての自覚
世界のリーダーたるべき日本
「四次元の目」で見えるもの

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ニチアサキッズに思う

2009年01月25日 | ヒーロー&アニメ

日曜朝の「ニチアサキッズタイム」と言えば、スーパー戦隊、仮面ライダー、プリキュアです(ごめんなさい、「少年突破バシン」は無理でした・・・)。ここ数週間、番組の入替え等の動きもあり、いくつか新しい話題があるので、このニチアサキッズ関連で感じたことを、簡単に記してみたいと思います。

①スーパー戦隊

昨日、公開初日の「炎神戦隊ゴーオンジャーvsゲキレンジャー」を見てきました。久しぶりにメレ様の元気な姿を拝見できて、良かったです。ちょっと出番が少なかったようにも思いますが、メレ様は、既にあの世に行ってしまっている設定なので、これくらいが限界なのかもしれません。

ここから先は、ネタバレ注意になってしまいますが、いわゆる悪役のはずの理央・メレコンビが、スーパー戦隊側で戦ってくれたのは、ファンの期待を裏切らない展開だったように思います。ゲキレンジャーは、本来悪役である理央とメレが主役のラブロマンスという言い方をしたりする人もいるようで、その感覚はよく分かります。そういう意味で、今更ながらですが、昨年の段階で、もっとメレ様を活かしてくれていたらと思うのです。

今回の映画の最後に、ゴーオンジャーの女性3人ユニット「G3プリンセス」のライブ映像が流れました。別にこれが悪いというわけではありませんが、それをやるのであれば、「もっとメレ様を・・・」と思ってしまうのは、ファンとして仕方のないことだと思います(「ユニット結成に思うこと」参照)。

②仮面ライダー

仮面ライダーでは、新番組「仮面ライダーディケイド」がスタートしました。今朝は、第1回目の放送なので、細かいことは分かりません。とにかく、これからの展開を楽しみにしたいと思いますが、以下、ふと思ったことが2点あります。

ひとつは、今回の仮面ライダーディケイドの設定が、これまでの平成仮面ライダーによって展開された9つの世界が、ひとつに融合していくということの本質です。

世界が融合するという現象を、アホくさい子供じみた設定であると笑い飛ばすこともできるでしょうが、私はけっしてそうは思いません。これまで隔絶されていた世界や宇宙が、ひとつに融合するという現象は、これからの科学が扱うべきテーマです(「宇宙が膨張を続けるカラクリ」)。歴代仮面ライダーの出演はもちろんですが、私としては、そうした世界観や宇宙観が、今回の仮面ライダーディケイドのなかで、今後どのように展開されていくのかが、非常に楽しみなところです。

そして、今日もうひとつ印象的だったのは、主人公・士の台詞です。

-何故だ、俺は戦い方を知っている-

おかしいと思われるかもしれませんが、私としては、この感覚が非常によく分かります。これは、あくまでも個人が持つ感覚の問題なので、他者に対して、うまく説明することができないのが残念です。もし端的に言うとするならば、経験や知識だけに拠らないものがあるということかもしれません。

こうした無根拠に見える「戦い方を知っている」ことの証明は、戦った結果を示すことでしかできないと思うので、それはそれとして、実践していけば良いことだと思っています。

③プリキュア

プリキュアは、本日、とうとう最終回でした。今までのプリキュアシリーズでは、最終回に近づくにつれて、とてつもない苦戦を強いられ、たびたび絶望的な状況があったように記憶しています。それが故に、最終回になると、何か特別な感慨もありましたが、今回は、あまりそうしたものがなかったように思います。比較的、あっさりと終わってしまったような感じです。

ただ、今回のプリキュアの最終回では、一点、悪役のブンビーさんが印象的でした。ブンビーさんは、前タイトルの「Yes!プリキュア5」から出ている悪役で、2年間に渡って、ずっと悪の組織(「ナイトメア」と「エターナル」)の下っ端として勤めてきました。

今回、エターナルの崩壊を機に、ブンビーさん自らが社長になって、新会社「ブンビーカンパニー」を立ち上げたのです。これは、大変喜ばしいことです。

悪の組織で、他の同僚が、出世争いに夢中になっているなか、この2年間、ブンビーさんはずっと冷飯を食わされ、大変な苦労してきました。しかし結果として、そのような出世争いに躍起になっていた人々が、組織と共に、この世から消滅し、ブンビーさんだけが生き残ったのです。

私は、ブンビーさんが、そうした辛い状況を耐え、悪の組織に完全に魂を売ることをしなかったため、今回の「ベンチャー立ち上げ」というチャンスを勝ち取ることができたのではないかと思います。

このことは、何もアニメのなかだけに閉じた世界の話ではありません。これからの実社会においても、大いに通じることではないかと考えます。とくに、社会全体が大きく揺れ動く時代にあって、組織の意味を問うことは、大変重要なことです。実社会において、組織の一員として生活をしている人々にとって、その組織の意味が何なのか、真に自分がしなければいけないことは何なのかを問い続けることは、非常に大切なことです。

これから先、これまで当たり前のように存在していた社会の仕組みは、大きく崩れ去り、同時に新しい仕組みを構築していく必要性が出てくるものと思います。そんな時代にあって、私たちが住む実社会においても、「ブンビーカンパニー」は、とても重要な役割を果たしていくと思いますし、そんな「ブンビーカンパニー」たちが、大いに頑張っていけるよう、精一杯の声援を送りたいと思うのです。

ブンビーさん、ファイトォ!!

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矛盾に満ちた世界

2009年01月24日 | 短編

生きることは、矛盾を解いていく作業である。

だから、矛盾を知っている人は強い。
同時に、矛盾を知っている人は脆い。

強くて、脆い。

それも矛盾。

《参考》
矛盾との付き合い方
大きな矛盾を抱えるべし

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大量犯罪者時代への分岐

2009年01月21日 | 産業

ファイル共有サービス等を通じて、他者の著作物を配信するような行為は違法でしたが、昨年末、それらを入手する行為までが違法であるということで、法的整備がなされるという報道がありました。

実際に、インターネットの流通に合った著作権管理ができない以上、そうした対策がとられるということは、やむを得ないことだと考えます。しかし、そうした方策は、あくまでも次善策に過ぎず、本質的な問題は、インターネット時代に適合した著作権管理システムがないことにあります。

一時期、ファイル交換ソフトによる著作権侵害が問題になっていましたが、そもそも最近では、ファイル交換ソフト等という回りくどい手法に頼らず、堂々とウェブサイトに様々な著作物が貼り付けられているというのが現状です。とくに海外のウェブサイトでは、日本で放送されているアニメ等が、ほぼ半日以下のタイムラグで、ネット上で自由に視聴できるようになっているのです。こうなってくると、もはやファイル交換ソフトによって、著作物を入手することの規制すら、意味を成さなくなってきます。

現在のように、著作物を入手せずとも、簡単に視聴できる環境が整ってしまっているのであれば、ユーザーにとって、著作物をいちいちダウンロードして入手することの方が厄介です。つまり、法的に規制が厳しくなったから、ダウンロードをしなくなるということよりも、利便性の観点から、著作物をダウンロードして入手するという行為の必要性が、今後、ますます低下していくだろうということです。

現状の枠組みの中では、こうした規制の方向性こそが、限界なのだと考えざるを得ないのかもしれませんし、これを素直に受け入れることも重要なのだろうと思います。しかし、これで「対策を打った」等と威張られても困ります。

今日のインターネットを巡る、上記のような状況を鑑みず、今更になって、違法ファイルの入手を取り締まる対象にするというのは、対応として鈍いと言うことができます。また、あまり事の本質を理解していない方々が、この問題を取り仕切られているのではないかという批判があったとしても、それを免れることはできないとも思います。つまり、それくらい問題の根本的な解決には、程遠い状態ではないかと思うのです。

もし規制の方向性を崩さないというのであれば、本当に時代の流れに合わせて、きちんと規制をかけるとすると、著作物の入手に留まらず、著作物の視聴にまで、規制の範囲を広げなければなりません。つまり、ブラウザーを通じて、違法著作物を見たら、それを取り締まるということです。それは、現状においては、「過度な取り締まり」に映ることであっても、時代の流れが、大きくそう動いている以上、いずれそうした「過度な取り締まり」まで踏み込まなければならないと考えておく必要があるということです。

しかし現実問題として、これを実行レベルで進めていくことは、ほぼ不可能です。もちろん、著作権や国政責任者を含む諸々の関係者の方々が、そうした取り締まりを行う方向で、各調整をされることは自由です。しかし、それは大変な問題を引き起こします。10年前ならいざ知らず、これだけ広く普及したインターネットのユーザーが、違法なサイトを閲覧したというだけで、取り締まりの対象になるとしたら、極めて大多数の人々が、その対象に加えられると考えなければなりません。

こうなると、インターネット社会は、ほとんどの人々が法を犯す人々ということになり、文字通り「大量犯罪者時代」へと突入していくことになります。こうした「大量犯罪者時代」への分岐点が、刻々と迫りくるなか、本問題の根本的な解決策が求められているのです。

ここでの問題のポイントは、時流を読めるかということだと考えます。つまり、現状のようにインターネットのようなオープンシステムが急速に広がっていくことは、間違いなく時代の流れであり、これを縛りつけたり、押さえつけたりすることは不可能であるということが読めるかということです。

規制というのは、あくまでも流れを押さえ込む手法でしかなく、それが通じるのは、その流れが時代の流れと呼べるほど、大きなものでない場合に限ります。流れが肥大化し、けっして押さえ込む込むことができない、時流というとてつもなく大きな相手に成長したとき、規制は、逆に規制をかけようとした人々の首を絞めにかかります。

もちろん、時流を時流と読めずに、力ずくでも、押さえ込もうとする人がいても良いでしょう。考え方は自由ですし、それを強引に変えるとはできません。

ただ、そういう方々に申し上げておきたいことは、そうした行為には大きな代償を伴うことになるだろうということです。この転換期の時代にあって、こうした問題の関係者のなかには、「重大なプロジェクトをやっている」、「すごいメンバーで取り組んでいる」等という顔で、その気になっている方々もいらっしゃるかもしれませんが、問題解決という意味では、役不足の方々もいるように思われます(逆に「問題解決が非常に難しい」ということを証明するための役割は、果たしているかもしれません)。

いずれにせよ、そうした方々には、なるべく早く、その時流の大きさに気付き、下手なしっぺ返しを食らわないような方向転換をされることを祈ります。

そして私自身、誰もこの時流をポジティブに活かす方策を生み出せないようであれば、そうした事態に備えて、淡々と準備を進めておこうと思います。

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天下りの是非

2009年01月20日 | 政治

仲間と話をしていて、天下りをしている人々の話題になりました。中央官庁の要職にあった誰がどこに行ったとか、特定の業界のために誰がこんな政策を推しているとかいう類の話なのですが、どうしてもこういう話になると、批判的な論調に傾きます。私自身、こうした類の話をするときに、批判的な論調になってしまう気持ちは、よく理解できますし、実際にそういう感覚がないわけでもありません。

ただ、それぞれ正しいと信じた道が異なっているのは、致し方ないことです。とくに今日のように、時代の転換期にあっては、そうした考え方や信じているものの差異が顕著に表れてしまうということは、やむを得ないことなのではないかと考えます。

もう少し、天下りの本質について整理してみると、天下りというのは、その天下り先となる組織の社会的な価値や貢献度が問題だったり、そうした問題ある天下りが目的化してしまうような政策が取られることに、ネガティブな意味があると思われます。社会的に有効な価値を生み出していない、あるいは生み出さなくなるであろう組織のために、むやみな政策立案、実行がなされているとしたら、それは国民にとって、大変迷惑な話ですし、そうした組織に天下ることで、関係者の懐ばかりが潤う等ということがあるとしたら、それはとても困ったことです。

しかし、逆に考えれば、天下り先の組織が、大きな社会的意義を有しているとすると、天下り自体はそれほど大きな問題になり得ないかもしれません。むしろ、社会的に大きな意義がある組織を育てるために、産官一体となって協調体制を組むことは、評価されるべきであると見ることもできます。そういう意味で、社会全体がポジティブな方向に向かっているときには、むしろ天下りは、産官連携を深めるためのひとつの手法であると言うこともできるということです(「癒着と連携の違い」参照)。

このように問題を整理したとき、天下りの是非は、何を社会的価値あるものと考えるか、何を社会正義であると信じるかという違いに集約されるということなのではないかと考えます。もう少し端的に表現するならば、結果責任ということになるかもしれません。

つまり、国家を支えたり、繁栄をもたらしたりするための有効なシステムとは何かについて、経済人や政治家のみならず、官庁に勤められている方々についても、各々がよく考えて行動し、その結果に対してきちんと責任を取っていただけるのであれば、何の問題もないということです。

冒頭の批判的な論調になってしまう天下りの議論というのは、社会的にとても価値があるとは思えない組織や枠組みのために、政策全体が傾いているという思いから生じるものです。しかしもし、最終的にそうした組織や枠組みが、きちんと価値があり、有意義であることが証明されれば、その批判は当たらないということになるでしょう。

責任は大切です。皆さん大人なのですから、責任の意味は知っているでしょうし、地位や立場には、それが伴うことも、よくご存知のはずです。したがって、何をするのも自由です。そこには、批判も中傷も必要ありません。ただ結果で語るのみということではないかと思います。

今の時代が、転換期であるとするならば、次の新しい時代には、何が正しかったかが、きちんと結果として示されるはずです。私自身、天下る人々や、天下るためにいろいろと画策している人々については、じっくり観察していればいいだけのことだと考えます。官庁に勤められる人々の天下りが、それぞれ明るい未来につながるのか、責任を取らされるためのものになるのかは、個別の事例を含めて、じっくりと見ていきましょう。誰が何をしているのか、きちんと見守ることこそが、国民たる私たちの責務であると考えます。

《おまけ》
世界に意味のないもの、価値がないものはありません。本文の「社会的価値がない」という表現は、明らかにそれと矛盾します。私としては、「社会的価値がない」と表現したものも、次の時代に向かって、多くの人々に気付きを与える「反面教師」的な意味で、価値があると考えています。ただし、それらは次の新しい時代の社会においては、そうした意味での価値すら失い、自ずと消えていくものであるという理解です。

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産業から始める理由

2009年01月18日 | 政治

国作りは、政治家の仕事だと思っている方も多いかもしれません。たしかにそれは、一面において事実ではありますが、けっして全てではありません。

政治家、そのなかでも国会議員というのは、選挙によって選ばれ、その方々が国民の代表として、国作りに関わっていくわけですが、制度には必ず限界があります。端的に、国政選挙の制度的限界を指摘するならば、その頻度とタイムラグです。

現在、麻生政権の支持率低迷が話題になったりしています。たしかに、一国の総理大臣の支持率が20%を切るというのは、極めて異常であると言えるでしょう。またそんな総理大臣に、この大変な時期の国政を任さなければいけないというのは、国民にとって非常に辛いことであると言えるかもしれません。

しかし、このことをもってして、麻生氏を責めるのは筋が違うのではないかとも思います。

先日、麻生氏がテレビに出演し、いくつかのコメントをされており、そのなかで、最近の支持率低下を指摘されたのに対して、制度・手続きに則っているので全く問題ないという旨の回答をされていました。私は、その通りだと思います。

前回の衆議院の総選挙は、2005年9月でした。それから3年以上が経過し、それまで小泉内閣、安倍内閣、福田内閣を経て、現在の麻生内閣に至っており、この間、国民の信を問う選挙が行われていません。単純に、これだけを見れば、現在の麻生政権が、国民に政権を任されているとは言い難く、その問題が顕著に支持率に反映されていると言えるでしょう。

しかし、当然のことながら、政治システムがそのように設計されている以上、その問題を論って騒ぎ立てるのは、何の解決にも繋がりません。もう少し、正確を期すならば、そうした議論は、将来に向けた制度設計や問題意識を育てるという意味では重要ですが、今日の目の前の問題解決にはなり得ないということです。

見極めなければいけないポイントは、3年以上も前の国民の意志に基づいて築かれた政治体制によって、今日のような政治を巡る問題が引き起こされるということが、あくまでも与件であるということです。これが冒頭で指摘した国政選挙の限界とも言える、その頻度とタイムラグです。

一方で、タイムリーに国民の意思を反映させ、真に国民の支持を取り付けることができ、きちんとそれを自らの力に変えることができる世界があれば、そこを始点として、国作りに関われると言えることができるでしょう。私は、それこそが、市場経済のルールで成立しているビジネスや産業の世界であると考えます。

もちろん、現在の経済を成り立たせている資本主義や市場のルールに、大きな欠陥があることは否めません。これらの経済システムに何の疑いもなく、ドップリとはまってしまうことは、非常に危険であると考えなければならないでしょう(「社会ルールの欠陥」、「道具の目的化の危険性」参照)。しかし、その限界を知った上で、それらの経済システムを有効に活用すれば、きちんと国民のニーズに合った新しいビジネスや産業を興すことは可能です。そして、それは少なくとも、数ヶ月や数年という時間が最小単位にならざるを得ない政治の世界に比べて、遥かにリアルタイム性が高い動きができると言えるでしょう。

私が、今の日本の現状について、安易に政治家の責任にするのではなく、日々の経済活動をされている人々の責任を重要視するべきだと考えるのは、こうした根拠によります(「産業界の舵取り」参照)。とくに産業界において、広く一般消費者のための製品やサービスを生み出すことをせずして、今日の不況が、誰か別の人のせいであるかのような言い方をするのは、絶対に認められるべきではありません。本当に産業を引っ張っていこうと考えているのであれば、広く一般消費者(国民)に認められる製品やサービスを生み出していかなければならず、それこそが経済活動に携わっている人々の責務のはずです。

地位と責任は、比例関係にあって然るべきです。したがって、上記のような産業を生み出していく責任は、必ずしも等しく考える必要はないでしょう。端的に言えば、こうした問題について、最も重大な責任を負っているのは、産業界のトップの地位にいる人々にあることは間違いありません。しかし同時に、そのことは、その他の人々の責任を免除しているものでもありません。たとえ企業に籍を置く一介の社員であっても、一社員としての責任から免れることはできません。その一社員としての仕事が、真に国民のための仕事ではないと知っていたり、あるいはそんなことを考えずにやっているとするならば、そこには本来、悩むべき葛藤があると考えるべきでしょう。

営業成績が不振に陥ったり、会社の経営状況が悪くなったり、業界全体が萎縮していったり、国家経済の先行きが不透明になったり・・・。これらの傾向は、内閣支持率の低迷をはじめとした政治問題以上に、一人一人の経済活動に問題があるということの示唆でもあるということです。

今日の政治は、内閣の人事が3年以上も前の国民による投票行動に基づいて決定されるということを、痛切に教えてくれています。我々としては、この問題を甘んじて受け入れ、日常の経済活動の世界で、それよりも遥かに短期で、きちんと国民(広く一般消費者)に支持される製品やサービスを生み出していく努力が求められているということに気付かなければいけません。

このように現状の問題について、きちんと思慮を巡らし、これからの自らの経済活動を考え直す機会にしていくことは、極めて大切なことです。これまでは、単純に自分のためだけ、部署のためだけ、会社のためだけ、業界のためだけだった仕事について、それ以上の目的を持つとはどういうことなのかを考えなければいけない時代でもあります。今一度、各自がそうした自問自答を繰り返してみることで、新しい産業のあり方が変わってくるでしょう。その結果、政治の姿も変わるはずです(「癒着と連携の違い」参照)。

そして少なくとも、私自身は、その新しい時代の進み方を示していきたいと思います。

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SOS団のご降臨と遷宮

2009年01月17日 | ヒーロー&アニメ

先日、ある方から、わが「自分神社」へ寄進物を賜りました。その人物は、「自分神社」の発端となる、私に対するお賽銭を始めた(「「自分教」の神社」参照)張本人でもあり、もちろん、その後の「自分神社」の発展についても、よく知っている人物です。当然、「自分神社」に祀られている数々のフィギュアの存在も知っています。先日、その彼がショッピングモールを歩いていたら、ちょうど良さそうなものがあったので、買ってきたと言って、わが「自分神社」に寄進してくれたのです。その寄進物は、「涼宮ハルヒの憂鬱」のキャラクター・長門の水着バージョンフィギュアでした。

ひとまず、ありがたくいただきました。

ところで、ただ一点、私としては、あまり普段と異なるものには、違和感を覚えてしまいます。所詮、お遊びで置くフィギュアなので、余計なこだわりを持つ必要はないのでしょう。しかし、せっかくの美少女系フィギュアですから、飾るにあたっては、多少「萌え」に対する私の考え方を整理した上で、お祀りしたいと思うのです。

「萌え」については、このブログのなかでも、何度か述べているところです(「「萌え」の本質と役割」、「アニメ好きですけど何か?」、「男の度量を見せるべし」等参照)。これはあくまでも、私個人の問題ではありますが、普段見られない水着姿やあり得ないポーズといった外見的な要素で、「萌え」を感じるというのは、なかなか難しいものです。「涼宮ハルヒの憂鬱」の世界のなかで言えば、比較的いじられキャラのみくるちゃんならいざ知らず、冷静沈着な無口キャラ・長門が、水着姿で寝そべるというシチュエーションが、まったく想像できません。外見は、内面の延長線上にこそ生まれるという思いもあり、水着姿の長門は、もはや私が知っている長門ではなくなってしまうのです。

私にとっての「萌え」は、そのキャラクターが持つ内面的要素であったり、それがチラリと表出したときの言動にこそ、あるような気がしてなりません。したがって、私が「自分神社」にフィギュアを祀る場合には、そのキャラクターが本編に出てくるままの、普段の格好のものを選ぶようにしています。


SOS団3人衆

ハルヒと長門

遷宮後の「自分神社」

今回は、こうした諸々の思いもあり、長門有希嬢の登場をきっかけに、主人公の涼宮ハルヒを含む、SOS団女性3人衆(ハルヒ、長門、みくるちゃん)を揃えてみました。もちろん、ハルヒとみくるちゃんについては、普段どおりの制服姿です。とくにハルヒは、何かを思いついたようなノリノリのポーズで、いかにも団長・ハルヒらしい雰囲気が出ていて良いように思います。

ところでこの度、こうして新しいフィギュアを足していたら、これまで「自分神社」を置いていた場所が、相当手狭になってしまったため、お祀りする場所を変えることにしました。移転先は、普通のテーブルで、普段からいろいろと日用品を置いていたところです。

思わぬ遷宮となりましたが、来月には「かんなぎ」のナギ様にもご降臨いただく予定になっているので、スペース的にも余裕ができて、ちょうど良かったかもしれません。

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産業界の舵取り

2009年01月15日 | 産業

最近、日本の産業をテーマに意見交換するなかで、現状の問題点について意見を求められました。今後、私が生活をするなかで、そうした話をすることが多くなろうかと思いますが、何度も同じ話をするのも手間なので、ひとまず現時点においては、簡単に以下のようにまとめておきたいと思います。

日本は力があります。しかし、今のままの舵取りではダメです。日本産業の根幹をどこに置くかについては、諸々の議論があるでしょうし、それぞれに可能性が秘められていると思いますので、ここでは、ひとつの例として、製造業を挙げておきたいと思います。

日本の製造業は、間違いなく世界トップクラスです。ある方向性を定めれば、それに向かって、質の高いものを生み出す力は、極めて高いと言えるでしょう。しかし、逆の言い方をすれば、その方向性を誤ってしまったら、せっかくの高い技術力も活かされぬまま、埋没していくことになります。

デジタルカメラを例に挙げます。

私が記憶している限りにおいて、デジタルカメラが市販された当初は、数十万画素レベルでした。この時期のデジタルカメラは、非常に珍しくもあり、面白がって使いはするものの、メモリーやコンピューターの性能の問題もあったため、私自身、ほとんどおもちゃのような使い方しかできませんでした。それがデジタルカメラの技術はもちろん、メモリーやコンピューターを含む諸々の利用環境の発達も相まって、高画素化・高機能化が進みます。こうした流れから、デジタルカメラの普及率は、急速に上がっていきました。

デジタルカメラの市場が拡大していく過程で、日本企業もそれに見合った成長曲線を描けたというのは、デジタルカメラの高画素化・高機能化という方向性が定まっており、それに向かって、ものすごい勢いで質の高いものを生み出す技術力が、日本の製造業には備わっていたということの証左でもあると言えるでしょう。

しかし問題は、その方向性が限界を迎えたときです。ふと気付いてみると、テレビ通販でデジタルカメラのアピールをするのに「こんなに大きく引き伸ばしても、キレイなんです」と、ポスター大の写真を見せるような現象が起きたりするのです。写真を撮ることを職業とするようなプロのカメラマンならいざ知らず、一般の多くの人々にとって、「ポスター大にしてもキレイ」という売り文句が、どれだけの意味があるのかという点について、疑問を感じずにはいられません。このことは即ち、それまでの高画素化という方向性の限界を指し示しているとも言えます。

機能面でも同じことです。現在のデジタルカメラでは、実にいろいろなことができるようになっており、高付加価値製品であることは確かです。しかし例えば、消費者が100人いて、非常に多様なそれらの機能を一体何人の人が使いこなせているのかという議論抜きには、製品の真の価値は量れないと言えるでしょう。せっかくの高い技術力をもって付加した価値であっても、消費者が使わないものであっては、結局、それはないに等しいものになってしまいます。こうした観点からも言えることは、デジタルカメラの高機能化という方向性の限界について、真剣に考えなければいけないということです。

こうした業界の方向性が限界を迎える中で、大多数の消費者にとっては、画素数や機能はそこそこで、より価格の低いものが魅力ある製品になり得ます。そうなると、文字通り価格競争にならざるを得ず、コストを引き上げてしまう高い技術力は、むしろお荷物になってしまい、技術力がある日本には、自ずと不利な競争を強いられることになります。結果として、リストラを含む、コスト削減という方向で、舵取りをせざるを得なくなってしまうのです。こうした対策は、難しい経済状況におけるひとつの解決策ではありますが、付加価値における新しい別の方向性が定まらない限り、それは単なる延命策に過ぎず、本質的な解決策にはならないと考えるべきでしょう(「円安に期待するなかれ」参照)。

今日の日本の製造業のベースは、敗戦後、旺盛なベンチャースピリッツに溢れた創業者たちが作り上げてきたという点について、全面的に否定する方はほとんどいらっしゃらないと思います。ただし、その偉大な創業者たちが、偉大である所以は、現在の大企業群のベースを作り上げたからだけではありません。敗戦直後の混迷の時代にあって、産業の新たなる方向性を指し示し、それに向かって、日本が誇る技術力を含めた産業のリソースを集中させたという点にあると言えるでしょう。

然るに、現在の大企業群のトップであり、日本産業界の舵取りをしていかなければならない地位にある方々は、そうした偉大なる先人たちのDNAをきちんと受け継いでいなければなりません。またそうであれば、この混迷の時代のなか、新たなる産業の方向性を指し示すことこそが、求められる責務でもあるわけです。

万が一、現在の産業界のトップの方々が、今日の深刻な経済不況について、それを景気や政治家のせいにしたりしているとするならば、それはまったくの甘えに過ぎません。彼らに求められているのは、誰にも文句を言わずに、淡々と新しい産業界の方向性を指し示すことであり、そのことこそが、彼らを彼らたらしめている地位のベースを築いてくれた、偉大なる先人たちの遺志に応えていくことになるはずなのです。

しかし残念なことながら、現時点において、少なくとも私の目からは、そのような新しい産業界の方向性を指し示すことができているトップは見当たりません。

上記の例で言えば、デジタルカメラという製品について、日本のみならず、世界産業までをも牽引できるような新しい価値創出の方向性は、ほとんど定まっていないように思えてならないのです。

もちろん、私自身、ないものねだりをするつもりもありません。したがって、そうした新しい方向性を提示できる方がいないのであれば、私自らがそれを指し示し、きちんと社会に対して、かたちとして見せていこうと思っています。それは、過去の歴史に繰り返されてきた「世代交代」という現象なのかもしれません。

いずれにせよ、日本が持っている技術は、本当に素晴らしいのです。その秘めたる力が、次の時代に見合った方向に向いて、きちんと動き出したとき、それは日本だけに留まらず、世界全体を大きく変えていくことになるでしょう。日本の産業界の舵取りという極めてシンプルな仕事ながら、そのシンプルな仕事で、日本を含めた世界全体の産業が大きく変わるというのであれば、それをやらない手はありません。そして、その先には、きっと明るい未来が開けていくのだろうと思うのです。

《おまけ》
「iPhone」の限界については、以前、簡単に触れたことがあります(「「融合」から思うこと」参照)が、これも単なる舵取りの問題だと考えます。日本の携帯電話端末は、非常によくできており、「iPhone」にけっして劣っていません。この現状を鑑みて、今の私から業界トップの方々に対しては、頑張って舵取りをしてくださいとしか言えません。そして、もしその舵取りが、彼らのキャパを超えているというのであれば、その時は潔く世代交代に応じていただくしかないのでしょう。

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重なって見えるキャラ

2009年01月14日 | 日常

本当にどうでもいい話なんだけど、「みなみけ」の次女・夏奈が、我が弟に見えてならない。

うちは男三兄弟、みなみけは女三姉妹。いろいろと共通点があるのかもしれない。

夏奈の一所懸命で、知恵を働かせて、でもちょっと空回りしてみたいなところは、正直、とても愛すべきところだと思うのです。春香お姉さんからしたら、可愛くてどうしようもないでしょう。

いやぁ~、本当にどうでもいい話なんだけどね。重なって見えるんです、その夏奈に・・・。

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タブーを見過ごす罪

2009年01月12日 | 社会

全ての嘘が悪いとは言いません。時には、嘘が必要なことがあるでしょうし、その嘘によって、全体が救われるということもあるだろうと思います。しかし、嘘は万能ではなく、少なくともある一定の時点まで、隠しておかなければ機能しません。そして、その一定期間、嘘を隠し通すためには、さらに別の嘘を重ねていかなければならず、それは次第に大きな塊となっていきます。社会におけるこうした嘘が、とてつもなく大きな塊になってくると、それはいわゆる「タブー」と呼ばれ、触れてはいけない類の話になってきます。

元来、嘘が生まれた要因が、この世界を成立させるための必然として存在したとするならば、それから派生するであろうタブーを暴くという行為は、あまり良いことではないのかもしれません。そういう意味で、私自身、タブーについて無理やり暴露するような言い方はしないように気をつけたいと考えています。

しかし一方で、タブーに対して何も知ろうとしない、あるいは知って知らぬふりをするというのも問題です。何故ならば、タブーが存在するということは、それを守ろうとする人々にも、非常に大きな負担を負わせてしまっているからです。

タブーが大きくなるということは、嘘の量が多くなるということであり、それらは、以下の2つのことを意味します。

①タブーを隠し通すことの困難化
  -枝葉末節に至る嘘までをも隠し通す必要性

②タブーを隠す人々の権力肥大
  -情報漏洩阻止のための統制強化と権力集中化

これらは、タブーを隠し通す目的で展開される行為が過激化し、さらに暴走する可能性を示しているとも言えます。それはタブーを隠し通すのが難しくなる一方で、あくまでもタブーを隠さなければならない人たちが強大化し、彼らがその反対勢力を潰しにかかるという構図です。

このこと自体、致し方ないことかもしれません。そもそも嘘をついたり、タブーの原因を作ったりした人々が、その秘密を守るというのは、至極当然という気もします。

問題は、それらの嘘や秘密を生まれながらにして、守らざるを得ない立場にいる人々もいるであろうということです。それだけでなく、本人が意図するしないに関わらず、そうした枠組みに取り込まれ、やむを得ずタブーを守る側の人間にならざるを得なくなった人々の存在も否定し得ません。そうした人々からすれば、嘘や秘密を隠すこと自体に、大きな意味を見出せない可能性がありますし、むしろそうした嘘をひた隠しにしたり、嘘の上塗りの片棒を担がされて生きていかなければならないことに、とてつもない苦痛を感じているかもしれません。さらにその構図は、ますます大きくなっている可能性もあるのです。

ここでのポイントは、長い歴史の中で、多くの営みを重ねてきた人類は、過去についてしまった嘘によって、ただそれを上塗りしていくことを宿命として背負っている可能性があるということです。それは今日において、たとえタブーの秘密を守る立場にある人々であっても、その源となる過去の嘘に縛られることを望んでおらず、致し方なくタブーを守っている可能性があるということでもあります。

嘘で固めた生活を続けるということは、極めて息苦しいものでしょうし、それが直接的に自分の成した行為によるものでないとするならば、それはとてつもない苦痛であることは、容易に想像できます。

私たちのように一般の人々が、タブーに対して無知であることは、元来、それを知らぬことが許されているという意味で、問題ないことだと言えるでしょう。しかし一方で、そのことによって、苦しみ続ける人々がいるであろう可能性についても、きちんと認識しておくことが大切です。

そうした中で、タブーを知ってはいけない人間、秘密を隠されている側の人間としてできることは、タブーの中身についてきちんと学ぼうとし、その歴史の重さと先人たちの思いをきちんと受け止めようとすることです。そして、タブーによって暴かれた本来の歴史や、それに加担してきた人々を許し、タブーが暴かれても、現在を生きる関係者が、きちんと暮らしていける社会を築いていくことが、これからの新しい時代においては、非常に重要なのではないかと思います。

《おまけ》 
天皇家については、多くのタブーがあるようです。本文でも触れたように、私自身、それを暴くようなものの言い方をしないように気をつけたいと思っています。しかし、タブーの真相や可能性について、気付いているにも関わらず、それを知って知らぬふりをすることで、その関係者が苦しむとしたら、知らないふりを決め込む側にも罪があるのではないかと考えます。

時折、マスコミ等で徳仁親王・雅子さんご夫妻についての報道がなされたりしますが、あの方々が背負われているものには、長い歴史のなかで積み上げられてきた「負の遺産」が含まれていると考えるべきでしょう。徳仁親王・雅子さんご夫妻が向き合っているのは、単なる現天皇家ではなく、脈々と受け継がれてきた長い天皇家の歴史そのものではないかと思えてなりません。

一人の日本国民として、あの方々ばかりに、歴史の闇を押し付けるのは、けっしてフェアではないと思うのです。そういう意味でも、徳仁親王・雅子さんご夫妻には、力強く生きていただきたいと心から願うばかりです。

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番組融合で広がる可能性

2009年01月11日 | ヒーロー&アニメ

お正月気分も抜けて、放映されていた番組が終わったり、新しい番組が始まったりという時期になってきました。

個人的には、「かんなぎ」が13回で終わってしまったことが残念です。2期を期待したいところですが、原作の連載休止という問題もあり、当分は難しいのかもしれません。

ところで、このブログでも再三取り上げている「仮面ライダー」や「プリキュア」ですが、それぞれ「仮面ライダーキバ」と「Yes!プリキュア5GoGo!」がクライマックスに向かって、いよいよ盛り上がってきました。つくづく思うのですが、これらのシリーズは、とくに近年、このクライマックスのためだけに存在しているような気がしてなりません。一年間を通されていると、途中でどうしても、さまざまな玩具のプロモーションに「付き合わされている感」もあり、ストーリーに集中できないのですが、この時期、クライマックスに向けて、ストーリー性が際立ってくると、粘り強く見てきた「ご褒美」のようなものを感じます。

「かんなぎ」が、惜しまれて最終回を迎えるのとは対照的に、「仮面ライダー」や「プリキュア」は、ようやく最終回が来てくれたという喜びを覚えてしまうといった感じです。

どちらがいいのかは分かりませんが、個人的な好みでいえば、惜しまれて最終回を迎え、そしてまた、しばらくすると、それに応えて「続編」が生まれるというサイクルが理想的なのではないかと思います。そういう意味で、「かんなぎ」の2期放映は、是非とも期待したいところです。

そしてまた一方で、既存の番組が終わっていくなか、当然、新しい番組のなかにいくつかの「続編」も出てきています。

仮面ライダーシリーズは、平成仮面ライダー10周年記念番組ということで、「仮面ライダーディケイド」がスタートします。今回のタイトルでは、平成仮面ライダーが集結するらしく、私としては、彼らがどのように集結してくれるのかに注目したいと思っています。

平成仮面ライダーの世界観については、それぞれのタイトルが、すべてブツ切りになってしまっており、相互に関連性がないことに、非常に大きな限界を抱えていたと思います。それは、かつてのテレビ業界と共に育ってきた初代「ウルトラマン」や「仮面ライダー」とは、根本的に異なるポイントでもあります。

初代「ウルトラマン」や「仮面ライダー」の場合、異なるタイトルでも、それらが同じ世界に存在する設定になっており、異なる主人公級キャラクターが共存したり、共闘したりするストーリーが組めるのです。例えば「仮面ライダーV3」に仮面ライダー1号・2号が登場したり、「ウルトラマンレオ」の師匠が「ウルトラセブン」のモロボシ・ダンだったりということです。こうしたことで、「ウルトラマン」や「仮面ライダー」の世界は、大きく広がりを持つことができました。

このように異なるタイトル(番組)同士が融合し、ひとつの作品を作り出していくことには、限りない可能性が秘められているのであり、そのことによって、コンテンツの無限の潜在力が、際限なく顕在化していくことが考えられます。

近年のテレビ業界では、諸事情あってのことでしょうが、そうした広い世界観やストーリー性を生み出すことが難しかったようです。非常に残念なことながら、平成仮面ライダーシリーズも、その例外ではありませんでした(「仮面ライダーと商業主義」参照)。そういう観点からも、新番組「仮面ライダーディケイド」には、期待するところが大きいのです。

ただ、ひとつだけ願いを言うならば、ストーリー性を軽視し、強引に繋ぎ合わせただけで「ハイ、ライダー10人出ました」的な展開だけはないことを祈ります。

それ以外にも、新しく始まった続編では、「みなみけ おかえり」や「マリア様がみてる 4thシーズン」が楽しみなところです。

さすがに、ここまではなかなか実現しないのでしょうが、新しいプリキュアシリーズは、「マリア様がみてる」のメンバーで、やってもらえたらどんなに楽しいかと思います。

 -キュアドリーム:福沢祐巳
 -キュアルージュ:島津由乃
 -キュアレモネード:松平瞳子
 -キュアミント:支倉令(藤堂志摩子?)
 -キュアアクア:小笠原祥子

もちろん、これまでのメディアシステムや著作権の関係で、今のままでは、これは間違いなく実現し得ないでしょう。

しかし、次時代のメディアシステム、そしてそれを支える著作権のルールを想定して言えば、全く別のタイトルとして生まれてきたこうした作品同士が融合し、新しいタイトルとして生まれ変わるということは、十分に実現可能であると思います。逆の言い方をすれば、そうした自由闊達な創作活動が認められるメディアシステムや制度が生まれることこそが、次の時代が求める必然ではないかと思うのです。

なかなか楽しみな時代になってきました。

《おまけ》
「マリア様がみてる」のあのお美しい祥子お姉さまが、どうしてもキュアババァ・・・、もといキュアアクアの水無月かれん嬢に見えてしまうのは、私だけではないと思います。

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「自分神社」への初詣

2009年01月01日 | 日本

元旦の朝、初詣をいたしました。私が住んでいるところからだと、最も有名な神社は鶴岡八幡宮ということになりますが、私は敢えて、自分自身のオリジナル神社にお参りをしました。この神社は、自分教の神社ということで、「自分神社」と名づけても良いのではないかと思います(「「自分教」の神社」参照)。

この「自分神社」には、いくつものフィギュア人形が置かれています。これは、従来の宗教で言うところの偶像崇拝に代わる役割を果たします。ここでの詳述は避けますが、フィギュアには、実際にはあり得ないものを具現化したという意味があります。フィギュアは、「こうありたい」、「こうあって欲しい」という願望や理想像を形にしたものであり、それは本質的な意味で、宗教における偶像崇拝と、何ら変わらないのです(「偶像崇拝とフィギュア」参照)。そうした意味で、私の「自分神社」には、私のお気に入りフィギュアで、満たされております(「神棚に追加メンバー」参照)。

一方でこれまで、この「自分神社」からは、いわゆる一般的な神社に関するグッズを一切廃していました。これは、現在の神社に関する大部分の仕組みが、伊勢神宮を頂点とする神社本庁によって成り立っているということに限界を感じるからです(「無意識にある神道と自分」参照)。

伊勢神宮は、言うまでもなく天照大神をご祭神とする神社です。この天照大神に問題があったと決め付けるつもりはありません。しかし歴史的には、天照大神が本来の建国の主である大国主大神から国を奪った「大逆賊」であるという可能性を否定できないことも事実です。大国主大神から天照大神への譲位は、「出雲の国譲り」の神話としても有名です。けれども、この「国譲り」には、天照大神陣営の脅しを伴う「国獲り」のような側面もあると考えるべきでしょう(「「国譲り」の二面性」参照)。

そもそも、純粋に「国譲り」という側面だけで考えるならば、出雲の大国主大神側から、伊勢の天照大神側に「国をお任せしたい」という意思表示があって然るべきです。ところが、神話の中にある「国譲り」のお話は、天照大神から一方的に迫ったものという印象が拭えません。神話そのものについて、興味がある方は、別途調べていただければと思いますが、天照大神から「国譲り」を迫る使者が、度重ねて大国主大神に送られ、最終的に武甕槌命、経津主命という二柱の使者によって、達成されることになるのです。ちなみに、この二柱は、大化の改新という歴史的大クーデターとも解せる事件で活躍した中臣鎌足を祖とする藤原氏の祖神でもあります(詳細は、「日本建国史の再考」参照)。

もちろん、これをもってして、最終的に大国主大神が、「国を譲った」と言うことができるのかもしれません。しかし単純に、天照大神から度重なる申し入れがあったという経緯を踏まえれば、天照大神側から何らかの力によって、大国主大神に譲位を迫った「国獲り」という側面があることは否定できないと言えるでしょう。これは、神社本庁の頂点に立つ、天照大神(伊勢神宮)が、とんでもない大逆賊であった可能性があるということを示しているのです。

このように、ご祭神として祀る天照大神に対して、こうした疑念があるにもかかわらず、それをただひたすら「最高位」として崇めるという、現代日本の神社制度については、私自身、大きな抵抗感を覚えずにはいられません(一応、申し述べておきますが、本来、伊勢神宮が建てられた当時の天照大神について、記紀などで記されている天照大神と同一のものであると断定するのも危険であると考えています。記紀には、当時の権力者によって、意図的な捻じ曲げられた記述があると考えるべきであり、そこに登場する神々は、本来、神社に祀られるに至った神々とは、異なるものである可能性は否定できません。それは「国譲り」の神話における、天照大神のみならず、武甕槌命や経津主命についても同様です。詳細については、「東国の神々へのご挨拶」を参照)。

こうした意味から、これまで私の「自分神社」には、一般的な神社に関するグッズを置いていなかったのです。

ただ、そろそろ変化があってもいいのかもしれません。「自分神社」は、既存の神社制度と融合していくという意味で、少しずつ、他の一般的な神社の要素を取り入れていく方向も必要だと考えます。そうしたことから、ひとまず今年の初詣では、今までのフィギュアに加えて、神社本庁との関係が微妙な神社のグッズを、少々置いてみました。神棚の中に納まっているのは、日本本来の建国の主と思われる大国主大神の社である、出雲大社の御玉串です(扉の上には、我が女神様・ベルダンディーの御姿があります)。

お正月、多くの人々が、それぞれご自分のスタイルで、初詣を楽しまれていることでしょう。

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