常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

タブーの検証でみえること

2006年09月30日 | 社会

タブーというものが存在するということについて、異論を唱える人はいないでしょう。あるテーマについて、事実がどうであるかはよく分からないけれども、とにかくそのことについて触れてはならない、言及してはならない、というものが存在します。ところで何故、タブーが存在するのでしょうか。当然、タブーがタブーとして存在するには、それだけの理由があると考えるべきだと思います。

タブーについて言及したり、深く追求したりすると、得体の知れないところからいやがらせがあったり、脅しがあったり、下手をすると殺されたりしてしまうというのは、何も映画の話ではないと考えたほうがよいかもしれません。現実世界で十分に起こり得る話です。それだけ、重要なだけにタブーはタブーとしてあり続けるのでしょう。

一方で考えなければならないのは、もしタブーの真相が明らかになると、どんなことが起こるのか、ということです。タブーがタブーである理由は、間違いなくその真相を隠そうとする人々がいるからです。その隠そうとする人々の力が強ければ強いほど、そのタブーは「ヤバイ話」になってきます。タブーが国家や世界権力とつながっているような類のものであれば、当然、それを隠そうとする勢力は巨大なものとなるでしょう。逆の言い方をすれば、それだけ巨大な勢力というのは、多くの人々に強い影響力を持っている存在であり、それが関わるようなタブーというのは、それだけ多くの人々の生活や人生にも、大きな影響を及ぼすものになるということです。反対に、もしそのようなインパクトがない、どうでもいいことならば、タブーはタブーにはなりえないともいえます。

ところで、最近のインターネットの発達により、特定の勢力の人々が、自分たちにとって都合が悪い事象をタブーとして闇に葬り去るというのは、なかなか難しくなってきたように思います。

たとえば、9・11の同時多発テロに関連して、ある日本のテレビ局では「ペンタゴンに飛び込んだのは飛行機ではなかったらしい。近辺のガソリンスタンドの監視カメラに写ったのは、無人偵察機だった」といったようなことを、謎めいた話として、視聴者の興味を惹くようなストーリーで展開します。「なるほど、ありうる」という話は、テレビ向けにはもってこいのネタでもあります。インターネットが普及していなかったら、そこから先、事実関係や裏づけ情報などについて、自分で検証するということは、ほとんどできなかったでしょう。しかし、これだけインターネットが発展し、さまざまな情報にアクセスできるようになると、事件で不自然とされること、報道されている内容と辻褄があわないことがどれだけあるのか、瞬時に検索し、検証することができてしまいます。実際、9・11の事件で、ペンタゴンに激突したのは、明らかに飛行機ではないでしょう。このことは、某テレビ局の特集でもあったとおり、カメラに写ったものが飛行機ではないようだ、というのもそのとおりですが、攻撃を受けた後、後片付けをしている現場の写真でも、飛行機の残骸らしきものはまったく見当たらないのは、あまりにも不自然だし、何よりも建物の損傷跡が飛行機よりもずっと小さいのが一目瞭然です。

結局当時、このことでアメリカの対テロ戦争という大義名分が打ち出され、それが正当化されました。その後まもなく、ありもしなかった大量破壊兵器を理由にイラクとの戦争に突入しました。中東情勢の不安が煽られ、現在ではイランの核問題なども加わり、石油の高騰が続いています。そして、この石油高騰が人間社会全体に及ぼす影響は、まことにもって大きいものです。

考えていただきたいと思います。ペンタゴンに突っ込んだのが飛行機だったのか、そうではなかったのか。そのこと単体でみれば、どうでもいいテーマかもしれません。しかし、物事は巨視的にとらえる必要があります。もし飛行機ではなく、ミサイルだったとしたら、何を目的としているのでしょうか。「分からない、謎である」で終わらせてしまっては、今のテレビ番組の域を出ることはできません。仮説でも結構です。「こうだとしたら、辻褄があうのか」という検証を重ねることで、真実がみえることがあります。インターネットという素晴らしいツールもあります。自ら調べることができるし、それらを通じて考えてみるべきではないでしょうか。タブーは、必ず自分たちの生活と深く関わっているのです。石油高騰という事象は、直感的には、便利か不便かという程度の話かもしれませんが、、突き詰めていくと、必ず自分や家族、周りの人たちの生死に関わることにまで発展していくことになります。それがタブーの怖さです。そしてタブーの怖さは、その事象単体ではなく、周辺の事情やその関係をひとつひとつ検証し、物事を巨視的にみることでしか分からないのです。

ただ、たしかに物事を巨視的に捉えるには、たくさんの時間が必要でもあります。反対に今日、明日の小さなことを考えるのに多くの時間を必要としません。現代社会は忙しいし、人間はなかなか余裕をもつことができなくなってしまっています。大きな問題があることを知りながらも、それらについて考えるよりも、明日の身近な心配をしがちになります。目の前にある安楽を求めようともします。しかし、それでは世の中の大きな流れがみえてこないし、そのなかで自分がすべきことを見出すことができなくなってしまいます。

タブーとは何か。世の中で何が起こっているのか。少し余裕をもって、そういうことを真剣に考えられるようになると、自ずと大きく深い問題意識が生まれ、人生をかけてやるべきことが分かるようになるのではないかと思うのです。

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原罪とは・・・

2006年09月26日 | 宗教

人間は生まれながらにして、罪を背負っているという考え方があります。これを、キリスト教では原罪といった言い方をします。何をしたわけでもないのに、勝手に罪を着せられるとは、甚だ不愉快でもあります。

いや、しかし実はすべての人間は罪を背負っていると言うことができると思うのです。

今の人間社会は汚れたところ、歪んだところがたくさんあります。絶えず、競争のなかで生かされており、そこで優劣が決まっていくため、互いを心から尊重することができません。相手を尊重することもさることながら、最終的には、他人よりも優れた存在でありたいと願うことも事実です。

そこに憎しみが生まれ、競争が起こります。そして皆、この競争社会のなかで、少しでも優位な立場で生きようとしています。社会システムは、これらの人間の生き方を反映し、発展してきました。会社の仕組み、資本主義の仕組み、国家の仕組み・・・、これらは、すべて競争原理のなかで生まれてきたものです。

競争原理を基盤とした人間社会で、優劣を決めるのは、権力、財力、名誉などです。人々は、これらを求めて生きていきます。個々人のレベルでみたときに、必ずしもそうでない人々もたくさんいるでしょう。いやむしろ、心の底では、そうでないと思っている人々がほとんどかもしれません。しかし、ほとんどの人が仕方ないことだと諦め、競争原理の尺度や価値観にあわせて生きていこうとするのです。

ところで、こうした社会システム、人間の価値観によって、何がもたらされているでしょうか。経済優先主義、人間の利己主義により、実は本来突き詰めるべき価値を追求できなくなっていると思うのです。

人間はそれぞれ、自分は経済的に豊かになりたいと思うから、それを獲得するためにある程度必要な犠牲を払います。例えば、他部署との関係は構っていられない、ライバル社との利害は構っていられない、国家同士の摩擦には構っていられない・・・等です。そしてとくに、地球のように、その犠牲となる対象の規模が大きければ大きいほど、自分だけが気をつけても仕方ない、あるいは意味がないと思えてしまうのでしょう。

その結果として、最も大きな問題である地球環境問題には、最も無頓着になるのかもしれません。大気汚染や砂漠化、森林伐採などの環境破壊が進み、気温変動や超大型ハリケーンの発生などの異常気象も頻繁に起きるようになりました。人間の勝手な振る舞いにより、地球環境が大きく変化し、地球が悲鳴をあげ始めているのです。しかし、個人としての人間はそんなことに構ってはいられません。いずれ、人間はそのことで自滅してしまうかもしれないのに・・・。

それでも人間は自業自得。まだ良いほうだと思います。人間が、あたかも地球の主のように振舞うせいで、迷惑を被っている地球上の他の生物にとっては、たまったものではありません。人間の身勝手な行動により、既に絶滅に追い込まれた動物たちは数多くいますし、今日現在、絶滅の危機に瀕してしまっている種も少なくありません。このことは、幼い子どもでも知っている周知の事実です。

結局、地球規模の問題の多くが、競争原理の仕組みのなかで生まれ、その世界を受容し続け、その枠組みで価値があるものとされているものを目標においた、利己的な人間たちに責任があるといえると思うのです。だからこそ、今の人間社会は、根底から変わっていかなければならないと考えます。このことは、もちろん人類のためでもありますが、他の生物や地球全体のためでもあります。

我々はそうした身勝手な人間社会に生まれたのです。そこで育ち、今住んでいるのです。そして、少なくとも、多くの人たちが、そのなかでの価値観を信じ、それを獲得するための犠牲を払いながら、生きてきたはずです。

しかし、だからといって、そこに安住してはならないと思います。そこに安住し続けることは、人類だけでなく、他の生物や地球に対して、ダメージを与え続けることでもあります。その罪を認識しないことは、大きな罪です。「自分は立派に生きてきた。思いやりもある。自信をもって素晴らしい人生を送ってきている」という人がいるとしたら、そこにはウソが含まれていると思うべきでしょう。それが本当だとして、何故地球がこんな状況になっているのでしょうか。少なくとも、その人は地球規模の問題から逃げているのであり、その意味では「そこまで立派には生きていない」ということになります。

あまり時間は残されていないと思います。もし、これまで自分が犯してきた罪に気付いたならば、そのことについて、真摯に受け止め、その償いのために早速行動を起こさなければなりません。自分の罪に気付いていながら、行動を起こさないのは、最も大きな罪でもあります。

人間ひとりひとりが、この世に生きているのです。生きている人間は、例外なく社会の一構成員であり、世界の形成に貢献しているのです。同じ貢献をするならば、きちんとやるべき事を認識し、それから逃げず、立ち向かっていくべきではないでしょうか。

その積み重ねによって、人間社会は、きちんとよい方向に向かっていくのだと思います。

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イエスから学ぶもの

2006年09月21日 | 宗教

人間には個性があります。個性に同じものはありません。必ず何かしら違うものです。それが人間。お互いの良さを認め、尊重し合う。お互いの悪さについても同じように認め、それを補い合う。だから、人間同士争う必要はないのです。人間は共存する生き物であり、共存のために自分ができることをする、持っているものを与えていくのです。

イエスという人は、首尾一貫して愛を説きました。自分以外の人々に、わけ隔てなく等しく愛情を捧げる。そこに見返りを求めてはならず、たとえ自分を殺そうとするような人間に対しても、無条件の愛を注ぐべきであるとしました。そしてそれを、人生をかけて実践したのです。

しかし人間は、無条件の愛を注ごうとする者に対して、それを殺すという行為に及びびました。人間は不完全であり、他人が持っているものを自分が持っていないことに対して、コンプレックスを抱きます。その人が持つ、限りない愛情が自分に向けられていることを知りながらも、自分がそのような愛情を持っていないことに対して、コンプレックスを抱いている人間は、終にイエスを殺してしまいました。このことは、人間が不完全である表れでもあります。

このような不完全な人間社会において、イエスの愛は、残念ながら片手落ちだったとも言えます。イエスは無限、無償の愛を説いた素晴らしい人物でしたが、彼の愛は一方通行でした。彼が説くように、愛とは見返りを求めるべきものではありません。しかし、一方通行のままで、その愛を理解してくれる人間がいなくては、結局のところ、その愛は悲劇を生みます。結局は、それを理解しない人間に殺されてしまったのです。

人間は不完全で、成熟しきれていません。そして、イエスの愛に、同じような大きさの愛で応えられるような人物はいませんでした。イエスが言うような深い愛を、イエス以外の人間が誰か一人でも、真に実践することができていたならば、その人物がイエスの死を目前にして、イエスを救っていたはずです。またイエス自身も、その人物のため、自らが生きるということ、自分の命に執着したはずです。

しかし、実際にはそうなりませんでした。イエスは十字架にかけられたのです。それは、イエスの愛に、イエスとまったく同じような愛で応えられる人間がいなかったからです。けれども、それでもなお、イエスは自らの信念を曲げませんでした。彼は、自分の信念を貫き、自分を殺そうとする人間たちに求めることをしませんでした。理解してもらおうとはせず、見返りを期待しませんでした。そして、実際に見返りはなく、殺されていったのです。彼は、自らの死をもってして、自分の信念を貫き通し、そのことで不完全な人間社会において、人を愛することの重要性を訴えたのでした。

私はイエスの死後、残された人間は、イエスの真意を理解しなかったと言えると思います。人間はイエスの名を冠した宗教を作り、イエスの伝説を語り継ぎながら、浅はかで、偽りの愛を説いたとも言えます。即ち、偽りの愛を説いた結果、現実に起きていることは、その宗教による異教徒の殺戮の歴史であり、戦争の歴史です。自分の命と引き換えにしてまでも、愛を与えることを説いたイエスの遺志を継いだ宗教とはとても思えません。イエスの心を真に理解していないからこそ、そうした宗教が国家を生み、戦争を引き起こし、憎しみの連鎖を生み出しているのです。このことは、イエスが死を賭して説いた教えを全く理解していないことの証左でもあります。

イエスの時代から約2000年を経過した現代において、あらためてイエスの死から学ばなければならないことは、イエスと同じように見返りを求めない愛を一方通行ではなく、お互いが与え合うというかたちにしていくということの必要性です。

愛は一方通行ではなりません。見返りを求めてはなりませんが、結果として見返りがなければ、愛を説く者は自分の命を粗末にし、愛を説かれる者は愛を与えることから逃げてしまいます。愛を与え続ける者は、誰かから真に愛されなければならないのです。

このことは大変難しいことです。2000年前、イエスですら実現できなかったことです。しかし人間は、変わらなければなりません。難しいことだからこそ他人まかせ、神頼みにしてはならないのです。重要なことは、自分の夢やビジョンを高くもち、自らの実行力と忍耐力を信じ、これらのことを実践するのは、自分たち自身であると信じることであると思います。

人類全体に対するわけ隔てない愛。そして、そのことを理解する人との通い合う愛。それらが両立することで、はじめてイエスから学んだことを実践し、次の世界の人類のあり方が見えてくるように思うのでした。

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「No」と言えないことへの誇り

2006年09月18日 | 日本

「No」と言えない日本。

優柔不断で、言うべきことを言えず、自分をもたずに周りに振り回される。「No」と言えないことは、主体性がないという意味と捉えられてしまい、非常にマイナスに評価され、批判されるものです。

今日、ある人とディズニーランドについて話をしました。どうも、香港のディズニーランドはあまりうまくいっておらず、それは中国人にディズニーキャラクターが浸透していないことが原因らしいのです。中国だけでなく、ヨーロッパもディズニーキャラクターの浸透率は悪く、その人曰く「独自の立派な文化を持っている国で、ディズニーは受け入れられにくいらしい。日本は、主体性がないから、何でも受け入れてしまって、結果としてディズニーがうまくいっているようだ」とのこと。果たして、本当でしょうか。

たしかに日本人は、相手の文化を取り込むことに長けていると思います。しかし、それは主体性がないといったネガティブな意味ではなく、むしろ相手を安易に否定せず、まず認めることから始めているからではないかと思うのです。たとえ、相手が間違っているとしても、頭ごなしに「No」とは言わない。相手を思いやり、相手に気遣う寛大な心を持っているからこそ「No」とは言わないのではないでしょうか。

あるお坊さんから「真理の葛藤」という言葉を聞きました。口にした瞬間、嘘になるから口にはできない。真理でありながら、それを口外した瞬間に嘘になってしまう、ということだそうです。

例えば、ここに寛大な心を持った人がいるとします。その人は、そのことを十分に認識していますが、彼はそのことを決して口にしません。口にしないが真理です。しかし真理だからといって、自分が寛大であると口にした瞬間、結果として相手を狭小だと批判してしまうことになり、自分が寛大でなくなってしまうため、これが真理ではなくなります。

本当のことだが、言った瞬間に本当ではなくなる。これが「真理の葛藤」ということです。

日本人とは、そういう「真理の葛藤」を抱えた人たちではないでしょうか。たとえば日本人の多くは無宗教です。したがって、世界のいろいろな人たちの考え方を聞き入れることができ、それに多少違和感を覚えようが、自分の信念とは若干違っていようが、黙ってそれを聞いてあげられます。立派に寛大な心の持ち主であると思うのです。しかし、自分たちが、そういう人間であるということを自ら口にすることはありません。だから、そうした姿勢に対して、「主体性がない」といったネガティブな評価にも反論せず、黙ってそれを受け入れることができるのです。

こうした相手を受け入れる精神は、例えば城の造りにも表れていると思います。

海外の中世や近世の戦争においては、勝った者が負けた側の人民を皆殺しにしたり、奴隷にするのが一般的です。立て籠もる側は、兵士だけでなく、住民を含めて死に物狂いで抵抗をするから、海外の篭城戦は数年かかるのが当たり前となるのです。長いものになると十年以上かかります。通常、町は城壁の内側にあって、敵に包囲されたら、場内では住民も含めて自給自足をして生活をしながら、抵抗をしていきます。

ところが日本は城下町。お城の下に街が広がっています。篭城といっても、住民を巻き込んで、1年も2年も持ちこたえるような仕組みにはなっていません。勝った側が、住民を皆殺しになどしないため、そのようなことが成り立つのです。即ち、日本での戦争は、海外ほど徹底した敵国殲滅を行っておらず、もともと相手を認める、受け入れることができる素地をもっていたと言うことができると思うのです。

長い歴史のなかで、戦争を繰り返すことはあっても、日本人の考え方の根底、奥底には、このように相手を受け入れるという寛大な精神が宿っており、世界的にみて、そうした点は誇るべきよい点ではないかと思います。

一方でこういうことをもってして、日本人は優れた民族であるなどと言う必要もありません。広く、相手のことを受け入れる。たとえ、自分のことを悪く言う隣人に対しても、耳を貸して黙って聞いてあげる。いろんな価値観を認めてあげているのだから、それだけで十分です。いちいち、口に出して言う必要もありません。

このように、「No」と言えないのは、安易に相手を否定しないという優しさの表れだと思うのです。間違っている相手に対しても、「No」と言わずに、一通り聞き、相手を認める姿勢を示してあげる。それは優柔不断ではなく、積極的に相手を認めようとすることの表れでしょう。

相手をいたわる、察してあげる、言わなくても思ってあげるということは、人間として非常に大事なことです。ただし、このことが「No」と言わないという決まりとして表面化させる場合、このルールでコミュニケーションをするには、「No」と言われなかった側にも、相手をいたわる、察してあげる心を持つことが求められます。

「Noと言われなかったから、自分は正しい」などと思わず、「何故、相手はYesと言わなかったのか」と察する力が求められるわけです。相手が「優しさ」をもって、「No」と言わなかったことに対して、自分も「優しさ」をもって相手の気持ちを察しなければならないのです。

ところが、今の世界では、「Yes」と「No」を明確に言うことがグローバルルールとなってしまっています。日本人が「優しさ」をもって、「No」と言わないことについて、そのことに落ち度があるとされ、そこにつけ込まれてしまうのが、今の社会のルールになってしまっているわけです。何とも寂しい世界ではないでしょうか。

「優しさ」には「優しさ」で返す。「No」と言われなくても、相手の気持ちを察する心を持ち、謙虚に自分を見直していく姿勢を持ち続ける。人間のあり方として、「Yes」と「No」を明確にするのではなく、むしろ「Yes」と「No」をはっきり言わないことの方が大切であり、本来そちらがグローバルルールになるべきではないでしょうか。

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有限のエネルギーを巡って・・・

2006年09月17日 | 社会

今の世の中、快適に生きていくために不可欠なもののひとつに電力等のエネルギーがあります。現代社会は、エネルギーを抜きに成立し得ません。ところで、このエネルギーをめぐっては、さまざまな問題があります。

たとえば、一次エネルギー源の多くは、言わずとしれた石油。

この人類の快適な生活を支える石油の埋蔵量については、30年程前から30年で枯渇すると言われてきました。石油が有限であり、それが長く続かないことは、ずいぶん前から言われていることです。

石油情報センターによると、2005年末の推計で石油の埋蔵量は1兆2925億バレル。「石油があとどのくらいあるのか」という目安の一つとして、ある年の年末の確認埋蔵量を、その年の年間生産量で割った数値可採年数が用いられますが、それによると2005年末の可採年数は49年となっているそうです。エネルギー白書2006によると、可採年数はほぼ40年程度であるといいます。

新しい油田の開発や掘削技術の進歩などにより、可採年数は増えるという見解もあるようですが、いずれにせよ長くはもたないと考えるべきでしょう。しばらくは今の社会は持続できるから安心せよと言われても、そう簡単に安心できるものではありません。

逆に発展途上国のエネルギー消費の急増などを考慮すると、50年後の世界で、今と同じような生活ができるとは、とても思えません。またたとえ、石油を採り続けることができたとしても、地球環境に対する根本的な問題解決にはならないでしょう。石油を中心としたエネルギーに依存した生活を続けてしまっていては、現代の快適とされる人間社会の維持はおろか、大気汚染や温暖化、それらに起因する気象異常など、地球環境を維持することすらできません。地球環境の問題にまで発展をするということは、人類のみならず、地球に住まう他の生物に対しても、取り返しのつかない大きな被害を与えることになるのです。本当にそれでよいのでしょうか。

一方で、石油以外に原子力や天然ガスといったエネルギーもあります。近年では、エタノールなどの新しいエネルギー産業も生まれつつあります。これらについても、よく注視していかなければならないでしょう。

そもそも「オイルマネー」という言葉があるくらい、エネルギーは人類の生存に強く結びついており、そこには言うまでもなく世界規模の巨大な利権構造が存在していると想定するくらいは、してもよいのではないかと思うのです。

戦争が何故起きるのでしょうか。最近の例でいえば、イラク戦争。あの戦争の裏側で米国、あるいはブッシュ政権を動かしているのは誰でしょうか。このようなテーマについては、ちょっと情報を検索すれば、いくらでも出てきます。一部のマスコミでも、謎めいたストーリーとして、おもしろ、おかしく伝えたりしていますが、このようなことは、自ら情報を取りに行けば、いろいろと分かることが出てくるはずです。

「オイルマネー」という巨大な利権と権力を基盤として、世界を動かしている人々が存在するのか、しないのか。そんな人たちが存在せず、人間社会はクリーンで、そのような一部の人たちの意図によって動かされているわけなどないと、信じられるものなら信じたいところです。しかし、いろいろな情報をパズルのように組み合わせていくと、「オイルマネー」の存在を完全に否定することは難しく、むしろそう考えたほうが、合理的であると思えてしまうところが出てくるかもしれません。そして、もしそうならば、そのことときちんと向き合わなければならないでしょう。

最近、原油価格が上がり続けています。ハリケーンの被害、戦争による情勢不安定など、いろいろな原因が挙げられているますが、それらは事実でしょうか。実は、石油の埋蔵量に底が見え始めており、それによって原油価格が上がっているということはないのでしょうか。そんなことはないと否定されるかもしれません。しかし、本当に石油の埋蔵量が底をつき始めているとして、「オイルマネー」の人たちは、どのように情報をコントロールするのか、想像してほしいし、想像すべきだと思うのです。

例えば2005年、ハリケーンのせいで、原油価格が急騰したと、多くのマスコミが騒ぎ立てていましたが、本当にそうだったのでしょうか。ハリケーン被害の前から、既に原油は高騰を始めていなかったでしょうか。自分で調べてみれば、すぐに分かることです。

これからは、石油に頼らない新しいエネルギー産業が生まれるでしょう。それも事実です。しかし当然、そこには「オイルマネー」の人々も関わっているはずであり、また新しい勢力が、巨大な利権に群がろうとしているはずです。いずれにしても新しく開発されるだろうエネルギーも有限でしょう。有限のエネルギーを巡っては、必ず争いが起きます。その利権に群がり、独占しようとする人々により、戦争が引き起こされるでしょう。こうして、結局のところ、人類の悲劇は繰り返されてしまうのです。

大人たちは、今の世の中の問題を直視し、そこから逃げ出してはなりません。子供をもっている親ならよく分かることでしょうが、自分たちがこうした現実に向き合わず、子供たちが自分たちと同じ年齢に達する頃、その子供がまた子供をもったときに、明るい未来を語れなくなってしまっているとして、そうなることを知りながら、「何とかなるだろう」と他人まかせの人生を歩むことができるでしょうか。子供たちが大きくなって、未来に絶望したときに、今を生きている大人たちは、未来を生きなければいけない子供たちにどのように言い訳をするつもりでしょうか。「自分は、こうなることを薄々気付いていたが、何もしなかった」。よもや、こんな情けない言葉を吐くつもりはないでしょう。

今を生きる大人たちは、行動を起こさなければならないと思います。

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宗教が説く真理

2006年09月12日 | 宗教

完全、完璧な宗教はありませんが、宗教のすべてが間違っているとは思いません。それぞれの宗教には、必ず一部に真理が秘められていると思います。

あらゆる宗教の共通点。「信じるものは救われる」。だからこそ宗教として成立するわけですが、そのポイントは、「信じるべき対象が何か」にあると思います。つまり一神教にせよ、多神教にせよ、その信仰の対象としての「その神」を信じることで救われるというのが宗教です。

少し宗教と離れて、人間について考えてみましょう。人間一人一人は、大変貴重な存在であり、価値のない人間など一人もいません。この世に存在する人間は、それぞれ個性をもっていて、けっして他人と重なることがないのです。人間が持ちうる能力や価値は、無限の広がりをもっており、それは人類全体で有しています。したがって、それらの能力を一人の人間がすべて持つということは不可能であり、人間一人は、人類全体で有している無限の能力の一部を、一個体として授かっているだけであり、その能力はその人にしか宿りません。だからこそ一人の人間は、例外なく素晴らしい存在であり、それぞれが優れた能力を有していると言えるのです。

しかし一方で、その素晴らしい存在であり続けるためには、ひとつの条件があります。それは、その人が「個人のためでなく、全体のために生きる」ことを考えているか、ということです。

大昔から、人間は何のため生きるのかという問題は、人類にとって最も難しいテーマのうちのひとつです。

ところが、答えは実に簡単です。
いかにして、「みんなのために生きるか」ということです。

みんなというのは、極力広く、大きく捉えるべきであり、「人類全体」、「地球」というテーマで考えるとよいでしょう。このような心構えでいると、自ずと「私心」が消えていきます。「無我の境地」という言葉がありますが、いわゆる邪念が消え、明確に生きる意味とビジョンを知り、その大きな目標の前にはだかる大きな障壁を認識し、これを越えることこそが、自らの使命であると位置づけ、これを克服するための強い意思と力を手に入れることができるのです。

これが「個人のためでなく、全体のために生きる」ことを知った人間の強さです。逆の言い方をすれば、大きな目標やビジョンをもったとき、このために限られた自分の命を使うことができる、いわゆる「使命を全うして死ねる」と思えるようになるのです。たとえば「地球上の砂漠をなくしたい」というテーマをもったとき、そのことのために命を使うこと、死んでいくことには、むしろ喜びを感じることができます。それが人間です。

しかし、日常生活のなかで、邪念は常に付きまといます。絶えず自分自身のこと「個」を考え、そのことのために生きようとしてしまいます。

宗教では、それらの邪気、邪心を拭い去り、「無我の境地」を感じられるように、いろいろな手法を取り入れます。たとえば礼拝です。ひたすら、自分ではなく神に祈る。けっして「神」を疑ってはならない。そのことで「個」を捨て去り、「無我の境地」に至ることができるのです。重要なことは「神」そのものではなく、「個」を捨て去るということに本質があるということです。

こうして「個」を捨て去った瞬間、ふとビジョンが見えてきます。これは、「無我の境地」に至り、「みんなのために生きる」ことを感じたときに生まれてくるものです。しかし、宗教は、この瞬間を利用します。本来、「個」を捨て去るという作業は、自分の力によって成しえて、それによって得られたビジョンであるにもかかわらず、それを「その神」のおかげであり、「その神」が授けたものであると説くのです。そして、「その神」を信じるべき対象とするわけです。このときの「その神」を何と説くかが、それぞれの宗教で異なっているだけのことです。

したがって、宗教には真理が秘められています。それは、「個」にこだわるなということです。

自分は「みんなのために生きる」、自らの命はそのためにあると思えれば、自ずと幸せとは何であるかを知り、そのための強い意志をもち、それを実現するために恐れることなく突き進む、強い人間になることができるのです。

あとは各個人が、「みんなのために生きる」ときの「みんな」とは何かを探していけばいいのです。ある人は「家族」、ある人は「社会」、ある人は「国家」、ある人は「人類」、ある人は「地球」。それはさまざまです。ただ、せっかくならば、大きく広くたくさんの「みんな」のために生きようと思えたほうが、幸せではないでしょうか。そして、それが人類共通のテーマなのです。

たくさんの「みんな」のために生きることを決めることで、大きな困難をともなう人生となります。しかし一方で、より大きな生きがいと幸せを手に入れることができるのです。そのことは、ある特定の宗教によって与えられるのではなく、自分自身で考え、自分自身を信じ、自分自身で決めることができます。単純に言えば、自分自身が「神」であると思えばよいでしょう。

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頼るべきは「自分」

2006年09月09日 | 人生

どんな宗教に入るのも自由です。信仰の自由は尊重されなければなりません。したがって、ここで個別の宗教について論じるつもりもありません。

しかし宗教全体について考えると、現代に限らず人類の歴史のなかで、宗教が存在するということ自体、あまり健全なことではないように思えてならないのです。

日本には、無宗教の人が多いです。もちろん、日本にも宗教団体があり、それらに入信している方々もいらっしゃいますが、世界の国々と比して非常に少ないと言えるでしょう。あるイスラム教の友人が、私に対して、日本人に宗教がないことを可哀相がるようなニュアンスで話をしたことがありました。

しかし私は、むしろ日本人の多くが特定の宗教をもたないことに誇らしさを感じています。

完全、完璧な人間がいないのと同じように、欠陥のない宗教というものはないと考えます。必ず何かしらの問題を抱えているのが宗教でしょう。なぜ完全、完璧な宗教なるものがないと断言できるかは明快です。世の中に複数の宗教があるということは、それぞれの宗教が真理を説き、それを正しいと主張することになります。結果として、すべての宗教が他の宗教を許すという寛大さを失ってしまいます。もし、ある宗教が他の宗教をも許す寛大さをもっているというのであれば、そもそも宗教など必要ないことになります。そもそも自らが正しいと主張する意味がないからです。

あるいは完全、完璧な宗教が存在するとするならば、戦争やいがみ合いから抜け出し、すべての宗教が互いに尊重し、互いに受け入れ、それを真剣に実践することを通じて、ひとつの宗教として統合されていくはずです。戦争などの手段に訴えず、互いに非難することも、否定することもない、完全、完璧な宗教ができあがったとするならば、そのとき宗教はひとつのかたちになるでしょう。

そのような意味で、複数の宗教が存在しているということ自体、完全、完璧な宗教がないことの証であり、そのようななかで、いかなる宗教にも属さず、無宗教を通すということは、誇らしいことであると思えるのです。

もちろん、個々の宗教が、どのような主張をしているのかについて耳を傾けることは、けっして悪いことではないと思います。むしろ、それぞれの宗教には、人々が信じるに足る真理が含まれているはずであり、そのことを汲み取ろうとすることは大事なことだとも思います。しかし、大事なことは、それらすべてを信じ切る必要はないということです。欠陥がある宗教の主張には、必ず偽りが含まれていると考えるべきでしょう。その部分までを信じる必要はありません。宗教を信じきってしまっている人たちが引き起こしている戦争、異教徒同士の殺し合いの歴史は、その危険性を十分に物語っていると考えます。

こうした意味で、宗教の本質はどれも同じであると言えます。キリスト教、イスラム教、仏教といった世界の三大宗教なら聞いたことがあるから安心で、聞いたことのない新興宗教は怖いし、危ないかもしれないというのは、大きな間違いです。

名前も聞いたことのないような新興宗教で、レイプ事件やら暴行事件が起こって、被害者の会が結成されるとか、マスコミがその実態を取り上げるとかいったことは、よくあることです。それをみて、多くの人は「やっぱり新興宗教は怖い」と思うでしょう。しかし、さらにそこから「キリスト教なら安心だ」などと思っている人がいるとしたら、大いに問題です。そもそもキリスト教が、歴史的にどれだけ多くの人々を苦しめ、殺してきたでしょうか。キリスト教によって救われた人々、恩恵を受けた人々も多くいたでしょうが、そうした大きな功績を打ち消しきれないほど、多くの人々を殺し、苦しめてきたことも事実であると思います。(ちなみに、イエス・キリストという人物については、キリスト教とは別のまったく違った意味合いがあると思っているので、それについては機会をみて別途書いてみたいと思います)

人間には、どうも分かりやすい規模というものがあるようです。新興宗教の業によって、数人、数十人、数百人が苦しめられたというのは、直感的に「悪いこと」と認識し、そのことに単純に怒りを覚えます。しかし、宗教による悪行の仕掛けが大きくなり、害を被る人々の数が数百万人、数千万人、数億人という数字になると、実感として理解できなくなる。いやむしろ、その罪の大きさと同時に、自分の無力さを実感してしまうがゆえに、信じたがらなくなる、というほうが正しいかもしれません。また、そのような大きな罪を犯すものは、それだけ大きな力も持っています。批判したところで、何も変わらないと思えてしまいます。結局、多くの人々は、適当な小さな正義は振りかざしますが、本質的な大きな正義には向き合おうとせず、迎合していってしまうのかもしれません。

今の社会で生きていくことは、幸せなこともありますが、それと同時に辛いことだらけでもあります。しかし辛いからといって、小さな正義を振りかざすような、現存する宗教に迎合してはなりません。ほとんどの人が、どこかで諦めてしまっているのではないでしょうか。

大きな正義とは何か。

常に常識を疑い、自分の限界を無限であると信じ、素直な心でひとつひとつの問題に向き合っていけば、答えは自ずとみえてくるでしょう。自分を強く持ち、今の社会に迎合せず、真に正しいことを突き詰めるとき、頼りになるのは宗教ではなく、自分自身の力だけであることに気付くはずです。だからこそ、私は無宗教を貫きたいし、そのことを誇りに思うのです。

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「進化論」の不自然

2006年09月04日 | 科学

キリスト教では、人間は神の創造物であるとされています。しかし、日本人の多くは無宗教であり、人間が神によって創られたというのは、あまり納得感がない説明です。そこで、多くの日本人が信じているとされているのは、ダーウィンの進化論であり、自然淘汰説です。

自然淘汰説とは、競争社会、弱肉強食の世界において、劣っているものは生き残ることができず、優れた特徴をもつものだけが生き残り、その遺伝子を子孫に伝えることに成功する。このときの優れた特徴が突然変異として生じたケースがあり、その無数の積み重ねによって、新しい種が生まれ、結果として人間が存在している、というものです。

日本人の多くは、これを信じているようですが、本当にそれだけでよいのでしょうか。

ちょっと頭の体操です。地球上のあらゆる生物と人間とを一列に並べて、少し考えていただきたいのです。人間は服を着ているため分かりにくいので、服を脱いだ状態で想像してください。

たとえば体毛。大体において、他の地球に住む陸上哺乳動物は体全体が毛で覆われています。一部、例外もありますが、それらの例外のほとんどは、人間の手によって毛のない動物にされてしまっているだけです。そう考えると、人間だけが非常に特異な特徴をもっているようには思われないでしょうか。これだけ肌がツルツルしている陸上哺乳動物・・・。少しでも、奇異な感じはないでしょうか。

ダーウィンの進化論によって、この体毛がないことをどのように説明するのでしょうか。「一時期、人間は水生(あるいは両生)動物であり、海辺を中心に生活をしていたことがあった。海水に浸かる生活を重ねていくうちに、体毛がなくなったのである」というのが、最もよくみかける学説ですが、過去において、そのまま水生生活を続けたという人類は確認されていないし、現在においても、水生人間は見つかっていません。ちょっと不思議な感じがしてもいいはずです。それでもあなたは、この学説をまともに信じるでしょうか。

人種というのも不思議なものです。ホモサピエンスという同一の種に属しながら、そのなかで、ぼんやりとした種類に分かれています。これもダーウィンの進化論的な見地からすれば、地理的、気候的な環境差異から生じたものであるという説明がなされていますが、それらがなぜ別種とならず、同一種に属しながら、人種というかたちで残ったのでしょうか。いや、これから別種になっていくのでしょうか。

同じようなものに、犬種があります。犬種はどのようにできたでしょう。よく知られているとおり、環境に適応したわけではなく、人間の品種改良によってできただけです。

以前、とあるテレビの紀行番組で、ドイツの田舎町に生息するウロコのない鯉が紹介されたことがありました。川からあげられた鯉には、たしかにウロコがありません。「なるほど、ウロコはもともと海水の塩分から身を守るためのものだから、川魚には必要ないんだな」と思ったら、大間違いです。その直後、インタビューに答えるその田舎町のおじさん曰く、「だってよぉ、鯉を食べるのに、ウロコがあったら食べにくいじゃねぇか。だから食べやすいようにウロコのない鯉を作ったのさ」だそうです。そんなものかと思ってしまいました。

たしかに品種など、そんなものです。犬はもちろんのこと猫、ニワトリ、ハト、コメ、豆、リンゴ、梨・・・それから鯉。みんな環境に適応しているわけではなく、意図的に操作されてできたわけで、そのことは誰もが知っていることなのです。人種だって、環境に適応したというよりも、誰かによって手が加えられたと考えたほうが、より自然かもしれません。「それでは、誰が?」という疑問は、ひとつの謎として、残しておけばいいでしょう。

眉毛も不思議です。自然淘汰説で説明したとして、なぜ眉毛が残ったのでしょうか。頭が濡れたときに、ツツーっと、水が垂れてくるのを眉毛で吸収してくれるから、水が目に入らなくて便利。たしかに便利です。しかし、便利なだけで、これがなかったら生き残れなかったのでしょうか。「いや、雨の日に狩りをするときには、眉毛のあるなしで生死が分かれたんだ」とでも言うのでしょうか。そうやって、無理やり「ダーウィンの進化論」擁護者になって、どうしようというのでしょう。また、たとえそうだとして、突然変異で、きれいに両眉毛ができたっていうのも、不思議なことではないでしょうか。

この域になると、「私は、突然変異でもきれいに眉毛ができることもあると思う」と言い張るかどうかの違いになってくるでしょう。それは、素直に疑問に思うかどうかの違いでもあります。

重要なことは、不自然なこと、不思議なこと、違和感があることについては、素直に「おかしい」と認めることだと思います。なぜ体毛がないのか、人種が存在するのか、眉毛があるのか・・・。なんとなく「いいんじゃないの?」と済ませてしまうのは、思考停止の始まりです。

人類の起源について、アメリカではID論(Intelligent Design:知的設計)というのが注目を集めています。人間は、神によって創られたかどうかは別にして、少なくとも知的設計がなされて、創られたようだという考え方です。

別に宗教を信じる必要もなければ、キリスト教の言うような神の存在を信じる必要もありません。また、ID論を鵜呑みにせよと言っているわけでもありません。ただし、先入観や固定観念に縛られず、素直に考えることが重要です。疑問に思ったことを無理やり「ダーウィンの進化論」で片付けようとせず、新しい考え方のほうが納得いくようであれば、それはそれとして受け入れていくことが大切ではないかと思います。

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情報はパズルのピース

2006年09月02日 | 社会

インターネット上には、とにかくいろいろな情報が飛び交っています。何か調べものをするにも、ひとまずインターネットで検索をすれば、それなりの情報が出てきます。実に便利です。

ただし、なかには突飛で、胡散臭い情報もたくさんあるため、とかく「常識はずれ」な情報については、「エセ情報」のレッテルを貼りたくなります。しかし本当に「常識はずれ」な情報は「エセ情報」でしょうか。むしろ、常識の方が間違っているとしたら、「エセ情報」は「エセ情報」でなくなります。

インターネットに転がっている情報は、ジグソーパズルのピースのようなものであると思います。それ単体では、歪なかたちをしており、本当かどうか分かりません。学問や報道を通じてかたちづくられる、いわゆる常識ある世界では、そうした歪なかたちでは格好が悪いから、まわりを切り取って、きれいな四角形や円形にしてみせてくれるようなイメージをすると、分かりやすいかもしれません。

実際に何か情報があったとき、それをパズルのピースと見立てると、ひとまずそのピースが、どんなに歪なかたちをしていようが、それをそのまま置いておくということが重要です。同じようにパズルのピースは、他にも出てきます。それらを、きれいに四角形や円形に切り取らずに、原形のまま集めていくと、意外なものどうしが組み合わさることがあるのです。

これは少々タブーの世界に入っていきますが、「明治天皇入れ替わり」と天皇の「東京移転」というふたつのピースがあります。

インターネットには、ありとあらゆる情報が溢れています。胡散臭い話もたくさんあります。しかし、それらをすべてウソと決め付けるのは難しいと思います(偽情報が含まれていることと、すべてが「偽情報」と断じることとは別次元の話です)。インターネットで調べていけば、「明治天皇は入れ替わっていて、別人が天皇となった」といった話はボロボロと出てきます。常識的には「まさか」と思われるでしょうが、実際にそういう情報が溢れている以上は、単純に「全てがウソ」とは決め付けず、ひとまずパズルのピースとしてとっておくのです。

そして、もうひとつ。日本の首都は東京ですが、明治になって江戸を東京と改名した経緯が興味を引きます。そもそも日本の首都は京都であり、正式には京都から東京への首都移転手続きなどもされていません。京都には未だに玉座があるし、京都の人々は今も日本の首都は京都だと言っています。当時の明治新政府の幹部たちは、無理やり天皇を江戸に行幸させて、そのまま「ここは東の京であるから、天皇がいてもよいのだ」ということにして、江戸を東京と改名して天皇を住まわせてしまっているのです。なんとも強引なやり口です。結局京都で宮仕えをしていた人たちは、みな解雇され、江戸で新しい人々が雇用されたといいます。これもひとつのパズルのピースです。

ことの真相は分かりませんが、ひとまず、明治天皇が別人になっていたら、京都から江戸への強引な転居にも納得感が出てくるかもしれません。重要なのは、パズルのピースが歪なかたちをしている(胡散臭い)からといって切り捨てないことです。また個別の情報を、単独でのみ考えないことです。それらをひとまず、そのまま残しておいて、自分で組み合わせていくと、意外な全体像がみえてくることがある、ということです。

学問や報道の世界では、それらのジグソーパズルのピースを、きれいなかたちに切り取ってみせてくれます。それらは非常に体系化され、整理されています。しかし、そうやって整理してしまうことで、本当の全体像が見えてこなくなることがあるのです。そこで何が正しいのかが分からなくなってしまう危険性があるということです。
 
たとえば学問として、物理学、社会学、数学、考古学、民俗学、宗教学、政治学、経済学・・・といったカテゴリーは、人間の都合で勝手に割ったものです。我々が住むひとつの世界を便宜的に切っただけで、本来、個別でのみ存在してはならないものであるということが重要です。
 
ある考古学を学んでいる友人とこんな話をしたことがあります。

ピラミッドは謎だらけ。考古学的にいろいろな解釈を加えながら、それらの謎を解明しようとしているが、どうしても解くことができない。実はこうした謎を解明するには、いわゆる今までの考古学的発想だけではなく、人間の文明レベルや人類の進化についても、一緒に検証をしたほうがいいのではないか。

すると、その友人の答えは、そうしたアプローチは考古学の範囲を大きく超えているというものでした。考古学で分からないそれらの謎については、○○は文化人類学、○○は地層学、○○は遺伝学の分野だから・・・といった具合です。むしろ、そういう学問体系を理解しないことに、後ろめたさを感じさせる見事な論理です。しかし、それでは、いつまでたっても謎は謎のままかもしれないのです。
 
そのようなアプローチでは、真理には辿り着けません。ジグソーパズルのピースは、人任せに勝手に切り取らせてはなりません。きれいなかたちにしようとする必要はないでしょう。

ひとつひとつの情報は、その姿のままでとっておくと、思わぬピースと当てはまることがあります。それは自分で、考えてはめてみる。そのときに、常識を覆す、新しい発見が生まれるのだと思います。

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「大人」の責任

2006年09月01日 | 人生

先日、カーズというPIXARの映画をみて、不覚にも感涙してしまいました。

ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、カーズの登場キャラはみんな自動車です。主人公はレーシングカーという設定です。アメリカの映画だから、主人公のレーシングカーが、いかにレースで勝っていくか、競争社会で勝ち進んでいくかというストーリーだと思っていました。

ところが違うのです。主人公は、レーシングカーながら優しさや思いやりをもっており、レーシングという競走世界にドップリという生き方をしません。心をもち、そのことによる幸せを知っているのです。

競争のなかで生かされている、我々の住む現実社会においては、とかく、心を持つなど不要であり、そんなことに価値を置くなど、きれいごとに過ぎないと言われることがあります。たしかに、今の社会システムは、そのようにできています。
 
しかし、このような子供向けの作品に出てくる登場人物は、結構さらりときれいごとを言ったり、やったりしてしまいます。現実社会において、心を持ち、きれいごとを突き詰めていくことの重要性と難しさを痛感しているが故に、涙腺が緩んでしまうのでしょう。

純粋にやるべきことをやり、言うべきことを言う。
 
当たり前のことですが、このことを実行するのは、実に難しいものです。そうであればこそ、この社会で、きれいごとをとことん突き詰めていくことは、非常に大事なことだと思うのです。

軽々しく「大人なんだから、きれいごとなんて・・・」と否定するのは間違っています。そういうときの「大人」の意味は、現実を見ろ、夢をみるなという口にする人間たちです。競争のなかで生かされ、その結果で人間の価値を決め手しまうような現代社会は本当に正しいのでしょうか。あるべき姿なのでしょうか。みんな本当に疑っていないのでしょうか。何か間違っていると感じてはいないのでしょうか。

もし漠然とでも間違っていると思っていて、そのことに違和感を覚えながらも、「仕方ない」と見過ごすのであれば、そのこと自体が間違っています。そして、そうしてしまう人間たちを「大人」と呼ぶのであれば、無理に「大人」になる必要はないでしょう。

むしろ、これからの新しい時代を迎えるにあたっては、そういう「大人」には変わってもらわなければ困ります。ギスギスした競争社会の仕組みの結果、人々が心の余裕を失い、全体をみることができなくなり、究極的にそのことで地球を傷め、自らが住めない世界にしてしまうなど、けっして許されるべきではありません。

こうしたテーマに取り組もうとすることが、まさに現実に向き合う、逃げないという意味であり、これを突き詰めていくことがきれいごとになっていきます。辛いし大変なことですが、これからの社会を創っていくためには、非常に大事なことでもあります。
 
唐突ですが、カオス理論という用語について、インターネットで引いてみると、こんな風に書いてあります。
 
「一般語では「メチャクチャ」にとらえられることがあるが、これは間違えである。科学においてはカオスとは基本的には決定論であり、初期値敏感性が全体に複雑に無限に影響を与えるという意味である。
北京の蝶が羽ばたいただけでニューヨークの天気がかわってしまうような世界をど思うか。
人間の知恵の限界を悲観的にとらえることもできる。でも逆に主観的には自由な世界に生きていられるということにもなる。 それから蝶が世界の天気に影響をあたえてるなら、僕や君たちの行動も世界や地球環境に影響をあたえて続けているっている自身のプゼンスと何らかの役割を果たしているということ感じることができる」
 
人間は、けっして諦めてはいけません。

今我々が、きれいごとが通らない世界に生きているのであれば、きれいごとを通すことを諦めるのではなく、きれいごとが通る世界にしていくことに執念を燃やすべきです。

それが本当の「大人」の責任ではないでしょうか。

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