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日本の戦後補償問題

2012年09月01日 | 戦後補償

最近、竹島や尖閣諸島をはじめとした領土問題が大きく取り上げられます。殊、日韓関係に関しては、領土問題のみならず、 天皇への謝罪要求や従軍慰安婦問題など、しばらく聞かなかったテーマまで耳に入るようになってきました。私は学生時代に東アジア研究のゼミで、日韓関係を研究しており、そのなかで従軍慰安婦をはじめとした戦後補償問題を卒論のテーマにしていました。もう16年も前のことです。その当時ですら、元慰安婦とされる方々はかなり高齢になられていたこともあり、日韓における戦後補償という問題は、そんなに長く論じられることはないだろうと思っていました。それがここにきて、にわかに話題になり始めたのです。私としては、この状況を少々驚きをもって受け止めています。

大学時代に私が出した結論は、日韓関係における戦後補償問題は、国家間において既に決着済みであり、ここに交渉の余地はないというものです。その根拠は、1965年に調印された「財産及び請求権・経済協力に関する協定」において、両国間の請求権の問題が「完全かつ最終的に解決された」ことが明記されているからにほかなりません。しかしながら昨年、韓国の憲法裁判所から、慰安婦問題解決のために韓国政府が外交的努力を行わないのは違憲との判決が下され、この問題が再び注目を集めるようになりました。

もちろん、私が卒論を書いた1996年以降、いくつか状況が変わってきています。もっとも大きな変化は、慰安婦募集の強制性について述べた1993年の河野洋平官房長官(当時)による「河野談話」に対して、2007年の安倍晋三内閣によって「強制連行を示す資料はない」という閣議決定がなされたことでしょう。それ以外にも新たな資料、論文、書籍などが出されるなど、本問題を論じるうえでの材料もだいぶ増えているのではないかと思います。そんななか、16年も昔に書いた論文は、多少ピントがずれるようなことがあるのかもしれません。しかしそれでも、こうした問題を考える誰かにとって、私が書いた論文が少しでもお役に立てばという思いから、これを本ブログにアップしてみることにしました。

ここで、あらためて本論文を書き上げるにあたり、大変幅広いご指導を賜った故 小島朋之先生に感謝したいと思います。


序章 問題の所在

第1章 戦後補償の足跡
 1.1 「戦後補償」の登場
 1.2 人道的立場と「戦後補償」
 1.3 加害責任と補償責任
 1.4 ドイツの補償実績
第2章 日本の戦争責任
 2.1 敗戦責任論、被害者意識
 2.2 日本の戦争責任と東京裁判
 2.3 日本の政治家による「妄言」
 2.4 アジアに対する戦争責任
 2.5 ドイツとの比較
第3章 日韓関係のなかで
 3.1 日韓基本条約の意義
 3.2 旧軍人・軍属への補償
 3.3 従軍慰安婦への補償
 3.4 原爆被爆者への補償
第4章 戦後補償の今後
 4.1 謝罪と補償
 4.2 「戦後補償」の原則
 4.3 北朝鮮との関係
終章 おわりに
注釈及び参考文献

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序章 問題の所在

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 1991年12月6日、35人の韓国人が日本政府を相手取り、東京地裁に一人2000万円の支払いを求める提訴をおこなった。このなかには日本の元軍人・軍属とその遺族のほかに、三人の元従軍慰安婦が含まれていた。これを契機に従軍慰安婦問題は、広く世に知れ渡ることとなった。もちろんこの提訴以前から、従軍慰安婦問題めぐるいくつかの議論はなされていたが、一般に社会がこの問題に抱いていた関心は、それほど高くはなかった。提訴した元従軍慰安婦たちは、戦後50年近く守ってきた沈黙を破り、突如姿を現し、したがって日本社会にもたらしたインパクトは当然大きく、社会の関心を一気に高めたのである。
 しかも1990年代にはいってから、このような日本の戦争中の行為に関連した提訴が数多くなされ、注目を集めるようになっていた。強制連行、恩給、障害年金、BC級戦犯などに関する訴訟などがまさにそれであり、そのなかには韓国人によってなされた提訴も少なくない(1)。
 日韓両国は1965年の日韓基本条約締結に際し、「財産及び請求権・経済協力に関する協定」にも同時に調印している。この「財産及び請求権・経済協力に関する協定」の第2条1項は、「両締約国は、両締約国及びその国民の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)項に規定れたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と述べている。これにより、両国政府間で議論すべき請求権問題はすべて解決されたというのが日本政府の立場であり、また韓国政府の立場でもある。
 しかし、最近のこうした多くの訴訟について考えるとき、日本の戦後処理が本当にすべて終わったのかの疑問を持たざるをえない。政府間レベルでの日本の戦後処理問題はたしかに解決したとはいえ、いまだ未解決のまま残されている大きな課題のひとつとして、「戦後補償」という問題が、いま提起されているからではないだろうか。
 ところで、この「戦後補償」問題に取り組むにあたっては、そもそも「戦後補償」とは何であるのか、どのようなプロセスで生まれた概念なのか、何を対象にすべきなのかなどがあきらかにされなければならない。日韓両国の関係でいえば、「戦後補償」と日韓基本条約との関係や、韓国人に対する国籍条項の適用措置などの具体的問題についても、検証されなければならない。さらには、ドイツナチズムに対する戦後補償との比較や、日本の戦後責任の解明なども必要とされる。そこで本稿では、日本の戦後処理問題としての「戦後補償」について、日本はどう取り組んでいくべきかという基本的な問題意識に沿って、必要と思われる点について検証しながら考察していきたいと思う。

 目次 <<

>> 1.1 「戦後補償」の登場 

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1.1 「戦後補償」の登場

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 「償金」というのがある。「償金」は、第一次大戦まで戦後処理の金銭面での主な解決手段として使われており、当時、敗戦国が敗戦の証として戦勝国に支払っていた。「償金」の獲得は、当時の戦争目的の一部になりうるものだったのである。
 たとえば日清戦争後、日本は中国から2億両の「償金」を受け取っている。この日清戦争後の中国の「償金」支払いは、帝国主義体制への従属を決定的なものとし、また日本にとっては、さらなる近代強国化、軍備拡張のための資金獲得という意味をもっていた。「償金」の獲得は、戦勝国のその後の勢力増強を一層促進させていたのである。
 しかし一方で、「償金」がもたらす受益国への経済的利益を疑問視する声もあった。事実、日本が中国から受け取った「償金」のなかから国民生活の貢献に当てられたのは、わずか5%であり、また引き続き推進される軍拡にともなう増税の負担によって、国民生活そのものは困窮をきわめた。軍需偏重の産業資本主義と結びついた「償金」がもたらす、受益国への経済効果はきわめて不明瞭だったのである(2)。
 1910年代のイギリスでは、「戦争はあまりにも破壊的で経済的に引き合わず、戦勝国が戦費に見合う償金をとること」ができなくなり、「世界貿易の発展にともない、領土の拡張が戦争コストをペイする」といった考え方は成立しなくなったと指摘されるようになった。むしろ世界経済の発展によって、西欧諸国民の経済的相互依存関係が進展し、多額の「償金」授受がかえって国際貿易金融システムを混乱させるなどの危険性が主張されるようになったともいわれるのである(3)。
 1918年に第一次大戦が終結し、翌年6月に締結されたヴェルサイユ条約231条は、ドイツの戦後処理を次のように規定した。

 「同盟および連合諸国は、ドイツ国およびおその同盟諸国の攻撃によって強いられた戦争の結果、同盟および連合諸政府、またその諸国民の被った一切の損失および損害について、責任がドイツ国およびその同盟諸国にあることを判断し、ドイツ国はこれを承認する」

 第一次大戦に費やされた連合諸国の戦争費用の見積もりは243億5000万ポンド。これに対しドイツが支払い可能とみられた上限金額は30億ポンドであり、事実上ドイツに戦争費用を負担させるのは不可能であった。そこで主張されるようになったのが「賠償」要求だったのである(4)。すなわち第一時大戦後、この規定にもとづいたドイツに対する請求は戦争費用の支払い要求ではなく、戦時損害について敗戦国ドイツに課せられた金銭、物品、労働の提供を求める「賠償」要求だったのである(5)。「賠償」はこうして第一次大戦を機に、戦争による損失・損害について戦争責任を負うべき国に課せられた戦後処理の一手段として登場したのである。
 続いて1945年、第二次大戦が終結すると、戦後処理の手段として、ここにもうひとつ「戦後補償」が加わることになる。「戦後補償」とは、戦争の勝敗、あるいは損失について支払われる対価というよりも、むしろ戦時中の罪に対する償いといった道徳的な側面を含む概念であり、国によるものであれ、企業によるものであれ、基本的には個人を対象にすることにその特徴がある(6)。
 これには第二次大戦中のドイツ・ナチスの戦争中の残虐行為が、大きく影響している。すなわち戦時中、あるいは戦前を含んだナチスの非人道的な行為は、「戦争による損失および損害」を扱う「賠償」によって解決するにはあまりにも残虐であり、新たに「戦後補償」という概念を設けることによって、ドイツ・ナチスの過去を清算する必要性が生じたのである。いわゆる「人道に対する罪」に基づく、支払い義務の発生である。
 つまり第二次大戦後誕生した「戦後補償」の概念には、ドイツ・ナチスとそれを裁定する「人道」という道徳・倫理が深く関与しているのである。

 序章 問題の所在 << >> 1.2 人道的立場と「戦後補償」 
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1.2 人道的立場と「戦後補償」

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 ドイツの戦争責任の追及は、1945年11月に開廷したニュルンベルク裁判に始まった。
 ニュルンベルク裁判では、従来の戦時国際法に規定されていた「通例の戦争犯罪」に、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」が追加され、とくに「人道に対する罪」は戦後のナチス犯罪追及の最大の根拠であり、ナチズムの残虐性ゆえに生まれた概念であった(7)。
 1945年8月8日に定められた国際軍事裁判所(IMT)条例第6条C項は、「人道に対する罪」を「戦前もしくは戦時中にすべての民間人に対して行われた殺人、せん滅、奴隷化、追放及びその他の非人道的行為、また犯行地の国内法違反たると否とを問わず、本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として、もしくはこれに関連して行われた政治的、人種的もしくは宗教的理由に基づく迫害行為」と規定している。
 またニュルンベルク裁判に大いに影響を及ぼした1945年12月20日制定の管理理事会法律第10号2条C項では、「殺人、せん滅、奴隷化、強制拉致、監禁、拷問、暴行を含むかあるいはそれに限定されない残虐行為および犯罪、もしくはすべての民間人に対してなされた非人間的行為、もしくはその行為が実行された国の法に抵触すると否とに関わらない政治的、人種的、宗教的理由に基づく犯罪行為」と規定されている(8)。両項いずれにおいても、残虐行為および非人間的行為は「実行された国の法に抵触すると否とにかかわら」ず、犯罪行為として裁かれることが規定されている。つまり残虐行為、非人道的行為と認定されれば、自動的に処罰の対象として扱われるとされたのである。ナチズムに対する裁きは人道的見地からなされ、そこに「ナチズムを正当化する法は法でない」という原則を成立させ、適用したのである。
 このような基本原則に則った、似たような例として、東ドイツ国境守備兵の発砲行為をめぐる議論がある。ドイツ分裂時代になされた東ドイツ国境守備兵の発砲・殺人行為が有罪であるか否かをめぐり、被告側は、守備兵の行為は国境法により正当化されるべきであると主張した。これに対し、1992年1月にベルリン地方裁判所が下した判決は、国境法は人道に反する法であり、発砲行為を正当化するために援用されるものではないといものだった(9)。
 同様にナチスの責任追及においても、こうした「不法な法は法にあらず」といった原則が存在したのである。この点はナチスに対する責任追及過程をみていくうえで、しっかりと認識しておく必要があるだろう。ナチズムは、それが違法であったのか合法であったのかが問題なのではなく、ナチズムそのものが人道的立場から許されるものではなく、むしろそれがどう裁かれるべきかが問題であったということである。1979年のナチスによる冊時印材の時効廃止も、そうした人道的立場からのナチズム糾弾のための環境整備の一環であったと理解するべきである。
 またふたつの規定を比較してみると、管理理事会法の「人道に対する罪」の規定は、IMT条例にある「戦前もしくは戦時中に」という文言が削除されていることに気付く。ナチズムは、戦争および戦争犯罪から切り離し、戦争とは関係ない絶対悪としてとらえ裁かれるべきであるとされたのである(10)。
 補償については、1951年9月27日にドイツ政府は「ドイツ民族の名において、言葉では言い尽くせぬほどの犯罪がなされ、その犯罪には、道徳的、物的補償が義務づけられている」との声明を発表している(11)。ドイツ政府は、ナチスの犯罪責任が物的損害の側面からのみ追及されるのではなく、道徳的側面からも同時に検討され、それに対する補償がなされなければならないという基本的立場を表明したのである。こうしてドイツ政府はナチスの犯罪行為に対し、人道的立場から道徳的、物的補償をおこなうとし、1956年の連邦補償法の制定などをはじめとした法整備を進めていく。
 第二次大戦後のドイツのナチス犯罪に対する補償は、それがもつ非人道的性格ゆえにドイツの戦後処理のなかで重要な地位を占め、ドイツ政府はこれに対する積極的処置を強く求められたのである。

 1.1 「戦後補償」の登場 << >> 1.3 加害責任と補償責任 
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1.3 加害責任と補償責任

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 ドイツの戦後処理に関する法律は、主に国民の戦争被害負担に関連したものと、ナチス権力の不法行為に対する国家責任に基づくものとのふたつに大別される。具体的には戦争犠牲者援護法、負担調整法、帰還者法、捕虜補償法などが前者に属し、連邦補償法、連邦返済法、ユダヤ人賠償条約(ルクセンブルク協定)、一般戦後処理法などが後者にあたる(12)。
 ドイツの唱える「過去の克服」が、ナチスの責任追及とナチスによって被害を受けた人々への補償を支えるものとして使われるようになったことを考えれば、後者のナチス関連の補償を規定している法律が、戦後のドイツの戦後補償にとってより重要な地位を占めていたことは容易に想像できる(13)。そしてそのなかでも、とくに重要な役割を果たしてきたのが「連邦補償法」であった。
 同法は1953年、「連邦補充法」として制定され出発し、1956年に改正され「連邦補償法」となり、ナチスの政治的迫害の犠牲者を補償の対象とした。その前文は以下の通りである。

 「ナチズムに対する政治的敵対関係を理由に、または人種、信仰、または世界観を理由にナチスの暴力的支配の下で迫害された人々の身に不正が起きたこと。信念から、または信仰または良心のためにナチスの暴力支配に対してなされた抵抗は、ドイツの民族と国家の繁栄にとって功績であったこと。民主的、宗教的、経済的組織も、ナチスの暴力支配によって、違法に損なわれたこと、上記の事実を認め、連邦議会は、連邦参議院の賛同を得て以下の法を議決した」

 「連邦補償法」の精神は、こうしたナチズムの犯罪性の積極的な受認と、人道的見地からの補償への取り組みにあった。「連邦補償法」にみられるドイツのこうした戦後補償への積極的姿勢は、正当に評価されるべきである。
 しかし一方で、この前文において見落としてはならない点がひとつある。「ナチスの暴力支配に対してなされた抵抗は、ドイツの民族と国家の繁栄にとって功績であった」という一節がまさにそれである。ここでドイツ民族、国家はナチスと相反する存在として位置付けられているという点である。ドイツの犯罪責任はあくまでナチスに帰結するものであり、戦後のドイツの一般国民、あるいはドイツ連邦共和国政府の加害責任を認めているものではないのである(14)。
 ルクセンブルク協定の前文は、「ナチスの暴力的支配の間に、ユダヤ民族に名状しがたい犯罪が行われたこと。ドイツ連邦共和国政府は、1951年9月27日の連邦議会での声明でこの行為による物的損害をドイツの給付能力の限度内で補償する意思を表明したこと。そして、イスラエル国家は、ドイツと旧ドイツ支配下の領域から、それほど多くの根無し草となり、資産を失ったユダヤ人難民を定住させるという重荷を負ったので、ドイツ連邦共和国に対してこれによって生じた編入費用の一部弁済の請求権を有するとしたこと。以上の点を考慮して、イスラエル国家とドイツ連邦共和国は、以下の協定締結に成功した」と語ってる。
 ここで登場する1951年の9月27日の政府声明でも、「ドイツ民族は、ユダヤ人に対する犯罪を大多数が嫌悪し、犯罪に関与しなかった」という表現が含まれている(15)。
 これらは、ドイツ連邦共和国政府とドイツ国民のナチス関連の責任を否定しようとするものであり、これにより補償責任と加害責任を明確に区分しようとしたのである。
 ドイツ企業の過去に対する取り組みにも、同じようなことがみてとれる。戦後、ドイツ企業とユダヤ人会議との間で締結された協定には、「補償」という言葉が使われておらず、「道徳的または法的義務の確認なく」という文言が明記された。
 これは一見、ドイツ企業は支払義務がないのにもかかわらず、戦後処理に積極的に取り組んでいるという印象を与える。もちろん、そうした肯定的な評価とは別に、ドイツ企業の措置は真に反省を込めたものではなく、人道主義的ジェスチュアであるとか、あるいは自社のイメージアップをねらったパフォーマンスであるといった批判的な指摘もある(16)。
 しかしこれについては、ドイツ企業の取り組みと、ナチズムに対する政府の保証との共通性に注目すべきであると考える。過去の不法行為に対して人道的な措置としての支払には応じるが、その行為に対する補償の法的義務については受認しないという点がまさにそれである(17)。こうした姿勢には、”自らには罪がない”ことを前提にするという、ナチズムに対するドイツ政府と企業との間の共通性が見てとれるのである。
 ドイツの戦後補償は、「過去の克服」のため人道的立場からこれまで積極的に推し進められてきた。この点については十分評価されなければならない。しかし同時に、過去の悪行を悪行として認め、罪の償いの義務を負いながらも、その罪はあくまでも当事者であるナチスに帰結するという考え方がその根底に流れていることを見落としてはならない。
 ドイツの補償理念は「戦争被害者に国の責任として償い」、「内外の被害者に対して真摯な謝罪」をすることにあった(18)。しかしこれは、ナチズムの残虐性に依拠して生まれたのである。一方でドイツの場合、ナチスゆえに罪との決別が容易に行われたことも事実であり、この点で日本のケースとの異質性が指摘できる。日本との異質性については、章を改めて述べたい。

 1.2 人道的立場と「戦後補償」 >> 1.4 ドイツの補償実績 
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1.4 ドイツの補償実績

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 第二次大戦以降、戦後処理に関して、「賠償」と「補償」とがあることについては前述の通りである。ドイツの戦後処理における両者の関係をみると、「補償」偏重であるといわざるをえない。ドイツの第二次大戦に対する国家賠償は、西ドイツ政府の先送り方針や多くの債権国の請求権放棄などによって、ほとんど実施されていないのが現状である。
 ドイツの国家賠償問題に関する協定のひとつとして、1953年2月に締結されたロンドン債務協定がある。この協定の第5条は「ドイツの交戦国、被占領国(地域)およびその国民の、戦争に起因するドイツに対する請求権の審査は賠償問題の最終的取り決めまで留保される」ことを規定している。以降アメリカ、イギリス、フランスの三大国はドイツの賠償延期に同意し、また西ドイツ政府も同協定を援用して、「全ドイツの平和条約締結まで賠償問題は延期される」との立場をとってきた(19)。
 対ソ連の賠償問題については1953年8月、ソ連と東ドイツの間で賠償免除の取り決めがなされた。これにより東ドイツ(この場合、全ドイツを意味する)のソ連に対する賠償責任は消滅したのであるが、同時にソ連の取り分から賠償金が支払われることになっていたポーランド政府も、これに続いてドイツに対する賠償請求権を放棄することとなった。
 のみならず、ドイツの旧同盟諸国であるルーマニア、ブルガリア、ハンガリーは1947年2月にアメリカなどと締結された平和協定によって、ドイツに対する賠償請求権を放棄した。また、オーストリアも1955年7月の平和条約によって、対ドイツの賠償請求権を放棄するに至った(20)。
 しかしながら、ドイツの補償問題については、連邦補償法などの法整備や1952年9月のルクセンブルク協定をはじめとする数々の協定締結によって、次々と解決されてきた。
 諸外国との協定については、1961年11月クロイツナッハ協定を締結し、ドイツから9500万マルクの補償を受け取っている。同じ頃、フランスやオランダをはじめとする西側各国からドイツに対する補償要求がなされるようになり、1959年から64年までの間にルクセンブルク(1800万マルク)、ノルウェー(6000万マルク)、デンマーク(1600万マルク)、ギリシア(1億1500万マルク)、オランダ(1億2500万マルク)、フランス(4億マルク)、ベルギー(8000万マルク)、イタリア(4000万マルク)、スイス(1000万マルク)、イギリス(1100万マルク)、スウェーデン(100万マルク)との協定が次々と調印された。
 またポーランドをはじめとする東欧諸国は、ドイツに対する賠償請求権を放棄していたため、東欧諸国のナチス犠牲者に対する補償について、ココの私人の国家に対する請求権は「国家賠償」から切り離されるべきであり、また「国家賠償」と「ナチスの不法に対する補償」は区別されるべきことを主張してきた。これに対して西ドイツ政府は、二国間協定という法的措置ではなかったが、結局1961年から72年までの間にユーゴ(800万マルク)、ハンガリー(625万マルク)、チェコ(750万マルク)、ポーランド(1億マルク)、にそれぞれ一定額の支払いをおこなった(21)。
 トータルとしてのドイツの補償支払額は、1993年1月1日現在、連邦補償法による7,104,900万マルク、連邦返済法による393,300万などを含めて計9,049,300万マルクである。今後続けられるであろう支払いを含めると、補償支払総額は12,226,500万マルクにのぼるとされている(22)。このドイツの戦後補償・賠償の支払金額は、日本のそれの10倍近い数字であり、一面的ではあるが、それなりの評価を受けるに値するドイツの補償実績を強いメス数字であるといえる(23)。

 1.3 加害責任と補償責任 << >> 2.1 敗戦責任論、被害者意識 
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2.1 敗戦責任論、被害者意識

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 第二次大戦中の行為に対してドイツが負うべき責任は、ナチズムに集約された。したがってドイツの戦後処理において、ナチスに対する責任追及は非常に重要だった。戦後まもなく開かれたニュルンベルク裁判でも、「人道に対する罪」の適用によるナチズムの犯罪性を根拠に、多くの戦犯が裁かれた。
 一方、日本における戦争責任をめぐる事情は、ドイツのそれとあきらかに違っていた。日本にはドイツ・ナチスのように戦争責任を一手に帰結させうる対象はなく、戦争裁判における両国の戦争指導者に対する裁かれ方にも、いくつかの相違点があった。戦争責任そのものの意味についても、両者のあいだには少なからぬ違いがみられ、日本の場合、戦争に対する国民意識も非常に特徴的である。
 1946年5月、東京裁判(極東国際軍事裁判)が開廷した。東京裁判について、米国務省情報調査局極東調査課の「A級戦犯裁判に対する日本寺院の反応」は「日本人の多くは、東京裁判を敗戦による宿命的なものとして受け入れているのであり、被告に対しては、彼らの戦争犯罪による戦争責任ではなく、敗戦責任を問題にしている」と報告している(24)。日本の戦争責任は、敗戦によって生じたものであり、それについて当時の指導者が責任をとるべきであるという戦争に対する意識は、当時の多くの日本国民にみられたものであった。戦後まもない1945年9月4、5日に開かれた臨時議会でも、敗戦の経緯が報告され、関係大臣が敗戦に対して謝罪しているが、ここでも問題となった戦争責任は、開戦責任や戦争中になされた行為に対する責任ではなく、結果として日本を敗北に追いやった敗戦責任だった(25)。
 この日本の敗戦責任論は、戦争に対する国民の被害者意識に連結している(26)。戦争指導者にだまされた日本国民としての被害者意識が、少なくとも戦争における日本の加害者としての責任受認を妨げているのである。戦争に対する日本の被害者意識は、戦後の平和、護憲運動などにもはっきりとあらわれている。世界で唯一の原爆被爆国という立場からの核兵器反対運動はもちろん、日本各地で展開された空襲に関する記録を進める運動や、戦争体験を語りつぐ会の組織化など、戦後日本社会に繰り広げられた反戦平和のための数々の運動は、戦争被害者としての日本国民という社会的風潮のなかで生まれてきた(27)。
 日本には、戦争終結から継続して、過去の戦争に対するいわゆる「敗戦責任論」や「被害者意識」が存在していた。そしてこれが以降、アジアに対する加害者意識の欠如となってあらわれ、戦争認識をめぐるアジア諸国との摩擦の一因として残ることになったのである。

 1.4 ドイツの補償実績 << >> 2.2 日本の戦争責任と東京裁判
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2.2 日本の戦争責任と東京裁判

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 今日、第二次大戦後のアジアにおける国際軍事裁判である極東国際軍事裁判(以下、東京裁判とよぶ)が、日本の戦争に対する罪をいったいどれだけ追及したのかを疑問視する議論が数多くなされている。それと同時に、日本に東京裁判で裁かれたような罪がほんとうに存在したのか、裁かれるべきでない行為が罪として裁かれなかったか、裁判そのものが公正さを欠いていなかったかといった東京裁判の問題点を指摘する主張も少なくない。そうした東京裁判をめぐる議論を一望することは、日本の戦争責任に対する認識を考えるうえで、何らかの手がかりになるだろうと思われる。
 そこでまず、東京裁判をめぐる議論として、東京裁判そのものを問題視する後者の議論からみてみよう。後者の議論としては、たとえば「勝者の裁き」としての東京裁判の問題点を指摘する主張がある。
 大沼保昭氏は、東京裁判は「欧州枢軸国の主要戦争犯罪人の裁判及び処罰を目的とする協定により設立され」、「欧州枢軸国の利益のために(中略)犯罪を犯したものを裁判し、かつ処罰する権限を有する」ものであり、そうである以上、戦勝国による敗戦国に対する一方的な裁きに終始したことについては、裁判所自身の責任によるものではないと指摘する(28)。米国による原爆投下や、ソ連の日ソ中立条約破棄についての訴訟は、関連性なしとして斥けられる運命にあったが、極東国際軍事裁判所条例第12条の「いかなる種類たるとを問わず起訴事実に関連なき争点及び陳述を排除する」によれば、訴訟法的に問題ないことであった。しかし一方で、法が法であるための基本的要件はその普遍的適用性にあるはずであり、それを著しく欠いているものは法としてとうてい認め難い(29)。すなわち東京裁判の評価としては、東京裁判を裁判たらしめた極東国際軍事裁判所条例を含めて、その裁判総体の普遍性を問題とすべきであるという(30)。
 東京裁判で「平和に対する罪」をとりあげることの合法性と、それが指導者の刑事責任に結びつくことについての違法性にもいくつかの疑問が投げかけられている。
 たとえばドイツのクヌート・イプセン氏は、1983年5月28日に東京で開催されたシンポジウムにおいて、国際軍事裁判所の法的管轄権を問題とし、「平和に対する罪」に関する国際軍事裁判所の管轄権は、当時有効な国際法に基づくものではなかったことを指摘した。さらに1928年の不戦条約に従えば、戦争に訴えることは違法行為であったが、それを個人の刑事責任として処断する国際刑法はなかったことにも言及している(31)。この点については、戦争違法観と指導者責任観の結合という論理構造を持つ「平和に対する罪」の問題点を指摘するものもある。つまりこの両者の結合は第二次大戦末期になされたものであり、「平和に対する罪」は当時の既存の国際法を判断基準とする限りにおいては、国際法上の犯罪としては認められなかったという主張である(32)。
 これに対し前者の議論は、東京裁判が日本の戦争責任を十分に追及できなかったという問題点を指摘するものである。
 そのひとつが天皇不起訴である。戦後、天皇の戦争責任は大きな政治問題となった。東京裁判において、天皇を被告人として訴追するのが法的にたとえ困難であったとしても、最低限天皇を証人として喚問することは可能であった。それどころか、日本の戦争遂行過程を明らかにするうえで、それは不可欠だったはずである。それにもかかわらず天皇訴追がなされなかったのは、占領政策を円滑かつ効果的に進めるため、天皇の存在がきわめて有用であるというアメリカの判断があり、そこに東京裁判が政治主義的、便宜主義的に進行したという問題点が指摘されなければならない(33)。
 荒井信一氏は、第二次大戦後の軍事裁判であきらかにされるべき問題は、戦争について天皇が実質的に果たした役割がいったい何であったかにあったという。ゆえに東京裁判が、天皇を被告として裁かなかったことで、天皇の実質的な役割が、起訴に値しない程度のものであることが示されたとする。その後、天皇の戦争責任問題があらためて噴出してくるようになったが、それは東京裁判をはじめアジアの各地で連合国によって行われた戦争犯罪法廷による戦後処理が不徹底であり、この問題の決着を避けたためであった。すなわち東京裁判に働いたアメリカの政治的配慮が、天皇の戦争責任を今日にまで持ち越させたというのである(34)。
 東京裁判が、日本の行為の直接の被害者であるアジアを軽視したまま進行し、結局、戦争における日本の加害者としての立場を明確にしないままに終わってしまったという点もひとつの大きな論点となっている。中国は東京裁判に判事を送り出しており、形式的には日本の戦争責任を追及できる立場にあった。しかし実際には、中国が東京裁判に対してもつ影響力は限られていた(35)。戦前もしくは戦時中の日本の好意により多くの犠牲者をだした挑戦、東南アジアには、日本の戦争責任を追及する機会すら与えられていなかったのである。
 この問題について荒井氏は、戦後イギリスがシンガポールでおこなったインド国民軍裁判と後沢裁判を例に挙げ、戦犯裁判が植民地支配者の公正さを示すショウウインドウの役割を果たしたり、植民地支配に対する独立運動への懲罰であったことを指摘している。そのうえで、東京裁判が植民地支配者の側からおこなわれたBC級裁判の限界と、現地民衆の受けた戦争被害や犯罪行為、その責任の追及などが事実上きわめて限定された結果ゆえに、アジアの不在が問題視されるようになったという。東京裁判の限界が、アジアにおける日本の戦争責任の問題があらためて問われる歴史的理由となったとする主張である(36)。
 しかしなによりも指摘されなければならないのは、東京裁判と日本国民との関係である。
 東京裁判は、日本の戦争指導者の一部を一般国民から切り離して処罰することで日本の戦争責任を裁いた。そのため、日本国民の戦争責任とは一体何であるのかは、あきらかにされなかった。むしろ日本国民の大部分は、東京裁判を、日本の一部指導者の戦争の罪を問う、自分たちとは無縁の出来事として受け止めた(37)。そして東京裁判で起訴された罪については、すでに処罰が済んでおり、解決されたものであるとの認識をもつようになったのである。
 大沼氏は、日本の戦争責任論の展開の中で、「誰が」「誰に対して」「いかなる根拠から」「いかなる程度の」責任を負い、「いかなる方法で」責任をとるべきかという厳密な論理操作がおこなわれなかったことを問題として指摘する(38)。戦争責任と国民との関係が検証されなかった東京裁判は、日本国民の免責意識を生むひとつの大きな原因となって作用したのである。

 2.1 敗戦責任論、被害者意識 << >> 2.3 日本の政治家による「妄言」 
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2.3 日本の政治家による「妄言」

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 日本の戦争責任認識の表出のかたちのひとつとして、繰り返される政治家の問題発言がある。これがしばしば、いわゆる「妄言」、問題発言というかたちでとりあげられる。この「妄言」が、実際にどれだけの日本国民の認識を代弁しているのか疑問ではあるが、いずれにせよ、日本国民の過去認識として国外で受け止められることになったことだけはたしかである。
 「妄言」の例をあげれば、1994年5月の永野法相の「日本は植民地を解放する、大東亜共栄圏を確立するということをまじめに考えた」、「南京事件というのは、でっち上げだと思う」という発言、8月の桜井環境庁長官の「日本も侵略戦争をしようと思って戦ったのではない。戦争が始まれば異常な精神状態になることはある」との見解、1995年6月には渡辺美智夫元副総理がおこなった「日韓併合条約は円満に結ばれた」などがある。11月には江藤防衛庁長官が、過去の植民地支配を正当化する発言をしたとし、韓国側から激しい抗議を受け、辞任するに至った。
 韓国には、こうした日本の政治家によって繰り返される過去認識に関する発言を、そのまま日本国民大半の過去認識を表したものであると解釈し伝えるものがある。永野発言について、『ソウル新聞』1994年5月7日付の「社説」は「日帝の蛮行を蛮行として考えない日本人の多さを示す証拠であるといわざるをえない」としており、また1995年の渡辺発言に関しても6月6日の『朝鮮日報』は、日本人はその多くが、彼の言葉を内心嫌がっていないというところに問題がある」と指摘する。
 しかし、はたしてそのような解釈が適当であるかどうかは疑問である。多くの日本国民が、必ずしもこのような「妄言」に不快感を覚えないわけではない。1995年6月6日の『朝日新聞』は「歴史も恥も知らぬ政治家」と題した社説で、「外相経験者の発言としてはお粗末すぎる」などと述べ、渡辺発言を痛烈に批判している。そして「ともすれば植民地支配の正当性主張しがちな日本人の意識も次第に変わり、最近は被害者の気持ちを素直に酌む謙虚さと余裕も生まれつつあった」と、日本国民の過去認識の変化についても触れている。日本国内では「妄言」が発せられるたびに、こうした非難の声が少なからずあがるのであり、韓国国内であたかも「妄言」に賛同する日本国民ばかりが多いという点を強調する報道がなされているのは非常に残念である。
 しかし同時に、日本の国民意識のなかに戦争に対する責任認識や罪悪感に欠ける構造的な問題があることもまた否定しえない。先述したような東京裁判と日本国民との関係に、その理由の一端を求めることができるだろう。東京裁判ですでに処罰された罪については、もはや論じる余地がないとする日本国民の過去認識に対する意識構造と、今日の日本の政治家が繰り返しおこなう「妄言」には、その点で共通性が存在する。したがって日本の政治家が度々発するこうした「妄言」の数々は、日本国民の過去に対する意識構造への問題提起として真剣に受け止める必要がある。
 「妄言」が発せられるたびに、アジアから浴びせられる激しい非難は、東京裁判をはじめとする当時の日本の戦争責任の追及過程への非難でもあろう。つまり、東京裁判を含む日本の戦争責任追及の過程に、参加することができなかったアジアゆえになされる非難なのである。「東京裁判でのアジア不在が、アジアが日本の戦争責任の問題をあらためて問う歴史的理由である」とする議論は、まさにそうしたアジアゆえの「妄言」非難の本質を指摘しているのではなかろうか。

 2.2 日本の戦争責任と東京裁判 << >> 2.4 アジアに対する戦争責任 
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2.4 アジアに対する戦争責任

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 1994年10月24日、衆議院税制特別委員会において橋本通産大臣は「先の戦争は、西欧列強との戦争であったが、アジアの人々には多大な迷惑をかけた」という主旨の発言をおこなった。この発言は十五年戦争を、対米英蘭の戦争と、対アジアの戦争とに分ける二元認識にもとづいてなされた発言である(39)。
 戦争の二元認識とは、事実上一体化している戦争について、論理上は区別されなければならないとし、それを対米英蘭と対アジアに分離させ認識しようとするものである。
 たとえば竹内好氏は十五年戦争について、「日本が行った戦争は侵略戦争であったが、同時に帝国主義対帝国主義の戦争でもあり、侵略戦争の側面に関しては日本に責任があるが、対帝国主義戦争の側面に関しては日本だけが一方的に責任を負ういわれはない」と主張しているが、これがまさに二元認識にもとづいた十五年戦争に対する評価であるといえる(40)。
 しかし、このようのあ戦争の二元認識論に対しては、米英蘭に対する戦争も、結局は中国という在外権益防衛のための戦争であって、自衛のための戦争ではなかったという反論がある(41)。1941年11月26日、米国務長官ハルが野村大使に交付した通牒(ハル・ノート)が提示した主な条件は、中国とインドネシアからの日本軍の撤退、蒋介石政権以外の中国政府の不承認などであり、これを受け入れることなく開戦に踏み切ったのであるから、自存自衛のための戦争とは到底いえないというのがその論拠である。つまり、日本は中国侵略戦争を継続するために、これを中止させようとする米英蘭と開戦することになったのであって、対帝国主義との戦争は、中国侵略戦争の延長線上に発生した。したがって中国との戦争と対米英蘭戦争とを分離して、個別の戦争と考えることは到底できないというのである(42)。
 中西功氏は、戦争を通じての日本の目的は、日本にとってのアジア太平洋地域の安定であり、対アジアの戦争も、対米英蘭の戦争もその目的のため遂行されたものである。にもかかわらず、戦う相手によって、日本の責任を多元的に規定するのは誤りであると主張する(43)。
 しかし、そうであるならば日本と併せて、米英蘭の責任も同時に追及されなければならない。当時、米英蘭もフィリピン、マレーシア、インドネシアなどを植民地支配していたが、それを留保したもまの、日本に対する一方的な中国撤退要求は、問題解決の方策としてあまりにも非現実的である。ハルはのちに「日本がこの提案(ハル・ノート)を受諾するだろうと本気で考えていなかった」と語っている(44)。しかし日本と同様に米英蘭にも、アジア太平洋地域における平和的解決への道が真剣に模索されていなかった点は非難されなければならない。それはけっして「彼もやっているから、自分は悪くない」という論理なのではなく、同じ帝国主義としてアジアに植民地を有していた米英蘭、その意味では「同類の彼ら」に対して負うべき責任はないという主張である。
 だがアジア地域に対する日本の行為の性格は、根本的に米英蘭に対するものと異なる。それは日本がアジア各国に対しては、侵略をしたという認識によるのであるが、この「侵略」の意味についても微妙な問題が含まれている。
 1993年8月10日、細川首相は首相官邸で行われた就任初めての記者会見で、「先の戦争をどう認識しているか」という記者の質問に対し「私自身は、侵略戦争であった。間違った戦争であったと認識している」と答えた。しかし、この首相の発言は、政府部内で準備されたものではなく、「侵略戦争」についての厳密な定義をふまえたわけでもなかったようだ(45)。
 その後、8月19日の閣僚懇談会では、「国家間の補償問題はすでに決着済み」であることが確認され(46)、23日の所信表明演説には「侵略戦争」という言葉は使われず、「過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらした」という表現が使われた。
 その後も、政府の基本的立場は変わっていない。1994年5月24日の衆議院予算委員会で羽田首相は、「戦争についてはいろんな議論がある」と述べ、先の戦争を「侵略戦争」と位置付ける考えはないことを強調した(47)。
 この羽田首相の発言に対して、志位議員は「なぜ『侵略戦争』と言えないのか」とただした上で、「『侵略行為』はここの軍隊に出先で間違いがあった、と言い抜けもできる。『侵略戦争』は全体の性格、目的を指す」と追及した。
 だがこの問題に関しては、いまだ国内のコンセンサスも得られておらず、94年10月の「侵略戦争であるかどうかは、いろいろな意見があるから、そういう意見の混乱の中に私は巻き込まれたくない」という村山首相の発言は問題の微妙さをよく表しているといえる。
 過去において日本がアジアにおこなった行為が「侵略行為」であったのか「侵略戦争」であったのかの議論はあるにせよ、しかし過去にアジアに対して侵略をおこなったということに関しては、日本政府も認めるところであるというのは間違いない。
 しかし侵略によって、日本の戦争責任を問えるのかの問題も存在する。侵略(aggression)という用語は、第一次大戦終結間際に賠償問題にはじめて導入された。ドイツが負うべき賠償責任は、進入(invasion)ではなく侵略(aggression)によるものであり、侵略によって連合国の民間人及びその財産に与えられた損害に対して、ドイツは賠償すべきであるとされたのである(48)。だが実際に、侵略の定義がなされたのは、第二次大戦後であった。1974年、「侵略の定義」に関する国連総会決議がなされ、侵略は武力による威嚇及び武力の行使として一般国際法化された。「侵略行為」の認定についても、国連憲章39条によって安保理の裁量に委ねられているのである。こうした戦後社会に誕生した概念である「侵略」を、日本の戦争責任の根拠とするのが、適当かどうかの疑問はたしかに提起されうる。
 しかし家永三郎氏は、具体的な日本の中国に対する行為として、南京大虐殺、中国全戦線にわたる残虐行為、毒ガス戦、七三一部隊の残虐行為、阿片密貿易による日本の巨利獲得と中国人民の心身腐蝕、中国官民の利用などをあげ、これらに日本の戦争責任があると指摘する(49)。さらに家永氏は、日本の殖民としてその主権の下に置かれていた朝鮮民族に対する罪として、精神面での強要と人身を提供しての犠牲の強要との二つに大別して論じている。前者は学校での朝鮮語の使用禁止や創氏改名をはじめとする「皇民化政策」によるものであり、後者としては、強制連行や朝鮮人BC級戦犯、従軍慰安婦問題などがそれにあたるとしている(50)。
 たとえ当時、「侵略」の定義が確立していなくても、今日の法論理に照らせば日本のその行為はやはり「侵略」であった。そしてそれは、アジア地域の人々に苦痛を与えたのであって、日本はその事実を率直に認めなければならない。それが当時の異常状態のもとでなされた行為であった、あるいは他の戦争・地域にもみられる悲劇であったというのは免責の理由にはならないし、もちろん正当化する理由にもなりえない。ただ実際に、そうした行為に対する償いとして、どのように責任がとられるべきかについては、その行為内容がどのようなものであるかの考察がなされなければならないし、また同時にこれまでどのような償いがなされてきたのかの検証もなされなければならない。そうした手順を踏んで、はじめてこの問題に対する今後の「戦後補償」のあり方を論じることができるのである。

 2.3 日本の政治家による「妄言」 << >> 2.5 ドイツとの比較 
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2.5 ドイツとの比較

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 キム・ヨンス氏は「ドイツがナチスの戦争責任と関連し、これまで一貫してとってきた戦後処理の姿勢は日本の戦争責任回避を皮肉る『万国共用』の事例として広く引用されてきた。ナチスの戦犯事を清算するためのドイツの努力は、よく知られている事実だ。潜跡してしまったナチスの戦犯を追跡する作業は、今も執拗に続けられており、数十年の追跡の末、捕らえられた戦犯たちを法廷に立て、処断する仕事もいまだに続いている」とドイツの事例を挙げ、ドイツが過去清算の先進国であるのに対し、日本は過去清算の後進国であると論じている(51)。
 たしかに、今日までのドイツの戦後補償実績が評価に値するものであることはいうまでもない。先述のような、今後続けられるであろうドイツの補償見積もり総額、1200億マルクという巨額の数字はその裏付けでもある。
 しかし、日本とドイツの戦後補償の比較をするには、戦時中あるいは戦前の両国の加害行為の内容を比較検討する作業を欠かしてはならない。ドイツの戦争中の犯罪行為とは何であったのか、何が補償対象となっているのかをあきらかにしたうえで、日本においての戦後補償とは何かを論じるべきであり、その検討を省いて、日本の戦後補償に評価付けをおこなうことは不可能である。
 第二次大戦後、ドイツの戦後補償の大きなきっかけとなったのは、先にも述べたとおりナチズムの残虐性であった。
 1995年10月13日、名古屋で開催されたシンポジウム「日本とドイツ」で、ゲンシャー元ドイツ副首相兼外相は「過去の克服がドイツで日本より早く始まった理由は、ユダヤ人大虐殺の問題にある。もし、歴史に例をみないこの事件がなければ、過去の克服の問題も日本と同じような形で行われていた可能性は十分にある」と述べた(52)。ナチスの行為、しかもユダヤ人大虐殺が、ドイツの第二次大戦後の補償問題において、重要な意味をもっていたという指摘である。
 ユダヤ人迫害問題はナチスの思想と非常に深い関わり合いをもつ。ユダヤ人問題とナチズムとの関係について、ワルター・ホーファー氏は以下のように説明している。

 「ヒトラーが予言した政治的宗教の中心にあるものは人種思想であって、それは次のような内容を持つ観念である。あらゆる歴史現象、あらゆる国家形成および文化創造の根本要素は人種的要素である(中略)文化能力をもつが故に最高・最良の人種は、いわゆる「アリアン」人種である。(中略)「支配人種」たるドイツ人が支配すべきものであり、価値の低い諸民族はドイツに服従して、労働に従事するか、または、全く抹殺されねばならない。ここにおいて人種思想が反ユダヤ主義と結びつく。なぜなら、ナチズムの教義によればユダヤ人は価値の低い人種であるのみならず、アリアン人種の壊滅を目的としている「敵対人種」だからである。ユダヤ寺院は「寄生虫」でありながら、アリアン人に敵対しているのであるから、徹底的に抹殺されねばならない。」(53)

 また、ナチスのユダヤ人敵対視についてはヒトラーの著書、「我が闘争」から次のような文章が紹介されている。

 「金融ユダヤ人層は、イギリスの国家福祉の利益に反して、ただドイツの徹底的な経済破滅のみならず、完全な政治的奴隷化をも望んでいる。(中略)それ故、今やユダヤ人はドイツの徹底的破滅の大扇動者である。我々が世界中にドイツに対する攻撃を看取するところにはどこでも、ユダヤ人は、ユダヤ人工場主を扇動し、平時にも戦時にも、ユダヤ人の取引所新聞やマルクス主義新聞を扇動して、ドイツに対する憎悪を計画的にあおりたて、ついには、国家が国家を犠牲にして中立を放棄し、世界戦争連合のために、民族の真の利益を断念するまで、この扇動をやめない。」(54)

 ナチズムの人種思想のイデオロギーは、敵対人種としてのユダヤ人をつくりあげ、これを弾圧、迫害した。そしてあの残虐行為が生まれたのである。しかしかつての日本帝国に、はたしてこのような、ある民族絶滅を目論むイデオロギーが存在したであろうか。朝鮮半島をはじめアジアの諸地域で展開した皇民化政策は、他民族絶滅の手段として用いられたとの解釈がある。言語、風習、信仰などの精神面における同一化政策は、その民族の精神的、文化的伝統を絶滅の危機に陥れ、それらの地域に多大な苦痛を与えてしまったことは否めない。しかし、これとナチズムの人種思想とを同列に論じるべきであるかどうかは、大きな疑問である。ヒトラーは、1939年1月30日の国会における演説で「もしヨーロッパ内外の国際的金融ユダヤ層が、諸民族を再び世界戦争に巻きこむことに成功するならば、その結果は世界のボリシェズム化と、それに伴うユダヤ人種の勝利とはならず、却ってヨーロッパにおけるユダヤ人種の絶滅となるだろう」とヨーロッパにおけるユダヤ人の絶滅を予告した(55)。しかし、日本にはこのような敵対関係を前提としたある特定民族の絶滅を目指す思想はなかった。日本とドイツを比較する際、まずこの違いを念頭に置く必要がある。
 またドイツの戦後補償をみる場合、日本との比較のうえで、その補償対象となる加害行為が、真に戦争遂行のためになされた行為なのか、あるいは戦争との関連性がいかに強いかの点で注目すべき差異がある。
 たとえば、日本が挑戦人労働者を本格的に動員するために設けた「国家総動員法」や「労働力動員法」は1938年、1939年に公布されたものであり、これには1937年に勃発した中国との戦争が大濃いな影響を及ぼしたと考えられる。すなわち、戦争の結果引き起こされた労働不足が、朝鮮民族の労働力を動員する動機になったのである。
 リチャード・H・ミッチェル氏は、1931年の満州事変以後、日本はそれまでの不況から好景気に転じ、労働力不足に悩むようになり、日本への渡航を奨励した。その当初の時点での労働力の動員は強制的なものではなく、強制連行がなされるようになったのは労働力動員法の公布以降の1939年からであったという(56)。つまり、少なくとも日本が戦争中におこなった強制連行という行為は、戦争遂行のための行為だったのである。
 これに対し、ドイツの反ユダヤ主義は、すでに1920年のナチ党綱領25箇条に明文化されており(57)、その絶滅政策の目的は、戦争の遂行と直接的な関係をもたない。ドイツ本国から追放されたユダヤ人に対する最初の絶滅政策が実施されたのは、1941年11月であり、当時まさに、ドイツは戦争中であった。しかし、ユダヤ人絶滅政策の前提をなすものは、ユダヤ人を絶滅したいというヒトラー以下ナチス当局の固い意志であり、その残虐な政策を現実に開始させたのは、袋小路に追いつめられた強制的追放政策の脱出路を切り開く必要に迫られたためであった(58)。ナチスのイデオロギー、ユダヤ人絶滅政策は、戦争と切り離してとらえられなければならず、ナチスの行為は、日本の戦争中の行為とははっきりと性格を異にするのである。
 ナチスは戦前から、人種思想にもとづくユダヤ人絶滅政策を内に秘めていた。それが戦争中、具現化するようになり、戦争終結を契機として裁かれるようになったのである。ドイツにおける戦後補償という概念にはこうした背景があるのであり、これをそのまま引用し、戦時中の行為の性格がまったく異なる日本にあてはめ、議論するのはあまりにもナンセンスである。
 ドイツと日本の戦後には、いくつかの共通点もみられるが、両国の戦後処理をめぐる議論は、両者を単純に比較して展開することはできない。上述のように、ドイツと日本の戦後処理をめぐる事情には大きな違いがあり、ドイツの戦後補償をもって、日本の戦後補償云々を論じるのは不可能なのである。したがって、日本の戦後補償について論じようとする場合には、ドイツとはまた違う、日本なりの戦後補償の論理を確立する必要があるのである。

 2.4 アジアに対する戦争責任 << >> 3.1 日韓基本条約の意義 
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3.1 日韓基本条約の意義

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 1990年8月、サハリン残留韓国人の問題について、残留者と韓国の留守家族21人が、日本政府に対して一人1000万円の支払い要求をおこなった。1991年1月には大阪で、日本軍の軍属として爆撃で負傷した韓国人が援護法の受給資格の確認と1000万円の支払いを要求した。同年12月には、元挑戦人慰安婦が東京地裁に提訴した。このほかにも、韓国からの日本政府に対する補償要求は多数なされている。日本政府の基本的な立場は、韓国との戦後補償問題は1965年の日韓基本条約、「財産及び請求権・経済協力協定」によって解決されたというものである。
 にもかかわらず、韓国側からこのような訴えが頻発するひとつの理由として、韓国政府が当時、日韓条約締結に際し大きな譲歩をしすぎたためという指摘がされうる。
 李庭植氏は、過去の行為に対する日本側の謝罪は日韓条約の文書に盛り込まれることはなく、韓国に提供されたのは、日本の寛大さのしるしとしての経済援助であった。大韓民国憲法は「大韓民国の領土は韓半島とその付属島嶼とする」と規定していたにもかかわらず、条約は韓国の管轄権を南朝鮮に限定するなど、韓国はあらゆる問題で譲歩したと主張する(59)。たしかに、当初韓国側が提示した資金提供額が20億ドルであったにもかかわらず、最終的に「無償提供3億ドル、長期低利借款2億ドル、民間信用提供3億ドル」で決着するという結末をみたのは、韓国政府の譲歩によるところが大きいだろう。
 しかし一方で、当時の韓国にそれだけの譲歩をせざるをえない理由が存在したこともまた事実である。韓国側の譲歩は、日本の一方的な交渉戦略によって引き出されたものではないのである。1961年のクーデター以降、政権を握ることになった朴正熙率いる軍事政権は経済発展を最優先課題としており、これを自らの正統性の根拠とし維持し続けようとしていた。そのために彼らが必要としていたのは、ほかでもない海外からの経済援助だったのであり、1950年代後半までは、そのなかでもとくにアメリカの果たす役割が大きかった。
 アメリカの援助額は、1954年の1億840万ドルから着実に増加し続け、1957年にはついに3億6880万ドルにまで達した。だが1959年になると、その額は2億1970万ドルと現象傾向をみせはじめ、1962年にはついに1億5千万ドルにまで落ち込んだ。5ヵ年計画を継続して推進していきたい韓国にとっては、この落ち込みは深刻で、経済危機を醸成しかねなかった。その代替的な役割を期待されるようになったのがまさに日本であった。加えてアメリカの強い介入政策に直面した韓国政権は、日本側の従来の交渉ペースを基本的に承認することを余儀なくされたのである(60)。
 そのような韓国の対日政策の変化は、1953年の第三次会談における久保田主席代表の発言と、64年の高杉晋一の発言に対する反応の違いによっても説明することができる。
 1953年10月15日の請求権分科委員会の席上、久保田主席は「日本が進出しなかったら韓国は、中国もしくはロシアに占領され、日本による占領よりもはるかに惨めな経験をしたであろう」、「韓国を日本との事前協議なしに日本から分離、独立させた措置は国際違反である」などの発言をおこない、韓国を激怒させた。この結果、20日に会談は決裂し、1957年の発言取消まで、韓国の強硬な撤回要求が継続しておこなわれ、日韓会談は3年半あまりの中断を余儀なくされた。
 その久保田発言のほぼ10年後の1964年、今度は高杉晋一が「日本は朝鮮をより豊かにするために支配した」、「引き続き日本が20年くらい支配していたらよかった」という主旨の発言をおこない、またもや韓国を激怒させた。
 前例に従えば、当然これに対して韓国は猛抗議をし、会談は中断されたであろう。しかし韓国がとった選択は、その発言をいかに無効力化するかであった。韓国側は発言当時、高杉があくまで主席代表の内定者であり公的立場ではないことや、発言の場が会談の席上ではなく、外務省担当記者との会見という私席であったことに注目し、それを利用して物議の拡大を阻止したのである(61)。
 それはほかでもない、当時の韓国経済の状況を含んだ両国をとりまく環境のなかで、朴正熙が下した決断でもある「先国交・後懸案妥結」(62)という韓国側の基本方針のあらわれでもあった。
 日韓基本条約が締結された1960年代は、韓国にとっては経済開発の資金確保と、そのための日本との国交回復が最優先課題となっており、このことは日本にとっても、韓国との請求権問題を片づけるには絶好の条件をもたらした。しかし一方で、それがゆえに本条約では解決されない問題が残されることになり、しばしばそれが表舞台に上がり、両国間のきしみを生むようになった。過去の歴史認識をめぐる両国の溝については、当時の条約の文言のすりあわせによって問題の妥結をはかったが、両国の共通認識の確立といったような根本的解決はなされなかった。
 1995年10月5日の「日韓併合条約は法的に有効に締結された」という村山首相の発言に対し、27日、韓国の国会議員100余名が基本条約破棄を要求する決議案を国会に提出した。決議案では、日韓基本条約は「日本が太平洋戦争を挑発した責任と韓半島を不法的、強圧的に植民地化し、残忍な方法で支配した責任をきちんと問わないまま免罪符を与えた韓国の屈辱外交の標本であり、日本の過去の罪悪を生産した免罪符として働いてきた」と指摘したうえで、新しい条約案を提示している。新しい条約には「日本が犯した侵略と過酷な植民地支配に対する謝罪と反省の意を明らかにする」、「1910年に結んだ日韓併合条約は締結当初から無効だったことを確認する」、「基本条約とともに結んだ諸協定も韓国政府が主張すべき権利が放棄されたままになっているので放棄し、再協議して新協定を結ぶ」などの内容を盛り込むべきであるとしている(63)。
 日本の過去認識に対して、韓国の国民感情レベルでこのような議論が展開されるといのは、そう理解に難しくない。自分の国が他国によって植民地支配を受けていたという歴史を、やすやすと受け入れることができないという国民感情の次元では、「解釈に幅のある現条約を破棄したい」、「新しい条約をつくりたい」といった考え方が十分に生まれうる。
 しかし、このような論理をもってして、国家間の条約破棄が可能であるならば、元来、国際社会に条約など存在しないことになる。それゆえに当然のことながら、韓国政府は、議員たちのこのような動きに対して冷静な対応をとってきた。
 ところで、この決議案は新条約の締結とならんで、当時基本条約とともに締結された諸協定の破棄と、それに代わる新協定の締結も提案している。もちろんここでいう協定には、日韓の請求権問題の解決を目的とした「財産及び請求権・経済協力に関する協定」も含まれている。
 1961年4月6日の第5次日韓会談の席上、韓国の対日請求権について吉田委員は「韓国は日本に対する交戦国でも平和条約の署名国でもなく、同条約の第14条の利益を受ける立場にはない」として、韓国側の賠償請求権を否定した(64)。
 また韓国側も、日韓会談開始当初から1945年12月の米軍政法政33号32条「日本国および日本人の在韓財産は米軍政庁に帰属する」と、1948年に発効したアメリカ・韓国間の「財政および財産に関する最初の協定」を根拠に、日本の在韓財産はすでに韓国に引き渡されるべきものであると主張してきた。こうした財産処理の手順は、サンフランシスコ平和条約4条b項「日本は韓国などの地域でアメリカによって、あるいはその指令によって施行されたに日本および日本国民の財産処理効力を承認する」で明確に規定されていた(65)。つまり日韓会談時における韓国側の請求は、サンフランシスコ平和条約第14条にもとづく「賠償」要求ではなく、平和条約第4条にもとづく「返還」要求だったのである。
 金明基・明知大法政学長は「『請求権協定』は『対日平和条約』の規定中、韓国側が日本側に対し効力がある、同条約第4条に依拠し締結されたものであり、韓国に対して効力が及ばない第14条に依拠して締結されたものではない。「請求権協定」上の請求権は補償請求権を意味するものであり、賠償請求権はこれに含まれているものではない」とし、韓国の対日賠償請求権を主張している(66)。事実、日韓会談の開始当初から、韓国の平和条約4条にもとづく請求権は認められても、14条の請求権についてはまったく認められていなかった。度々同協定が示す「請求権」の定義づけが問題としてとりあげられるが、その議論のなかに、この14条に依拠した賠償請求権を持ち込むことはできないのである。
 しかしもし仮に、今回提出された決議案がいう「韓国政府が主張すべき放棄された権利」が平和条約14条にもとづくものであるとするならば、「戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して」連合国が有する請求権を、韓国がもつというその主張の妥当性がまず証明されなければならない。
 また、李長熙・韓国外大教授は「韓日基本条約と請求権協定は、財産的価値侵害に対する国際民事責任を規定したものであり、人権侵害に対する損害賠償責任と、国際犯罪行為に対する刑事責任は、相変わらず有効であるというのが国際法上の解釈だ」と指摘する(67)。しかし国際法上の人権侵害に対する損害賠償責任や、国際犯罪に対する刑事責任とはいったい具体的に何を指しているのか、また何を根拠にしているのかが問題である。先述の通りドイツ・ナチズムを例にとって、国際法上解釈とし、日本の責任を追及できないことは明白である。日韓条約で解決されなかった韓国に対する日本の責任を問うのであれば、その根拠を固める別の論法が必要である。ただ、人権侵害に対する損害賠償責任については、国内法的な観点からの議論の余地があると思われるので、後述したいと思う。
 いずれにせよ、「財産及び請求権・経済協力に関する協定」は「両締約国及びその国民の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)項に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認」したものとして依然有効なのである。たとえ上述のような日本の対韓責任が新たに証明されたとしても、日韓政府間の請求権問題はすでに決着しているのであるから、同協定を破棄するなどということは到底許されるものではない。
 だが、また一方で日本政府は、1991年8月の参議院予算委員会で、財産及び請求権・経済協力協定について「日韓両国が国家として持っている外交保護権を相互に放棄したということで、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない。両国間で外交保護権の講師として取り上げることはできないという意味だ」という主旨の答弁をおこなった。これは日韓慮国政府間の請求権交渉はすでに終了しているが、日本の司法機関を通じた日本国政府に対する韓国国民個人の請求権については認めたというものである。1992年1月に訪韓した宮沢首相は、元従軍慰安婦個人への補償について「日本国内で訴訟が継続中であり、その行方を見守っている」と述べている。
 1965年の日韓基本条約と各種協定の締結は、日本の対韓補償全般において以上のような意味をもつ。ただし日本の対韓補償は、その対象項目によっていくつかの分類が可能であり、また必要であると考えられる。そこで以下、いくつかの日本の具体的な対韓補償項目をあげ、そのひとつひとつについて検討していきたいと思う。

 2.5 ドイツとの比較 << >> 3.2 旧軍人・軍属への補償 
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3.2 旧軍人・軍属への補償

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 1946年2月に決定された、「恩給法の特例に関する件」によって、十度の戦傷病者を除いて軍人恩給が廃止された。そもそも恩給法は、戦前である1923年4月に制定されたものであるが、戦後、アメリカの占領当局が出した「恩給及び恵与」において、「軍人又はその遺族であることにより、一般の困窮者と差別して優遇されるという制度は好ましくない」という理由で、廃止が指示されていた。その結果、1946年2月、恩給法は廃止に追い込まれたのである。これには、日本非軍事主義化というアメリカ占領当局の方針が大きく作用していた(68)。
 しかし、1951年9月のサンフランシスコ平和条約の調印直後の10月、「戦傷病者及び戦没者遺族などの処置に関する打合会の設置に関する件」が閣議決定され、翌年の4月30日、「国家補償の精神に基づき、軍人軍属であった者又はこれらの者の遺族を援護すること」を目的とした「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(以下、援護法とよぶ)が公布された。さらに軍人恩給については、恩給法特別審議会が設置され、その建議をもとに1953年8月1日、軍人恩給が復活することとなった。
 ここに旧軍人・軍属に対する戦後補償がスタートしたのだが、朝鮮・台湾などの旧植民地出身の軍人・軍属はその対象から排除されていた。その根拠は、両方に共通してみられる国籍条項にあった。
 1952年4月19日、「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」と題する法務府民事局長通達が出された。それによれば、朝鮮・台湾出身者の日本国籍は「朝鮮及び台湾は、条約の発効の日から日本国の領土から分離すること」になるので、これに伴いすべて喪失するとされていた。これに関連して援護法では、本則で「日本の国籍を失ったもの(とき)」は、障害年金や遺族年金などを受ける「権利が消滅する」と定め、さらに附則二項は「戸籍法の適用を受けない者(旧植民地出身者を指す)については、当分の間、この法律を適用しない」とした(69)。恩給法においても、「恩給権消滅事由」として「国籍を失ひたるとき」が定められており、日本国籍を失った旧植民地出身者の受給権は認めないとされている(70)。
 国籍条項をめぐって問題となるのは、戦争にかり出された旧植民地出身者が、政府のいう「国との使用関係のあった者」にもかかわらず、なぜ国籍を理由に戦後補償から排除されるのかという点である(71)。
 中嶋忠次氏は、恩給がどのような理由で給付されるのかという議論のなかで、「経済上の取得能力減損の補填であるという説」をあげ、恩給とは「恩給公務員が公務を執行するために失った経済上の取得能力を補う目的で使用者たる国が恩給を給する」ものであるという立場を紹介し、日本の行政解釈もこれを是認していると指摘している(72)。このような議論において、国籍の喪失を、恩給給付の対象排除の理由として論じることはできない。
 援護法にも、「戸籍法の適用を受けない者」を排除する規定があるが、そもそも旧植民地出身者が軍属としてかり出されたときに「戸籍法の適用」を受けていなかった者をさして、「戸籍法の適用を受けない」ことを理由に補償対象から外すことは合理的であるとはいえない。この点は援護法をはじめとする国籍条項の問題の核心でもある(73)。
 この問題を考えるうえでのよい参考材料としては、セネガル人元フランス人兵士による国連の国際人権規約委員会への申し立てと、同委員会の判定の例があげられる。フランスは、旧植民地出身者にも同様に年金などを支給していたが、1975年からセネガル人などの年金額を据え置いたため、これを国際人権規約違反だとし、セネガル人元フランス兵から同委員会に訴えがなされた。これに対し1989年4月、同委員会が出した回答は「国籍の変更それ自体によって、異なる取り扱いが充分に正当化されると見なすことはできない。なぜなら、フランス人退役軍人とセネガル人元フランス兵が同じように提供した役務こそが、年金支給の根拠だからである」というものであった(74)。
 この回答の意味はきわめて明快である。すなわちフランスがなすべきその支給は、当時の兵士が提供した役務にこそ根拠があるのであり、それ以降の兵士個人のフランス国籍の変更等は、年金支給の如何にはなんら影響を及ぼすものではないということである。
 日本ではこの国籍と給付対象との問題について、たとえば厚生省が援護法をめぐって次のような立場を明らかにしている。

 「援護法31条には「日本の国籍を失ったときは遺族年金又は遺族給与金を受ける権利が消滅する」旨が規定されているが、この規定は個人の意思に関係なく国家相互の条約等の一方的な権力によって国籍を変更させられた場合には適用されるべきではなく、個人の意思に基づく(外国への)帰化等の方法によって(日本の)国籍を失った場合にのみ適用されるものと解する。従って、これらの者は同法が適用されることとなるが、これらの者に対しては日本の戸籍法が適用されないので、附則二項(戸籍条項)の規定により、同法の適用からはずされているにすぎず、日本に帰化することによって、日本の戸籍法の適用を受けるに至れば援護法の適用を受けることになる」(75)

 厚生省は、旧日本植民地の分離独立という特殊な事情に配慮し、日本国籍の喪失を、自らの意思によるものとそうでないものに分けて理解し、自らの意思によらない国籍の喪失については、帰化を条件に、給付対象からの排除理由にしないことをあきらかにしたのである。
 また恩給法についても「(日本国籍を喪失すれば、恩給を受ける権利は消滅し、再び日本国籍を取得しても受給権は回復しないが)平和条約の発効により、本人の意思とは無関係に日本の国籍を喪失した韓国人等の場合には、日韓特別とりきめ「請求権協定」の効力の発生の日、すなわち昭和40年12月18日に帰化して日本の国籍を取得すれば、平和条約発効のときに遡って恩給が受けられるような特別の取り扱いがなされています」と帰化した旧植民地出身者に対しては給付をおこなっていることがあきらかにされた(76)。つまり裏を返せば、旧植民地出身者が受給するためには、日本への帰化が必要だったのである。
 先に述べたとおり、給付の根拠が日本軍人・軍属としての役務にある限りにおいては、国籍条項をもってその対象範囲を規定することの合理性は認められない。旧植民地出身者は、日本に帰化しなければその対象となりえないというのは、やはり問題ある措置であるといわざるをえないだろう。
 しかしここで注目すべきは、恩給法についてのコメントにみられるように、日韓間の「財産及び請求権・経済協力に関する協定」の効力発生の期日をある基準にしている点である。
 協定の締結は文字どおり「両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題」が、「完全かつ最終的に解決された」ことを意味している。すなわち、日本政府に課せられた韓国籍を有する者に対する給付義務については、同協定の発効をもって、日本政府から韓国政府に移転されているのである。
 協定締結後の1966年2月19日、韓国においては「請求権資金の運用及び管理に関する法律」が制定され、1945年8月15日までの日本国に対する民間請求権は、この法律に定める請求権資金のなかから補償されなければならないとされた。続いて1971年には「対日民間請求権申告に関する法律」、1974年には「対日民間請求権補償に関する法律」などが次々と制定され、日本国により軍人・軍属として召集または徴用されたものに関する補償申告についても受け付けがなされた(77)。
 当初の国籍条項は、旧植民地の分離独立というような事態を想定しておらず、平和条約の発効による旧植民地出身者の「自分の意思によらない(日本)国籍消滅」は、国籍条項の存在意義を危うくした。しかしその後の日韓協定の締結によって、この問題はかなりの部分解消され、国籍条項の存在意義についてもその妥当性が主張しうるようになったといってよい。
 しかしながら、この協定の第2条2は「一方の締約国の国民で、1947年8月15日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがある者の財産、権利及び利益」には影響を及ぼさないとしている。当然のことながら、これでは在日韓国人の受給権利については、協定によって解決されたことにならない。
 第二次大戦で重傷を負った元日本軍属の在日韓国人が起こした訴訟に対して1995年10月11日大阪地裁は、「日本人の戦傷病者らに比べ差別の程度は重大で、在日韓国人を適用対象外とする扱いは法の下の平等を定めた憲法十四条に違反する疑いがある」とする一方、援助法にもとづく「援護内容については立法政策に属する問題」として、障害年金の請求や1000万円の慰謝料の要求などについては棄却した。判決は、協定締結をもって在日韓国人が援護法の適用対象外とすることの合理性は認められないとしながらも、「具体的な援護の程度、内容は政治的裁量に委ねられる」と述べ、年金請求の却下処分の取り消しや国家賠償の請求は理由がないと結論づけたのである(78)。
 しかしすでに述べたように、旧植民地出身者に対する恩給、障害年金などの本来的な給付義務は日本政府にあるのである。日本政府が韓国政府に移転したとみなされる給付義務は「財産及び請求権・経済協力に関する協定」によって定められているものに限られるのであり、その枠外に置かれているものに関しては、国籍条項の適用は著しく合理性を欠く。この判決では「請求に理由なし」との結論をもって請求権の却下がなされたが、在日韓国人のこの種の請求は本来正当なものであり、逆にそれを消滅させるに十分な理由がない限り、この給付は当然なされるべきであると考えなければならない。

 3.1 日韓基本条約の意義 << >> 3.3 従軍慰安婦への補償 
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3.3 従軍慰安婦への補償

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 日韓条約の締結交渉過程において、従軍慰安婦に関する件についての議論は一切されなかった。韓国側が日韓会談期間中、日本側に提議したいわゆる「8項目請求権要綱」には、1945年8月9日現在の日本政府の対朝鮮総督府債権の返還、韓国から振替または送金された金品の返還、韓国に本社・本店または主たる事務所があった法人の在日財産の返還、韓国人(自然人、法人)の日本政府または日本人に対する個別的権利行使に関する項目などが盛り込まれていたが、そのいずれも従軍慰安婦問題まで視野に入れたものではなかった。条約締結後に制定された請求権に関する韓国内の諸法律のなかにも、従軍慰安婦問題の請求権についての規定はなかった。
 それが今日になって「戦時中の従軍慰安婦に関する状況は、当時よく知られておらず、この問題についての請求権が主体として認められるようになったのは、戦争が終了した後の時期であるため、日韓間の「請求権協定」で解決された請求権とはいえない」といういような主張がなされる(79)ようになってきた。1991年12月6日には、従軍慰安婦問題に関する訴訟が日本政府に対して初めてなされ、それ以降、様々な集会や出版物を通して、数々の元従軍慰安婦の証言が飛び出すようになった。こうした動きにともない、日本政府は本問題に対する具体的な対応を求められるようになったのである。
 だが本稿ではこれまで繰り返し述べてきたとおり、日韓両国の請求権問題は「財産及び請求権・経済協力に関する協定」によって「完全かつ最終的に解決された」のであり、従軍慰安婦問題に関する請求権を協定で定めた請求権とは別個にして認めることは、この協定の規定に違反することになる。したがって日本政府は、この問題に臨む際にまず、両国間の「請求権協定」締結の事実を十分に踏まえる必要がある。
 韓国政府が補償を求めない理由として「本問題は金銭だけで解決するものではない」、「(韓国政府は)真実が証明されないままに補償がなされれば、犠牲者が職業的売春婦とみなされることを恐れている」などの指摘(80)もあるが、韓国政府からの実質的な補償請求がないのは、韓国政府側もこの協定締結の事実を十分に認識しているからであるとみるべきだろう。
 ところで、当時日本が加入していた国際条約は、日本軍の従軍慰安所制度にある一定の制約条件を与えていた。
 1910年5月4日にパリで締結された「醜業を行はしむる為の婦女売買取締に関する国際条約」第1条は、いかなる事情があっても未成年に売春をさせてはならない旨を規定している。ここでの未成年とは満20歳未満を指しており、また第2条ではたとえ成年であっても強制連行(強制手段による勧誘・誘引・拐去)をした場合は犯罪になると規定されている(81)。1921年9月30日、ジュネーブで締結された「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」の規定でも、日本は婦人及び児童の売買に従事した者を捜査し、その処罰をするために必要なすべての措置をとるよう義務付けられていた(82)。これらの国際条約は、戦時中の従軍慰安婦の強制的な動員を到底許すものではなく、日本の当時の政策決定に対する少なからぬ制約要因となりえた。
 しかしながら、両条約は植民地に対して適用されるものではなかった。前者では第11条で植民地などに実施される際は文書をもって通告するとあり、後者では第14条において植民地などを除外する場合は、それを宣言することができることになっていた。日本は調印時に、朝鮮・台湾・関東租借地をその除外地域とすることを宣言している。つまり日本は国際条約の制限を受けることなく、朝鮮・台湾などから慰安婦を徴集することができたのである(83)。
 また本問題について、これをニュルンベルク国際軍事裁判所規約第6条C項に規定されている「人道に対する罪」を根拠に違法化しようという立場があるが、それはドイツ・ナチズムと日本の従軍慰安婦問題との比較・検討のうえで主張されなければならない議論であるといえる。この点については前に論じているので、重複する説明を避けるが、従軍慰安婦問題に関連してひとこと触れておくならば、ドイツ・ナチスのユダヤ人虐殺が「政治的、人種的もしくは宗教的理由に基づく迫害行為」であることは明白だが、日本人女性も含まれていた本問題を果たしてそのようなかたちで違法化することが可能かどうかは甚だ疑問である。
 ただし元従軍慰安婦の請求権については、日本の国内法上の国家責任という観点からひとつの問題提起がされうる。
 1991年8月の参議院予算委員会における、外務省条約局長の答弁については先に紹介した。それは「(「財産及び請求権・経済協力に関する協定」については)日韓両国が国家として外交保護権を相互に放棄したということで、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない」というものだった。すなわち国内法的な日本政府に対する請求権は、協定のいう「完全かつ最終的に解決された」ものではなく、国内法にもとづく国家責任を論じる余地はいまだに残されているというのである。
 金明基氏は、国内法上の国家責任と従軍慰安婦問題について「『国内法上の国家責任』とは、日本の国家機関が日本の国内法に依拠し、挺身隊を設置・運営した行為により被害を被った個人が、国家である日本を被告として日本法院に損害賠償を請求する場合、日本がこれに対し、日本の国家法により負わなければならない賠償責任をいう」としてる。また金氏は、国内法上の国家責任の成立条件として、国家機関すなわち「公務員」の行為があること、公務員の「職務上の行為」があること、職務上の行為が「違法」であることなどをあげている(84)。そこで以下、当時の日本の国家機関の従軍慰安婦問題への関与とその違法性について考えてみたい。
 陸軍省兵務局兵務課によって立案された「軍慰安所従業婦など募集に関する件」なるものがある。これは1938年3月4日、陸軍省副官通牒とし北支那方面軍・中支那派遣軍宛に出されたものであり、その要旨は「従業婦などを募集するにあたり、軍部の威信を傷つけ且つ一般民の誤解を招く虞のあるものや、誘拐に類し警察当局に取り調べを受けうるものなどがある。今後の募集には派遣軍が統制し、人物(業者)を選び適切に実施させる。関係地方の憲兵及び警察と連絡を密にする」というものである(85)。この文書は陸軍省が強制徴集の事実をつかんでおり、それを防止しようとしていたことを示す資料だが、このような指示は朝鮮・台湾になされていなかった。それを陸軍省の重大な義務違反であるとみる立場もある(86)が、当時の朝鮮・台湾においてそうした指示をすることが、陸軍省の義務であるというには根拠が乏しい。したがって、そこに重大な義務違反が存在するとは到底いえないだろう。またたとえその行為が義務違反だとしても、上記の国内法上の国家責任の成立要件としての「職務上の行為が「違法」であること」には該当せず、これを国家機関の国内法上の責任としてとりあげることはできない。
 さらに内務省警保局長が1938年2月23日に、各都道府県長官宛に通達した「支那渡航婦女の取扱に関する件」というのがある。その内容は「最近、支那の料理店、飲食店の営業に従事することを目的に支那に渡航する婦女が少なくなく、軍当局の了解を得たというような言辞を弄するものが各地に頻出している。婦女の渡航は現地の実情に鑑み、やむを得ずという特殊な考慮を要することが認められるが、婦女売買に関する国際条約や、その他軍の威信に影響を及ぼすようなことがあってはならない」といものである。さらに同文書には、「華北・華中方面に向かう者に限っては当分の間黙認する」一方、渡航婦女に対する一定の制限、取締を指示する内容が含まれている(87)。この資料についても「軍慰安婦などの「醜業ヲ目的トスル婦女」の渡航は、華北・華中に渡航する場合に限って、これを「黙認」するとの指示を出し、(内務省は)軍慰安婦送出に加担している」のであり、また「この文書は強制徴集を防止しようとしたものとみることができるが、同様の通牒が台湾・朝鮮で出されなかった」ということを問題視する立場(88)がある。しかしこの資料によって、日本の国家機関としての国内法上の責任論を展開することは到底できない。その理由は陸軍省の資料についてと同様、それを成立させる要件がそろっていないからである。
 千田夏光氏は『従軍慰安婦・正篇』のなかで、関東軍の後方担当参謀原善四郎少佐という人物との対話によって、1941年の北満における従軍慰安婦二万人動員計画についてあきらかにしようとしている。記述によれば「慰安婦募集は軍は総督府に依頼され実施された」、「七十万人の兵隊に二万人の慰安婦という数字は、日中戦争時の経験によって算出されたであろうものであり、しかし実際には八千人程度しか集まらなかった」など(89)、そこには慰安婦の募集過程での軍の関与が見え隠れする。しかしこの記述の信憑性には、大きな問題があることを指摘しないわけにはいかない。たとえばここに登場する原という人物が、自らを「関東軍司令部第三課所属」と紹介しているが、彼の経歴のなかにはそのようなものはなく、彼の任務からも総督府にまで慰安婦募集の依頼に出向くなどとても考えられない(90)。また慰安婦二万人(実際には八千人程度であっても)動員となれば、それなりの慰安所設備とそのための予算が必要となるが、当時の予算担当者は「当時の満州には慰安婦関係のことは業者がやっており、軍は関係しなかった」と述べているという(91)。
 ところで1993年8月4日、政府は慰安婦関係調査報告書とともに、次のような官房長官談話を発表した。

 「慰安婦の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧によるなど、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲などが直接これに加担したこともあったことが明らかになった」(92)

 政府は慰安婦の募集について、主として軍の依頼を受けた業者がおこなっていたとしながらも、公務員である官憲の直接的な関与を認めている。またその募集は「甘言、強圧によるなど、本人たちの意思に反して」なされたケースが数多く存在していたという。
 1910年の「醜業を行はしむる為の婦女売買取締に関する国際条約」第二条では「他人の情欲を満足せしむる為醜業を目的として詐欺により又は暴行、脅迫、権力濫用其の他一切の強制手段を以て成年の婦女を勧誘し又は誘引し又は拐去したる者は(後略)」となっている。これは婦女の強制連行を暴力、脅迫などによるものにのみ限定するのではなく、詐欺その他の強制手段によるすべてのケースが強制連行にあたると規定しているのである(93)。当然これに照らし合わせれば、政府のいうところの「甘言、強圧による」募集は強制連行であったことになる。日本は同条約に加入していたわけではないので、これを日本政府の責任を立証する根拠として扱うことはできない。
 しかし、こうした行為の存在を日本政府が認めるというのは、契約を一方的に強要し成立させたこと、つまり日本の国家機関の国内法上の責任を認めることにほかならない。すなわち日本は、この点について元従軍慰安婦側の請求権を否定することができないのである。
 しかし現実には、これにもとづく元従軍慰安婦側の勝訴は困難であると思われる。なぜなら、過去に従軍慰安婦が存在したことは事実であっても、原告をその従軍慰安婦であったかどうかの判断は、原告自身の証言によるしかなく、それを裁判所に認定させるのは至難であろうからである(94)。元従軍慰安婦たちの証言は、それぞれに悲痛な叫びであり、どれも真剣に耳を傾ける必要があるが、なかには誇張・偽証と思われるような部分もみられ(95)、これを法廷において、彼女たちを従軍慰安婦として規定する唯一の証拠とすることには、相当の困難がともなうであろうと考えられる。
 1995年7月、「女性のためのアジア平和友好基金」が発足した。この機関は、元従軍慰安婦への償いを行うための資金を民間から募金する目的で設立されたものであり、日本政府は事業費などについて一部を負担している。
 戦時中の軍隊の慰安所設置によって、悲劇を強要された人々がおり、その人々がいまだに過去を引きずってい生きているという事実を我々日本人は真摯に受けとめる必要がある。しかし上述のとおり、そのための政府の補償もしくは賠償という問題解決の手段は、いまや残されておらず、、ここにこのような機関が発足した意味は非常に大きい。この機関の設立について、日本政府が補償の責任を一方的に回避しようとするものであるとの非難の声もあるが、そうした見方ではなく、日本国民が民間で発足させた同基金の積極的な意味についてもう少し論じられるべきであろう。1995年6月14日、この基金の設立構想を受けた韓国外務部は「この間の当事者たちの要求が、ある程度反映された誠意ある措置」と評価する声明を発表した(96)。今後日本側としては、本問題に対する韓国側のさらなる理解を得るべく、真相の究明と、それを歴史の教訓として残すための一層の努力を払っていかなければならない。

 3.2 旧軍人・軍属への補償 << >> 3.4 原爆被爆者への補償 
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3.4 原爆被爆者への補償

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 原爆被爆者に対する援護法としては、1957年3月に制定公布された「原子爆弾被爆者の医療などに関する法律」と1968年5月の「原子爆弾被害者に対する特別措置に関する法律」があった。これがいわゆる原爆二法と呼ばれるものであり、この原爆二法は日本人と外国人の区別なく、つまり内外人平等の扱いによって「被爆者健康手帳」を交付させるという点で、前述の恩給法や戦傷病者戦没者遺族等援護法とは性格を異にしている。 「被爆者健康手帳」とは、その所持者が原爆による被害者であることを証明する、一種の身分証明書である。「原爆被害者に対する特別措置に関する法律」第三条では、「被爆者健康手帳の交付を受けようとする者は、その居住地の都道府県知事(その居住地が広島市又は長崎市であるときは、当該市の長とする。以下同じ)に申請しなければならない」としたうえで「被爆者健康手長に関し、必要な事項は、政令で定める」と規定している。1957年5月の厚生省衛生局長通知によると、手帳交付申請にあたっては当時の罹災証明書などを持参するか、もしそれがない場合は2人以上の証明書を、それもない場合には本人の申述書および誓約書を提出すべき(97)とされており、基本的には外国人被爆者も日本人被爆者と同様、手帳を取得できるようになっている。それでも現実には行政上の手続きの問題により、外国人被爆者への手帳交付はきわめて厳しい条件のもとおこなわれざるをえず(98)、内外人平等といっても「その居住地の都道府県知事」への申請であり、日本国外に出ていった人々への配慮はされていなかった。もちろん日本側のそのような配慮欠如は許されるべきものではない。
 先般から繰り返し述べているとおり、日韓両国は1965年の協定の締結により請求権問題を「完全かつ最終的に解決」した。このことは両国政府が認めているところでもあり、法的にも条文を読んで字のごとくである。ゆえに原爆被害者問題についても、日本政府は「日韓協定によってすでに解決済み」という立場をとってきている(99)。
 しかし原爆被害者への援護法の適用範囲に関しては、他の問題と同様に同協定の効力を主張することはできないだろう思われる。在韓被爆者については1968年10月、「韓国被爆者救援日韓会議」が在被爆者が治療のため来日した際の被爆者手帳の交付運動を展開することなどを決議しており(100)、1978年には不法入国して原爆被爆者健康手帳の交付を要求した在韓被爆者に対し、最高裁判所は「外国人でも日本国内にいる限り救済すべきであり、それが現行の原爆関係二法の精神である」との判決を言い渡した(101)。この最高裁の判断は、日韓協定による請求権問題の解決をそれはそれとして認めたうえで、原爆に二法に関しては在韓被爆者への救済措置の妥当性をある程度認めるべきであるというものであった。
 1995年7月1日、新しく「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)」が施行された。同法は従来の原爆二法を一本化し、国の責任において総合的な援護対策を講じることをその目的として制定されたものである。もちろん被爆者手帳の手続きについては、これまで通り「都道府県知事は、申請に基づき、被爆者健康手帳を交付するものとすること」と規定しており、その適用対象から外国人を特別に除外するといった措置はなされていない。ゆえに1978年の在韓被爆者に対する最高裁の判断は、そのままこの法律にも適用できるのであり、日韓協定の有効性は主張されえない。
 ところで同法にもとづく一連の措置は、日本の戦争責任に根拠をおく国家補償ではないという議論がある。法案調整当時の野党や被爆者を中心とする勢力が、援護法の前文に「国家補償」の表現を盛り込むことを強く求めていたところに、その主張は端的にあらわれているといってよい。
 1980年12月に原爆被爆者対策基本問題懇談会が出した「原爆被爆者対策の基本理念及び基本的在り方について」は、以下のように報告している。

 「国家補償の見地に立って考えるというのは、今次の戦争の開始及び遂行に関して国の不法行為責任を肯認するとか、(中略)アメリカ合衆国に対して有する損害賠償請求権の平和条約による放棄に対する代償請求権を肯認するという意味ではなく、(中略)原爆被爆者が受けた放射線による健康損害すなわち「特別犠牲」について、その原因行為の違法性、故意、過失の有無などにかかわりなく、結果責任(危険責任といってもよい)として、戦争被害に相応する「相当の補償」を認めるべきだという趣旨である。(中略)原爆被爆者に対する対策は、結局は、国民の租税負担によって賄われることになるのであるが、(中略)「特別の犠牲」というべきものであるからといって、他の戦争被害者に対する対策に比し著しい不均衡が生ずるようであっては、その対策は容易に国民的合意を得がたく、かつまた、それは社会的公正を確保するゆえんでもない。(中略)なお、一部に被爆者対策の内容は、旧軍人軍属などに対する援護策との間に均衡のとれたものとすべきであるという声がある。(中略)旧軍人軍属などに対する援護策は国と特殊の法律関係にあった者に対する国の施策として実施されているもので原爆被爆者を直ちにこれと同一視するわけにはいかない」(102)。

 すなわち今日、「原爆放射線による健康上の障害」により、なんらかの救済問題が必要とされているので、国がそのための対策を講じなければならないという責任については認めるが、その原因をつくりだした戦争責任については肯認するものではないというのである(103)。さらに原爆被爆者に対して、恩給法のような国家補償がなされない理由として、原爆被爆者には軍人軍属のような国との法律関係がなかった点をあげている。
 このため被害者援護法の前文においても、給付は国家補償賠償としておこなわれるものではなく、ただ「国の責任」においてなされるものであると記された。このような「国家補償に基づく援護法」が達成されなかった理由としては、原爆被害者には国との身分関係がなかった(身分関係論)、一般戦災者と原爆被害者との補償均衡(均衡論)、法律論として、戦争によって国民が被った「一般の犠牲」についての救済の道はない(受認論)などがあげられる(104)。
 しかし1978年3月30日の最高裁判所の判決は、原爆医療法について以下のように指摘している。

 「原爆医療法は、(中略)いわゆる社会保障法としての他の公的医療給付立法と同様の性格をもつものであるということができる。しかしながら(中略)原爆医療法は、このような特殊の戦争被害について戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかるという一面を有するものであり、その点では実質的に国家補償的配慮が制度の根底にあることは、これを否定することができないのである」(105)。

 たしかに被爆者援護法の前文に「国家補償」は明記されなかったが、その精神はこの原爆医療法を受け継いでおり、その意味で原爆援護法は「実質的に国家補償的配慮が制度の根底にある」ということができる。
 それゆえに被爆者援護法は、実質的には国家補償的役割を果たしている法律なのであり、日韓関係のなかでの原爆被爆者問題は、今後も日本政府が戦後補償問題として取り扱っていかなければならない重要な課題であるということができる。

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