常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

タイムトラベラーはいてもいい

2011年07月13日 | 歌詞&台詞

先日、「戦国乙女~桃色パラドックス~」に、こんな台詞がありました。

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■伊達
私たちは、あなた方にとって、遠い未来の世界からやってきたものなのです。

□信長
未来じゃと?

■伊達
ええ、でもより正しく言うと、時空連続体の時間軸的にははるか未来ですが、多世界解釈論的には、複数の異なる次元の事象平面を横断する形で、もっとも波動関数が・・・

□信長
つまりお前たちは別の国からまいったということか?
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ここで言われている時間移動の話、何となく分かる気がしています。

私は、かねがねこの宇宙なるものが唯一絶対のものではなく、多世界解釈論のようなものを積極的に受け入れ、その外に広がる無数の別世界(あるいは別宇宙)の存在を認めていくことが、これからの科学において必要なのではないかと考えています(「「五次元世界へのヒント」、「多世界解釈の不思議」等参照)。上記、「戦国乙女~桃色パラドックス~」に出てきた台詞は、時間の移動を、多世界解釈論に基づく他世界(他宇宙)への移動と捉えたのだろうと解し得ます。

時間というのは、本来、不可逆的なものであり、これを遡ることはできません。しかし、時空という言葉が示すとおり、時間と空間はセットで存在します。それはつまり、多世界解釈論的な意味での他世界(あるいは他宇宙)にまたがって移動することができれば、結果として、(あくまでも他の世界ではあるけれども)時間を遡ることが可能になるということを指すのだと思われます。

同様の観点から、「Steins;Gate」の第2話に出てきた台詞も、実に興味深いです。

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タイムマシンはセルンによって独占されています。一般人も企業も手に入れることはできません。彼らは自身の利益のためだけに用いて、世界にディストピアをもたらしました。私は、未来を変えるためにやってきました。セルンによって作られたディストピアを破壊し、再び自由を手にするためです。

(中略)

過去の自分に会うことも可能です。その場合、世界線が移動します。まず時間は、過去から未来へと流れる一本の線ではありません。世界線という無数に並行に流れる川のようなもので形成されています。例えば、あなたが今日通り魔に殺されるとします。それを未来からきた私が防いだとすれば、あなたが殺された世界と生き延びた世界に世界は分岐するというわけです。
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このアニメでは、「世界線」という概念が登場しますが、時空の考え方自体は、「戦国乙女~桃色パラドックス~」のものと同じでしょう。時間を越えるということは、空間を越える(つまり、別の世界に移動する)ということと、深く関係していると言えると思うのです。

私なりには、多世界解釈論的な無数の世界が存在しているとして、それらが互いに干渉しているのではないかという仮説を置いています。それは、ブラックホールなどの切り口から、いずれ明らかになっていくことでしょう(「宇宙が膨張を続けるカラクリ」参照)。そして私は、そういう意味で、無数の世界間をまたがって移動する行為は、けっして不可能ではなく、その結果としてのタイムトラベルもあり得るのではないかと考えます。

ところで、仮にタイムトラベルが可能だとして、「Steins;Gate」に登場するような(悪の?)組織が、そのメリットを独占するような事態に、どう対処すべきかという問題が懸念されるかもしれません。同作品での「セルン」は「SERNと」表記されていますが、実際、「CERN」という研究機関は実在していますし、そこではブラックホールなどの研究がされていることも事実です。

ただし、この点について、もし心配するような人がいるとしたら、杞憂だろうと言っておきたいと思います。

以下、そう考える根拠について、簡単に触れておきます。

我々が視認している三次元空間・宇宙(上図で言うところの「我々全員が認識している宇宙)は、他の宇宙からの干渉を受けながらも、その干渉レベルが極めて低いものであると考えられます。それは、この宇宙が、そこに生きている全生命体が思い描く、最大公約数的なイメージの結果として、存在していると考えられるからです(交差点としてのこの宇宙」参照)。別の言い方をすると、この宇宙では、特定の人々だけに都合がいい超常現象は起こらないということです。

しかし、「Steins;Gate」にあるような、一部の人々だけがタイムトラベルできるという世界は、あくまでも彼らの想いであって、全生命体の最大公約数的なイメージからは外れてしまいます。つまり、もし一部の特定の人々が、タイムトラベルをすることになったとしても、それは上図で言う「我々全員が認識している宇宙」ではない(彼らだけが望む)宇宙間で、勝手にタイムトラベルしているだけということになるのです。

私は、この宇宙を唯一絶対のものとは考えていませんが、それでもこの宇宙に生きている存在であり、ここでどう生きるかが最も大切なことだと考えています。そして、この宇宙が他の全生命体が望むかたちとして成り立っているならば、ここが一部の特定な人々のタイムトラベルの影響を受けて、乱されるということはないと思うのです。

そういう意味で、「タイムトラベルはご勝手に」と思います。タイムトラベラーはいてもらって構わないし、好きなだけタイムトラベルをすればいいだろうと考えます。ただし、タイムトラベルをした先は、きっと「我々全員が認識している宇宙」とは、違う宇宙になっていると思うのです。

いずれにしても、こうしたことを考えさせてくれるアニメなるもの、いつものことがら、なかなか大したものだと思います。

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重要な仕事をしている政治家

2011年07月09日 | 政治

菅総理大臣の言動をはじめとした、最近の政治のドタバタ劇を指して、「日本は他の分野で頑張っているのに、政治だけはレベルが低い」などと評する方がいらっしゃいます。言わんとすることは分からないでもないですが、それでも敢えて言うべきは、今の政治のレベルこそが、私自身を含めた日本国民のレベルを示しているということです。

政治のレベルが低いというのは、国民全体のレベルが低いということです。

少々言い方を変えるならば、自分たちが投票して選んでおきながら、その投票行為に対する自らの責任を棚上げしたまま、「裏切られた」、「アイツが悪い」などと言っている、低レベルな国民が数多くいるということになります。そうした国民の無責任さが、今の政治にそのまま表れているとも言えるでしょう。

そういう意味で、菅総理大臣のレベルの低さは見事です。

ただし、物事の見方というのは実に多様です。レベルが低いというのは、ある特定の価値基準からの評価であり、ちょっと違った物差しをあてることで、とても素晴らしい政治家であるという評価も可能でしょう。

私なりに、今の政治家たちは、これからの新しい時代に向けて、政治を国民に返すための仕事を捨て身で行っている、素晴らしい方々という評価もできるのではないかと思います。ここで言う「新しい時代」というのは、「直接民主制の時代」という意味です。

本来の意味での民主制は、直接民主制であることは言うまでもありません。現在、世界中でとられている間接民主制のように、選挙を経た代理人(いわゆる政治家)を立てているのは、空間的・物理的制約から情報伝達や手続き上の支障があるため、個別の法案などの案件について、有権者全員が投票活動を行うというのが事実上不可能だったからです(衆愚政治を避けるために間接民主制をとっているという意見もあろうかと思いますが、たとえ衆愚政治に陥ったとしても、純粋な直接民主制を行えていれば、それも含めて、本来あるべき民主主義の姿であろうと考えます)。つまり、本来ならば直接民主制をとるべきところ、やむなくとっているのが間接民主制なわけです。

しかし、情報通信技術の発達により、これからの時代においても、間接民主制をとり続けなければいけない理由はなくなるかもしれません。いやむしろ、これからの時代における情報通信インフラは、直接民主制を可能にするくらいの利便性を求められて然るべきでしょう。そう考えると、国民ひとりひとりが、有権者としてのきちんとした自覚を求められることになります。間接民主制では、政治の責任を、間に入った代理人に押し付けることができますが、直接民主制の政治においては、誰も責めることができないのです。つまり、それだけ有権者ひとりひとりが、自らの責任を自覚していないといけないということになるわけです。

翻って、今の国民にそれだけの自覚があるかというのが問題です。

長らく間接民主制を使ってきた多くの国民は、それをごく当然のものと捉えてしまっているような気がします。結果として、政治の責任を、間に入った代理人になすりつけるクセがついてしまっているのではと思うのです。それでは、自らが直接的な責任を負わなければならない、直接民主制を使いこなすことはできません。

つまり、国民ひとりひとりが、政治参加に意欲を持ち、それに責任を持とうとする姿勢こそが、これからの時代に求められると思うわけです。

そうした時代の転換期にあって、今の政治家の方々は、自らの政治家としての無能をさらけ出しつつ、国民ひとりひとりの政治参加を呼びかけているとも言えます。少々乱暴な表現になるかもしれませんが、「あんな無能な人でも政治家ができるなら、自分でも政治家ができるだろう」、「アレなら、自分が政治家した方がマシ」と思わせてくれるというのは、将来、直接民主制時代を迎えるかもしれない有権者に対して、必要な政治意識、責任意識を芽生えさせるために、とても重要なことと言えるのです。そうした重要な仕事を、「無能」、「低レベル」というネガティブな評価を受けつつ、身を削りながら進めている政治家の方々が、素晴らしくないはずがありません。

今の政治が酷いという主張はよく分かります。しかし、そうやって他者を責めてばかりいても、何も好転しないでしょう。次の時代を見据えつつ、国民ひとりひとりが、淡々と自ら為すべきことを進めていれば、政治家は政治家なりに、とても熱心に重要な仕事をしていると思えるのではないかと思うのでした。

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