「のだめカンタービレ フィナーレ」のエンディングテーマだった「風と丘のバラード」、私の大好きな曲です。先日、ある方とこの曲について話していたので、ちょっと思い出しました。その曲にはこんな歌詞があります。
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いま正しいかより 正しかったと思い出せるように
太陽の下 手を振って歩く
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このフレーズには、多くの人々にとっての「正しさ」を考える上で、非常に重要なヒントがあるように思います。
「正しさ」は多様であり、「人の数だけ正義がある」と言ったりします。そして、その通りだろうと思います。だからこそ、「何が正しいか分からない」と言う人もいるわけで、そういう人々の考えを否定するつもりは、毛頭ありません。むしろそれは、安直な正義を振りかざすような人よりも、ずっと真面目に自分の人生と向き合っている人かもしれないという意味で、きちんと評価されなければならないでしょう。
ただし、それだけではいけないだろうとも考えます(「交錯する正義と悪」参照)。「何が正しいか分からない」というのは、自らの言動の過ちを正さない言い訳にも使えてしまいます。人間には、何が正しいかを知らなくとも、何が正しいかを模索し続ける義務があるはずです。そして、何が正しいかが分からない人にとって、正しいことを実践するためのヒントは、この歌詞にあるのではないかと思うのです。
即ちそれは、この歌詞にあるように、せめて「正しかったと思い出せるように」行動することでしょう。今、正しいかどうかが分からなくても、あとから正しいと思えるのであれば、それはきっと正しいものになるはずです。
そして、この「正しかったと思い出せるように」生きるコツは、限りない可能性(最悪から最良までの極めて幅広い結果)をイメージした上で、絶対に後悔しないように生きることだと考えます。後悔しない生き方をしていれば、あとで振り返った人生は、最終的に「正しかったと思えるもの」になっているでしょう。このことは、果てなく流れる時間を味方にするということでもあります(「時間との付き合い方」参照)。
既に、「正しさ」の本質を理解している人がいるかもしれません。それはそれで、大変結構なことです。しかし、その逆が必ずしも悪いわけではありません。何が正しいのかが分からなければ、あとで正しかったと思えるような生き方をしてみてはどうかと思うのでした。
《おまけ》
逆に安直な正義を振りかざした人、「正しさ」を履き違えてしまった人は、あとで自分が間違っていたことについて、大いに思い知らされることになるでしょう。その際には、それに相応しい代償を支払うことになります。この場合の代償とは、本文で述べているような、イメージすべき「限りない可能性」の内、見落としていた最悪の結果(あるいは見て見ぬふりをした最悪の結果)になるような気がします。それは、昔からの言葉で「自業自得」と表されるものなのかもしれません。