常識について思うこと

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ジパングにみる多神教的精神

2012年10月28日 | ヒーロー&アニメ

現代の兵器をもつ部隊が、第二次世界大戦の時代にタイムスリップしてしまうという設定は、そんなに珍しくないのかもしれません。例えば、アメリカの実写映画では「ファイナル・カウントダウン」、日本のアニメでは「ジパング」があります。両者ともに、現代の軍用艦船が第二次大戦時の兵器と戦うシーンが含まれています。そして、この両作品を比較すると、なかなか面白いことがみえてくる気がするのです。

それぞれ、相手と遭遇したときの台詞を挙げてみます。 

【ファイナル・カウントダウン(日本語吹替え)】
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■F14がゼロ戦を発見したシーン
《F14パイロット》
どうだ、少しはたまげたろ。よし、もういっちょやってやるか。

(中略)

《米空母艦長》
攻撃してよし。標的を粉砕しろ。ゼロ戦を粉々にしろ。

《F14パイロット》
待ってました。 
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圧倒的な戦力差、戦闘能力の違いをみせつけるパイロットと、敵機撃墜を「粉々にしろ」と命令する艦長。さらにその攻撃命令に対して、よだれをたらした猟犬が噛み付くかのごとく「待ってました」と答えるパイロット・・・ここに人の命を奪うということに対する躊躇は微塵も感じません。

一方、日本アニメである「ジパング」では、このあたりの描写がまったく違います。

【ジパング】
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■イージス艦・みらいが米艦隊の第一波攻撃を受けた直後のシーン

《砲雷長》
艦長、トマホークでのワスプ撃沈を具申します。

《航海長》
撃沈だと?
菊池(砲雷長)、撃沈しなくてもハープーンを使って飛行甲板を破壊すれば。

《砲雷長》
いやだめだ。
(中略)
飛行甲板を、米海軍はわずか3時間で修復している。 

《航海長》
3時間あれば戦闘は回避できる。
撃沈させてしまえば、死傷者は千人規模だ。
いくら自衛のためでも、それだけの人間の命を奪うことにためらいはないのか。

(中略)

■イージス艦・みらいからトマホークが発射されたシーン
(人質になったみらい乗組員が艦外から発射されたトマホークをみて) 

《みらい乗組員》
きさまぁ、なんてことを!それでも日本人か。
 (中略)
みらいの放った矢はどんなに離れていても確実に米空母にとどめを刺す。
だが、俺たちはそんなことを望んじゃいなかった。
みらいの力は命を奪うためにあるんじゃない。
なのに、貴様のせいで、みらいのなかに決断を迫られた奴がいるんだ。 
自衛のためのやむを得ない決断をなっ! 

(中略)

■米空母に向かってトマホークが飛んでいくシーン

《みらい砲雷長》
ボタンひとつを押すだけで、歴史は変わる。そして、人の命が消えていく。
これが俺が選んだ射撃の道。あと40秒で俺は・・・。

《みらい艦長》
むー・・・。 
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戦闘兵器を扱う人々が、人の命を奪うことを躊躇するなど、何をまどろっこしいことを言っているのかという意見があるかもしれません。しかし私は、兵器のボタンを押すときの、こうした葛藤がとても大切ではないかと思うのです。そして、ここにある種の日本人らしさを感じます。

アメリカの一神教的な思想によれば、敵と味方は容易に区別がつくのかもしれません。そして、その論理によって、敵の命を奪う(それも敵機を粉々にして撃墜する)ということが、非常に正当化しやすいとも考えられます。それに対して、日本のような多神教的な思想が強い文化の下では、事はそんなに容易ではないのです。これは、既にブログでも書いたことがある「武士と騎士の違い」として説明することができるのかもしれません。

「ジパング」という作品は、戦後の敗戦国・日本とはまったく違う、理想の国・日本(ジパング)を目指すというストーリーでした。たしかに日本は戦争に負けました。しかし、こうした作品をみる度に日本は敗戦後、きちんと次の時代を担うだけの文化や価値観を、順調に育んできていると思うのでした(「世界のリーダーたるべき日本」参照)。

コメント
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