常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

正しかったと思える生き方

2010年06月30日 | 歌詞&台詞

のだめカンタービレ フィナーレ」のエンディングテーマだった「風と丘のバラード」、私の大好きな曲です。先日、ある方とこの曲について話していたので、ちょっと思い出しました。その曲にはこんな歌詞があります。

====================
いま正しいかより 正しかったと思い出せるように
太陽の下 手を振って歩く
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このフレーズには、多くの人々にとっての「正しさ」を考える上で、非常に重要なヒントがあるように思います。

「正しさ」は多様であり、「人の数だけ正義がある」と言ったりします。そして、その通りだろうと思います。だからこそ、「何が正しいか分からない」と言う人もいるわけで、そういう人々の考えを否定するつもりは、毛頭ありません。むしろそれは、安直な正義を振りかざすような人よりも、ずっと真面目に自分の人生と向き合っている人かもしれないという意味で、きちんと評価されなければならないでしょう。

ただし、それだけではいけないだろうとも考えます(「交錯する正義と悪」参照)。「何が正しいか分からない」というのは、自らの言動の過ちを正さない言い訳にも使えてしまいます。人間には、何が正しいかを知らなくとも、何が正しいかを模索し続ける義務があるはずです。そして、何が正しいかが分からない人にとって、正しいことを実践するためのヒントは、この歌詞にあるのではないかと思うのです。

即ちそれは、この歌詞にあるように、せめて「正しかったと思い出せるように」行動することでしょう。今、正しいかどうかが分からなくても、あとから正しいと思えるのであれば、それはきっと正しいものになるはずです。

そして、この「正しかったと思い出せるように」生きるコツは、限りない可能性(最悪から最良までの極めて幅広い結果)をイメージした上で、絶対に後悔しないように生きることだと考えます。後悔しない生き方をしていれば、あとで振り返った人生は、最終的に「正しかったと思えるもの」になっているでしょう。このことは、果てなく流れる時間を味方にするということでもあります(「時間との付き合い方」参照)。

既に、「正しさ」の本質を理解している人がいるかもしれません。それはそれで、大変結構なことです。しかし、その逆が必ずしも悪いわけではありません。何が正しいのかが分からなければ、あとで正しかったと思えるような生き方をしてみてはどうかと思うのでした。

《おまけ》
逆に安直な正義を振りかざした人、「正しさ」を履き違えてしまった人は、あとで自分が間違っていたことについて、大いに思い知らされることになるでしょう。その際には、それに相応しい代償を支払うことになります。この場合の代償とは、本文で述べているような、イメージすべき「限りない可能性」の内、見落としていた最悪の結果(あるいは見て見ぬふりをした最悪の結果)になるような気がします。それは、昔からの言葉で「自業自得」と表されるものなのかもしれません。

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ダイレクトメディアと政治

2010年06月28日 | 政治

民主党の方々が、時折、マスコミ報道について、批判されることを耳にします。お気持ち、分からないでもないですし、マスコミ報道に問題がないとは言いません(だからこそ、私自身、新しいメディアシステムを構築しようとしています)。

「私は(各党に消費税の議論を)呼びかけると申し上げたが、皆さんが書いている見出しだけ読むと書いていない。もうちょっと正確に言ってほしい」

菅直人さんの「消費税発言」の真意が、どこにあるのか分かりません。ただ、ご本人がそうおっしゃる以上、報道のかたちに何かしらの問題があるのでしょう。

しかし一方で、そうであるならば、そうした批判をされるご自身たちが、直接、情報発信するための努力をしているのかを問う必要もあるだろうと思います。

今やコンピューターとインターネットの普及によって、誰もが簡単に情報発信できる社会になりました。ブログやら、Twitterやらのツールを使えば、マスコミの手を経ることなく、ダイレクトに国民に声を届けることができるわけです。特に元来、政治家の方々が理解すべき日本の成長戦略を考える上で、基本的なITの知識や感性は不可欠です。そういう意味で、そうしたダイレクトメディアを使いこなせないというのは、まったく言い訳になりません。

逆の言い方をすると、そうした努力をされていない方々に、マスコミ批判が多いようにも思います。もしかすると、ダイレクト発信ができないが故に、マスコミでの情報発信に頼らざるを得ず、だからこそ、思うように情報発信をしてくれないマスコミを批判したくなるのかもしれません。そのあたりの原因分析はさておき、少なくとも、他者批判の前にすべきことがあることだけは確かでしょう。

蛇足ですが、最近の菅さんの発言で焦点が当たり始めている、消費税引上げの議論に関しては、率直に「よく言った」と思っています。過去、ありもしない財源を「ある」と言ってしまった方に比べると、随分と真面目に財政再建を考えているのではないかと思うのです。バラ色の未来像を示すことも重要ですが、それがないのであれば、甘い言葉で国民を惑わすのではなく、厳しい現実を国民に突き付けることも、政治家の大切な役割でしょう。

本論に戻って、こうしたダイレクトメディアと政治の問題は、必ずしも政治家だけの問題ではないように思います。国民一人一人が、国政をわが身のことと考え、それを政治家等の他者ばかりに預けず、自分たち自身がどう関わっていくかという意識を強く持つ必要があります。

直近の世論調査では、消費税引上げ議論の影響で、内閣支持率が下がったと聞いています。これは、内閣(あるいは広く政治家)への過度な期待の結果かもしれません。過度な期待とは、的外れな期待であり、相手の力量に対する誤認でもあります。そして同時に、国民たちが自分自身の力を過小評価している結果とも言えるでしょう。しかし、それではいけません。

国家の財政は厳しい状況にあり、それを立て直すことは急務であることは間違いありません。政治家に期待する気持ちは分かりますし、民主党政権以降、それなりに評価されている「事業仕分け」のような無駄を削る作業も重要です。しかし、財政を健全化するための財源アップのための方策、そうした根本解決のための仕事の重みは、もはや政治家だけに任せるレベルを超えていると見るべきでしょう。国民、一人一人が大いに関わっていかなければならないのです。

そして、そのように国政をわが身のこととして真剣に考える国民は、情報収集をマスコミだけに頼らず、自ら進んで行っていくでしょう。また、そうした国民の前で、政治家はさらに真剣にダイレクトメディアの活用を考えるようになると思います。そのことは結果として、「カネのかからない政治」にも繋がっていくことになると考えます。例えば、少なくとも政治ビラやチラシ、ポスターの印刷や配送だけで、簡単に数百万円単位のお金が飛んでいくという現状は、大きく変わるはずです。

そういうことを含めて、現在の政治家のレベルは、そっくりそのまま、今日の国民の政治に対する意識レベルを表していると考えるべきでしょう(「政治家に見る国民の実力」参照)。それはマスコミを批判する政治家からも、見て取れるように思うのです。 

もちろん、現時点での、各人の努力を全否定するつもりはありません。今できることについて、国民一人一人、政治家一人一人が一所懸命取り組んでいることは事実でしょうし、それぞれのベストは尽くしているのだろうと考えます。ただ、それだけではいけません。今後、新しい未来を切り拓いていくためには、それぞれがもっともっと変わり続けることが、とても重要だと思うのでした。

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五次元世界へのヒント

2010年06月25日 | 異次元

三次元よりも高い次元の世界はあるのだろうと思います。既に、このブログのなかでは、四次元世界の考え方について、ひとつのあり様を述べてきています(「確からしい四次元の存在」等参照)。それは、科学の世界における「多世界解釈」に表れていたり(「多世界解釈の不思議」参照)、ブラックホールの謎にも繋がるものがあるでしょう(「宇宙が膨張を続けるカラクリ」参照)。このあたりについては、いずれ明らかになってくるだろうと思います。

ところで、仮に四次元の世界があるとすると、そこには無数の三次元世界が存在することになります。分かりにくければ、我々が視認している三次元世界のなかに、無数の「平面」という二次元世界が存在することを思い直すとよいかもしれません。四次元世界には、歪んだもの、重なり合っているもの、綺麗な状態のもの、小さいもの、大きいもの・・・実に様々な状態のものがあることでしょう。この三次元世界は、宇宙と言い換えてもよいかもしれません。

そして、そうした無数の宇宙には、非常に似通ったものもあり、「自分」という存在も、それらに散らばっているかもしれないということです。それは例えば、今、あなたの目の前に、「緑茶」のペットボトルがあるとして、他のことは全く同じながら、目の前にあるペットボトルだけが「烏龍茶」になっている宇宙も存在するかもしれないという具合です。

ただし、私なりにこうした四次元世界の考え方や仕組みについて、多分、そうなのだろうと思いつつ、その散らばっている無数の宇宙に、別の「自分」は存在しないと思っています。それはつまり、この四次元世界のなかで、私という存在があるのは、唯一、この宇宙、この三次元世界だけであるという感覚です。

以下は、「揺らめく現実世界」からの引用です。

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例えば「決死の覚悟」というのも、なかなか面白いものです。このブログでも、繰り返して述べている通り、本当に大切なものを拾いたければ、それを捨てる勇気を持つことも大切です(「欲するものへの心持ち」参照)。つまり命を拾いたければ、「決死の覚悟」が必要なわけですが、それは言い換えると、自分が死ぬという「死の妄想」でもあります。「死の妄想」は、自分が死ぬというひとつの可能性を強力にイメージすることであり、これは自分が死ぬ「別宇宙の形成」にも繋がると考えることができます。しかし、実際にその別宇宙が形成されたとしても、その別宇宙においては、自分が死んでしまうため、結果として、そうした別宇宙に存在する自分はいなくなり、それとは引き換えに、「死の妄想」をしたこの宇宙における自分が強く生きることに繋がると言えるわけです。このときの「別宇宙に存在する自分がいなくなる」ということは、別の言い方をすれば、雑念や迷いを滅することだと言えるでしょう。

逆に、別宇宙にいる自分の存在を許しているということは、迷ったり、後悔したりする状態にあるということであり、他の可能性を引きずっていることだろうと考えられます。このうち、過去における他の可能性を引きずるということが、後悔するということでしょう。だからこそ、強く生きたければ、過去を受け止め、後悔の念を消し去ることが肝要なのです。なぜならば、そうすることで別宇宙に存在する自分を打ち消し、この宇宙における自分の存在を高めることができると思われるからです(「時間との付き合い方」参照)。
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一瞬を無駄にしない覚悟と生き方を貫いていくと、この世界には一切の「IF」がないことに気付くことでしょう(「「IF」のない世界と運命」)。そして、その感覚が即ち、他の宇宙には、他の「自分」が一切存在しないことに気付くことでもあるわけです。

ただし、これだけでは問題が出てきます。なぜなら、そうなると他人が考える「自分」の存在を説明できないからです。

つまり、ある他の誰か(ここではAさんとします)が「自分」のことについて、「あの人がこうしてくれたら・・・」、「あの人がこう言ってくれたら・・・」、「あの人がこうしてしまったら・・・」等々、迷っていたり、思いを巡らせたりしているような場合、その無数に散らばった宇宙のなかには、いろいろなケースのAさんが存在することになります。そして、そのいろいろなケースのAさん毎に、「自分」の意思とは無関係な「自分」が存在してしまうことになるわけです。いくら「他の宇宙に自分はいない」と言ったところで、そこまでを否定することはできません。

つまり、ある四次元世界のなかで、他の宇宙にある「自分」の存在を否定しきったとしても、そのさらにその外側には、やはり別の宇宙があって、他の「自分」が存在してしまうかもしれないということです。こうしたことが起こるのは、「自分」が捉えている四次元世界の外側に、さらに別の四次元世界があるからと考えてもよいでしょう。それはつまり、無数の四次元世界が散らばる、五次元の世界があるということかもしれません。

こう考えると、結局のところ、冒頭で触れた四次元世界というのは、各個人が持っている精神世界ということになるような気がします。ここでは、「各個人」というところがポイントです。人間一人一人は、必ず精神を持っており、様々な想像、妄想、思いを巡らせることができ、それが四次元世界の形成に大きく関わっているということです。

しかし、こうした各個人の精神世界は、まったく切り離されているわけではありません。例えば、集合的無意識というような言葉で語られるように、それらはきっと、交わり合ったり、干渉し合ったりすることもあるでしょう。そうした全体の精神世界をつかさどる世界が、五次元世界にあたるような気がするのです。

蛇足ですが、昔、私の上司だった方が、「俺は俺の宇宙を持つ。お前はお前の宇宙を持て」とおっしゃっていました。その当時、私なりには、冒頭にあるような四次元世界をイメージしつつ、自分自身の「三次元世界としての宇宙」を構築していこうと考えていました。

しかし、ここで書いたように、四次元世界自体が、各個人の精神によって形成されるものだとしたら、「お前はお前の宇宙を持て」という言葉は、もっと広く、自分だけの「四次元世界としての宇宙」を持てという言葉として解するべきなのでしょう。「自分の宇宙」という言葉の意味を広く広く捉え、五次元世界までをも視野に入れた上で、高次元の視点から、例えば、「天上天下唯我独尊」という言葉を噛み締めてみると、また違ったことが見えてくるように思います。

宇宙の謎、高次元世界の姿については、まだまだ分からないことだらけです。ここに記しているのは、あくまでも仮説でしかありません。ただそれでも、これからの謎解きをしていく上で、このあたりに重要なヒントが隠されているような気がします。

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複雑化する税制の限界

2010年06月23日 | 政治

内閣が変わって、政治にも新しい論点が生まれてきたように思います。

そのうちのひとつが、税制です。去年まで、財源があると主張していた民主党でしたが、さすがにここにきて、新たな財源確保が必要であるとの認識が生まれてきたのでしょう。ここのところ、消費税10%という話が、頻繁にメディアに登場するようになってきました。最近の不況下では、低所得者層には厳しいということで、消費税率を引き上げた場合の低所得者の負担軽減策について、「いまのところ一番良さそうなのは、5%分を返す」という発言が、与党幹部から出てくるようにもなりました。

私としては、税制の話になると、何かとこのように特例措置等が議論の対象となり、その度に税制が複雑化していくような気がしています。

もちろん、社会全体が新しい有効な「財」を生み出せなくなり、それに伴い税収が減っているのですから、増税の議論が避けて通れないのは理解します。そして、そうなると、ますます生活が苦しくなる人々が出るのだから、それに応じた特別措置を講じなければいけないという点も分かります。そういう意味で、こうして税制が複雑化していくような議論には、必然性すら感じます。

ところで、増税をしておきながら、一方でその一部を還付するというのは、社会全体でみると、大変な無駄であることも間違いありません。上記の消費税の一部還付で言えば、その低所得者をどのように定義し、それをどのように知らしめ、その額をどのように算出し、どのような手続きをもって還付するかということを考えると、それらがすべて社会全体で負担しなければならないコストになるわけです。これを個別にやらないといけないとなると、それなりのコストになるであろうことは間違いありません。

ただでさえ、社会全体の生産性が落ち、新しい有効な「財」を生み出せなくなりつつあるなかで、社会にとっての新しいコスト要因を生むというのは、あまり好ましいものではありません。もちろん、その善し悪しは増税分との比較になるため、単純に論じられるものではないでしょう。しかし、少なくともその増税分をもってして、新しい有効な「財」を生み出せるような体制作り、生産性の高い社会構造に繋げていくような方策を打たない限りは、根本的な解決にはならないことは間違いないと思います。

私なりには、新しい財源確保に向けた根本的解決のためには、きちんと経済を立て直すことが必須であり、これには従来のような金融手法や税制改革ばかりに頼らず、しっかりとした産業育成のための政策に依らなければならないと考えています。それが即ち、新しい産業インフラとしてのコンピューター(インターネット)システムやメディアシステムの構築であろうと考えるわけです(「産業界の舵取り」、「インターネットのリアル化」等参照)。

ただし、こうした産業育成プランを策定するためには、産業に対する深い理解、新しい時代を見据えた明確なビジョンが必要であり、これを持ち合わせない既出の政治家の方々に、これを期待するのはいささか酷なのかもしれません。

そういう意味で、何らかの経済活動に携わっている国民は、その一人一人が、そうした政治家の方々に代わって、日本経済を活性化するつもりで行動していかなければならないのだろうと考えます。

政治家の方々が議論されている税制改革を全否定するつもりはありません。しかし、社会全体が活力を失い収縮傾向にあるなかで、次第に複雑化していき、逆に社会コストを押し上げるようなそれに過度な期待をしてはいけないとも思います。私個人は、国民の一人として、複雑化していく税制の限界を見据えたうえで、次の時代において経済を支えるだけのしっかりとした産業基盤を構築するつもりで、自らの本分を果たしていきたいと思うのでした(「産業から始める理由」参照)。

《おまけ》
複雑系の果てには、「シンプルな一手」しかないと思うのです。複雑化していく解決策で問題解決を図るのも結構ですが、その延長線上には答えはないような気がします(「「最高の一手」の妙」、「カオス世界の読み取り方」参照)。

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アメーバに登録してみた

2010年06月21日 | 日常

アメーバに登録してみました(http://ameblo.jp/sukune888)。

娘がアメーバピグをやっていて、ちょっと前から誘われており、一応、娘が何をやっているのかを知る意味でも、今回、登録に踏み切りました。

ただ正直、利用しているウェブサービスについては、少々、交通整理が必要になってきました。そもそもブログはここでやっているし、それはmixi、facebookにも反映させています。さらにmixi等は、Twitterとも連携させているうえ、Twitterには写真投稿サービスやTwilogも紐付いています。

アメブロも、mixiのように「外部ブログ」の読み込みができれば、それを繋げるだけでよかったのですが、どうもそういう機能はないようなので、別途、何かを書こうかとも思案してみたり・・・。

そんなわけで、とりあえずここは今まで通りのブログとしつつ、アメブロの方は、もう少し軽いノリの「お気軽日記」というようなかたちにしてみようかと思っています。

まぁ、どうなるかは分かりませんが、とりあえずはそんな感じで・・・。

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軟式野球のメンバー募集

2010年06月17日 | 日常

いよいよ、野球を始めました(「シーズンに向けた準備」参照)。

そして、軟式野球を楽しみたいというメンバーを募集しています。現在、週一回程度、平日の昼間を中心に気楽な練習からスタートしています。

今のところ、メンバーとグランドの関係から、鎌倉市、藤沢市、横浜市栄区を中心に活動を始めていますが、今後の参加メンバーに応じて、時間帯(平日 or 休日)や場所等、柔軟に考えていきたいと思っています。まだ、チーム登録等には至っていませんが、いずれメンバーが増えてくれば、きちんとチームを結成したいとも考えています。

興味がある方、是非、ご連絡ください(kazunari@goo.jp)。

ちなみに、この軟式野球の活動には、以下の目的があります。

1.新しいメディアにおけるコンテンツ創造

テレビに代わる新しいメディアを立ち上げるには、既存のコンテンツに代わる新しいコンテンツを創出しなければなりません。「一億総クリエイター時代」等と言いますが、インターネットが参加型メディアであるならば、そのコンテンツも当然、参加型でなければならないでしょう。

近年、プロ野球の視聴率が落ちていますが、それをもってして、野球全体のコンテンツ価値が低下したと断じるべきではないと考えます。例えば、自分たちがプレイしている草野球の試合が、試合後、テレビ中継のようなかたちで編集されて、1枚のDVDとして仕上がったら、それは当人たちにとって、相当な価値を持つはずです。そして、そこにはきちんと需要があるでしょうし、また何も難しい話ではないのです。かつては技術的、価格的に難しかったことが、今ではかなり容易になりました。こんなところにも、新しい時代におけるコンテンツのあり様が、潜んでいると考えるべきでしょう。

少し別の言い方をすると、新しいメディアにおけるコンテンツは、趣味生活の結果物ということになります。好きなことを思いっきり楽しむ人がいて、それを見たり触れたりして喜ぶ人がいて、そこに生じた感謝や感動のかたちとしてのお金が、新しいメディアシステムの中で巡っていくのです。そういう意味で、新しいメディアシステムを構築するためにも、将来、自らがコンテンツを創る側の人間になるという意識を持ち、目一杯、真剣に野球を楽しむことが重要だと考えます。

2.プロスポーツの概念に対する改革

一芸に秀でることは大切であり、ある特定のスポーツの名プレイヤーであることは、とても素晴らしいことだと思います。しかし一方で、スポーツ振興が「健全な青少年育成のため」等と言うのであれば、現在のようなプロスポーツのあり方だけが、その目的に適うとは思いません。今のプロスポーツ制度は、ともすれば「スポーツだけ秀でればよい」というメッセージにもなりかねず、必ずしも、「健全な青少年の育成」には繋がらない可能性があります。さらに、一部のトップ選手ばかりが高収入を得るようでは、格差社会の助長にも繋がりかねません。

これからの世界で大切なことは、広い社会活動を展開しつつ、その一環としてスポーツも愉しむことができるような、人間としての幅を持つことであり、それを社会が積極的に認めていくことでしょう。そして、新しいメディアシステムとは、そうしたスポーツ選手たちに、僅かずつでも収入を実現させることになります。それは、たとえ月額数万円でもあったとしても、お金をいただける以上は立派なプロスポーツ選手となるのであり、そのことがこれまでのプロスポーツの概念を変えていくことに繋がると思われます。

さらに補足すると、スポーツ観戦は、単に選手の技能の素晴らしさだけではなく、そこにある背景やストーリーを一緒に楽しんでいると考えられます。例えば、芸能人の野球対決は、「あのタレントがやっている」という背景を楽しんでいるのであり、高校野球は、「ひたむきに頑張ってきた球児たちのストーリー」に共感するわけです。

そうした観点から、新しいメディアシステムにおけるプロスポーツ選手なるものには、多様なかたちがあるのであり、その中で、他の社会活動をしながらもスポーツ選手ができるという、謂わば「文武両道」も成り立つということを示せれば、それが何よりも、「健全な青少年育成のためのスポーツ振興」に繋がってくるのではないかと考えます。

3.軟式野球の社会的地位向上とさらなる普及

野球が、これだけ日本で盛んなのは、偏に軟式野球のおかげであろうと思います。社会人になっても、多くの人々が野球を楽しめるのは、軟式野球があるからこそです。

一方で、プロ野球は硬式野球です。こちらの方は、少々、専門化している側面があり、誰もが楽しむスポーツにはなっていません。換言すれば、上記のような「文武両道」を目指すには、いささか障壁が高いということになります。

また、ベースボール(硬式野球)は、アメリカで生まれたスポーツであるのに対して、一般の人々が広く楽しめる軟式野球は、日本で生まれたスポーツでもあります。私たち日本人が、新しいメディアやコンテンツ、さらにはスポーツのあり方を考える上で、これを積極的に活かさない手はありません。

それにもかかわらず、そんな軟式野球のトッププレイとはどういうものなのか、今のところ、動画共有サイトで検索してみても、なかなか適当な動画が見当たらないというのが現状です。多くの人々が、軟式野球のトッププレイとはどういうものなのか、知ることができないというのは、とても残念なことです。これは、軟式野球の社会的地位が低いからにほかならないでしょう。

しかし、軟式野球を「素人向け野球」、あるいは「硬式野球の劣化版」のような位置づけで捉えるのは、あまりにもったいないことです。軟式野球については、積極的にそれ単体で立派なスポーツとして考える必要があり、それを広く普及させることが、スポーツ界全体、あるいは社会全体にとっても、大きな意義を持つことになると考えるべきだと思います。

以上、タラタラといろんなことを書いてしまいましたが、一番大切なことは、とにかく楽しむことです。そういう意味で、野球を目一杯楽しんでみたいという方は、上記のような目的はさておき、是非、ご参加ください。

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哨戒艦沈没報道への感想

2010年06月10日 | 社会

最近、朝鮮半島情勢に関して、どうも腑に落ちないことがあります。それは他でもなく、韓国の哨戒艦沈没を巡る動向についてです。本日の報道によると、北朝鮮が国連安保理に書簡を送り、哨戒艦沈没は、米国主導の陰謀であると申し立てているようですが、それには一理あるように思うのです。

哨戒艦沈没が起こったのは、2010年3月26日でした。当時、私の家族が韓国にいたこともあり、大変、心配したのを覚えています。

-北朝鮮からの攻撃だったら、戦争になるし困るなぁ・・・-

しかし、その不安は、ひとまず解消されました。それは、当時の報道で、北朝鮮が関与している可能性は低いとされていたからです。

以下は、3月28日の「nikkansports.com」からの引用です(当時は、もっとあちこちで報道されたと思うのですが、どうも今見るとなかなか見当たらず・・・)。

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韓国哨戒艦2つに割れ沈没、不明者捜索

韓国軍は28日、北朝鮮との南北境界水域で沈没した韓国海軍の哨戒艦(1200トン級)について、艦船や航空機を動員し行方不明者46人の捜索を続けた。国防省によると、哨戒艦は爆発が起きた後、船尾からほぼ3分の1のところで船体が2つに割れて沈んだことが新たに判明した。

在韓米軍トップのシャープ司令官は同日、報道資料を通じ、これまでに北朝鮮の軍に「特別な動きはなかった」と言明。沈没に北朝鮮が関与した可能性が低いとの見方を示した。

沈没の原因究明に向け、船体の状況確認などのため韓国海軍の特殊救難隊員が現場海域に潜ったが、激しい潮流のため作業が難航。29日からは米軍の救助艦も捜索に加わるという。

李明博大統領は、哨戒艦沈没後4回目となる安保関係閣僚会議を招集し、原因の徹底調査を指示。鄭雲燦首相を現場に派遣した。政府高官によると、その後の情報分析でも、当時、周辺海域に北朝鮮の軍艦艇が侵入したり、北朝鮮地域から砲撃が行われた形跡はない。

国防省によると、船尾部分は白■島の南西約1・9キロの沈没開始地点で見つかり、船首部分は東南方向に約7・4キロ流されていることが分かった。船尾は爆発直後に沈み、行方不明者のほとんどは船尾にいた兵士とみられる。

韓国政府は日米など6カ国協議関係国に、状況を順次伝えている。

一方、行方不明者の家族の一部は軍艦艇で現場海域を訪れ、捜索の様子を見守ったが、「説明が不十分だ」と不満を募らせている。(共同)

※■は令の右に羽の旧字体

[2010年3月28日23時4分]
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結果として、当初、このように可能性が低いとされていた「北朝鮮からの攻撃」に落ち着いたわけです。私としては、そうであったにもかかわらず、どうして最初に、このような報道がなされたのか、大変、不思議に思えてしまうのです。

そして、いろいろと情報を漁ってみると、実はこの事件、韓国哨戒艦と米国原子力潜水艦の衝突事故だったという話があるようです。その論拠については、既にいろいろな方が、さまざまな視点から書かれているので、ここでは省きます。ただ、私なりには、そのように考えた方が、その後の北朝鮮や米国の反応を含めて、しっくりとくるような気がするのです。

一方で、韓国の主要メディアでは、米国の原子力潜水艦関与説を「怪談」と称して、こうした説の拡散を防ごうとしているように見受けられます。

中央日報(日本語版)では、「米軍核潜水艦と衝突して沈没?…「天安艦怪談」取り締まりへ」と題して、「ソウル地方警察庁サイバー犯罪捜査隊は天安艦沈没事件に関して犠牲将兵の名誉を毀損したり検証されない内容を真実であるかのように流布したりすれば、その行為を厳重に取り締まると明らかにした」と報じています

「怪談」の性質をどのように捉えるかはさておき、 「怪談」が出回るには、それだけの理由があると考えるべきでしょう。それには、この事件を巡る当局のチグハグな対応も含まれると思われます。そしてまた、その「怪談」を厳重に取り締まるというのには、(当局にとっては都合が悪い)それなりの背景があるものと考えます。

マスメディアを通じて発表されるものをどう捉えるかは、それぞれの自由です。これを強制することはできません。ただ少なくとも、それに大衆が乗せられ、戦争という多くの生命が犠牲になるような事態は、避けなければならないと考えます。そしてまた、万が一、その情報が虚偽であった場合には、それを信じた大衆を含めて、その犯罪への加担者となるということを忘れてはならないと思うのです。

そうしたことから、私なりには、マスメディアからの情報に触れる大衆の一人として、常に「多くの生命が犠牲になる可能性」を鑑み、それだけの覚悟と緊張感を持って、マスメディアからの情報に触れなければならないと思うのでした。

《おまけ》
上記のような観点から、今回の件を巡っては、私なりに北朝鮮の言にも一理あるように思っています。ただし、だからと言って、彼らの肩を一方的に持つつもりもありません。彼らの主張が国際社会で通用しないのは、これまでの彼ら自身の言動に起因しているもので、彼ら自身の問題だと考えます。また一方で、これからの日本としては、きちんとした独自の調査能力を有し、それに基づいた意思決定ができる体制を整えることが課題となるでしょう。私としては、そうしたことを含めて、次世代の情報通信システム(次時代インターネット)をきちんと構築しなければならず、それは我々が成すべきことであろうとあらためて強く思うのでした。

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シンボルマークのタコ

2010年06月07日 | 会社

うちの会社のシンボルマークは「タコ」です。これは名刺にもプリントされているため、初対面の方と名刺交換をする際など、この「タコ」の意味を聞かれたりすることがあります。聞かれれば、一応、それなりにお答えもするのですが、せっかくなので、この場にてその意味を簡単に整理しておこうと思います。

「タコ」には、大きく分けて、以下、3つのような意味が込められています。

1.柔軟な三次元生命体

現代社会は、高度な情報化社会でもあり、これまでの歴史のなかで、最も変化が激しい時代でもあると言えると思います。そうしたなか、企業をはじめとした組織が、変化に即応するための仕組みとして、プロジェクト制というものを採用したりしています。プロジェクト制では、既存の組織図に囚われずに、人員配置や仕事の進捗管理できるので、営利、非営利を問わず、これを取り入れている組織は、非常に多くなってきているように感じます。

しかし、新しい時代を迎えるにあたって、非常に大きなパラダイムシフトが必然であるという前提に立つと、そうしたプロジェクト制を持ってしても、十分な柔軟性やスピードを確保することができない事態が考えられます。

その問題の原因として、管理すべき組織、人、業務を二次元的に捉えざるを得ないというポイントが考えられるでしょう。それは、現在のデータベースの問題と言えるのかもしれません。実際、関連する業界では、そうした問題が提起され、改善についてもさまざまな試みがなされているようです。しかし、それでもこの問題の根本的な解決は、なかなか難しいように見受けられます。

私としては、この問題の根本的な解決には、三次元的発想が必要になるだろうと思っており、それをサポートする仕組みを作っていかなければならないと考えています。組織を如何に三次元的なイメージで捉え切れるか、そのイメージを実際の組織運営に如何に連動させていくかという点、これからの組織競争力を考える上で、極めて重要だと言えるでしょう(詳細は、「「スライム組織」の強み」、「「スライム組織」のご紹介」参照)。

シンボルマークのタコは、そうした三次元的な概念を導入することの重要性を表しています。変化に対して、柔軟かつ迅速に対応しつつ、積極的に三次元的な概念を導入することが、シンボルであるタコの意味するところであり、そうした組織こそが、パラダイムシフトの時代を乗り越えるのだろうと考えます。

2.八つ足で同時解決を実現

難しい課題に直面すると、いろいろな言い訳をしたくなるものです。そして、そうした課題を考える際、解決のための起点が見つからなかったり、複数の課題が絡み合うような状況にあって、どうしようもないという意味で、「鶏と卵」という表現を使うことがあります。当然のことながら、大きな事業を成し遂げようとすればするほど、そうした類の課題ばかりになってきます。少なくとも、何かしらの事業を成そうと思っているのならば、「鶏と卵」は、あって当然と言えるわけです。

そうした難題に向き合う人にとっての問題は、それらが「鶏と卵」かどうかではなく、それらをどのように解きほぐしていくかということです。そして、その解決のポイントは、時間をかけて二つを同時に解決するというところにあると考えます(「矛盾との付き合い方」参照)。つまり、二本の手を使って、同時に(一斉に)「鶏と卵」を解決するわけです(ここには、自分の名前である「一斉」や、社名である「イッセイ」にも通じるものがあると思っています)。

高度な事業を推進するということは、「鶏と卵」のような状況が、視界一杯に広がっているようなものです。その点、八本もの足(あるいは手)を持っているタコは、とても有利です。「8」は、横にするだけで「∞」にもなるわけで、そうした無数の手を持っているということは、それだけ多くの仕事を同時にこなすことができるということであり、多くの「鶏と卵」の問題も解決できるということにもなるわけです。

こうした視点から、シンボルマークのタコには、どんなに難しい問題であっても、それが解決するべきものである限り、「鶏と卵」などという言い訳をせず、無数の手を持ってして、同時解決を実現していくという思いが込められています。

3.宇宙人としての自覚

グローバルなどという言葉が使われるようになって、ずいぶんと経ったように思います。そして、この言葉には、地球規模的な価値観を植え付けるという意味で、とても重要な役割を果たしたのではないかと考えます。しかし、これからの時代は、もはや地球規模を超えて、宇宙規模的な価値観を築いていかなければならない時代ではないかと思うのです。

宇宙の果てを見たことすらない我々人類が、そのような価値観を築かなければならないという点、もしかすると、とても奇抜に聞こえるかもしれません。しかし、既に科学の最先端では、宇宙の果てを見据えており、それには遠からず答えを出していかなければならなくなると考えます。次の時代において、我々人類が、真剣に宇宙を考えることは、けっして突飛なことではないのです(「揺らめく現実世界」等参照)。

そして、そうなってくると、我々人類が、いつまでも「日本人」や「アメリカ人」といった国家の枠組みに囚われてはならないことはもちろんのこと、「地球人」という自覚でさえも物足りなくなることになってきます。つまり、積極的に「宇宙人」としての自覚を持たなければならないわけです(「宇宙人としての自覚」参照)。

これは単なるイメージでしかありませんが、タコと言えば「火星人」、あるいは「宇宙人」です。この点、あまり生真面目な顔をして主張するわけではありませんが、シンボルマークのタコには、そうした多少の遊び心も添えて、「我々は宇宙人であるべき」という意味を込めているのです。

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人生は空中ブランコ

2010年06月02日 | 人生

唐突ですが、人生は空中ブランコのようなものだと思っています。

しっかりとバーを握って、反復動作を繰り返すことは基本中の基本です。 場合によっては、無駄と思えるほど、同じ動作を続けていなければならないかもしれません。そのことによって、ブランコは次第に大きく揺れていくわけです。しかし、それを続けていると、いずれそのブランコの振れ幅は限界を迎えます。それでも、相変わらずそのブランコに掴まり続けるという選択肢もありますが、それではそれ以上のことは起こり得ません。

ここで大切になってくるのが、目の前にある別のブランコです。これは、ほとんど動いておらず、場合によっては完全に止まっているブランコかもしれません。しかし、このブランコに掴まることができれば、まったく新しい世界が開けるわけです。

そして、もしそうだとしたら、限界まで振り切ったブランコから手を放して、次のブランコに乗り移るということこそが、「生きる」ということになり得ます。ただし、これを実践すると、一瞬何にも掴まっていない、謂わば「空中浮遊」の状態が生じるわけです。これはとても怖いことかもしれません。もっと言うと、目の前にブランコがあるかどうかも分からないまま、霧の中でブランコを手放さなければならないこともあるでしょう。そんなことを考えたら、今、掴まっているブランコは絶対に手放せないという感覚は、とてもよく分かります。

しかし、ブランコを手放さなければならない時期は、きっと誰にでもやってくるのだと思うのです。とくに、さまざまな社会の仕組みや制度が限界を迎え、あらゆるところで「空中ブランコ」が、振り切ってしまうようなフェーズに入りつつある現代においては、そうした傾向が、より顕著に表れてくるのではないかと思います。

-しっかりバーを握っていろ-

これはこれで、人生を空中ブランコと喩えるならば、立派なアドバイスになるだろうと思います。冒頭に述べたとおり、これは空中ブランコの基本でもあるでしょう。

また一方で、こういう風にも言えるだろうと思うのです。

-潔くバーから手を放せ-

これは前者との矛盾を意味するのではなく、その人が置かれた環境に応じて、使い分ければよいだけの話と解するべきでしょう。これでもかというくらい反復動作を繰り返し、それでもブランコの振れ幅に変化がないというのは、その人が掴まっているブランコに問題があるのだろうというだけの話です。そして、繰り返しですが、社会に閉塞感が充満し、仕組みや制度が限界を迎えるようになればなるほど、こちらの選択肢を取らざるを得ない人々が増えてくるように思うのです。

私なりには、今までの人生のなかで、だいぶ「空中浮遊」を繰り返している感覚があり、それにもだいぶ慣れてきた気がしています。イメージとしては、空中ブランコで、ターザンのように渡り歩いている気分です。そういう意味で、今まで、ブランコに掴まり続けて、反復動作を繰り返してきたような方々、「空中浮遊」のような感覚が実感として湧かない方々には、「空中浮遊、意外と楽しいですよ」と言っておきたいのでした。

《おまけ》
前向きな言葉というのは好きですし、「諦めるな!」というな類の話というのは、とてもよく理解できます。ただし、時代によっては、「諦めよ!」というのも大切なことだと思うのです。これは本文の「バーを握れ!」、「バーを手放せ!」と同じことで、「諦めるな!」だけでなく、「諦めよ!」ということにも、それなりの価値があるだろうということでもあります。重要なのは、諦めた後に「何を諦めないか」ということです。バーを手放したら、次のバーを握らないといけません。奇しくも、今日は鳩山さんが総理大臣を辞任されるという報道がありました。総理大臣の職を諦めるというのは、大いに結構なことです。鳩山由紀夫さんという一個人の人生を考えるならば、これで全てが終わるのではなく、(政治の世界に限らず)次にどのようなバーを握ろうとするかが、とても大切なことではないかと思うのでした。

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