常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

ジパングにみる多神教的精神

2012年10月28日 | ヒーロー&アニメ

現代の兵器をもつ部隊が、第二次世界大戦の時代にタイムスリップしてしまうという設定は、そんなに珍しくないのかもしれません。例えば、アメリカの実写映画では「ファイナル・カウントダウン」、日本のアニメでは「ジパング」があります。両者ともに、現代の軍用艦船が第二次大戦時の兵器と戦うシーンが含まれています。そして、この両作品を比較すると、なかなか面白いことがみえてくる気がするのです。

それぞれ、相手と遭遇したときの台詞を挙げてみます。 

【ファイナル・カウントダウン(日本語吹替え)】
======================
■F14がゼロ戦を発見したシーン
《F14パイロット》
どうだ、少しはたまげたろ。よし、もういっちょやってやるか。

(中略)

《米空母艦長》
攻撃してよし。標的を粉砕しろ。ゼロ戦を粉々にしろ。

《F14パイロット》
待ってました。 
======================

圧倒的な戦力差、戦闘能力の違いをみせつけるパイロットと、敵機撃墜を「粉々にしろ」と命令する艦長。さらにその攻撃命令に対して、よだれをたらした猟犬が噛み付くかのごとく「待ってました」と答えるパイロット・・・ここに人の命を奪うということに対する躊躇は微塵も感じません。

一方、日本アニメである「ジパング」では、このあたりの描写がまったく違います。

【ジパング】
======================
■イージス艦・みらいが米艦隊の第一波攻撃を受けた直後のシーン

《砲雷長》
艦長、トマホークでのワスプ撃沈を具申します。

《航海長》
撃沈だと?
菊池(砲雷長)、撃沈しなくてもハープーンを使って飛行甲板を破壊すれば。

《砲雷長》
いやだめだ。
(中略)
飛行甲板を、米海軍はわずか3時間で修復している。 

《航海長》
3時間あれば戦闘は回避できる。
撃沈させてしまえば、死傷者は千人規模だ。
いくら自衛のためでも、それだけの人間の命を奪うことにためらいはないのか。

(中略)

■イージス艦・みらいからトマホークが発射されたシーン
(人質になったみらい乗組員が艦外から発射されたトマホークをみて) 

《みらい乗組員》
きさまぁ、なんてことを!それでも日本人か。
 (中略)
みらいの放った矢はどんなに離れていても確実に米空母にとどめを刺す。
だが、俺たちはそんなことを望んじゃいなかった。
みらいの力は命を奪うためにあるんじゃない。
なのに、貴様のせいで、みらいのなかに決断を迫られた奴がいるんだ。 
自衛のためのやむを得ない決断をなっ! 

(中略)

■米空母に向かってトマホークが飛んでいくシーン

《みらい砲雷長》
ボタンひとつを押すだけで、歴史は変わる。そして、人の命が消えていく。
これが俺が選んだ射撃の道。あと40秒で俺は・・・。

《みらい艦長》
むー・・・。 
======================

戦闘兵器を扱う人々が、人の命を奪うことを躊躇するなど、何をまどろっこしいことを言っているのかという意見があるかもしれません。しかし私は、兵器のボタンを押すときの、こうした葛藤がとても大切ではないかと思うのです。そして、ここにある種の日本人らしさを感じます。

アメリカの一神教的な思想によれば、敵と味方は容易に区別がつくのかもしれません。そして、その論理によって、敵の命を奪う(それも敵機を粉々にして撃墜する)ということが、非常に正当化しやすいとも考えられます。それに対して、日本のような多神教的な思想が強い文化の下では、事はそんなに容易ではないのです。これは、既にブログでも書いたことがある「武士と騎士の違い」として説明することができるのかもしれません。

「ジパング」という作品は、戦後の敗戦国・日本とはまったく違う、理想の国・日本(ジパング)を目指すというストーリーでした。たしかに日本は戦争に負けました。しかし、こうした作品をみる度に日本は敗戦後、きちんと次の時代を担うだけの文化や価値観を、順調に育んできていると思うのでした(「世界のリーダーたるべき日本」参照)。

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ハイパーキャストオフ!

2010年09月02日 | ヒーロー&アニメ

先日、仮面ライダーカブトハイパーフォームのストラップをいただきました。ただ、仮面ライダーカブトのストラップは、既に持っていたので、使わずに放っておきました・・・が、今朝、見てみたら、お気に入りだったカブトのストラップ(「やはりカブトはかっこよく」参照)の紐が切れていたのです。

ということで、とりあえず今日、今まで携帯に付けていたノーマルカブト(写真左)を外しました。これからは、ハイパーカブト(写真右)を付けることにします。デザイン的には、ノーマルカブトの方が好きなのですがやむを得ません。

ただし、この2つのカブト、強さとしては圧倒的にハイパーカブトが上です。

ウィキペディアによると、ハイパーカブトのクロックアップ(ハイパークロックアップ)は、ノーマルカブトのそれの数十倍のスピードらしい・・・これは破格です。さらにハイパーカブトは、過去・現在・未来を自由に行き来できる能力を有します。この「時間を操れる」という能力は、まさしく神の領域とも言えるでしょう。

今月に入って、自分の環境もだいぶ変わってきました。これに伴って、そろそろ私自身も大きく変化しないといけないと感じています。つまり、自分もカブトのストラップ同様、ハイパーフォームに移行していかないといけないということなのでしょう。

というわけで、ハイパーゼクターを装着して叫ぶのです。

-ハイパーキャストオフ!-

・・・うん?んで、何か変わったかな!?

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煩悩だらけの座禅

2010年05月26日 | ヒーロー&アニメ

B型H系」を見ていて、ツッコまずにはいられなくなりました。

修学旅行で、座禅をすることになった面々。そのなかで、金城さんの見事な座禅は、お寺のお坊さんたちを唸らせました。

-この少女、既に禅の道を体得している-

いやしかし、実際のところ、金城さんの内側では大変な煩悩が渦巻いていたのです。


座禅中の金城さん


悟りの境地を体得?


中では大変なことに・・・

もちろん、これは単なるアニメのお笑いネタです。しかし、実際のところ、この話のなかには、本来の悟りの境地に通ずるものがあるとも思うのです。

生きていると、いろいろな感情を持つことになります。しかし、世の中、嬉しい時にただ笑っていればよいというものではなかったり、腹が立った時にただ怒ればよいというものではなかったりします(「感情の主人たれ」参照)。この点、もし阿修羅像のように顔が3つあったら、ひとつは泣いて、ひとつは怒って、ひとつは笑って・・・という使い分けをしながら、相手に応じて、都合のよい顔を見せておけばよいということになるのでしょう(そういう意味で、「キン肉マン」に出てくるアシュラマンは、至極、正しいのではないかとも思います)。

けれども、残念ながら、人間の顔はひとつです。つまり、どれだけ大きく複雑な「喜怒哀楽」を抱えていようとも、それをいくつもの顔で表すことはできず、どれかひとつの表情をするしかないわけです。そしてそれは、最終的に無表情に近い、究極の「穏やかな顔」に落ち着くのではないかと思います(「達人が見せる早業」参照)。もう少し突っ込んだ言い方をすれば、「喜怒哀楽」の度合いが深ければ深いほど、それを安易に表情に出すことは適わず、それを奥深くに沈めた「穏やかな顔」になっていかざるを得ないのではないかという気がするのです。

「ある程度の年齢になったら、自分の顔に責任を持て」などという言い方をしたりもします。それはつまり、そうした表情の積み重ねによって、「たったひとつの顔」が形作られていくということを意味しているのでしょう。

いずれにしても、そんなことを考えつつ、内に大いなる煩悩を抱えた金城さんの禅は、単なるお笑いネタで済ますのはもったいなく、ひとつの悟りの境地に向かっていると解すべきではないかと思ったのでした。

※記事の本旨を分かりやすく伝えるため、アニメ作品のカットを掲載してしまっております。著作権関係者の方々には、大変申し訳ございませんが、もし問題があるようでしたらご一報ください。即、削除させていただきます。

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オールスターズ2ですっ!

2010年03月23日 | ヒーロー&アニメ

プリキュアの映画、「プリキュアオールスターズDX2 希望の光レインボージュエルを守れ!」を観てきました。プリキュアシリーズは、今年で7年目に入っており、これまでに登場したプリキュアは、全部で15人になります。今回は、その15人に加えて、Max Heartのひかりと5のミルクを合わせて、17人のプリキュアということになっていました。以前から、こうした異なるシリーズのプリキュアが一度に登場する作品を切望していたので、この映画上映は、とても嬉しかったりします(「視聴者として願う「夢の競演」」参照)。

思えば、一昨年の秋の映画で、オールスターズの短編が上映されたのを皮切りに(「実現した「夢の競演」」参照)、去年の今頃、「プリキュアオールスターズ DXみんなともだちっ奇跡の全員大集合!」が公開され、本格的なヒロイン揃い踏みの長編映画を楽しむことができるようになったのです(「オールスターズですっ!」参照)。

今回は、その長編第二弾というわけで、もちろん、面白かったです。以下、ネタバレ注意です。

まず、それぞれのプリキュアが互いに「ともだち」になっているという設定は、なかなか嬉しい感じがしました。ココの「何か出たぞ!」も久しぶりで良かったです。志穂の懐かしい3連続口癖もありました。満と薫は、戦闘能力を失っているようでしたが、みのりと仲良くしている姿が、実に微笑ましかったです。ベンチャーを起こしたはずのブンビーさんも、遊びに来てくれていました。キントレスキーやミズシタターレだけでなく、カレハーンの「カレッチ」と呼んでくれの台詞まで健在でした。肉弾戦は、やはりなぎさ&ほのかペア、咲&舞ペアの迫力が圧倒的だったように思います。それから、各プリキュアのOPテーマをダンスしてくれるEDは、当然のことながらアイマスのMADを遥かに超越したクオリティで、とてもとても良かったです。

また少々別の観点から、この映画で将来のヒントになると思えたのは、物語の舞台となったフェアリーパークです。このフェアリーパークは、プリキュアに出てくる妖精(?)たちを題材にしたテーマパークで、そのキャラクターたちのプチコスプレをしたり、パレードを楽しんだりすることができる遊園地なのですが、そこらへんが千葉県にあるアメリカ生まれのテーマパークにも似ているのです。私は常々、アメリカの演出力は凄くても、コンテンツ力については、日本のアニメの方が格段に上だと思っており、これをきちんと活かすべきであろうと考えています(「コミケとディズニーランド」参照)。そうした意味で、フェアリーパークのような施設の展開は、将来における日本の観光政策の方向としても、十分にアリだと思うのでした(「負担から投資への発想」、「観光立国日本へのヒント」)。

こんな感じで、今回の映画は、いろんな意味で非常に良かったと思います。

ただ一方で、各プリキュアの活躍ぶりは、前回の方が全体としてバランスが取れていたように感じました。さすがにプリキュアも7年目に入っているので、昔のキャラクターは、「小さなおともだち」に馴染みが薄いということで、その存在感が薄められた感は否めません。このあたりは、昔からのプリキュアファンである「大きなおともだち」からすると少し残念でした。

少々、話が逸れるかもしれませんが、ウルトラマンで喩えれば、1~2年目のMax Heartの面々は初代ウルトラマンであり、3年目のSplash Starの咲や舞はウルトラセブンのような存在と言えるでしょう。ウルトラマンの場合、何十年か経過して、新しいシリーズが展開されても、初代ウルトラマンやウルトラセブンの存在感は、やはり大きいと言えると思います。例えば、私の場合、ウルトラマンやウルトラセブンというのは、昔のキャラクターで、リアルタイムでは分かっておらず、どちらかというとウルトラマンタロウやウルトラマンレオあたりの方が馴染みがあるわけです。しかしそれでも、番組の再放送はもちろん、各種グッズ等を通じて、ウルトラマンやウルトラセブンにも触れているため、その存在感はけっして衰えないのです。今回のプリキュア映画では、そうした存在であるべき昔のプリキュアたちが、存在感を薄めてしまっているように思うわけで、これはいささか残念と言うほかありません。

もちろん、時代の変化を受け入れる必要はあるでしょう。今のメディアの仕組みでは、制作費を拠出するスポンサーの力は非常に重要で、その玩具やキャラクター商品の売上げを増やしていかなければならない以上、昔のキャラクターはさっさと使い切り、新しいキャラクターに入れ替えないといけないという事情はよく分かります。また、その存在感の薄さは、映画の中だけでなく、そうしたグッズの商品戦略によるところもあるのではないかと考えます。しかし、それらを含めて、プリキュアという作品全体がそちらの方向に走ってしまい、昔のように時間をかけてキャラクターを育て、じっくりと子供たちの間に浸透させることができないのは、それはそれで残念だと思うのは仕方のないことです。

このあたりの問題については、私なりに新しいメディアシステムを立ち上げていきながら、解決を図っていきたいと思います。

いずれにせよ、それはそれとして、今回は久しぶりに歴代プリキュアたちの元気な姿が見られて良かったです。

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天道総司という生き方

2010年03月22日 | ヒーロー&アニメ

最近、ちょくちょく「仮面ライダーカブト」を見直しています。平成仮面ライダーには、いろいろありますが、私にとっては、仮面ライダーカブトがダントツの一番です。理由はいろいろありますが、単純に言ってしまえばカッコよさでしょう。まずカブトのデザインやライダーキックのカッコよさは、まったく他を寄せ付けません。もちろん、好みの問題もあるでしょうが、私からすると、このあたりのカッコよさはまったくの別格だと思います。

それともうひとつ、カブトを語る上で外すことができないのが、主人公・天道総司の生き方です。

-天の道を往き、総てを司る男-

自らのことをこのように言って憚らない天道は、ただ者ではありません。それは、他の天道語録にも、たっぷり表れていると思います。

以下は、そこからいくつか抜き出したものです。ひとつひとつの言葉が、私が考える世界観や宇宙観に通じるように思えてなりません。

-俺が望みさえすれば、運命は絶えず俺に味方する-
  ※「「運も実力のうち」の真意」等参照

-二兎を追う者は二兎とも取れ-
  ※「矛盾との付き合い方」等参照

-戦いはへそでするものだ-
  ※「腹式呼吸のコツ」等参照

-悪魔の囁きは時として天使の声に聞こえる-
  ※「神と悪魔と「祟る神」」、「「天国に行ける」という罠」等参照

-子供は宝物。この世でもっとも罪深いのは、その宝物を傷つける者だ-
  ※「子供たちへのバトンタッチ」等参照

-本物を知る者は偽者にはだまされない-
  ※「噛み合わない問答の意味」等参照

-俺の進化は光より速い。全宇宙の何者も俺の進化にはついて来れない-
  ※「達人が見せる早業」等参照

-人が歩むのは人の道、その道を拓くのは天の道-
  ※「「特殊な存在」という自任」等参照

-俺は世界の中心。ならば世界は俺が救ってやる-
  ※「「自分教」の薦め」等参照

-正義とは俺自身、俺が正義だ-
  ※「正義がひとつになる時代」等参照

こうした台詞のひとつひとつに対して、「良いこと言うなぁ」等という生ぬるい感覚ではなく、心の芯から共鳴してしまう感覚があって、もう見ていてたまらないのです。さらに、上記は天道が放つ言葉の一部にしか過ぎません。「仮面ライダーカブト」を見ていると、これら以外に天道がいろいろな言葉を発するわけです。私からすると、そうした天道の一言一言が、いちいち自分の真芯から発せられているような感覚がして、見ていてとても面白いのです。

以下は、先日見ていたシーンの中で、ゼクトの岬さんから尋問されている時のやり取りです。

========================
《岬さん》

カブトの正体はあなたなの?

《天道》
愚問だな。太陽に向かってあなたは太陽ですかと聞くか?

《岬さん》
なぜあなたがライダーベルトを持っているの?

《天道》
それも愚問だな。太陽に向かってなぜ輝くと聞くか?
========================

何これ?と思われるかもしれませんが、これが天道です。少々、生意気に聞こえるかもしれませんが、けっして、ふざけているわけでも、傲慢なわけでもありません。

私としては、この言葉の意味を心の奥底で味わいながら、また、思わず笑ってしまいました。

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ノロティの死から学ぶこと

2010年03月02日 | ヒーロー&アニメ

ノロティ、死んでしまいました(「ノロティの優しさと力」参照)。「この世界は自分のもの」と言ってのけていた彼女の死は、とても残念です。

===================
どこかで誰かが幸せになったら、それ全部私のものなんですよ。
私はこの世界がすごく大事なんです。大事で大事で、たまらないんです。
===================

こんなことを真剣に言える人は、とても貴重だし、これからの人類にとって手本となるべきキャラクターではなかったかと思います。

ただし、彼女は決定的なミスを犯しました。それは殺されてしまったことです。これでは、実世界で言うところのイエス・キリストが為したことと大差ありません。私は、これからの世界において、人類がイエスという人物から十分に学び、それを超える存在になっていかなければならないと考えます(「イエスから学ぶもの」、「クリスマスシーズンを迎えて」等参照)。然るに、これからの世界における人類は、イエスと同じレベルではいけないと思うのです。

イエスという人物は、人々に愛の重要性を説き、憎しみや悲しみを乗り越えなければいけないことを口にしながら、結果として、それを説いていた人々に殺されてしまいました。これでは愛の本質、憎しみや悲しみを乗り越えることの重要性は伝わりません。もっと意地悪く言えば、「愛を主張したら殺される」という悪しき前例を残したとも言えるのであり、ここに彼の限界があったと思うのです。

これに鑑みて、ノロティの死を見たとき、残念ながら彼女の死もこれと同じではないかと考えるわけです。他人の幸せを自分の幸せとして喜ぶことができ、けっして人を憎んだり、殺したりしないノロティのような素晴らしいキャラクターは、本来、殺されてはいけないのです。その彼女が殺されてしまうというのは、何かが決定的に間違っていると言わざるを得ません。

ただし一応、私なりには、彼女の死に、彼女自身の問題があったと見ています。

ノロティは、この物語の中で、「武装司書」として働いていました。彼女は、「武装司書」という職業を通じて、世界を守ろうと考えていたわけですが、「武装司書」とは何なのかについて、きちんと知りませんでした。私が見る限り、その世界を守るために、「武装司書」という肩書きを持ち続けることには無理がありました。「武装司書」が働く図書館を作った権力者には、それを作るだけの理由と思惑があるのです。当然、そこで働く「武装司書」には、それを守るための役割が期待されています。そして、それらは世界の裏側で繋がっており、非常に強大な仕組みになっているのです。

ノロティが、「この世界は自分のもの」と言い張るのであれば、そうした世界の仕組み、その中における図書館の位置づけ、さらには「武装司書」の役割などについて、きちんと知る必要がありました。その上で、「武装司書」を続けるならよし、違うのであれば「武装司書」を辞めて、世界を守る別の方策を考えなければならなかったはずです(個人的には、武装司書から敵対されながら戦ったヴォルケンも、惜しいキャラだったと思っています)。

そういう意味で、自分が置かれている「武装司書」としての立場、所属している図書館という組織の位置づけ、その世界全体の仕組みを知らずして、「この世界は自分のもの」と考えてしまったノロティには、死ぬ道しかなかったのかもしれません。

私自身、自らを神と考える「自分教」を提唱している(「「自分教」の薦め」参照)ため、ノロティの考え方自体には、非常に大きな共感を覚えます。しかし、それを口にしたり、実行したりするためには、それに相応しい世界観を持たなければならず、また、それに応じた身の置き方をしなければいけないということでしょう。今回、ノロティは自らの死をもって、そのことを教えてくれているように思うのでした。

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テガミバチからのメッセージ

2010年02月22日 | ヒーロー&アニメ

テガミバチ」を見ていて思うことは、他者を批判したり、否定したりするときは、極めて慎重にするべきだということです。

「テガミバチ」で展開されるストーリーには、何かと不気味だったり、陰湿だったり、卑怯だったり、狡賢いと思われるような人々が出てきます。主人公のラグは、最初、それらをちょっとだけネガティブに見てしまうのですが、彼の銃には、そうした人物がそうなってしまうまでの経緯を明らかにする力があり、各話の終盤では、それぞれのキャラクターがそういう性格になるまでの裏話が判明します。その裏話では、みんなが大変な苦しみを背負っていることが明らかになり、それを知ったラグは、それまで持っていたネガティブな見方を捨て去り、そうした人々に歩み寄るようになるのです。

要は、みんな良い人々、一所懸命な人々だということでしょう。みんなそれぞれの事情を抱えて苦しんでおり、その苦悩の末、各人がワケありな性格になっていくという点、つまりそれぞれ人には事情があるという点が、「テガミバチ」の各話で伝えられるとても重要なメッセージであると思うのです。

そういう意味で、そのようにそれぞれ事情があるであろう他者を批判したり、否定したりするということに対しては、極めて慎重でなければならないということが、とても大切なのだろうと思われます。言い換えれば、他者を批判したり、否定したりする場合には、「(人の生死を含めて)いかなる事情があろうとも」という覚悟が必要であるということです(「「ダメ出し」には要注意」)。

もちろんこれは、他者を批判したり、否定したりすることの善悪を断じるものではありません。また実際、私自身、他者の批判や否定を全くしないわけでもありません。

ただし、他者を批判したり、否定したりする前に、「こんな事情があるのかも・・・」、「すごく大変な状況なのかもしれない」、「いろいろとワケがあるんだろうなぁ」と一通り考えてみることも、また重要だということです。そのように様々なシミュレーションを重ねて、最悪のケースまでをも想定して、それでも批判したり、否定したりする「ダメ出し」をしたくなるのであれば、それは本物の「ダメ出し」であり、何もためらうことはないでしょう。そして、どうせ「ダメ出し」をするのなら、そのようにとことん突き詰めてからやった方がいいと思うのです。

こんなことが、私なりに「テガミバチ」という作品から読み取るメッセージなのでした。

おや!?うん、そういう意味で言うと、私の「ダメ出し」は、少々、厄介かもしれません。まぁ、それはそれとして、その点は悪しからず・・・。

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なのはシリーズから思うこと

2010年02月13日 | ヒーロー&アニメ

ここしばらくの間、「魔法少女リリカルなのはStrikerS」を見ておりました。同作品は、「魔法少女リリカルなのは」、「魔法少女リリカルなのはA’s」に続く三期目のタイトルで、第一期では小学三年生だった主人公・なのはが、大人のようなキャラクターとして登場するところが、とても印象的で良かったと思います。

調べてみると、この企画は19歳のなのはのラフイラストが持ち込まれたところから始まったらしいです。私個人としては、こういうキャラクターを大切にする精神は、とても好感が持てるところです。StrikerSのメインキャラクターは、スバルやティアナといった若手陣に入れ替わり、主人公だったなのはやフェイトは、彼らを指導する教官、あるいは先輩としての役回りとなっています。このように同じ世界観ながらも、時を経た設定にすることで、それぞれのキャラクターたちの成長や人間関係の発展性を感じられることは、とても新鮮で楽しいと思いました。

そして、これを見ながら思ったのは、「次期プリキュア、こんな展開はダメ?」ということでした。今週から、新しいプリキュア「ハートキャッチプリキュア!」が始まっている最中、こんなことを書くのは不謹慎かもしれませんが、物語の連続性という意味では、非常に面白いのではないかと思うのです。

これまでのプリキュアの流れは、1年ないし2年毎に、まったく新しいタイトルに切り替わって、映画等の特別な作品での設定を除いて、それぞれのプリキュアの世界はブツ切りになるというものでした。しかし、例えばなのはシリーズのように、前作のキャラクターが先輩役として登場し、新しく出てきた後輩キャラクターたちを指導するという展開でも十分通用するような気がするのです。

こうした試みについて、例えば昔、「ウルトラマンレオ」で、ウルトラセブンがレオを教育、指導するような設定がありました。幼心に、セブンのスパルタぶりがあまりに厳しく、それほど好きではなかったのですが、これはこれで、ストーリーの展開としてなかなか面白いのではないかと思います。また、なのはシリーズでは、空尉だの執務官だのという組織の難しい設定があるので、プリキュアに適用する際には、そうした難しさについての工夫が必要だと思いますが、こうした流れそのものは、とても楽しいのではないかという気がしてなりません。

個人的に、これをプリキュアでやる場合には、作品の質の割に1年で終わってしまったSplashStarをベースにして、咲・舞コンビ、プラス満・薫コンビが先輩役として登場し、新しい伝説の戦士プリキュアを育てるという設定はどうかと思います。話の展開によっては、初代プリキュアのなぎさとほのかが、たびたび登場するというのもアリでしょう。この場合、ウルトラマン的に考えると、通常は登場しないゾフィや初代ウルトラマンが助けに来てくれるような、かなり貴重でスペシャルな扱いにすると盛り上がるような気がします。

自分で書いておいて何ですが、これらは、ほとんど私の妄想の域を出ていません。しかし、キャラクターを大切にするという発想自体は、やり方次第でビジネスの効率化や生産性向上という意味で、矛盾をきたすことなくうまく機能するのではないかとも思います。そして何よりも、次から次へと新しい作品を生み出し、同時に(いわゆるキャラが立たない)ジャンクのようなキャラクターを増やしてしまうよりも、多くのファンに喜んでもらえる作品になるのではないかという意味で、こうした試みがなされたら、一ファンとして、とても嬉しいだろうと思うのです。

実際のところ、どうなるかは別にして、以上、ここ最近、「魔法少女リリカルなのはStrikerS」を見て思ったことでした。

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トミカヒーローの良い所

2010年02月06日 | ヒーロー&アニメ

トミカヒーロー レスキューファイアー」は、結構、頑張っていると思います。

日本の特撮ヒーローというと、石ノ森章太郎さんのスーパー戦隊モノ(○○レンジャー系)や仮面ライダーシリーズ等の知名度が、圧倒的に高いと思うのですが、個人的には、前作の「トミカヒーロー レスキューフォース」を含めたトミカヒーローシリーズを高く評価したいと思います。その理由を端的に述べると、制作に携わっている方々の熱意や工夫を感じるからといったことになるかもしれません。

もちろん、他の番組制作に携わっている方々も、それなりの熱意や工夫をこらしているのでしょうから、それを否定するつもりはありません。私なりに、こうした番組については、商業偏向主義に対する危機感があり、それに対する警鐘を鳴らしているつもりではあります(「仮面ライダーと商業主義」、「ヒーローたちに魂を」等参照)が、それが直ちに事の善悪を決定するものではないと考えます。それに、トミカヒーローシリーズに関して言えば、そもそものタイトルから「トミカ」という玩具のブランドを冠しているわけで、トミカヒーローシリーズこそ商業主義に偏っていないかという指摘もあり得るのではないかと思います。

しかし、私が見るポイントは、そうした商業的な要素と、番組自体のストーリー性やクオリティをどのようにバランスさせるかという点です。トミカヒーローシリーズは、その点、非常に頑張っているように思うのです。

例えば、まさにその「トミカヒーロー」というタイトルに関して言えば、「トミカ」というブランドを前面に出すことで、既にある程度の広告効果(商業効果)を生み出すことに成功し、逆に番組の中身については、それにあまり左右されない展開を用意できているのではないかと考えられます。実際、トミカヒーローシリーズのストーリーは、他の同種番組に比べて、玩具の販売戦略に左右されるような展開が、極めて少ないように感じます。

制作者の方々からすると、そうした自由があるからこそ、熱意を持って創作活動にあたることができ、そこにいろいろな工夫を盛り込むことで、結果として、ストーリーの中に繰り広げられるユーモアやメリハリが実現するのだろうと思うのです。この間、名古屋シティーが舞台になったときに、河村たかし名古屋市長がセリフ付きで出演していたのを見たときには、「そこまでやるんだ」とビックリさせられました。テレビ愛知の遊び心、恐るべしです。

そしてもちろん、トミカヒーローシリーズのストーリーが商業主義と無縁なわけではありません。先日は、レスキューファイアーのメンバーが、同番組のスポンサーである「Round1」に遊びに行くという設定がありました。ただ、その商業主義的要素の持ち込み方が、なかなかユニークではないかと思うのです。今日の特撮ヒーロー番組では、スポンサーの製品である玩具と番組の中身(ヒーローが使う武器やロボット等)を結びつけるというのが、主流なのではないかと考えます。しかし、「Round1」のケースでは、そうした玩具の類ではなく、単純にレスキューファイアーのメンバーが、ある日、その遊戯施設で遊びに行って、そこにどんなものがあるのかを知らしめているわけです。当然のことながら、レスキューファイアーのメンバーが、一回、そこに遊びに行ったからといって、ストーリー全体が大きく歪むような不自然さは生じません。私としては、「こんな広告もあるんだ」と感心させられました。そして、こうした工夫をすること自体が、なかなかユニークで面白いのではないかと思うのです(個人的には、昔の仮面ライダーやウルトラマンで伊豆シャボテン公園が出てきたときに、同園がスポンサーであったかどうかは別にして、もしかしたらそういう宣伝効果があったかもしれない等と思ったりします)。

そんな頑張っているレスキューファイアー、最近の数話では、前作のレスキューフォースの主人公であるR1が出演してくれたりもしています。こうした同じシリーズの兄貴分キャラクターを、きっちり使ってくれるあたりにも、昔の古きよき特撮ヒーローを想起させてくれます。最近のキャラクターは、どうも使い捨ての傾向が強く、しかもそのライフサイクルが短すぎるような気がしてなりません。

今日放送分のレスキューファイアーでは、現シリーズの主人公であるファイアー1と旧シリーズ主人公のR1が力を合わせて戦ってくれていました。これには、昔で言うところの仮面ライダー1号・2号の共闘、あるいはウルトラマン兄弟のタッグ戦のような有り難味を感じるわけです。

私個人としては、平成仮面ライダーが、「仮面ライダーディケイド」によって、大崩壊を起こしてしまったと感じているおり(「さらばディケイド!」参照)、また今後も、仮面ライダーカブトと仮面ライダー電王のオリジナルキャストでの共闘等、期待できるはずもないことを考えると、トミカヒーローの制作に携わっている方々のこうした「オリジナルキャラクターを大切にする精神」は、とても嬉しく思いますし、また今後も是非大切にしていただきたいと思うのです。

そんなこんなで、私としては引き続き、トミカヒーローたちの大いなる活躍を切に願うのでした。

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おもちゃを大切にしよう

2009年11月16日 | ヒーロー&アニメ

プリキュアの映画、「フレッシュプリキュア! おもちゃの国は秘密がいっぱい!?」を見てきました。意外と良かったです。プリキュアシリーズは、個人的に「ふたりはプリキュアSplashStar」がピークではなかったかという思いもあり、最近のプリキュアには、少々、不信感があったりもするのですが、おもちゃをテーマとしていた今回の映画のメッセージは、なかなか良かったのではないかと思います。

以下、ネタバレ注意です。

テーマは、子供たちに捨てられた「おもちゃの復讐」です。子供たちの都合で、一方的に捨てられてしまったおもちゃたちの怨念を集めた、おもちゃの国の魔神・トイマジンが世界征服を企むというストーリーで、過去におもちゃを捨ててしまったことのある主人公・桃園ラブ(キュアピーチ)が、その過去と葛藤しながら戦うという展開です。

ポイントは、トイマジンが子供たちを単純に憎んでいるわけではないというところでしょう。トイマジンは、子供たちのことを大好きだったが故に、自分たちを捨てた子供たちに仕返しをしようとしているのであり、戦いの末、プリキュアに敗れたトイマジンは、本来のテディベアの姿に戻り、新たにテディベア好きな子供に引き取られていくというエンディングは、実に微笑ましいものだったと思います。

ところで、今回の映画からは、「おもちゃを大切にしよう」という子供たちに対するメッセージのみならず、別の視点から、おもちゃ会社に対するメッセージも読み取る必要があるのではないかと思いました。つまり、おもちゃが子供たちに捨てられてしまうのは、単純に「子供たちが飽きやすいから」、「子供たちが捨ててしまうから」では済まされない、別の原因があると思うのです。それは「子供たちに飽きさせてしまう」、「子供たちに捨てさせてしまう」おもちゃを作っている大人側の問題もあるのではないかということです。

おもちゃ会社が、商品を売り上げていく上で、子供たちの心を掴んでくれるテレビ番組のキャラクターたちは非常に重要です。そして、これはテレビの番組制作にも密接に関わってくる事項であるため、現在では、おもちゃ会社がテレビ番組のスポンサーとなって、それをテコにして、自社のキャラクター商品として売り上げていくというのが、ひとつの大きなビジネスモデルとして成立しています。そのモデルの中で、たくさんのおもちゃを売り上げていくためには、多くの新しいキャラクターやアイテムを登場させて、その回転率を上げていくことになります。今日のテレビ番組の制作というのは、多かれ少なかれ、そうしたスポンサーの影響を受けざるを得ないと言えるでしょう。そうした商業主義的色合いが強まっていくと、既に生み出された商品(キャラクターやアイテム)は、次々と捨てられていくことになり、このサイクルがますます加速されていくことで、捨てられていくおもちゃが増えていくわけです(「仮面ライダーと商業主義」参照)。

プリキュアシリーズで言えば、元祖の「ふたりはプリキュア」から始まって、現在、放送中のタイトルは6つ目になりますが、この間、キャラクターやアイテムは、毎年、変わってしまっています。当然のことながら、キャラクターやアイテムが変わってしまえば、それ以前のタイトル放送時に生み出されたおもちゃたちは、子供たちの遊びの中で、大きく出番を失うわけであり、捨てられる危険に晒されることになるのです。

当然、今回の映画にも、何らかのかたちで、おもちゃに関係するいくつかの会社が関わっているでしょう。私としては、「おもちゃを大切にしよう」という、この映画のメッセージは、何も映画を見に来た子供たちだけに伝えられるべきものではなく、今日において、おもちゃの開発、生産、流通、販売等に関わっている多くの大人(関係者)たちにも通ずるものではないかと思うのです。

けっして、今回の映画制作に関わったおもちゃ関係者の方々に対して、「あなたたちのおもちゃは間違っている」等と自己否定を強要するものではありません。ただ、せっかく良い作品を作っていただいたのですから、そこに込められている「おもちゃを大切にしよう」というメッセージを自分たちのものとしても捉えることができたら、おもちゃの世界(あるいは業界?)は、もっと発展的で、楽しめるものになっていくのではないかと思うのです。

《おまけ》
来春、またまた歴代プリキュアが大集合する映画があるそうです。はっきり言って、去年のプリキュアオールスターズは、非常に良かった(「オールスターズですっ!」参照)ので、次回の映画もかなり期待してしまいます。個人的には、キュアイーグレット・舞の活躍やキュアホワイト・ほのか役のゆかなさんの演技に注目です。あるいは、キュアドリーム・のぞみのボケっぷりも見られたら、もう最高でしょう。いずれにせよ、こうした過去のプリキュアを出してくれるというのは、子供たちの「過去のおもちゃ」の出番を増やしてくれる可能性もあるわけですし、こうした動きをもっとテレビ等でもやってくれたら、また違った効果も出てくるのではないかと思います。

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さらばディケイド!

2009年08月30日 | ヒーロー&アニメ

「仮面ライダーディケイド」が終わりました。私としては、少々ほっとした感があります。

ディケイドは、もともと10人目の平成仮面ライダーで、それまでの9つの平成仮面ライダーの世界を渡り歩く設定になっていました。ところが、夏休み映画「仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」を前に、途中から昭和の仮面ライダーブラックやRXが出てきたり、最後に時間調整かのように仮面ライダーアマゾンが出てきたり、当初の設定が崩れました。オープニングのナレーションも、「9つの世界」から、「いくつもの世界」という変更がなされるという始末です。

コンテンツの商業主義偏重の問題は、重ねて述べているところです(「仮面ライダーと商業主義」等参照)。テレビという媒体が、基本的に広告モデルで成り立っている以上は、その限界を見定めた上で、その中で必要な収益を確保するための工夫は必要です。しかし、そちらに傾注してしまい、コンテンツそのものが捻じ曲げられたりするようなことがあってはならないことも確かです。今回のディケイドは、もともと考えられていたストーリーがあったにもかかわらず、映画からの収益確保のために、放送途中からそれを無理やりに改変したと解されても仕方がないでしょう。この作品の制作関係者の方々に反論があるのなら、是非ともお伺いしたいところです。あの中途半端なブラックやアマゾンの登場が、映画に結びつけるための時間稼ぎではないというのであれば、本当の理由というものを聞かずにはいられません。いよいよ商業主義のネガティブな要素が、コンテンツの核の部分まで侵食してきたように思います。

映画からの収益確保や連携という意味では、過去、「仮面ライダー電王」においても、同じようなことがありました(「「映画連携」の効果と限界」参照)。それは、テレビ放送分のストーリーが、いまいち不自然な展開となるのですが、それは映画を観れば分かるというものでした。テレビの広告モデルという限界を認識した上で、きっちりいいお値段を払ってもらえる映画事業と連携することで、十分な収益を回収しようということなのでしょう。あまり、賛同したくはありませんが、そういうかたちもあるのだと思います。

ただし、ディケイドの場合は、それを究極的にやりきった感があります。本日、最終回だった「仮面ライダーディケイド」では、きっちりとストーリーが完結せず、その結末は12月の映画を観るようにという締めくくりがなされました。幸い、私の子供たちは、ディケイドに対する関心を完全に失っているので、映画に行くようなことはないですし、私がそれに付き合わされることもないでしょう。ただ私としては、最終回という作品で最も重要な部分を、映画で展開しようというディケイドの試みが、どのようなかたちに落ち着くのかに関心を引かれるところです。お金が大切であることは分かりますし、そのために商業主義的な思考が必要であることも理解できます。しかし、そればかりに走ってしまう制作になってしまったとき、そのコンテンツを心から愛してくれるファンが、果たしてどれだけいてくれるものなのかという点が、私にとっての重大な関心事なのです。

さらにディケイドの思想について述べると、彼は自らを「世界の破壊者」と称しています。新しい世界を創造するためには、破壊が必要であることは理解できます。しかし、それは新しい世界のビジョンがあって、初めて許されることであるとも思います。彼の場合、その新しい世界のビジョンを持ち合わせているようには思いません。この辺りに、彼の決定的な限界があると思えてならないのです。

そして何よりも、自ら「世界の破壊者」と称することの「甘え」を感じざるを得ません。周囲からの批判に対して、「どうせ自分は破壊者だから」と開き直れるように、自ら予防線を張るような行為は、ある意味で卑怯であり、自分にも周囲にも甘え過ぎているとも言えます(逆に、きちんとビジョンがある人は、こういう言い方をしないと思います)。そうした生き方をする人には、それ相応の代償が支払われて然るべきでしょう。それが他人の生死に関わるのであれば、当然、本人の命が奪われることも含みます(「自称悪魔さんたちの償い」参照)。

ディケイドの最終回には興味がありませんし、当然、劇場に足を運ぶようなこともないと思います。そういう意味で、彼が生きようが死のうがどうでもいいところです。ただ、ひとつ願うとするならば、「世界の破壊者」はカッコ悪すぎるから止めたらどうでしょうというくらいです。

そんなことを思いつつ、さらばディケイド!なのでした。

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芸術品としてのフィギュア

2009年08月14日 | ヒーロー&アニメ

ある方とフィギュアショップに行った際、フィギュアを見て「芸術品」という言葉を使ったら、それは違うと言われました。理由を聞いてみると、「芸術品」というのは、仏像のようなものを指して使う言葉だというのです。

-うん?違いがよく分かりません。何が違うんです?-

歴史的な深浅の違いはありますが、それらが共通して持つ意味合いは、本質的にそれほど変わらないはずです(「偶像崇拝とフィギュア」参照)。少々、話をしていくと、仏像は一体ずつ手彫りであるのに対して、フィギュアは機械で作るのだから、「芸術品」ではないという論点が出てきました。

-なるほど。ところで、果たしてそうなのか・・・?-

当然のことながら、フィギュアといえども素から機械で作られているわけではありません。機械での大量生産に入る前に、その原型となるものを、きちんと原型師と呼ばれる方々が手作りをされているのです。そこには間違いなく、手彫りという意味での芸術性は存在すると思います。ただ、たしかに市場に出回っているようなフィギュアは、それを機械的な技術によって、大量生産したものです。ここでのポイントは、そうした機械的な技術によって生み出されたものを、本当に「芸術品でない」と言い切れるかどうかです。

ここには、文学作品と印刷技術との関係に似たものを感じます。かつて、技術レベルが低かった時代においては、文学作品は手書きの原稿によってのみ存在しており、特別な理由がない限り、その原稿は非常に限られた数しか存在しませんでした。しかし、それでは多くの人々が、その「芸術品」を楽しめなくなってしまいます。そこで、活躍したのが印刷技術でした。印刷技術によって、それまで限られて人々にしか出回らなかった文学作品が、非常に多くの人々にも楽しめるようになったのです。このとき、市場に多く出回るようになった印刷物の文学作品について、「芸術品でない」と言い切ることはできないと思います。

つまり、印刷技術というのは、文学作品という「芸術品」を多くの人に楽しんでもらうためのツールとして活用されたわけです。私は単純に、その技術があることによって、多くの人々が「芸術品」に接することができるようになったことを喜べれば、それで良いのではないかと思います。技術の介在を理由に挙げて、いちいち「だから芸術品ではない」というような言い方をする必要はないのではないかと思うのです。それは即ち、フィギュアと製作技術についても、そのようにポジティブに捉えてみてはどうかということでもあります。

もちろん、文学と彫刻では、そもそも技術が果たす役割が異なるというご意見があるでしょう。文学が無形芸術であるのに対して、彫刻は有形芸術です。文学では、文字のキレイさは関係なくても、フィギュアのような彫刻においては、「どういう曲線か」ということ自体が極めて重要なのだから、その重要な部分自体を機械に預けるというのは問題であるという指摘はあると思います。

しかし、現代の製作技術からすれば、その点は、ほとんど問題にならないと考えます。技術は、大いに進展してくれました。むしろ、そうした技術の良さから目を背け、市場に出回っているフィギュアの良さを読み取らないというのは、少々、もったいないような気がするのです。

さらに、もう少し別の視点からいえば、「芸術品」の是非については、その技法や表出したかたちもさることながら、そこに作り手の魂が込められているかといった点が、非常に重要なポイントではないかと思います。もちろん、ある作品を見て、そこに魂が込められているか、そうでないかは見る人の主観に依存するものなので、何を持って正しいとするかという議論は成り立ちません。しかし、魂が込められているかという目で見ること自体は、その作品の芸術性を測る上で、見逃すことのできない大切なことだと考えます。

目の前にある作品が製作されるまでの過程において、機械が介在したか、テクノロジーが活かされたかという点を無視するわけではありません。しかし、さらにその先には、作り手の方が魂を吹き込む作業を行っていたと思うことは、その作品を「芸術品」として見なし得るかどうかを決するとも言えるでしょう。そうした意味で、少なくとも私は、素晴らしい出来栄えのフィギュアに出会ったときには、それを作られた方の魂を感じますし、それを立派な「芸術品」であると思うのです。

《おまけ》
以前、「崖の上のポニョ」という作品が、全編手書きにしたということで話題になっていました。たしかに、手書きで一所懸命描きこむという行為自体は、魂を込める作業として理解されやすいのかもしれません。しかし一方で、そんな手間をかけたくてもかけられないクリエイターの方々が、とても大勢いらっしゃることを忘れてはならないと思います。そういう方々は、活用できる機械や技術を最大限駆使しながら、創作活動を行っており、それは、そうでないと表現するという行為すら許されないことを意味しているのです。そういう意味で、私としては資金的、時間的に余裕がある方々の手書きの作品よりも、むしろギリギリの環境の中で、いろいろと工夫をされながら創作活動をされる方々の方が魂を込めた作業をされており、むしろ芸術性も高いのではないかと思えてしまいます。

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前期からのアニメ等

2009年07月09日 | ヒーロー&アニメ

Twitterで緩いことばかり書いていたら、そうした類が全てTwitterに収まってしまい、逆にブログは、それと正反対の方向に偏ってきてしまいました。人生には遊びが大切なのに、その匂いが全くしないというのは、やはりそれはそれで困ったものです。

そういうことで、ちょっとここでは、最近の私の緩系として、適当に書いてみます。

アニメの番組入替え時期です。いくつかのアニメについては、既に書きましたが、惜しまれて終わっていくようなものもあるし、願い叶って続いてくれているものもあります。以下、そのうちの一部について書いてみます。

■終わってしまったもの
けいおん!
惜しまれて終わってしまったのは、まずなんと言っても「けいおん!」です。これについては、もう何度も書いたので、特段、今になって言うことはありません。強いて言うなら、この作品で豊崎愛生さんファンになりかけています。どうも澪の人気が高いようにも見受けますが、私的には、唯がサイコーでしたっ!

夏のあらし!
これから盛り上がってもよいのでは?と思ってしまうほど、もったいなかったのが「夏のあらし!」。でも、二期目制作決定らしいので、これはこれで朗報ですね。同作品、ギャグも笑えますが、そうかと言って単なるギャグアニメでもなく、ちょっとシリアスな展開があったり、戦時中の時代設定等、ちょっと変わった感性の作者の方だなと思っていました。調べてみたら、あの「スクールランブル」の原作者だったのですね。小林尽さん、これから注目していきたいです。

タユタマ -Kiss on my Deity-
猫耳・萌えキャラが出てくる作品として、「タユタマ -Kiss on my Deity-」がありましたが、これはこれで最終回に向かって、結構盛り上がっていたように思います。裕理を巡って繰り広げられる、二人の女性、ましろとアメリのやり取りは、意外と深い会話でした。幼馴染の「弱いようで強く、強いようで弱い」というアメリの立場もさることながら、それと真正面から向き合って、正論を吐くましろの迫力は、結構見ごたえがあったと思います。

リストランテ・パラディーゾ
「リストランテ・パラディーゾ」は、まったく「オヤジ萌え」しない自分としては、途中、少々微妙なところもありましたが、オルガとニコレッタの母娘関係が、暖かい人間ドラマになっていて、ほのぼのしていて良かったです。

■続いてくれているもの
咲 – Saki
一方、終わらずに続いてくれているアニメで、面白いのは「咲 - Saki」。全国大会出場を目指して、4つの高校が麻雀勝負をしている真っ最中ですが、もう、どこを応援してよいのか分かりません。先鋒、次峰に始まった戦いは、現在、副将戦の大詰めですが、各学校にそれぞれのドラマがあって、とても主人公の学校だけを応援しているわけにはいかないのです。いっそ熱闘甲子園的に、「どっかの高校の誰か」に焦点を当ててくれていれば、そこだけ応援するようになるのに、どこも負けて欲しくないと願ってしまいます。それにしても、透華役の茅原実里さんのテンションが高くて楽しいです。

ファントム
それと、続いてくれているアニメのなかで楽しみなのは、「ファントム」。これまでは、主人公・レイジが殺人業から足を洗おうとしながらも、ズルズルとはまっていくような展開が主でした。最近では、だいぶ自分の運命を受け入れているように見えます。ただ、それが今後、大きなしっぺ返しとなって、辛い思いをするような気がしてなりません。レイジ、無垢な子供を巻き込んじゃだめだぞぉっ!アイン復活らしき展開も、今後のストーリーに大きく影響しそうで目が離せません。それとちょっと別の話ですが、久川綾さんの「お色気声優」ぶりには、つくづく脱帽です。ウルドじゃなくて、スクルドなのに・・・。

戦場のヴァルキュリア
原作ゲームは知らないし、細かい世界設定は分かりませんが、それでもいつも楽しみにして見ています。特に、ウェルキンのマイペースぶりには、何となく自分と重なるものを感じます。先日、ある方とお話をしていたら、福山潤さんの演技が、どう見ても「ルルーシュ」という指摘もありましたが、分からないでもありません。でも、それでも楽しいんだから、いいんじゃないでしょうか。私としては、大原さやかさんが出演されているので、それがひとつの楽しみでもあります。

あと、ちょっと別ですが、最近面白いと思って見ているのが、「おはコロシアム」の「ペンギンの問題」。本当にバカバカしいと言ってしまえば、それまでなのですが、単純に笑えるのですから、それはそれで良いのでしょう。ホームページ見たら、映画化決定ってなっているけど、どうなっちゃうんだろう??

それと、アニメではありませんが、教育テレビで放送している「シャキーン!ザ・ナイト」も、意外と楽しめます(朝の「シャキーン!」は、残念ながら見ていないです)。「子供番組だと思ってなめてたら、ヤケドするぜ」という台詞がありますが、本当にその通り。制作されている方々の「子供番組だからといって手抜きしない」姿勢が、きちんと表れている結果なのでしょう。

以上、分からなかった人、ゴペンナサイ(ベッカム風)。

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ノブレスオブリージュ

2009年06月19日 | ヒーロー&アニメ

「東のエデン」の最終回、面白かったです。同作品の説明は、適当に他のインターネットサイト等に譲りたいと思いますが、ポイントとなるキーワードは「ニート」と「救世主」でしょう。

■「ニート」の力
一般的に、「ニート」は仕事をしない「社会のムダ」というような捉われ方をしていますが、こうした人々の力を軽視するのは、大変危険であると思います。むしろ、彼らを「ニート」たらしめているのは、彼らを無力化してしまっている「社会の側」の問題でもあり、社会で大きな責任や権限を有している人々(「ニート」の反対側の人々)に反省すべき重大な問題があると考えることもできます(「ニートたちの言い分」参照)。

「東のエデン」の主人公・滝沢は、ニートの力を活かしながら、日本を救っていきます。その具体的な手法や行動はさておき、ニートの力を結集して、社会を守るという考え方、それ自体は現代の日本において、社会的地位を有する方々に是非とも見習っていただきたいと思います。

■余計なお節介をしない「救世主」
滝沢は、都市へのミサイル攻撃から、多くの人々を守りました。「救世主」と呼べるレベルかどうかは分かりませんが、少なくとも、彼は「英雄」だろうと思います。そして、重要なポイントは、彼が多くの人々を助けるために、自ら悪名を被ったということです。結果として、彼は、助けた人々から裏切られ、自らの記憶を消すという行動を取ることになりました。

「救世主」には、このように全体を救うための自己犠牲の精神が付きまとうものであり、また実際に、そうした精神があってこそ、救えるものがあるのも事実だと思います。多くの人々(全体)を救うためには、自らの命と引き換えにするだけの「自己犠牲の覚悟」は大変重要です。これを全く否定するつもりはありません(「夢を持てる社会」等参照)。

しかし、だからと言って、度が過ぎるのも問題でしょう。自らの命すらも顧みない「自己犠牲の覚悟」は、極めて重要ながらも、本当に自らの命を捨ててしまってはならない(あるいは、捨てさせてはならない)ということについて、既に、私たちは学べているはずだと思うのです(「イエスから学ぶこと」、「クリスマスシーズンを迎えて」参照)。

そういう意味で、滝沢は生き残ったわけですし、よく頑張ったと思います。

私も「自己犠牲の覚悟」については、一通り考え抜いてきました。そして今は、その上で自分自身を大切にし、滝沢のように恨まれたりするような状況下では、わざわざそんな人々までをも助けようなどとは思わないだろうと思います(「自分を大切にしていい理由」参照)。真に私という人間を信じるとか、あるいは頼らざるを得ないような人々ならともかく、そうでない人々を助けられる自信もありません(「信頼されるための心構え」参照)。

そうした観点から、私が目指すのは、「余計なお節介をしない救世主」といったところです。そして実際に、それくらいの方が、ひとりひとりの自我や責任感がきちんと芽生え、結果として、人類は真の意味で救われていくのではないかと思うのです。お節介をやいて、人類を救う「救世主」になったところで、そんなかたちで救われてしまった人類には、下手な甘えが残ってしまうだけでしょう。

-ノブレスオブリージュ。貴方も「余計なお節介をしない救世主」たらんことを。-

《おまけ》
「けいおん!」、一応来週もあるようですが、今週がひとまずの最終回でした。いやぁ、それにしてももったいない(泣)。これは1年間(50回くらい)やってくれても、絶対にいけると思うのですが・・・。「かんなぎ」、「バンブーブレード」あたりも、2期目やってほしいですねぇ。

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俳優が活躍するアニメ

2009年05月15日 | ヒーロー&アニメ

「舞-HiME」、「舞-乙HiME」を見ました。熱かったです。それとキャラクターの俳優化が、とても面白いと思いました。

キャラクターの俳優化とは、つまり「舞-HiME」(一作目)で登場したキャラクターたちが、「舞-乙HiME」(二作目)という別の作品で、まったく違う世界設定が与えられつつ、ある意味「俳優」として活躍するわけです。こうした「俳優の活躍」は、アニメではなかなかありませんし、非常に面白いと思います。同じ顔・同じ声のキャラクターが、異なる作品の中で、まったくの別人として振舞っているのです。

ところで、当たり前のことながら、実写版のドラマや映画では、これは普通にあることです。有名な俳優や女優は、実にいろいろなドラマや映画に出演します。基本的に視聴者は、そうした有名な俳優や女優について、よく知っており、その作品の世界にドップリと浸かりつつも、彼らをその世界の登場人物とは別に、演技者としてもきちんと認識できているわけです。

私としては、アニメにおけるこうした手法が、もっと一般化されても良いのではないかと思います。アニメコンテンツの価値をどのように捉えるかということについては、さまざまな意見があるでしょうし、そのなかでアニメがひとつの完結したコンテンツとして、作品化されていることに、大きな意味があるということは言うまでもありません。しかし、アニメのコンテンツとしての価値は、それだけでなく、例えば数多くの「愛すべきキャラクター」が生まれていることも、計り知れない大きな価値だと思うのです。そうした意味で、「舞-HiME」プロジェクトは、「キャラクター」の価値を実にうまく活用しているのではないかと考えます。

一連のシリーズの中で、私個人としては、ゆかなさん演じる超真面目な「真白理事長」が、「舞-乙HiME」(二作目)でダメダメな「マシロ女王」になっているギャップが、最高に楽しめました(実際、ゆかなさんの演技を楽しむという意味では、断然「マシロ女王」でしょう!)。その他、「舞-乙HiME」(二作目)で、他の「舞-HiME」(一作目)メンバーが大活躍しているのに、それまでなかなか登場してこなかった「舞-HiME」(一作目)の主人公・舞衣や命が、クライマックスに向かって出てくるあたりは、なかなか燃えるものがありました。敢えて喩えるならば、苦戦しているウルトラマンタロウに、兄のウルトラマンやウルトラセブンたちが加勢してくれるときのような高揚感とでもいった感じです。

いずれにせよ、こうした試みは、今後のアニメ業界を活性化させるひとつの手がかりになるかもしれません。現在放送中の「宇宙をかける少女」は、「舞-HiME」と同じ監督さんが手掛けられており、その第9話では、キャラクターたちを本編とはまったく関係ない世界設定(野球のストーリー)の中で演じさせています。こういうのは、単純に楽しいと思うのです(「絶対可憐チルドレン」で、時折「ハヤテのごとく!」のナギお嬢様たちが出てくるときも、結構笑えてました)。

アニメ業界では、権利関係を含む様々な問題があるのでしょうから、あまり無理を言うつもりはありません。「マリア様がみてる」のメンバーで、「プリキュア5」を実現することが難しいであろうことも分かっています(「番組融合で広がる可能性」参照)。

ただそれでも、時代の流れに合わせて、「初音ミク」あたりでジャンジャンオリジナルアニメが作られて、そこから派生した新しい別のキャラクターたちが、さらに次々と新しい作品を編み出していくといった波及現象があってもいいのではないかと思うのです。それを実現するには、たしかにいくつかの仕組みが必要なので、それについては、自らが果たすべき役割を意識しながら、じっくりと進めていきたいと思います。

《おまけ》
非常に個人的なことなのですが、アニメで「金髪でツインテールの女の子」を見ると、反射的に「水樹奈々さん?」と思ってしまいます。これは「魔法少女リリカルなのは」のフェイト、「しゅごキャラ!」のほしな歌唄、「White Album」の緒方理奈、「神曲奏界ポリフォニカ クリムゾンS」のユギリ・ペルセルテ等のイメージなのですが、私としては、いっそのこと「金髪・ツインテールのキャラクター」と水樹奈々さんを結びつけて、一人のアニメ女優を作ってみたらどうかと思ってみたりもします。そのアニメ女優が出演した場合には、「キャスト・水樹奈々」というかたちで出すのもいいですが、そのアニメ女優をキャストとして扱うという考え方もありなのではと思うのですが・・・ダメかな??

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