常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

地球環境問題の分野

2007年11月26日 | 人生

地球環境問題というと「エコ」や「省エネ」といった言葉で語られることが多く、大気汚染やゴミ問題などに焦点が当てられ、資源の有効活動や消費抑制運動といったことを通して、貢献していこうというイメージが強い方も多いと思います。もう少し具体的な例を挙げると、個人レベルでは「ゴミの分別」、「節電・節水」、「(ビニール袋など)資源の再利用」。企業レベルでは「汚水処理」、「排ガス処理」、「新技術・新製品の開発」。さらに国家レベルになると「環境条約の批准」、「CO2排出権をめぐる交渉」、「環境税制の整備」といったところでしょうか。いずれにせよ、個人レベルなら個人レベルなりに、家庭のなかでできることはありますし、組織レベルでは企業や国家がそれぞれ環境に配慮した取り組みを進めているのが現状だと思います。

ところで「地球環境問題」というと、上記のようなイメージばかりが先行してしまい、大半の人々は、自分には関係が薄いことと思われていないでしょうか。テレビなどで環境問題を扱う番組などで、締めくくりではお決まりのように「皆さんも身近なできるところから・・・」といった言葉が出てきたりします。たしかに実際に、家庭内でできることは、それはそれとしてありますし、ゴミの分別や節電・節水に知恵を絞られている方々も多いと思います。

しかし、たとえば会社勤めをしているような方々からすれば「自分は環境対策の部署とは関係ない」とか、上記のようなテレビ番組を作られているマスコミ関係の方々でも「今は自分のテーマではない」など、いろいろな事情や理由で、地球環境問題に対する意識や活動が非常に限定的になっているのが実情であると思います。

しかし環境問題は、私たちにとって、非常に深刻かつ重大な問題です。ただ問題があまりにも大きいがゆえに、個人レベルではなかなか想像がつき難く、どうしても実感として落とし込めないため、特定の分野(上記のような個人レベル、企業レベル、国家レベルでの取り組み範囲)をイメージしながら、それを「地球環境問題への取り組み」として、認知しようとしているのでしょう。

けれども、地球環境問題は何も上記のような特定の分野に限ったものではないと考えるべきだと思います。端的に言えば、あなたが「道理に合っていること」を実践していくこと。それこそが、地球環境問題を解決していくことに貢献することであり、そうしたことの積み重ねが、やがて地球規模の問題を解決していくと考えるべきでしょう。

たとえば、アルバイト先で明らかに道理に合わない違法行為を強要されている、といったケースを考えてみてください。生活がかかっているから、どうしても従わざるを得ないという事情もあり得るでしょう。それはそれで仕方がないことだと思います。しかし、そうした不正には常に疑問を持ち続けなければなりませんし、ひとたび、そのような従わざるを得ない事情や理由が消滅した場合には、断固としてその不正と戦っていくべきです。

こうした不正を許しておくと、不正をしながら働く個人も、働かせている企業も「抜け駆け」の味を覚えます。「抜け駆け」というのは、ひとつでも許されていると、社会全体が「抜け駆け」を煽っていく体質になっていきます。これは個人のみならず、会社組織にも国家組織にも共通して言えることです。結果として、環境問題に真剣に取り組む人たちが損をする社会となり、いつまでも地球の環境問題は解決せず、むしろ自分勝手な人たちの暴走ばかりが続き、いずれ地球(人類)は破滅する結果を招くでしょう。

人間ひとりひとりにできることは、非常に限られています。そのなかで、直接的に「環境問題」につながる活動、いわゆる環境対策活動だけを探していては、環境問題の本質的な解決になかなかたどり着けません。

道理を守って生きていく、大義のために生きていく。当たり前のことのようですが、こうした心構えで十分だと思います。そのことが、将来的にはきちんと地球環境問題の解決につながっていくものと考えていいでしょう。そのうちに人間ひとりひとりができること、あなたができることは、どんどんと幅が広がり、より直接的に環境問題を解決する活動ができるようになると思います。環境問題が関係する分野は、特別なものではなく、そういう意味で、あなたの生活のすべてと関係していると考えたらいかがでしょうか。

※「妥協が許されない理由」参照

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アイディアの重要性

2007年11月23日 | 科学

あなたは、以下の文章を読んで、どのように感じるでしょうか。
==============================
私たちが存在している物質世界はひとつとは限らない。この物質世界に住まう私たちは、この物質世界を唯一の世界と認知しているが、他にも同じような物質世界が存在する。宇宙は、どこまでも限りない空間として存在しているようにみえるが、実はそれには限界があって、宇宙のさらに外側(この場合、単純な3次元的概念での外側ではない)には、別の無数の宇宙が存在する。そのうちのひとつは、私たちが知っている宇宙とほとんど同じで、銀河系も太陽系も地球もあって何もかもが一緒なのに、今日、あなたの昼ごはんがラーメンではなく、カレーライスであったというところだけが違う。
==============================
突拍子もない、単なる空想だと頭ごなしに否定できるでしょうか。

たしかに上の文章は、科学者でも何でもない素人の私が書いたものであり、頭ごなしに否定したくなる心情は理解します(「「創造主」の正体」参照)。しかし、実はこうした考え方そのものは最先端の分野を研究している科学者が言っていることなのです(アレックス・ビレンケン(2007)『多世界宇宙の探検 』日経BP社)。科学はこの世界で起こっている様々な事象について、論理的に説明するのには大変便利で、また高い説得力をもつため、多くの人々がこれを支持します。

けれども、実際の科学では未だ解けない謎ばかり(「万能でない科学」参照)で、その最先端で起こっていることは、新しいアイディアに基づいた仮説の設定とその検証作業の連続なのです。アインシュタインといえば、誰でも知っている大変優れた科学者ですが、彼が他の科学者と違ったのは、最先端の論理にたどり着くまでの仮説であり、その仮説を設定するためのアイディアであったとも言えます。そして、そのアイディアというのは、その時点での科学的見地からすると、突拍子もないことになります。この点が、非常に重要です(「「仮説と検証」のすすめ」、「限りなく想像し、創造せよ」参照)。

私がここに書いていることは、突拍子もないことばかりかもしれません。そのなかの一部は、今の科学あるいは宗教の考え方から大きく逸脱していることもあるでしょう。しかし、人類がこれからの世界観をかたちづくっていくうえで、ひとつのアイディア、あるいは仮説として検証する余地は十分にあると思います。考える時間は、まだあります。頭ごなしに否定するのではなく、まずじっくりと考えてみてはいかがでしょう(「分からないことは言わない」参照)。

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強い子供の育て方

2007年11月19日 | 教育

~~「やられたら、やり返せ!やっつけるまで帰ってくるな!」~~
~~私は、いつも親にこう言われて、強く育てられました。~~

テレビ番組などで、子供のたくましい育て方として、こういった親の言葉が紹介されることがあります。私は、こうしたやり方を否定するわけではありません。実際、いじめっ子になめられると後々まで引きずるし、どこかでガツンとやってやることは重要なことだとは思います。

けれども「やられたら、やり返す」、「目には目を、歯には歯を」的な発想から、そろそろ抜け出していかないといけない時代に入ってきているのではないかとも思います。兎角、今の時代は競争社会で、子供から大人までの誰もが先を争って生きていますが、「力をもって、力を制す」といった考え方や価値観には限界がきているし、このままでは人間も世界もひどく疲弊し、いずれ破綻をきたすような気がしてなりません。

たとえば、子供でいえば学校の成績。社会人でいえば年収やキャリア。企業でいえば業界シェア。国家でいえば軍事力や経済力。

みんなが先を争えば争うほど、それがエネルギーとなって、世の中が便利になったり、技術が上がったりするのも事実ですが、一方で戦争やら環境破壊やらで、目に届かないところで多くの人々が苦しめられたり、自分たちが住む地球をダメにしてしまうような事態が引き起こされつつあるのも、紛れもない事実ではないかと思うのです。

「やられても、グッと我慢しろ。お前が正しければ、いつか相手がその間違いに気付くはずだ!」

私は明示的に子供たちに対して、こんなことを言っているわけではありませんが、これからの世界のあり方として、私はこれからの子供たちには、こう言ってあげたいと思います。

先日、ある子供向けのプレイランドでの出来事。

プレイランドで息子を遊ばせて、私はボーッとベンチに座っていましたが、プレイランド内で遊んでいた息子が、ふとやって来て、私の横に座り込みました。

「もう遊ぶのを止めたのかな?」と思っていると、息子を追ってくるように、少し大きめの男の子がやって来て、息子に対して「パズル、一緒にやろうぜ!」と言ってきました。

しかし息子は、悔しさを押し殺したような表情で「やらない」と言いました。それからしばらくの間、その大きめの男の子は、息子に対してパズルの勧誘を続けていたのですが、息子があまりに頑なに断るので、結局、その子は諦めて、私たちのもとを去って行きました。

私はどうにも息子の様子がおかしいと思い、「パズル、やらないのか?」と聞いてみると、今度は悔しさをこらえきれなくなったようで、息子は泣き出して「あの子は、僕が作ったパズルを壊すんだ」と訴えました。

-なるほど、そういうことか-

私は息子を抱きかかえ、頭を撫でてやりながら「ま、時間もあんまりないし、せっかく来たんだから、何か他のモノで遊んで行こう」と言ってやりました。すると息子は無言のままうなずいて、またプレイランドの奥の方に向かっていきました。

しばらくすると、プレイランドの中央あたりで、その大きめの男の子と息子が一緒にいました。その大きめの男の子は、息子に「ごめんね」と謝り、息子は別に気にかけないといった様子で、二人は一緒に仲良く遊び始めました。

どうも、その大きめの男の子は、私が息子を抱きかかえて、慰めていた様子もみていたらしく、その後、私のところにも頻繁にやって来て、いろいろと話しかけてきました。

-この子なりに、悪いことをしたと思っているんだろうな-

結局、その日は閉館まで、その大きめの男の子と私を含めて、何やら楽しい時間を過ごすことができました。大きめの男の子は、その後、息子と相撲などもしましたが、今度は、わざと負けてあげたりというお兄ちゃんらしい優しさまでみせてくれました。

「パズルを壊されたから、壊し返す」のではなく、パズルを壊された悔しさをグッとこらえるという息子の心の強さが、その大きめの男の子の心を動かしたのであり、その日の楽しい時間は、息子が私たちにくれたプレゼントだと思いました。

「やられたら、やり返す」ではなく、「やられても、グッと我慢する」という心の強さ。それが真の強さであり、これからの時代、私たちに求められている強さであると思えてなりません。

一方で、そうした心の強さを持つことはものすごく大変で、ときに子供にとってとても残酷なことでもあります。「情けない!」と切り捨てるのではなく、そうした心の強さをもっている子供に対しては、大いに褒めてやり、自信を持たせてやる。ときには、泣いたりするだろうけれど、元気づけて送り出す。子供の強さを育てるために、「やり返せ!」とは、ちょっと違う親の優しさや愛情があってもいいと思うのです。

※「抜かせてはならぬ最強の剣」参照

コメント (2)
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「創造主」の正体

2007年11月17日 | 異次元

「創造主=神様」と考えている人が多いでしょう。たしかに、それはそれで正しいことではあります。もし世界を創造してくれた存在がいるとするならば、この世界に生きる者として、その存在に対して感謝することは当然のことだろうと思います。しかし、「創造主=神様」という図式には罠があります。実は「創造主=神様」とだけ信じるのは危険なことであり、一方で「創造主=サタン(大悪魔)」という側面があることを、見逃してはならないと考えます。

こんなことを書くと、ギョッとする人も少なくないかもしれません。ましてや、特定の宗教を信仰しているような方々にしてみたら、神に対するとんでもない冒涜と理解されると思います。宗教や科学には、正しい要素が多分に含まれています。だからこそ、宗教も科学も今日まで存続しえたし、多くの優秀な信奉者を輩出してきたのです。しかし、それらには限界があることも事実です(「宗教が説く真理」、「万能でない科学」参照)。創造主とは何かを考えるとき、科学的な見地からも、考察していく必要があります。なぜなら、宗教と科学の限界は、互いに補い合うことで克服していくことができるからです。

この物質世界は、大変不思議な仕組みでできています。私たちの世界は、3次元空間、時間軸まで含めて4次元世界として認知されているわけですが、科学の最先端の分野では、この世界は10次元や11次元といった非常に多次元によって成り立っているということまで論じられています。実際、この物質世界を構成しているものは、全体の物質の数パーセントでしかなく、残りの90%以上は、正体不明で分からない暗黒物質等(ダークマター)となっているということが、当たり前のように言われている(宇宙研究開発機構(JAXA)のウェブサイト等にも掲載されている)ほど、この物質世界は謎を秘めたままなのです。

そこで、これらの科学的な謎を説くために、ひとつの仮説を置きます。
(仮説の重要性については、「「仮説と検証」のすすめ」、「限りなく想像し、創造せよ」参照)

「世界は3次元や4次元を遥かに超える多次元(たとえば10次元など)によって成り立っている」

こう考えたとき、私たちが認知しているこの物質世界は、どのように捉えられなければいけないのでしょうか。

少し次元を下げて考えると、分かりやすいかもしれません。3次元空間に住む私たちは、複数の2次元空間を定義し、生み出すことができます。単純な話、あなたがある画用紙を取り出して、それを目の前に広げた時点で、あなたはひとつの2次元空間を定義したと言えるでしょう。そして、そのうえに絵を描いていくことで、あなたは2次元世界を創っていくことができるのです。このように、多次元に住む存在が、少次元を創り出すということは、何も不可能な話ではないのです。さらに重要なことは、あなたはそのようにして、画用紙をいくらでも取り出して、何枚でも絵を描けるということです。描かれた絵は、あくまでも2次元世界であり、そのなかしか認知できない存在にとっては、世界は1枚の絵(ひとつの2次元世界)のなかで完結してしまっているのです。しかし、3次元の世界から眺めると、絵(2次元世界)は何枚もあるのです。

これらのポイントを整理すると以下のようになります。

-多次元の存在は、少次元世界を創造できる
-多次元の存在が創造できる少次元は、ひとつとは限らない(複数に及ぶ)
-少次元内の存在は、自分たちの少次元世界を唯一の世界と認知する

これらのポイントを考慮したとき、今回の「世界は3次元や4次元を遥かに超える多次元によって成り立っている」という仮説は、以下のように再整理することができるでしょう。

-多次元の存在が、この物質世界を創造した
-こうした物質世界は、ひとつとは限らない(他にも同じような物質世界が存在する)
-この物質世界に住まう私たちは、この物質世界を唯一の世界と認知する

「何?我々の世界が何者かによって創造されたって言うのか!他にも物質世界があるだと?馬鹿げている!」

こんな言葉も聞こえてきそうですが、そう切り捨てるのであれば、暗黒物質や多次元に関する科学的な議論について、明確な答えを用意する必要があります。「生命まで生み出せるのか?」という疑問もあるでしょう。しかし、そもそも生命とは何なのでしょうか。本仮説にあるような多次元を明確に否定できず、一方で数々の科学的な謎について、確かな答えを持ち合わせていない私たちが「多次元の存在といえども生命を生み出すことは不可能」と断じることはできないはずです。

少々、前置きが長くなりましたが、ここで本来のテーマである創造主とは何者かに話を戻したいと思います。創造主を、この世界を創り出した多次元の存在とするならば、その創り出してくれたという行為を指して「創造主は神様」だということはできます。しかしその神様は、この世界を創り出しただけあって、この世界のあり方に最もこだわりをもった存在でもあります。そしてまた、世界を創り出すことができるのであるから、当然、壊すこともできるでしょう。

この世界が美しければ、創造主はこの世界を愛することができますが、この世界が醜く歪んでいくようなことがあれば、自ら造ったこの世界を憎み、滅ぼそうとすることもできると考えるべきです。このように、この世界を憎み、滅ぼそうとする側面こそが、創造主のサタン(大悪魔)としての顔です。

ただし、ここで重要なのは「創造主は神様か?サタンか?」という結論ではありません。創造主は、どちらにもなり得るのです。創造主の姿を決めるのは、あくまでもこの世界が美しいか、醜いかということです。そして、この世界が美しいか、醜いかは、私たち人間が決められることであるということが、最も重要であり、また私たち人間が、この世界を美しいと思うか、醜いと思うかも併せて同じように大事なことなのだと思います。

戦争、環境破壊、飢餓、疫病・・・。こうした問題に絶望せず、人間ひとりひとりが、希望をもって明るい世界を創ろうとすることこそが、世界を美しくしていく行為であり、「創造主=神様」の図式を成立させていくことにつながっていくでしょう。創造主の姿を決める鍵は、他でもない私たち人類に握られていることを、私たち自身は自覚していかなければなりません。その意味で、私たち人類は、創造主すらも越えた存在とも言えるのです(「「自分教」の薦め」参照)。

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傲慢と生意気

2007年11月10日 | 人生

偉そうに分かったような口をきく、気に食わない人。誰の周りにも、そういう人はいるものです。あなたの周りにそんな人がいたとき、あなたはその人に対して、なんと言うでしょうか。

「あいつは傲慢なヤツだ」

もしこう言うとしたら、あなたには余程の注意が必要です。なぜなら、もしその人が言っていることが合っていて、あなたが間違っていたとしたら、傲慢なのはその人ではなく、むしろあなたになってしまうからです。その人が言っていることが、どうあっても理不尽で、絶対に間違っていると断言できるときのみ、あなたはその人に対して「傲慢」という言葉を使えます。

「あいつは生意気なヤツだ」

それに対して、あなたがその人に向かって、こう言うならば、ひとまずあなたには謙虚さがあると言えるでしょう。その人が言っていることが合っているかどうかは分からない。もしかしたら、正しいことを言っているかもしれないけれど自分には意味が解せない、あるいは内容の是非はともかく気に食わないといったときには、あなたはその人に対して「生意気」という言葉を返してやればいいのです。

たとえば、ある会社の社長と新入社員。新入社員が、社長に対して大層偉そうな口を叩いたとします。

ケース1:会社全体を考えている社長 VS 単に青臭い新入社員
ケース2:私利私欲の会社運営をしている社長 VS 会社思いの新入社員

ケース1では新入社員は傲慢ですが、ケース2では新入社員は生意気なだけで、むしろ傲慢なのは身勝手な社長になります。どちらがより全体のためを思って発言をしているのか。この場合、それが傲慢と生意気の差になるのです。

「あいつの言動は、偉そうで気に食わない」と思ったとき、それはその人が傲慢なのか、それとも単に生意気なだけなのか。よく考えてみるとよいでしょう。もし、生意気なだけだとすると、謙虚にその人の言ったことについて考えてみることが、あなたにとって大切なことになるはずです。

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