常識について思うこと

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「自分教」の薦め

2007年04月29日 | 宗教

宗教は多くの人々を救済してきました。生きる意味や目的、あるいは生きていくための支えを失った人々にとって、真っ暗闇に突き落とされたような人生に一筋の光明を授けます。宗教がそうした多くの人々に生きる希望を与えてきたことは、まぎれもない事実だと思います。これは、宗教がなせる業であり、人類を救済したという功績でもあるでしょう。

また現在の状況をみても、実に多くの人々が宗教を信じているし、人類の歴史を振り返っても、宗教と人類は常に共存をしてきたと言えると思います。このことは、いかなる宗教にせよ、宗教が説く法に人々を信じさせるだけの力があるからにほかなりません。

しかし、これからを生きる人類は、宗教にすがって他者に救われることを期待してはならないとも思います。

物事には必ず二面性があります。宗教にも同じように、宗教がこれまで存在してきた理由に、良き面と悪しき面があります。良き面とは、上記のように多くの人々の人生を救ってきたという宗教の功績の部分です。生きる希望を失いかけ生ける屍となっていたけれども、宗教の教えにより生きる勇気を得ることができ、無駄に死すことなく、社会に貢献していった多くの人々がいたはずです。また、そうした宗教を中心に建築、絵画、彫刻などの芸術分野において新しい作品が生まれ、それが文化となり、その宗教とは関係のない人々の心までも豊かにしていったと思います。

しかし、こうした良き面があると同時に、悪しき部分があることを忘れてはなりません。即ち、宗教の運営に深く関わっている人々のなかには、多くの人々がその宗教に頼っていることを利用して、自らの欲望を満たそうとする心があるということです。高潔な宗教の運営者の心のなかに、そのような矛盾があるなどということは、その宗教を信じる人々にとって耐え難いものかもしれません。しかし、現在の人間が完璧な存在ではない以上、それは致し方ないことでもあります。そもそも「愛」や「平和」を唱える宗教同士が、絶えず争いを繰り返していることは歴史が証明しているし、それは誰も否定できるものではありません。自ら考えることをせず、宗教に人生を委ねてしまっては、そうした宗教同士の争いの渦に、自らの人生を放り込んでしまうことになります。それは、大変危険なことです(「武士と騎士の違い」参照)。

真に争いを回避し、本当に「愛」や「平和」を実践するためには、他者に対して寛容でなければならず、他の宗教を受容していかなければなりません。しかし、宗教にとって、他の宗教を受容するということは、自己を否定することを意味します。つまり、宗教が存在する以上、その宗教は他宗教との差別化が必要となるのであり、他の宗教とは相容れないものを持たなければならないのです。宗教が宗教として存在する限りにおいて、他宗教を否定します。「愛」や「平和」を唱え、争わないことを主張し、他宗教をも受け容れよと言いながらも必ず否定しなければなりません。それが宗教の限界です(「宗教が説く真理」参照)。

このように宗教の限界が露呈している現代において、何を信ずるべきでしょうか。それは、他でもない自分自身です(「頼るべきは「自分」」参照)。自分の人生は、自分が責任を持たなければならないし、自分の人生に必要な意思決定は、他者に頼らず、自分自身で行っていかなければなりません。至極、当たり前のことです。

そうした当たり前の議論のなかで、「神」とは何かを考えるのです。端的に言うと、神とは、その人にとって、その人自身です。あなたにとっては、あなた自身が神なのであり、あなたにとって必要なものは、すべてあなた自身で決めることができるし、決めなければならないということです。

自分自身が神であると考える。いわば「自分教」とも言うべき発想ですが、このことは以下のような2つを同時に実践していかなければならず、実は大変難しいことでもあります。

①高いプライド
自分自身が神であると考える以上、自分だけのことを考えていてはなりません。自分の幸せはもちろん、自らの存在が地球上のあらゆる生命の幸福のため、地球の平和のためにあるということを意識し、それを実践しなければならないのです。自分の存在は、自分だけのためにあるのではありません。限りなく広い世界のために存在するのであり、だからこそ自分の存在は限りなく尊いということを知るのです。このことにより、その人は神としての高いプライドを持つことができます(「「大人」の責任」、「生きがいと幸せ」、「正義が勝つ理由」参照)。

②究極の謙虚さ
自分が神であることを知るということは、自分だけが特別であるということではありません。一人の人間として、自分が神であるということに気づいたに過ぎず、そのことは本質的に、他の人間ひとりひとりも、まったく同じように神であることを認識するということでもあります。つまり自分が神として尊厳ある存在ですが、周りのすべての人々もまったく同じように尊い存在であることを知るということであり、それらのすべての人々に対して、限りなく謙虚でいなければならないということでもあるのです(「「No」と言えないことへの誇り」、「脳力の可能性」、「人間の優劣と競争社会」参照)。

このふたつを実践していくことで、その人は限りなく尊い存在となります。地球の問題が、人類にとって待ったなしの状況にあるなかで、人間はこのことに気付かなければならず、それに気付くことで、他者をいたずらに傷つけることはなくなり、現存の宗教のような争いをしなくなると考えます。

「選ばれし者」という言葉があります。果たして自分は神に選ばれるのか、選ばれないのか。救われるのか、救われないのか。そんな風に不安に思う必要はありません。宗教に人生を預け、選ばれるかどうかを「どこかの神」に任せてしまうから、そのような発想になるのです。

神になるか、ならないかは自分自身の意識にかかっています(「集合的無意識の力」参照)。自分が人生をかけてするべきことに気付き、それに高いプライドをもち、同時に謙虚さを兼ね備えることができれば、その人は自ずと自分の人生の尊さを知り、自らが神であることを知るのです。そのとき、「選ばれし者」とは、自分が尊い存在であり、自らを神として選ぶかどうか、という非常にシンプルな自分自身の問題であることに気付くでしょう。

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