子供番組は単純明快です。例えば、ヒーローものの番組。正義と悪がいて、苦しみもがきながらも、必ず最後に正義が勝つ。そんなストーリーばかりだから、大人は子供番組を「ワンパターンでつまらないもの」と馬鹿にしてしまう傾向があります。でも、私はヒーロー番組が大好きです。それは、そこに物事の本質が含まれていると思えてならないからです。
日曜日の朝に放送されているのは、ヒーロー戦隊ものの「轟轟戦隊ボウケンジャー」。これをみながら、つくづく思うことは、やっぱり、必ず正義が勝つようにできているということです。
ボウケンジャーの敵陣営は、ひとつではありません。影忍者一団の「ダークシャドウ」、かつての高度文明人「ゴードム」、恐竜のDNAを取り込んだ「ジャリュウ一族」など。これらを総称して、ボウケンジャーの敵キャラは「ネガティブ」と呼ばれています。 このネガティブは、お互いが連携し合うということはほとんどありませんが、一応それぞれの目的のために戦っています。ネガティブのひとつである「ジャリュウ一族」の長は、「リュウオーン」というキャラクターです。悪陣営のボスキャラなので、いかにもといった風貌だし、根っからの悪い奴だと思い勝ちになりますが、実はこの悪の親玉「リュウオーン」は、もともと人間だったのです。
それも普通の人間ではありません。本当は人間のことが大好きで、人間の可能性に対して、人一倍大きな期待を寄せていた優しい人間でした。「今の人類は愚かだけれども、変わることができるんだ」と真剣に信じており、むしろ一般の無関心の人間よりもずっとまともだったのです。ところが、人間は殺し合い、憎しみ合うという愚かな行動をやめません。そこでリュウオーンは、大好きな人間に対して、すっかり失望してしまいました。期待が大きかっただけに、大きな失望をしてしまうのです。そして、心に誓います。「こんな人類なんて滅びればいい」。こうして彼は、その醜い姿へと変貌を遂げ、ジャリュウ一族の長、リュウオーンとなったのです。
一方、ボウケンジャーは、当たり前のことながら、人類の可能性を信じて、正義のために戦っています。リュウオーンは、ボウケンジャーと戦いますが、人類の可能性を信じて、正義のために戦うボウケンジャーの姿は、まさに「昔の自分」の姿。ボウケンジャーに対して、「人間を信じるなんて、お前らは馬鹿だ」と思いながら、けっして彼らを殺すことはできないのです。何故なら、それは過去の自分の美しい姿だから・・・。 だからこそ、「悪」のリュウオーンは、どんなに強くてもけっしてボウケンジャーには勝つことができません。「悪」なんてそんなものだと思うのです。誰も「悪」になんてなりたくてなっているわけではないし、強い「悪」であればあるほど、強く信じたものがあって、それに裏切られ、失望の結果「悪」になってしまっているだけなのです。むしろ「悪」は、最後に「正義」に倒されることを望みながら存在していると言ってもいいでしょう。ちなみに1月28日の放映で、リュウオーンはボウケンレッドとの一騎打ちに敗れ、やはり人間に戻ってしまいました。
強い「悪」は心の奥底で、さらに強い「正義」があることを信じたいと思っているものです。「こんな人類は滅べばいい!こんな世の中なんていらない!」と思いながらも、それは本望ではないことも同時に知っているのです。だから、自分よりも強い「正義」の存在を期待しながら、戦わざるをえないのです。したがって、どんなに強い「悪」も、最後に自分よりも強い「正義」に倒されることを願っています。それはそんな正義こそが、もともと自分が信じようとしていたものであり、本当は最後まで信じたかったものだからです。
だから、正義は必ず最後は勝っていくのだと思えるのです。そして、だからこそ、人は真に正義と信じたものを、けっして曲げてはいけないと思うのです。
そこで自分たちの生き方に立ち返りましょう。
正義とは何でしょうか。大義とは何でしょうか。何のために生きるべきなのでしょうか。曲げてはいけないものとは何なのでしょうか。
これは人には教えてもらえません。常に自問自答をしていきながら、自らの力で答えを探し出していかなければならないものなのです。このことは、非常に辛いことで、自分の心で悩み続けるしかありません。宗教は、それらしい答えを簡単に教えてくれますが、そこには落とし穴があります(「宗教が説く真理」参照)。頼るべきは自分の力であり、自問自答し続ける忍耐力が必要となるのです(「困難から逃げないこと」参照)。そして、世界はヒントに溢れています。
悪に迎合してはなりません(「妥協が許されない理由」参照)。最後の最後まで、正義を貫き、そして己に勝たなければならないのです。悪魔に魂を売ることなく、自分が人間として、本来するべきこととは何かを究極的に突き詰めていくことで、その人の人生と人類の未来は大きく変わっていくと思います。