常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

さらばディケイド!

2009年08月30日 | ヒーロー&アニメ

「仮面ライダーディケイド」が終わりました。私としては、少々ほっとした感があります。

ディケイドは、もともと10人目の平成仮面ライダーで、それまでの9つの平成仮面ライダーの世界を渡り歩く設定になっていました。ところが、夏休み映画「仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」を前に、途中から昭和の仮面ライダーブラックやRXが出てきたり、最後に時間調整かのように仮面ライダーアマゾンが出てきたり、当初の設定が崩れました。オープニングのナレーションも、「9つの世界」から、「いくつもの世界」という変更がなされるという始末です。

コンテンツの商業主義偏重の問題は、重ねて述べているところです(「仮面ライダーと商業主義」等参照)。テレビという媒体が、基本的に広告モデルで成り立っている以上は、その限界を見定めた上で、その中で必要な収益を確保するための工夫は必要です。しかし、そちらに傾注してしまい、コンテンツそのものが捻じ曲げられたりするようなことがあってはならないことも確かです。今回のディケイドは、もともと考えられていたストーリーがあったにもかかわらず、映画からの収益確保のために、放送途中からそれを無理やりに改変したと解されても仕方がないでしょう。この作品の制作関係者の方々に反論があるのなら、是非ともお伺いしたいところです。あの中途半端なブラックやアマゾンの登場が、映画に結びつけるための時間稼ぎではないというのであれば、本当の理由というものを聞かずにはいられません。いよいよ商業主義のネガティブな要素が、コンテンツの核の部分まで侵食してきたように思います。

映画からの収益確保や連携という意味では、過去、「仮面ライダー電王」においても、同じようなことがありました(「「映画連携」の効果と限界」参照)。それは、テレビ放送分のストーリーが、いまいち不自然な展開となるのですが、それは映画を観れば分かるというものでした。テレビの広告モデルという限界を認識した上で、きっちりいいお値段を払ってもらえる映画事業と連携することで、十分な収益を回収しようということなのでしょう。あまり、賛同したくはありませんが、そういうかたちもあるのだと思います。

ただし、ディケイドの場合は、それを究極的にやりきった感があります。本日、最終回だった「仮面ライダーディケイド」では、きっちりとストーリーが完結せず、その結末は12月の映画を観るようにという締めくくりがなされました。幸い、私の子供たちは、ディケイドに対する関心を完全に失っているので、映画に行くようなことはないですし、私がそれに付き合わされることもないでしょう。ただ私としては、最終回という作品で最も重要な部分を、映画で展開しようというディケイドの試みが、どのようなかたちに落ち着くのかに関心を引かれるところです。お金が大切であることは分かりますし、そのために商業主義的な思考が必要であることも理解できます。しかし、そればかりに走ってしまう制作になってしまったとき、そのコンテンツを心から愛してくれるファンが、果たしてどれだけいてくれるものなのかという点が、私にとっての重大な関心事なのです。

さらにディケイドの思想について述べると、彼は自らを「世界の破壊者」と称しています。新しい世界を創造するためには、破壊が必要であることは理解できます。しかし、それは新しい世界のビジョンがあって、初めて許されることであるとも思います。彼の場合、その新しい世界のビジョンを持ち合わせているようには思いません。この辺りに、彼の決定的な限界があると思えてならないのです。

そして何よりも、自ら「世界の破壊者」と称することの「甘え」を感じざるを得ません。周囲からの批判に対して、「どうせ自分は破壊者だから」と開き直れるように、自ら予防線を張るような行為は、ある意味で卑怯であり、自分にも周囲にも甘え過ぎているとも言えます(逆に、きちんとビジョンがある人は、こういう言い方をしないと思います)。そうした生き方をする人には、それ相応の代償が支払われて然るべきでしょう。それが他人の生死に関わるのであれば、当然、本人の命が奪われることも含みます(「自称悪魔さんたちの償い」参照)。

ディケイドの最終回には興味がありませんし、当然、劇場に足を運ぶようなこともないと思います。そういう意味で、彼が生きようが死のうがどうでもいいところです。ただ、ひとつ願うとするならば、「世界の破壊者」はカッコ悪すぎるから止めたらどうでしょうというくらいです。

そんなことを思いつつ、さらばディケイド!なのでした。

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個別最適化する倫理規定

2009年08月28日 | 産業

インターネットは、必ずや新しいメディアシステムとしての役割を担うことになると思います。ただし、それを現実化するにあたっては、例えば、現在のメディアシステムが果たしている機能を、どのように実現していくのかということについて、真剣に考える必要もあるでしょう。

現在のメディアには、悪質なコンテンツを排除するという機能があります。それは、ややもするとタブー云々というような社会の仕組みを包含するような、複雑な次元のものにも繋がりかねませんが、ここでの話はもっと単純です。それは、「公序良俗に反していないか」という類の最も基本的な次元において、そうした役割が期待されているということです。

今日の主流メディアは、マスメディアと呼ばれたりします。つまり、マス(大衆)を相手にしたメディアであるため、その扱う情報が非常に多くの人々に影響を及ぼすということです。したがって、マスメディアでは、情報の中身を相当に吟味して、自分たちのなりの倫理規定を作ったりするわけです。これについては、様々な意見もあろうかと思いますが、少なくともメディア関係の仕事に携わっている方々が、そうした社会的責任感と緊張感を持って、取り組まれていることは事実だと思います。こうしたことが、メディアが有する「悪質なコンテンツの排除」という機能であり、これからのインターネットがメディアとしての役割を果たすためには、この機能を具備していなければならないということなのです。

しかし、この「悪質なコンテンツの排除」にあたっては、どこでその線引きをするかという問題があります。特にインターネットのようなオープンシステムでは、非常に多様な情報が飛び交うため、その管理は、極めて膨大な作業となってしまいます。こうした状況下において、ある経営者の方が、「当社では、強力なNGワードのデータベースを構築しています」と胸を張られているのを聞いたことがありますが、それは過渡期における一時的な方策に過ぎず、それに割かなければならない作業量が無限化していくであろうことも含めて、けっして本質的な解決策ではないと考えます。

インターネットは、多くの人々が参加するシステムです。そのシステムをきちんと動かすためには、参加してくれる人々の力をいかに活用するかという視点がなければなりません。インターネットのオープン性を活かすための鍵は、ユーザーの意思を円滑に反映させるための仕組みなのです。

そういう意味では、近年の動画共有サービス等に多く見られるように、問題あるコンテンツについて、「通報する」というボタンをユーザーにクリックしてもらい、実際に問題があれば、それを削除するという仕組みは、ひとつのかたちであると言うことができるでしょう。ただし、ここでの問題は、最後の「削除する」という行為において、ユーザーでない特定な人間(運営者)の主観が入ってしまっていることです。これは即ち、従来型のマスメディアの同類の「統制」であり、インターネットのオープン性の良さを排除する行為でもあります。

私は、これからのメディアシステムにおけるポイントは、「悪質なコンテンツ」の線引き自体を、ユーザー自身に預けるということであり、それを手軽に行えるための仕組みの提供であると考えます。つまり、刺激が極度に苦手な人、幼い子供たちに見せることを前提としている人は、その線引きをかなり厳しくしていかなければならないでしょうが、一方で、「それくらいはいいのではないか」という感性の持ち主については、その程度に応じて、自分が受け入れない「悪質度合い」を設定できるようにすることが肝要だと思うのです。

もちろん、「悪質なコンテンツ」であるかを判断したり、判断されたりというシステムが、正しく働くためには、ユーザー同士がきちんと責任を持つためのしくみが大前提となります(「責任を伴う「場」の提供」参照)。その上で、必要な仕組みとは、以下のようなものでしょう。

  1. 悪質なコンテンツや制作者には、ユーザーが自由にNGを示すフラグを立てられるようにする
  2. NGフラグは、どのユーザーによって立てられたかについても分かるようにする(NGフラグを立てる責任の明確化)
  3. 立てられたフラグの度合い(NGフラグ数やNG率)により、ユーザーがアクセスできるコンテンツを自らコントロールする

ここでは、「NG率」という概念を仮定して、簡単な例を示してみたいと思います。「NG率」については、ある特定のコンテンツについて、それを閲覧した全ユーザーのうち、NGフラグを立てたユーザーの比率であると考えます。つまり、100人のユーザーがコンテンツを見たときに、「これは宜しくない」と判断した人が5人なのか、20人なのかというような比率です。ここでのポイントは、コンテンツを閲覧するユーザーが、「少しでもNGフラグが付いていたら見るのはイヤだ」と言う人なのか、「まぁ、多少のものなら良いけど」と言う人なのか、はたまた「いや、自分は何でも大丈夫だよ」と言う人なのかを自己申告してもらうということです。この例に従えば、1番目の人は「NG率閾値1%」、2番目の人は「NG率閾値20%」、3番目の人は「NG率閾値設定なし」に、それぞれ設定するという具合です。「NG率閾値20%」のユーザーは、NG率5%のコンテンツを見ることができますが、NG率30%のコンテンツについては、その存在すらも分からないということが可能になります(上図参照)。

これはつまり、これまでのメディアが負っていた倫理規定について、コンテンツを発信する側が定めるのではなく、コンテンツを受信する側で決めていくということです。ニーズが多様化し、情報が膨大化していくのと共に、それを満たすだけのインフラが整ってしまっている以上、倫理規定をひとつに定めるとか、統制をかけるとかいう発想では、早晩破綻すると思うのです。そうした意味で、これからのメディアにおける倫理規定については、それぞれのユーザーに合わせていかに最適化できるかということが、インターネットを大きなメディアシステムとして育てるためのひとつの大切な視点でしょう。次時代のインターネットシステムの構築を担う人々には、是非とも頑張っていただきたいと思います。

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言葉遊びでサーセン!

2009年08月27日 | 歌詞&台詞

「化物語」で、阿良々木君がこんなことを言っていました。

======================
言葉で遊ぶな!
○○でもあり、××でもある。
○○だと思う者には○○で、××だと思う者には××だっていう台詞がカッコいいのは、中学生までだ。
======================

分かる、分かる。
たしかに、こんなことばっかり言って、言葉遊びしちゃっている人いますよね。

・・・サーセン!それ、私でしたっ!

でも、意外と外れてもいないと思うんだなぁ、これが。
あるいは、言葉で遊ぶくらいいいじゃん、と開き直るべきか・・・?

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詐欺に遭っても

2009年08月26日 | 人生

とある都内のコーヒーショップで、お年寄りを相手に楽しそうに話をしている男性をみかけました。どうも話の内容は、「遺伝子は体の設計図。これを20代のものに書き換える技術があって、これで若返る。こういうのをビジネスチャンスと言うんだ。すごいでしょ?」といった感じのものでした。

お年寄りの方は、一応、熱心に聞いている様子で、時折、「すごいねぇ」等と相槌を打っていました。本当のところ、そのお年寄りが「すごい」と思っているのかどうかは分かりません。ただ、もし本当にその技術を信じて、「すごい」と思っているのなら、それは甘いと言わざるを得ませんし、それで何かしらの詐欺行為に遭って、金銭的な被害を受けたとしても、自省していただくしかないということになるだろうと思います。

話をしている男性は、時折、「サイエンス」やら「ニュートン」といったような雑誌の名前を挙げて、そうした専門誌でも取り上げられている画期的な技術であると言うのですが、それはきっと嘘でしょう。確認もせずに、こんなかたちで断じるのは、あまり良いことではありませんが、そんな世界を揺るがすような技術が、都内の一般的過ぎるコーヒーショップの片隅で、ビジネス案件として話されるというのは、現代社会の仕組みの中ではあり得ないと言うほかありません。

詐欺というのは、けっして許されるべきものではなく、それ自体が正当化されてはならないと思います。ただし、詐欺が起こったときに、詐欺行為を働いた者はもちろんのことですが、それに引っかかってしまった方々にも、何かしらの問題があると考えなければならないこともあるだろうと考えます。

そもそも詐欺は、人間の欲や弱みに付け込んでこそ成立するものです。逆の言い方をすれば、無欲の人は、詐欺に引っかかりようがないわけです。詐欺に引っかかるというのは、何らかの欲をかいた結果であり、そこに自分の未熟さがあったことを認めなければならないケースが、多々あると思います。

冒頭の話を例に取れば、「若さ」というのは、万人が欲しがるものなのかもしれません。そうであるが故に、その男性は、そこに付け込んでいる可能性があります。しかし、そうした話を聞いた人にとっては、そもそも自分が「若さ」を手にするだけの生き方をしてきたのか、それに値する人生を送ってきたのかについて、自ら質すことの方がより重要であると言えます。「若さ」という人生全体の基本軸を覆すような、大変な概念を考えようというときに、これまでの自分の人生を顧みずして、ただそればかりを欲するというのは、思慮に欠けると言わざるを得ないと思うのです。

-欲すれば失い、手放せば得られる-

「若さ」を手に入れるためには、むしろ「若さ」に対して意識しないくらいの方が、実はいいのかもしれません(「年老いない秘訣」参照)。

また、今回のケースでは、お年寄りに対して話していた男性の口から、「ビジネスチャンス」という言葉も出ていましたから、もしかすると「お金」の欲望にも、目を付けられている可能性があります。こうしたシーンで、被害に遭わないようにするためには、「お金」の本質に対しても、十分に考えておく必要があるでしょう(「報酬は感謝・感動の証」等参照)。

詐欺には遭わないことが何よりですが、人間に欲がある以上、それを根っこから絶つというのは非常に難しいことなのでしょう。従って、万が一詐欺に引っかかってしまった場合には、せめてそれによって蒙った被害を、自らの未熟さに気付くための授業料だと割り切り、被害者意識を引きずらずにいられたらと思います。そうやって、詐欺被害の体験すらも、ポジティブに活かしていくことができれば、その人の未来はどんどん開けていくように思うのです。

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自称悪魔さんたちの償い

2009年08月25日 | 短編

自らを「悪魔」と称する人々がいます。
もちろん、そんな事は各人の自由です。

ただし、それは最初から言い訳をしているに等しい行為でもあります。

-どうせ、自分は悪魔だから・・・-

神と悪魔は紙一重。

自らを追い込める人は、その努力によって報われていくものです。
自らを追い込めない人は、他人から追い込まれ、それが代償となっていきます。

自称悪魔さんたちには、生涯をかけて、たっぷりと代償を支払っていただきましょう。
そして、それはきっと自称悪魔さんたちのためにもなるのだと思います。

《参考》
「888」と会社ロゴ

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教育者・福沢諭吉の魅力

2009年08月24日 | 教育

福沢諭吉という方は、言葉や議論することの限界をわきまえていた人物だったような気がします。彼は、赤穂浪士について以下のように語っています。

==============================
例えば赤穂義士の問題が出て、義士は果たして義士か、不義士かという議論が始まる。すると私はどちらでもよろしい。義か不義かは、口の先で自由自在。君が義士と言えば、僕は不義士にする。君が不義士と言えば、僕は義士にしてみせよう。さぁ来い。幾度来ても苦しくないと言って、敵になり味方になり、散々論じて勝ったり負けたりするのが面白いというくらいな毒のない議論は毎度大声でしていたが、是非を分かってもらわなければならぬという実の入った議論をしたことは決してない。
==============================

要は、赤穂浪士を義士にすることもできるし、不義士にすることもできるということです。相手が「義士だ」と主張すれば、「不義士」にすることができるし、「不義士だ」と言われれば「義士」にしてみせるわけです。それは、赤穂浪士が義士か不義士かのどちらであるかという議論に本質があるのではなく、どちらにもなり得るということ自体に、物事の本質が潜んでいることを見抜いていたということでしょう。だからこそ、赤穂浪士が義士か不義士かという議論そのものについては、「実の入った議論をしたことがない」という言葉が出てくるのだと思うのです。

この感覚、私なりには落とし込めているような気がします。物事の本質が、決め付けられない以上、それを特定の視点から決め付けようとするものに対しては、その真逆から応戦するような感覚でしょう。私が、このブログに「常識について思うこと」というタイトルを冠し、「常識」という決め付けようとする力が働くものに対して、「非常識」的な視点を持って、その「常識」と思しきもの自体に本質が宿らないことを説いてみせる感覚のような気がするのです(「期待する好試合」参照)。

本質が議論そのものに宿らないという意味で言うと、私がこのブログに書いていることは、時代が移り変わって「常識」の中身が変わってくると、それが持つ意味もだいぶ変化してくるということです。そうしたことからすると、私が書き連ねていることも、本当のところ、福沢諭吉が言うように「実の入った議論ではない」ということになるのかもしれません。

いずれにせよ、物事の本質を知ってしまえば、ある事象を指す言葉やそれを巡る議論というのは、所詮、無数にある見方のうちのひとつであり、どこか特定の視点から眺めた結果に過ぎないということを受け入れざるを得ません。福沢諭吉という人物は、そうした言葉や議論の限界をよく知っていたのでしょう。私としては、そうした限界を知っていることも、彼の教育者としての魅力だったように思います(「教育は共育なり」参照)。

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2009年7月期のアニソン

2009年08月23日 | ランキング

今期のアニソン、個人的にはなかなかランキングをつけるのが難しい感じです。「うーん・・・、どれがいい?」等と迷っていたら、気がつくと8月も終わりそうになっていました。それを強引にでもランキングしようとすると、こんな感じでしょうか。

順位 タイトル アーティスト 元作品名
一言感想
1位 カナシミレンサ MARIA 戦場のヴァルキュリア
メロディー、単純にカッコいいと思います
2位 Super Driver 平野綾 涼宮ハルヒの憂鬱
あの部分では、思わず両手を挙げて首を振ってしまう自分がいます
3位 mind as Judgement 飛蘭 CANAAN
サビは、きっと今期中最高でしょう
4位 YAHHO!! 堀江由衣 かなめも
こういうノリノリな感じは大好きなのです
5位 M/elody 辻詩音 東京マグニチュード8.0
軽快なリズムが心地よいです
特別賞 片翼の鳥 志方あきこ うみねこのなく頃に
本編の言い知れぬ不気味さとマッチしすぎです
型破り賞 林檎もぎれビーム! 大槻ケンヂと絶望少女達 【懺・】さよなら絶望先生
ハチャメチャだけど、こういうのは嫌いじゃないです

はっきり言って、明日あらためてランキングをつけたら、枠外のものも含めて、大幅に変わってしまうかもしれないくらいほとんど差がない感じです。それにしても、「けいおん!」の「桜高軽音部」には、NHKの紅白歌合戦から出演依頼があったと言いますから、つくづくアニソンも捨てたもんじゃないですね。

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「888」と会社ロゴ

2009年08月22日 | 会社

「666」は、悪魔の数字等と言われたりします。新約聖書によると、この数字は、正確には「獣の数字」となっているようですが、いずれにせよ、この数字が宗教的に何らかの意味があったことは事実らしく、そうした宗教観に基づいて、使われて続けてきた側面はあるのでしょう。

ところで、そうしたキリスト教的世界観に基づいて、そのような数字遊びをしてみたり、またそのことを推し量ってみたりということについては、そろそろ幕引きをしても良いのではないかというのが、私が常々思うことでした。

「666」の解釈について、様々な意味を持たせることになった背景には、宗教を巡る歴史的で複雑な事情を含んでいるのでしょう。そうしたことからすると、「666」の数字の意味について、一概に善悪を語ることはできません。しかしそれでも、悪魔的等と呼ばれるような数字を使ってみたり、そこから誤解を招くような使い方をすることについては、第三者ながら、見ていてあまりいい気分がするものではありません。たとえ自分たちが、その内面に悪魔的な側面を宿しているとしても、それを安易に「666」等という数字で表すのではなく、あくまでも「神たらん」とする気概や気構えは必要だし、そういう存在であろうとする努力を示すべきであるというのが、私の率直な感想だったわけです(「「自分教」の薦め」、「創造主の正体」参照)。

そこで私として、そうした世界観を超越することを明示的に掲げるという意味で、意識的に使用しているのが「888」です。これは、本ブログのユーザー名、「sukune888」でも使っている数字です。

「8」は、とても縁起がいい数字で、神様の数字であるとも言えると思います。漢字の「八」は、下に向かって開けている末広がりで、未来の展望が開けていることを意味していると言われます。神社の名前でも「八幡」や「八坂」という文字があったり、「八百万の神」という言葉を使ったりもします。さらに「8」は、横に傾けると「∞」でもあり、人類の可能性という意味でも、大変縁起がいい数字であると言えるでしょう。歴史的に、「666」という数字が使われてきて、それが悪魔的な意味合いを持っていたとするならば、それに対して「888」という数字を、神としての意味合いを持たせて使ったらどうかと思ったわけです。

私が、自分の会社(イッセイ株式会社)のロゴを作成するときには、そうしたことも少し意識しました。ロゴを作成するとき、特段、デザイナーの方に「888」にしてください等というお願いをしたわけではありませんが、出来上がったロゴを見て、「これなら大丈夫」だと思いました。それは、「issei」というロゴの真ん中にある「sse」が、何となく「888」のように見えたからです。今から考えると、これが完全に「888」になっていないところもポイントのような気がします。つまり、まだ神たる「888」にはなっていないけれども、努力次第で、ちょっと線をつなげれば「888」になることができる(逆に「666」にもなり得る)という意味が込められているようで、そうした決定論的でないところも良いように思えたのです。しかも、それが二つの「i(愛)」に挟まれている(囲まれている)というのも、良いような気がしました。

他愛のないことですが、私の会社のロゴにはそんな思いを込めています。人類が現存の宗教や世界観に囚われず、自らの尊厳を「神たらん」とする意気込みで高めていければ、自ずと新しい世界が開けてくるでしょうし、より高い次元の存在としても覚醒できるように思うのです。

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期待する好試合

2009年08月21日 | 社会

甲子園で行われている高校野球の全国大会も、いよいよクライマックスが近づいてきました。こうしたスポーツ観戦の楽しみ方は様々でしょう。私の場合、自分が住んでいる神奈川県を除けば、ほぼ負けている方を応援するようにしています。それは負けている方が可哀想だからという言い方もあるでしょうが、単純にその方が試合として盛り上がるからという言い方もできるだろうと思います。それぞれの出場選手が、これまでの野球人生を懸けて、死力を尽くして戦っているのです。好試合を期待したいと思うのは極めて普通のことでしょう。

ところで、私がこのブログの中で、「常識について思うこと」というタイトルを掲げて、非常識とも取れるような内容を書き連ねているのは、この「負けている方を応援する」心境に近いような気がしています。

この世の事象というのは、常に二面性に満ちています(あるいは多面的という言い方をしてもよいでしょう)。それは表裏、善悪、光陰というような極めて基本的な概念をも含めて通じることであるため、どちらかの性別、つまり男か女かという存在として、それに縛られた一個体たる人間が、それら全体を見極めるというのは、ほとんど不可能であるということでもあります(「大きな矛盾を抱えるべし」参照)。

そうしたなか、常識というものは、この世の事象に対して、ひとつの視点が定着したときに生まれるものです。当然のことながら、それは大勢の人々によって支持されます。常識はさらに大勢を得て、ますます大きくなるというサイクルを繰り返し、常識としての地位を確固たるものにしていきます。こうなると、この世の二面性が忘れ去られ、一方の側面ばかりが是とされるようなことにもなり兼ねません。

これが私からすると、冒頭の高校野球で言うところの「ワンサイドゲーム」に見えてしまうのです。それでは、少数で非常識な「負けチーム」が可哀想ですし、また試合としても面白くありません。物事の本質は、その両面とも正しいと言うことができますし、またその間にあるとも言えるのです。常識と非常識は、表裏一体の関係にあり、本来、それらは均衡して然るべきであるとも考えられます。そういう意味で、もしかすると、「ワンサイドゲーム」に発展してしまう常識の一人勝ちは、この世を歪ませる要因にもなり得るわけです(但し、モラルに反する非常識、他人のご迷惑になるような非常識等は論外です)。

表裏一体の関係というのは、別の言い方をすれば、矛盾した関係という言葉に置き換えることも可能です。私がブログを通じて申し述べていることは、時にそうした大きな矛盾を抱えているのであり、そのような表裏一体の関係を表しているものでもあると言えるでしょう。読者の方々が、それに気付かれているかは分かりませんが、それはこのブログが、もともと「常識について思うこと」をテーマとしており、常識という概念を上記のような視点から紐解いているからにほかなりません。

ここまでの整理をした上で、私の言に対して、「矛盾しているではないか」、「変節しているではないか」と批判されるような方がいらしたとして、それはそれとして大いに結構なことであり、私としても堂々とそれらをお受けしたいと思います。

ただし、単に「矛盾していること」ばかりを指摘するということは、この世の矛盾の間に潜む物事の本質について、その方自身が理解できていないことを告白するだけになってしまうかもしれません。「変節している」と非難するような人は、一本筋が通った物事の本質を、その方自身が歪んだ姿勢で眺めているが故に、本来、真っ直ぐなそれが歪んだり、曲がったり見えてしまっているだけかもしれないことに注意が必要です。

何にせよ、高校野球における好試合を期待するのと同様、この世のあらゆる事象についても、均衡のとれたあり様を思い描いていきたいと思うのでした。

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ルキフェルの可愛い反発

2009年08月20日 | 歌詞&台詞

最近、人相というものが、少し分かるような気がしています。その人の顔を見ると、どんな人生を送ってきた人なのか、どんなスケールで生きてきた人なのかが、何となく分かるような気がするのです。「男は40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」という言葉がありますが、それはそういうことなのでしょう。

ところで、人相(顔)というのは、あくまでも身体の一部です。それが、その人の人生によって決められるということは、身体がその人の生き方によって形作られるという意味でもあり、非常に興味深いことだと思います。生き方というのは、その人の心、精神、魂といった目に見えないものによって決められるものです。そうした目に見えないものが、身体を形作るうえで大きく作用するというのは、極めて興味深い話ですし、また間違いないようにも思います(「世界と生命の源」参照)。

様々な意見があるでしょうが、目に見えないものが、目に見えるものの上位の世界として存在するという仮説は、否定しようにも否定しきれないと考えます(「確からしい四次元の存在」参照)。そもそも、世界が三次元よりも、さらに高い次元に広がっているということは、既に科学の世界でもずいぶんと言われていることでもあります。

ところで、常日頃から、こんなことを思うなか、「ティアーズ・トゥ・ティアラ」を見ていたら、精霊・ミルディンが息子のルキフェルに語りかけるこんな台詞がありました。

========================
精霊は意思のあり方で自らを形作るのだ。
心のあり様が、その姿かたちとなる。
私は長い間、自らを欺き、意に沿わぬことを続けていた。
だから、ここまで衰えたのだよ。
========================

まさに、こういうことだと思うのです。そして、これが真理の一側面だとしたら、人相を通じてその人の内面を見抜くことは、できて当たり前ということになるでしょう。

ところで、ここでさらに面白いのは、ルキフェルがミルディンの言葉の意味を、きちんと理解できず、反発してしまっていることです。このルキフェルというのは、きっと悪魔・ルシファーのことでしょう。悪魔の性質にはいろいろとありますが、そのうちの一つに唯物論的な思想、三次元的な世界観に囚われた人間を誘惑し、破滅させるというものがあると思います。よく物語に出てくるような、「悪魔との契約」の類は、概してそういうものです(「道具の目的化の危険性」参照)。

そうした意味で、「心のあり様が、その姿かたちとなる(高次元世界が、三次元世界を形作る)」というミルディンの言葉に対して、ルキフェルが理解できず反発するというのは、唯物論的な世界観に凝り固まった悪魔らしくて、なかなか面白い(可愛らしい?)と思うのです。

そんなわけで、アニメの世界は、相変わらず深いテーマを取り扱ってくれているものだと、つくづく感心していたのでした。

《おまけ》
イエス・キリストという存在について、神が受肉したものという考え方を否定するつもりはありません。私自身が考える「自分教」の精神(「「自分教」の薦め」参照)からすれば、イエスという存在もまた神の分身、化身であると言えなくもないでしょう。しかし、何よりも大切なのは、その上にある次元の存在です。その精神のあり方について、「キリスト教」という名を冠することで、イエス自身に焦点が当たりすぎてしまうと、唯物論的な世界観に囚われることとなり、結果として、彼らが忌み嫌う悪魔・ルシファーと同質化してしまう恐れがあるように思うのです。精神世界と物質世界はどちらも非常に大切であり、二者択一的な論法で整理することはできません。しかしそれでも、時間の流れのなかで、その関係性に常に注意を払い、本質を見極めようとすることは、非常に重要であると考えます(「常に変化する主従関係」参照)。

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逆ジャイアンへの疑問

2009年08月19日 | 政治

-お前の物はオレの物、オレの物もオレの物-

「ドラえもん」に出てくるジャイアンの有名な言葉です。

外国人参政権を巡っては、いろいろな議論があります。この議論には日本とは何か、国家とは何か、国民とは何かという基本的な概念に対する整理はもちろんのこと、「権利と責任」という物事の根幹についても、十分な論理的裏付けが必要なことは間違いありません。

以前、民主党の幹部の方が、外国人参政権の問題について、「参政権くらい付与されるべきだ」、「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」と発言され、インターネット上で話題になったことがありました。

-お前の物はお前の物、オレの物もお前の物-

このブログでも、コメントとしていただいたことではありますが、冒頭のジャイアンの言葉に照らし合わせると、この民主党幹部の方のご発言は、「逆ジャイアン」とも呼ぶべき内容だと思います。

日本という国家について、もはや自分たちだけの物でないことを一方的に表明するというのは、日本的な美徳と言うことができるのかもしれません。その心情を理解しないわけではありませんが、同時に、こうした言葉はけっして安易に口にするべきではないことも事実です。日本という国を愛し、日本を良くしていきたいという思いから、政治に積極的に参加していきたいという外国人の方々も、大勢いらっしゃるだろうとは思います。ただそれでも、日本国籍しか有さず、純粋に日本人として生きている人々の方が、日本という国に対して、最も真剣に考えるであろうことも事実でしょう。これは、無党派層や選挙に関心がないとされている多くの日本人の方々に対して、「日本という国に対して真剣に考えていない」と断ずることへの反論を含めて、間違いのないところだと思うのです(「投票の権利と責任」、「一番難しい「山」」参照)。

外国人参政権の問題を考えるにあたって、至極、当たり前のことですが、外国人というのは、日本以外の国籍を有する方々です。その方々の場合、どんなに日本との関係が深いとしても、最悪、日本という国がなくなった場合でも、別の国籍に基づいて、新しい生活や人生を始められるという道を残していることは事実でしょう。

これに対して、日本国籍しか有さない純粋な日本人は、日本という国の浮沈の影響を直接的に受けるだけでなく、それを避けるための逃げ場(別の国籍)を持っていないのです。このことは、嫌でも日本という国について、真剣に考えざるを得ない立場にあると言えると思います。仮に、多くの日本人が、「それほど真剣に考えていない」という意見に、それなりの妥当性が認められるとしても、現代社会の仕組みとして、参政権を行使したことによる結果責任を負わされることは間違いありませんし、それに対する「逃げ場」を持ち合わせていないというのは紛れもない事実なのです。

他の外国籍を有する方々が、「本国に帰る」、「本国の国籍で生きる」という逃げ場があるのに対して、日本人にそのような選択肢がないということは、それだけ負うべき結果責任が重いということです。構造上、制度上の与件として、責任の重みが異なっている以上、異なる重みの権利を付与するというのは、極めて当然のことです。現在の国家や国籍等の制度的な構造、概念をきちんと踏まえ、「権利と責任」という根本から整理していけば、日本という国における参政権について、日本人と外国人とでは、決定的に異なって然るべきと考えるのは、誠に自然なことではないかと思えてなりません。

いじめっ子・ジャイアンの逆、「逆ジャイアン」であることが、良いことであるかのように思うのは、少々安易に過ぎる可能性があるという点、指摘せずにはいられないのでした。

《おまけ》
日本人への帰化要件には、以下のようなものが挙げられるそうです。もし、日本と深く関わるような外国籍の方がいらっしゃるとして、このような手続きを踏もうとすることなく、一方的に参政権ばかりを主張するとするならば、それはいささか都合が良過ぎるようにも思います。

-住所条件
「引き続き5年以上日本に住所を有すること」

-能力条件
 「20歳以上で本国法によって能力を有すること」

-素行条件
 「素行が善良であること」

-生計条件
 「自己又は生計を一にする配偶者その他の親族の資産又は技能によって生計を営むことができること」

-二重国籍防止の条件
 「国籍を有せず、又は日本の国籍の取得によってその国籍を失うべきこと」

-不法団体条件
 「日本国憲法施行の日以後において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを企て、若しくは主張し、又はこれを企て、若しくは主張する政党その他の団体を結成し、若しくはこれに加入したことがないこと」

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世界創造のポイント

2009年08月18日 | 短編

可視化されていて計算できる世界があり、
見ることができない想像に近い世界がある。

見せられている世界で生きる人がいて、
想像を繰り返す世界で生きる人がいる。

人は、自分の生き方を決め、世界を創ることができる。

大きな壁の向こうに広がる未来の世界。
そこで、その人が必要な存在かどうかは、その人自身が決めている。

《参考》
アキレスとカメの行方
妄想と現実の狭間
限りなく想像し、創造せよ」等

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アキレスとカメの行方

2009年08月17日 | 科学

アキレスとカメという話があります。この話については、以前、仮説の重要性を説明する中で、取り上げています(「「仮説と検証」のすすめ」参照)が、ここではあらためて、アキレスとカメの話に焦点を絞って、整理してみたいと思います。

アキレスとカメというは、以下のような話です。

足の速いアキレスという人と、ノロノロ歩くカメがいます。アキレスは、カメの後ろにいて、前を歩いているカメを追いかけるようなかたちで、同じ方向に進んでいます。この時、これを次のように考えます。

  1. アキレスが、カメがいた場所に辿り着く
  2. アキレスが、カメがいた場所に辿り着いた時、カメはそれよりも前に進んでいる
  3. さらにアキレスが、そのカメのいた場所に辿り着く
  4. アキレスが、カメがいた場所に辿り着いた時、カメはそれよりもさらに前に進んでいる
  5. またさらにアキレスが、そのカメのいた場所に辿り着く・・・

これを繰り返していると、アキレスは永遠にカメに追いつかないことになります。当たり前のことながら、そんなことはあり得ません。では、この問題を解いてみます。

-実際、アキレスはカメに追いつくのではないか?-

もともとのアキレスとカメの話からすると、あり得ない話です。しかし、もともとの話が不自然である以上、それを超える仮説を置いてみるのです。さらにここでは、アキレスはカメの2倍の速度で歩くと仮定して、時間軸について考えてみることにします。

まず、最初の状態は、スタートなのでT(時間)=0とします。そこから、アキレスがカメに追いつくまでの時間を、仮にT=1と考えます。こうすると、T=1までの残り時間の半分で、常にアキレスはカメがいた場所に辿り着くことになります。少々、分かり難いかもしれませんので、それを図示すると以下の通りとなります。

直感的に分かっていただけるかも分かりませんが、この「T」の小数点以下の桁数は、どんどんと長くなっていきます。そして、同時に「1」に近づいていきます。それは下に示すとおりです。

============
T=0.500000000000
T=0.750000000000
T=0.875000000000
T=0.937500000000
T=0.968750000000
T=0.984375000000
T=0.992187500000
T=0.996093750000
T=0.998046875000
T=0.999023437500
T=0.999511718750
T=0.999755859375
============

この数字は、延々と長くなり続けるのですが、よく見れば、結局、「T=1」までの差分を、細かく切っているだけなのです。従って、この計算を繰り返す限り、このT値は限りなく「1」に近づいていきながらも、けっして「1」にはなり得ないということになります。このことが、この話において「アキレスは永遠にカメに辿り着けない」という論拠になるのです。

この問題を考えるにあたって面白いことは、計算能力を高めることが、問題の本質的な解答に結びつかないということです。いくら計算能力を高めても、所詮、計算できる桁数が増えるだけで、それが指し示すところは、「アキレスはカメに追いつかない」ということに変わりないというところがポイントです。

このように出口が見えない問題があるときには、それを超える仮説を置くということが、極めて重要です。上記の例で言えば、「アキレスはカメに追いつく」、「T=1は存在する」という仮説を立てることが、この問題の本質的な解決のための鍵になるということです。ただし、この解決によって、「アキレスがカメに追いつかない」という、もともとのアキレスとカメの話が、全て否定されるわけではありません。もともとのアキレスとカメの話は、単に「T<1の世界」における論理であり、それがこの話の論理的限界であるという解釈が、最も的を射ているように考えます。そして、実際には「T≧1」の世界が存在するのであり、それを認められる仮説を立てられたとき、アキレスは優にカメを抜き去っていくという、もともとのアキレスとカメの話ではあり得なかった現象が明らかになるわけです。

こうした問題は、アインシュタインを始めとする科学の話にも通じるものがあると考えます。即ち、近年、アインシュタインの論理に不備があるとし、それを否定するような論調のものも散見されるのですが、それはアインシュタインが考える世界観(T<1の世界)における限界があるだけで、それが全否定されるようなものでもないだろうということです(「優等生なアインシュタイン」参照)。

アインシュタインが持つ世界観(T<1の世界)や論理には限界があり、それを超える世界(T≧1の世界)が存在することを仮説として置き、その検証が進んでいけば、科学はさらに飛躍的な進歩を遂げるようになるのでしょう。仮説を置き、それを検証していくことの繰り返しこそが、科学の最先端で行われていることである以上、まだ残されている世界の多くの謎は、科学によって、いずれきちんと解明されていくのだろうと思います。

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人間の自浄能力

2009年08月16日 | 独り言

最近、何かと麻薬の問題が話題に上がります。麻薬は、一度その味を知ってしまうと、その感覚が脳に刻み込まれて、なかなか抜け出せなくなるというのが、怖いところだと言います。ところで、こうしたことは麻薬に限らず、いろいろなものについて当てはまることでしょう。

-おカネは麻薬だ-

こんな言葉を耳にすることがあります。おカネは便利なものですが、その力に魅せられ、それが忘れられなくなると、逆に振り回されることになるのです。その危うさを認知し、きちんとコントロールできるかは、非常に重要です(「道具の目的化の危険性」参照)。

先ほど、テレビを見ていたら、オリンピックは1984年のロサンゼルスから商業主義が始まったと言っていました。おカネの力を活かした商業主義というのは、そういう意味で、本来、慎重に始めなければならないものです。

ただし、残念ながらオリンピックについては、軽重はともかく、既に中毒症状は出ていると思います。オリンピックに限らず、何かと商業主義に走ってしまう社会、資本主義に依存しきった仕組みの中には、そうしたものが蔓延っていると言えるでしょう(「お遊びが過ぎたら」、「力技は続かない」、「仮面ライダーと商業主義」等参照)。

しかし私は、そうは言っても、人間には正しく生きようとする力、キレイになろうとする精神がきちんと宿っていると思います(「性善説と性悪説の決着」参照)。そうした意味で、私としては、オリンピックを含む諸々の動向を見守りつつ、人間が持つ自浄能力というものが、どのように働くものなのかについて、じっくり注目していきたいと思うのでした。

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違うことを伝える気遣い

2009年08月15日 | 日本

今日は、終戦記念日です。この時期になると、きまって話題になるのが靖国神社問題です。靖国神社への参拝は、中国や韓国等の近隣諸国への配慮という点から、これだけの問題となっているものだと認識しています。しかし、そのような配慮が、本当にそうした国々にとっても正しいものなのかは甚だ疑問です。海外からの指摘というのを、全く排除するわけではありませんが、彼らと日本とでは戦争に対する立場が違うということを、きちんと伝えることも大切ではないかと思うのです。国家として別々に存在し、それぞれが異なる歴史を持つ以上、その違いはいわば必然であり、それを互いに認め合い尊重していくことも重要です。

靖国神社の問題は、戦没者に対する参拝自体が問題になっているわけではありません。靖国神社には、いわゆる東京裁判でA級戦犯とされる方々が含まれており、そうした戦犯を祀った神社に参拝をするのが問題だというのが、最大のポイントであろうと思われます。それ故に、A級戦犯分祀案が挙がったり、そうした問題をクリアした国立追悼施設の建設といった案が挙がったりするわけです。

ところで、この東京裁判については、様々な問題が取りざたされています。この問題は長らく議論が続いており、多くの書籍も出ているため、ここでの詳述は避けますが、要するに戦勝国による一方的な裁判だったということです。そして、靖国問題での焦点となるA級戦犯については、「平和に対する罪」を犯した者とされている一方、事後法に拠っていたため、法的要件を全く満たしていないとも言われています。

もちろん、東京裁判の法的不備を論って、日本の戦争行為を正当化すべきではないというのは、極めて当たり前のことであり、そこを履き違えるようなことがあってはならないでしょう。しかし同時に、東京裁判での結論に全くの疑問を寄せず、そればかりを尊重できるほど、日本という国家及び国民の立場は単純でないことも間違いありません。こうした事情がある中で、靖国神社からA級戦犯を分祀したり、別途国立追悼施設を建設したりということは、そのような日本の複雑な立場を、安易に誤ったかたちで海外にメッセージングしてしまうことになり兼ねません。

議論することは、大いに結構です。他国の理解を得るために、自国のあり方を議論し、改めるべきを改めるという姿勢も大切なことでしょう。しかし一方で、「国が違えば、事情が違う」というのは、国家という枠組みが存在する以上、どうしようもないことでもあります。そして私は、本問題における経緯を見る限り、配慮の対象となる近隣諸国と呼ばれる国々の指導者が、「国が違えば、事情が違う」ということを理解できていない可能性を恐れます(本当のところ、国民レベルでどうなのかは分かりません)。そういう意味でも、日本は本問題について、「私たちの立場は違う」ということを、毅然とした態度で示していくことも重要ではないかと思うのです。それは、日本という自国のためであることはもちろん、国家とは何かの本質を理解しない国があるとするならば、そうした他国に対する気遣いであるとも言えると思います。

《おまけ》
靖国神社問題については、総理大臣や閣僚(またはその経験者)が終戦記念日に参拝をするかどうかというのも、ひとつのポイントになっています。しかしこれは、彼らの立場から公人云々の問題として捉えるのもどうかと思います。靖国神社への参拝については、それぞれその人がどう考えるかに基づいた行動であり、それ以上でも、それ以下でもないという解釈で十分ではないかと思うのです。普段から、8月15日に参拝されている方が大臣になったのならば、引き続き参拝されれば良いことですし、そうでないなら、従来どおり参拝しなければ良いというだけのことでしょう。この問題については、取り立てて政治問題化すること自体に、そもそもの問題があるように思いますし、それを望むような勢力や影響力の有無を含めて、ちょっとした違和感を覚えてしまいます。

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