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1.4 ドイツの補償実績

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 第二次大戦以降、戦後処理に関して、「賠償」と「補償」とがあることについては前述の通りである。ドイツの戦後処理における両者の関係をみると、「補償」偏重であるといわざるをえない。ドイツの第二次大戦に対する国家賠償は、西ドイツ政府の先送り方針や多くの債権国の請求権放棄などによって、ほとんど実施されていないのが現状である。
 ドイツの国家賠償問題に関する協定のひとつとして、1953年2月に締結されたロンドン債務協定がある。この協定の第5条は「ドイツの交戦国、被占領国(地域)およびその国民の、戦争に起因するドイツに対する請求権の審査は賠償問題の最終的取り決めまで留保される」ことを規定している。以降アメリカ、イギリス、フランスの三大国はドイツの賠償延期に同意し、また西ドイツ政府も同協定を援用して、「全ドイツの平和条約締結まで賠償問題は延期される」との立場をとってきた(19)。
 対ソ連の賠償問題については1953年8月、ソ連と東ドイツの間で賠償免除の取り決めがなされた。これにより東ドイツ(この場合、全ドイツを意味する)のソ連に対する賠償責任は消滅したのであるが、同時にソ連の取り分から賠償金が支払われることになっていたポーランド政府も、これに続いてドイツに対する賠償請求権を放棄することとなった。
 のみならず、ドイツの旧同盟諸国であるルーマニア、ブルガリア、ハンガリーは1947年2月にアメリカなどと締結された平和協定によって、ドイツに対する賠償請求権を放棄した。また、オーストリアも1955年7月の平和条約によって、対ドイツの賠償請求権を放棄するに至った(20)。
 しかしながら、ドイツの補償問題については、連邦補償法などの法整備や1952年9月のルクセンブルク協定をはじめとする数々の協定締結によって、次々と解決されてきた。
 諸外国との協定については、1961年11月クロイツナッハ協定を締結し、ドイツから9500万マルクの補償を受け取っている。同じ頃、フランスやオランダをはじめとする西側各国からドイツに対する補償要求がなされるようになり、1959年から64年までの間にルクセンブルク(1800万マルク)、ノルウェー(6000万マルク)、デンマーク(1600万マルク)、ギリシア(1億1500万マルク)、オランダ(1億2500万マルク)、フランス(4億マルク)、ベルギー(8000万マルク)、イタリア(4000万マルク)、スイス(1000万マルク)、イギリス(1100万マルク)、スウェーデン(100万マルク)との協定が次々と調印された。
 またポーランドをはじめとする東欧諸国は、ドイツに対する賠償請求権を放棄していたため、東欧諸国のナチス犠牲者に対する補償について、ココの私人の国家に対する請求権は「国家賠償」から切り離されるべきであり、また「国家賠償」と「ナチスの不法に対する補償」は区別されるべきことを主張してきた。これに対して西ドイツ政府は、二国間協定という法的措置ではなかったが、結局1961年から72年までの間にユーゴ(800万マルク)、ハンガリー(625万マルク)、チェコ(750万マルク)、ポーランド(1億マルク)、にそれぞれ一定額の支払いをおこなった(21)。
 トータルとしてのドイツの補償支払額は、1993年1月1日現在、連邦補償法による7,104,900万マルク、連邦返済法による393,300万などを含めて計9,049,300万マルクである。今後続けられるであろう支払いを含めると、補償支払総額は12,226,500万マルクにのぼるとされている(22)。このドイツの戦後補償・賠償の支払金額は、日本のそれの10倍近い数字であり、一面的ではあるが、それなりの評価を受けるに値するドイツの補償実績を強いメス数字であるといえる(23)。

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