常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

量子力学で成り立つ世界

2011年09月13日 | 科学

「日経サイエンス」の2011年10月号に、興味深い記事が載っていました。「シュレーディンガーの鳥・生命の中の量子世界」(V.ヴェドラル著)というタイトルで、以下のようなまとめがなされていました。

  • ミクロな世界とマクロな世界に境界線はない
  • 量子力学は身の回りの物質にも通用し、ニュートンの古典世界は存在しない
  • 私たちは量子の世界で暮らしているのだ

なかなか面白そうなまとめです。

さらにキーコンテンツとして、「世界は量子で動いている」と題して、次のような箇条書きがありました。

  • 量子力学は一般に、ミクロなものについての理論だと説明されている。分子、原子、それよりさらに小さな素粒子などだ。
  • だが実のところ、物理学者はほぼ全員、量子力学は大きさに関係なく、あらゆるものに適用できると考えている。量子力学の際立った特性が通常隠れているのは、単に大きさの問題ではない。
  • ここ数年、マクロな物理系で量子現象を観測する実験が相次いでいる。
  • 量子効果の本質は量子もつれだ。量子もつれは、大きいだけでなく暖かい物理系、例えば生物の体内でも起きている。そうした系では、量子もつれは分子の動きによって壊れてしまうと考えられてきたが、そうではないらしい。

このことは、私が常日頃から感じている話であり、本ブログにおいて、たびたび記事化している内容でもあります(「揺らめく現実世界」等参照)。量子力学の世界では、とても不思議なことが指摘されています。ここでは詳述しませんが、簡単に言えば、世界は観測した時点で決まるのであり、観測していないものについては、「不確かで曖昧である」ということです(詳細については「優等生なアインシュタイン」参照)。言い方を変えると、月は観測してこそ、その空、その場所にあるということになります。

しかし、観測していなくても月はそこにあると考える人々にとって、これはとんでもない話に聞こえます。従って、量子力学のルールを、通常私たちが視認している世界と切り離して考える人々も多いでしょう。しかし、それでは世界の本質を見失いかねません。量子力学のルールは、通常私たちが視認している世界でも通じるものであると考えた方が、より世界の本質を見極めることに繋がるのではないかと思うのです。

以下、前述の論文「シュレーディンガーの鳥・生命の中の量子世界」からの抜粋です。

=====================
世界を大きさによって分けるのは単に便宜上のことで、実は何ら本質的ではない。現在、古典力学が量子力学と同等だと考えている物理学者はほとんどいない。世界はあらゆるスケールにおいて量子力学に従い、古典力学はその便利な近似値にすぎないというのが大方の理解だ。

(中略)

量子力学の研究者にとって、古典物理学は白黒テレビの世界だ。白と黒による古典的な二分法では、この世界の多彩な実像は描けない。かつての教科書的な見方では、量子世界の豊かな色彩は、スケールが大きくなるにつれて消えていくとされていた。ここの粒子は量子的だが、集団になると古典的になると。だが実のところ、大きさは量子か古典かを決める要素ではない。

(中略)

量子世界と古典世界を区別するというのは、本質的ではないと思われる。それは単にどこまで量子効果が見えるかという実験技術の問題だ。あるスケールよりも大きくなったら古典世界がカムバックすると思っている物理学者は、いまやほとんどいない。
=====================

つまり、この世界は量子力学のルールによって成り立っているということです。一見、とても簡単なことのようですが、これは反面、とても厄介なことを含んでいます。何故なら、これを認めてしまうことで、例えば「光よりも速いものはない」というこれまでの常識が覆されるからです。

以下、これについて説明をしてみます。

量子力学で非常に重要になるのは、「量子のもつれ」であると言います。「量子のもつれ」の重要性については、同論文の以下の記述でも明らかなとおりです。

=====================
例えば「時間」と「空間」は古典力学における最も基本的な概念だが、量子力学においては二次的なもので、最も本質的な概念は量子もつれだ。量子もつれになった2つの量子系は、空間も時間も関係なく互いに連動する。
=====================

まず、「量子のもつれ」とは何かについてです。

ここにスピンをしてない1つのミクロの粒子があり、これが壊れて、2つのスピンをする粒子に分裂したと仮定します。2つのスピンをしている粒子は、もともとスピンをしていない粒子から発生したものなので、互いに逆方向(上回りと下回り)にスピンすることになります。ただし、ここで大切なのは、スピンした粒子が観測されない以上、それぞれどの方向でスピンしているのか決まらないということです。逆の言い方をすると、片方の粒子が観測された瞬間に、もうひとつの粒子のスピンの方向が決まるということになります。これが「量子のもつれ」です。

そして、仮に分裂したこの2つの粒子が、互いに何光年も離れたところまで飛んでいったとします。この時、上回りにスピンした粒子が見つかった瞬間、もうひとつの粒子は下回りにスピンしていることが確定します。ここで問題になるのは、ひとつの粒子の状態が決まることで、もう片方の粒子のスピンの状態までもが瞬時に確定するということです。つまり、何光年も離れた場所を瞬時に(スピンの状態という)情報が飛んで行くということになるわけです。光の速度で何年もかかるような距離を、情報が瞬時に飛んでいくということは、光の速度を超えるものがないという従来の大原則に反します。このあたりが、量子力学の厄介なところです。

こうした問題について、上述の論文では、次のような記述をしています。

=====================
もつれあった粒子は、たとえ互いに遠く引き離されても、あたかも1つの物体であるかのように連動して振舞うのだ。アインシュタインがこの量子もつれを「気味の悪い遠隔作用」と呼んだことは有名だ。

(中略)

ある電子のスピンを水平方向の時計回りに、別の電子のスピンを水平方向の反時計回りにセットする。この場合、2個の電子のトータルなスピンはゼロだ。古典力学では電子の回転軸は空間に固定されており、電子スピンの観測結果はどの方向の回転を測定するかによって変わる。水平方向の回転を測ればスピンが互いに逆向きになっているのが観測されるし、垂直方向の回転を測ったらスピンは両方ともなくなってしまう。

(中略)

だが、実際には電子は量子的で、状況はまったく異なる。量子力学では、粒子それぞれのスピンがどのような方向を向いているかを特定せずに、トータルなスピンをゼロにすることが可能なのだ。粒子の一方を観測すると、まるで粒子自身が勝手にスピンの方向を決めているかのように、時計方向と反時計方向のどちかにランダムに向いている。にもかかわらず、どの方向で粒子のスピンを測っても、2つの粒子を同一方向で観測する限り、粒子のスピンは常に互いに逆方向を向いている。
=====================

このように、従来の古典的な科学については、その限界を認めていかなければいけない時代になってきたということでしょう。ただしそれは、これまでの古典的な科学が間違っていたことを意味するわけではないと思います。今回の雑誌には、「ニュートンの古典世界は存在しない」などという表現がありましたが、これは正確ではなく、私なりには「ニュートンの古典世界の限界が明らかになった」あたりが適当な表現ではないかと思っています。量子力学と古典力学は、相対するものではなく、量子力学が古典力学を包含するようなかたちで説明できるように、組み立ててられればいいのです。

次元の話に喩えるなら、三次元空間があるにもかかわらず、二次元しか説明できていない理論もあるということです。このことは、けっして二次元までを説明している理論が間違っていることを意味しているわけではありません。ただ限界があるということです。二次元までの理論と矛盾することなく、三次元までをも説明した理論を乗せていくことで、世界全体をより正確に説明できるようになるということでしょう。

仮に10次元、11次元までの世界があるというのなら、三次元世界だけではなく、四次元、五次元世界までをも説明できる理論とは何かを探求することが肝要なのです(「交差点としてのこの宇宙」等参照)。

=====================
もし量子力学に取って代わる、より深い物理学理論があるとしたら、その理論が描き出す世界像は、これまで私たちが編み出してきたどんなものよりも直観に反するものになるだろう。物理学者たちはそう信じている。
=====================

次の物理学理論について、物理学者がどう考えているのか、私は知りません。しかし私は、量子力学に取って代わるより深い物理学理論があるとして、その理論が描き出す世界像は、意外とすんなりと私たちが直観してきたものに落ち着くような気がしてなりません。いやむしろ、既に直観している人々は、数多くいるような気さえします。そういう時代に突入しつつあるのではないかと思うのです。

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交差点としてのこの宇宙

2010年07月09日 | 科学

最先端の科学で言われるように、世界が10次元とか、11次元といった高い次元まで存在するとして、この宇宙をどのように解釈すべきかという問題があります。

それについては、いろいろな表現ができるかと思います(「揺らめく現実世界」等参照)が、私なりには、この宇宙が無数の高次元世界が交わるところに存在するのではないかと考えます。次元を跨いだ世界同士が交わるという表現については、少々、分かりにくい部分があることでしょう。私たちは、自らの肉体が構成されている三次元空間のなかで、物をはっきりと認識することができるので、ここでは、それ以下の次元を使った例え話として、簡単に整理してみたいと思います。

-線と線が交わると点が生まれる-

-面と面が交わると線が生まれる-

-立体と立体が交わると面が生まれる-

ここに疑念の余地はないと思います。互いに交わらない線もあるでしょうが、それがどこかで交われば、必ず点が生まれるわけです。それは面と線、立体と面の関係においても、まったく同じです。そして、そのことは次のように言い換えることができます(点は、空間が存在しない、即ち空間の次元が存在しないという意味で、「零次元世界」としています)。

-2つの一次元世界同士の交わりで、1つの零次元世界が生まれる-

-2つの二次元世界同士の交わりで、1つの一次元世界が生まれる-

-2つの三次元世界同士の交わりで、1つの二次元世界が生まれる-

つまり、低い次元の世界というのは、高い次元の世界同士の交点と捉えることができるわけです。さらにその次元間の関係は、例えば、次のように語ることもできます。

-3つ以上の面同士が交わることで1つの点が生まれ得る-

-3つ以上の異なる二次元世界の交わりで1つの零次元世界が生まれ得る-

これが起きる確率は、少し低くなります。単純に3つの面が交わっただけでは、まったく交わらない複数の線が生まれるだけになる可能性があります。3つ以上の面が交わってできた線同士が、さらに交わって点を生むというのは、「その可能性がある」という話なので、上記のように「点が生まれ得る」という言い方になります。加えて、面の数が3つではなく、4つ、5つと増えていき、それらの面が全て1つの点で交わるとしたら、その確率はますますと低くなることでしょう。

しかしそれでも、その可能性があることは確かであり、零次元世界は複数の(あるいは無数の)二次元世界の交点たり得るということです。

ここで、次元を上げて話を戻すと、私たちが視認しているこの三次元世界、この宇宙というのは、そのような高次元世界の交点として存在しているかもしれないということです。そこで言われる高次元世界が一体何かについては、既に本ブログにおいて、何度か触れているところでもあるので省きます(四次元については「「四次元の目」で見えるもの」や「確からしい四次元の存在」、五次元については「五次元世界へのヒント」等参照)。

私たちが住んでいるこの宇宙は、そうした四次元世界同士の交点、あるいは五次元世界同士の無数の交点が偶然に一致するような(面同士が交わってできた無数の線が偶然一点で交わるような)、四次元世界同士の交点ではないかということです。そして、私が考える四次元世界、または五次元世界に照らし合わせて、これを解釈すると、この宇宙はあらゆる生命体の精神世界が交わるところで成立しているのであり、そのなかの事象は、彼ら全体の最大公約数的なものであることになります。

これが意味するところは、つまり、この宇宙があらゆる生命体のために存在しているのであり、彼らが望むかたちとしてできあがっているということです。これは例えば、宗教的な表現として「天上天下唯我独尊」だったり、日常的な言葉として「夢は実現する」という言葉に繋がってくるのでしょう。

ただし、大切なことは、それがあくまでも最大公約数的であるということです。つまり、ある個体の度を越したイメージ(精神レベルにおけるひとつの世界形成)は、別の個体の世界観では受け入れられず、その結果、それがこの宇宙では実現しないということです。

若干、話が横道に逸れますが、私は錬金術なるものを完全に否定するつもりはありません。物質の最小単位が、必ずしも元素でなくもっと細かい素粒子であるならば、複合粒子の束縛状態をどう解くかという確率の問題はさておき、そのレベルでの組み替えを行うことで、元素としての金を生成することは、絶対にできないとは言い切れないだろうと思うのです。ただし、錬金術をある特定の人が使えるようになって、好き放題されてしまったら、世界の秩序は大きく崩れることになります。つまり、無数の人々が困るのです。錬金術が不可能ではないにせよ、それが大っぴらに認められず、人々の目に晒されることがないのは、全体の最大公約数的範疇に収まらないからであろうと考えるわけです(そういう意味で、「鋼の錬金術師」の終わり方は、誠に良かったと思っています)。

いずれにしても、私としてはそんなことを考えつつ、この宇宙があらゆる生命体の最大公約数的な、ある意味、無数にあるかもしれない三次元宇宙のなかで、最も美しい姿を保っているのではないかと思うのでした。

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宇宙人実在論へのスタンス

2009年12月23日 | 科学

テレビに出てきて、宇宙人の実在を主張される方の議論が、本当に信頼に足るかどうか、信憑性があるかどうかの問題は大いにあるだろうと思います。実際、そういう方々の議論が、突拍子がなく、あまりに飛躍した論理になっていることも認めざるを得ないと考えます。

しかし、宇宙人の実在を主張する方々に対して、嘲笑するような風潮は、あまり感心できません。さらに、そうした態度をとる方々が、あたかもインテリであるかのように振舞うことだけは、けっして許されるべきではないと思います。

そもそも「実在を証明できない=実在しない」ではありません。それにもかかわらず、「実在を証明できない=実在しない」と決め付け、「実在を証明しよう」とされる人々をバカにするような方々は、自らのレベルの低さをさらけ出しているだけかもしれないことに注意が必要です。特に私としては、そうした「実在を証明しよう」とする方々に対して、それを完全に否定し、自分こそが正しいというような態度をとる方が、未知の分野を追求すべき科学者のものであるとしたら、それこそ言語道断であると考えます。

ただし、それでも嘲笑されたり、バカにしてみたりということを止められないという方々については、それはそれで仕方がないと思います。それぞれ人の信じるものが違う以上、そうしたことがあっても当然なのでしょう。しかし、時が経ち、自分が信じるものがひっくり返ったとき、常識が覆ったときには、自らの言動に対して、深く反省する必要があることも間違いないと思います。そういう意味で、宇宙人の実在を唱える人々を嘲笑したり、バカにしたりする場合には、少なくともご自分が生きている間、「宇宙人の実在が証明できない」という状態が、絶対にひっくり返らないことが必須要件でしょう。

ちなみに、私の場合、宇宙人実在論をとります。したがって、私自身、「宇宙人実在論」を唱える方々が、多少、突拍子のない議論を展開したとしても、ひとまずそれらをきちんと受け止めたいと考えています。ただし、私が考える宇宙人については、いわゆる「グレイ」と呼ばれるような、頭でっかちの生命体のイメージではありません。宇宙人は、もっと身近な存在だと思うのです。

というか、私たちと切っても切れない、とても縁深い関係にあるような・・・。

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法則の価値と限界

2009年12月14日 | 科学

-心清らかに善行を積めば天国に行ける-

例えば、これが本当だとして、これを教室で教えたとします。実際、事実として「心清らかに善行を積んだ人」ばかりが天国に行ったことが証明できていれば、それは学問としても有効であり、教室で教えるだけの価値もあろうかと思います。

この場合、「心清らかに善行を積む=天国に行ける」という一つの法則が生まれるわけです。

ところで、これを教室で習った生徒が、この法則を利用して天国へ行こうとすると、少々、厄介な問題が起きることになります。つまり、その法則はけっして間違っていないながらも、天国に行こうという動機によって為される善行が、必ずしも「心清らか」とは言えず、結果として、いくら頑張っても天国には行けないということになってしまう可能性があるからです。

これは、結果論としての法則に囚われてしまうことで起きる問題です。結果論として、「心清らかに善行を積めば天国に行ける」が真であり、それは法則としても、きちんと認められたとしても、そればかりに囚われてしまうと、逆に期待している結果が得られないということです。ここで大切なことは、そもそも「心清らかに善行を積めば天国に行ける」という法則すら、気にしない生き方をすることが、結果として「天国に行く」ことに繋がるという点です。

つまり、逆説的になってしまいますが、法則を認めつつ、その法則に縛られないことこそが、その法則を真にするということです。これは、けっして法則の否定ではなく、その限界を知るということでもあります。私は、学問の分野においても、こうしたことが多々あるのではないかと思っています。特にそれは、未知の世界を扱う科学分野の最先端において、数多く起こり得るのではないかと思えてなりません。

今日の科学は、様々な法則によって、いろいろな事象を説明できるとされています。そして実際、私たちは、その恩恵に与って、今の生活を送ることができているわけです。それは、物理学や化学といった自然科学のみならず、政治学や経済学といった社会科学にも通じて言えることでしょう。そして、それら科学の法則には、必ず限界があるのです。大切なことは、そうした法則の価値を認めつつ、その限界を知り、それに縛られることなく、未来を切り拓いていくことだと思うのです。同時に、結果論としての科学法則のみを振りかざして、知ったようなつもりになっている方々は、くれぐれもご用心された方がよいでしょう。

そんな法則と、どのように向き合うかのは、あくまでも各個人に委ねられていることです。

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お賽銭モデルの提唱

2009年11月25日 | 科学

世界経済のほとんどは市場主義で回っています。その市場において取引される財は、需要と供給のバランスで価格が決まるという話があります。右図のように財の価格を縦軸、数量を横軸にとった場合、需要と供給の関係から均衡する点(需要曲線と供給曲線が交わる点)が定められ、それから均衡価格と均衡数量が求められます。このうちの均衡価格が、いわゆる私たちが市場において取引で用いる「価格」です。そして供給者の収入は、均衡価格と均衡数量を掛け合わせたオレンジ色の面積の部分になるわけです。もちろん、経済学の中では、このほかの様々な要因を取り入れつつ、複雑なロジックを組み合わせていくことになりますが、従来の市場が、概ねこうした理論で説明できていたということは、まず間違いないだろうと思います。

ところで、情報化社会が進展していく中で、世界における情報産業の比率が高まり、コンテンツやアプリケーションといったソフトが数多く流通してくるようになると、状況は大きく変わってきます。それは、コンテンツやアプリケーションというようなソフトが、技術的にいくらでもコピーできてしまうという点、見逃すわけにはいけないからです。特に、インターネットの発達により、ソフトの流通に統制が効かなくなると、そのコピー数は無限になるわけで、従来の経済学で考えられていた「数量」の概念が崩れるのです。また違法コピーされたソフトが、インターネットで簡単に入手できるような状況になると、「価格」の概念も、同時に崩壊することになります。

こうした新しいソフトの時代においては、経済学的な観点からも、どのようなロジックで価格が決まるかというモデルを構築することは、極めて重要であると言うことができると思います。ここで私は、従来の需要と供給のバランスから価格を導き出すのではなく、需要者側が一方的に価格を決める「お賽銭モデル」を提唱したいと考えます。

「お賽銭モデル」というのは、細かな説明をする必要もなく、神社等で参拝者が投げ入れるお賽銭のような価格決定モデルということです。神社に参拝した人は、特に投げ入れるお賽銭の金額を決められているわけではありませんし、またその義務を負っているわけでもありません。神社に行き、お賽銭箱の前で何となく財布を開いて、そこに入っている小銭の中から、適当に金額を決めて払っているわけです。支払う金額のみならず、そもそもお金を支払うかどうかまでもが、支払う側の自由意思によって、決められている点が、この「お賽銭モデル」のポイントになります。

これまで財の価格というのは、供給者側で設定されるというのが、市場取引における主流ではなかったかと思います。もちろん、正確を期すならば、けっして供給者が勝手に決めているわけではありません。しかしそれでも、通常、多くのモノが取引されるお店では、諸々の状況を勘案しながらも、最終的には、供給者であるお店が価格を設定するケースがほとんどです。そして需要者である消費者や利用者は、その価格と自らの懐具合とを見比べながら、購買活動を決定するというのが市場の一般的な姿ではないかと思うのです。

しかし、従来の「数量」や「価格」の概念が崩壊してしまっているソフトのような財について、供給者ばかりが価格を設定するというのには、いささか無理が生じているのではないかと考えます。そこで注目するのが需要曲線です。

需要曲線は、需要者の「買いたい」という意欲を表したものであり、価格と需要量の関係を図示したものです。一般的には、高くても買いたいという人は少なく、安くなれば買いたいという人が多くなるため、右下がりの線となります。そういう意味で、この曲線は、「これくらいだったら買ってもよい」と考える人の分布を表しているとも言えるでしょう。

ここで私は、需要曲線の少し下に「支払曲線」というのを描いてみました。これが新しい価格の考え方であり、これこそが「お賽銭モデル」で言うところの需要者が決める「価格」です。本来、「お賽銭モデル」的には、需要曲線が「これくらいだったら買ってもよい」という需要者の購買意欲を示しているのであれば、この財を渡したら、無条件に需要者がそれに見合う需要曲線通りの金額を支払ってくれると解釈したいところです。つまり、いちいち「支払曲線」等というものを描かず、需要曲線こそが価格曲線であり、「需要曲線こそが価格である」と考えたいところではあります。

しかし、実際には需要者は、割安感を求めるものです。従来の経済学的な思考で言えば、需要者が割安感を求めると、供給者は割安感を求めない他の需要者に財を売り渡してしまうので、そういう需要者は購入ができなくなることになります。つまり、需要曲線というのは、あくまでも需要者間での競争があることを前提に、需要者が他の需要者との競争に負けないような価格を表したものとも言えるわけです。従来のモデルからすれば、そうした競争環境があるからこそ、需要者が支払う価格(均衡価格)が需要曲線に乗るのだろうと思います。しかし、「お賽銭モデル」においては、あくまでも需要者の自由意思によって価格が決定するため、必ずしもその価格が従来の経済学で言うところの需要曲線と重なるとは言えず、それよりは若干、具体的には割安感を得られる程度、下回る位置で、別の曲線を描く必要があるのではないかと考えた次第です(図の例は、文字通り「お賽銭」のように小銭ばかりを投げ入れるような、かなりケチった需要者のイメージです)。

財の価格設定について、ここまで需要者の意思を取り入れた経済モデルは、これまでの競争原理主義的な市場で十分に機能しなかったかもしれません。しかし、実際に長年にわたる神社の運営は、こうしたモデルによって成り立ってきたことは事実です。また通信インフラの発展とともに、需要者と供給者との間に、より直接的なコミュニケーションが可能になったことで、そのモデルが広く市場に受け入れられる素地も整ってきたのではないかと思います(「次時代コンテンツの評価」、「報酬は感謝・感動の証」参照)。

またもうひとつ、ここで注目すべきは、供給者の収入額の分布です。供給者の収入は、図で言うところの緑色に塗りつぶした部分になるわけですが、これが財の出回る数量が多ければ多いほど、大きく伸びていくという点です。現在のインターネットでは、ソフトがネット上に出回るというのは、違法コピーが流通するという意味で、とかくネガティブに捉えられてきました。しかし、「お賽銭モデル」においては、そうしたソフト流通の無限の広がりが、供給者への収入増へと反映されていくわけです。せっかくのインターネットですから、ネガティブな捉え方をするのではなく、よりよい方向にその特性を活かすことができたらと願うばかりです(「大量犯罪者時代への分岐」参照)。

もちろん、価格決定のモデルだけを示したところで、それだけで社会を動かすことはできませんし、今のままの仕組みでは、「お賽銭モデル」を機能させることは不可能です。これを具現化するためには、いくつかの仕組みが必要になります(「インターネットのリアル化」、「携帯電話システムの強み」、「新コンピューターシステム」等参照)。しかし、少なくとも、そうした新しい仕組みが生み出すものによって、市場のあり方は大きく変わってくるでしょうし、また経済学という学術的なフィールドにおいても、いくつか大きな変化が生まれてくるのではないかと思うのでした。

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多世界解釈の不思議

2009年10月08日 | 科学

今日、元々は打合せの予定がありました。しかし私としては、昨日からの台風で、きっと大変なことになるだろうと予想していたので、できれば中止したいと思っており、昨日昼の段階で「台風が大変だし、中止の連絡を入れようかな」等と思ったりもしました。しかし、その時点では、中止必至と言えるほど決定的な状況ではなかったので、ひとまずは打合せを実施するつもりでいました。

ところが昨晩、先方から「ただ今、関西出張中であり、明朝戻る予定のため、台風の影響で打合せに支障が出るかもしれない」という趣旨の連絡があり、これをきっかけに、今日の打合せは中止となり、本日、私は外出をしなくてもよくなりました。

ここでふと思うのです。

-昨日昼の段階で、私が連絡を入れたらどうなっただろうか?-

常識的に考えれば、先方も「関西出張」で都合が悪いため、「ちょうど良かった、中止にしましょう」ということになるのだろうと思われます。しかし私には、そうではないかもしれないという思いがあるのです。

つまり、先方が「関西出張中である」というのは、昨晩、先方からの連絡があった時点で、はじめて確定したのではないかということです。

これはまさに、「シュレディンガーの猫」のような話です。この話の簡単な説明は、他の記事でも書いています(「揺らめく現実世界」参照)が、要は、密閉された箱の中の猫が生きているか、死んでいるかは、箱を開けて確認をした時点で、はじめて確定するということです。そしてまた、その確認をするまで、猫は「生きている状態」と「死んでいる状態」の中で、並行して存在しているというのです。この相反する状態が並行して存在するという事象を、きれいに説明するには、いわゆるパラレルワールドのようなものを認める多世界解釈が必要になるわけですが、これがどうも頭に引っかかるのです。

つまり、「シュレディンガーの猫」の話を「先方の状態」に置き換えて考えると、「先方の状態」は、それが確認できた時点で、はじめて「関西出張中」なのか、「東京にいる」のか、あるいは「休暇中である」のかといったことが決定するのであり、それはその時点での確認作業によってのみ、事実として成立するということです。

これを言い換えると、もし私が、昨日昼の段階で、先方に連絡をしていたら、先方は「関西出張中」ではなく、「東京にいた」かもしれないということでもあります。それは先方が、「関西出張中」であるにも関わらず、「東京にいる」と嘘をついているというような次元の話ではなく、それはその時点において、そう確認できてしまった以上、現実として先方が「東京にいる」ことが確定するということです。そのことによって、私は、先方が「関西出張」には行かない世界に身を置くことになり、今、私がいる世界とは別の世界の中で生きていたかもしれないということでもあります。もしそうだったら、私は今日、打合せに出ていたかもしれません。

非常に奇妙に思われるかもしれませんが、そうした奇妙さそのものが、現代科学の最先端で語られ得る、この世界の曖昧性だということです。

ただし、そうは言っても、私が認識しているのは、「この一つの世界」でしかありません。多世界解釈的な考え方に沿って、いかに「他の世界が無限に存在する」と言われても、私が、この肉体で、世界として認識できるのは、「この一つの世界」でしかないのです。既に、「この一つの世界」に収束してしまっている現時点において、仮に「昨日昼の時点で、私が連絡をしたとしても、先方はやはり関西出張中であった」ということは、否定しようのない事実です。そういう意味で、「他の世界が無限に存在する」というのも真でしょうが、「この一つの世界」しか存在しないというのも、また真であると言わざるを得ません(「「IF」のない世界と運命」参照)。

そんなことを思いつつ、今日はゆっくり台風が過ぎ去るのを待つのでした。

《おまけ》
「涼宮ハルヒの憂鬱」の「エンドレスエイト」は、このあたりの世界観をテーマとして扱っているものだと思います。同作品では、主人公・ハルヒが納得するまで、1万数千回の「夏休み」を延々ループしながら過ごすという設定でしたが、これは私たちの肉体が、「この一つの世界」しか認識できないが故に、作品の中で、延々ループさせるという表現にせざるを得なかったのだろうと思われます。実際には、延々ループするというよりも、1万数千通りの世界が、それぞれ並行して走っているようなかたちで考える方が妥当でしょう。そして、ある時点(同作品で言えば、夏休み終了時点)で、世界は(同作品で言えば、ハルヒが納得するかたちで)一つに収束(他の世界は消失)し、その結果としての世界を、常に私たちは「この一つの世界」を認識しているのだろうということです。あーっ、本当は東京にいたんじゃないのかなぁ(笑)!?

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アキレスとカメの行方

2009年08月17日 | 科学

アキレスとカメという話があります。この話については、以前、仮説の重要性を説明する中で、取り上げています(「「仮説と検証」のすすめ」参照)が、ここではあらためて、アキレスとカメの話に焦点を絞って、整理してみたいと思います。

アキレスとカメというは、以下のような話です。

足の速いアキレスという人と、ノロノロ歩くカメがいます。アキレスは、カメの後ろにいて、前を歩いているカメを追いかけるようなかたちで、同じ方向に進んでいます。この時、これを次のように考えます。

  1. アキレスが、カメがいた場所に辿り着く
  2. アキレスが、カメがいた場所に辿り着いた時、カメはそれよりも前に進んでいる
  3. さらにアキレスが、そのカメのいた場所に辿り着く
  4. アキレスが、カメがいた場所に辿り着いた時、カメはそれよりもさらに前に進んでいる
  5. またさらにアキレスが、そのカメのいた場所に辿り着く・・・

これを繰り返していると、アキレスは永遠にカメに追いつかないことになります。当たり前のことながら、そんなことはあり得ません。では、この問題を解いてみます。

-実際、アキレスはカメに追いつくのではないか?-

もともとのアキレスとカメの話からすると、あり得ない話です。しかし、もともとの話が不自然である以上、それを超える仮説を置いてみるのです。さらにここでは、アキレスはカメの2倍の速度で歩くと仮定して、時間軸について考えてみることにします。

まず、最初の状態は、スタートなのでT(時間)=0とします。そこから、アキレスがカメに追いつくまでの時間を、仮にT=1と考えます。こうすると、T=1までの残り時間の半分で、常にアキレスはカメがいた場所に辿り着くことになります。少々、分かり難いかもしれませんので、それを図示すると以下の通りとなります。

直感的に分かっていただけるかも分かりませんが、この「T」の小数点以下の桁数は、どんどんと長くなっていきます。そして、同時に「1」に近づいていきます。それは下に示すとおりです。

============
T=0.500000000000
T=0.750000000000
T=0.875000000000
T=0.937500000000
T=0.968750000000
T=0.984375000000
T=0.992187500000
T=0.996093750000
T=0.998046875000
T=0.999023437500
T=0.999511718750
T=0.999755859375
============

この数字は、延々と長くなり続けるのですが、よく見れば、結局、「T=1」までの差分を、細かく切っているだけなのです。従って、この計算を繰り返す限り、このT値は限りなく「1」に近づいていきながらも、けっして「1」にはなり得ないということになります。このことが、この話において「アキレスは永遠にカメに辿り着けない」という論拠になるのです。

この問題を考えるにあたって面白いことは、計算能力を高めることが、問題の本質的な解答に結びつかないということです。いくら計算能力を高めても、所詮、計算できる桁数が増えるだけで、それが指し示すところは、「アキレスはカメに追いつかない」ということに変わりないというところがポイントです。

このように出口が見えない問題があるときには、それを超える仮説を置くということが、極めて重要です。上記の例で言えば、「アキレスはカメに追いつく」、「T=1は存在する」という仮説を立てることが、この問題の本質的な解決のための鍵になるということです。ただし、この解決によって、「アキレスがカメに追いつかない」という、もともとのアキレスとカメの話が、全て否定されるわけではありません。もともとのアキレスとカメの話は、単に「T<1の世界」における論理であり、それがこの話の論理的限界であるという解釈が、最も的を射ているように考えます。そして、実際には「T≧1」の世界が存在するのであり、それを認められる仮説を立てられたとき、アキレスは優にカメを抜き去っていくという、もともとのアキレスとカメの話ではあり得なかった現象が明らかになるわけです。

こうした問題は、アインシュタインを始めとする科学の話にも通じるものがあると考えます。即ち、近年、アインシュタインの論理に不備があるとし、それを否定するような論調のものも散見されるのですが、それはアインシュタインが考える世界観(T<1の世界)における限界があるだけで、それが全否定されるようなものでもないだろうということです(「優等生なアインシュタイン」参照)。

アインシュタインが持つ世界観(T<1の世界)や論理には限界があり、それを超える世界(T≧1の世界)が存在することを仮説として置き、その検証が進んでいけば、科学はさらに飛躍的な進歩を遂げるようになるのでしょう。仮説を置き、それを検証していくことの繰り返しこそが、科学の最先端で行われていることである以上、まだ残されている世界の多くの謎は、科学によって、いずれきちんと解明されていくのだろうと思います。

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優等生なアインシュタイン

2009年06月21日 | 科学

アインシュタインの相対性理論については、いろいろな書籍が出ていますが、その中には、それを否定するような論調のものも数多くあるようです。各論は置いておくとして、私はそうした見方を否定することはいたしません。アインシュタインの理論には、やはりどうしても腑に落ちない点があることは確かです。しかし、そうかと言って、アインシュタインの理論が、絶対に間違っていると言うつもりもありません。

むしろ私は、アインシュタインの理論に限界があるのだろうと考えています。それは合っているとか間違っているとかいう議論よりも、この世界をキレイに見たいと願うアインシュタインのこだわりのような観点から、捉えた方がいいように思うのです。彼は科学者として、この世界の仕組みについて「曖昧模糊」なものはなく、何事においても「白黒はっきりさせる」ことを願ったのではないかと思えてなりません。しかし実際の世界は、そんなにキレイに説明できるようなものではなく、極めて曖昧で、いい加減な要素に満ち溢れており、とてもアインシュタインが「そう見たい」と願うようなものではないらしいということです。

量子論において、物質は必ずしも「きまってその場所にある」のではなく、観測してはじめて「その場所にある」と言える状態になるといいます。量子論については、多数の書籍が出ているので、詳述はしませんが、あるミクロの物質が存在するときに、それは観測されない限り、「ここにもあると言えるし、あそこにもあると言える」というのが、ミクロの世界の理だとされています。これは「観測していないから、ここにあるのか、あそこにあるのか分からない」ということではないというところがポイントです。「光は粒であると同時に波である」という言葉は、聞いたことがあるかもしれませんが、ミクロの世界の物質は、粒のように一点で観測できるようなものであると同時に、観測していないときには、揺らめく波のような性質を持っており、それは「ここにもあると言えるし、あそこにもあると言える」ということなのです(「揺らめく現実世界」参照)。このように考えるといろいろと難しい問題が出てきます。

ひとつ簡単な例を挙げましょう。ここにひとつの箱があり、そのなかにひとつのミクロの物質を入れるとします。箱に入れるとき、そのミクロの物質は確認されているので、それはひとつの粒子のかたちをしています。この箱のふたを閉じると、そのミクロの物質は「ここにもあると言えるし、あそこにもあると言える」という波のような状態となり、箱のどこにでも存在をするようなかたちになります。次に、この箱を閉じた状態のまま、真ん中で二つに割ります。二つに割られた箱のふたを開けたとき、そのミクロの物質は、どうなっているのかというのが問題です。

箱に入れられたミクロの物質は、それ以上、割ることができないだけの「ミクロな存在」であるため、二つの箱に割られて存在するということはありません。もちろん、両方の箱に入っている(総量として2倍になる)ということもないので、どちらか一方の箱にしか入らないということになります。このように、どちらか一方の箱で、ミクロの物質が確認されるということについて、「確率」をもって解釈するという考え方があります。つまり、右の箱で確認される確率、左の箱で確認される確率が、それぞれ50%であるということです。

少々、乱暴かもしれませんが、言い方を変えるならば、「未来は分からなくて当たり前。確率論的に考えざるを得ない」というのが、こうした思考実験から導き出されるひとつの結論なわけです。こんな出たとこ勝負のような考え方に対して、アインシュタインは、強く反対の立場をとっていたようです。私は、彼が科学者として、このような立場をとったのは、より決定論的に世界を解き明かしたいと考えていた彼の信条故ではないかと思えてなりません。

ところで、こうした問題については、他にも多くの枝分かれした世界があることを認め、多世界解釈を用いてしまえば、とてもスムーズに説明がつくことになります。そして私自身は、たまたま(無数の他世界があるなかで)この世界が、あまりにもキレイにできてしまっているが故に、そうした多世界解釈を受け入れることが難しい状況にあるだけで、本質的には、そうした論理にこそ、真理があると思っています(「妄想と現実の狭間」参照)。つまり、上記の例で言えば、世界は、ミクロの物質が右の箱で確認される世界、左の箱で確認される世界の二つに分かれるようにできているということです。

しかし、アインシュタインには、そうした多世界解釈を行うだけの「型破り」な思考はなかったのでしょう。その点においては、彼の限界(あるいは、その時代の限界)があったと言うことができるのではないかと思います。これを換言するならば、彼は現代における「優等生」的存在ではないかということです。これは良いも悪いもなく、ある意味では、科学の世界において、その時代で守るべきものを守る存在であったということなのでしょう。

ただ、ここでひとつ重大なことを付け加えなければならず、それは、彼が最初から「優等生」的存在ではなかったであろうということです。当時の科学の世界で、彼は奇抜とも言える論理を繰り広げ、それはとても現代のような「優等生」のイメージとは、だいぶかけ離れた振舞いであったと思われます。それが時代の変遷とともに、現代のような彼の評価につながっていったであろうことは、けっして忘れてはなりません。

そういう意味で、アインシュタインのような人物が、「優等生」的存在になるような現代において、多少奇抜に思われるとしても、それを乗り越えるような新しい論理が、どんどんと出てくるのは、とても自然のことではないかと思います。

歴史上の偉人たちは、いつの時代においても変わらぬ偉人ながら、いつまでも彼らの偉業にすがりつかなければならないほど、現代を生きている私たちの存在意義は薄くないと思うのです(「歴史上の誰よりも偉い人」参照)。

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揺らめく現実世界

2009年05月01日 | 科学

物事を限りなくマクロに捉えていくと、宇宙の果て、あるいは宇宙の外側の世界がどうなっているのかということについて、考えていかなければならなくなります。これは、大変厄介な問題ですが、現在、科学で解明されている事柄から、それらしい何かしらの仮説は置くことができるようになってきたように思います。私自身は、この宇宙の外側にある、また別の無数の宇宙の存在を積極的に認めること(そして、それらはある種のトンネルで繋がっていると仮定する)で、現代の科学において、謎とされている事象の多くが説明できるようになるのではないかと考えます(「宇宙が膨張を続けるカラクリ」参照)。

一方で、物事を限りなくミクロに捉えていくと、これもまた非常に不思議な問題が続出してきます。こうした問題を扱う量子論のなかでは、一般的に科学で語られる言葉とは思えない話が出てきます。

量子論において、電子のようなミクロの物質は、私たちが観察しているときには、それがどこにあるかを特定できる一方、私たちが見ていない限り、「どこか一箇所にいる」のではなく、「ここにいるとも言えるが、あそこにいるとも言える」状態になっているといいます。こうしたことは、量子論において、ミクロの物質が「粒であると同時に波である」と表現することにも繋がりますが、要は、こうした物質が、常に揺らいでいるような、非常に曖昧模糊な存在であるということなのです。

量子論に関する書籍は、数多く出版されているはずなので、ご関心のある方は、そうした書籍なり、雑誌なりをご一読いただければと思います。そのなかで、私が指摘しておきたいポイントは、そうした非常に曖昧模糊としたミクロの世界が、現実世界の一部であるということです。

「シュレディンガーの猫」という思考実験があります。この概要は、箱のなかに①放射性物質、②放射線検出器、③毒ガス発生装置、④生きた猫を入れて、一時間後の猫の生死を確認するというものです。仕掛けとしては、①で放射線が発生すれば、②の放射線検出器が反応し、それに応じて③の毒ガス発生装置にスイッチが入り、④の猫が死んでしまうというものです。量子論の問題としては、「放射性物質が一時間後に原子核崩壊を起こしているかどうかは、放射性物質を誰も見ていないときには決まっていない」というところがポイントです。このことから、私たちが見ていないとき、箱のなかの猫は「生きているとも言えるが、死んでいるとも言える」状態にあるということになるのです。

こうなってくると、科学というよりは、ほとんど禅問答のような言葉に聞こえるのではないかと思います。「猫が生きているか、死んでいるかは、それを見る貴方次第」と言われんばかりの話です。

この実験において大切なことは、こうしたミクロの不思議なルールが、通常私たちが視認している現実世界と完全に切り離すことはできないであろうということです。その一例が、この「シュレディンガーの猫」なのであり、私たちの日常は、こうした不思議なルールの影響を大きく受けながら、成り立っているであろうということを考慮しなければならないと思います。つまりそれは、私たちが見ることによって、曖昧模糊な物質の状態が定まるというミクロの世界における法則は、実はマクロの事象においても、ある側面で十分に通じ得るのではないかということです(「「特殊な存在」という自任」参照)。

ところで、こうしたミクロの世界における不思議な現象について、非常に有効な解釈論として、パラレルワールドのような「多世界を認める」というものがあります。この多世界解釈によれば、世界は可能性の分だけ枝分かれしていくということになるようです。つまり、前述の「シュレディンガーの猫」の例で言えば、「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」の二つが並行して存在するということです。

この多世界解釈においては、一度枝分かれした世界同士が再び出会い重なり合うこともあるというのですが、このあたりも非常に興味深いと思います。私自身、このことは、冒頭に記したマクロの世界において考えるべき、「別の無数の宇宙」の話にも通じるものがあると考えています。つまり、別々に存在しているように見える無数の宇宙(あるいは世界)は、実は時間の経過とともに分かれたり、合わさったりしており、けっして完全に独立した閉鎖環境にはないということです。これをマクロの世界で考えるならば、それらを結ぶトンネルとしてのブラックホール(あるいはホワイトホール)の存在が、鍵を握ることになるでしょう。私自身、このあたりの考え方において、アインシュタインの理論には、限界があるのではないかと思っています。

また少々余談ですが、人間が思い描くイメージのうち、妄想というのは、別宇宙の形成に何かしらの影響を及ぼしているように思います。つまり妄想は、ひとつの可能性をイメージしているものであり、量子論の多世界解釈に基づいて、その可能性で枝分かれしたパラレルワールドが存在するとするならば、その妄想によって別宇宙を形成しているとも言えるわけです。このように考えていくと、アニメの世界もそんなにバカにはできないのではないかと思うのです(「妄想と現実の狭間」参照)。そして、もっと踏み込んで言うならば、人間の精神は、この宇宙の形成に深く関わっている可能性があると思います(「創造主の正体」参照)。

ただ、ここでは妄想について、もう少し解釈を加えます。例えば「決死の覚悟」というのも、なかなか面白いものです。このブログでも、繰り返して述べている通り、本当に大切なものを拾いたければ、それを捨てる勇気を持つことも大切です(「欲するものへの心持ち」参照)。つまり命を拾いたければ、「決死の覚悟」が必要なわけですが、それは言い換えると、自分が死ぬという「死の妄想」でもあります。「死の妄想」は、自分が死ぬというひとつの可能性を強力にイメージすることであり、これは自分が死ぬ「別宇宙の形成」にも繋がると考えることができます。しかし、実際にその別宇宙が形成されたとしても、その別宇宙においては、自分が死んでしまうため、結果として、そうした別宇宙に存在する自分はいなくなり、それとは引き換えに、「死の妄想」をしたこの宇宙における自分が強く生きることに繋がると言えるわけです。このときの「別宇宙に存在する自分がいなくなる」ということは、別の言い方をすれば、雑念や迷いを滅することだと言えるでしょう。

逆に、別宇宙にいる自分の存在を許しているということは、迷ったり、後悔したりする状態にあるということであり、他の可能性を引きずっていることだろうと考えられます。このうち、過去における他の可能性を引きずるということが、後悔するということでしょう。だからこそ、強く生きたければ、過去を受け止め、後悔の念を消し去ることが肝要なのです。なぜならば、そうすることで別宇宙に存在する自分を打ち消し、この宇宙における自分の存在を高めることができると思われるからです(「時間との付き合い方」参照)。

いずれにせよ、私たちが住む現実世界などというのは、とてもいい加減にできている可能性があるということです。語弊があるかもしれませんが、だからこそ「この宇宙は自分のもの(自分は別宇宙に存在しない)」と言い切った者勝ちなのだとも思うのです(「「自分教」の薦め」参照)。

そして最も大切なことは、そう言い切れるために、迷いや雑念を拭い去り、自分自身を磨き続けることだろうと考えます。

《おまけ》
何かとアニメの話に結び付けたくなるのですが、「決死の覚悟」の話で言えば、「黒神」のなかに登場する「マスタールート」には、誰でもなれるということです。つまり別宇宙に存在する自分、言い換えれば雑念や迷いに毒された「サブ」を殺して、その「テラ」を吸収することで、自分が「マスタールート」となり、この宇宙で力強く生きていくことが可能になるということです。

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妄想と現実の狭間

2008年11月12日 | 科学

アニメの世界から何を読み取るかは、その人の感性によるということに異論の余地はないと思います。要は、その人次第ということです(「アニメ楽しんでる?」参照)。「他愛もない馬鹿げた妄想」、「くだらない幻想の世界」と切り捨てるのも結構でしょう。ただ、せっかくのストーリーを単なる「妄想」と切り捨てるのは、もったいないような気がします。

現在、私が毎週視聴している「カオスヘッド」という作品は、そうした「妄想」をテーマにしており、主人公の拓巳は自らの「妄想」と現実世界とが混同してしまい、常に混乱した状態のなかで生きています。通常、あり得ない「妄想」が現実になっていたり、それがまた元に戻ったりということは、この世界ではなかなかあり得ません。しかし、それを単にあり得ないことと切り捨てるのも、少々危険ではないかと思うのです。

既に、本ブログのなかで、何度も述べている通り、この3次元世界だけが、唯一絶対の世界であると考える必要はないと思います。これは単なる「妄想」ではなく、証明されているかは別にして、既に科学の分野でも論じられていることであり、これを切り捨てることはできないでしょう(これを否定しきる科学者がいるとしたら、そもそも科学が未知を探求する道であること、科学がその連続で成り立ってきたという歴史を忘れた三流科学者ということになるかもしれません)。つまり、別の3次元世界が無数に存在しており、そこには同じように、私やあなたが存在しているかもしれないということです(「アイディアの重要性」参照)。

こう考えたときのひとつの可能性ですが、私たちが認識している、この3次元世界において、「妄想」が単なる「妄想」たり得るのは、4次元など高次元世界からの干渉が、たまたま一般的に認められるほど、頻繁に起こっていないからだと考えられます。つまり、この3次元世界は、ほぼ閉じられたまま、非常にきれいな状態で存在しており、そのなかで起こっているほとんどの現象について、3次元の法則だけで説明できるような状態にあるということです。

しかし、この3次元世界がほぼ閉じられていて、きれいな状態にあるからといって、他に存在するであろう大多数の3次元世界も、全く同じであるとは言い切れないはずです。

ひとつ次元を下げてイメージしてみます。

私たちが認知している3次元世界から見て、2次元世界は無数に存在します。画用紙を一枚持ってくれば、そこにひとつの2次元世界が存在すると言えるわけです。これが曲げられたり、折られたり、他の画用紙と重ねられたり(他の画用紙と重ねることで、他の2次元世界からの干渉や統合と解釈し得るため)されないまま、きれいな状態できちんと保管されていれば、それはずっと「きれいな2次元世界」として存在し続けることができ、またその世界における事象は、すべて2次元の法則のみで説明できるということになります。

しかし実際には、そういう「きれいな画用紙(きれいな2次元世界)」ばかりではありません。折られる、曲げられる、他の画用紙と重なり合うなどはもちろんのこと、破られたり、燃やされたりという3次元的な処理(3次元世界での処理)を通じて、画用紙(2次元世界)はさまざまなかたちに化けるのです。これらは「きれいな画用紙」、「きれいな2次元世界」からすると、ほとんど経験したこともない、理解をはるかに超えた現象です。けれども、他の大多数の画用紙(2次元世界)からすると、そうした3次元的な処理は、常に当たり前のように認められる現象である可能性があるのです。

これを、元の次元に戻して整理します。

私たちが認知している3次元世界では、ほとんど4次元的な不思議な現象が起こっていないと言えます。多少、テレパシーとか超能力、心霊現象、ポルターガイスト現象といった、オカルトがかった話もありますが、それらは一般的に認められているとは言えず、聞いたことがある「不思議な現象」といったところでしょう。これを4次元的現象と呼ぶならば、そうした4次元的現象は、私たちが認知している3次元世界では、ほとんど起こっておらず、私たちの世界は、いわば「きれいな3次元世界」であると言えるということです(ただしこのことは、この3次元世界が、完全に閉じた「きれいな3次元世界」であるということを意味するものではありません。実際には、この3次元世界と他の3次元世界は、ブラックホールのようなトンネルを通じて、繋がっていると考える必要があり、完璧なる「きれいな3次元世界」ではないと思います。詳細については、「宇宙が膨張を続けるカラクリ」を参照)。

しかし、他にも無数の3次元世界が存在するという場合、私たちが考えているように「きれいな3次元世界」の状態を保っているのは、むしろ極めて少数で、他の大多数の3次元世界においては、4次元的現象が頻発しているといことも、十分に考えられるということです。つまり、私たちの世界の外には、「不思議な現象」に満ち満ちた別の3次元世界が、無数に存在し得るということなのです。

こうした世界が存在すると仮定した場合、それは「妄想」と現実が混同してしまうような世界かもしれません。「妄想」のはずだったものが現実となり、現実と思っていたものが「妄想」として処理される、まさにカオスのような世界です。

冒頭のアニメ「カオスヘッド」という作品は、そうした世界を描いており、これは私たちが認知している3次元世界の外側にある、別の3次元世界の姿、あるいはその可能性を示唆するものとして、非常に興味深いと思うのです。そしてまた、このことは、4次元世界における精神世界と物質世界の関係という観点からも、非常に大きなヒントを与えてくれているように思います。

それはさておき、他の3次元世界がどうであれ、私たちが認知している世界においては、やはり「妄想」は、所詮「妄想」でしかないと言うこともできると思います。「妄想」と現実が混同してしまい、例えば、現実が「妄想」化するということはありません。ただし、「妄想」が、現実と結びつくという現象を否定することもできないでしょう。そして、そのときの「妄想」という概念は、「夢」、「ビジョン」、「希望」という言葉に置き換えて、表現できるのではないかと思うのです。

「妄想」、大いに結構なことだと思います。健全なる「妄想」は、この世界を前に進めていく原動力になるはずです。

《おまけ》
「カオスヘッド」というアニメは、まだ5話程度しか進んでいないのですが、その短いなかでも、なかなか興味深い台詞が並んだりします。以下がその例です。本当は注釈を加えながら説明したいのですが、分量の問題もあるため、ひとまず引用だけに留めておきます。世界の本質を見極めるうえで、参考になる言葉がいくつも秘められているように思います。

■セナの台詞
完璧な世界があると思うか?あるはずはない。エラーはたしかに存在する。すべてのものは、人も含めて電気仕掛けだからな。何を見ているかじゃない。何を見せられているかだ。人は体の外からの情報を五感によって得ているが、その受け取る情報の80%は視覚から入ってくるんだ。そして視覚から得られた情報は、パルス信号となって視神経を通って、脳に送られる。(中略)そして、ある意図的な情報を神経パルスへコンバートすることが可能なら、人の五感すべて、さらに人の意思そのものをコントロールできるんじゃないか?さっき言ったように、人は電気仕掛けだ。脳だけじゃなく、全身の神経にも電気が通っている。つまり肉体的な動きまで操れるということになるんだ。理論的にはな。(中略)この世の中は、腐った連中ばかりだ。倫理を無視して、自分の利益のためだけに、他者を平気で犠牲にするような連中がいる。もはや涙も出ない。無知は罪だ。知らない方が幸せなこともあるという人間もいるが、そんなものは、ただの甘えだ。世界を疑え。仕組みを知れ。この世界は完璧じゃない。

■あやせの台詞
それなら、それはきっと導きなのよ。大いなる存在によるね。(中略)君が見たものが事実だったか、幻だったかは些細な事。君が抱いている苦しみや怒りは、必要なものだったということよ。だから早く見つけて。剣を見つけて。(中略)この剣は命運を握るもの。この剣は嘆きを収束させたもの。この剣は超越した場所に干渉するためのもの。(中略)異空間のようなもの。同一次元上にあるもうひとつの可能性。あるいは妄想。(中略)言い方にあまり意味はないわ。唯一確かなのは、この剣もその領域に存在しているということ。(中略)見つけなくちゃいけない、自分自身で。方法なんて、私たちにも分からないのよ。ただ、ディソードは力を持つ者にしか映らない。君には、私の剣が見えているでしょう?それが意味するのは一つだけ。感じて。世界の選択した意思を。

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UFOは存在する

2008年07月05日 | 科学

「UFOは存在する」などと言うと、眉をひそめる人も多いかもしれません。UFOとは、言うまでもなく「未確認飛行物体」のことです。

先日、イギリスの国防省がUFOの本格調査に乗り出すという報道を耳にしました。イギリスでは、過去何度かUFOについての調査報告がなされているようです。インターネットで検索をすると、「イギリス国防省がUFOの存在を否定」といった記事を見かけます。その論拠としては、「地球外生命の存在を裏付ける証拠」はなく、「UFO目撃は自然現象による錯覚」であるということのようなのですが、目撃情報が後を絶たず、「自然現象による錯覚」だけでは説明できない事例もあるようです。

私は、こうした事情から、UFOは存在すると思います。ただし、ここで言う「UFOは存在する」というのは、そうした飛行物体が実際に存在するという意味ではありません。少なくとも「確認されていないものがある」という意味において、未確認飛行物体たるUFOは存在すると言えると思うのです。

そもそも、「地球外生命の存在を裏付ける証拠がない」=「UFOの存在否定」というロジックが、決定的に間違っている可能性があると思います。もし、未確認飛行物体たるUFOを否定するのであれば、「地球外生命が存在しないことを裏付ける証拠」が必要になります。報道にあるように「存在を裏付ける証拠がない」ということは、「存在を確認できない」ということに過ぎず、説明不能な目撃情報がある以上、結局は「未確認である」ということです。

ただし、「確認できていない」=「存在しない」と決めつけるのも、個々人の自由であろうと思います。当たり前のことながら、人は自らが信じるものしか信じませんので、「確認できていない以上、それは存在しないと考える」という信念を変えることはできません。しかし、そうした個々人の自由とは別に、「UFOの存在を確認できていない」=「UFOは存在するかもしれない」と考える人々を嘲笑したり、非難したりする態度や行為には、まったく違った意味での責任が生じてくることには注意が必要です。つまり、もしそのような態度で臨む場合、自分にはけっして誤りがあってはらならないし、その人にはそれだけの自信と責任が求められるだけでなく、万が一、自分が間違っていた場合には、それに対して、きちんとしたケジメが求められるということです。

一方で「UFOは存在する」と言うと、その科学的根拠を求める立場もあろうかと思います。しかし、そうした「科学的根拠」という言葉を盾にとって、あたかも「科学」という御旗があるかのように振舞うことにも注意が必要です。

何故ならば、科学というのは、常に未知との戦いのうえで築き上げられてきたものだからです。

未知だったものを明らかにし、それを体系化させた学問として整理して、学生たちに教えていくことも、科学者のひとつの役割だろうと思います。それは既知を整理して、後進に伝えていくという仕事です。しかし、科学者の仕事は、それだけではありません。最先端を探求していく真の科学者は、常に未知と向き合い、それと格闘していかなければならないのです。したがって、「UFOは存在する」という科学的根拠を求めるだけの人々というのは、科学の本質を半分忘れている可能性があるわけです。「確認できていない」=「存在するかもしれない」というロジックが科学的ではないと嘲笑したり、非難したりする行為は、過去において、未知との格闘をしてきた偉大なる科学者たちの功績にあぐらをかき、単に科学の「既知の整理」という部分のみを理解しているだけで、「未知との格闘」という側面を見落としている可能性があるという点は、大変重要です。

ただ、そうは言っても「UFOは存在する」と主張する方々の議論のなかに、大きな問題があるのも事実でしょう。私が言う「UFOは存在する」という議論は、本質的にそうした方々の主張とは、異なっているかもしれません。それらを勘案して、何が真実であるかを見極めるということは、大変難しい作業であると思います。

何が真実であるかは、まだ分かりません。しかし、私としては、そろそろ「UFOは存在するか、しないか」という議論ではなく、むしろ「UFOとは何か」という話に論点が移っても良いのではないかとも思っています。この問題は、もう少し見守っていきましょう。

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予測不能なカオス社会

2008年03月16日 | 科学

カオスという言葉を聞いたことがあると思います。カオスは、混沌や無秩序という意味で使われていますが、単にそれだけではないという考え方があります。それがカオス理論と呼ばれるもので、不規則で非常に複雑に見えるカオスでも、簡単な方程式で書き表せるほど一定の規則性があるとされるものです。私は、こうした考え方には正しい側面があると思っています。また、そのような前提で、その簡単な方程式で表せるような規則性に従い、この世界の未来を予見することはできるのではないかと考えます。

カオスは、複雑系という言葉で表現されたりもしますが、一般に複雑系と呼ばれる社会を予見することは、非常に難しく、事実上不可能であると考えられています。複雑系の概念を説明するたとえとして、「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる」という話があります。これはごく小さな初期入力値が、予想もつかないような、とんでもなく大きな結果を引き起こす、あるいは影響を及ぼすということを指しており、世界はそれほど非常に複雑であり、とても予見することなど不可能であるという意味だと解釈すればよいと思います。日本的な言い方をするならば、「春風が吹くと桶屋が儲かる」といったところでしょうか。

この複雑系で厄介なことは、常に無数の要因が存在するという点です。そしてまた、それらの要因すべてが、複雑系の一部として存在し、機能するため、相互に無限の干渉を引き起こしてしまい、それぞれどのように振舞うかが、まったく予測できないのです。

「ジュラシックパーク」という映画で、ひとりの科学者がカオスを説明するシーンがあります。そこで描かれたカオスは、ひとしずくの水滴を手に垂らすと、垂らされた水が、手の上でどのように振舞うかが、まったく予測できないというものでした。これは、まったく同じ条件で、「水を垂らす」ということができないためであると考えればいいでしょう。一見同じようにみえる「水を垂らす」という現象が、目の前で繰り返し起こっているとしても、非常にミクロにみていけば、垂らす位置(極めて微妙な手の震え等)、垂らされた水の量(分子レベルでの量)、水滴が落ちるまでの空気の状態(非常に僅かな空気の流れ等)、水滴が落ちるときのかたち(前者3つの要因の影響で微妙に変化することで変わる)、水滴が落ちる位置(前者4つの要因の影響や、水滴が落ちる人の手の極めて微妙な手の震え等)といったことが、毎回変わっており、結果として手に落ちた水滴がいろいろな動き方をするのです。このように、極めて様々な要因が、互いに影響しあっており、どのように変化するのか分からないため、「予測不可能」とするのがカオス・複雑系の考え方だと捉えればよいと思います。

こうしたことは、あらゆることに通じる考え方ではないかと思います。天気予報、競馬の予想、優勝チームの予想、事業計画の予測、日本経済の見通し、世界情勢の展望・・・。事の大小に関わらず、何かを予想・予測するためには、非常に多くの要因について、分析をしなければならないはずです。そしてまた、それらの予想・予測をする際の要因は、とりあえず「こうであろう」という前提条件を置いているだけであり、その要因自体が、予想・予測に使われていない別の要因(外的要因)によって、変化してしまう可能性は常にあると考えなければなりません。実際に、そうした外的要因の影響を受けて、予想・予測の計算を外れて、変化をしてしまうのが現実でしょう。

前述の「水滴」の例で言えば、最初の「水を垂らす位置」については、水を垂らす人の手の微妙な震えが影響するわけであり、それはその人のそのときの体調や心理状況によっても異なってきます。人間の体調のみならず、心理状況にまで影響を及ぼす要因まで洗い出そうとしたら、それはとても大変なことです。例えば、水滴を落とすその人の微妙な手の震えに、心的ストレスが働いていたとしたら、それは仕事の関係か?友人とのトラブルか?家族の問題か?仕事だとして、どんな仕事でどんな問題なのか。友人だとして、いつからの付き合いで、どんなトラブルになってしまったのか。家族だとして、親との問題なのか、子供との問題なのか、そもそも家族構成はどうなっているのか・・・。もはやその人を取り巻く環境すべてを考慮しなければならず、これらはとても特定できるようなものではありません。結局、予測・予想をするときには、それらの要因は外的要因として計算に入れずに、考えるようにするわけです。

このように整理すると、カオスの中身を計算するということが、きわめて難しく、一般的に予測不能とされることの意味が、分かってくるのではないかと思います。そして私自身は、こうしたカオスの中身を計算するということの限界を感じているが故に、敢えて計算をしない方がいいのではないかと考えています。カオスの中身を計算し、様々な予想や予測をされておられる方々の行為を否定するわけではありませんが、それらは、常に上記のような限界があるという意味において、別の視点も必要であろうと思うのです(カオス社会をどのように解いていくべきかについては、「カオス世界の読み取り方」を参照)。

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宇宙が膨張を続けるカラクリ

2008年01月22日 | 科学

宇宙に関しては、分からないことだらけです。宇宙の起源を説明するものとしては、有名なビッグバン理論というものがあります。しかし単純なビッグバン理論では、現在観測されている「宇宙の膨張」という事象をうまく説明できないため、ダークエネルギーやダークマター(要はよく分からないもの)の存在を仮説に置いたインフレーション理論というものが生み出されました。しかし、たとえ新しい理論をもって、目の前の事象を説明しようとしたとしても、結局のところダークエネルギーやダークマターといった、よく分からないものを引き合いに出さざるを得ないのであっては、それら一連の説明はほとんど意味を成さず、「要は分かりません」と言っているに等しくなってしまいます。

こうした未知の分野については、大胆な仮説の設定が必要です(但し、そうかといって何の根拠もなく仮説を置くわけではありません)。以下、宇宙の膨張に関する私の仮説を述べておきます。

私は現在の科学が説明に窮している「宇宙の膨張(時空の拡大)」については、ブラックホールの存在を通じて、説明できるようになるのではないかと考えています。

宇宙を考えるときには、通常私たちが認知しているような3次元空間だけでなく、より高次元の世界が存在するらしいということを考慮すべきであることは、現代科学の分野でもかなり広く論じられるようになってきているように思います。そして、そのような高次元世界が存在するとなると、私たちが認知している「この3次元空間」、あるいは「この宇宙」以外にも、まったく同じような3次元空間(宇宙)が無数にあるという仮説が成立し得ます。ただし、それら無数の宇宙は、完全に独立して存在しているわけではなく、トンネルのようなものでつながっており、その通り道の入り口が、まさにブラックホールであると仮定します。

その場合、私たちが存在している「この宇宙」で観測されているブラックホールの向こう側には、またもうひとつの別の宇宙があると考えられるわけです。逆の言い方をすれば、向こう側の宇宙にあるブラックホールは、私たちが住んでいる「この宇宙」に繋がっているわけで、その意味で、我々が住んでいる「この宇宙」自体が、向こう側の宇宙からみたときにはブラックホールの先にある出口となります。

ここで、「宇宙の膨張」に話を戻します。「この宇宙」が膨張しているのは、別の3次元世界(別の宇宙)にあるブラックホールで吸い込まれたエネルギーや質量が、「この宇宙」へ流れ込んでいるからであると考えてはどうかと思います。そして、「この宇宙」につながっている、そのブラックホールの出口では、説明がつかないエネルギー・質量の増大が観測されます。別の3次元空間からのエネルギーや質量の流入は、「この宇宙」以外の宇宙を認知できない、あるいは認めない限りにおいて謎として捉えるほかなく、ただ説明がつかないエネルギー・質量の増大という事実のみが存在することになってしまい、謎に包まれた「宇宙の膨張」が観測されるということになるわけです。

一方で、ブラックホール(入り口)がある側の3次元世界からみると、ブラックホールにエネルギーや質量を吸い込まれたかたちになります。そこでは、言うまでもなくエネルギー・質量の消失が起こっています。このように考えると、たまたま「この宇宙」では、エネルギー・質量が増大を続けており、「宇宙の膨張」が観測されていますが、無数にある宇宙のうち、逆に「宇宙の収縮」が起こっていることがあると考えるべきでしょう。それらのうち、限りなく収縮に向かっている宇宙では、宇宙全体がブラックホールに飲み込まれている状態に陥っているはずです。

もちろん、「この宇宙」にもブラックホールが存在するため、部分的にはそのようなエネルギーや質量の消失は起こっています。ただし、失うエネルギーや質量があっても、それ以上に他宇宙から流入してくるエネルギーや質量が多ければ、「この宇宙」全体としてのエネルギー・質量は増大するわけであり、結果として宇宙は膨張を続けるということになるわけです。

余談ですが、さらに仮説を展開すると、これらの無数にある宇宙が、それぞれ収縮と膨張を進めていく結果、それらの宇宙はいずれひとつに統合されていくことになると考えられるのではないかと思っています。そして、そこからさらに展開を続けると、そこには人間の精神世界も大きく関与するのではないかとも考えています。

この仮説にまで踏み込むと、これまでの科学的なニュアンスの話から、若干宗教的なイメージを含む話になってくるかと思いますので、その中身の説明については、また機会をあらためたいと思います。しかし最近では、「神と科学は共存できるか」といったテーマについて、最先端の科学者が論じるようになりました(おそらく、以前から言われていたのでしょうが、いわゆるキリスト教のような特定の宗教の影響を受けないかたちで本格的に論じられているのは、最近のことだと思います)。宗教と科学のそれぞれに限界を迎えつつある時代にあって、私は科学者が宗教の分野について、あるいは宗教家が科学について論じていくことは、大変重要なことだと思いますし、そうした両者の融合は、今後不可欠になってくるのではないかと考えています。

いずれにせよ、現代科学において、「宇宙の膨張」のような大変難解なテーマについて、様々な実験や観測を進めていくにあたっては、以上のような大胆な仮説を持って、検証をしてみてははどうかと思います。

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アイディアの重要性

2007年11月23日 | 科学

あなたは、以下の文章を読んで、どのように感じるでしょうか。
==============================
私たちが存在している物質世界はひとつとは限らない。この物質世界に住まう私たちは、この物質世界を唯一の世界と認知しているが、他にも同じような物質世界が存在する。宇宙は、どこまでも限りない空間として存在しているようにみえるが、実はそれには限界があって、宇宙のさらに外側(この場合、単純な3次元的概念での外側ではない)には、別の無数の宇宙が存在する。そのうちのひとつは、私たちが知っている宇宙とほとんど同じで、銀河系も太陽系も地球もあって何もかもが一緒なのに、今日、あなたの昼ごはんがラーメンではなく、カレーライスであったというところだけが違う。
==============================
突拍子もない、単なる空想だと頭ごなしに否定できるでしょうか。

たしかに上の文章は、科学者でも何でもない素人の私が書いたものであり、頭ごなしに否定したくなる心情は理解します(「「創造主」の正体」参照)。しかし、実はこうした考え方そのものは最先端の分野を研究している科学者が言っていることなのです(アレックス・ビレンケン(2007)『多世界宇宙の探検 』日経BP社)。科学はこの世界で起こっている様々な事象について、論理的に説明するのには大変便利で、また高い説得力をもつため、多くの人々がこれを支持します。

けれども、実際の科学では未だ解けない謎ばかり(「万能でない科学」参照)で、その最先端で起こっていることは、新しいアイディアに基づいた仮説の設定とその検証作業の連続なのです。アインシュタインといえば、誰でも知っている大変優れた科学者ですが、彼が他の科学者と違ったのは、最先端の論理にたどり着くまでの仮説であり、その仮説を設定するためのアイディアであったとも言えます。そして、そのアイディアというのは、その時点での科学的見地からすると、突拍子もないことになります。この点が、非常に重要です(「「仮説と検証」のすすめ」、「限りなく想像し、創造せよ」参照)。

私がここに書いていることは、突拍子もないことばかりかもしれません。そのなかの一部は、今の科学あるいは宗教の考え方から大きく逸脱していることもあるでしょう。しかし、人類がこれからの世界観をかたちづくっていくうえで、ひとつのアイディア、あるいは仮説として検証する余地は十分にあると思います。考える時間は、まだあります。頭ごなしに否定するのではなく、まずじっくりと考えてみてはいかがでしょう(「分からないことは言わない」参照)。

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「仮説と検証」のすすめ

2007年02月17日 | 科学

世界は、分からないことだらけです。謎だらけの現実を目の前にして、どのように思考すべきでしょうか。

分かっているものだけに焦点を当てて、「分かった」と思い込み、分からないものは、単に「分からないものだ」で終わらせてしまうのか。あるいは分からないものについても、「もしかしたらこうかもしれない」という思考を続けるのか。このふたつの間には天と地ほどの差があります。

人間は不完全で弱い存在であるがゆえに、分からないものを分からないと認めることを恐れます。だから、既に分かっているものに焦点を当てて、すべてのことが分かっていると思い込もうとし、そこで安心しようとするのです。しかし、それでは真実は見えてきません。

ひとつ例え話を挙げたいと思います。

ここに、二次元の世界だけを認識できる知的生命体がいるとします。彼らは、自分たちが住む二次元世界の法則を解明し尽くしました。二次元世界のなかだけで起こる事象は、その法則ですべて矛盾なく説明できるようになったのです。したがって、彼らが生み出した法則は正しいことになります。しかし、それだけがすべてではありません。世界には三次元もあります。例えば、上からモノが落っこちてくるという現象は、二次元世界の法則だけでは説明できません。二次元に住む彼らからすると、モノが落ちてきた場所では、突然目の前に物体が現れるという不思議な現象として認識されます。そこで頭をひねって考えられるかがポイントになります。

「はて、不思議なことがあるものだ」で終わらせてしまうか。
「何故だろう?もしかしたら・・・」という思考を続けることができるか。

ここでひとつの仮説を置けるかどうかが重要になるのです。

「何故だろう?もしかしたら、世界には三次元まであるのではないだろうか?」

二次元までしか認識できない彼らにしてみれば、あまりにも突拍子のない仮説です。しかし、この仮説を置くことで、分からないものを単に分からないで終わらせることなく、思考を続けることができるのです。大事なことは、「三次元まであるかもしれない」という仮説を置くことで、その仮説を検証する作業に入ることができるということです。

この検証の結果、仮説の裏づけができれば、その仮説はその分だけ説得力を増します。100%の信憑性が得られるわけではありませんが、まったくのバカ話ではない仮説になるのです。そして、その検証を重ねていけば、その仮設がどんなに突拍子のないものであっても、強固で説得力のある仮説に変身していくのです。

ところで検証を繰り返していく過程で、その仮説が否定されることもあります。そのときには、また新たに別の仮説を立てればよいのです。少なくとも新しく立てた仮説は、否定された仮説よりも正しい可能性があり、より可能性がある仮説を立てられたという意味で、そこには前進があります。そしてあらためて、その新しい仮説の信憑性を確認するために、検証を重ねていけばよいのです。

仮説を立てる
 →検証する
  →間違った時点で、別の仮説を立てる
   →検証する
    →間違った時点で、さらに別の仮説を立てる
     →検証する・・・

この繰り返しを延々と続けていくことで、結果として、非常に説得力のある仮説を生み出していくことができるわけです。ただし、この仮説は100%証明されるわけではありません。あくまでも、非常に説得力のある強固な仮説で、「確からしい」ということです。しかし、限りなく100%に近い仮説を生み出していくことで、限りなく真理に近づいていくことができるということが大切なのです。そして、人間は限りなく真理に近づいていく仮説に対して、それを真理そのものであると理解する能力があると考えます。三次元の存在を仮説としておいた二次元の生物は、その検証を限りなく続けていくことで、最終的に三次元があると理解できるようになるのです。

分からないものを考えるうえでのポイントは、証明された論理の積み重ねだけでは、新しいものは見出せないということであり、新しいものを見出すには、未だ解明されていない仮説を立てて、それを検証していくという作業が絶対に必要になるということであると考えます。

アキレスとカメという話をご存知でしょうか(詳細は、「アキレスとカメの行方」参照)。

足の速いアキレスという人が、ノロノロ歩くカメを追いかけるのですが、アキレスがカメを追い越すことができるかというのが話のテーマです。これを考えるにあたり、以下のような前提を置きます。

①「アキレスが前に向かって進んでいる以上、いつか必ずカメがいた場所にはたどり着く」
②「アキレスが、カメがいた場所にたどり着いたとき、少なくともその時点で、カメはそれよりも前には進んでいる」

このふたつを組み合わせていくと、アキレスはカメのいた場所まではたどり着きますが、延々とその繰り返しとなり、どんなにアキレスの足が速くても、カメを追い抜けないことになるのです。コンピューターのような論理の積み重ねでは、アキレスはカメに限りなく近づきますが、アキレスがカメに追いつくという結論は出ないのです。

しかし、本当にアキレスはカメを追い抜けないのでしょうか。この思考法の繰り返しでは、たしかにアキレスはカメに追いつくことすらできませんが、その差は限りなくゼロに近づいていきます。そのことから、人間は直感的に理解します。

「究極まで突き詰めていくとアキレスはカメに追いつき、そして追い越すだろう」

これを理解したとき、人間はこれまでの論理の限界に気付きます。
「これまでの論理は、アキレスがカメに追いつく地点よりも手前の地点で起こる事象を説明しているに過ぎない」

そして、同時に以下のことにも気付くようになるのです。
「アキレスもカメも、アキレスがカメに追いつく地点よりも先に進み続けるのであり、そのときにはアキレスはカメを追い越している」

人間はコンピューターではありません。与えられた論理だけで思考を続けるのではなく、常にその枠組みを越えた論理を生み出して、それに基づいて考えることができるのです。その能力をきちんと活用するには、絶え間ない「仮説と検証」を続けていくことが必要なのです。人間は諦めてはなりません。分からないことだらけの世界のなかにあっても、限りない思考の連続によって、いつか人類は世界を理解することができるようになるはずです。

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