常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

めっちゃ子供ですっ!

2010年07月29日 | 日常

アメーバで遊び始めて、1か月が経ちました。

所謂、仮想現実のなかで遊ぶアメーバピグでは、現実世界で会うことすらままならないような、実に多様な人たちとお友達になれて楽しいです。

特に面白いのが、小学生のお友達。娘と同世代の彼らは怖いもの知らずで、ストレートな言葉のやり取りが得意のような気がします。そして、それを重ねていると、すぐにお友達になれてしまうのです。

「かずk」、「竹ちゃん」、「たけちー」・・・

これらは、彼らがつけてくれた私のあだ名です。普通の現実世界だけで生きていたら、このような関係はあり得ないでしょう。これは、なかなか楽しいものだと思います。

-たけちーほんとに子供みたい-

そして、こういうのは最高です。この子たちと一緒に遊んでいるなかで、私のことを「子供より子供」と言わせるあたりに遊びの妙を感じます。

-そうそう、僕はミラーマンだかんね-
  ※「ミラーマンな自分」参照

心のなかで、そんなことを思いつつ、今日も楽しくピグで遊ぶのでした。

《おまけ》
ピグは、とてもよくできていると思います。しかし、ほとんど使えるお金がない子供たちは、欲しいアイテムが買えない等、少々、可哀想な面があるような気がします。私なりに、ピグ上でそういう子供たちの悩みを聞いたり、相談に乗ったりしており、このあたりの問題については、自分が考える新しいインターネットサービスのなかに、何かしらの仕組みを取り入れたいと思っています。遊びは勉強!勉強は仕事!仕事は遊び!

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それで?どう生きる?

2010年07月21日 | 人生

R25」に「『耳をすませば』放映でなぜか鬱になる人続出」という記事がありました。以下、その記事からの抜粋です。

=============================
作品中に描かれている美しい学生時代を見ることで、「自らが過ごした学生時代がいかにつまらないものだったのか」ということを思い知らされてしまったことが、「鬱」になった理由のようだ。
=============================

よく分かりませんが、自分でそう思うからには、そうなのでしょう。そして、そのつまらなさ加減を、大いに思い知ったらよいのではないかと思います。

ただし、問題は、その上でこれからをどうやって生きるかということです。 過ぎたことを悔いても仕方がないし、くよくよしていても何も始りません。大切なことは、それでも今を生きているということであり、それを受け止めてこそ、これからを強く生きられるのだろうと考えます(「時間との付き合い方」参照)。

私は、「鬱」自体、悪いことだと思いませんし、むしろ真面目であることの証と言えるとも思っています(「「うつがない」という病気」参照)。しかし、「鬱」に呑まれたままでは、それだけの人生で終わってしまうことも事実です。

「自分が過ごした学生時代がつまらない?それが分かっただけ大したもんだ。それで?これからどう生きる?」

ちょっと意地悪かもしれませんが、これに応えてきっちり生きようとする人は、きっと強く生きられるのだろうと思います。そして人間には、そういう力があるものだと信じて止みません。

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2010年7月期のアニメ

2010年07月16日 | ランキング

7月も半ばを過ぎました。7月から始まっているアニメ、いつも通りランキングをつけてみました。ただ、どうも最近、いろいろとやることが増えてきてしまい、アニメに時間を割けなくなってきたこともあり、順位も3位くらいまでしかつけられませんでした。

順位

タイトル
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生徒会役員共
生徒会役員の面々、それぞれのキャラが特徴的で楽しいです。「間」というか、テンポの良さみたいなところも、とても惹きつけられます。

みつどもえ
あの三つ子、インパクトありすぎでしょう。個人的には、ひとはちゃんファンです。時折見せる、あのホラー並みのギロ見は反則です(笑)。

世紀末オカルト学院
まぁ、まだよく分かっていませんが、「オカルト」なるものを、作品のなかでどのように扱っていくのかに注目してみたいです。

その他、いくつか新しくスタートした作品もありますが、今期については、今のところそれほど大きなインパクトを感じていません。一応、「オオカミさんと七人の仲間たち」、「黒執事II」、「アマガミSS」、「伝説の勇者の伝説」、「祝福のカンパネラ」、「セキレイ ~Pure Engagement~」、「ぬらりひょんの孫」、「ストライクウィッチーズ2」、「あそびにいくヨ!」、「戦国BASARA弐」、「屍鬼」あたりをウォッチしています。これらは、今後の展開に期待です。

前期の作品は、「WORKING!!」や「荒川アンダーザブリッジ」が、最後まで面白くて良かったです。「荒川アンダーザブリッジ」は2期もあるみたいですが、個人的には「WORKING!!」も、何とかしてほしいところです。ぽぷらちゃん、最高でした。

加えて、「会長はメイド様!」、「GIANT KILLING」、「けいおん!!」等は、前期から引き続き放送されているので、これらは今まで通り、楽しみながら見ていきたいと思います。

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ボランティアさんに感謝

2010年07月14日 | 産業

インターネットが参加型メディアであり、ユーザーに開かれたシステム(オープンシステム)であるということにこそ、とても重要なポイントがあることは、繰り返し述べているとおりです(「次世代インターネット」等参照)。

最近、よく利用しているアメーバピグでも、それを痛感させる出来事がありました。

アメーバピグは、ネット上の仮想世界で生活するもので、アバターと呼ばれる自分のキャラクターを使って、そのなかを行き来します。昨日は、タイムトラベルをして、カリブ海の海賊船に乗りました。とにかく初めての私は、何が何だかよく分かりません。船の両脇には大砲があるのですが、とりあえず面白いので、バンバンと適当に撃っていました。

その内、船の真ん中あたりで、やたらと元気に「指示らしい」言葉を発している人がいるのに気付きました。

-○○さん、そこはどいてください-

-皆さん、私がジャンプしますから、着地のタイミングに合わせて!-

-勝手に連射しないでください-

どうやら、大砲の撃ち方を指示しているようなのです。私以外にも、訳が分からないま適当に撃ってしまっている人がいるので、なかなか収集がつきません。しかし、しばらくすると、皆がその人の存在に気付き、耳を傾けるようになり、だんだんと全員がひとつになるのが分かりました。その人が船の中央でジャンプをすると、大砲の射撃手全員が、その着地に合わせて砲撃を行うようになるのです。

しばらくこれを繰り返していると、船の向こう側からニョキニョキと巨大なイカが姿を現しました。どうやら、全員の一斉砲撃によって、巨大イカが現れる仕組みになっているようなのです。

-見えましたか?-

-見えてない人いたら、もう一回やりますよ!-

しばらく、海賊船からの大砲撃が続いて、巨大イカが何度か現れたり、消えたりを繰り返しました。それらが一旦、落ち着いたところで、私はその人に近寄って、ちょっと話しかけてみました。

-ピグのスタッフさんですか?-

そのあまりの熱心ぶりと、砲撃手をまとめるリーダーシップに感服し、おそらくスタッフではないだろうとは思いつつ、こう質問してみたのです。すると、その人は笑って、「よく言われますww」と答えながら、自分はボランティアで、みんなに巨大イカを見てもらいたいからやっていると言いました。

-これぞオープンメディアの醍醐味!-

従来のように発信者と受信者が決まってしまっているメディアでは、「砲撃手たちをまとめる」といったような仕切りは、そこの運営者であるスタッフ等が、「ユーザーへの説明」という仕事として行っていたでしょう。しかし、インターネットのようなオープンメディアでは、それぞれがその世界のなかで、好きなように振る舞えるのであり、従来であればスタッフがすべき「仕事」を、謂わばボランティアでもこなしてくれるわけです。

そこには、そのボランティアさんの「みんなに巨大イカをみせてあげたい」という善意が存在するわけで、それをうまく活せる仕組みを構築することこそが、これからのインターネット事業者のすべき仕事であると考えます。私としては、それを厳密に追求する意味でも、これからのインターネットでは、それにプラスしてボランティアの方に感謝の気持ちを伝えられる仕組み、お賽銭のようなチップを支払えるシステムが必要だろうと思っています(「お賽銭モデルの提唱」参照)。

ただそれでも、ひとまずは昨日の海賊船での出来事を目の当たりにして、あらためて、私が考える次のインターネットの仕組みを支える「人々の善意」があるであろうことは、きちんと確認できましたし、それだけでも大きな意味があったと思うのでした。

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2010年参院選の結果

2010年07月13日 | 政治

先日の参院選の結果、イメージ通り過ぎて、面白すぎます。以下、私が「旧時代政治終焉のシナリオ」で整理した「政治」が終わるまでのシナリオです。

第一段階:力があってビジョンを失った人々(自民党)
第二段階:それなりの力があってビジョンがない人々(民主党)
第三段階:力もビジョンもない人々(その他小政党、無所属)
 ※「力」については、時を追う毎に無力化していくと思われますが・・・

今回の選挙結果は、上記の記事のなかでも述べている、軽い揺り戻し現象を起こしつつ、第三段階への予兆が見え始めていると考えます。

即ち、「民主党の過半数割れと自民党の粘り」が「軽い揺り戻し現象」であり、「みんなの党の躍進」が「第三段階への予兆」です。

近い将来、みんなの党のような政党が、政権の中枢に入り込んでいくことでしょう。それによって、ようやく旧時代政治が最終段階に入ります。そしてさらに、それらの政党でも立ち行かなくなって、はじめて、新しい理念を持ち、新しい時代を切り開く政治家たちが誕生することでしょう。

そこでの政治は、これまでの常識をひっくり返す姿になっていると思います。

極めて順調な感じがしており、とてもワクワクします。

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虫とは棲み分けが大切

2010年07月12日 | 人生

今朝、洗面所に虫が現れたのでやっつけました。

-ごめんなさい-

殺生はいけないことながら、やっぱり虫はダメです。そして、尊ばなければいけない命を、何故、奪わなければいけないのかを考えました。

まず、根本的に私は虫が嫌いです。どこを這いずり回ってきたのかも分からないし、場合によっては、我々に対して、ばい菌をまき散らしたり血を吸う等の害をもたらすことは事実です。しかし、だからと言って「虫は死ぬべし」と言うつもりもありません。虫にも命があるわけですし、できることなら生きているに越したことはないと思います。

そういうことを含めて考えると、虫は虫の世界、私は私の世界という具合に棲み分けが大切なのだろうと思うほかありません。

私自身、ある一定の生活圏のなかで生きており、虫が住む場所に無理やり立ち入ったりすることはしません。だから、彼らに対しても、私が住む場所には立ち入らないことを願うのです。もちろん、虫に対しては、言葉が通じませんので、それを期待しても無駄でしょう。

ただそれでも、私は私の生活圏で生きており、虫の生活圏に立ち入るつもりはないので、あくまでも私自身の心持ちの問題ながら、彼らには相互不可侵を断固、求めていきたいと思います。

-虫は虫の世界で生きるべし-

-我が目前に現れた虫は容赦なく叩き潰すべし-

繰り返しですが、私は虫の死を願うわけではありません。しかし、上記、相互不可侵を理解できなかった虫には、死をもって理解してもらうしかないでしょう。

余談ながら、もしかしたら、これは人間関係でも言えることかもしれません。別に特定の人を論って、「虫」呼ばわりをするつもりはありませんが、「虫」と言われても仕方ない生き方、あるいは「それ、自分かも」と思い当たってしまうような人は、これから先も、私の視界には入らないでいただきたいと思うのです。幸い、今、私の視界には一切の「虫」がおらず、それは私にとって、とても幸せなことだと考えます。

いずれにせよ、そうした人間関係をも含めて、棲み分けというのは非常に大切なことではないかと、あらためて思うのでした。

《おまけ》
気分的には、「かんなぎ」のナギ様が、クモ等の「ケガレ」を祓うようなものだと思っています。ナギ様がいたら、ナギ様にお任せするのですが・・・どっかにナギ様いませんかねぇ(笑)。

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交差点としてのこの宇宙

2010年07月09日 | 科学

最先端の科学で言われるように、世界が10次元とか、11次元といった高い次元まで存在するとして、この宇宙をどのように解釈すべきかという問題があります。

それについては、いろいろな表現ができるかと思います(「揺らめく現実世界」等参照)が、私なりには、この宇宙が無数の高次元世界が交わるところに存在するのではないかと考えます。次元を跨いだ世界同士が交わるという表現については、少々、分かりにくい部分があることでしょう。私たちは、自らの肉体が構成されている三次元空間のなかで、物をはっきりと認識することができるので、ここでは、それ以下の次元を使った例え話として、簡単に整理してみたいと思います。

-線と線が交わると点が生まれる-

-面と面が交わると線が生まれる-

-立体と立体が交わると面が生まれる-

ここに疑念の余地はないと思います。互いに交わらない線もあるでしょうが、それがどこかで交われば、必ず点が生まれるわけです。それは面と線、立体と面の関係においても、まったく同じです。そして、そのことは次のように言い換えることができます(点は、空間が存在しない、即ち空間の次元が存在しないという意味で、「零次元世界」としています)。

-2つの一次元世界同士の交わりで、1つの零次元世界が生まれる-

-2つの二次元世界同士の交わりで、1つの一次元世界が生まれる-

-2つの三次元世界同士の交わりで、1つの二次元世界が生まれる-

つまり、低い次元の世界というのは、高い次元の世界同士の交点と捉えることができるわけです。さらにその次元間の関係は、例えば、次のように語ることもできます。

-3つ以上の面同士が交わることで1つの点が生まれ得る-

-3つ以上の異なる二次元世界の交わりで1つの零次元世界が生まれ得る-

これが起きる確率は、少し低くなります。単純に3つの面が交わっただけでは、まったく交わらない複数の線が生まれるだけになる可能性があります。3つ以上の面が交わってできた線同士が、さらに交わって点を生むというのは、「その可能性がある」という話なので、上記のように「点が生まれ得る」という言い方になります。加えて、面の数が3つではなく、4つ、5つと増えていき、それらの面が全て1つの点で交わるとしたら、その確率はますますと低くなることでしょう。

しかしそれでも、その可能性があることは確かであり、零次元世界は複数の(あるいは無数の)二次元世界の交点たり得るということです。

ここで、次元を上げて話を戻すと、私たちが視認しているこの三次元世界、この宇宙というのは、そのような高次元世界の交点として存在しているかもしれないということです。そこで言われる高次元世界が一体何かについては、既に本ブログにおいて、何度か触れているところでもあるので省きます(四次元については「「四次元の目」で見えるもの」や「確からしい四次元の存在」、五次元については「五次元世界へのヒント」等参照)。

私たちが住んでいるこの宇宙は、そうした四次元世界同士の交点、あるいは五次元世界同士の無数の交点が偶然に一致するような(面同士が交わってできた無数の線が偶然一点で交わるような)、四次元世界同士の交点ではないかということです。そして、私が考える四次元世界、または五次元世界に照らし合わせて、これを解釈すると、この宇宙はあらゆる生命体の精神世界が交わるところで成立しているのであり、そのなかの事象は、彼ら全体の最大公約数的なものであることになります。

これが意味するところは、つまり、この宇宙があらゆる生命体のために存在しているのであり、彼らが望むかたちとしてできあがっているということです。これは例えば、宗教的な表現として「天上天下唯我独尊」だったり、日常的な言葉として「夢は実現する」という言葉に繋がってくるのでしょう。

ただし、大切なことは、それがあくまでも最大公約数的であるということです。つまり、ある個体の度を越したイメージ(精神レベルにおけるひとつの世界形成)は、別の個体の世界観では受け入れられず、その結果、それがこの宇宙では実現しないということです。

若干、話が横道に逸れますが、私は錬金術なるものを完全に否定するつもりはありません。物質の最小単位が、必ずしも元素でなくもっと細かい素粒子であるならば、複合粒子の束縛状態をどう解くかという確率の問題はさておき、そのレベルでの組み替えを行うことで、元素としての金を生成することは、絶対にできないとは言い切れないだろうと思うのです。ただし、錬金術をある特定の人が使えるようになって、好き放題されてしまったら、世界の秩序は大きく崩れることになります。つまり、無数の人々が困るのです。錬金術が不可能ではないにせよ、それが大っぴらに認められず、人々の目に晒されることがないのは、全体の最大公約数的範疇に収まらないからであろうと考えるわけです(そういう意味で、「鋼の錬金術師」の終わり方は、誠に良かったと思っています)。

いずれにしても、私としてはそんなことを考えつつ、この宇宙があらゆる生命体の最大公約数的な、ある意味、無数にあるかもしれない三次元宇宙のなかで、最も美しい姿を保っているのではないかと思うのでした。

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白い奴と黒い奴

2010年07月01日 | 歌詞&台詞

鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST」、いよいよ佳境に入ってきました。来週、ついに最終回です。そんな中、先日なかなか興味深い台詞のやり取りがありました。キャラの名前が分からないので、以下、「白い奴」と「黒い奴」でまとめさせていただきました(「黒い奴」は、フラスコの中の小人・ホムンクルスですね)。私なりに、これらはそれぞれ「神」と「悪魔」に置き換えて呼んでもよいのだろうと思っています。

=============================
■黒い奴
なぜだ?なぜ私の物にならん?
神よ、何が気に入らないのだ。

□白い奴
お前は己を信じないからだ。
他人の力を盗み、人から生まれたもののくせに神とやらにしがみついていただけだ。
お前自身が成長しておらん。
7つの欲を切り離せば、人を超えられるとでも思ったか?
笑わせるな。

■黒い奴
私は完全な存在になりたかった。
この世のすべてを知りたかった。
欲して何が悪い。望んで何が悪い。願い求めて何が悪い。
・・・何だ?何だ、お前は?何だっていうんだ?
何様のつもりだ、お前は?!

□白い奴
私は、お前たちが世界と呼ぶ存在。
あるいは宇宙。あるいは神。あるいは真理。あるいは善。あるいは一。
そして、私はお前だ。
思い上がらぬよう、正しい絶望を与えるのが真理。
(中略)
だから、お前にも絶望を与えよう。

■黒い奴
戻りたくない。嫌だ。
やめろ、そこに縛られ続けるのは嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。

□白い奴
思い上がった者に絶望を。

■黒い奴
私はどうすればよかったのだ。

□白い奴
お前が望んだ結末だ。

■黒い奴
どうすればよかったのだ。

□白い奴
お前はその答えを見ていただろうに。
=============================

特に、「欲して何が悪い。望んで何が悪い。願い求めて何が悪い」という部分、個人的には大好きです。

-悪いとは言わないが、身の丈に合わぬ物を欲した責任は取られよ-

やり取りを見ながら、思わず間に割って入って、こう答えたくなる自分がいました。

自分の馬鹿さ加減に気付かないのが、本当の馬鹿です。黒い奴、即ち悪魔は、自分の実力をわきまえず、分不相応な欲に支配された救いようのない「大馬鹿君」なわけです。「大馬鹿君」が大そうな物を欲すると、世界に大きな歪みが生じ、周りが大変な迷惑を被ります。「大馬鹿君」はそのことに対する責任、自分が「大馬鹿君」であることに気付けなかった責任をきっちりと取らなければなりません。酷ですが、それが摂理というものでしょう。

そして一方で、「大馬鹿君」ほど可愛いものもありません。

-お前はその答えを見ていただろうに-

「白い奴」からしてみれば、「黒い奴」が何度も答えを目の前にしていることを知っているわけです。それが分からない「大馬鹿君」は、ある意味、可愛くも見えるでしょう。しかし、そうかと言って、そのまま見逃してあげるほど甘くもありません。「大馬鹿君」には、それに相応しい罰が下ることになりますし、欲してしまった以上の代償を支払うことになるわけです。

世界を語るもよし、他者を批判するもよし、天才を気取るもよし・・・しかし、フラスコの中の小人は、所詮、それまでの存在です。それをわきまえることができない以上、きちんとフラスコの中に納まっていなければいけないということでしょう。

コメント (4)
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