常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

「自分教」神社の復活

2012年02月16日 | 日常

先日、部屋の掃除をしていたら、だいぶすっきりしたので、2年ほど前に片付けた「自分教」神社を引っ張り出してみました(「「自分教」神社の撤収」参照)。

神棚を使って、こんなことをするというのに対しては、不謹慎という意見もあろうかと思います。しかし、宗教には限界があり、神とは何かについて考えることに、タブーがあってはならないでしょう。こうした遊びのような活動を通じ、八百万とも言われる多神教的思想の日本において、神という存在がどのように定義づけされているのか、神社がどのような過程で生まれてきたのか等、少しでも明らかにできればと思っています(「偶像崇拝とフィギュア」等参照)。

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富士山に行ってきました

2010年08月03日 | 日常

8月最初のイベントとして、富士山に行ってきました

 
大混雑の五合目


七合目の山小屋群


八合目からのご来光

今、富士山はものすごい人気のようで、スバルラインの終点である五合目は、とんでもない混みようでした。

一応、私も山頂を目指してみたのですが、今回は諸事情から富士山の頂を踏むこと叶いませんでした。ただそれでも、八合目からはきっちりとご来光を拝むことができ、それだけでも大いに満足です。

まずは日本一の山にもお参りできたし、これからいろいろと動くことになるでしょう・・・きっと。

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めっちゃ子供ですっ!

2010年07月29日 | 日常

アメーバで遊び始めて、1か月が経ちました。

所謂、仮想現実のなかで遊ぶアメーバピグでは、現実世界で会うことすらままならないような、実に多様な人たちとお友達になれて楽しいです。

特に面白いのが、小学生のお友達。娘と同世代の彼らは怖いもの知らずで、ストレートな言葉のやり取りが得意のような気がします。そして、それを重ねていると、すぐにお友達になれてしまうのです。

「かずk」、「竹ちゃん」、「たけちー」・・・

これらは、彼らがつけてくれた私のあだ名です。普通の現実世界だけで生きていたら、このような関係はあり得ないでしょう。これは、なかなか楽しいものだと思います。

-たけちーほんとに子供みたい-

そして、こういうのは最高です。この子たちと一緒に遊んでいるなかで、私のことを「子供より子供」と言わせるあたりに遊びの妙を感じます。

-そうそう、僕はミラーマンだかんね-
  ※「ミラーマンな自分」参照

心のなかで、そんなことを思いつつ、今日も楽しくピグで遊ぶのでした。

《おまけ》
ピグは、とてもよくできていると思います。しかし、ほとんど使えるお金がない子供たちは、欲しいアイテムが買えない等、少々、可哀想な面があるような気がします。私なりに、ピグ上でそういう子供たちの悩みを聞いたり、相談に乗ったりしており、このあたりの問題については、自分が考える新しいインターネットサービスのなかに、何かしらの仕組みを取り入れたいと思っています。遊びは勉強!勉強は仕事!仕事は遊び!

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アメーバに登録してみた

2010年06月21日 | 日常

アメーバに登録してみました(http://ameblo.jp/sukune888)。

娘がアメーバピグをやっていて、ちょっと前から誘われており、一応、娘が何をやっているのかを知る意味でも、今回、登録に踏み切りました。

ただ正直、利用しているウェブサービスについては、少々、交通整理が必要になってきました。そもそもブログはここでやっているし、それはmixi、facebookにも反映させています。さらにmixi等は、Twitterとも連携させているうえ、Twitterには写真投稿サービスやTwilogも紐付いています。

アメブロも、mixiのように「外部ブログ」の読み込みができれば、それを繋げるだけでよかったのですが、どうもそういう機能はないようなので、別途、何かを書こうかとも思案してみたり・・・。

そんなわけで、とりあえずここは今まで通りのブログとしつつ、アメブロの方は、もう少し軽いノリの「お気軽日記」というようなかたちにしてみようかと思っています。

まぁ、どうなるかは分かりませんが、とりあえずはそんな感じで・・・。

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軟式野球のメンバー募集

2010年06月17日 | 日常

いよいよ、野球を始めました(「シーズンに向けた準備」参照)。

そして、軟式野球を楽しみたいというメンバーを募集しています。現在、週一回程度、平日の昼間を中心に気楽な練習からスタートしています。

今のところ、メンバーとグランドの関係から、鎌倉市、藤沢市、横浜市栄区を中心に活動を始めていますが、今後の参加メンバーに応じて、時間帯(平日 or 休日)や場所等、柔軟に考えていきたいと思っています。まだ、チーム登録等には至っていませんが、いずれメンバーが増えてくれば、きちんとチームを結成したいとも考えています。

興味がある方、是非、ご連絡ください(kazunari@goo.jp)。

ちなみに、この軟式野球の活動には、以下の目的があります。

1.新しいメディアにおけるコンテンツ創造

テレビに代わる新しいメディアを立ち上げるには、既存のコンテンツに代わる新しいコンテンツを創出しなければなりません。「一億総クリエイター時代」等と言いますが、インターネットが参加型メディアであるならば、そのコンテンツも当然、参加型でなければならないでしょう。

近年、プロ野球の視聴率が落ちていますが、それをもってして、野球全体のコンテンツ価値が低下したと断じるべきではないと考えます。例えば、自分たちがプレイしている草野球の試合が、試合後、テレビ中継のようなかたちで編集されて、1枚のDVDとして仕上がったら、それは当人たちにとって、相当な価値を持つはずです。そして、そこにはきちんと需要があるでしょうし、また何も難しい話ではないのです。かつては技術的、価格的に難しかったことが、今ではかなり容易になりました。こんなところにも、新しい時代におけるコンテンツのあり様が、潜んでいると考えるべきでしょう。

少し別の言い方をすると、新しいメディアにおけるコンテンツは、趣味生活の結果物ということになります。好きなことを思いっきり楽しむ人がいて、それを見たり触れたりして喜ぶ人がいて、そこに生じた感謝や感動のかたちとしてのお金が、新しいメディアシステムの中で巡っていくのです。そういう意味で、新しいメディアシステムを構築するためにも、将来、自らがコンテンツを創る側の人間になるという意識を持ち、目一杯、真剣に野球を楽しむことが重要だと考えます。

2.プロスポーツの概念に対する改革

一芸に秀でることは大切であり、ある特定のスポーツの名プレイヤーであることは、とても素晴らしいことだと思います。しかし一方で、スポーツ振興が「健全な青少年育成のため」等と言うのであれば、現在のようなプロスポーツのあり方だけが、その目的に適うとは思いません。今のプロスポーツ制度は、ともすれば「スポーツだけ秀でればよい」というメッセージにもなりかねず、必ずしも、「健全な青少年の育成」には繋がらない可能性があります。さらに、一部のトップ選手ばかりが高収入を得るようでは、格差社会の助長にも繋がりかねません。

これからの世界で大切なことは、広い社会活動を展開しつつ、その一環としてスポーツも愉しむことができるような、人間としての幅を持つことであり、それを社会が積極的に認めていくことでしょう。そして、新しいメディアシステムとは、そうしたスポーツ選手たちに、僅かずつでも収入を実現させることになります。それは、たとえ月額数万円でもあったとしても、お金をいただける以上は立派なプロスポーツ選手となるのであり、そのことがこれまでのプロスポーツの概念を変えていくことに繋がると思われます。

さらに補足すると、スポーツ観戦は、単に選手の技能の素晴らしさだけではなく、そこにある背景やストーリーを一緒に楽しんでいると考えられます。例えば、芸能人の野球対決は、「あのタレントがやっている」という背景を楽しんでいるのであり、高校野球は、「ひたむきに頑張ってきた球児たちのストーリー」に共感するわけです。

そうした観点から、新しいメディアシステムにおけるプロスポーツ選手なるものには、多様なかたちがあるのであり、その中で、他の社会活動をしながらもスポーツ選手ができるという、謂わば「文武両道」も成り立つということを示せれば、それが何よりも、「健全な青少年育成のためのスポーツ振興」に繋がってくるのではないかと考えます。

3.軟式野球の社会的地位向上とさらなる普及

野球が、これだけ日本で盛んなのは、偏に軟式野球のおかげであろうと思います。社会人になっても、多くの人々が野球を楽しめるのは、軟式野球があるからこそです。

一方で、プロ野球は硬式野球です。こちらの方は、少々、専門化している側面があり、誰もが楽しむスポーツにはなっていません。換言すれば、上記のような「文武両道」を目指すには、いささか障壁が高いということになります。

また、ベースボール(硬式野球)は、アメリカで生まれたスポーツであるのに対して、一般の人々が広く楽しめる軟式野球は、日本で生まれたスポーツでもあります。私たち日本人が、新しいメディアやコンテンツ、さらにはスポーツのあり方を考える上で、これを積極的に活かさない手はありません。

それにもかかわらず、そんな軟式野球のトッププレイとはどういうものなのか、今のところ、動画共有サイトで検索してみても、なかなか適当な動画が見当たらないというのが現状です。多くの人々が、軟式野球のトッププレイとはどういうものなのか、知ることができないというのは、とても残念なことです。これは、軟式野球の社会的地位が低いからにほかならないでしょう。

しかし、軟式野球を「素人向け野球」、あるいは「硬式野球の劣化版」のような位置づけで捉えるのは、あまりにもったいないことです。軟式野球については、積極的にそれ単体で立派なスポーツとして考える必要があり、それを広く普及させることが、スポーツ界全体、あるいは社会全体にとっても、大きな意義を持つことになると考えるべきだと思います。

以上、タラタラといろんなことを書いてしまいましたが、一番大切なことは、とにかく楽しむことです。そういう意味で、野球を目一杯楽しんでみたいという方は、上記のような目的はさておき、是非、ご参加ください。

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シーズンに向けた準備

2010年04月21日 | 日常

-体、大きくなりました?-

ふと、休憩時間に聞かれました。

はい、間違いなく大きくなりました。若干、太ったようにも見えますが、偏に筋トレの効果です(「分かりやすい肉体鍛錬」参照)。きっと、普通に会社勤めをしている方々よりも、時間的余裕はあるし、筋肉の回復期間を考慮したりする等、一応、それなりに真面目にやっているので、きちんと効果が表れたということでしょう。

半年足らずの努力で、着衣越しにでも分かるような効果が出るというのは、それなりにやり甲斐を感じます。もちろん、「継続は力なり」なので、続けていかないといけません。さらに、これがボールを投げたり、走ってみたりという運動の中で、効果を感じられるようになると、一層、筋トレの意義を実感することになるのでしょう。

ただし、筋トレは、あくまでも冬ごもり(引きこもり?)の期間を利用した準備運動に過ぎないので、これからの暖かい季節に向けて、きちんとした運動ができるような環境を整えていきたいと思います。

グラウンドの確保とか、メンバー集めとか・・・。具体的には、野球をしたいと思っているので、その辺りが今後の課題です。

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「なんちゃって」の重要性

2010年04月19日 | 日常

最近、本を読んでいます。

普段、あまり読書をすることはないのですが、先日、友人が飲み会の最中、わざわざ中座して書店まで行って、自分のために書籍を買ってきてくれたので、それを読んだりしています。「○○って本、読んでみなよ」というレベルだったら、多分、読んでいないでしょう。今回のケースでは、わざわざ雨の中、飲み屋を出て、本屋まで行ってくるという行為にまで及んでくれた友人に対して、私なりに、その心意気にきちんと応えなければと思った次第です。

渡された本は数冊あります。そのうちの一つが、ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」なる本でした。

総論、言いたいことはよく分かる気がします。細かい言葉の定義や捉え方等については、往々にして書き手と読み手の間に、ギャップがあるものですし、これは訳文でもあるので、細部に関して何かを言及するほど、隅々まで書き手の意図を理解しているとは思いません。ただし、言わんとすることは、一度は自分も思いを巡らせたものであり、非常によく分かる気がするのです。特に個人的には、イエス・キリストという人物に対する思いには、とても通じるものがあるようにも感じました。

ところで、私なりには、所々で「ツァラトゥストラ君、もう少し、肩の力を抜いていいんじゃないのかな?」と突っ込みたくなってしまいました。もう少し言うと、言葉の最後に「なんちゃって」と言ってのけるくらい余裕があってもいいのではないかというのが、私の率直な感想でした。

世界は、常に二面性を孕んでいます。表と裏、陰と陽、光と影・・・。ツァラトゥストラ(あるいはニーチェ?)の問題意識、世界観、人類への熱い想いはとても立派ですし、それは個人にとっても、人類全体にとっても非常に大切なことだと思います。

しかし、彼の言は、そのうちの片面ばかりが強く出ている点、否めません。

物事を論ずる以上、視点を定めなければいけませんし、そうでなければ論ずること自体が不可能になってしまいます。したがって、その視点を定めること自体は、致し方ないことだろうと考えます。ただし、それだけに拠ってしまっては、二面性を抱える世の片面しか言い当てることができず、もう片面については、バッサリと切り捨てざるを得なくなります。これこそが、論じるということの限界です。これを踏まえたうえで物事を論じる為には、「白」と言った瞬間、次に「黒」と言えるくらいの余裕が必要になるわけです。

つまり、「+1」を論じつつ、「-1」も受け入れる姿勢がとても大切だという事です。これは話のテーマが大きくなっても変わりません。「+100」を論じたら、「-100」を許容しなければなりませんし、「+10,000」を主張する一方で、「-10,000」を否定しない姿勢は、極めて重要であるということです。

特にこうした考え方は、今後の新しい世界秩序の形成において、とても重要なことだと思います(「脱亜入欧の終焉」等参照)。ニーチェが生きた時代、世界の仕組み、宇宙の姿、人類の存在意義、超人や創造主のあり様等を論ずるには、それらを一面から捉えていくということは、とても自然なことだったでしょうし、むしろそれで十分だったのではないかと考えます。しかし、これから先の時代においては、瞬時に両面を捉えるということが、これまで以上に重要でなるであろうと思えてなりません。

そういう意味で、ツァラトゥストラの言葉は、肩意地が張りすぎていて、現代から先の時代においては、通用しないスタイルになっているように思われるのです。私なりには、もう少し逆の視点や違った立場からの意見に対しても、柔軟に受け答えができるように、全ての言葉の最後に「なんちゃって」を付けるくらいのユーモアと余裕があったら、この作品はもっと先の時代にも、十分、通用する書物になるのではないかと思うのでした。

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「自分教」神社の撤収

2010年03月27日 | 日常

神棚を使って、「自分教」神社などと言って遊んでいました(「「自分教」の神社」参照)が、本日、これを撤去いたしました。特段、大きな意味はありません。敢えて言うならば「飽きたから」です。放っておくとほこりも被るため、適宜、フィギュアの掃除をしたりしないといけないのですが、この手間も面倒くさくなってきてしまい、とりあえず今日、一旦片付けることにしました。

だいぶ、スッキリしました。

この「自分教」神社では、いろいろと楽しめましたし、宗教とは何たるかについて学ぶ意味でも、なかなか面白かったのではないかと思います。

別に捨てたわけでもないので、また何かの機会があったら、出してみようとも思います。ただ今回は、ひとまず撤収です。

《おまけ》
以下、これまでブログに掲載した写真です。いやいや、なかなか楽しかったです(「「自分教」の神社」、「偶像崇拝とフィギュア」、「神棚に追加メンバー」、「「自分神社」への初詣」、「SOS団のご降臨と遷宮」、「ナギ様のご降臨」、「カブト様のご降臨」等参照)。

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遊びの発明家たち

2010年03月24日 | 日常

うちの子ども二人が向き合って、パンパンと手を叩いて、その後に各々が「はーめ」とか「封印」とか言いながら、それをジェスチュアで表現して繰り返す遊びをしています。

「はーめ」という時のジェスチュアは、両手の人差し指から小指までを電車の連結器のようにはめ合わせるものだったり、「封印」は左の手のひらに右手をこぶしにして載せるものだったり、ひとつの言葉にひとつのジェスチュアが決まっています。見ていると、「はーめ」や「封印」の他に、「跳ね返し」、「バリア」、「ブラックホール」、「お葬式」等々、多彩な技があるらしく、とても難しそうに見えます。

さらに、これは一回で勝負が決まるわけではなく、パンパンと手を叩いた後、自分が「はーめ」と言っているのと同時に、相手が何を言っているのかを聞きながら、さらにそのままパンパンと手を叩いて、次のジェスチュアに移らなければいけないので、結構大変そうです。見ている限り、カードゲームのようなルールみたいですが、とにかくよく分かりません。

-それって何ていう遊び?-

ちょっと気になって聞いてみたところ、名前はないとのことでした。娘曰く、この遊びは娘のクラスメイトが考え出したものらしく、そこから小学校全体に広まったということらしいのです。そういうわけで、特段、遊びの名前が決まっているわけではなく、技やジェスチュアも、ちょくちょく新しいものが開発されている様子でした。

見ている限り、それなりに完成度が高い遊びにも見えたので、小さな一クラスで始まったというこの話がにわかには信じ難く、もしどこかで同じ遊びがあるのなら、是非、教えていただきたいと思ったりしています。

ただいずれにせよ、この遊び、どこかの子どもが編み出したであろうことは間違いなさそうなので、そういう意味で、子どもというのはつくづく遊びの発明家だと感心させられたのでした。

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分かりやすい肉体鍛錬

2010年03月04日 | 日常

バッティング練習を真面目に始めて(「左打席の可能性」参照)以降、基礎的なトレーニングの必要性を感じるようになり、昨年の終わり頃から筋トレをしています。これは、かなり面白いです。何が面白いかと言えば、一言で「効果が一目瞭然」だからです。

これまで、ブログを通じて書いてきたことは、私なりの「精神鍛錬」を通じて感じたことを軸にしており、その効果というのは、なかなか目に見えないものばかりでした。もちろん、それがもつ重要性は変わらずあると思いますし、精神や心といった目に見えないものがあってこそ、目に見える物質世界が成り立つという側面は、けっして否定できないだろうとも考えます。ただ、いかんせん時間がかかるし、分かりにくいものなのです。

それに引き換え、肉体鍛錬は単純明快です。やれば、結果が目に見えるかたちで表れます。しかも、学生時代はただがむしゃらにやっていたトレーニングでしたが、一通りの人生経験を踏まえて、「肉体とは何か」を突き詰めて、それに相応しい方法を追究していることもあり、学生時代よりも、だいぶ効率的に進められているような気がしています。

おかげで、筋トレを初めてまだ3ヶ月程度しか経っていませんが、体のつくりもだいぶ変わってきました。当初組んだ筋トレメニューも、ずいぶん簡単になってきたので、今月からはメニューの回数や種類を増やして臨んでいます。

最近は、精神修養にも飽きてきたので、その容れ物である肉体の方を磨いておくのも悪くないだろうという思いもあり、当分、こっちに力を入れてみたいと思います。

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Twilogにしてみました

2010年02月24日 | 日常

Twitterでの投稿内容は、そのまま垂れ流しになってしまう可能性があり、ストックをする仕組みを取り入れたいと思って、Twitterのまとめ投稿機能を使っていました(「Twitterのまとめ投稿」参照)。一応、この機能を使うことで、Twitterの投稿内容はストックされるようになり、垂れ流しの問題は解決されました。ただ一方で、Twitter特有の拡散した浅い内容が、ブログ内に充満してしまうような感覚もあり、少々、抵抗感を覚えていました。

こうした問題を解決すべく、昨日からTwitterの投稿内容ををストックする仕組みとして、Twilogを利用してみることにしました。

http://twilog.org/sukune888

これは、なかなか便利です。ブログと違って、元々、Twitterの投稿内容をまとめるための仕組みになっているので、ブログのまとめ投稿よりも、並び替えやら検索やらが使いやすいですし、投稿内容の分析ツール等もついていて面白いです。

特段、何があるというわけではないですが、Twitterの内容をまとめたいと思っている方には、これがおススメだと思ったのでした。

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凧が揚がる理由

2010年02月08日 | 日常

晴天の下、凧揚げをしてきました。とてもきれいな青空で、適度な風もあり、絶好の凧揚げ日和だったように思います。

ところで、こんなに気持ちよく凧が揚がると、「この糸を離したら、すごい勢いで飛んでいくのだろうなぁ」などと思ってしまいます・・・が、当然のことながら、凧糸を離してしまったら、瞬間的にすごい勢いで飛んでいくことにはなるとしても、まもなく落ちるだろうと思われます。

あまり真面目に論じる必要もないかもしれませんが、凧が揚がる原理は、風の方向はもちろんですが、風そのもののエネルギーを縦方向に活かすところにあります。つまり、凧糸を握っている人が、凧をきちんと一定の地点に留めておくことで、凧の態勢を保ち、風のエネルギーを横方向には逃がさず、きちんと縦方向に向けさせることにより、それを揚げていくことができるということです。それなのに、「すごく引っ張られていて、凧も飛んでいきそうだから放してあげよう」等といって、凧が自由に動けるようにしてしまったら、凧の態勢が崩れるだけでなく、せっかくの風のエネルギーを横方向にも使えるようになってしまい、結果として、凧が落ちていくことにもつながるだろうというわけです。

これは何となく、人生にも通じるようなものがあるように思います。要は、どんなに調子がよくても、油断するべからずです。どんなにいい風が吹いているとしても、きちんと自分の凧を揚げ続けるためには、自らの立場や本分をわきまえた行動をすること、きっちりと凧糸を握り締めていくことが肝心だということです。

そんなわけで、適度な風を浴びながら、調子よく揚がっている凧を眺めつつ、きっちりと凧糸を握り締める重要性を考えてみたのでした。

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「涼宮ハルヒの消失」の感想

2010年02月07日 | 日常

「涼宮ハルヒの消失」、初日から見てきました。ネタバレしても仕方ないので、簡単に感想だけ記しておきます。

相変わらず、キレイにできておりました。芸術品というか、つくづく細かいところまで、よく作りこまれていると感じました。個人的には、窓ガラスや鏡への映りこみ方とか、人物の微妙な動きとか、やたらとリアルな背景画とか、そういうところが好きだったりします。

話の中身も、「涼宮ハルヒ」らしい世界観で、とても良かったです(「多世界解釈の不思議」参照)。具体的な内容に関する記述は避けますが、この作品、タイトルから分かるとおり、ハルヒが消失してしまうわけで、そのストーリーを私なりに解釈すると、「キョンへの天罰」だったような気がします。

世界の中心にいるハルヒは、いわば宇宙を統べる神に等しい存在です。その神様に対して、キョンは自らの分をわきまえることなく、常日頃から文句タラタラな思考をしすぎです。これは、誠にもってあるまじきことでもあります。要は、神様に対して文句を垂れてはいけないのです。もし、どうしても神様に対して文句を垂れるなら、自分自身がハルヒに匹敵するくらいの神様になることしょう(「「自分教」の薦め」参照)。

いやしかし、私が考える「自分教」的な意味で神様になってしまうと、(ハルヒを含む)他人様をきちんと尊重できるようになるため、実は、「ハルヒに文句を垂れる」というような発想自体がなくなるのかもしれません。このあたりの論理構造は、パラドックスになっているので、少々、難解かもしれませんが、今回の作品、そんなことを考えさせられました。

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ギブスが取れました

2010年02月02日 | 日常

今日、ようやく右手のギブスが取れました。実は、人生初の左打者転向を実現すべく、バッティングセンターに通いつめて、とにかく一番速い球だけを打っていたら、指を傷めてしまったのです。最初、空振りをしている間は、ほとんど気付かなかったですが、下手にボールに当たるようになると、当たり損なった時の衝撃が、意外と大変なようなのです。それに気付いた時には、既にバットを握れなくなっており、ギブス生活を余儀なくされる羽目になったというわけです。

約二週間のギブス生活を終え、今日からさらに二週間リハビリです。

それにしても昨日、ギブスをはめた右手のことを聞かれたので、「デジタル思考なんで、やらない間は徹底してやりませんが、やると決めたら徹底してやっちゃうんです」と答えたら、「体はアナログだから気をつけてください」と言われました。

至極、当然のことながら、不思議と「なるほど」と思わされました。それと同時に、体を守るためにも、もう少し思考のなかにアナログ的要素を取り入れてみようか等とも思うのでした。

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お正月の日常化

2010年01月03日 | 日常

今朝、テレビでお正月の過ごし方の変化に関するものがありました。昔のお正月(と言っても、50~60年前のものですが)では、日本髪、和服、羽子板、凧揚げ・・・といったものがあったのに、それらがなくなったり、変質してしまったりしているという内容でした。

こういう話になると、兎角、愚痴っぽい内容になったりすることもありますが、これはこれで、それほど悪いことではないと思います。私自身、「毎日が特別」と思うようになってからは、お正月に対する感覚も、だいぶ変わったように感じます。以前、大晦日のカウントダウンは、間違いなく、自分にとっての楽しい時間でした。しかし、最近は、ほとんどそれもなくなりました。言わば、「お正月の日常化」です。逆の言い方をすると、例えば、年末年始のお正月やクリスマスが、とても特別に思えていた時代の自分は、それ以外の毎日がマンネリ化していて、一年を通じて、何となく何もなさすぎたのかもしれないとも思うのです。毎日が何もなく、平凡すぎるからこそ、年末年始の特別さが際立ってしまったのではないかと思うわけです。

そう考えると、昔の「特別なお正月」が変わってきているというのは、もしかすると、社会全体が、「それ以外の毎日が特別」と感じられるほど、メリハリが出てきたということなのかもしれません。もしそうならば、それはそれで、それほど悪いことではないと考える次第です。

日常の非日常化、非日常の日常化・・・。

ただし、節目の重要性というのは、変わらずあるのだろうと考えます。お正月はお正月として、新しい年を迎えられたことを祝い、新たな気持ちで何かを始めたり、新しい気分に切り替えたりということは、とても大切なことです。新年を迎えて、あらためて「一年間、よろしくお願いします」という挨拶を交わすことも、また大切なことでしょう。そういう意味で、私としては、適度にお正月気分を味わっておこうと思います。今年は、元旦に都内のホテルに行ったら、フルーツカービングなるものを目にしました。これは、なかなか凄かったので、思わず写真を撮ってしまいました。

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