常識について思うこと

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「信頼」は自分の問題

2008年02月07日 | 社会

日本の報道内容が、中国に絡むギョーザ問題一色に染まっています。正直、私が最初にこのニュースに触れたときの感想は、「仕方ない・・・」でした。別に、この問題を軽視するわけではなく、ただこういう事故が起こってしまった以上、「(起きてしまった以上は)仕方ない」と思ったのです。

原因が何にせよ、誤りを認めるべきところが謝罪し、再発防止に向かえれば、本来的にはそれでよしのはずです。それがたとえ、中国の食品メーカーに過失であり、賠償問題等の問題が発生することになったとしても、中国製食品全体に対する決定的な不信感にはつながらないと思いました。

けれども、日本から中国に調査団が派遣されて、ギョーザの製造工場への視察の様子などが報道されるのを見て、少々状況が変わったかもしれないという印象を持ちました。

中国側が工場視察を通じて伝えたかったメッセージは、「自分たちには問題がない」、「こんなに綺麗な自分たちを信じてくれ」ということなのでしょうが、まったくの逆効果のような気がするのです。日本の調査団が通された工場は、ハリウッド映画に出てくる最先端の研究所を思わせるような清潔ぶり・・・というよりも、何もかもが新品すぎて、違和感すら覚えました。どう考えても、食品工場として動いていた施設ではないと思われても仕方がない映像でした。

「自分たちを信じてくれ」というメッセージを送りたい気持ちは汲み取りたいと思いますが、正直、「私たちはこんなに嘘つきです」、「私たちは、こんなにも平気で嘘をつくのです」という誤ったメッセージを送ってはいないか心配になります。

私は、この問題で「ギョーザに農薬が混入されていたのは中国かどうか」ということは、既に事の本質ではなくなっており、「中国製の食品が信用できるかどうか」ということが本質的な問題なのだと思っています。いろいろやっていれば、失敗もあるでしょうし、事故も起こるものです。しかし実際に、失敗や事故が起こってしまったときに、その原因や事実をすり替えるということであれば、今後、失敗を含めて(もしかしたら故意で)何をやられても改善を要求することはできないし、また望むこともできないということになります。こうなってしまっては、もはや信頼関係において、決定的な致命傷になりかねません。

その後、いろいろと情報が出てきています。話題になっている会社は労使問題でトラブルがあったり、中国では「逆恨み」に端を発した毒物混入事件が起こったりするということを鑑みて、中国の多くの関係者も一種の被害者である可能性も十分にあると思います。

そういう意味で、中国側の事後対応が、本当に逆の効果がありはしないのか、関係者の方々には、よく考えていただきたいと思うのです。そしてもし、隠蔽の事実があるとするならば、それを隠蔽してしまった結果、市場での信頼を失うのは、隠蔽した側に純然たる自己責任があるということを認識しておいていただきたいと思います。

「信頼」について考えるとき、「信頼する(しない)」という相手側の問題として考えてはならないということに、十分注意する必要があります。「信頼」は、「信頼される(されない)」という、純然たる自分の問題であると捉えるべきなのです。中国当局の方が、記者会見を開いて、涙を浮かべながら中国食品の安全性を訴えていました。いろいろな思いがあるのでしょう。その点、お気持ちをお察したいとは思います。ただ、それを信じてもらえるかどうかは、「信じてくれ」という言葉によって決まるのではなく、信じるに足る行動をとっているかという自分自身にかかっているということを、記者会見をされた当局の方を含めて、関係するすべての方々に、是非認識していただきたいと思うのでした。

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