「仮面ライダーディケイド」が終わりました。私としては、少々ほっとした感があります。
ディケイドは、もともと10人目の平成仮面ライダーで、それまでの9つの平成仮面ライダーの世界を渡り歩く設定になっていました。ところが、夏休み映画「仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」を前に、途中から昭和の仮面ライダーブラックやRXが出てきたり、最後に時間調整かのように仮面ライダーアマゾンが出てきたり、当初の設定が崩れました。オープニングのナレーションも、「9つの世界」から、「いくつもの世界」という変更がなされるという始末です。
コンテンツの商業主義偏重の問題は、重ねて述べているところです(「仮面ライダーと商業主義」等参照)。テレビという媒体が、基本的に広告モデルで成り立っている以上は、その限界を見定めた上で、その中で必要な収益を確保するための工夫は必要です。しかし、そちらに傾注してしまい、コンテンツそのものが捻じ曲げられたりするようなことがあってはならないことも確かです。今回のディケイドは、もともと考えられていたストーリーがあったにもかかわらず、映画からの収益確保のために、放送途中からそれを無理やりに改変したと解されても仕方がないでしょう。この作品の制作関係者の方々に反論があるのなら、是非ともお伺いしたいところです。あの中途半端なブラックやアマゾンの登場が、映画に結びつけるための時間稼ぎではないというのであれば、本当の理由というものを聞かずにはいられません。いよいよ商業主義のネガティブな要素が、コンテンツの核の部分まで侵食してきたように思います。
映画からの収益確保や連携という意味では、過去、「仮面ライダー電王」においても、同じようなことがありました(「「映画連携」の効果と限界」参照)。それは、テレビ放送分のストーリーが、いまいち不自然な展開となるのですが、それは映画を観れば分かるというものでした。テレビの広告モデルという限界を認識した上で、きっちりいいお値段を払ってもらえる映画事業と連携することで、十分な収益を回収しようということなのでしょう。あまり、賛同したくはありませんが、そういうかたちもあるのだと思います。
ただし、ディケイドの場合は、それを究極的にやりきった感があります。本日、最終回だった「仮面ライダーディケイド」では、きっちりとストーリーが完結せず、その結末は12月の映画を観るようにという締めくくりがなされました。幸い、私の子供たちは、ディケイドに対する関心を完全に失っているので、映画に行くようなことはないですし、私がそれに付き合わされることもないでしょう。ただ私としては、最終回という作品で最も重要な部分を、映画で展開しようというディケイドの試みが、どのようなかたちに落ち着くのかに関心を引かれるところです。お金が大切であることは分かりますし、そのために商業主義的な思考が必要であることも理解できます。しかし、そればかりに走ってしまう制作になってしまったとき、そのコンテンツを心から愛してくれるファンが、果たしてどれだけいてくれるものなのかという点が、私にとっての重大な関心事なのです。
さらにディケイドの思想について述べると、彼は自らを「世界の破壊者」と称しています。新しい世界を創造するためには、破壊が必要であることは理解できます。しかし、それは新しい世界のビジョンがあって、初めて許されることであるとも思います。彼の場合、その新しい世界のビジョンを持ち合わせているようには思いません。この辺りに、彼の決定的な限界があると思えてならないのです。
そして何よりも、自ら「世界の破壊者」と称することの「甘え」を感じざるを得ません。周囲からの批判に対して、「どうせ自分は破壊者だから」と開き直れるように、自ら予防線を張るような行為は、ある意味で卑怯であり、自分にも周囲にも甘え過ぎているとも言えます(逆に、きちんとビジョンがある人は、こういう言い方をしないと思います)。そうした生き方をする人には、それ相応の代償が支払われて然るべきでしょう。それが他人の生死に関わるのであれば、当然、本人の命が奪われることも含みます(「自称悪魔さんたちの償い」参照)。
ディケイドの最終回には興味がありませんし、当然、劇場に足を運ぶようなこともないと思います。そういう意味で、彼が生きようが死のうがどうでもいいところです。ただ、ひとつ願うとするならば、「世界の破壊者」はカッコ悪すぎるから止めたらどうでしょうというくらいです。
そんなことを思いつつ、さらばディケイド!なのでした。