常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

著作権弱者への配慮

2011年12月17日 | 産業

SOPA(Stop Online Piracy Act)が話題になっています。これは、オンライン海賊行為防止法と呼ばれるもので、海賊版のコンテンツやオンライン著作権侵害を勧めるような情報をアップすることができるサイトを訴えることができるというものです。これに対して、米国の主要なインターネットサービス会社が、軒j並み反対の意を唱えています。この反対は、ある意味とても自然です。

インターネットの本質は、誰もが発信できるところにあり、無数の人々が勝手気ままに情報をあげることができる仕組みにあります。近年、成長著しいFacebook、Twitter、Youtubeなどのサービスを思い返していただければ、その意味がはっきりするかもしれません。こうしたサービスでは、ユーザーが自由に情報をアップできる仕組みになっているため、SOPAのターゲットとしてひっかかってくる可能性があります。仮に、この法が成立したら、これまでのインターネットの利点が大きく損なわれかねません。

しかし、この展開は、自明の理だったとも言えます。。何故ならば、これまでのインターネットは、あまりにも著作権に対して無頓着だったからです。

これまで、メディアの王様はテレビでした。そのため、コンテンツの著作権は、テレビを中心にしたメディアのルールで守られてきました。そのルールで守られてきたコンテンツやコンテンツホルダーは、インターネット上でも、いわば守られることが約束されている「著作権強者」なわけです(「著作権強者」が、厳密な意味で守られているわけでなくても、インターネット事業者によって、いかに収益を上げさせるかという配慮がされてきました)。一方で、インターネットの本質は、誰もが参加できるところにあり、そのように守られることが約束されていないコンテンツやユーザーが中心になってきます。これらは、「著作権強者」という言葉に対して、「著作権弱者」とでも言えましょう。

本来、誰もが発信できることに、その本質があるインターネットを、健全なメディア、あるいは産業インフラとするのであるならば、こうした著作権弱者をこそどのように守るかという視点が抜けてはいけませんでした。言い方を変えると、インターネットでは、テレビとは違った独自の著作権ルールを、ゼロから作る必要があったということでしょう。しかし、既存のインターネット事業者は、こうしたことに十分な配慮をしていなかったのではないかと思います(「「才能の無駄遣い」の克服」参照)。

現在、メジャーとされる多くのインターネットサービスでは、数多くのユーザーから無数のコンテンツを集めておきながら、その著作権を尊重せず、それに対して報酬が支払われる仕組みなどを作ってはきませんでした。結局、そうしたサービス事業者では、集めたコンテンツによって、さらにユーザーを集め、スポンサーから広告料をとるといったことが中心になってしまっています。つまり、著作権弱者は、いつまでも弱者の立場に甘んじなければならない仕組みであるわけです。弱い人たちの著作権が尊重されず、既存の著作権強者にだけ気を使うインターネットは、ある意味、「弱い者イジメ」の仕組みとも言えるかもしれません。著作権弱者は、そうした著作権軽視の風潮のなかで生きていかざるを得ず、結果として、海賊版コンテンツや著作権侵害ということにも、サービス事業者同様、無頓着にならざるを得なかったということでしょう。そうしたなかで、著作権弱者に対して、一方的に「著作権の秩序を守れ」ということの方が酷のような気がします。

SOPAの背景には、そうした著作権弱者を軽視してきた、現状のインターネットシステムの問題がある気がしてなりません。したがって、この問題の解決には、著作権弱者にも、等しく著作権が守られる仕組み、それに対して報酬が支払われるルールを作り、それを適用していくことが肝要なのではないかと考えます。

まずは、私たちなりに、そうした新しいシステムの実現を進めていきます。

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荒らしを封じる自制心

2010年08月26日 | 産業

インターネットにおける匿名性の問題は、このブログでも再三、指摘しているとおりです(「責任を伴う「場」の提供」等参照)。この問題は、これからのインターネットを構築していく人間にとって、大真面目に向き合っていかなければいけない課題だと考えています。


ちょっと下が騒がしい?


何やら罵倒の嵐・・・


と思ったら「荒らし」だった

先日、ピグで遊んでいたら、「荒らし」を目の当たりにしました。上掲の写真は、ピグの「清水寺」です。ここでは、滝の前でお参りをして遊ぶのですが、そこでどうやらもめているようなのです。よく見てみると、滝の前に陣取って、ずっと動かない人がいるため、みんなが滝の前でのお参りをすることができないでいました。

困ったもので、この迷惑者は完全なる確信犯でした。プロフィールをみると「荒らしとして名を馳せる」という名前になっています。周囲の人々からの苦情そっちのけで、むしろ挑発する発言を繰り返すばかりです。ピグのシステムでは、こうした人々を積極的に排除したり、何らかの不利益を与えるような仕組みがないため、荒らしに遭った人々は、ただ我慢するしかありません。

ここには、今のインターネットの根本的な問題があると感じます。それはつまり、インターネット上における評価システムが脆弱であるということです。仕組みとして迷惑行為に規制をかけるとか、荒らし行為を取り締まるとかいうことではないところがポイントです。こうした行為に対して、誰か特定の人間が取り締まるような発想では、その取り締まっていくコストが膨大化するだけで、大きな仕組みとして成長させることができません。

ポイントは、そうした行為に対するネガティブ評価を、参加者に行ってもらい、それをきちんと反映できる仕組みにするということです。上記の例で言えば、荒らしに遭っている人々は、ただ我慢するしかないわけですが、こうした人々のネガティブ評価をきちんと反映させる仕組みにすることによって、荒らし行為をする者たちが、十分な不利益を被るようにするのです。そのことで、これまで荒らし行為をしていた者たちが、荒らしをしたいという欲求とその不利益とを天秤にかけて、より強く自制心を働かせることができるようになるでしょう。即ち、荒らし行為に対しては、そうした自制心によって抑え込む仕組みが重要だろうということです。インターネット全体をこうした仕組みにしておけば、それがどんなに大きく成長しても、荒らし行為の取締りといったようなコスト負担に頭を抱えることはないわけです。

こうした自制心を効かせて、迷惑行為を減らすというのは、単純に現実世界でも行われていることです。私の指摘は、そうした現実世界でも十分に発揮している自制心を、インターネットにも持ち込めるようにすればいいというだけのことです(「インターネットのリアル化」参照)。

ピグは、とても楽しいと思います。ピグでは、荒らしとは正反対に有難いことを自ら進んでしてくれている方々も大勢います。これについては、既にブログでも書いているとおりです(「ボランティアさんに感謝」参照)。ただやはり、そうした方々に対しても、きちんとした評価ができず、またそれに対価を支払うことができないというのが、今回の荒らし問題と併せて、表裏一体の問題としてあるような気がしてなりません。

この問題は、いつまでも引きずる話ではなく、近く解決されていくものであると考えます。そして、これが既出の関係者の方々の手に余るというのなら、いずれ私や私の仲間たちが、新しい仕組みを整えていくことでしょう。そういう意味で、あまり心配はしていませんが、現状にけっして満足したくないとも思います。

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ボランティアさんに感謝

2010年07月14日 | 産業

インターネットが参加型メディアであり、ユーザーに開かれたシステム(オープンシステム)であるということにこそ、とても重要なポイントがあることは、繰り返し述べているとおりです(「次世代インターネット」等参照)。

最近、よく利用しているアメーバピグでも、それを痛感させる出来事がありました。

アメーバピグは、ネット上の仮想世界で生活するもので、アバターと呼ばれる自分のキャラクターを使って、そのなかを行き来します。昨日は、タイムトラベルをして、カリブ海の海賊船に乗りました。とにかく初めての私は、何が何だかよく分かりません。船の両脇には大砲があるのですが、とりあえず面白いので、バンバンと適当に撃っていました。

その内、船の真ん中あたりで、やたらと元気に「指示らしい」言葉を発している人がいるのに気付きました。

-○○さん、そこはどいてください-

-皆さん、私がジャンプしますから、着地のタイミングに合わせて!-

-勝手に連射しないでください-

どうやら、大砲の撃ち方を指示しているようなのです。私以外にも、訳が分からないま適当に撃ってしまっている人がいるので、なかなか収集がつきません。しかし、しばらくすると、皆がその人の存在に気付き、耳を傾けるようになり、だんだんと全員がひとつになるのが分かりました。その人が船の中央でジャンプをすると、大砲の射撃手全員が、その着地に合わせて砲撃を行うようになるのです。

しばらくこれを繰り返していると、船の向こう側からニョキニョキと巨大なイカが姿を現しました。どうやら、全員の一斉砲撃によって、巨大イカが現れる仕組みになっているようなのです。

-見えましたか?-

-見えてない人いたら、もう一回やりますよ!-

しばらく、海賊船からの大砲撃が続いて、巨大イカが何度か現れたり、消えたりを繰り返しました。それらが一旦、落ち着いたところで、私はその人に近寄って、ちょっと話しかけてみました。

-ピグのスタッフさんですか?-

そのあまりの熱心ぶりと、砲撃手をまとめるリーダーシップに感服し、おそらくスタッフではないだろうとは思いつつ、こう質問してみたのです。すると、その人は笑って、「よく言われますww」と答えながら、自分はボランティアで、みんなに巨大イカを見てもらいたいからやっていると言いました。

-これぞオープンメディアの醍醐味!-

従来のように発信者と受信者が決まってしまっているメディアでは、「砲撃手たちをまとめる」といったような仕切りは、そこの運営者であるスタッフ等が、「ユーザーへの説明」という仕事として行っていたでしょう。しかし、インターネットのようなオープンメディアでは、それぞれがその世界のなかで、好きなように振る舞えるのであり、従来であればスタッフがすべき「仕事」を、謂わばボランティアでもこなしてくれるわけです。

そこには、そのボランティアさんの「みんなに巨大イカをみせてあげたい」という善意が存在するわけで、それをうまく活せる仕組みを構築することこそが、これからのインターネット事業者のすべき仕事であると考えます。私としては、それを厳密に追求する意味でも、これからのインターネットでは、それにプラスしてボランティアの方に感謝の気持ちを伝えられる仕組み、お賽銭のようなチップを支払えるシステムが必要だろうと思っています(「お賽銭モデルの提唱」参照)。

ただそれでも、ひとまずは昨日の海賊船での出来事を目の当たりにして、あらためて、私が考える次のインターネットの仕組みを支える「人々の善意」があるであろうことは、きちんと確認できましたし、それだけでも大きな意味があったと思うのでした。

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ビジネスモデルは表現物

2010年05月07日 | 産業

-最近、アメリカでMBAを取っているのは中国や韓国人ばかりだ-

先日、年配の方から「日本は情けない!」というコメントとともに、こんなお叱り(?)を受けました。MBAは、「経営学修士」等と訳されます。要はビジネスの専門家であり、それを科学的アプローチによって育成させたものです。お叱りの意味は分かりますし、MBAのような資格に対して、コンプレックスを抱くような日本の若者がいるとしたら、それは少々、残念だったりもします。

ただし、少なくとも私の場合、胸を張って「MBAは必要ない!」と言い切ることができます(もちろん、私自身、MBA取得者ではありません)。

例えば、こうした課程においては、様々なビジネスモデルを検証したり、扱ったりするといいます。けっしてそれが無駄であるとは言いませんし、それなりに意味があるであろうことは認めます。しかし、そもそもビジネスモデルとは何であるかについて、きちんと理解しなければなりません。つまり、ビジネスモデルの位置付けを知らない限り、自分が何を学んだのかを知ることもないわけです。そうした思考もないまま、大量のMBA取得者を生み出してしまっていては、それは即ち、大量の「井の中の蛙」を生み出すのと同じになってしまいます。それは、けっして褒められたものではありません。

逆の言い方をすれば、ビジネスモデルとは何であるかを理解した者は、その全体像の中から、それを位置付けることができ、それが故に、それを深く掘り下げて学ぶ必要はないと考えることもできるということです。

以下、私見ですが、ビジネスモデルとは単なる思想や哲学の表現物に過ぎないと考えます。換言すれば、その思想や哲学が何であるかを理解できていれば、いちいちそれを精査する必要はないし、そのビジネスモデルの発展型や限界等、容易に推し量ることができるということです。

思想や哲学というのは、目に見えるものではありませんし、それを分かりやすく可視化させるというのは難しいことなのかもしれません。そして、それが故にそれらとビジネスモデルとの間を結ぶ線が不鮮明になり、単なる表現物であるビジネスモデルの方にフォーカスしてしまうということが起こってしまうのかもしれません。

しかし、だからと言って、それに甘んじていては、三流の誹りを免れないでしょう。ビジネスモデルにフォーカスしているという時点で、そこに大きな落とし穴があるかもしれないということです。もう少し厳しい言い方をすると、ビジネスや経営の本質は「見えないものを見ること」であるとも言えます。そして、真にそれができている者は、そもそもビジネスモデルの裏にある思想や哲学等、容易に見透かすことができるはずであり、そうであるからこそ、そうした思想や哲学に裏付けられたプレイヤーが次に何をやるのか、どこまでの範囲でビジネスを展開できるかというのが、極めて鮮明に見えるものだと思うのです。

繰り返しですが、私自身、ビジネスモデルを学ぶこと自体、否定するつもりはありません。そして、冒頭で述べたようなお叱りについては、それはそれとして、真摯に受け止める必要もあろうかと思います。しかし、そうかと言って、むやみにビジネスモデルなるものを有り難がって学ぶ者は、それが単なる表現物であることを知らないか、あるいはその裏にある思想や哲学とは何かを理解していない者かもしれない点についても、きちんと指摘しておきたいと思うのでした。

《おまけ》
ビジネス誌等の媒体で、GoogleやApple等、アメリカの最先端とされる企業のビジネスモデルを扱った記事が多々あるように思います。あくまで私自身の話ではありますが、同じようにコンピューターやインターネットビジネスを手掛けていく身として、そうした記事の中に新しい事実を確認することはあっても、新しい何かを学ぶことはないと思っています。・・・否。もはや、そこに学んでいるようでは、既に大きく出遅れているように思うのです。これからの時代、日本人の多くが、自らオリジナルモデルの発信者になっていかなければならないと思います。

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アニメ業界の自虐行為

2010年04月14日 | 産業

「借りぐらしのアリエッティ」の声優陣が発表されました。大体、予想をしていたことではありますが、キャストがタレントばかりだったことに、少々、ガッカリしております。

今のメディアシステムで映画を売っていくためには、こうした手法が有効なのでしょう。そうした手法を駆使した人たちが、業界を制していくというのは、ある意味、仕方がないことだと思います。

ただ一方で、それを手放しで受け入れるほど、寛容でいられるわけでもありません。いろいろな思いが頭のなかを巡ります。

=========================
作品としてのクオリティは保たれるのか?

声優を目指して努力している若者たちの未来はどうなのか?

健全なアニメ界の発展に寄与しているのか?

こうした手法が格差社会の是正に繋がるのか?
=========================

書き出すとキリがありませんが、とりあえず以下、ミクロとマクロの視点から感じることを整理してみます。

まず、ミクロな視点でいえば、単純に高いお金を払って観に行くのはゴメンです。

これは極めて個人的なものですが、前作をそれなりの料金を支払って、映画館で観た時、「もう観たくない」と感じました(「名に恥じぬ仕事」参照)。それを踏まえての今回のキャスト発表は、今後、同所から出てくるアニメを、お金を払っては一切見ないと決心するのに十分なものでした。今後、何か新しい要素が出てこない限り、ここから発表されるアニメはチェックしなくて済みそうです。

ちなみに、前作において、興行収入の高さが話題になりましたが、これを単純に「それだけ高い評価を受けた」と解すべきかは不明です。むしろ、多くの観客を動員させて、それだけたくさんの人々に「もうゴメンだ」と思わせた側面もあるのではないかと思うのです。このあたりについては、今後、メディアシステムの変質とともに、じっくりと見守っていきたいと考えます。

一方で、今回のキャストをマクロな視点からいうと、アニメ業界の廃退を予感させます。

アニメ業界を隆盛させるには、それを支える人々に活気を与えなければなりません。しかし、一般的に声優業については、ギャラの低さが問題視されたりしています。実際には、こうした問題は声優業に限らず、アニメ制作に携わる多くの方々に言えることのようです。いずれにせよ、少なくとも声優のギャラが低いというのは、言い換えれば、それだけアニメの価値が認められていないということであり、単純にアニメの社会的地位が低いということかもしれません。これはこれとして、現状を素直に受け入れるべきでしょう。

しかし、私自身、日本のアニメには世界を変えるだけの大きな力を感じていますし、それを支える方々には、それなりの評価と報酬が与えられて然るべきだと強く思っております(「観光立国日本へのヒント」、「コミケに見る可能性」等参照)。そういう意味でも、声優という仕事はアニメのなかで重要な役割を果たしていると思うのです(「声優をナメちゃいかん」、「声優のハリウッドスター化」参照)。

翻って、今回の「借りぐらしのアリエッティ」のキャストを見る限り、これがアニメ業界の方々(それもかなり上とされる方々)による声優業の否定ではないかとも思えるわけです。このことは、社会的地位云々の次元ではなく、アニメ業界の人々が自らの首を絞めている行為でもあると言えると思います。この点、アニメ業界の将来にとっては、非常に大きな問題であると捉えるべきでしょう。

さらに、この問題は、今日の格差社会の助長にも繋がることに注意を払わなければなりません。つまり、顔が売れているタレントに仕事を回して、実力があっても無名な声優には仕事を回さないという流れから、両者の溝をますます深めていると言えるわけです(「被害者意識を乗り越えて」、「次時代コンテンツの評価」等参照)。こうした動きが、今後の健全なアニメ業界、さらには発展的な社会を構築していく上での重大な障害になりかねない点、けっして忘れてはならないと思います。

いずれにせよ、こうした観点から、今回のキャスト発表は、アニメ業界による自虐行為ではないかと思えてなりません。私自身、本件の当事者でない以上、これに関わることはできませんが、私なりに今日のメディアシステムの限界をひしひしと感じつつ、あらためて新しいメディアシステムの構築に注力していなかなければならないと思うのでした。

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JASRACからの問題提起

2010年03月03日 | 産業

-Twitterで歌詞をつぶやいたら利用料が取られる-

JASRAC幹部の方から、Twitterに関する発言があったようで、ネット上で軽い議論が沸き起こっているようです。事の善悪は別にして、JASRACは著作権者の総まとめ役ですから、こうした方の発言は、極めて重く受け止める必要があるだろうと思います。

この方向性でいくと、今後、利用料を払わずして歌詞を(部分的にでも)投稿してしまったら、犯罪者ということになるのでしょう。少なくとも、私の場合、Twitterに限らず、ブログでも歌詞の引用をしているので、後日、JASRACから請求書が届くようになるのかもしれません。一応、「歌詞を書いても著作権法に抵触しないのは、報道や批評、研究など、「引用」の正当性が認められた場合に限る」ということなので、私としては、そのあたりの考え方と併せて、何らかの動きがあるものと承知しておきます(今のところ、これまでのスタイルを変えるつもりはありません)。

それにしても、先日のGoogleの訴訟騒動(「Googleにも見えてない」参照)といい、ネットの世界は、いよいよ殺伐としてきたように思います。今後、歌詞に限らず、あらゆる著作物のネット掲載を巡って、利用料請求や訴訟等が次々と起こってくるであろうことを考えると、インターネットは着実に「犯罪者の大量生産装置」に近づいていくと思われます(「大量犯罪者時代への分岐」参照)。

しかし私は、これらの問題の根本的な原因が、従来のインターネットのタダ乗り・無責任な仕組みにあるのであり、今後、インターネットの仕組みそのものを変えていき、こうした問題を解消していくことは十分可能であると考えています。

今回の著作権を巡る問題に関して言えば、現在のインターネットの仕組みが、従来のメディアルールを与件として考えている、既存の著作権者側の要求に応えられていないことが、決定的な問題なのです。私は、これを解消することは、十分可能であり、そうしたインターネットを実現することこそ、今日、インターネットのビジネスに関わる者の使命であると考えています。その具体的な方策については、既に本ブログの各記事にて述べている通りなので、ここでは詳述いたしません(「「関係図」可視化の重要性」、「重み付けを考慮した評価」、「インターネットのリアル化」、「携帯電話システムの強み」、「次世代インターネット」、「3次元DBと著作権」、「「ウェブで管理する」ということ」、「被害者意識を乗り越えて」、「次時代コンテンツの評価」等参照)。

ただし、現在のJASRACの著作権管理の手法が、新しいメディアの仕組みに相応しいかは別問題であることも、併せて付しておきます。メディアの仕組みが変われば、そのルールも変わって然るべきです。その折には、著作権管理の手法が、全く異なることも考えられるため、そうした時代において、JASRACにどのような役割が期待されるのかは、その段階において、あらためてきちんと議論がなされることでしょう。

いずれにしても、これまでのインターネットやコンピューターというのは、世界の覇権国・アメリカがリードして、築き上げられたものです。そして、そうした技術や産業というのは、単にビジネスモデルの次元ではなく、その根底に流れる思想や哲学によって定まるものでもあります。そう考えると、現在のインターネットやコンピュータの姿というのは、単にアメリカという国の思想や哲学の表現物に過ぎないとも言えるわけです。

近年、議論されるようになってきたインターネットやコンピュータ、さらにはメディアシステム等に関して、次々と表面化してきている問題については、表層部分の手直しでは効かず、その根底に流れるアメリカ的思想や哲学からの見直しが必要なレベルに達しているのではないかというのが、私見です。そういう意味で、私なりには、こうした産業における問題を通じて、アメリカという国の限界が示されているのであり、代わって、日本という国が、その思想や哲学に基づいたリーダーシップを発揮していく時代になってきているような気がしています。

ちなみに、今回のTwitterに関連したJASRACからの問題提起については、「著作権者とリスナーが共に幸せになる道を目指していきましょう」という、個人的な願望くらいは述べておきたいと思うのでした。

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Googleにも見えていない

2010年02月26日 | 産業

Google Videoに投稿されたビデオに関連して、Googleの幹部がイタリアで訴えられ、プライバシー法違反で有罪になったという報道がありました。

はっきり言って、メチャクチャな判決だと思います。Googleは控訴するとしており、最終的にどうなるのかは分かりません。ただこのことは、所詮、今のインターネットの仕組みが、そういうメチャクチャな判決を出させてしまうほど、大したものではないということの表れなのだろうと考えます。

今日のインターネットの限界については、私がこのブログの中で、繰り返し述べてきております(「大量犯罪者時代への分岐」、「責任を伴う「場」の提供」、「インターネットのリアル化」等参照)。そして、インターネットやコンピューターの業界に携わっている関係者の方々は、こうした問題に対して、今後、真剣に取り組まなければならない点、私なりに述べてきたつもりです。

しかし、今回の一件を見る限り、業界のトップランナーであるGoogleでさえも、このことには気付けていないように感じます。

本問題について、Googleは「あらゆるソーシャルサービスはユーザーが投稿するテキスト、画像、ファイル、ビデオなどすべてのコンテンツについて責任を負うことになり、現行のWebは成り立たなくなる」と主張しているようです。言いたいことはよく分かります。私の感覚からしても、今回の判決はメチャクチャですし、Googleの言う通りだというほかないと考えます。しかし、そもそも「現行のWeb」の仕組みを信じ過ぎている、「現行のWeb」の限界を理解していないことが、業界のトップランナーたるGoogleの致命的な限界であるようにも感じるのです。

Googleが指摘する通り、こんなことがまかり通るようでは、早晩、「現行のWeb」は成り立たなくなるでしょう。否、もともと「現行のWeb」等というものは、それほど大した仕組みではなく、成り立たなくなって当然なのです。その思考ができていないことの方が、現在の業界にとっての大問題かもしれません。

「現行のWeb」が荒れれば荒れるほど、新しいプレイヤーにとっては、チャンスになるでしょう。そして、その時が訪れた暁には、Googleですら見えていないものを見据えている人々が、これまでにない新しい価値や仕組みを提供するようになると思うのです。

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3D映画時代到来への疑念

2010年02月09日 | 産業

3D映画、「アバター」が話題になりました。映画というのは、常に映像の最先端技術を利用できるところに位置しており、それを世の中に届ける役割を果たしてきたであろうことを考えると、3Dのような技術をもって話題を集めるというのは、とても分かる気がしています(「日本に眠る宝物」参照)。

ところで、こうした流れを受けて、「3D時代到来」というような文句が踊ったりするのですが、そこはもう少しじっくりと見てみる必要があるようにも思います。もちろん今後、3D映画が多くなってくるであろうことくらいは予見されてもいいと思うのですが、それが今までの2D映画にとって代わるだけの存在になるかどうかは、しばらく見極める時間を置いてもよいのではないかと思うのです。それは、私自身が、その最先端技術の映像を見て、どれだけの衝撃を受けたかという点から感じることです。

かつてのハリウッド映画では、例えば「ターミネーター2」や「ジュラシックパーク」のような作品において、CGによる衝撃がありました。液体金属でできたT-1000が、鉄格子をすり抜けるシーンや、あたかも本当に生きているかのような恐竜が大画面で再現させられたCGは、当時、とても話題になったように思います。

-CGすっげぇ!これはマジで半端ないでしょ!!-

私自身、その映像から、とても強いインパクトを受けたことを覚えています。「ジュラシックパーク」に至っては、3度も映画館に足を運んだように記憶しています(ちなみに、私のこれまでの人生において、同じ作品を映画館で2度以上見たというのは、これだけです)。

一方で、今回話題になった3D技術に、かつてのCGほどのインパクトがあったかと聞かれると、少々、口ごもってしまうような気がするのです。3Dの長編映画という意味では、最近、「アバター」とほぼ同時期に公開されていた「カールじいさんの空飛ぶ家」を観ました。もちろん、従来の2D映画に比べて、それなりの面白味はあっただろうと思います。臨場感という意味では、これまでの映画よりも優れていると言えるでしょう。しかし、それをかつてのCG映画時のインパクトと比べてしまうと、そう大きなものでもないように思うのです。

もちろん、これはあくまでも主観の問題ですので、3D技術のインパクトが、社会全体として、どのように受け止められたのかは不明です。少なくとも、3D技術によって、大きな衝撃を受けたという方々もいるでしょうから、それはそれでよいのではないかと思います。そしてまた、そういう方々が「3D映画時代到来」というフレーズを使うのであれば、その心情はとてもよく分かります。

ただ、ある事象の方向性を見極める際、その見極める人間が自分である以上、その主観と感性は大切にするのは当然であり、それに基づいた観測をしてみたいと思うのです。

-3Dも良いけれど、正直、2Dも2Dでそれなりに・・・-

このように感じ、また考えたとき、これからの映画は「本当に3D時代到来か?」という問いに対しては、もう少し時間を置いて見守っていきたいと思うのでした。

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目指すべき「強い円」

2010年01月07日 | 産業

財務大臣が交代になって、その大臣の最初の記者会見で、「円安期待」と取られる旨の発言があったという報道を目にしました。

-またやっちゃった・・・-

安易に自国通貨安を期待するのは、知恵や技術が枯渇し、価格でしか勝負できない人の発想です。製品やサービスの品質において、他とさしたる違いが見当たらず、いかに安く作れるかという労働集約型の競争を強いられているとき、円安が効くことは間違いありません。そしてまた、今日の日本産業が、そういう状況に陥りつつあることも理解いたします。しかし、ただそれを受け入れるだけでは、とても日本に未来があるとは思えません(「円安に期待するなかれ」参照)。単純な話、価格競争力だけを見て、人件費が安い諸外国に比べて、どれだけ戦えるかと言ったら、日本が圧倒的に不利になるであろうことは想像に難しくないはずです。

私としては、一国の財務大臣が「自国通貨が安くなることを願う」かのごとき発言をすることは、けっして許されないだろうと思います。今回の記者会見における大臣の発言は、正確に言うと、経済界の意見を代弁しているかたちになっているので、このあたりについて大臣なりの反論があるかもしれません。そういう意味で、今回の発言をもって、「大臣は無能だ」等と決め付けるつもりは毛頭ありません。しかし、自国通貨の為替水準に関する発言は、一国の大臣としての重みをもって、特に慎重を期されることを願うばかりです。

あらためて、ここで申し述べておきますが、「円安期待」というのは、「もはやわが国には、知恵も技術もありません」と言うに等しい、謂わば「白旗宣言」ではないかと考える次第です。そして私は、日本の実力がそんなものではないと信じています。

日本が世界のリーダーとしての役割を果たしていくためには、「強い円」でなければなりません(「世界のリーダーたるべき日本」参照)。強い通貨を持つことは、世界を牽引していく国の条件でもあると言えると思います。それはつまり、大きく「円高」に振れても、十分に世界に買ってもらえるだけの付加価値の高い製品やサービスを生み出していくことができる国であり、他国にはけっして真似できない知恵と技術が備わっていることの証でもあります。

簡単に白旗を揚げることなく、地道に「強い円」を実現できるように努力していくことこそが、これからの日本が進むべき道です。そして私としては、日本にはそれだけの実力があると信じ、また自分自身も、それを証明するための活動を進めていきたいと思っています。

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「関係図」可視化の重要性

2010年01月05日 | 産業

インターネットは、全員参加型のメディアです。したがって、インターネット上に出回る著作物は、多くの人々によって手が加えられながら、次々と無数に作られていくと考えておかなければならないでしょう。つまり、著作物の際限なき複次利用によって、さらに別の著作物が出来上がってくるという無限の連鎖があるということです。インターネットにおける著作物の扱いについては、よくコピーの問題が取り上げられますが、私は、むしろこの著作物の複次利用の問題の方が、「参加型」というインターネットの性質上、重きを置いて考えなければいけない問題なのではないかと思っています。

従来のメディアにおける著作物は、きちんと完成されたかたちで流通しており、そのなかでの著作権の権利関係は、それぞれの貢献度に応じて、予め取り決めがなされています。契約形態には、いろいろなかたちがあるでしょうから、一概には言えませんが、基本的に、何らかの売上が上がれば、予め定めておいた取り決めにしたがって、各著作権者に収入が入るというかたちになります。ただし、この取り決めは、あくまでも業界の中で定められているものであり、一般のユーザーが意識することは、まずありません。つまり、そうした「権利関係図」、あるいは「貢献関係図」が、一般の人々からはブラックボックスになっているわけです。

しかし、インターネットが参加型メディアである以上、この「関係図」に一般のユーザーが参加できるような仕組みになっていない限り、著作物の際限なき複次利用には対応できないことになります。これは、著作物の「関係図」が、現在のようなブラックボックスのようなかたちではなく、きちんと可視化させた上で、誰もが自由に入り込める仕組みになっている必要があることを意味しています。

このことは、実力ある創作者にとって、大いに歓迎すべきことになるでしょう。つまり、「関係図」が可視化されれば、実力ある創作者であればあるほど、その中でいかに自分が貢献しているかが目に見えるかたちとして表れるわけです。当然、実力ある創作者たちのモチベーションは、上がってくることになるはずです。

一方で、既存のメディアの仕組みの中で、実力以上の評価を得ていたり、創作活動そのものに大した貢献をせず、ただ仕組みに乗っかっているだけのような人々には、大変迷惑な話となります。「関係図」の可視化は、それらの人々が不当に甘い汁を吸っていることを白日の下に晒すわけです。これは、とてもよろしくないことでしょう。

私個人としては、インターネットで流通する著作物の「関係図」の可視化は、間違いなく時代の要求であろうと考えています。そして私自身、その仕組みの構築を積極的に進めていこうと思っています。ちなみに、この「関係図」の構築には、従来型のRDBでは対応できないことが予想されるため、新しい概念を取り入れたDB技術を取り込む予定でいます。こうした可視化された「関係図」が存在する仕組みの中で、創作者たちは、どんなかたちであれ、その著作物を作り上げるにあたって、堂々と「貢献している」と言えるだけの仕事をすることがポイントです。

インターネットやコンピューターは、著作物の強力な流通ツールです。このことは、これまでの流通の仕組み自体が、大幅に価値を失っていく(ゼロになるわけではない)ことを意味しています。創作活動にろくな貢献をせず、ただ流通の仕組みに乗ってばかりで甘い汁を吸おうとする人々は、自ずと滅んでいかざるを得ないでしょう。そして私は、こうしたことを通じて、インターネットやコンピューターといった分野における技術革新が、いよいよ本格的な生産性の向上と結びつき、世界の経済全体を押し上げる活力になっていくのではないかと考えます。

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コミケとディズニーランド

2010年01月04日 | 産業

昨年末にはコミックマーケット(以下、「コミケ」)、今年のお正月にはディズニーランドに行ってきました。そのなかで感じたことから、総じて言えるのは、以下の3つです。

■アメリカが教えに来てくれている

幕末から明治にかけての時代、「脱亜入欧」という言葉があったとおり、日本はアジアを抜けてでも、欧米に学んでいかなければなりませんでした。そのため、当時から今日に至るまでの多くの日本人は、そうした最先端の文化や文明を学ぶために、一所懸命外国語を学び、海外へ留学していくことになったのだろうと思います。しかし、その状況は現代に至り一変し、欧米に向かって、それほど積極的に学びに行く必要はなくなったのではないかと考えます(「脱亜入欧の終焉」参照)。

世界の最先端を行く国の人が何を良しとして、何を楽しみ、何に喜びを感じているのか、150年前のほとんどの日本人には、まったく想像がつかなかったでしょう。しかし、現代においては、アメリカ人がわざわざ大量に出張をしてきて、彼らの文化を日本語に変換してまで、その価値観や世界観を日本人に教えてくれているのだと思うのです。


お馴染みのピーターパン


世界のハリウッドを背景に

ディズニーキャラクターたち

アメリカには行ったことがなくても、こんなにも簡単にアメリカ的な文化に触れることができるというのは、150年前では到底考えられなかったことであり、とても有難いことです。現代の日本人は、ここから多くのことを学ばなければならないと思います。

■「プチコスプレ」で楽しみの幅を広げる

日本人というのは、とても生真面目な人々が多いような気がしてなりません。そうした日本人に対して、アメリカ人はもっと気軽に楽しむことを、教えてくれているように思うのです。

それは、コスプレ文化についても言えるのではないかと考えます。

日本のキャラクターを使ったコスプレの特徴は、「それなりに本格的」であり、「それなりの場所」で楽しむことが要求されるということです。日本のキャラクターでコスプレをしようとなると、基本的に全身で、しかもそれなりの「なりきり度合い」でなされるのが一般的です。したがって、その格好のままで行動するには少なからぬ問題が予想されるため、大体においては、ある程度のスペースにおいて、楽しむことが要求されるのです。

コミケでコスプレをする人々は、基本的に「コスプレ広場」なる場所にて、コスプレを楽しむことが求められます。しかし、これは大変、窮屈な場所です。当然のことながら、コスプレをしながら、(写真撮影以外で)何かを楽しむというのは、なかなか難しいと言わざるを得ません。

一方、ディズニーランドでは、園内、コスプレし放題になっています。正確に言うと、ミッキーの耳をつけたり、ドナルドのぬいぐるみをかぶったり、手袋をしてみたりという程度のコスプレであるため、日本のキャラクターで行われるところのコスプレには当たらないかもしれません。しかし、ちょっとしたコスプレをしていることは事実であり、これは言わば、「プチコスプレ」とでも言うべき代物だろうと思うのです。こうした、ちょっとした「プチコスプレ」で、園内を自由に歩き回り、その格好のまま一日中遊べる施設があるというのは、とても楽しいことだろうと思います。

日本でも、京都の東映太秦映画村では、新選組や水戸黄門などに変装できるコスプレサービスがありますが、どうも生真面目な日本人らしく、その衣装やメイクが、かなり本格的に作り込まれてしまっているため、利用客のハードルを上げてしまっているようにも感じます。

このあたりの文化において、日本人がもっと気軽に楽しむことを学び、具体的に「プチコスプレ」として根付かせることができるようになれば、遊びの幅が格段に広がり、多くの人々が楽しめるようになるのではないかと思えてなりません。例えば、コスパのTシャツを着て歩くだけでも、それは立派に「プチコスプレ」として成り立つかもしれないのです。こうした文化を狭苦しい自己満足の世界に押し留めることなく、もっと広い空間にて、大勢で楽しめるようにすること、あるいはそうした娯楽施設を作ることが、今後の日本にとっての大きな活力源になるようにも思います。

■キャラクターへの愛情とビジネス化は両立する

正直、日本アニメのキャラクターは、世界のどこにも劣らない力を持っていると思います(「日本に眠る宝物」参照)。しかし、ディズニーのキャラクターには、それを超えるだけのエネルギーを感じてしまうのです。右写真は、昨夏にディズニーランドを訪れたときのものですが、こうしたキャラクターと写真を撮りたがって、群がる日本人がいるわけです。こんな状況ですから、ディズニーランドのメインキャラクターであるミッキーマウスが登場したら、その盛り上がり方が凄いであろうことは、言うに及びません。こう考えると、日本は何かに完敗していると言わざるを得ないと思います。

しかし実際、私は日本アニメのキャラクターの数々が、ミッキーマウスに劣っているとは思いません。むしろ、より活きたキャラクターとして、どちらに愛着を持ちやすいかと言ったら、圧倒的に多くの日本のキャラクターに軍配が上がるのではないかと思っています。このギャップが生じる原因について、私は両国における演出力の差であろうと見ています。この演出力という意味では、日本はアメリカの足元にも及びません。

この演出力の差には、いろいろな視点からの原因が指摘できると思いますが、私からは、「キャラクターへの愛情」というポイントを挙げないわけにはいきません。ディズニー映画のキャラクターたちは、その原作者であるウォルト・ディズニー氏の深い愛情によって育てられました。同時に、同氏自身がビジネスを牽引していくことで、「この可愛いキャラクターたちを、多くの人々に愛してもらいたい」という思いが広がり、そのビジネスにおけるキャラクターや世界観の演出力向上に寄与したのではないかと思うのです。その具現化したかたちが、ディズニーランドのような娯楽施設なのでしょう。

愛情を持つことと、ビジネスを成功させることのノウハウは、本来、別物であり、それらを分業しなければならないというロジックは分かります。しかし、これらを同時に実現させ、愛情があるからこそビジネスが成り立ち、ビジネスが成り立つこそ愛情を表現できるという歯車の噛み合わせは、けっして別世界の夢物語ではないことを、ディズニーランドは教えてくれるような気がするのです。

今のコミケの仕組みは、このあたりの踏み込みが、あまり得意ではないように思います。それはけっして悪いことではなく、現状において、お金儲けというビジネスの世界とは、ある意味で一線を画しておくことの重要性も否定できないと考えます。ただし、自分たちが愛する文化や価値観を世界的規模で広げていき、より多くの人々にも楽しんでもらい、また愛されるようにすることもとても大切であり、そのためには、それなりにビジネスの仕組みを使っていくことも必要なのではないかと思うのです。

愛情を持つからこそ、それを多くの人々に知ってもらうための演出力を磨き、それをビジネスに繋げていくという流れは、これからの日本のアニメにとって、とても重要なポイントになっていくことでしょう。

以上、ここ最近、コミケとディズニーランドに行ってみて思ったことでした。

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撲滅すべき枕営業

2009年12月12日 | 産業

先日、「キディ・ガーランド」を見ていて、相変わらず素敵なゆかなさんの声に聞き惚れてしまい、ゆかなさんについてネット検索をしていたら「枕営業」なる言葉に出くわしました。

「枕営業」というのは、自分の体を売って仕事を取ってくるというものであり、ゆかなさんにはそうした前歴があるということで、彼女に対して否定的な論調で文章が書かれているわけです。どうやら、こうした話はゆかなさんだけに留まらず、他の有名声優さんたちにも向けられているようでした。

事の真偽は分かりません。ただ私としては、そうしたことを論って、彼女たちを責めるような文章を書く方々がいらっしゃることについて、とても残念に思います。もちろん、「枕営業」を肯定するわけではありません。本来、声優業のお仕事は、公正な能力評価を通じて振り分けられるべきであり、そこに「枕営業」の如き、言わば裏技があってはいけないと考えます。もし、そうした裏技によって、本来配役されるべき優秀な声優さんの機会が奪われたとしたならば、それはその声優さんにとっての不幸であり、またその声優さんの演技を楽しむ機会を奪われた視聴者にとっての不幸でもあります。そうした意味で、「枕営業」は、けっしてあってはならないものだと考えます。

しかし同時に、万万が一、そうした行為が行われていたとしても、それをもって、「枕営業」を働いた声優さんたちを責めるのも酷ではないかと思うのです。単純な想像ですが、いかに仕事が欲しいからと言っても、自分の体を売るというのは、とても辛く、屈辱的なことです。そして、そうした屈辱的な苦しみを経験しているのは、他の誰でもない「枕営業」をしてきた本人たちのはずです。それにもかかわらず、そうした本人たちの苦しみをよそに、一方的な口撃を加えるのは、とてもよろしくないことだと思えてならないのです。もう少し付け加えるならば、「枕営業」が何らかのきっかけとして作用することはあっても、それだけで声優としての地位を確立できるほど、甘い世界でもないでしょう。

実際のところ、ゆかなさんがどうなのかは知りません。しかし私は、少なくとも、ゆかなさんを素晴らしい声優だと思っていますし、その他「枕営業」の噂が立つような声優さんたちに対しても、大変な実力派だと考えています。そうした実力について、冷静に評価することなく、ただただ「枕営業」の結果と決め付けるような言い方があるとするならば、それだけは避けた方がいいのではないかと思うのです。

繰り返しですが、私はけっして「枕営業」を肯定しません。一方で「枕営業」をした人がいたとしても、その人を責めるつもりはなく、またその行為によって、大切な機会を奪われた声優さんたちを軽んじるつもりもありません。

私にとっての問題の本質は、「枕営業」を許してしまうメディアの仕組みそのものです。要は、コンテンツを運ぶ流通の仕組みが、タレントのボリュームに比して極めて貧弱であり、その流通ゲートに陣取っている限られた人々が、声優の公正な評価をしていないと考えられてしまうからこそ、「枕営業」疑惑が起こってしまうのだろうと思うのです。それは実際に公正な評価をしているかどうかを問わず、そうした疑いを持たれる素地があるということが、問題の根っこにあるということです。そして、上記のような問題は、声優業界に留まった話ではなく、広く芸能関係の世界では囁かれていることでもあります。私は、それらの問題の根源が、メディアシステムの貧弱さ故であり、それを改めることで、上記のような問題は氷解していくのではないかと考えます。

コンテンツを作る人も、楽しむ人も、気持ち良くそれに集中できるように、是非「枕営業」を撲滅できる仕組みを作りたいと思います。

コメント (2)
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重み付けを考慮した評価

2009年12月07日 | 産業

ゴルフに関する話題で、賞金王というキーワードがしきりに取り上げられています。この賞金王には、いくら稼いだかという金額そのものが、興味の対象になるということもあるでしょうが、実際には、獲得賞金がトップになるほどの「実力がある」という評価としての重みの方が大きいのではないかと考えます。つまり、多くのゴルファーがいる中で、その優劣を決するにあたり、彼らの獲得賞金を目安にして、実力を見定めようとするものです。

この数字には単純に何勝したとか、入賞回数が何回とかいうだけでなく、出場した各大会の重み付けが考慮されます。例えば、同じ優勝でも、マイナーな大会で出場選手のレベルもそれほど高くないものと、世界的な強豪プレイヤーが集う大会とでは、その意味合いは全く異なります。マイナーな大会の賞金は、それはそれなりにといったところでしょうが、大きな大会であれば賞金も高く、それを目指して、自ずと腕に覚えのあるゴルファーが集まるものです。これら様々な大会における優勝に対して、同じ「一勝」とカウントするのではなく、それらに重み付けをしながら数値化するという意味で、獲得賞金は、ゴルファーの実力を測るひとつの指標になると思われます。そして、そのトップである賞金王には、それなりの実力評価としての意味があるのだろうと考えられるのです。

私は、こうした考え方は、何もゴルファーに限ったものだけではなく、今後のインターネットのコンテンツ評価にも、きちんと当てはめていかなければならないのではないかと考えています。

今日のインターネットにおいては、そこに掲載されているコンテンツの人気を、閲覧数や再生数で測るというのが、ずいぶん一般化してきているのではないかと思います。ここで言う「コンテンツの人気」というのは、「コンテンツの評価」と言い換えてもいいかもしれません。

しかし、その評価をそのまま信じるわけにはいきません。それは、あるコンテンツを見た人が、それを良いと思ったか、悪いと思ったか、たとえ良いと思ったとしても、どの程度良いと思ったのかということを一切勘案せず、「それを見た」という延べ人数だけで、それをその「コンテンツの評価値」と見なしてしまい、現実と大きく乖離してしまう可能性があるからです。例えば「一日平均閲覧数××万のホームページ」、「再生数××万の動画コンテンツ」と聞いたので、実際に覗きに行ったものの、大して面白いものでもなかったというケースでは、そのユーザーの心的印象とは別に、勝手に閲覧数や再生数は足されてしまいます。つまり、評価をしに覗いただけなのに、無条件、そのコンテンツを評価したと解釈されてしまうのが、今のインターネットの仕組みであるとも言えるわけです。

今後、こうした問題に対しては、ユーザーが手軽にコンテンツ評価を行える仕組みを整えていく必要があると考えます。しかも、そこには単純に「良い」、「悪い」だけではなく、「どれだけ良い」という度合いを数値化できるような仕組みも必要です。これを先ほどのゴルフ賞金の例で表現するならば、単なる「優勝」ではなく、「賞金いくらの優勝」かという額を決めることで、そのコンテンツの「良い」の重みを決定付けるということです。

ここには、そのコンテンツの料金をユーザー側で勝手に決められる「お賽銭モデル」のようなシステムが有効です(「お賽銭モデルの提唱」参照)。つまり、それを見たユーザーが、「すごく良い」と「まあまあ良い」とを使い分け、それぞれに見合った評価を支払う金額によって表現すれば、それらの集計結果は、これまでの閲覧数や再生数によるコンテンツの評価よりも、遥かに信憑性が高いと言うことができるだろうと思うのです。

逆に、「良くない」と評価した場合は、お賽銭を投げ入れないので、評価はゼロとなります。こうなれば、実際にネガティブな印象を持ったユーザーの閲覧数や再生数が、自動的にポジティブ評価として加算されるような心配もありません。また、もっとネガティブな意味での評価を反映させるという意味では、特定のコンテンツに対して、NGフラグを立てるという仕組みが有効でしょう(「個別最適化する倫理規定」参照)。

お金というのは、大変、危険なものであると言えます。そればかりに目を向けてしまうと、物事の本質を見誤り、自身の身の破滅をも引き起こしかねません。しかし、それが持つ効用、何かを数値で表すという作用は、きっといろいろなものを測る意味で、役に立つであろうことも事実だろうと思います。お金に振り回されず、それをうまく道具として使うことができれば、インターネットのコンテンツ流通は、次の時代において、きちんと花開くのではないかと思います。

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死んだ神より生きた神

2009年12月04日 | 産業

神MAD、神回、神OP、神演奏、神アニメ・・・。

インターネットを眺めていると、優れた作品については、こんな用語が使われたりしていることを目にします。私は、こういう言葉が、それなりに作り手の方々に対して敬意を表しているのではないかと考えます。

そして、新しいインターネットにおいては、認証や課金システムを前提として、簡単にお金をやり取りできる仕組みを用意することで、そこに存在する優秀な作り手の方々、即ち「生きた神様」たちに、お金を払えるシステムを整えようと思います。つまり、インターネットに上がっている各作品のゲートに、神社の「お賽銭箱」のような気軽に小銭を入れられる仕組みを設けることで、そこにひとつのマーケットを生み出すわけです(「お賽銭モデルの提唱」参照)。

ちょっと、神社の神様について考えてみます。

神社に祀られている神様は、過去において存在はしたかもしれませんが、少なくとも、現存しないという意味では、「死んだ神様」です。少々、不謹慎な言い方かもしれませんが、神社の神様が、現在を生きている私たちに対して、直接的に何かをしてくれるということは、残念ながらありません。しかし、それにも関わらず、神社というのは、そうした「死んだ神様」に投げ入れられるお賽銭によって成り立っていると言えるわけです。

こう考えたとき、私は「死んだ神様」にできて、「生きた神様」にそれができないとは思いません(「生者は死者よりも強い」参照)。

優れた「神作品」を作ってくれた人は、「神様」であり、それはほとんどのケースにおいて、現世において存在する「生きた神様」です。そして、それが及ぼす作用は極めて可視的です。これは「死んだ神様」よりも、ずっと直接的な影響力を持っていると言えるでしょう。その効用を享受する人々からすれば、その有難みは、非常に分かりやすいのではないかと思います。

今のインターネットの問題は、そんな「生きた神様」に対して、手軽に小銭を投げ入れる「お賽銭箱」のような仕組みがないことです。逆に言えば、これが出来上がったとき、きっとたくさんの「生きた神様」が、その仕組みの上で、生計を立てることができるようになり、インターネットは新しいメディアとして、きちんと機能していくことになるのでしょう(「携帯電話システムの強み」参照)。また、こうした仕組みが整備されれば、一部のクリエイターばかりに富が集中するような、格差問題の是正にも繋がってくるのではないかと思います(「次時代コンテンツの評価」参照)。

今のインターネットは、まだまだおもちゃのような仕組みです(「まだ遊びのインターネット」参照)。しかし、こうした社会インフラとしての要件は、今後、きっと整えられていくのだろうと考えます。

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声優のハリウッドスター化

2009年11月21日 | 産業

-声優で一生食べていけるって、マジで思ってるの?そんなの一握りでしょ?-

キディ・ガーランド」を見ていたら、こんな台詞がありました。たしかに、それは事実だと思いますが、同時にとても重大な問題だとも思うのです。

率直に言って、日本のアニメーションは、世界に誇るべき文化であり、その作品群の水準は、アメリカのハリウッドにも比肩するものだと思います。当然のことながら、それだけ素晴らしい作品のなかで、キャストとして演技をされている声優の方々というのは、ハリウッドスターにも匹敵するくらいの評価を得て、然るべきでしょう。しかし、現状では、そういう評価は得られていませんし、また声優の方々の生活を支えていく仕組みも、極めて乏しいと言うほかありません。だからこそ、冒頭のような台詞が、面白話として、出てきてしまうわけです。そしてまた、これは声優のみならず、日本のアニメーション制作に関わっている、あらゆる方々に共通して言えることだと思います。私は、これが大変残念でなりません(「日本に眠る宝物」等参照)。

こうした問題について、いろいろな議論があろうかと思いますが、話は極めてシンプルです。つまり、現在のメディアシステムにおいて、アニメーション制作をされているようなクリエイターの方々に、直接、お金を入れることができる仕組みが、決定的に欠けているということが問題の本質であろうと考えます。

それは、テレビというメディアが流通媒体として影響力を持ちすぎている点、テレビ収益モデルとして広告を主軸としている点等に、大きな原因があると言えるでしょう(「広告業が直面する問題点」等参照)。現在、インターネットにおいて、いくつかの試みがなされてはいますが、今の仕組みによってのみでは、こうした問題を根本的に解決することはできないと思います(「同時に見える限界と始まり」等参照)。

冒頭の台詞のように、アニメーションの作中、声優さん自身がその演技において、声優という自らの職業の厳しさを伝えるというのは、それはそれで結構なことです。しかし、周囲にいる関係者が、それを看過しているようではいけないように思います。

日本には、世界に誇るべき文化があるのです。その文化を支えてくれている方々に対して敬意を表するのはもちろんのこと、それに対して、きちんと「対価を支払う」というかたちで示せる仕組みがないといけません。本来、それこそがメディアシステムが果たすべき役割のはずです。

こうした状況が続くようであれば、私自身、多くの日本の声優さんたちが、声優業できちんとした評価を得て、生計を立てられるようなメディアシステムを構築していきます。そして、それが確立して、日本のアニメーションが幅広く世界において認められるようになれば、日本の声優さんたちは、今で言うところのハリウッドスターのような扱いを受けるようになるでしょう。まだまだ、これからが楽しみです。

《おまけ》
厳密に言うと、今のハリウッドスターというのは、現在のメディアシステムの限界故に、才能に比して評価や報酬が過大であると言えるため、新しいオープンメディアで活躍する声優が、現在とまったく同じようなハリウッドスター化するということはあり得ないと思います(「被害者意識を乗り越えて」参照)。しかし、私としては、あまりに過小評価されている声優の方々が、少しでも多くの評価や報酬を得て欲しいという願いを込めて、敢えてここでは、「ハリウッドスター化」という表現を使いました。

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