常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

困難から逃げないこと

2006年10月30日 | 人生

「若いときの苦労は買ってでもしろ」

若いうちはやり直しがきく。たくさんの苦労をすることは、その人の肥やしとなり、将来必ずいいことがあるものです。まさに、そのとおりだと思います。人間の成長は、いかに苦労するかにかかっていると思います。人間は困難に直面したときに、それから逃げずに真正面からそれを克服することで強くなり、成長します。苦労するということは、困難を避けずに向かっていき、克服するという意味です。

しかし、このことは若い人に限ったことではありません。人生には常に困難があります。若いときに限らず、年をとってもまったく同じでしょう。人生とは、絶えず直面する困難から逃避せず、それを乗り越えていかなければならないという試練の連続なのです。

徳川家康は、「人生とは重き荷を背負いて、遠き道を行くがごとし」という名言を残しています。人生を生きている間は、常に苦労を背負う。これには、老いも若きも関係ないのです。生きている間は、絶え間なく苦労をしていく。苦労から解放されるときは、人生を全うして死ぬときだけであるということでしょう。

しかしそれにもかかわらず、「若いときの苦労は・・・」と、安易に大人が言ってしまうのはどうでしょうか。この言葉の裏返しとして、年をとったら苦労はそこそこ、あるいはしなくてもよい、といった意味にもとれてしまいます。こうしたニュアンスが含まれているとしたら、これは大人の傲慢だと思うのです。人間は、一生をかけて、困難から逃げない姿勢をとり、成長を続けなければなりません。

人間はある程度、社会的な地位を獲得すると、それなりの生活ができるようになってしまいます。そうすると、そこに安住しがちになり、敢えて苦労をしようとはしなくなります。「若いときには苦労をしてきたけれども、きちんとそれなりの生活ができるようになったし、もうそろそろ苦労はしなくてもいいかな」と安心をし、妥協をしてしまうことで、目前に困難があっても、敢えてそれに取り組もうとはしなくなってしまうのです。このように自分の今の生活を守ろうとすることで、困難から逃げてしまい、結果として苦労をしなくなるわけです。そこで、人間の成長は止まってしまいます。

人間の成長過程のなかで、「己の限界を知る」ということは、非常に重要です。苦労をすると、己の限界を知ります。そのとき人は、二つの選択肢を迫られます。

ひとつめは、限界のある己の無力さを知り、自らの存在意義を否定するという選択肢です。このことは、自分を卑屈な人間であると決め付け、人生を粗末に生きるという結果を生みます。そのことで、自らが不幸となり、その人と関わる周囲の人たちにまで不快感を与え、他人まで不幸にしてしまいます。そして、自らが存在意義を失っているわけですから、もったいないところに命を使い、自滅していく道を進んでいってしまいます。

ふたつめは、ひとつめと同じように限界のある己の無力さを受け入れつつ、その自分を救ってくれる他人に感謝し、その存在を敬い、周囲の人々に助けてもらうという選択肢です。苦労は、単に苦しいだけでなく、他人に対する「ありがたい」という言葉の意味を体験することができ、それを通じて他者とつながる喜びを感じることができます。さらにこうした困難を乗り越えることが、生きがいとなり、喜びとなり、幸せとなります。このような生き方は、人間としての幸せな人生を築いていくために、必要なことであると思います。(「生きがいと幸せ」参照)

人間として生きている私たちは、不完全な存在であり、前者の選択肢をとることもあります。しかし、人間として、きれいに生きていたいと思う私たちは、後者の選択肢をとりたがっているはずです。

そして、後者の選択肢をとれたとき、人は素直に他人の言葉に耳を貸すようになり、それを真摯に受け止めるようになることができると思うのです。これがまさに、人間の成長です。

たとえば、普段何気なく聞いていた曲だったのに、苦労をして、思い悩んでいるときに、ふとその曲を聴くと、その歌詞が心に触れ、大きな感動を覚えるといったことがあります。これこそがまさに、素直に心を開いた瞬間であり、苦労をしているからこそ、心から感じることができる「気付き」であり、成長なのです。自分の存在を否定し、卑屈になってしまっていては、この「気付き」はありません。困難に立ち向かおうと、頑張るからこそ、自ずと周囲に対して目が開き、耳が澄み渡り、それまでの自分が持っていた固定観念を打ち破り、成長することができるのです。

先日、ある方とお話をしました。彼は、非常に大きな成功を収めているビジネスマンであり、今もさらに大きな成長を続けています。その彼曰く、とにかく苦労をしたそうです。これまで、本当に言い知れぬ不安や寂しさで、泣き叫んだことも何度もあったけれども、それらにすべて打ち勝って、今の自分があるということでした。自分の強さを磨き続け、今でも困難や苦労があるごとに、そのような試練を与えてくれた神様に感謝をすると言っていました。

いくつかの宗教で苦行を強いるのは、己の限界を知り、周囲への感謝の念を抱くことの大事さを気付かせると共に、そうした人間としての成長を通じて、その人が救われていくことが真理だからです。このことは、宗教に入らなければ救われないのではなく、自分がきちんと困難に立ち向かい、現実から逃げなければ、自ずと救われていくことを意味しています。大事なことは、自分自身の心の持ち方です。(「頼るべきは「自分」」参照)

大人になったからといって、困難に立ち向かうことを諦めてはなりません。社会の構成員である一人一人が、困難から逃げない姿勢を持ち続けられれば、世の中はもっともっとよくなっていくはずです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代文明の不思議

2006年10月25日 | 科学

古代の遺跡には、多くの謎が秘められています。考古学の世界で、そうした謎を解明すべく、さまざまな発掘や分析が行われているにも関わらず、未だに多くの謎が分からないままになっています。「古代遺跡」、「謎」といった単語で、インターネットで検索すると、それこそ山のように検索結果が表示されます。

考古学の権威と呼ばれている先生たちは、科学の最先端に身を置き、こうした謎を解明していく世界において頂点に位置する存在です。しかし、彼らの高い専門性をもってしても、未だに分からないものは分からないというのが、古代遺跡の不思議なのです。

例えば、ギザのピラミッド。世界で最も有名で、エジプトの砂漠の中にそびえ立つ3つのピラミッドと言えば、誰でも知っているでしょう。そのピラミッドの大きさは、尋常ではありません。最も大きなクフ王の墓とされるピラミッドは、平均2.5トンの石灰岩を約230万個積み上げなければならないといいます。ギリシアの歴史家ヘロドトスによると、「10万人が年に3ヶ月働いて完成まで20年かかった」ということらしいです。1978年に大林組が出した見積もりでは、建設に約1250億円かかるといいます。現代工法をもってしても、大変な建設工事だったというのに、それをどのように人力だけで成し得たのでしょうか。

ピラミッドの謎は、その大きさだけではありません。驚くべきは、その精巧さです。例えば、ピラミッドを上から眺めると、正方形になりますが、その一辺は230m。これら四辺の誤差は20cm以下であり、誤差率はなんと0.1%以下。この誤差率は、現代建築でも難しい数字らしいのです。この他、ピラミッドの傾斜角度や内部にある回廊や階段のつくりの精巧さなど、現代の工法でも難しいと思われるものがいくつも指摘されています。 これらのことは、実際にピラミッドという建造物が実在するにもかかわらず、規模や精度の点で、とても説明がつかない、いわゆるミステリーであることを表しているのです。

そもそも、ピラミッドは王の墓というのが一般的ですが、実際のところ墓であったかどうかさえ分かっていないのが実情でなのです。日本にも、ピラミッド研究の権威がいらっしゃいますが、その先生でさえ、「ピラミッドは墓地ではなく、この地上に来世を象徴するために建てたものという考え方が自然で、確認された未知の空洞内に王の遺体が埋葬されているとは考えにくい」と語っていますし、ピラミッドの謎についても「何のために作られたのかとか、どうやって作ったのかとか、何年かかったのかとか、誰が作ったのかとか、もう言い出したらキリがありません」と言っています。つまり、現代の科学では、ピラミッドの本質的な謎について、ほとんど解明できていないのです。

ピラミッドだけではありません。空中都市マチュピチュ、インカ遺跡、モアイ像、ストーンヘンジ、兵馬傭、ナスカの地上絵、与那国島の海底神殿、モヘンジョダロ・・・。古代遺跡には、謎がつきものです。しかし、これだけ多くの遺跡の謎が、科学的に解明されないというのは、むしろ現代の科学の枠組みに限界があるということを意味してはいるのではないかと思うのです。

つまり現代の科学は、体系立った各学問分野に分かれており、古代遺跡の解明は、主として考古学の枠組みのなかで進められています。しかし実際に、古代遺跡の問題の本質は、こうした枠組みを超えたところにあるのではないかと思うのです。

例えば、古代遺跡の大きさや精巧さは、高い技術力を必要とします。したがって、古代の人類は、そうした高い技術力を有していたという仮説を立て、それが証明されれば謎は解明するのかもしれません。それは考古学の範囲を大きく超えていますが、今の枠組みで謎が解明できない以上、真剣にその謎を解明しようとするならば、その範囲を超えた発想で取り組むべきであり、それが真に謎の解明を追及する者の姿であると言えると思うのです。

こうした難問を解決するためのアプローチは、仮説と検証の繰り返しです。ある仮説を立てて、検証を進める。その仮説が違っていれば、また別の仮説を立て、検証をする。この繰り返しを続けることによって、だんだんと物事の本質が見えてくるのです。 古代遺跡の謎を解明するために、「古代の人類が高い技術を有していた」という仮説を立てたとします。まさにオカルトの世界です。しかし、一般的に常識と言われる感覚だけで、オカルトを切り捨ててはなりません(「オカルトを作る仕組み」参照)。先入観や固定観念を捨て、この仮説を真剣に検証していく必要があるのです。そして、その検証の繰り返しのなかで、この仮説を明確に否定できる根拠がない限りにおいては、この仮説は生き続けるのです。

検証を進めていこうとすると、考古学という学術分野を越えて、以下のような難問にぶつかるかもしれません。

<古代人はどうしてそんな高い知能をもったのか。人間はどのように生まれ、進化したのか>
 これは遺伝子学、人類学の分野だから、検証できないと言ってはならない。
 (「「進化論」の不自然」参照)

<人間本来の脳の機能とは何か。古代人は脳の機能を活用しきっていたのか>
 これは医学、生物学の分野だから、検証できないと言ってはならない。
 (「脳力の可能性」参照)

<現代人の脳機能は欠落していないか。人間はきちんと幸せを理解しているのだろうか>
 これは宗教学、哲学の分野だから、検証できないと言ってはならない。
 (「生きがいと幸せ」、「人間の優劣と競争社会」、「宗教が説く真理」参照)

これは仮説の連鎖です。ある仮説を検証するのに、また別の証明されていない仮説を持ち出すという繰り返しを強いられることもあります。しかし、大事なことはその反復と積み重ねです。その繰り返しを続けることで、膨大な否定し得ない大仮説が生まれてくるでしょう。これは科学の常識を覆すような大仮説に発展する可能性があります。現代科学の学問体系を言い訳にして、この作業を避けていては、絶対にたどり着けない領域があります。

<縦割り化された科学の体系で、真理を追究できるのか。何故、ここまで細分化されたのか>
 科学の外側の問題だから、検証できないと言ってはならない。
 (「万能でない科学」参照)

まず現代科学の枠組みから疑う。現代科学の枠組みを超えた、仮説と検証を繰り返すことで、今、世界で起こっていることが見えてくるのです。世界がどこに向かっているのかが見えてきます。そして、自分たちが何を成すべきかが見えてきます。地球環境の破壊も進み、人類ひとりひとりが変わらないといけないこの時代。世界で起こっていることから目を背けず、現実を見つめることが各個人に求められているように思うのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳力の可能性

2006年10月19日 | 科学

頭が良い人、悪い人がいるといいます。いや正確には、ある特定の基準で見た場合に、それに秀でた人とそうでない人がいるということでしょう。例えば、記憶力が良い人と悪い人はいます。音楽の才能がある人とない人がいます。数学が得意な人とそうでない人がいます。こうした予め人間が価値あるものとして定めた分野のなかで、特に優れた才能を持っている人は天才と呼ばれます。その存在は、実に素晴らしいことです。

ただし、これらは人間社会において経済的価値を生み出すかどうかの視点から定められた基準になりがちになります。実際に、社会において価値があるものとして優しさ、素直さ、忍耐強さといった人間性を含んだ尺度も存在します。これらは、現代の経済的価値に重きを置いた競争社会では、なかなか評価されませんが、そうした尺度は設定し得るし、だからこそ個性というものが存在するのでしょう。人間を評価するときの価値基準、尺度は無数です。本来人間が評価されるべき視点は無数にあり、だからこそ個性が存在するのだと思います。個々人をそれ単体としてみると、必ずどこかの分野で優れているといえますが、逆に極めて一部の分野においてでしか優れているといえません(「人間の優劣と競争社会」参照)。重要なことは、それを人類全体として捉えると、それら無数の尺度において、それぞれ天才的な個人が存在し、人類はそれら個人の総和をもって実に多様で優れた才能を持っているということができるという点です。そして、それだけ多様な才能を持っている人間の脳は、生物学的にひとつの種のものであるということも大事です。ある天才をみて、その人がどんなに素晴らしいといったところで、脳そのものの構造が違うわけではありません。所詮、人間の脳です。そのことは、あなたが持っている脳も、そうした能力を持っている可能性を秘めているということです。人類が種として、全体で共有している多様な才能は、あなた個人としても持ちうる可能性があるのです。

実は、人間の脳はほとんど使われていないといいます。30%とか20%しか使われていないというのは良い方で、下手をすると10%とか3%といった説まである有様です。これを俗説だといって、頭ごなしに否定するのは難しいと思います。そもそも現代科学で解明されていることは、ごくわずかでしかありません(「万能でない科学」参照)。脳の機能や能力は解明済みで、そのような俗説はウソであるなどと、何人も言うことができないのです。

実際に、人間の脳は同じ構造にも関わらず、あまりにも多様な個性や才能をもつことができるようになっています。それだけ、脳の使い方や使われている部分は違うとみることができるでしょう。通常の一般的な人間では、ほとんど使われていない部分があるかもしれません。例えば、現代科学では説明しきれない超能力、あるいはもう少し分かりやすく直観力。こうした機能が脳にあることは誰も否定できません(「オカルトを作る仕組み」参照)。否定できないとすれば、脳の機能は使いきれているなどと、間違っても言うべきではないのです。霊感、テレパシー、予知能力、直感・・・超能力にも似たようなこうした力が、人間にあるとするならば、むしろ普段、人間は脳のほとんどを活用していないといったほうが説得力があるのではないでしょうか。

そしてもし、この仮説が本当だとすると不思議なことになります。人間は進化して、今の体を得たはずです。ダーウィンの進化論でいう自然淘汰説に従えば、人間は生存確率を高めるために、今の知能と大きな頭を手にしたことになります。しかし、人間の出産はきわめて危険であり、一番の原因は頭の大きさにあります。大きな頭を持ったことで、非常に危険な出産を強いられ、死亡率を高めているのです。自然淘汰説に従い、生存確率を高めるために、このような大きな頭を獲得したというのは、本当に合理的な説明なのでしょうか(ダーウィンの進化論についての疑念は、「「進化論」の不自然」を参照)。ダーウィンの進化論が間違っていたとしても、いずれにせよ、人間が進化を続けているとするならば、こんなに苦労して獲得した大きな頭と知能であるにもかかわらず、なぜ極めて一部しか使われないのかというのは、まことに不思議な話です。

否。人間はむしろ退化してきたと説明してみてはどうでしょう。

「常識人」の方々からは、即反論があるかもしれません。「人間は常に進化を続けてきた。その証拠に現代科学は進歩を続け、世の中のあらゆる事象を解明し、人間は自然の理をコントロールできる力を手に入れることができた。退化しているなどとんでもない」

しかし、果たしてこのように言い切れるのでしょうか。現代科学は自然の理を解明しきれておらず、むしろ分からないことだらけです。人間は現代科学をもって、自然を分かったつもりになり、これを正しいと信じる一方で、地球を破壊し、自分たちが住めない環境にしてしまっています。正しいと信じてはいるが、実はそれにより、自らの生きる環境を奪うという自殺行為に走っているというのが実態です。これが本当に、人間が進化したかたちなのかと疑わざるを得ません。

超古代の人間にはもっと優れた能力があったと言う人々もいます。そういう人々が言うには、本来人間は、自然と共存するための知恵をもち、人間同士が争わなくても幸せに暮らすことができる理性をもっていたということです。もともと脳にはそうした知恵と理性が備わっていたと考えるのは、自然のことかもしれません。必要以上のものは求めず、けっして煌びやかではないが、質素ながら自然と調和した平和な生活を送ることができていた人間がいた可能性を否定することはできません。現存する古代遺跡などは、そうした大昔に人間が持っていた自然と調和して生きていくための知恵や理性の産物かもしれません。いや超古代には、知恵や理性だけでなく、現代よりも優れた文明や技術を有していたという話すらあるのです。そもそも超古代は未開の原始時代というのが、現代人の根本的な誤認である可能性があるわけです。超古代の方が、現代よりもはるかに優れた人類が存在していたかもしれないのです。

もしそうだとして、人間が退化したとするならば、それを元に戻すべきという議論もあって当然です。別に進化をするわけではありません。現状をもって、脳力の限界であると諦めなくても良いのです。人間にもともと備わっていた脳力を取り戻す。それだけで、人間は自然と共存していくことができ、もっと長く地球に住めるようになるのかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会ルールの欠陥

2006年10月09日 | 社会

社会にはルールが存在します。学校であれば校則があるし、会社であれば各種の規程類が存在します。国家には国家独自の法律があるし、国家間には条約が結ばれています。これらはすべて、社会において人々が生活していくために、必要とされる明文化されたルールです。現代社会は、とにかくルールに基づいて動いているのです。

ところで、今の社会において、最も影響力のあるルールとは何でしょう。言うまでもなくお金に関するルールではないでしょうか。「世の中、金だ」と言って憚らない人たちすらいます。まったくそのとおりだとは思いませんが、正しい側面があるのではないかと思います。それくらい、お金というのは人を動かし、国を動かし、世界を動かす力をもっています。もはや国家は単独では成立しえず、他の国家、世界との関係なしには成り立ち得ない状況にあるなかで、その関係に多大な影響力を及ぼすお金のルールは、国家のルールよりも大きな影響力があると言えるでしょう。そして、そのお金に関するルールをコントロールできるとするならば、それは世界を動かす力を手にすることと、同義であると言えるのではないかと思います。

そして、そのお金のルールとは何について考えてみると、それは資本主義であると言えるのではないかと考えます。共産主義もあるという人もいるかもしれませんが、共産主義で世界は回っていません。欧米を中心とした資本主義が世界を動かしています。その資本主義の根底をなす「市場」の考え方について、アダム・スミスが「国富論」のなかで、「神の見えざる手」という言葉を使い、市場において自由競争を行えば、需要と供給は自ずと均衡し、社会が安定していくことを述べているのは、有名な話です。

ところで「神の見えざる手」などと言われると、いかにも神聖で、厳かな感じがしますが、実際にはそれほど大したものではないとも言うことができるように思えてなりません。むしろ大きな欠陥があるとさえ言えるのではないかと思います。

例えば、インサイダー取引です。一般的には知りえない重要な情報を事前に入手し、これをもとに株価の上下をかなり正確に予測することができるため、それらを知り得ない人々よりも、格段に利益を得ることができる可能性があります。インサイダー取引を認めてしまうと、そうした一部の特定の人々だけが恩恵を受けることになり、株式市場の公正で健全な取引を阻害するため、法律では禁止されているわけです。しかし、インサイダー取引は繰り返されます。株式市場の株価は、日々の企業活動の結果を受けて、上下するわけですが、そのような企業活動に関わり、株価に影響を及ぼすような情報に触れる人々は、世の中に非常にたくさんいるのです。一般的には知られないかもしれませんが、少なくとも企業の数だけ関係者がおり、その人々はそうした情報を作り出しているわけですから、単に情報に触れるという立場の人々は、非常にたくさんいると言えるでしょう。そうしたたくさんの人々が、インサイダー取引をしうる立場にいながら、それをしないと言い切ることができるはずがないのではないでしょうか。少なくとも、今の制度に欠陥があることは認めるべきです。

2006年7月、日経新聞の社員がインサイダー取引の容疑で逮捕されました。逮捕された容疑者は、職務上の立場を利用して、株価の値上がりが確実な株式分割の情報を取得し、公告掲載前の株式を購入、公告掲載後に株価が高騰した後に株を売り抜けることで、不正な利益を得ていたといいます。この事件について、あるテレビ番組のコメンテーターは、「そういう立場にある人は、きちんとわきまえないといけない。自分の立場をちゃんと自覚できない人は、そういう業務をしてはならない」などと発言されていました。

なるほど、今の経済システムは欠陥があることをきちんと認めてしまっていると思いました。「神の見えざる手」は、特別な地位のある利己的な人間の存在によって、あっさりと「人間の汚い手」になってしまうのです。

世界を大きく動かす力のあるお金を、「人間の汚い手」によって動かすことができます。今の社会で、お金がそんな不公正なルールで成り立っているというのは、にわかには信じられないかもしれません。しかし、もしそうだとしたら、世界を牛耳る超ウルトラお金持ちは、究極のインサイダー取引をすることができる超ウルトラ「汚い手」の持ち主であるとも考えられなくもないわけです。

「一人を殺せば殺人者で、百万人を殺せば英雄」と言いますが、まさに小ぢんまりとしたインサイダー取引をしてしまっては犯罪者ですが、経済学者に市場原理を「神の見えざる手」と言わしめるほどの力をもち、その実、ルールを十分に悪用できる立場にいて、超大規模なインサイダー取引をする人々は、誰もが羨む超ウルトラお金持ちだと言えるかもしれません。

現存するヨーロッパのある国際金融財閥は、19世紀イギリス軍がナポレオン軍を破ったワーテルローの会戦で暴利を貪りました。その財閥ファミリーの家訓は「語るなかれ」。情報は命であり、金であるということで、彼らは血族による独自の情報ネットワークを張り巡らしていたといいます。ワーテルローの会戦では、イギリス軍がナポレオン軍を破ったという情報をいち早く入手しました。そして彼らはこの情報を逆手に取り、ロンドンの金融の中心地であるシティ街で、イギリス軍が負けたように演出し、株価が暴落したところで、株を買い漁り巨万の富を得たというのです。もはや、国家規模のインサイダー取引です。こうしたインサイダー取引をできる人々が、超ウルトラ金持ちとなり、世界を動かす力を手に入れることができるとしたら、どうでしょう。

さて、このようなルールで動いている世界。人々には正しいと信じ込ませておきながら、その実、その制度がもつ欠陥を大いに利用して、自己の富と権力を極大化させる人々の存在を許してしまう現代社会において、社会ルールやシステムすら作り出す超巨大権力が存在することを、誰が否定できるでしょうか。そして、そんな超巨大勢力がいる可能性がある以上、今の社会ルールや制度に特殊な意図が働いていないか、そこから生まれる情報や常識に歪みはないか、常に疑うべきではないかと思うのです。そして、あなたがもし、それらの仕組みが間違っていると気付いたならば、それをどのように変えていくべきか、この世界の構成員として、きちんと真面目に考え、行動に移すべきではないかと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オカルトを作る仕組み

2006年10月03日 | 社会

オカルトと聞くと、顔をしかめる人が多いでしょう。オカルトというのは言うまでもなく、既存の科学や伝統的な宗教では認められていない異端的な考え方や知識のことで、例を挙げると超能力、心霊現象、UFO、占い、予言、オーパーツ、怪奇現象、古代文明、神秘主義といった類のものです。おおよそ、これらに関する情報は、非科学的なものが多く、いわゆる常識人からしてみれば、「怪しい話」であり、こういうことを口にする人々は、ちょっとイカレていると思うかもしれません。そういう人が、例えば友人だったら注意するし、単なる知り合いだったら距離を置く。そんなものではないでしょうか。

しかし、オカルトについて、まともな検証をせず単に「怪しい話」としてのみ扱うのは、思考停止を起こしていることと同じです。オカルトと聞いて、顔をしかめる人たちにはそれなりの理由があるでしょう。大体そういうことを言う人たちは、テレビなどにもときどき登場するが、論拠が甘く、なかには稚拙な証拠をもって、それが正しいと言うことがあり、だからこそ信じられないし、幼稚な人たちだ、といったところでしょうか。あるいは、科学を無視し、非科学的で身勝手な論拠を並び立てて、都合のいい空想論を展開する浮ついた人たちといった印象かもしれません。しかし、そのようにオカルトについて批判する人たち、否定する人たち自身、自らオカルトについて深く検証しているわけではないと思います。メディアを中心とした他人の検証結果に頼って、「オカルトは怪しい」と決めつけてしまうのが、いわゆる常識人の陥りやすいミスであり、大部分の人たちが犯してしまう思考停止の原因ではないでしょうか。それでは、世の中の本質を見抜くことはできません。

世の中、本当に分からないものについては、仮説を立てて、それをひとつひとつ検証していくしかないのです。オカルトと言われるものに、一部ウソが含まれているとしても、全てがおかしいという十分な論拠にはなり得ません。たとえば、オカルトは、既に科学が証明していることを否定しており、単なる幻想であるというのは、いわゆる常識人の答えとしては無難なのかもしれませんが、それは本質を突いているとは言えないでしょう。そもそも科学万能主義こそ改められるべきであり、科学が世の中の事象のほとんどを証明していると信じることこそ、科学の本質を間違えて認識しているということに気付かなければならないと思います(「万能でない科学」参照)。世の中、それほど体系立って、きれいに分かっているわけではないということです。

したがって、ここにひとつの仮説を置きます。「もしオカルトに一部の真実が含まれているとしたら・・・」。そしてもうひとつ「そうした真実を隠そうとする強大な権力をもった人々がいるとしたら・・・」。このふたつの仮説については、別途検証するとして、世の中の事象を、一部正しく表現しているオカルトを、そうした強大な権力をもった人々がどのように「怪しい話」に仕立てていくのか、考えてみたいと思います。ちなみに、強大な権力をもっている人々というのは、資本主義の中枢にいる人たちであり、当然マスコミなどから流れる情報を統制することができる人たちであると仮定します。このことは、何故タブーがあるかということとも深く関わりのあるところでもあります(「タブーの検証でみえること」参照)。

人を騙すときに、最初から全てウソを言うというのは得策ではありません。まずは警戒する相手に対して、まず自分が言っていることが正しいことを認識させ、信用させる必要があります。そのために、まずは本当のことを出していきます。相手はそれらを自分なりに考え、検証していきます。必要に応じて、裏取りをしたりすることもあるでしょう、本当のことを言っているのだから問題はありません。そうしていくうちに、相手が自分を信じてくれるようになります。相手が完全に、自分を信じ込んだところで、最後にウソを出して目的を達成します。これが人を騙すときの手法です。

オカルトを「怪しい話」に仕立て上げるにも、似たような手法を使うことができるのです。まず真実を伝えていきます。ウソはありません。だからこそ、人々はそれを信じるのです。次に、人々がなるほどそうなのだと信じきったところで、ウソを混ぜます。このウソは明らかにウソと分かるものにします。99%まで本当のことを伝えておきながら、最後の1%であからさまなウソを入れるのです。そうすると、人々は騙されたと思います。たしかに騙されているのですが、最後の1%だけがウソであることを見抜けない人々は、最初の99%までも否定し、全てがウソであると思い込んでしまうわけです。

自分で検証をせずして、「あの類の話は眉つばで信用できない」というのは、思考停止以外の何ものでもありません。今は、マスコミからの報道以外に、インターネットを通じて、非常に幅広く、多様な情報にアクセスすることができる時代です。調べようと思えば、いくらでも調べられます。それらの情報を総合して、オカルト全体を「あの類の話」、「怪しい話」などと一括りにして、決め付けることなく、具体的にどの部分がウソなのか、あるいはどの部分については真実なのかといったことを自らの頭で考えなければなりません。そのように自分の力で情報を集め、考え、その結果としてオカルトはおかしいと判断した人たちのみが、「オカルトは怪しい話」と言うことができるのだと思います。

いわゆる「常識人」たちは、そのように自ら考え、検証をするという作業をすることなく、ただオカルトが「怪しい話」であると思い込んでいないでしょうか。どこまでが真実で、どこからがウソなのか。真面目に考えていないまま、「怪しい話」として片付けてしまってはいないでしょうか。

世の中には、まだまだ多くの隠された真実が隠されていると考えるべきです。まず常識を疑い、固定観念を捨て、自らの頭で素直に考えて出す結果をもとに、世の中全体をきちんと理解していかなければなりません。そうすることで、現代社会のなかで、何が問題なのかを発見することができるようになり、そのなかで自分が何をすべきかが自ずと見えるようになるのではないかと思うのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする