常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

ケンシロウに物申す

2008年01月31日 | 独り言

実は「北斗の拳」の主人公、ケンシロウには昔から言いたいことがあった。
「少しはラオウやシンを見習ってくれ」

ラオウやシンは、人々を暴力で支配しようとする不届き者ではあるけれど、きちんと自分たちの軍隊を編成して、秩序を保った集団(王国?)を作り上げていた。彼らは、常に組織立った行動をすることで、自分たちの主義や思想に実現力を持たせていたと思うのです。それに対して、ケンシロウは一匹狼を貫き通す。ケンシロウが現れた街では、一時的に平和が訪れるかもしれないけれど、彼の集団や王国があるわけではないから、せっかくケンシロウが救った街でも、ケンシロウが去ってしまえば、常に悪党どもに狙われてしまう危険と背中合わせの状態となってしまう。これでは、いつまでも経っても真の平和は訪れないと思うのです。

それからもうひとつ。
「人を殺しすぎ・・・」

ケンシロウほど強ければ、相手を殺さずともその強さを誇示することで、十分に服従させることはできるし、心服させることだってできたはず(アインみたいな感じかな・・・)。モヒカン姿の雑魚キャラたちにだって心はある。彼らに対して圧倒的な強さと優しさと寛容さを持って接してあげていたら、ケンシロウを慕って、ケンシロウのために命を投げ出そうと思う雑魚キャラだって、もっとたくさん出ていたはず。その繰り返しによって、もっと平和的な解決ができたと思うし、上記のような「ケンシロウ軍団」が出来ていたと思うのです。ラオウに対して、涙を流しながら拳を振るっていたけれど、他の弱い雑魚キャラにだって、そうすれば良かったのに・・・。

いくら悪人でも、怒りに任せて殺しちゃいけませんぜ。これからの時代、ヒーローのカッコ良さは戦わないところにあるはずなのじゃっ!

今日の「新時代ヒーローへの期待」では、そんなことも考えました。

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新時代ヒーローへの期待

2008年01月31日 | ヒーロー&アニメ

この時期、日曜朝のテレビ朝日系「スーパーヒーロータイム」では、番組の入れ替えが行われています。「仮面ライダー電王」が終わり、つい先日から「仮面ライダーキバ」が始まりました。そして間もなく「ゲキレンジャー」が終わって、「ゴーオンジャー」が始まります。このスーパーヒーロータイムに限らず、子供番組のヒーロー(あるいはヒロイン)モノでは、正義のために悪を倒す(殺す)ストーリーが展開されます。しかし私は、これまでのヒーロー番組のこうしたストーリー展開には、そろそろ限界が近づいてきているのではないかと思います。

スーパーヒーロータイムの番組で言えば、「ゴーオンジャー」は、いわゆる「スーパー戦隊モノ」というジャンルに属しており、その元祖は、30年以上前の「ゴレンジャー」です。「仮面ライダーキバ」は、言うまでもなく「仮面ライダーシリーズ」であり、初代仮面ライダー(1号)は、1971年にテレビデビューしています。つまり、こうしたスーパーヒーローモノは、既に30年以上も「正義のために悪を倒す(殺す)」というストーリーを展開しているわけです。もちろんCGを駆使したり、ストーリーに深みを持たせたりという工夫がされており、そういう意味で、こうした番組は、間違いなく質を上げているし、進化を遂げていると思います。しかし、時代が刻々と移り変わっているなかで、「正義のために悪を倒す(殺す)」という、ストーリーの本質は変わっていないのです。

ここに疑問を呈する余地はないという意見もあるでしょう。「正義のために悪は倒されなければならない」。それはそれで、正しいことだと思いますが、しかし、これからの時代、私はヒーロー番組が「罪を憎んで人を憎まず」的な要素を根本から取り入れていく必要があると思いますし、実際にそうした流れが少しずつ生まれつつあるのではないかと考えます。

「人を苦しめたら、苦しめられるという罰を与える」、「人を傷つけたら、傷つけられるという罰を与える」、「人を殺したら、殺されるという罰を与える」。こうした考え方が、間違っているわけではないと思います。実際に、これまでの世界は、少なからずこうした原理原則によって、秩序が守られてきたという事実があると考えます。しかし、ネガティブな行為に対して、ネガティブな罰を与えることは、必ず社会や世界にネガティブな要素(憎しみ、恨み、怒り)を残します。こうしたネガティブな要素は、憎しみの連鎖を生み、さらにそれが加速化していくことで、内紛や戦争を引き起こしたりするというのが人類の歴史であり、これを繰り返している限り、いつまで経ってもその収束や平和は訪れないのではないかと思うのです(しかし私自身、現時点で、即死刑制度を廃止すべきと主張するような、いわゆる「死刑廃止論者」でもありません。上記の通り、「死刑制度」によって、これまでの秩序が守られてきたことは、事実であると考えています)。

そこで考えなければならないのは、「心の強さ」であると考えます。人間の心のなかには、「善」と「悪」が共存しているため、事の大小を問わず、必ず悪事を働きます。それが他人にどれだけの迷惑を及ぼすかという問題は別にして、必ずそうした行為を伴いながら生きているのが人間です。そうした世界にあって、加速化しているネガティブな連鎖を断っていくため、または人間の心に潜む「悪」の部分だけを消滅させるためには、それらの悪事に耐えて、赦すことの「心の強さ」が、これからの時代に求められているのではないかと思うのです。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は、悪事を働いた人の罪はけっして赦すことはなく、しかしその人そのものは赦してあげるという寛容性を表しているのだと思います。これからの時代、罪は罪として償う必要があるにせよ、それを犯してしまった人にも「心」があり、その人が深く反省したときに、真の償いをするようになると信じて、耐え忍び、赦すことの強さの重要性が増していると考えます。

「スーパー戦隊モノ」にしても、「仮面ライダーシリーズ」にしても、基本的には悪事を働いた者共を倒す(殺す)ストーリーになっていますが、次の時代に向けては、ストーリーの本質的な部分に、こうした要素を積極的に取り入れてもいいのではないかと考えるのです。

ただし、もちろん今までの番組のなかにも、人(あるいは悪役)を殺さないストーリーや要素が存在しているのも確かです。「仮面ライダー龍騎」では、「戦わなければ生き残れない世界」のなかで、戦って相手を殺すことを拒絶する主人公(龍騎)が活躍しました。もうすぐ最終回を迎える「ゲキレンジャー」では、悪の大ボス・理央が自分のやってきたことの虚しさに気付き、改心するストーリーになりつつあります。先日の「Yes!プリキュア5」の最終回では、悪の大ボス・デスパライアが自分のやってきたことの過ちを認め、自分を封印することをプリキュアに懇願し、(殺されずに)封印されて終わりました。このように悪役が、自分の犯してきた罪に気付き、殺されずに済むストーリーが徐々に増えてきたのは確かだと思います。私はこうしたストーリー展開を全ての悪役、いわゆる「雑魚キャラ」に対しても適用していくことが、これからのストーリー作りにおいて、大切なことではないかと思うのです。

これまでのヒーロー(あるいはヒロイン)は、けっして戦いそのものを好み、楽しむような人々ではありませんでした。必ず戦いのなかで「心の葛藤」、「哀しみ」や「悩み」を抱えている人々だったと思います。これからの時代では、それをさらに一歩進めて、そうした「心の葛藤」に打ち克ち、雑魚キャラにも常に優しく、徹底して「戦わないヒーロー」が出てきてもいいのではないかと思うのでした。

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確からしい四次元の存在

2008年01月31日 | 異次元

私たちは、目の前にある物理的な事象について、「確からしい」と思われる法則を生み出し、それによってそれらの事象を説明し、理解しようとしています。「厳密に言うと、飛行機が何故飛ぶかは、よく分かっていない」ということが言われたりもしますが、科学の世界は突き詰めていくと、訳が分からないことだらけになってしまうのです。ただ少なくとも「正しいと思われる理論(つまりは仮説)」に基づいて、目の前で飛行機が飛んでいれば、ひとまずその理論(仮説)は「(極めて)確からしい」ということになり、一般的な常識として定着するわけです。私たちは、こうした「確からしい」ことの積み重ねによって、科学や常識を作り上げてきました。

一方で、最近の科学では、私たちが認知している物質世界である三次元よりも、高い次元が存在するという可能性について指摘されるようになりました。つまりこの世界には、三次元だけでなく「四次元世界が存在する」という仮説を立てることができるわけです。ただし、これは現時点において「確からしい仮説」ではありません。したがって、現在では常識として、とても定着しているものではありませんし、一般的な感覚としても理解を超えた仮説になっていると思います。しかし私は、一般的な感覚として、それほど無謀で、デタラメな仮説でもないように思います。

四次元世界が存在するということについて、もう少し分かりやすいレベルで説明しようという意味で、いわゆる「超常現象」をもって、証明しようとする試みがなされたりします。つまり超能力や心霊現象等、現代科学では説明できない事象から、世界は目に見える物質世界・三次元だけでないだろうという結論を導こうとするものです。これはこれで、ひとつの説明方法だと思いますが、あまり私たちの日常生活に結びついているものではありません。したがって、一般的な感覚としてなかなか理解されず、こうしたアプローチによる広い支持は得られないのだろうと思います。

ところで私は、この物質世界は三次元の法則だけでは、動いていないということは確かだろうと思います。世界に四次元が存在するとするならば、その四次元世界は三次元世界に何らかの作用を及ぼすでしょう。そうした、四次元から三次元への作用を説明することで、四次元世界の存在は、より一般的な感覚として認知できるようになるのだと思うのです。少々、分かり難いでしょうから、簡単な例を挙げたいと思います。

「たった今、一番近くにいる人を何も言わずに殴ってください」

これは物理的に可能なことだと思います。あなたがどこに、どういう状態でいるかは分かりませんが100%可能なはずです。たとえ今、周りに人が見当たらなくても、適当に歩き回って人を見つけて、有無を言わさず、いきなり殴ればいいだけのことです。三次元の物理的な法則だけを考えれば、まったく不可能である理由は存在しません。

しかし、あなたにはそれができないでしょう。それは、あなたに心があるからです。心は目に見えません。三次元の物質世界において、可視化させることができない心は、高次元の存在(ひとまず、ここでは「四次元の存在」としておきます)であると言えます。そして、その心があることによって、三次元の物質世界において、「いきなり人を殴る」という行動を制しているのであれば、四次元からの作用によって、三次元世界が影響を受けていると言えるわけです。それは「その人が可哀相だから」というような、いわゆる良心だけに限りません。「面倒くさい」、「バカバカしい」と思うことも含めて、全てが心の作用であり、「あなたが人を殴らない」という三次元の状態は、目には見えない四次元世界の結果が三次元世界に「表面化したかたち」と考えることができるのです。物質世界のなかの私たちの日常は、こうしたことの連続で成り立っています。単純に物理法則のみで考えれば、可能であることでも、四次元の存在である心の作用が働くことで、それらが不可能になるということは、多くの人々の日常生活のなかに、ありふれた経験としてあるはずです。

こうした四次元による三次元への影響は、けっして無視することができません。この物質世界は生命に満ち溢れています。それら生命の一つ一つには、必ず心が存在します。その無数の生命の営みによって、この物質世界が動いている以上、物質世界である三次元世界は四次元世界の影響を大きく受けていると言えるわけです。

三次元世界の事象を三次元の法則によってのみ解明しようとするところに、現代科学の限界があります。また三次元世界との整合性を十分にとらないまま、四次元世界に傾倒してしまうところに、これまでの宗教の限界があります。これからの時代で大切なことは、四次元からの三次元への作用、また逆に三次元から四次元への作用があるということを認め、それらをきちんと融合させていくことなのだと思います。

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声優をナメちゃいかん

2008年01月30日 | 独り言

「映画連携」の効果と限界」という記事を書きましたが、最近のアニメ映画(アメリカのCG映画等も含む)では、著名人が声優をするケースが多いように思います。これには業界の事情があるのは分かるし、著名人のなかでも声優の才能がある方もいるとは思うのですが、正直、キツイものは相当キツイ。

至って個人的な趣向ですが、プリキュアMHの劇場版では、EDテーマを歌っているある著名人が、「希望の園の女王」の声を担当しています。ストーリー的に女王の出番が少ないため、多少目をつぶっていられますが、正直ガックリ。「北斗の拳・ユリア伝」では、サブメインであるべき「ユリア」の声が、これまたテレビで有名な人になっている。こっちは準主役で登場するため、作品全体に与える影響大で、相当応えます。

そもそも実写版で活躍している俳優や女優と、アニメの声優では演技のポイントが異なると思うのです。

よく「見た目が重要」等と言ったりしますが、実写版の場合には、視覚情報で多くのことを判断します。視聴者は、登場人物の感情を「目つき」や「口元」等、顔からの視覚情報を頼りにして、そこから多くを読み取ろうとするため、いわゆる「俳優」や「女優」は、そういうポイントを押さえた演技をしています。

これに対してアニメの場合、視覚情報は限定的になります。もちろん、アニメなりの表情はつけますが、実写版に比べると、極めて限られた情報しか与えられません。したがって、声優はそれらを十分に補うだけの演技を声によって行います。「ラジオドラマ」等は、まさにそういう才能が織り成す芸術だと思うのです(反対に実写版の「洋画」に、声優の演技が入った声が吹き込まれると、多少くどいような印象を与えるのは、そのせいであるように思います)。

偉そうになってしまいますが、アニメ制作に携わる方々には、こうした点を絶対に忘れないでいただきたいと思うのです。業界の諸事情はあるでしょうが、アニメにおいては、声優の演技が極めて重要なのです。

セーラームーン(無印)の最終回は、うさぎ役の三石琴乃さんが入院のため、別の方が担当していました。後に、退院された三石さん版の最終回シーンが出されていますが、放映された「オリジナル最終回」と、後に出た「三石版最終回」では、うさぎのイメージがまったく違います。どちらが良いというものではありませんが、明らかにキャラクターが変わっています。

「オリジナル版うさぎ」は、仲間が次々と死んでいくなか、もう絶望しかかっています。絶望的な状況のなか、諦めムードが出てしまっているのです。「銀水晶をあげるから、美奈子ちゃんを放しなさいよ!」という台詞。「オリジナル版」では、ほとんど降伏宣言に近いイメージになってしまっています。

一方の「三石版うさぎ」は、全然諦めていない。絶望しかかっているけれど、まだ「やってやる!」という主人公らしい覚悟がにじみ出ている。「銀水晶をあげるから、美奈子ちゃんを放しなさいよ(欲しいモノはやるから美奈子を放せ!その代わりお前は絶対に許さない!)」。同じ台詞ながら、そんな強いニュアンスをにじみ出させるのは、間違いなく声優の才能です(正直言って、三石さんのこの声演技は泣けます。ちなみに「オリジナル版」を担当していた荒木さんについては、そもそもその三石さんに代わって演技をするという時点で、ものすごい演技だったと思います)。

テレビの著名人は、あくまでもテレビの著名人。声優という職業や才能は、それとは別個に存在しているということについて、純粋に敬意を払っていただきたいし、払っていかなければならないと考えます。そしてそのように「声優」という職業や才能をきちんと尊重してこそ、たとえ無名でも、才能ある新しい声優さんたちが、次々と育っていくるようになると思うのです。

いずれにせよ、そういう意味で標題の一言。「声優をナメちゃいかん」のです。

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「映画連携」の効果と限界

2008年01月30日 | 産業

テレビというのは、今でこそマスメディアの王様ですが、テレビが登場した当時、テレビ(受像機)を売るのも、コンテンツ(番組)を制作するのも、本当に大変だったといいます。例えば、コンテンツを制作するにしても、当時の俳優というのは、基本的に映画会社の所属になっており、なかなかテレビコンテンツの制作には関わってもらえなかったようです。当時のテレビ業界の方々は、そうした既存の映画俳優、いわゆる「銀幕スター」を起用しない独自の制作体制でコンテンツを生み出してきました。テレビの受像機というハードウェアの普及はもちろんですが、コンテンツ制作に纏わるこうした苦難の道は、既存メディアが新しいメディアを乗り越えるためのひとつの試練だったのでしょう。そしてテレビ業界は、見事にそうした試練を乗り越えて、今のような「マスメディアの王様」としての地位を確立したと思うのです。

ところで、近年の急速な「多様化」のなかで、テレビは次第にその影響力を落としつつあるのではないかと思います。社会が発展し、各種インフラが整備されることによって、人々はいろいろな楽しみを享受できるようになりました。交通インフラが発達したことで、人々は気軽に遠出したり、旅行したりできるようになりました。物流インフラが発達したことで、人々は気軽にCDやDVDを買ったり、借りたりすることができるようになりました。施設インフラが整備されたことで、人々は気軽にスポーツを嗜んだり、アミューズメントパークで遊んだりできるようになりました。こうした社会インフラの発達とライフスタイルの多様化は、相互作用を働かせながら急速に広がり、人々にテレビ以外の楽しみを提供するようになったわけです。

それだけでなく近年では、ネットワークやデジタル技術の発達により、これまでテレビ業界が築き上げてきた宝でもある「コンテンツ」の領域そのものにまで、「多様化」の波が迫っているのではないかと思います。ネットワークやデジタル技術の発達は、テレビの「チャンネル」や「時間(放送の時間帯や番組の長さ)」という制約から視聴者のみならず、クリエイターまでも解放することとなり、業界全体を大きく揺さぶる可能性があるのです(「コンテンツ制作体制の未来」参照)。このことは、単に「ライフスタイルの多様化」だけでは済まされない、テレビ業界の根幹を揺るがす現象であると認識しなければならないと考えます。

このような社会インフラや技術の発展による視聴者離れについては、テレビの放送技術が基本的に「片方向」性であり、また「チャンネル」や「時間」に制約されざるを得ないという点において、克服することが非常に難しいと考えています。そして、これからのコンテンツのあり方や未来を考えたとき、テレビ業界の方々は、これまでの「放送」という言葉や技術に囚われず、いかに視聴者・一般の方々に楽しんでもらえるかという視点にこだわり、積極的に通信技術の双方向性を認め、それを極限まで活用するという選択が必要なのではないかと考えます(「共有という楽しみ方」、「通信と放送の融合」参照)。この際、通信側にいる方々も、テレビ業界で培われてきた著作権や秩序(公序良俗)を守る術等を積極的に学んでいく必要があるでしょう。こうしたことの先に、将来の「通信と放送の融合」は達成されると思います。

ただし、現在のように「通信」との融合が、きちんと達成されていない放送、テレビ業界の現状においては、その他の方策についても、いろいろな試みがなされています。それらが、どれだけ長続きするかはともかく、現時点で必要なのでしょう。そのうちのひとつが「映画との連携」です。

最近の人気アニメーションや子供向けのテレビ番組は、まず間違いなく映画化されます。これはこれまでの広告モデルでは、以前に比べて、番組継続が難しくなってきたというテレビ業界の事情を推察するに、当然の流れでもあるとも思います(「仮面ライダーと商業主義」参照)。これでテレビ業界が潤って活性化し、さらに良いコンテンツ制作を続けることができるということであれば、それは良いことです。

ただし最近では、そうした「映画連携」の動きが、コンテンツ制作そのものに大きな影響を及ぼし始めているように思います。顕著な例では、昨年夏の「仮面ライダー電王」です。「仮面ライダー電王」は、つい先日まで、毎週日曜日の朝に放送されていたテレビ番組ですが、昨年、子供たちの夏休みの時期に合わせて映画化されました。昨年の7月頃、日曜日の「仮面ライダー電王」のCMには、この映画に関するものが多く流されていました。昔のように100円するかしないかの文房具のCMを流すよりも、着実に単価1000円以上で、リーチターゲットも完全に一致している映画のCMは、スポンサーに対してもかなり説得力ある効果が期待できただろうと思います。また視聴者としても、そういう映画があるということを知らせてもらえるのは、ありがたいことだと思うのです。

しかし、これには大きな問題があったと思います。昨年7月の日曜朝の「仮面ライダー電王」のストーリーは、少々おかしな展開になりました。観ていてしっくりこないし、ちょっと理解を超える展開が数話続くのです。実は、これらは8月に公開される「映画」のストーリーと繋がっていて、それを理解するためには、「映画」の仮面ライダー電王を観ないといけなくなっているのです。こういうことは、今まであまりなかったと思います。多少、本編の理解を促す内容(外伝等)の映画はあったかもしれませんが、そもそも映画を観ないとストーリーが分からない内容を、テレビ番組の本編に、しかも数話続けるというのは、ちょっと奇異な感じがしました。

ビジネスロジックは大切ですし、利益を上げなければならないという商業主義は否定すべきではありません。しかし商業偏重主義になって、本来力を注ぐべき純粋な「コンテンツ」の世界に、そのロジックを混ぜ入れてしまうのでは、本末転倒になってしまいます。

テレビ業界を守っていくために、「映画連携」が必要なのであれば、それは大いに結構なことだと思います。しかし、テレビコンテンツそのものが、「映画館誘引のためのコンテンツ」、あるいは「映画のための巨大なCM」に化けてしまっては、いずれコンテンツは腐ってしまうのではないかと危惧します。

「映画連携」については、映画の声優起用等についても、少々心配なことが起こっています。最近の映画では、アニメーション等の声優に、有名なテレビ俳優(女優)やタレントを起用することが目立っています。それらは、名前や顔が売れていない声優を起用するよりも、映画の宣伝効果があるという意味において、ビジネス的に機能しているのだと思います。しかし業界の方々は、そのことと本来あるべき「良質の映画制作」とが相反関係になり得るということに、十分注意を払う必要があります。

放送技術、それに基づいたテレビ塔や受像機等のインフラ、さらにはそれらを活用したビジネスとしての広告モデルというテレビ全体の仕組みによって、これまで私たちは多大な楽しみを与えられてきました。しかし、これらは永続的に存在するわけではありませんし、社会の流れによって、大きく変わっていくことになります。現在、それらの限界を乗り越えるための様々な施策が試されていますが、一方でそれによって、絶対に忘れてはならないものまで、歪められてはならないと思うのでした。

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コンテンツ制作の裾野

2008年01月29日 | 独り言

新海誠氏の作品をいくつか観ました。まず、新海氏の才能に脱帽。度が過ぎるほどに綺麗なアニメ。作画だけで、十分に芸術作品だと思います。それから、同時に思ったことは、アニメ制作のための障壁が、着実に下がってきたらしいということです。2002年に公開された「ほしのこえ」は、新海氏が監督、脚本、演出、作画、美術、編集等、ほとんどの作業を一人で行ったといいますが、そのクオリティの高さは異常。2007年の「秒速5センチメートル」にしても、スタッフの数の少なさはあり得ない。昔では、絶対に考えられなかったことだと思います。

実際、テレビの業界が生まれた頃、テレビ番組の制作は、高価な機材や高度な技術を必要とし、極めて特殊な人々に限られていた分野だったのでしょうが、最近では事情が相当変わってきたと思います。例えば、アニメ制作については、元請けと下請け(グロス請け)の制作体制が確立しており、アニメ制作の現場は、大きく下請け会社に移っています。それら下請け会社のうち、実力があるいくつかの会社が元請けをするようにもなってきており、アニメ制作の裾野は、着実に広がってきていると思うのです。これからは、従来の元請け会社の有名無実化が進み、むしろ下請けをしているような会社の方に、コンテンツ制作に必要な才能が集中し、総合的な「コンテンツ制作力」が形成されていくのではないかという思いすらします。また、クオリティの差こそあれ、コンテンツの制作については、現在のPC、ソフトウェア、ネットワーク等の普及により、アマチュアでも活躍できる時代になってきているだろうというのは、「ニコニコ動画」を見ても感じることです。

このようにコンテンツ制作の裾野が広がり、実際に、そういう才能が表に出始めているというのは、これからの日本(産業の活性化)にとって、非常に大切なことだと思います。その意味合いについては、別途整理したいと思います。

いずれにせよ、新海氏の作品のインパクトは、私にとって「驚き」でもありながら、時代の流れの「再確認」でもあったのでした。

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日本建国史の再考

2008年01月29日 | 日本

現在の日本史観は、8世紀に編纂された古事記や日本書紀の上に成り立っています。そのうち日本書紀は、日本における最古の正史であり、当時の日本の政権が正しいと認めたものです。ところで、何故この時代に正史が編纂されたのかという点については、少々考察する必要があるのではないかと考えます。

一般に「正史」は、その語感もあり「これは正しい歴史書である」というイメージを与えてしまっています。そのため、そこには深い疑念を抱いたり、それに対して突っ込んだ検証をしたりということが、十分になされていない可能性があります(一部でそうした研究が進んでいると認識していますが、まだ学界全体でみると、ごく一部の動きに過ぎないのではないかと考えます)。つまり、その書物に何が書かれているかという研究ではなく、そもそも正史が何故、どういう理由で編纂されたのかということまで踏み込んだ研究が、不十分である可能性があるということです。

以下、日本史を根底から考え直すきっかけを提供するという意味で、私の仮説を述べておきます。これはあくまでも仮説であり、現時点において、すべてが証明されているわけではありませんが、今後、学術的な視点から、検証がされうる可能性がある問題だと考えています。

まず私の仮説に入る前に、そもそも正史とはどういうものかについて考えていく必要があります。例えば、中国では数多くの正史が出ています。ご存知の方も多いかもしれませんが、中国の正史は、王朝が変わるたびに編纂されています。正史の編纂には、いろいろな理由があると思われます。純粋な「歴史の記録」のためという理由もあるでしょう。しかし、正史の編纂には、それをまとめる王朝が自らの正当性や正統性を強調するための道具に使ったという側面があることも見逃してはならないと思います。

中国では、王朝交代毎に正史を編纂することが、国家の事業となっていました。新しい王朝が興ると、旧王朝時代の出来事を「正史」というかたちでまとめていくわけですが、ここに新しい王朝の意図が働きます。つまり、旧王朝時代の記録をまとめながらも、旧王朝に対して、自らの統治がより正しいことを示すために、正史編纂の事業が利用されてしまうわけです。ここに「正史=正しい歴史書」とのみ見ることの危険性が潜んでいます。特に中国の場合、正史により自らを正統化しようとした王朝に対して、さらに新しく興った王朝が正史をまとめるといった繰り返しがあったため、正史が新しい王朝の正統性を示す道具に利用された側面が強かったかもしれません。

いずれにせよ、このように正史には、それを認めた政権にとっての「正しい歴史書」にしようとする側面があるため、単に「正史=正しい歴史書」とのみ捉えることには危険が伴っているということを十分に認識しておかなければなりません。

これまでの日本史観については、こうした側面における考察が十分でない可能性があるため、ここでは敢えて、そうした可能性に焦点を絞った仮説を立てておきたいと思います。

それは端的に言うと、「大化の改新時に天皇が受難している」というものです。もちろん、現代の一般常識においては、とても受け入れ難い仮説でしょうが、ひとまず本仮説について、以下、簡単にポイントだけをまとめておきます。

①大化の改新
 大化の改新とは何かについて、あらためて詳述する必要はないと思いますが、一応基本事項だけ記しておくと、645年に中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足が、当時、権勢を振るっていた蘇我入鹿を討ち、さらにその直後に蝦夷が自害することで、蘇我氏が滅亡した後に実行された政治改革のことです。

②史書の焼失
 大化の改新以前、聖徳太子や蘇我馬子が編纂した「国記」や「天皇記」といった歴史書が存在していたといいます。しかし、これらは蘇我蝦夷邸が焼かれたときに、焼失されたということになっています(焼失していない、あるいは一部現存している可能性がある等の説がありますが、少なくとも、国記や天皇記そのものを基にした日本史観というものは、現在のところありません)。

③正史の編纂
 日本最古の正史は「日本書紀」になります。日本書紀は、神代(神話の時代)から持統天皇までを扱っており、720年に成立しています。持統天皇は天智天皇の娘にあたり、彼女を支えたのが中臣鎌足の息子であり、実質的な藤原氏の祖でもある藤原不比等です。

この①~③の一連の大事件・大事業には、中大兄皇子(天智天皇)-娘の持統天皇(日本書紀の最後を飾る人物)、中臣鎌足-息子の藤原不比等が登場しています。そして、これらの間には「国記」や「天皇記」の焼失といった事件が起きているのです。ここには、非常に大きな権力交代があった可能性が潜んでいると思います。

余談ですが、天智天皇と持統天皇の間には、「壬申の乱」でも有名な天武天皇がいますが、私はいわゆる天智系と天武系は対立関係にあり、持統天皇は天武天皇の妻でありながらも、天智天皇の娘であり、天智系に属していたと考えています。天武朝では陽の目を見なかった中臣氏は、天智朝の持統天皇に重用され、力を持つようになったのではないかと推察しています。

いずれにせよ、天智天皇(及び血縁者)と藤原氏は①大化の改新、②旧史書の焼失、③正史の編纂という日本古代の一連の大事件・大事業に関わっていることは事実だと思います。

そして以下が、私が考える日本建国以降、正史編纂に至るまでのストーリー(ポイント)です。

(1)建国:出雲朝(大国主大神)による建国
(2)討伐:出雲朝の九州(邪馬台国)討伐
(3)反乱:大和における出雲朝に対する反乱
(4)鎮圧:九州からの大和鎮圧(いわゆる「神武東征」)
(5)再建:出雲系大和朝の樹立(いわゆる「神武朝」の始まり)
(6)反逆:出雲系大和朝の滅亡(いわゆる「大化の改新」)
(7)書換:史書の処分、正史の編纂

以上、非常に単純化した整理になっていますが、先に述べた①大化の改新~③正史の編纂は、上記(6)反逆~(7)書換に対応するものであるというのが、私の仮説になります。この仮説の検証は、とても本ブログでやりきれるようなものではありませんので、ひとつひとつの検証については、別途学界関係者の方々に譲りたいと思います。ただ本仮説が、何の根拠もなく設定されているわけではなく、私なりにさまざまな「日本史の謎」とされるポイント等を含め、克服できるように考慮しています。全てを挙げることはできませんが、例えば、本仮説によって、以下のようなポイントを説明できるようになる可能性があると考えます。

①出雲の特殊性
 日本の神話によると、出雲大社の大国主大神は天照大神に先んじて国を造り、最終的に天照大神に国を譲った神様となっています。そういう意味で、もともと出雲の大国主大神は本当の日本建国の神様であり、他の神様に比べて、極めて特殊であると言えると思います。日本全国において「神無月」と呼ばれる10月を、出雲だけは「神在月」と呼ぶといったことは、そうした特殊性に裏付けられている可能性があると思います。

②天照大神と春日大社
 天照大神は国を譲り受けていますが、この神様は女性ということになっています。持統天皇も女性です。また藤原氏の氏神が祀られているのは春日大社ですが、そこでは第一殿に武甕槌命、第二殿に経津主命(第三殿は天児屋根命、第四殿は比売神)が祀られています。武甕槌命や経津主命というのは、日本神話において、天照大神の命を受けて、出雲に対して国譲りの交渉をしている神々です。これら天照大神と春日大社の神々(プラス「大国主大神」)の関係を、持統天皇と藤原氏(プラス「受難した出雲系天皇」)といった構図で重ね合わせて検証していくと、新しい発見がなされる可能性があります。例えば、現在のように「国造り」をした大国主大神(出雲大社)より、「国譲り」を受けた天照大神(伊勢神宮)の方が、神話等を含めて、扱いが上になっているといったこと等を説明できるかもしれません。

③聖徳太子の不思議
 聖徳太子は大化の改新以前の日本において、冠位十位階や十七条憲法を制定する等、古代日本国家の形成に比類ない功績を残しています。しかし一方で、出生に纏わる不思議な話や超人的な伝説、天皇即位説、さらにはその実在性すら疑問視されるといった大変不思議な人物です。また、聖徳太子の寺として有名な法隆寺夢殿からは、後頭部に釘打ちされて白布でぐるぐる巻きにされた救世観音像が発見されており、聖徳太子の怨霊封じであるという話もあります。こうなると、聖徳太子という人は多大な功績を残しておきながら、誰かを恨むような死に方(或いは殺され方)をしたと見ることもできるのです。こうなると、何が何だか分かりません。

もう少し突っ込んだ仮説を置くとすると、私は日本書紀が、大化の改新のときに受難した「出雲系天皇一族」を「聖徳太子(善玉部)」と「蘇我氏(悪玉部)」に分けて整理したと考えてはどうかと思います。つまり、聖徳太子という名称はともかく、それに当たる人物は存在しており、ただそれは一人の人物ではなく、蘇我氏と表裏一体となって、天皇として存在していたということです。もう少し分かり易く整理すると、受難した天皇一族を「蘇我氏」や「悪玉」としてのみ仕立て上げると、国造りの功績や実績を上げた部分が空白化してしまうため、それを成し遂げた蘇我氏と別の人物が必要となり、それを埋め合わせるために「聖徳太子」という人物を創作したということです。

どちらにしても、これらは大変重いテーマですし、とてもブログですべてを扱うようなわけにはいきません。また検証にも多くの時間が必要になると思います。しかし、いつまでも経っても、真相が分からないということもないでしょう。いずれ、そもそも日本という国がどのような精神に基づいて建国されたのか、そしてどのような経緯で現在に至っているのか、明らかになるときが来ると思うのです。

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「スクイズ」から学ぶ人生論

2008年01月28日 | 独り言

続けてスクイズネタです。

その後、スクールデイズを時間を見つけながらやって、いくつか別のEDに辿り付いていますが、遂にバッドED「冷たいマフラー」を経験しました。5話で世界といい感じになってしまい、最終話で世界とノリノリになってしまったのがマズかった。結局最後、言葉にやられてしまいました。

先日、乙女とのハッピーEDの時は、5話まで誠が周囲からの誤解を受けて、悪者扱いされていて、最後に大逆転でハッピーEDでした。これは、人生にも共通していえるようにも思います。

人生は苦労することが大事。周囲に何と言われようが、辛くても苦しくても正しい道を進んでいれば、きっと良いことが待っていると思うのです。5話まで悪者扱いされていた誠は、正直男らしくて、結構カッコよかったし・・・。

あ、それからもう一つ感想を付け加えると、割とスクイズの登場人物って誠に限らず、世界や言葉にも相当問題があると思うのです。まだ全部のEDを観ていないから何とも言えないけれど世界にしても、言葉にしても自分の思い通りになる誠を求めすぎ。そこいくと、乙女はありのままの誠を受け入れてあげているように思うのですが、それは違うかな・・・?それと、ちょっと女々しい感じの誠には、多少男気のある乙女くらいが丁度いいのではないか等と思ったりもします。暴走する言葉に睨みを利かせられるのも、乙女くらいなのでは??

分からない人、すみません。一応、これは「独り言」カテゴリー行きということでご容赦ください。

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選んだ者の責任

2008年01月28日 | 政治

関西で行われた知事選の結果が出ました。前回の知事選に比べると、だいぶ選挙率も高かったようですし、当選者はそのなかで圧勝されたとの報道ですので、それはそれでよかったのだろうと思います。

一方で、当選された方は、昨年の段階で「(出馬については)2万%ない」と発言をされていたのを覚えています。その後、態度を一転させて、十分納得できる説明もないまま「出馬表明」をしたという報道を聞いて、その時日本の民主主義は試されていると思いました。

政治を司る者は、当たり前のことながらそれ相応の責任感ある人間でなければいけないし、当然、その言動には相応しい重みがなければなりません。逆に、一度口にしたことを簡単に覆してしまうような人に対しては、公約やら信念やらを求めることはできませんし、求めてはいけません。出馬表明の報道を聞いた私は、「2万%出馬しない」と言っていたことについて、十分な説明もないまま、それを覆して出馬してしまったというのは、「私は発言や行動をコロコロ変える人間です」ということを、その言動をもって宣言してしまっていると思ったのです。

選挙の出馬を巡る言動というのは、一人の政治家候補として、最も注目されるべきポイントのひとつです。したがって通常、政治家として相応の責任感をお持ちの方々は、そうした質問については、非常に慎重になります。それは政治家としての資質を問われているわけで、単に名前が売れているからとか、人気があるからとかいう問題とは、完全に切り離されなければなりません。選挙の出馬是非を巡る言動というのは、既に一人の政治家として、自分の発言や行動に対して、いかに責任を持てるかということを試されていると言えるわけです。その大切な言動が首尾一貫していないということが明白である人が、仮に選ばれたとしたら、その後、その人の言動が支離滅裂で一貫性がなくても、「それは選挙前から分かっていたこと」と言わざるを得ません。

ただし、もしかしたら選挙活動中、その方は、そうした不信感を払拭するために、懸命の選挙活動を展開されたのかもしれません。それならそれで、良いことだと思います。

また、地位が人を変えることもあります。いろいろなことがありながらも、とにかく選ばれたわけですから、今後、その方が知事として、立派な活動をされることに期待したいと思います。

ただし今後、万が一その方について、政治家としての信義や信頼を裏切る言動が問題になったとしても、それを責めることは、非常に難しいかもしれないことは、念頭に置いておくべきでしょう。そもそも、そうした可能性があった人を選んでしまったのは有権者ですし、最終的には、その有権者にこそ、すべての責任が帰結するということをきちんと理解しておく必要があります。そのことをきちんと理解していれば、安易にその方の知事(政治家)としての問題を、その方だけの問題として、責めることはできないでしょう。

実際に、社会的に責任ある方々が、無責任な言動をしてしまっていることは事実でしょう。また、それを許してしまっている社会システムにも大いに問題があると思います。しかし、だからといって、それらの責任を他者になすりつけるようでは、世の中は一向に変わりません。どんなかたちであれ、またどんな問題を抱えているにせよ、この国の社会システムがひとまず民主主義である以上、すべての責任は私たち有権者にあると考え、自らを厳しく律していきながら、社会を少しずつでも良くしかなければならないと思うのです。

いずれにせよ、まずはその方が、立派に知事としての責務を果たされることを切に願います。

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コンピューターが向かう場所

2008年01月27日 | 産業

これまで、コンピューターは高性能化の一途を辿ってきました。ハードウェアとしてのPCを例に挙げれば、CPUやメモリー、HDDの容量等を時系列で見ることで、どのように高性能化してきたかは一目瞭然です。また、そうしたコンピューターのハードウェアとしての高性能化に伴い、ソフトウェアも高度化し、昔では到底考えられないような難しい処理も、非常に手軽に行えるようになってきました。これはまさに、コンピューター産業を支えてきた方々の功績であり、現在、私たちはその恩恵に与っていると言えるでしょう。

ところで、一方でこうしたコンピューターの高性能化の流れについては、ひとつの予兆が現れています。それはPCの高性能化の限界です。単純に、ここ最近のPCのCPUの性能は、10年前に比べてほとんど進歩がみられなくなりました。CPUの性能を表す指標としてクロック周波数というものがあります。10年ほど前、この数値は毎年急速な勢いで伸びていましたが、ここ数年ほとんど変化が見られません。もちろん、各メーカーはCPUの高性能化を進めており、いろいろな工夫がなされているようですが、少なくとも以前のように「クロック周波数の向上」のみが、開発ターゲットにはなっておらず、それ以外の技術や付加価値を追求するようになっているようです。例えば、省電力化やネットワーク化といったポイントが、メーカーにとっての課題に上がってきた等です。これは、これからのコンピューターを考える上での、ひとつの大切なポイントです。

私は、このように技術的な意味における、PCの高性能化の限界のみならず、ユーザーの利便性の観点からも、コンピューターの高性能化には、陰りが見え始めていると考えます。

インターネット網の整備等により、高度にネットワーク化が進んだことによって、コンピューターの小型化や携帯化には拍車がかかってきました。現在では、インターネットは固定網が主流になっていますが、さらにモバイル環境でのブロードバンド化が進むようになれば、「PCの携帯化」はますます加速化していくことでしょう。さらにネットワークに接続するコンピューターをPCだけではなく、携帯電話、ゲーム機、ミュージックプレイヤー、デジタルカメラ等のデジタル機器まで考えると、数多くの小型コンピューターがモバイルネットワークに繋がるようになることになります。これらに加えて、自動車のナビゲーションシステムや各種センサー等を含めば、膨大な数のコンピューターがネットワークに繋がり、利用者の便益を飛躍的に高めることになるはずです。

こうしたネットワーク化の進展に伴い、高性能化に的を絞ったコンピューターの方向性にはいくつかの問題が生じてきたように思います。そしてネットワークは、以下のようにそうしたコンピューターの限界や問題を補い始めていると考えます。

①データーの安全性
 PCのハードウェアは意外と脆いものです。もちろん、しょっちゅう壊れるわけではありませんが、その安全性は、絶対的な信用を置くほどのものではありません。当然、バックアップをとるということを習慣としてされているユーザーの方もいらっしゃるでしょうが、あまり一般的ではないと思います。事業者が利用するような一部のコンピューターを除いて、PC側に溜め込んだデーターは、いつ消し飛んでもおかしくないと考えると、これはユーザーからすると大変な脅威です。PCが高性能化すればするほど、多くの作業をPC上で行いますし、それらのデーターをPC内に保存します。例えば、10年以上も撮り溜めた写真データーが、一瞬にダメになるということもあるわけで、そのリスクはPCの高性能化による副産物でもあります。
 最近では、インターネットの普及を受け、それらのデーターをPCではなく、インターネットに繋がっている特定の事業者のハードディスク(安全な保存場所)に保管させるというサービス(ストレージサービス)も出ています。インターネットの発達に従い、これから生まれるであろうこうした流れは、「大切なデーターは外部に保存するもの」というユーザーの行動パターンを定着化させる兆しであると考えます(ただし、ストレージサービスの効用は、単に「データーを安全に保管する」ということだけではなく、一般向けあるいは限定的にデーターを公開・共有できる等の利便性もあります)。

②ニーズの多様化
 PCで行う作業が、非常に限定的なユーザーにとって、ある時点からPCの高性能化があまり意味を成さなくなってきました。つまり、メールやウェブ閲覧がメインであるユーザーにとっては、PCの起動時間や添付写真を開くまでの時間等が重要であり、それを超える性能は、あまり関係ないわけです。もちろんコンピューターメーカーも、そうしたニーズがあることを十分に認識しつつ、商品開発を進めています。
 しかし現在のニーズは、そのように「ライトユーザー(要求レベルが低いユーザー)」と「ヘビーユーザー(要求レベルが高いユーザー)」の二つに分類されるほど、単純ではない点がポイントです。つまり、その間には「そこそこのアプリケーション(ソフトウェア)を使うユーザー(即ち「ミドルユーザー」)」も多数いるわけであり、それらの中間層に位置するユーザーの要求を含んだ、多様なニーズに如何に対応するかが、サービス提供側のポイントとなるのです。また、これらのユーザーの場合、そうしたアプリケーションの最新版を使いたいと思うわけであり、そうしたアプリケーションのバージョン管理などについては、自分のPCに入れて使うよりも、インターネットに繋がっている別のサーバー(大型コンピューター)上で使用する方が、利便性が高いということになるわけです。
 これについては、長らくASP(Application Service Provider)というモデルが存在していますが、これをソフト上(ウェブブラウザー上)で、一歩踏み込んだサービスを展開しているのが「Google」という会社であり、米国の成功した企業として注目されています(ただし私は、こうした「Google」のモデルにも限界があると考えており、私は日本のコンピューター産業はさらに根幹に踏み込めるし、また踏み込むべきだと思っています)。これもまた、PCの高性能化一辺倒という限界をネットワークで補完しつつあるひとつの例だと言えます。

③端末の多様化
 コンピューターは、いわゆるデスクトップPCやノートPCに留まらず、ノートよりもさらに小型化したPDAタイプのものも数多く出てきており、それらにもPCと同じようなOS(Operating System=コンピューターシステム全体を管理する基本ソフトウェア)が入っています。それらのOSが、デスクトップのOSとは多少の違いがあるにせよ、基本設計はいわゆる普通のPCから出ているものが多くあり、小型化や携帯化が進んでしまったコンピューターの演算処理能力やバッテリーの制約条件に相応しくない状況を生み始めています。今後、こうした流れに修正が入るでしょうが、いずれにせよコンピューターは高性能化一辺倒ではなく、別の軸による開発が必要な時代に入ってきたということだと思います。

このようにネットワーク化は、高性能化一辺倒で走ってきたコンピューターの限界を補完していく働きを生んできていると考えますが、一方でネットワーク化を進めれば進めるほど、ネットワーク化自体に大きな問題が表れます。ちなみに、これからのネットワーク化のベクトルは「ブロードバンド化」に加えて、「モバイル化」であると考えています(「ネットとコンピューターの融合」参照)。

いずれにせよ、ネットワーク化が抱える問題は、以下の通りです。そして私は、それらの問題がある限りにおいて、上記のように、現在の高性能化一辺倒のコンピューターの方向性を、完全に転換させて、新しいコンピューター産業のかたちを整備できないと思っています。

①セキュリティ問題の深刻化
 ネットワーク化が進み、ブロードバンドがモバイル化していくと、携帯PC(広く言えば携帯電話等を含む「端末全般」)側でいろいろな作業をし、またそこにデーターを保存するようになると、それを紛失したり、処分したりするときのデーター流出が問題になる可能性が高くなります。実際、企業ではモバイルワークの利便性を認識しながらも、顧客情報の流出等のリスクを抑えるため、原則としてモバイルPCを社外に持ち出させないという措置をとっているところが数多くあります。また、使われなくなった携帯電話のメモリーに残っているアドレス帳のデーターが、一部業者の間で取引されるといったことが社会問題にもなりました。

②メンテナンスの高コスト化
 コンピューターがネットワークに繋がるということは、そのコンピューターに対する外部からの不正アクセスやウィルス対策をとっていかなければいけないということです。これがノートPCだけならばともかく、今後予想されるようにデジタルカメラやミュージックプレイヤー、果ては自動車のカーナビゲーションにまで、各々そうしたメンテナンスが必要ということになると、その手間やメンテナンスコストは莫大なものとなります。コンピューターのウィルス対策ですら、手間が大変で、一部代行サービス等がある現状を鑑みて、それが如何に大きな問題であるかは、想像に難しくありません。

ネットワーク化(ブロードバンド化+モバイル化)の流れは、新しいコンピューターを生み出すためには必須です。しかし、上記のような問題を根本的に解決しない限り、真のネットワーク社会は訪れません。そして、それを解決していくことこそが、これからのコンピューター産業に求められているのだと思います(「シン・クライアントの潜在力」参照)。

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早速の「玩具フラグ」疑惑

2008年01月27日 | 独り言

先週、電王が終わってしまい、今日から「仮面ライダーキバ」が始まりました。ほとんど理解不能なストーリーでしたが、第一回というのはこんなもんでしょう(ただ電王のときは、もう少し惹き込まれた感がありました)。それと最後の方にビルから出てきた「ドラゴン」みたいなキャラ。あれは早速、玩具フラグ??公式ウェブサイトでキバ(「KIBA」ではなく「KIVA」らしい)をみると、「キバフォーム」って書いてある。これもやっぱり、これから「XXXXフォーム」って、いろいろ出てくるんだろうし、これもやっぱり玩具フラグなのだろうか・・・等と思いつつでした。ま、とりあえず、引き続きウォッチしていきます。

以下、おまけ。
ゲキレンは、ジャンと理央のやり取りが熱かった。そして、何よりも我らが「メレ様」がいよいよ嫁入りなのか??最終回にむけて、いよいよヒートアップの模様。

プリキュアは、いろいろと突っ込みどころがあるので、後ほどニコ動で皆のコメントと共に、再度楽しみたいと思います。ま、一言で「やっぱりのぞみはよい子」だと思ったのでした。

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コンテンツ制作体制の未来

2008年01月26日 | 産業

動画コンテンツの配信サイトである「ニコニコ動画」には、いろいろなアマチュアの人々によって掲載された動画像がたくさんあります。そのなかには「演奏してみた」、「歌ってみた」、「踊ってみた」といったカテゴリーで、いわゆるプロではない人々が楽器を演奏したり、歌ったり、踊ったりした様子を撮影したようなものも数多く掲載されています。それらの作品に使用される楽曲のほとんどは、JASRAC(日本音楽著作権協会)によって管理されるべきものであり、本来的には著作権の問題があるのですが、今のところ(一部目立つものを除いて)著作権者に甘く見ていただいているといったところのようです。今後のネット社会における著作権を巡る問題については、あらためて整理するとして、同サイトには、アマチュアながら音楽に関わる優れた才能の持ち主が集まり、それぞれの作品を掲載し、またそれらが互いに融合しながら、多くの人々を楽しませています。

それらの才能の持ち主のうち、「ドの人」という人がいます。「ドの人」というのは、あるピアノを演奏する人なのですが、その人のピアノは「ド」がひとつ壊れていて、演奏されるピアノの映像には「ぶっ壊れてるド↓」という表示があり、視聴者からは「ドの人」と呼ばれているのです(最近、新しいピアノに変わったみたいです)。私自身も「ドの人」の演奏は好きで、いろいろな楽曲の作品を聞きます。聞く人が聞けば、「やはりドがもったいない」ということらしいのですが、私レベルが聞いている限り、ピアノが壊れているかどうかも分からないほど、素晴らしい演奏だったと思うのです。

ところで私は、この「ドの人」の作品を見ているときに、これからのネット社会におけるアーティストのあり方について、ひとつの確信を得たことがあります。「ニコニコ動画」では、動画コンテンツを視聴しているときに、コメントを入力することができ、さらにそれらを他の視聴者と共有できるため、動画コンテンツを見ながら、その瞬間、他の視聴者がどう思っているかを知ることができます。最近は、新しいピアノに変わったせいか、あまり見られなくなりましたが、「ドの人」が出始めた頃は、「ぶっ壊れてるド」を残念がるコメントが多くありました。なかには「うp主(「ドの人」のこと)にピアノを送る!」、「ピアノ買ってあげよう!」といったものも、かなりあったのを覚えています。

もちろん、口先だけのコメントで、実際にピアノを買ってあげるなんていうことを考えているわけではないかもしれません。しかし私は、おそらくそうしたコメントをした人々が、「この人にもっといいピアノで演奏してもらいたい」という気持ちがあったのは事実でしょうし、さらに「いいピアノで演奏してもらうために、多少お金を払ってあげてもいい」と思ったりしたことも事実ではないかと思うのです。

もしそうだとしたら、このことは非常に重要なことです。コンテンツを楽しむ人々は、そのコンテンツが有料で、視聴料が設定されているからお金を払うわけではなく、そのコンテンツが素晴らしいと感じ、それに感動して「ありがとう」、「これからも頑張ってください」という思いを込めて、お金を払いたいと思っているかもしれないということです。

高度に経済システムが発達してしまっている現代社会において、お金を払うというのは、サービスの提供者に対する消費者の義務であるという側面ばかりに目を奪われがちですが、本来大切なのは、消費者(あるいは、この場合は視聴者)が提供されたものの価値を認め、それを素晴らしいと思う気持ちであり、その気持ちをお金で表現した結果が、「お金を払う」という行為であるということを忘れてはならないはずです(「報酬は感謝・感動の証」参照)。

けれども、非常に残念なことに現在のシステムでは、そうした視聴者の思いをかたちとして表現することは、なかなか難しいのです。つまり「お金」という対価で、それに報いるには、著作権という法的問題に加え、それに縛られているメディアシステム全体に問題があるため、それらによって感動している人々の気持ちは、かたちである「お金」として表現され得ず、またそういう人々に感動を提供している才能の持ち主も、それに報われないでいる状況に陥っているわけです(「「才能の無駄遣い」の克服」参照)。

これまでのコンテンツは、システムの技術的要件(コンテンツの制作や配信技術)のため、限られた人々によってしか制作され得ませんでしたし、それを二次利用されることの弊害が大きかったため、そうした被害を防ぐために、著作権によって守られてきました。それは時代の要求であっただろうし、これまで十分に機能してきたのだと思います。しかし、時代は大きく変わりつつあります。コンテンツの制作技術については、PCやソフトウェアの汎用化と普及により、その裾野が大きく広がり、またメディア技術としてのインターネットもブロードバンド化されると共に普及率が高まっているため、既存のメディアを凌ぐ力を持つようになりました(「通信と放送の融合」参照)。

これらのことは、コンテンツ業界において、これまでプロとして活躍されている方々以外で、アマチュアの人々にも、広く活躍の場が整いつつあることを意味しているわけであり、また社会システムは、それらの価値を積極的に認めていくべき時代に入っていることを意味していると思うのです。

こうした新しい時代において、コンテンツの二次利用等、複次利用にはかつてのようなマイナス効果だけではないと思います。今のプロのクオリティではなくても、アマチュアの人々には、多くの人々を十分に楽しませるセンスと技術を備えており、また事実上、そういう現象が無視できない流れとして可視化してしまっている以上、一次的な著作権を有している方々は、むしろこれらの人々の能力や活力をうまく使いながら、さらに多くの人々に喜んでもらえるような仕組みを作り上げていくことを考えていただきたいと思うのです。

例えば、「ドの人」の例を挙げると、「ドの人」は「エヴァンゲリオン」というアニメの「残酷な天使のテーゼ」というテーマ曲を演奏していますが、視聴者のなかには、そのピアノで弾かれたものをアニメの本編に使って欲しいという人もいるようです。それをそのまま鵜呑みにしろというわけではありませんが、例えばそういう要望に応えた別のアマチュアが、「ドの人」のピアノに合わせて、そういう動画を作ったとして、それによって、さらに多くの人々が喜ぶとするならば、それはそれで良いことだと考えてもいいのではないかと思うのです(「楽曲をMP3で欲しい」という要望もありますから、そういう要望に応えようとするとなると、音楽業界の仕組みも変えていかなければならないかもしれません)。

もちろん、これまでコンテンツ・メディア業界を引っ張ってきた方々には、そうした新しい仕組みに対する抵抗感があるだろうことは理解します。また、今まで築き上げられてきたコンテンツの著作権を無視するかのような、新しい流れには絶対に賛同できないという点も十分に分かります。したがって、この問題は今日時点ですぐに決着がつく話ではありません。

ただし、本来コンテンツ・メディア事業というのは、より多くの人々に喜んでもらうというのが本質でしょう。そして、真に「多くの人々に喜んでもらおう」と考えている人が作ったコンテンツは、著作権等を抜きにして、多くの人々から愛されるでしょうし、その創作活動は、必ず多くの人々から支持をされ、結果として「お金」につながっていくようになると思うのです。

その点を踏まえた上で、これからのコンテンツ・メディア業界を考えるときに、上記のような①コンテンツ・メディアシステムの発達、②視聴者に喜んでもらえる価値の提供の2点をけっして忘れてはならないと思うのです。また、こうした問題については、異業界含めて日本の社会全体で考えていくことが肝要であると考えます。そして、その先にある全員参加型のコンテンツ制作体制は、日本の優れた文化を世界に広めていくきっかけになっていくでしょうし、その構築こそがこれからの日本を活気づける非常に大きな鍵になると思うのです。

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カッコいい「誠」

2008年01月26日 | 独り言

「誠死ね」でお馴染みのスクールデイズ(PS2版)を買いました。

あまりゲームソフトを買ったりする方ではないのですが、よく見かけるスクールデイズのストーリーに、どうしても納得がいかなかったのです。「誠死ね」に象徴されるように、「誠」の優柔不断が原因で、ドロドロの物語となって、殺したり殺されたりのストーリー展開は、とても耐えられない。そこで、僕の理想の「誠」で、ストーリーを進めたくなり、思わず買ってしまったのです。

ちょっと意図しないところ(選択肢が出てこないところ)で、「誠」の暴走を許してしまったけれども、基本的にあのダラしない「誠」も、多少はかっこいい男になってくれたように思います(というか正直、結構男らしい仕上がりだったように思う)。

ネタバレ注意ですが、気になるEDは「一途な想いは報われて」でした。ま、途中いろいろありました。乙女の言葉に対する態度など、気に食わないところもありましたし、序盤戦は世界びいきしたくなる気持ちもありましたが、世界にしろ、言葉にしろ、結局自分勝手過ぎるという思いもあって、まぁ落ち着くところに落ち着いて、結構いいEDだったかなと満足しております。

それにしてもED、あと25個もある。ちょっと休んだら、他のハッピーEDを目指して、やってみるかな(バッドEDは見たくないのです)。

ちなみに、これらを通じて、これからの時代のコンテンツ産業がどうなっていくのか、著作権の扱いをどう考えるべきか等については、別途まとめたいと思います。

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「エニート」の強みと誇り

2008年01月26日 | 短編

世の「ニート」の方々に告ぐ。
あなたたちは「ニート」ではなく「エニート」だ。
「エニート」の強みを活かして、「エニート」の誇りを持って生きよう。

===============================

無職であるということは、しがらみがないということ。
しがらみがないということは、何にでも挑戦できるということ。
何にでも挑戦できるなら、社会だって変えられる。

無職の人を「ニート」と呼んでいるのは、現在の姿を指しているに過ぎない。社会を変える潜在力を誰よりも持っているのが「ニート」であり、その意味で、その人たちは将来の超エリート候補だ。時代の変わり目というのはそんなもの。

どうせなら「ニート」じゃなくて、「エニート」として生きたらいいじゃない。

僕?
もちろん僕は立派な「エニート」です。

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責める前に学ぶこと

2008年01月26日 | 日本

以前、「南北朝」について、いろいろと語られる方々にお会いしたことがありました。「南北朝」とは、14世紀に天皇家が皇位継承を巡って大覚寺統と持明院統に分裂してしまい、事実上、朝廷が「南」と「北」に分裂してしまったときのことを指しています。そして歴史上、最終的に南朝は滅んだことになっていますが、その方々が言うには、実は明治維新のとき、南朝の血を引く「大室寅之助」という人物が、明治天皇にすり替わっており、現在の皇室及び政権は、南朝の流れを汲んでいるのだというのです。いわゆるトンデモ話に聞こえますが、なかなか切り捨て難い話だとも思いました(「情報はパズルのピース」参照)。少なくとも、到底無視する気にはなりませんでした。

インターネットで「大室寅之助」と検索すると、それに纏わる情報がいろいろと引っかかってしまいます。最近では、明治の志士たちが一同に会した写真と言われるフルベッキ写真についての情報も多く見られるようになりました。そのフルベッキ写真の中央に写っている人物が、「大室寅之助」と言われており、この人物と「明治天皇」の写真を比較した情報なども、いろいろと出ているようです。それはそれとして、私が一番不思議なのは、皇居にある「楠正成像」です。楠正成といえば、南朝の後醍醐天皇を擁護しながら、北朝をバックにした足利氏と戦い、亡くなった人物です。その後の政権からしてみれば、自分たちに対して弓を引いた逆賊になるわけですが、その人物がまるで英雄として称えられるかのように、皇居に銅像が建てられるというのは、一体どういうことなのだろうかと思わざるを得ません(「朝敵」としての汚名は16世紀に早々と返上されたようですが、他の人物を差しおいて楠正成が特別に英雄視される理由は、よく分かりません)。ちなみに第二次大戦中に、日本銀行から発行された紙幣にも「楠正成像」が使われています。国民全体の士気高揚を狙っていたのかもしれませんが、他にもいろいろと人物がいるだろうに、わざわざ朝敵の汚名を着せられていた人物にするあたりが、どうしても腑に落ちないのです。

そして、もしこれが本当だとすると、このことは単に天皇家のなかだけに納まる問題ではなく、日本全体に関わる問題かもしれないということが重要です。明治維新以降、すり替えた「天皇」を囲って、いわゆる「薩長土肥」の藩閥政治が展開されていくことになり、この流れは第二次大戦以降も続いているかもしれないのです。その可能性は、戦後日本の有名な政治家の方々のプロフィール(出身地)等を見ていくと理解できると思います。

こうした意味で、日本の「南北朝」や「明治維新」に関することは大変ミステリアスで、またその流れが脈々と現代まで引き継がれているという点を強調し、問題視される方々がいらっしゃるわけです。そしてもし、こうしたことが真実だとするならば、それは日本全体を揺るがす大問題になると思います。

しかし私は、一方でもしそれらが事実で、問題だと言うのであれば、もっと大きな問題に目を向ける必要があるのではないかとも思うのです。それは、さらに時代を遡って、7~8世紀(飛鳥時代)の日本の政権を巡る動きです。それは蘇我・物部氏や聖徳太子の時代から、大化の改新を経て藤原氏の政権掌握に至るまでの流れになります(「日本建国史の再考」参照)。

この時代の記録や文献は、大変限られているため、私たちは想像力をたくましく働かせなければなりませんが、いわゆる「歴史の謎」とされていたことを解明していくとてつもない鍵が隠されているように思います。その内容に関する議論は機会をあらためるとして、先に結論から述べておくと、この時代にも天皇のすり替えに匹敵する大事件があったかもしれないといことです。こうした結論に至るような問題を取り上げるのは、大変勇気がいることです。一般的にはタブーとされていることでしょう。しかし、もし明治維新時の日本の最高権力に関する問題を掘り起こして、現体制や権力の「正統性」を責めたり、批判したりしようというのであれば、そもそも「正統性」とは何かの議論が必要ですし、そのためには可能な限り、時代を遡っていかなければならないと思います。そしてもし仮に、7世紀の段階で「正統性」の歪みが生じているようなことでもあれば、それ以降の「正統性」を巡る議論は、五十歩百歩であり、その批判における「正統性」は、ほとんど何の意味も持たなくなります。

明治維新時に、何かしらの大きな事件があったのかもしれません。そしてもし、それによって、日本という国が歪められたというのであれば、それは大変残念なことです。現時点で、「その事件」は単なる疑念に過ぎませんが、いずれにせよそれをもって、現体制や地位にある特定の個人やグループを責めるようなことはすべきではないし、もし問題があるというならば、もっともっと歴史を遡って、学ぶべきことがたくさんあるのではないかと思います。

コメント (7)
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