常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

「手ぶら投法」の妙

2008年08月31日 | 人生

先日、久しぶりに昔の仲間でソフトボールに興じました。中学・高校時代に野球をやっていましたが、それ以降は、あまり本格的にスポーツをすることはなく、適当に楽しむためのスポーツをしています。面倒くさいことを言わずに、気楽にやっていると、意外といいプレーができたり、無理のない動作ができるようになったりするものです。そんななか、先日のソフトボールでは、すごく自然なフォームでボールを投げられていたように思いました。名づけて「手ぶら投法」。

中学・高校時代は、自然にプレーをしていたように記憶しています。フォームについて、まったく考えないわけではないですが、ボールを捕ったり、投げたりする動作をどうするべきかを考える前に、自然と体が動いていたように思うのです。

ところが社会人になると、それが非常に難しいものであると思い知らされるようになります。持久力や瞬発力を含めて、相対的に体力が落ちているなか、かつてのようなプレーをしたいと願う欲が出てしまい、あちこちに無駄な力が入ってしまうようです。そして次第に、正しい投げ方が分からなくなってしまうのです。そんな状態で、数年前、ろくな準備運動もせずに、ビュンビュンと調子づいて投げていたら、すっかり肩を壊してしまいました。一時は、日常生活にも支障をきたすほど、大変な痛みようだったのですが、意識的に肩の力を抜くことを通じて、だいぶ症状がなくなりました。

それ以降、野球やソフトボールでボールを投げるときには、少々、気をつけるようにしていたのですが、先日のソフトボールで編み出した投球法こそが、「手ぶら投法」なのです。

とにかく、肩から先にはまったく力を入れません。ブラブラと力を抜いた状態で、ボールを軽く握って投げるのですが、これが非常にいいのです。肩に負担を感じないだけでなく、ボールもいわゆる「活きた球」になってくれます。

もちろん、力を抜いているといっても、ボールを放す瞬間には、無意識に力が入っているのでしょう。そうでなければ、ボールが「活きた球」にはならないのだろうと思います。実際、これ以前にも、腕の力を抜くような投法にチャレンジしたことがあるのですが、なかなかうまくボールをコントロールできず、失敗していました。

今回、「手ぶら投法」を実践しながら思うことは、投球動作が始まってから終わるまでの間、「あそこにボールが行く」とイメージすることの重要性です。このイメージがきちんとできていると、何となく回している腕が、(まったく意識はしませんが)あるポイントできちんとボールを放して、自然に振り切れるようになるのです。ボールを速く投げたいと思えば、腕の回転も速くはなりますが、けっして力を入れているわけではないため、ほとんど肩への負担は感じません。

ところで、思い返してみれば、これは中学・高校時代からやってきたことのように思います。余計なことを考えずに、ひたすら「できること」をイメージしていた結果として、自然なプレーができていたように思うのです。そして、このように中学・高校時代に無意識でできたことを、あらためて意識しながらできるようになるということは、なかなか気持ちがいいものだと思いました。

このことは「無意識の意識化」とも言えるでしょう。私は、このことが大変重要であり、人生全体においても、大いに進められなければならないことなのだろうと思います。これを別の言い方で「気付き」と表現したり、ある事柄に関しては「悟り」と言ったりするのでしょう。

今回、私は「手ぶら投法」を通じて、中学・高校時代の「無意識の意識化」に成功しました。これはある意味で「気付き」であり、「悟り」です。しかし一方で、このことと引き換えに、ボールをどのように放すかということは、無意識の世界に沈みこんでしまいました。それまで「腕をこんな軌跡で振る」、「こんなタイミングでボールを放す」ということを意識していた私は、「無意識の意識化」に成功して以降、それがよく分からなくなってしまったのです。つまり「意識の無意識化」です。

「無意識の意識化」がいいのか、はたまた「意識の無意識化」がいいのかは、正直よく分かりません。ただ、ひとまず「手ぶら投法」を通じて、気持ちよくボールが投げられることは良いことなので、しばらくこの状態を楽しもうと単純に思うのでした。

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「グローバル」の次

2008年08月24日 | 独り言

「グローバル」という言葉が使われるようになって久しい。
ただ、これも早晩古くなる。

まもなく訪れるのは、「ユニバーサル」。
すべての事象は、宇宙規模で捉えなければいけなくなる。

けれども、「ユニバーサル」と英語で表現すること自体が古い。

「ユニバーサル」をどう表現するべきか。
それが問題だ・・・。

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ヒーローたちに魂を

2008年08月23日 | 産業

東京ドームのプリズムホールというところで、「プリ!キバ!ゴー!夏のキャラクターまつり」というのが開催されていたので行ってきました。本来、子供を連れて行くような場所なのでしょうが、「大きなおともだち」という立場で、勇気を振り絞って単独入場してまいりました。


プリキュア5

仮面ライダーキバ

歴代仮面ライダー

いろいろと思うところはあります。以前、このイベントのテレビCMで、等身大の仮面ライダーが映っていたので、「おぉ!これは、京都太秦で見たようにヒーロー大集結か!?」などと期待を膨らませました。アメリカ企業のように、楽しむための演出がうまくできているわけではないけれども、先日、京都太秦で見た「等身大ヒーロー」が集合した様子は圧巻でしたし、日本のコンテンツ産業の可能性を大いに感じることができました。それがあらためて、東京で見られるということであれば、是非、行ってみたいと考えたのです(「別世界の演出ができる国」参照)。

ところが、実際に入ってみると、ちょっと私の想像と違う雰囲気を感じました。「等身大ヒーロー / ヒロイン」がいるのはたしかなのですが、どうも彼らは客寄せパンダになっていて、それ以外は適当なボール遊びやモノ売りで、時間や空間を埋めるような構成になっているように見えるのです。少なくとも、客寄せパンダに見えるようなヒーローやヒロインに、それほど興奮を覚えませんし、京都太秦で感じたような喜びもありません。


ゴーオンブルー&イエロー
 
グリーン&ブラック

蛮機獣ボール当て

入り口を抜けると、すぐにゴーオンブルーとゴーオンイエローが立っています。振り返ると、グリーンとブラックがいるのですが、ポーズには何の工夫もなく、またニョキっと伸びている手は、いかにも外れそうになっており、「あぁ、展示されているだけだ・・・」という失望感を覚えてしまうのです。その横で、蛮機獣にボールを投げつけて遊ぶゲームがあるのですが、何となく学園祭程度の品質しか感じられず、これもまた少々寂しい気がしました。

ゴーオンジャーは5人。「肝心のレッドはどこだ?」ということで探してみました。すると、彼は特別コーナーで相棒のスピードルと一緒にいました。そのコーナーは、「炎神スピードルにのろう!」という撮影コーナーで、一枚1000円というものです。他人の商売に口を出すつもりはありませんが、この時点で、どうしても引いてしまう自分がいるのです。ちなみに、このイベントには仮面ライダーキバもいましたが、オリジナルフォーム(キバフォーム)の彼も、展示スペースに見当たらず「マシンキバーにのろう」という一枚1000円の撮影コーナーで、モデルに納まっていました。

今日のコンテンツ産業において、収益を確保するということは、大変厳しいことなのだろうと思います。とくに、こうした産業に関わっている方々のうち、責任ある立場にあればあるほど、いかにして収益を上げていくかということは、より重要な課題になっていることでしょう。それも、社会全体の動きが早くなるなか、より短期的な結果を求められるようになれば、一年間限定のコンテンツやキャラクター(ヒーローたち)に、どれだけきっちり営業をしてもらうかは、非常に大切なポイントになってきます。このことは、単なる拝金主義として批判したり、切り捨てたりできる問題ではなく、そういうかたちででも、きちんと商売が回っていないと、来年のコンテンツやキャラクターを生み出せなくなるという、今日のコンテンツ産業の構造的な問題でもあるのだろうと思います(「仮面ライダーと商業主義」、「感動のすごいアニメ」参照)。そういう意味で、今回のイベントに対して、私の純粋な失望感はあるものの、その状況や関係者の方々に対して、批判を加えるようなことはできないと考えます。収益を確保できなければ、番組が打ち切られてしまったり、日の目を見なかったりということもあり得るわけで、そうした危険を回避していくことは、それはそれで重要なことなのです。

ただ、それでも敢えて、一人の視聴者あるいは消費者という立場から、一点だけ申し加えたいことがあります。それは、けっしてコンテンツやキャラクターに対する愛情や情熱を忘れてはならないということです。今回のイベントで、収益確保のための工夫や仕掛けについては、相当準備をされたのだろうと思いました。しかし、それに傾注してしまったコンテンツやキャラクターは、けっして長続きしませんし、中長期的な観点から、良い結果を招くとは到底思えないのです。


玩具販売コーナー
 
プリキュアオールスターズ

アイドルユニット結成!?

実際、どういう意図があったかは分かりません。このイベントの関係者の方々が、「コンテンツやキャラクターに対して、自分は溢れんばかりの愛情や情熱を持っている」と言い張るのであれば、それはそれで結構なことだと思います。それを否定するものではありません。しかし万が一、そう言い切れない方がいらっしゃるのであれば、今一度、ご自分の仕事の意味について、きちんと考えていただきたいと思うのです。

少なくとも、私のような来場者が、ヒーローたちが客寄せパンダになっていると感じるようではいけないと思います。ヒーローたちは、あくまでもカッコよく、常に憧れの対象でなければなりません。展示されるヒーローたちには、そういう魂がこもっていなければいけないのです。コンテンツやキャラクターに対する愛情や情熱を忘れなければ、展示されるヒーローたちには、自ずとそうした魂が宿るようになるでしょうし、それらはさらに多くの人々を惹きつける力を持つのだろうと思います。

せっかく良いものを持っているのだから、それをもっと大切にして、きちんと活かしていただきたいと思うのでした。

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日本人の大切な「ゼロ」

2008年08月22日 | 日本

あまり特定の区分をもって、人に対して決め付けるような言い方をするべきではないと思いますが、それでも日本人には日本人独特の特性というものが、あるように思えてなりません。

そのうちのひとつが、コミュニケーションに対して、日本人が持つ「ゼロ」の感性です。

先日、海外で活躍されているある舞台俳優の方が、海外では「・・・」を単なる無言と捉えるけれども、日本人独特の「・・・」のニュアンスを海外に広めていきたいといった趣旨の発言をされたのを聞きました。言うまでもなく、「・・・」は、単なる無言ではありません。日本人には、少なからず「・・・」の沈黙のなかに、何らかの意味を見出そうとする感性があるのではないかと思うのです。「・・・」という表現を使う側からすると、それはたしかに無言であり、沈黙にすぎないのだけれども、それを敢えて「・・・」と表現することで、言葉を発する以上に、大きな意味を持たせようとしているわけです。それは、何も語らぬ「ゼロ」の状態を、読み取る側に解釈を委ねた「無限」と考えることもできます。

さらに別の話ですが、「ホウレンソウ」について、こんな話も聞きました。

「ホウレンソウ」とは、野菜のほうれん草ではなく、組織のコミュニケーションで大切とされる「報告・連絡・相談」の略語です。論点は、「本日収穫なし」という連絡をどのように捉えるかということです。日本人としては、「ホウレンソウ」の感覚で、「本日収穫なし」を上司に報告することは、ごく普通のことであるのに対して、収穫があるならともかく、なかったものを報告するのはおかしいというのが、欧米人の感覚だというのです。私は、欧米人ではありませんし、実際に欧米人の方々に対してアンケートをとったわけでもないので、何ともコメントのしようがありません。ただ、私個人としては、「本日収穫なし」という報告は、収穫がなかったことを伝えるという意味で、立派な報告であろうと思います。つまり、「本日収穫なし」という「ゼロ」も、単なる「ゼロ」ではないということです。

そしてもし、こうした「ホウレンソウ」のかたちが、本当に日本人的な発想(あるいは日本人に強く見られる傾向)だとするならば、こうした場面においても、日本人は「ゼロ」に意味を持たせるという思考が働いていると考えることができるでしょう。

このことは、「Yes」とも「No」とも言わない、日本人的傾向にも表れていることかもしれません。このことの良さや問題点については、既に述べているとおりです(「「No」と言えないことへの誇り」参照)。「Yes」とも「No」とも言わない、つまり答えがないという「ゼロ」は、単なる「ゼロ」ではなく、答えを得られなかった相手に対して、答えなかった人間の意図についての解釈を委ねるという意味があると理解するべきでしょう。

このように、「ゼロ」のなかに何かしらの意味があると考える感性は、これからの時代において、非常に大切なことではないかと思います。とくに、唯物論的な価値観が発達し、見方によっては暴走をしているようにさえ見える現代の世界において、目に見えるものや、分かりやすいものに対する重み付けが進みがちになってしまいます。このことは、社会のあらゆるところで、非常に深刻な問題として、徐々に顕在化してきているように思うのです。

こうした世界にあって、目に見えなかったり、答えがなかったりするからこそ、そこに無限の価値があると考えることは、とても高度ではありますが、人間にとって極めて重要な価値を持ち得ます。そして、「ゼロ」に意味を持たせる思考や価値観は、本来、日本人特有のものではなく、世界中の人類が共通して持っている感性であるとも思います。ただ、上記のような事例から推測するに、こうした感性は人類が共通して持っている感覚ながら、日本人は比較的、そうした傾向が強いと言えるのかもしれません。そうだとするならば、これからの時代において、日本人が果たすべき役割は、極めて大きいと言えると思います。

次の時代においては、「ゼロ」の意味を読み取る感性に対して、人類全体が、もっと強く明確に共有していくことが、大切になってくるでしょう。数学の世界における「ゼロの発見」という言葉がありますが、このことは、人間の思考やコミュニケーションにおける「ゼロの発見」にあたります。

日本が持つ文化やコンテンツには、こうした要素が大いに取り入れられています。日本人は、そうした自らが持つ「ゼロ」に対する感性を大切にしつつ、それを理解し、世界に対して、もっときちんと発信していくべきではないかと思います。

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理想的な組織作り

2008年08月20日 | 会社

事業を立ち上げるにあたって、多くの人々の協力が必要になることは間違いなく、組織作りは必須となります。「あの人がいてくれれば」と思うことも、少なからずあり得ます。しかし、私にとって、必要な人材というのは、能力や経験を持っているかではなく、自らがやる気になってくれる人であり、そういう動機と責任感を持っている人にほかなりません。

「あなたの力が必要なので来てください」
「必ず事業を成功させますので来てください」

私は、けっしてこう言って、他人を巻き込むことはいたしません。このように懇願したり、成功を約束したかたちで、他人を事業に巻き込んでしまうと、後になって大変な問題を引き起こします。私が考えている事業は、間違いなく大事業だと思っています。そして、そうした大事業というのは、兎角難しいもので、幾度となく難局を経験することになります。普段は、一所懸命働いてくれる人でも、状況が厳しくなればなるほど、誰かに頼ろうとしますし、それもうまくいかないとなると、他人に責任をなすりつけるような行為にまで及びます。

「俺はあいつに頼まれて、この事業を助けに来てやったんだ」
「あいつが成功すると言ったんだから、あいつが何とかするべきだ」

懇願されたり、他人事のつもりで事業に参加したような人の場合、追い詰められていくと、最後の段階で、こんなもう一人の自分が頭をもたげるようになるのです。自分も立派な当事者であるにもかかわらず、こういう無責任な弱さが表に出ることで、人間は本来の力を発揮できず、また組織もますます難しい局面に陥ることになってしまいます。しかも悪いことに、そういう人間一人の存在が、他の多くの人々にまで大きく影響を及ぼし、全体に広く波及してしまうという点が、実に厄介なところです。結果として、「頼まれて来てやったんだ」、「あいつが成功すると言ったんだ」と思うような無責任な人間が、一人紛れ込んでしまうことで、崩れるはずのない組織でも、いとも簡単に崩壊していくことになるわけです。

したがって、私自身、新しく事業を興すにあたっては、一人一人の役割や意味を非常に重く考えています。

そして、これをネガティブな意味ではなく、ポジティブな意味で捉えると、真に強い組織とは、一人一人が絶大なる責任感と使命感を持って行動し、いかなる難局にも諦めず、自分たちが持ち得る全ての力を発揮する組織だということになります。また、だからこそ難しいと思われる事業を遂行するための組織作りをしていくうえで、私はけっして懇願したり、事業の成功を約束するようなかたちで、他人を巻き込むようなことをしないのです。

これに代わって、私がしていることは、周囲の人々に対して、以下の3つについて、一方的に伝えているだけです。

-私の現状認識
 ・過去及び現在の深刻な問題に対して、無策で突き進んだときの世界の未来像
-私のビジョン
 ・未来を切り拓くための解決策、及びそれが実施されたときの世界の未来像
-私の行動計画
 ・ビジョンを実現するための直近の具体的な行動計画

これらに対しては、人によっていろいろな反応がありますが、次の3つに大きく分類できると思います。

①反発する人:当分、私とは仕事上で何の繋がりもない人でしょう。
②共感する人:いつか私と一緒に仕事ができる可能性がある人でしょう。
③共感し、実践する人:今すぐにでも、私と一緒に仕事ができる人でしょう。

難しい問題を解決していく真に強い組織とは、真に強い人々の集団です。それは③のように自らの意思で動く人々が、自ずと集まったときに生まれてくるのだと思います。この集団は、誰かの指示によって集まったというような集団ではなく、それぞれの自由意志と責任に基づいて生じた集団であり、互いに責任を擦りつけるような関係にはありません。そして、こうした集団が組織化されたとき、あらゆる不可能は可能になっていくと考えます。

言うまでもありませんが、私は自分が考える事業が必ず成功すると思っています。しかし、それでも、上記のような理由から、他人に対して、敢えて「成功する」という約束はいたしません。懇願したり、事業の成功を約束するという行為は、その人にとっての甘えとなり、結果的に事業の失敗を招くからです。

こうした考え方が卑怯だと思う方もいるでしょう。それはそれで、結構なことだと思います。ただし、そうである限り、けっして私と交わることもありません。あるいは、私のこんな考え方を単なる理想論だと笑う人がいるだろうとも思います。

しかし、私は遠からず、そんな理想的な組織が、必ず生まれると信じています。そして、それが可視化されていくことで、今まで不可能と思われていた事業の成功も、きちんと現実味を帯びてくるのだろうと思います。

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今日もアニメを見ています

2008年08月19日 | 独り言

「崖の上のポニョ」について、辛口な記事を書きました(「名に恥じぬ仕事」参照)。

一方で、興行収入100億円突破というニュースを見たり、実際に同作品を見られた方々の賞賛する声が聞こえてきたりしています。

人には、それぞれの感性があるので、それを否定ことはできません。ただ私が、いろいろなアニメーションを広く見ながら思うことは、「崖の上のポニョ」以外の作品にも、それに匹敵するどころでなく、それを超えるくらい素晴らしい作品がたくさんあるということです。

素晴らしいアニメーションを作り出す力という意味では、差がないどころか、逆転現象すらあると思うなかで、「崖の上のポニョ」がたたき出している記録的興行収入の裏で、真に実力ある人々が金銭的にも、社会的にも苦境に立たされているように思えてならないのです。このテーマについては、書き始めると止まりませんが、少なくとも、そこに社会が抱える構造的な欠陥があると思いますし、それを放っておいてはいけないと思うのです。

そして、私は今日もアニメを見ています。

そろそろ見終えるのが、「Fate/stay night」。血生臭い戦闘アニメだと思って、見始めていましたが、回を重ねるごとに、戦闘の意味に悩む主人公二人の葛藤や恋愛色などがにじみ出てきて、面白くなってきました。

途中で、若干ハーレム系の展開もありますが、周りの女性たちとは、戦闘を通じて命のやり取りをしてきた重い間柄でもあるということから、いわゆるハーレムアニメとはちょっと違った見え方がするところにも、面白みを感じます。

ところで、ハーレムアニメと言えば、「藍より青し」で葵ちゃん役だった川澄綾子さんが、「Fate/stay night」のセイバー役を演じています。不思議なことに、ハーレムアニメのなかの葵ちゃんには、ほとんど萌えなかったのですが、セイバーには多くの萌え要素を感じてしまいます。女のくせに、女を捨て去る命がけの根性に、男心がくすぐられてしまうということなのでしょうか・・・。

おっと、いかんいかん。私には、ベルダンディーという心に決めた萌えキャラがいるのでした。

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名に恥じぬ仕事

2008年08月18日 | 社会

ここ数日、いかにも夏休みらしい日々を過ごしていました。だいぶ日焼けもしましたが、冷房がきいた屋内の施設でゆっくり過ごすというのもありました。そのなかには、映画鑑賞もあったわけで、前から気になっていた「崖の上のポニョ」を見ることもできました。

ところで、この作品については、とても残念な気がしています。率直に言って、この作品を作られた責任者の方に関しては、いまや世間一般で言われているような魅力はないように思いました。

その方が、過去において、素晴らしい作品を生み出してきたことは事実であり、今日、その方は一般的に巨匠という扱いを受けています。私自身、その方の作品のなかで、大好きなものもたくさんあります。「天空の城ラピュタ」は、確実に10回以上見たと思います。独特な世界観ばかりでなく、日本のアニメーションを世界に発信した功労者という意味でも、その方の偉業は間違いないでしょう。

ただ、ここしばらくの間、その方の作品に対しては、ちょっとした違和感を覚えていました。そして、今回の作品が、私のその違和感を決定的なものにしたように思うのです。その方が、巨匠と言われるからには、それに見合うような仕事をしていただきたいと思わざるを得ません。

「崖の上のポニョ」という作品が、ゼロベースから作り上げられたもので、お金も名前もない状態から生み出された作品ということであれば、それなりの評価のしようはあると思います。しかし、今回の作品は、その方が既に巨匠と呼ばれる地位にあって、多くの関係者や協力企業が集まった結果物であると考えたとき、それがあまりにもお粗末に見えてしまうのです。周囲にいた子供たちが、映画が終わった直後に口にしたのは、「これで終わり?」、「怖かった」、「次はポケモンを見たい」といった言葉でした。これは、子供たちに夢を売っていかなければいけないアニメ商売として、致命的な問題指摘であるとも思います。

何がどのように悪いというのは、挙げていったらキリがありませんし、またそういう類の話は、言う側にとっても、聞く側にとっても、あまり気持ちがいいものではないので、ここで細かく言及することは避けたいと思います。

巨匠の名を返上すべきなどと言うつもりはありません。ただ、その名に恥じないような仕事をしていただきたいと願うばかりです。

一方で、「崖の上のポニョ」を見た翌日、プラネタリウム映画で「銀河鉄道の夜」を鑑賞しましたが、これは良かったです。宮沢賢治の原作に基づいて、プラネタリウムらしく「星空」を活かしながら、ジョバンニが旅をしていくストーリーや構成は見事だったと思います。まず綺麗だし、素直に見て良かったと思えました。それから、スタッフやキャストの密度の濃さがすごいです。あらためてインターネットで調べてみると、「原作:宮沢賢治、脚本 / CG:KAGAYA、音楽:加賀谷玲、朗読:桑島法子、ナレーション:大場真人、制作:KAGAYAスタジオ」となっています。これこそプロの業だし、少数ながら、そのプロ集団が、真なる愛情と情熱を注いだからこそ、あの作品が生まれたのだろうと納得がいってしまいます。

今日のような時代だからこそ、限られたお金と時間を、どこに投資するかということについては、ますます真剣に考えていかざるを得ません。楽しむべきコンテンツが、次から次へと湧き出るように溢れてしまっているなか、限られたお金と時間を有効に活かして、ひとつでも多く、そうした素晴らしい作品に出会いたいと思う願望は強くなる一方なのです。

「崖の上のポニョ」が無駄であったとは思いません。同作品のおかげで、あらためて「銀河鉄道の夜」のような作品の良さや大切さについて、きちんと気付かせてもらえました。しかし、そんな評価は、同作品の制作に関わられた方々にとって本望ではないでしょうし、私にとっても、今後とも生み出されるであろう作品に対して、望み続けるものではありません。

今の社会において、きちんと評価を受けている方々には、その名に恥じない仕事をされることを望むばかりです。

《おまけ》
桑島法子さんは、名声優だと思っていますが、「銀河鉄道の夜」のなかでも、やはりその名に恥じない素晴らしい仕事をされていたと思います。

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深刻な問題に対する姿勢

2008年08月17日 | 短編

新型インフルエンザが、大変なことになるかもしれない。

「17~64万人がインフルエンザによって死亡する」
こうしたことが日本政府によって推定されているという現実。
メディアが大きく取り上げないのは、混乱を避けるためかもしれない。

いずれにしても、問題をきちんと報じないメディア側には大きな責任がある。
一方で、メディアに振り回され、混乱するであろう人々にも大きな責任がある。
きちんと自分の耳目で見聞きして、自分の頭で考えなければいけない。

それができれば、
メディアは報じるべきことを報じるようになるだろうし、
人々は、それらの情報を冷静に受け止め、混乱せずに対処できるはず。

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隠して通す正義の重さ

2008年08月12日 | 社会

23年前の今日、日航機が墜落する事故がありました。この事故を巡っては、いろいろな議論がなされています。真相については、未だ謎に包まれているとされており、事故の原因やその後の救助活動に対して、疑問を呈する意見が後を絶ちません。

私自身、この事故については、当時の記憶として、いくつか憶えていることがあります。そのなかで、とくに印象的だったのは、フライトレコーダーに録音されたクルーの方々と管制塔のやり取りのような会話でした。当時の段階では、フライトレコーダーの中身そのものが公表されることはなく、声優を使った会話のやり取りが、テレビの報道番組などでしきりに流されたのです。「ライトターン」、「レフトターン」といった言葉が淡々と繰り返されるなか、飛行機が制御される様子が再現されるような映像を覚えています。

後日、フライトレコーダーの中身が公表されて、聞いたことがありますが、それ以前までに覚えていた会話の印象と、あまりにも違うことに愕然としました。当たり前のことですが、とてつもない緊迫感と、必死に飛行機を立て直そうとするクルーの方々の思いがひしひしと伝わってくるのです。聞いているだけで、胸を締め付けられるような思いがしました。当時、声優さんで再現された「ライトターン」、「レフトターン」という会話とは、あまりにもかけ離れていることにショックを受けたのです。

その事故から、23年の月日が経ったということです。冒頭にも述べたとおり、この事故については、いろいろな憶測を含めて、さまざまな議論がなされています。そして私自身は、この事故について、少なくとも一般的にメディアで報道されていたような、「事故の原因が機体後部の圧力隔壁の破損だった」ということを、そのまま信じるのは厳しいように思っています。

この事故に関する事実整理や原因分析については、インターネット上での情報のみならず、既に出版されている多くの書籍のなかでも展開されているので、ここでは省略いたします。また、それらの分析には、間違った憶測が含まれている可能性も否定し得ませんので、最終的に何が正しいかを論ずるのは、困難だろうとも思います。しかし、そうだからと言って、一般的に言われている事故に至る経緯や原因、あるいは救助活動の中身が、全て問題がなかったということにはならないことは確かでしょう。私としては、どんなかたちであるかは別として、何かしらの重要な真相が隠されていることは、間違いないと考えざるを得ないと思っています。

ところで、もしこの事故に隠された真相があるとするならば、当然、それを隠している方々がいることになります。500人を超える犠牲者を出した事故について、その真相を隠蔽するということは、大変なことです。しかし、それだけ大変なことをするからには、隠蔽をする方々にも、それなりの理由がきちんとあるのだと思います。私は、そういう意味で、そうした「真相を隠す」行為そのものにも、やむを得ない何らかの理由があり、致し方ないものがあるのではないかと考えます。別の言い方をすれば、真相を隠す方々からすれば、500人以上の犠牲者を出そうとも、この事故を隠蔽し続けることで、守らなければならない正義があると信じているということでしょう。私は、現時点において、こうした隠蔽の事実があったとしても、それ自体を責めることは難しいと考えます。もしかしたら、そうした方々が、事故の真相を隠蔽して、彼らなりの正義を守り通しているが故に、私たちが享受できている何かがあるのかもしれません。

しかし、そう考えることと「事故の真相」が正当化されることとは、全く次元が異なります。事故で多くの方々が亡くなったことは事実であり、本来、けっしてあってはならないことなのです。

私たちは、隠蔽される側の人間であり、事故の真相を知る立場にはありません。しかし一方で、事故の真相を隠蔽される方々がいらっしゃるとするならば、その守らなければならない正義が、亡くなった多くの方々の犠牲のうえに成り立っているということを絶対に忘れてはいけません。そして、生きている限りにおいて、犠牲になった方々や遺族の方々の思いを背負っていていただかなければなりません。

事故を隠蔽することで守る正義は、本当に犠牲になった多くの方々の命よりも重いものなのでしょうか。事故を隠蔽している方々がいらっしゃるとするならば、その方々にとっては、常に真剣な自問自答を必要とするテーマだと思います。

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全話で一本の作品

2008年08月10日 | ヒーロー&アニメ

「瀬戸の花嫁」というアニメを見ました。全26話を一気にぶっ通しでの視聴です。さすがにちょっと疲れましたが、本作品を見て思ったことは、このアニメは、全話(26話)で、一本の作品として成立しているということです。これは、他の作品についても、大いに言えることであるとは思いますが、とくにこの作品を見て、強く思ったのでした。

通常、映画であれば、せいぜい長くても2時間程度の作品として収まるので、完結するまでの間、ほぼ強制的にでも見続けることになりますが、ほとんどのアニメ作品の場合、そういうわけにはいきません。細切れ(一本23~24分)にした本編を25話なり、50話といったまとまりにして、数ヶ月単位の長い期間にわたって、ひとつの作品と成立させていくため、映画のように、視聴者に対して強制的に見せていくようなわけにはいかないのです。そういう意味で、途中まで見て、面白くないと思われてしまったら、その時点で、おしまいになってしまいます。

ただ、今回の「瀬戸の花嫁」については、途中で見るのを止めようと思ったことはありませんでした。まず、ギャグセンスが良かったです。単にギャグを入れ込むというよりも、時折見せる「エクセルサーガ」的なカオス&フリーダムなタッチの展開や作画、声優さんたちの演技が、なかなか面白いのです。その他、昔のアニメや映画のパロディー的な要素が盛り込まれているところも見所になっていて、それらもなかなか楽しめます。北斗の拳、ドラゴンボール、ターミネーター、宇宙刑事ギャバンの歌・・・。知っている人なら知っている内容が、不意を突いたように所々で展開されると、それらが妙に可笑しく感じられるのです。

少々横道に逸れますが、こうした昔の作品の要素が、所々で楽しめるというのは、それらが社会の人々に広く共通認識として根付いているということであり、かつてのマスメディアの偉業であるとも思います。

マスメディアの王様とも言うべきテレビは、それぞれの時代において、数多くの人々に多大な影響を及ぼす番組を提供してきました。それらの番組は、今日のように多種多様なコンテンツではなく、種類や数が極めて限られていた一方、ある種の時代を象徴するほど絶大な影響力を持っていました。もう少し別の言い方をするならば、当時のマスメディアには、「その世代なら誰でも知っている」と言われるような内容があったということです。こうしたことは、多様化が進んだ今日において、だいぶ薄れてきた現象ではないかと思います(マスメディアの影響力については、一部「共有という楽しみ方」を参照)。

ちなみに前出の「エクセルサーガ」の12話で、「どうする、どうする、君ならどうする。任せるんだ、私たちに。」というセリフがありましたが、これは紛れもなく「電子戦隊デンジマン」の歌詞をパロディーにしたものだと思います。これがネタになるというのは、デンジマンの曲が広く世間に知れ渡っていることが前提になっており、その意味で、テレビというマスメディアの偉業があってこそだと思うのです。

話を「瀬戸の花嫁」に戻します。この作品は、そうしたギャグアニメという意味で、面白可笑しく見続けることができたので、途中で見るのを止めようとは思いませんでした。しかし一方で、花婿・永澄君の態度には、なかなか共感が持てず、ストーリーそのものに、あまり深く入り込むこともなかったのです。「瀬戸の花嫁」という作品は、そのタイトルどおり、結婚を題材にしたストーリーになっているわけですが、途中までの展開のなかで、花婿・永澄君の花嫁・燦ちゃんに対する言動や態度から、あまり深い愛情を感じられず、少々残念な気がしていました。

そんな風に思いながら、ギャグを楽しみつつ見続けていたところ、ようやく最終話にかけてのクライマックスで、それが一変してくれました。燦ちゃんに対する永澄君の愛が爆発してくれて、私自身、やっと本当に「うん、見ていてよかった」という気持ちになれたのです。

一本の映画であれば、当たり前のことですが、こういう連続物の作品では、最後まで見続けるということが、なかなか難しかったりするものです。大体、どんな作品でも、最終回というのは、それなりにクライマックスとして盛り上がり、見る人に何らかのメッセージを与えるものではないかと思います。それだけに、最後まで見続けるということが、難しいことであると同時に、とても大切なことに思えてなりません。

そういう意味で、ギャグでも何でも、見続けられたことは良かったし(実際、ギャグも面白かったし)、最終26話までをキッチリ見ることができて、「瀬戸の花嫁」という一本の作品を、自分なりに気持ちよく消化できたように思います。

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テディベアに見る可能性

2008年08月09日 | 日本

テディベア美術館なるところに行ってきました。

テディベアについては、あまりよく知りませんでしたが、「テディ」というのは、アメリカの大統領だったセオドア・ルーズベルトの愛称で、彼の熊狩りに関する逸話からテディベアという名前がついたということです。その後、玩具メーカーがテディベアの名称で、クマのぬいぐるみを売り出したことをきっかけに、テディベアは世界中に広まっていったようです。

そういう意味で、テディベアについては、クマのぬいぐるみということ以外、特別な定義はないらしく、ややこしい権利関係などの問題によって、テディベアが縛りつけられて、広く人々が楽しむことが阻害されるようなこともないようです。この点、非常に好感が持てました。

そして今回、そのテディベア美術館に足を踏み入れてみたのですが、これがなかなか楽しいものでした。私自身、特段、テディベアが好きというわけでもないのですが、いろいろなテーマ毎にテディベアを配置させて、それぞれの世界を作り出しているところに、個人的な面白味を感じます。


サミット会議場

通訳室

上の写真は、テディベアのサミットです。会議場には、各国の代表が大きなテーブルを囲んで、議論をしている様子が再現されています。これだけでも、普通に可愛らしいのですが、この会議場の横には、ガラス張りの通訳者の部屋があり、そこにはずらりと通訳たちが座って、仕事をしているのです。こうしたちょっとした演出が、見る者を惹きつけるような気がします。


中国

エジプト

『白雪姫』

『アラジン』

「キバのベルト装着!」

「キバに変身!」

そのほかにも、いろいろな国や童話をテーマにしたような展示が並んでいました。それらの世界が、可愛らしいテディベアで丁寧に再現されていることや、そうした世界観全体に大きな親しみを覚えます。また通路には、「仮面ライダーキバ」に変身したテディベアがいたりして、そうした遊び心ある演出を通じて、この美術館を作り出している方々が、きちんと楽しみながら、仕事をされていることが感じ取れるのです。

ところで私は、こうした楽しい展示や演出を通じて、あらためて日本のコンテンツのことを考えました。

テディベアというのは、端的に言えば「クマのぬいぐるみ」ということだけで、そこには特別なストーリーがあるわけではなく、また姿や格好も統一されているわけではありません。そこに良さがあり、だからこそテディベア美術館のような、自由で楽しい展示ができたりするのかもしれませんが、テディベアというコンテンツ単体でみたときに、単に「クマのぬいぐるみ」というだけで、その内容は薄いと言うことができるようにも思うのです。そういう意味で、テディベアというコンテンツをひとつの美術館にまで発展させた方々はすごいと思いますし、その業績に対しては、心から敬意を表したいと思います。

一方で、日本にはテディベアの比較にならないほど厚みあるコンテンツが、数多く眠っています。例えば、テディベアが変身していた「仮面ライダーキバ」というコンテンツには、きちんとしたストーリーがあり、キャラクターの姿や格好も、明確に決まっています。そこには、いろいろな方々が制作に関わっており、複雑な権利関係が存在していることも事実であり、だからこそ、テディベアのような自由で楽しい展示を行うということが難しいとも言えるでしょう。

しかし、そうした厚みがあるコンテンツだからこそ、テディベア美術館でなされているような展示がなされれば、その厚みの分だけ、訪れる多くの人々を惹きつけ、さらに大きな楽しみが広がっていくような気がしてならないのです。

-日本はもったいないことをしている-

テディベアを見ながら、あらためて日本が持つコンテンツの可能性を感じたのでした(「別世界の演出ができる国」参照)。

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酔わない方法

2008年08月08日 | 人生

乗り物酔いは、予測不能な刺激によって引き起こされるという話を聞いたことがあります。私の経験上、これはかなり当たっていると思います。

例えば、自動車の場合、運転をしている人は酔いませんが、運転をせずに本を読んでいたりするとすぐに酔ってしまいます。これは、道路のカーブや路面のデコボコなどから、自動車がどのように揺れるかを予測しているか、していないか。あるいはアクセルやブレーキの踏み具合などで、自動車の加速や減速を予測できるか、できないかの差から生まれるものではないかということです。

幼い頃、車酔いをしそうなときに、外を見るように促されたことがありますが、もっと効果を求めるならば、(外の)前を見るようにするべきなのではないかと思います。そうすれば、自動車の運転をしていなくても、視覚情報を通じて「右に曲がる」、「カーブする」、「ちょっとデコボコがある」、「スピードが落ちる」などの揺れについて、ある程度、予測することができ、車酔いをかなり軽減できるのではないかと考えるからです。

これが本当だとすれば、自動車で酔わない方法は以下のとおりです。

1.自ら運転せよ
2.(運転できなければ)前を見て、揺れを予測せよ

これが全てではないでしょうし、そもそも「運転できない」という方には、意味のない部分もありますが、酔わない方法としては、かなり当たっているのではないかと思います。

ところで、このことは自動車の運転だけでなく、人生にも当てはまるような気がしてなりません。ここで言う「自動車を運転する」ということは、「人生を生きる」ということと重ねて見ることができるように思うのです。

人生について、「自ら運転せよ」ということは、自分が生きたいように自由に生きろということになるでしょう。もちろん、自らが運転するからには、事故などに対する責任も生じます。責任を放棄して、自由に生きるなどということはあり得ません。自らの人生に責任を持って、自由に生きるということこそが、人生において「自ら運転せよ」ということなのではないかと考えます。

ただし、諸事情から自分が運転できないこともあります。そんなときは、「前を見て、揺れを予測」すれば良いということです。組織、業界、国家・・・。社会における、さまざまな仕組みやルールのなかで、自ら運転席に座れる場面が、極めて限られていることは事実です。自分が運転できない以上、運転の結果、生じる事故などについて責任をとる必要もありません。しかし、だからと言って、自分には関係ないと諦めて、下を向いて好き勝手なことをやっているだけでは、「人生酔い」を起こしてしまいます。

これからの時代、まだまだ大きな揺れが起こるように思います。運転席に座っている人も、必死になって、それらを回避しようとするでしょうが、それで解決しきれるものでもありません。これからの時代においては、そうした運転席に座っている他人の振る舞いを含め、きちんと前を向いて、見定めておくことが大切だということです。

ところで、これらとは別に、自動車と人生では決定的な違いがあるとも思います。それは、「自動車を運転できない」ということが、大いにあり得ることであり、それはそれとして受け入れるしかない一方、人生において「何も運転できない」ということはあり得ないということです。社会の仕組みやルールのなかで、自らが運転できる場所や場面が限られていることは確かでしょう。しかし、だからと言って、運転できるものが全くないというのも嘘だと思います。事の大小こそあれ、人には必ず自由になるものがあると思いますし、その自由を活かすということが、生きるということだと思うのです。

そういう意味で、「人生酔い」を防ぐ方法は、以下のとおりかもしれません。

1.運転できるものを見つけて、自ら運転せよ
2.運転できないものでは、前を見て、揺れを予測せよ

「人生酔い」には、くれぐれも気をつけましょう。

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高原からの便り

2008年08月06日 | 日常

女神湖

蓼科牧場

テディベア美術館

 高原に遊びに来ました。まだ、もう一泊するつもりでいるのですが、ひとまず、昨日撮った写真をアップしてみました。

避暑地などという言葉がありますが、たしかにその通り。普段、猛暑のなかを駆けずり回っているのが、嘘のように、涼しくて気持ちが良いです。何となく出かけてきてしまったので、ろくに長袖のシャツを持ってくることもしなかったのが、ちょっと心配なくらいです。

昨日、感じたことのなかに、ブログで書きたいと思ったこともあるのですが、ひとまず、それらはあらためて書くことにして、旅を続けます。

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「叡智」の乱用に注意

2008年08月04日 | 短編

「叡智」という言葉を使って、高所から他者の意見を切り捨てる人。

実際のところ、「叡智」が何たるかを知らない人だと思う。
あるいは、レベルが低い「叡智」を信じているだけかもしれない。

馬鹿に気付いている馬鹿は、利口な馬鹿。
馬鹿に気付かぬ馬鹿は、救いようのない馬鹿。

パラダイムシフトだぞぉ~。
そんじょそこらの「叡智」は、「叡智」じゃないぞぉ~。
だから、だめなんだぞぉ~、人の話はちゃんと聞かなくちゃ。

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ちょっと心配なキバ

2008年08月03日 | 独り言

ここ数回の「仮面ライダーキバ」の展開には、ちょっと違和感あり。

今朝のストーリーで言えば、「仲間の逮捕」、「謎の警察関係者(?)」、「新フォームの登場」、「幼い頃の渡の友人」、「名護君のタイムスリップ」・・・。

一話のなかに、ちょっと詰め込みすぎていて、無理があるような気がしてならない。さっさとストーリーを展開させなければいけない事情でもあるのかな。そんななかでも、キバやイクサの新フォームを登場させて、きっちり玩具の販促をしているところに、若干思うことがあるし、さらに本編終了後の「モモタロスのまっかっか城の王」の方が面白かったりするのは、少々問題なのでは??

これが、広告モデルの番組制作の限界だろうか。

こういうかたちの番組制作を否定するわけではないけれど、そろそろ別のモデルの番組制作が成り立つようにもしなくちゃね。

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