常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

笑いすぎに注意

2009年05月30日 | 日常

「けいおん!」を見ている人は、深夜にあんなものを見て大丈夫なんでしょうか。私の場合、静まり返った夜に、あれを見るのは相当辛いのです。爆笑続きで、とてもマズイ感じです。「唯」のボケ加減も最高ですが、今回は特に、いちいち全てのキャラが活きてますね。京アニ恐るべし・・・。

ところで、今回の「けいおん!」のテーマ。

-音楽室でろくな部活もせず、「ケーキやお茶を楽しむ」ことが悪いのか?-

これについては、普通に仕事をしている方々にも、共通するテーマを含んでいると思うので、できればあらためて書きたいと思います(「仕事と遊びの方程式」参照)。

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「うつがない」という病気

2009年05月28日 | 人生

ある方とお話していたとき、その方が、非常に恥ずかしいことと前置きしながら、「私、医師にうつ状態にあると診断されたんです」とおっしゃいました。私はこれを聞いて、とても自然に感じましたし、その方には、何も恥ずかしがることはない旨をお伝えしました。私は、こんな社会情勢のなかで、むしろ「うつ状態」がない人の方が、病気ではないかと思うのです。

今の世の中において、「うつ状態」など、あって当たり前でしょう。問題は、それを制御できるかどうかであり、それを制御できなくなったときに「病気」になり、「うつ病」というかたちとして表れるのではないかと思います。そして一般的には、そうした心の状態を制御するには、精神的な強さが求められるということなのでしょうが、私はこれをそれほど難しいことであるとは思いません。

要は、無理をしないということです。本当にダメなときは、「きっぱり諦めてさっさと休む」ことが肝要です。そして、この休むというのは、「うつ状態」のひとつの形態であるとも考えられます。ただし休むということが、いわゆる「うつ状態」と異なるポイントは、かなり意識的なレベルで行われるというところでしょう。つまり、「とことん何もしない」、「とにかく寝る」、「ぐったり休み続ける」というのは、場合によっては、そうせざるを得ないという意味で、「うつ状態」の側面も有し得ますが、「徹底的に休む」という主体的意思を伴った行動のひとつとして捉えることもできるということです。

そして私なりには、このような主体的意思を伴った制御できる「うつ状態」を創出しておくことには、制御不能な「うつ状態」、いわゆる「うつ病」にまで発展することを未然に防ぐ効果があるのではないかと考えています(「感情の主人たれ」参照)。

そういう意味で、冒頭の「うつ状態」にある方には、私自身が相当な「うつ状態」にありながら、けっして「うつ病」にはならないことをお話いたしました。私の場合の「うつ状態」は、「とにかく寝る」ことであり、睡眠がとれなければ、「(アニメなどを見ながら)とことん引き篭もる」ということです(最近は、これにスポーツも加わってきました)。即ち、自ら「寝込む」、「休む」、「引き篭もる」というような「うつ状態」を意識的に作り上げ、それをとことん楽しんでしまうのです。これがきちんとできていれば、昼間や会食の席で外部の方々とお会いしている時など、「うつ状態」が許されないシーンでは、かなりはっきりと「そう状態」を保つことができます。要は、「うつ状態」が存在するかしないかではなく、存在する「うつ状態」をいかに制御できるかどうかが、「うつ病」にまで発展するかどうかの境目であろうということです。

このような観点から、「うつ状態」があることは、けっして恥ずかしくないと思いますし、むしろ積極的に、そうした自分の心的状態を受け入れて、認めていくことで、精神を健全な状態に保てるのではないかと考えるのです。

ちなみに、上記を実践する上では、さまざまな問題があるでしょう。もしかすると、「それができたらそもそも「うつ」など問題になっていない」、「もっと効果的な対処法はないのか」などというご指摘もあるかもしれません。

例えば、「きっぱり諦めてさっさと休む」という割り切り、切り替えが非常に難しく、その開き直りができない人はどうすればよいのかというご質問もあると思われます。

しかし、そうした開き直りができない方に対しては、「「うつ状態」に陥る前、調子が良かったときに、驕ることなく、どれだけ精一杯生きてきたのか?」という問いを投げかけたいと思います。もし、「うつ状態」に陥る前、何事も順調で調子が良かったときも、それに驕らず精一杯生きてきた人であれば、「やるだけの事はやった」という自信から、「きっぱり諦めてさっさと休む」という開き直りも、きちんとできるでしょう。そして、そういう人は、いかに調子が良かろうとも、それに浮かれず、ある意味では、常に「うつ(のような)状態」を抱えていたであろうということです。これは一見、論理の矛盾ではありますが、事の本質ではないかとも考えます。

「きっぱり諦めてさっさと休む」という開き直りができない人は、どうすればよいのか?

そういう意味で、この問いは、私に対して投げかけられるべきものではなく、過去のその人自身に対して投げかけられるべき問いのような気がします。それは結局、自分の日頃の行いこそが、自らを救うということなのでしょう。そういう意味で、常に「うつ状態」を抱えて、自らと格闘するということが、とても大事なことなのではないかと思えてなりません。

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ちょっと猫かぶり

2009年05月26日 | 日常

最近、柄にもなくクラシック音楽に関する仕事をしたりしています。とても立派なオーケストラを抱える楽団で、先日、そこの楽団員の方に「○○さん、音楽は?」と聞かれてしまいました。

「はい。MP3プレイヤーには、アニソンばっかり詰まっています!」などと答えられるはずもなく、「すみません。ほとんど聞いていないので、一度、コンサートに行こうと思います」と返してしまいました。

ただ一応、このように返したのには理由があって、この仕事を始める前に、楽団の上の方にいろいろと意見を求められたので、「是非、プリキュアの曲をオーケストラでっ!」、「のだめカンタービレではっ?」、「マクロスFとかもどうでしょう?」などと話したところ、「そういうのは、ちょっと時間をかけよう」と釘を刺されたため、こっち方面の話は、できるだけ避けるように心がけているのです。

そういうわけで、しばらくはちょっと猫をかぶりつつ、他のことからジワジワやっています。ただ、そのうちアニソンばっかり演奏する楽団が出てくるかもしれません。そのときは、要注意ですぞっ!

《おまけ》
「咲-Saki-」のEDテーマが変わってしまったと嘆いていました(「入替え早くない!?」参照)が、また元に戻りましたね。うんうん、やっぱりこの曲は愉快でいいですな。

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一太刀の重み

2009年05月25日 | 武術

スポーツのひとつとして「剣道」があります。私は、これをまったく否定するつもりはありません。「剣道」を通じては、いろいろなものを学ぶことができるでしょうし、それに携わる方々は、それぞれの信念や思いをもって、関わっていらっしゃるのだろうと思います。またスポーツには、健全な青少年の育成のみならず、大人たちの趣味や楽しみとしての効用も大きく、そうした観点において、大変意義があるのだろうと考えます。

ただ竹刀を使うような、いわゆるスポーツとしての「剣道」を持ってして、命をかけた真剣での技量や優劣を決することができると考えるのは、いささか問題があるような気がしてなりません。

単純な話、真剣は鉄でできており、竹刀とは比べ物にならないほど重いのです。「剣道」では、打ち込んだ後に、すかさずその竹刀を元の位置に戻すことができますが、真剣ではそうはいきません。構えた真剣を振り上げてから振り下ろすまでには、それなりの時間がかかりますし、さらに振り下ろしきってから、真剣を元の位置に戻すまでには、竹刀とは比較にならないほどの時間と労力を要することは、容易に想像できるでしょう。

このように、振り下ろす動作やそこから元の構えに戻るまでの動作に時間がかかってしまう真剣を使って、自らの生命を賭けなければいけない、文字通りの真剣勝負をしなければならないとなれば、それは相当慎重でなければなりません。つまり、相手に一撃を加えるということは、自らにそれ相応の隙を作るということと同義であり、真剣勝負で勝つためには、原則として一撃必殺で相手を倒さなければならないということなのです。こう考えると、むやみに剣を振るってはならないということが、ある程度、理解できるのではないかと思います。そしてまた、真剣勝負における強者とは、一撃で相手を倒す術を心得ている者であると考えられるでしょう(「抜かせてはならぬ最強の剣」参照)。

ただし、その必殺の一撃を繰り出すということは、あくまでも「隙を作る」ということと紙一重の関係にあります。私としては、そうした真剣の勝負における紙一重の世界のなかで、必殺の一撃とは、相手の攻撃を受ける防御から生まれてくるのではないかと考えます。(詳細について、イラストで上手く描ければよいのですが、その才能がないためきちんと表現できません。申し訳ありませんが、とりあえずは「正中線を保つことの重要性」をご参照ください。)

ところで、真剣での勝負について、このように整理してみると、剣と剣とを激しく打ち合わせる「チャンバラ」が、どうして成り立つのかということについて、疑問に思われる方がいらっしゃるかもしれません。もし、こうした疑問を持たれる方がいらっしゃるとするならば、その方は、真の意味での「武」を深く理解されている方かもしれません。つまり、一撃必殺の技を持ち合わせている達人であれば、何度も剣を交えるような戦い方、「チャンバラ」はしないはずであると理解できているかもしれないからです。私としては、こうした疑問や指摘が、真剣勝負における剣の本質を突いたものであると考えます。そして、そうした視点から導き出される私なりの結論は、真剣勝負における「チャンバラ」とは、一撃必殺の技を持ち合わせていない者、真の強者ではない者同士の斬り合いということになるだろうということです(あるいは、一撃の重みについて、真剣ほど考えなくてよい竹刀での勝負なら、「チャンバラ」は成立するということかもしれません)。

真剣勝負では、一太刀が大変重いのです。本当に真剣を扱う者は、むやみに剣を振るうことがないように気をつけなければならないということでしょう。

また、真剣勝負とは、単に物理的な「真剣」を使った勝負だけを指す言葉ではありません。日常生活のなかで「真剣勝負」、「真剣み」、「真剣な・・・」という言葉がよく使われているとおり、「真剣」は私たちの日常に溢れているのです。その「真剣」のひとつは、私たちが普段使っている言葉ではないかとも考えます。言葉は、人間と人間とを結び付ける役割を果たしており、それは時に、精神的な意味でとてつもない武器になり得ます。もし、一太刀の重みを知っているとするならば、私たちは言葉が持つその重みをきちんと認識した上で、慎重に使っていきたいものです(「分からないことは言わない」参照)。

「真剣」に生きていくとは、そうした「一太刀の重み」を知ることではないかと思うのです。

《おまけ》
「侍戦隊シンケンジャー」は、シンケンレッドがカッコよくて大好きなのですが、稽古のシーンが、きまって竹刀なのが残念でなりません。そもそもシンケンジャーなのだから、稽古も真剣(譲って木刀)にしてくれたらと思うのです。主題歌も「チャンチャンバラ♪♪、チャンバラ♪♪」という部分で、記事本文のような問題意識から、「えぇ~。シンケンジャーなのに、チャンバラなのかぁ~」などと思ってしまうのです。まあ、元々子供を相手にしているものだし、子供が真似をして真剣でも振り回したがったりしたら問題でしょうから、仕方がないことなのでしょうけどねぇ・・・。

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豆腐作っちゃった

2009年05月24日 | 日常

最近、だいぶ大きな変化を感じます。

それは、このブログを通じて発信してきたことを実践していくという意味で、極めて重要なことであり、またそのために必要なプロセスなのだろうとも思います。単純に言えば、「世界のため」、「全体のため」という意識から大きく離れて、目の前にある身近なことだけに集中するということです。一般的に、これらは「相反するもの」、「矛盾するもの」と思われるかもしれませんが、私にとっては、結果的に「けっして矛盾しない行為」であり(「自分を大切にしていい理由」参照)、大きな目標に対しては、身近な楽しみを味わう時間を過ごしつつ、焦らずにじっくりと時間をかけるということも大切なのだろうと思います。

そうした観点から、ここ数日、ちょっとくだらないと思われるようなものも含めて、いくつか具体的な目標設定も始めています。それらについては、機会をみながら、徐々に整理したいと思いますが、その流れのなかで、これまでやらなかったことを体験することも次第に多くなってきました。

その一環として、今日はキャンプ場で豆腐作りにチャレンジしてきました。できあがった豆腐は、その場で食べましたが、その味も実に素晴らしかったです。


大豆の汁を煮る


絞って豆乳を作る

にがりで固めて・・・

ただ、「チャレンジした」と言っても、実際にはキャンプ場の方に言われるがままでしたし、グループでの作業だったため、私自身はほとんど何の作業もしていません。そういう意味で、私が大きなことを言う筋合いではないのですが、それでも、薪で炊いた火から豆腐を作るというのは、なかなかすごいことだと思いますし、私にとって非常に新鮮な体験でした。

はい、今日の記事は、ただそれだけのことです。つまらない?でもま、「日常」カテゴリーだし、たまにはこんな記事があってもいいでしょう。

《おまけ》
豆腐作りは、ほとんど参加していませんが、何もしなかったわけではありません。その前に作った焼きそばは、私が薪を炊いて、(煙のなか涙を流しつつ)私が炒めたので、これは堂々と言えるのです。ただ、焼きそば作りは、「あまりに一般的過ぎる」、「自分が作業をしていたため写真がない」等、インパクトや面白味に欠けるため、本文から割愛いたしました・・・。

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入替え早くない!?

2009年05月20日 | 独り言

いろんなもののライフサイクルが早くなってきていると思います。アニメの主題歌も、次々と新しく入れ替えていって、それらをきっちり売り出していかないといけないという事情もあるのでしょう。

気付いてみたら、「咲-Saki-」のEDテーマも、7話目にして入替わっちゃいましたね。

6話までのEDテーマ、「熱烈歓迎わんだーらんど」は大好きだっただけに残念です。麻雀っぽいノリの良さもさることながら、CVの植田佳奈さん、小清水亜美さん、釘宮理恵さん、白石涼子さん、伊藤静さんという豪華5人衆(3人衆くらいはあるけど、5人ってなかなかないでしょう?)が歌い上げるという意味でも、ちょっとスペシャルな感じがしていたので、もったいない気がしてなりません。

ま、こんなことを言っても仕方ないのですが・・・。

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ギアチェンジ完了

2009年05月19日 | 自分

先月、一年間勤めた職場を辞して、次のフェーズに向けて活動を開始しました(「次フェーズへの移行」参照)。

自動車で、MT(Manual Transmission)車の運転方法を知っている人も、だいぶ少なくなっているかもしれませんが、それに喩えるならば、ひとまずクラッチを踏んで、ニュートラルにした状態が先月でした。

今月に入って、無事、シフトを次のギアに入れて、クラッチを離すことができた感じです。あとは、きちんとアクセルを踏めれば、前よりもっとスムーズに加速していける感覚があります。長居をすれば、しがらみになるものも、こうしてギアを入れ替えていくことで、すべて強みに変えていけるという気もしています。

いずれにせよ、いつものことながら「順調」です。

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口直しのDVD

2009年05月17日 | 独り言

「仮面ライダーディケイド」のカブトが終わりやした。
これがディケイドの実力ですか・・・。
※「やはりカブトはかっこよく」参照

劇場版「仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」があるそうですが、ちょっとね・・・。プリキュアオールスターズは、期待もしたし、実際本当に良かったのだけれど、この仮面ライダーには全く惹かれる感じがしないなぁ。

さっさとカブトのDVDでも見ておきますか。

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俳優が活躍するアニメ

2009年05月15日 | ヒーロー&アニメ

「舞-HiME」、「舞-乙HiME」を見ました。熱かったです。それとキャラクターの俳優化が、とても面白いと思いました。

キャラクターの俳優化とは、つまり「舞-HiME」(一作目)で登場したキャラクターたちが、「舞-乙HiME」(二作目)という別の作品で、まったく違う世界設定が与えられつつ、ある意味「俳優」として活躍するわけです。こうした「俳優の活躍」は、アニメではなかなかありませんし、非常に面白いと思います。同じ顔・同じ声のキャラクターが、異なる作品の中で、まったくの別人として振舞っているのです。

ところで、当たり前のことながら、実写版のドラマや映画では、これは普通にあることです。有名な俳優や女優は、実にいろいろなドラマや映画に出演します。基本的に視聴者は、そうした有名な俳優や女優について、よく知っており、その作品の世界にドップリと浸かりつつも、彼らをその世界の登場人物とは別に、演技者としてもきちんと認識できているわけです。

私としては、アニメにおけるこうした手法が、もっと一般化されても良いのではないかと思います。アニメコンテンツの価値をどのように捉えるかということについては、さまざまな意見があるでしょうし、そのなかでアニメがひとつの完結したコンテンツとして、作品化されていることに、大きな意味があるということは言うまでもありません。しかし、アニメのコンテンツとしての価値は、それだけでなく、例えば数多くの「愛すべきキャラクター」が生まれていることも、計り知れない大きな価値だと思うのです。そうした意味で、「舞-HiME」プロジェクトは、「キャラクター」の価値を実にうまく活用しているのではないかと考えます。

一連のシリーズの中で、私個人としては、ゆかなさん演じる超真面目な「真白理事長」が、「舞-乙HiME」(二作目)でダメダメな「マシロ女王」になっているギャップが、最高に楽しめました(実際、ゆかなさんの演技を楽しむという意味では、断然「マシロ女王」でしょう!)。その他、「舞-乙HiME」(二作目)で、他の「舞-HiME」(一作目)メンバーが大活躍しているのに、それまでなかなか登場してこなかった「舞-HiME」(一作目)の主人公・舞衣や命が、クライマックスに向かって出てくるあたりは、なかなか燃えるものがありました。敢えて喩えるならば、苦戦しているウルトラマンタロウに、兄のウルトラマンやウルトラセブンたちが加勢してくれるときのような高揚感とでもいった感じです。

いずれにせよ、こうした試みは、今後のアニメ業界を活性化させるひとつの手がかりになるかもしれません。現在放送中の「宇宙をかける少女」は、「舞-HiME」と同じ監督さんが手掛けられており、その第9話では、キャラクターたちを本編とはまったく関係ない世界設定(野球のストーリー)の中で演じさせています。こういうのは、単純に楽しいと思うのです(「絶対可憐チルドレン」で、時折「ハヤテのごとく!」のナギお嬢様たちが出てくるときも、結構笑えてました)。

アニメ業界では、権利関係を含む様々な問題があるのでしょうから、あまり無理を言うつもりはありません。「マリア様がみてる」のメンバーで、「プリキュア5」を実現することが難しいであろうことも分かっています(「番組融合で広がる可能性」参照)。

ただそれでも、時代の流れに合わせて、「初音ミク」あたりでジャンジャンオリジナルアニメが作られて、そこから派生した新しい別のキャラクターたちが、さらに次々と新しい作品を編み出していくといった波及現象があってもいいのではないかと思うのです。それを実現するには、たしかにいくつかの仕組みが必要なので、それについては、自らが果たすべき役割を意識しながら、じっくりと進めていきたいと思います。

《おまけ》
非常に個人的なことなのですが、アニメで「金髪でツインテールの女の子」を見ると、反射的に「水樹奈々さん?」と思ってしまいます。これは「魔法少女リリカルなのは」のフェイト、「しゅごキャラ!」のほしな歌唄、「White Album」の緒方理奈、「神曲奏界ポリフォニカ クリムゾンS」のユギリ・ペルセルテ等のイメージなのですが、私としては、いっそのこと「金髪・ツインテールのキャラクター」と水樹奈々さんを結びつけて、一人のアニメ女優を作ってみたらどうかと思ってみたりもします。そのアニメ女優が出演した場合には、「キャスト・水樹奈々」というかたちで出すのもいいですが、そのアニメ女優をキャストとして扱うという考え方もありなのではと思うのですが・・・ダメかな??

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自分ランキングの意義

2009年05月14日 | ランキング

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人気ランキング?
そんなのまず自分が決める「自分ランキング」ありきでしょ?
「自分ランキング」の集計が、いわゆる「人気ランキング」だよね?
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人間の優劣と競争社会」という記事で、「自分も他人も、みんなそれぞれ優れている。優れている部分が違うだけである。したがって役割が異なってくる。」と書きました。

その割には、アニメやアニメソングのランキングをしていることについて、「結局、優劣を語っているではないか」というご指摘もあろうかと思います(「今期のアニメタイトル」、「個々人の音楽ランキング」等参照)。たしかに、こうしたランキングによって優劣を決してしまい、結果としてランキングの上位を目指すための競争が生まれ、果てない争いが生じるという可能性は否定し得ません。

ただ、アニメや音楽に限らず、いわゆる作品の本質としては、他人を喜ばせるということが極めて重要なのだろうと思います。たとえ人気作品のなかに、作り手の方が「自己満足でやっているだけ」とおっしゃるものがあるとしても、そうした動機の問題ではなく、多くの人々に支持される(人気がある)というのは、それだけ喜んでもらえているという意味であり、優劣という意味合いよりは、その結果としてのランキングはあってもよいのではないかと思います。

むしろ、そのなかで私が問題として取り上げたいのは、「限られた評価軸しかないにもかかわらず、それがあたかもすべてであるかのように扱うこと」、「優れた部分があるにも関わらず、評価軸の限界ゆえに正当に評価されない作品があること」です。この問題は、単に「評価軸の問題」としてではなく、才能がある作り手や素晴らしい作品が正当に評価されず、それが故の歪みや格差が生じるという意味で、社会に多大な悪影響を及ぼしかねないと考えます。

そうした問題意識において、いわゆるマスメディアというのは、そうしたバランスを取るのが非常に難しい存在であることを指摘せずにはいられません。かつてに比べて、創作活動が非常に活発となり、極めて多くの作品が生み出されているなかで、マスメディアの限られたリソース(時間枠、チャンネル、紙幅、掲出場所等)によって、それらをすべて取り扱うということは事実上不可能というのが現実です。もちろん、これらの作品群にランキングを付し、その重み付けに応じて、マスメディアのリソースを振り分けるということも考えられますが、現在の作品群のボリューム、それに応じて多様化しているニーズを取り込めるほど、リソースの絶対的な不足を補うことはできません。

したがって、私が行っているランキングは、そうしたマスメディアの限界を認識した上で、本来、もっと評価されるべき才能に目を向けたいという意識から発しています。もう少し別の言い方をすれば、マスメディアで、ある程度の評価をされている方々は、正当かあるいはそれ以上に過剰な評価を既に受けているのであり、自分の耳目で確認をして、本当にそれが良いと思わない限り、とくに私のランキングで取り上げる必要はないと思うのです。

私の評価軸は、「私をどれだけ喜ばせてくれたか」であり、それはあくまでも私が決めることです。

一般的なマスメディアでの評価軸について、例えば音楽であれば、凡そ「歌唱力」や「演奏力」ということになるでしょうし、そのうち人気歌手になろうとすると、一部「外見」や「踊り」といった要素も加わってくるかもしれません。場合によっては「人気ドラマの主題歌だから」、「CMソングになっているから」という理由もあるでしょう。それはそれで、これまで多くの人々に受け入れられるための要因として、きちんと機能してきたのだろうと思いますし、それをマスメディア(特定の人々)が誘導してきた側面があるのだろうと考えます。

しかし、私にとっての音楽の評価軸は、「私がどれだけ感動したか」であり、基本的に「歌唱力」や「演奏力」といった技術面は、基礎的な要素ではあっても、決定的な要素ではありませんし、また歌い手の「外見」や「踊り」もそれほど関係ありません。

「ランキング」の意味を考えるうえで重要なことは、まずはそれぞれが自信を持って、自分なりの「自分ランキング」をつけることであり、それをきちんと集計できたときに、はじめて「ランキング」は、それなりに意味のある「ランキング」になるだろうということです。現時点においては、そうした全体としての「ランキング」を形成する仕組みが非常に未熟であり、それが故に、上記のような歪みや格差が生まれてくるのだろうと考えます。

こうした問題意識から、私としては、次の時代に相応しいメディアの仕組みを作り上げなければならないと思いますし、それをひとつの重要なテーマとして考え、取り組んでいこうと思っています。

ただ、その仕組みができあがらない今日においては、ひとまず私なりの「自分ランキング」をつけていくことこそが、小さいながらも、問題解決のために踏み出せる第一歩だと思うのです。こんな活動を続けつつ、新しい仕組みが実際のメディアシステムとして動き出したとき、それぞれが「自分ランキング」を自由に反映できるようになり、無数にある作り手や作品は、文字通り「無数の評価軸」によって評価されることになるでしょう。そして、それによって活発な創作活動が営まれるようになり、社会はもっと活気あるかたちを取り戻すのではないかと考えます(「次時代のコンテンツ評価」参照)。

《おまけ》
今回の記事は、以前から私のブログを読まれている方には、「またか?」と思われるような内容かもしれません。ただ一応、私が繰り返し述べている「優劣はない」と言葉と、「ランキングをつける」という行為の間にある「矛盾」について、きちんと整理しておきたく本記事を書きました。ご容赦ください。

あ、それと、そもそも生きている以上、矛盾なんてあって当然ですしね!
※「大きな矛盾を抱えるべし

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やはりカブトはかっこよく

2009年05月10日 | 日常

 今週から「仮面ライダーディケイド」で、「仮面ライダーカブト」が始まりました。これまでの「仮面ライダーディケイド」では、オリジナルストーリーが破壊されまくっており、私が大好きな「仮面ライダーカブト」がどうなってしまうのか、大変気になっておりました。そんなわけで、数日前から「仮面ライダーカブト」を第一話から見直しています(携帯ストラップもカブトにしちゃったぞっ!と)。

そして思うのです。

-やっぱりカブトはかっこいい!-

キャストオフしたときのカブトもかっこいいし、主人公・天道の生き方や台詞もいちいちかっこいいし、何よりもかっこいいのは「ライダーキック」でしょうか。後ろ向きに決めてしまうところとか、蹴り終わった後の決めポーズとかは、他の仮面ライダーを寄せ付けないかっこよさなわけです。

それで本日、「仮面ライダーディケイド」の世界における「仮面ライダーカブト」が放送されたのですが・・・。うーん、とりあえずオリジナルのストーリーや設定は、いろいろと忘れた方がいいかもしれませんね。今日は、天道の人柄やカブトのライダーキックは出てきませんでしたが、カブトをこよなく愛するファンの一人としては、他の設定はともかく、せめてそこのかっこよさだけはオリジナルを再現しておいていただければと願うのでした。

それにしても、今日のプリキュアは、久しぶりに深いお話でしたね。テーマは「本音と建前」、「ありがとうとごめんなさい」。「フレッシュプリキュア」には、いろいろと残念に思うこともあるのですが、今日のストーリーはとても良かったのではないかと思います。

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よく知る者の振舞い

2009年05月03日 | 短編

A:この日本人の名前は、何て読むんだ?
B:さあ、漢字の読み方は難しいんです。
A:何?お前、日本滞在が長いのに、名前の読み方も分からないのか?

これは実際に、日本に長期滞在している外国人の方が、日本に出張で来た外国人の方との間で交わされた会話です。出張者の方からすれば、日本滞在が長い人から「分からない」という言葉を聞くのは、少なからず不思議な感じがしたのではないかと思います。あるいは、その長期滞在者のことを「日本語を勉強していない不真面目な人」と思われたかもしれません。

しかし、日本人の私たちは、その長期滞在者の方が、大変よく日本語を知っている人かもしれないことを理解できるのではないかと思います。

私自身、その場に居合わせつつ、たしかに複数通りに読める、その日本人の名前を見ながら、それが非常に「適切な答え」であると思いました。むしろ、複数通りの読み方があるにもかかわらず、あるひとつの読み方が全てであるかの如く答えてしまう人の方が、「それしか知らない」くせに、「知っているフリ」をするという意味で、日本語を勉強していない不真面目な人であると言えるでしょう。

そして、こうした「よく知る者の振舞い」は、あらゆることに通じるように思えてなりません。

-真に武術を知る者は、むやみに剣を振るわない-
  ※「抜かせてはならぬ最強の剣」参照

-真に科学を知る者は、むやみに可能性を否定しない-
  ※「仮説と検証のすすめ」参照

-真に教育を知る者は、むやみに知ったかぶりをしない-
  ※「教育は共育なり」参照

そして、真に人間の本質を知り、また真に人間たらんとする者は・・・。

そういうことなのだろうと思います(「分からないことは言わない」、「他人は自分の鏡」等参照)。

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ガンダム行きますっ!?

2009年05月02日 | 日常

「戦国BASARA」を見ていて、突っ込まずにはいられなくなっちゃいまして・・・。


「うん?カタパルト?」


「な、なに?」

「ひぃ、翔んだぁっ!」

徳川家康が「戦国最強、本多忠勝出撃せよ!」と叫ぶわけですよ。

そうしたら、見たことあるようなシーンが・・・。てか、ここまでブッチ切れば、「史実がどうの」といった堅い評論は必要ないでしょう。「戦国BASARA」、恐るべし。

※著作権者の方々、画像の掲載すみません。でも、この衝撃をを伝えるには、これしかなかったのです。もしNGでしたら、即刻削除いたしますので、ご一報くださいませ。

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揺らめく現実世界

2009年05月01日 | 科学

物事を限りなくマクロに捉えていくと、宇宙の果て、あるいは宇宙の外側の世界がどうなっているのかということについて、考えていかなければならなくなります。これは、大変厄介な問題ですが、現在、科学で解明されている事柄から、それらしい何かしらの仮説は置くことができるようになってきたように思います。私自身は、この宇宙の外側にある、また別の無数の宇宙の存在を積極的に認めること(そして、それらはある種のトンネルで繋がっていると仮定する)で、現代の科学において、謎とされている事象の多くが説明できるようになるのではないかと考えます(「宇宙が膨張を続けるカラクリ」参照)。

一方で、物事を限りなくミクロに捉えていくと、これもまた非常に不思議な問題が続出してきます。こうした問題を扱う量子論のなかでは、一般的に科学で語られる言葉とは思えない話が出てきます。

量子論において、電子のようなミクロの物質は、私たちが観察しているときには、それがどこにあるかを特定できる一方、私たちが見ていない限り、「どこか一箇所にいる」のではなく、「ここにいるとも言えるが、あそこにいるとも言える」状態になっているといいます。こうしたことは、量子論において、ミクロの物質が「粒であると同時に波である」と表現することにも繋がりますが、要は、こうした物質が、常に揺らいでいるような、非常に曖昧模糊な存在であるということなのです。

量子論に関する書籍は、数多く出版されているはずなので、ご関心のある方は、そうした書籍なり、雑誌なりをご一読いただければと思います。そのなかで、私が指摘しておきたいポイントは、そうした非常に曖昧模糊としたミクロの世界が、現実世界の一部であるということです。

「シュレディンガーの猫」という思考実験があります。この概要は、箱のなかに①放射性物質、②放射線検出器、③毒ガス発生装置、④生きた猫を入れて、一時間後の猫の生死を確認するというものです。仕掛けとしては、①で放射線が発生すれば、②の放射線検出器が反応し、それに応じて③の毒ガス発生装置にスイッチが入り、④の猫が死んでしまうというものです。量子論の問題としては、「放射性物質が一時間後に原子核崩壊を起こしているかどうかは、放射性物質を誰も見ていないときには決まっていない」というところがポイントです。このことから、私たちが見ていないとき、箱のなかの猫は「生きているとも言えるが、死んでいるとも言える」状態にあるということになるのです。

こうなってくると、科学というよりは、ほとんど禅問答のような言葉に聞こえるのではないかと思います。「猫が生きているか、死んでいるかは、それを見る貴方次第」と言われんばかりの話です。

この実験において大切なことは、こうしたミクロの不思議なルールが、通常私たちが視認している現実世界と完全に切り離すことはできないであろうということです。その一例が、この「シュレディンガーの猫」なのであり、私たちの日常は、こうした不思議なルールの影響を大きく受けながら、成り立っているであろうということを考慮しなければならないと思います。つまりそれは、私たちが見ることによって、曖昧模糊な物質の状態が定まるというミクロの世界における法則は、実はマクロの事象においても、ある側面で十分に通じ得るのではないかということです(「「特殊な存在」という自任」参照)。

ところで、こうしたミクロの世界における不思議な現象について、非常に有効な解釈論として、パラレルワールドのような「多世界を認める」というものがあります。この多世界解釈によれば、世界は可能性の分だけ枝分かれしていくということになるようです。つまり、前述の「シュレディンガーの猫」の例で言えば、「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」の二つが並行して存在するということです。

この多世界解釈においては、一度枝分かれした世界同士が再び出会い重なり合うこともあるというのですが、このあたりも非常に興味深いと思います。私自身、このことは、冒頭に記したマクロの世界において考えるべき、「別の無数の宇宙」の話にも通じるものがあると考えています。つまり、別々に存在しているように見える無数の宇宙(あるいは世界)は、実は時間の経過とともに分かれたり、合わさったりしており、けっして完全に独立した閉鎖環境にはないということです。これをマクロの世界で考えるならば、それらを結ぶトンネルとしてのブラックホール(あるいはホワイトホール)の存在が、鍵を握ることになるでしょう。私自身、このあたりの考え方において、アインシュタインの理論には、限界があるのではないかと思っています。

また少々余談ですが、人間が思い描くイメージのうち、妄想というのは、別宇宙の形成に何かしらの影響を及ぼしているように思います。つまり妄想は、ひとつの可能性をイメージしているものであり、量子論の多世界解釈に基づいて、その可能性で枝分かれしたパラレルワールドが存在するとするならば、その妄想によって別宇宙を形成しているとも言えるわけです。このように考えていくと、アニメの世界もそんなにバカにはできないのではないかと思うのです(「妄想と現実の狭間」参照)。そして、もっと踏み込んで言うならば、人間の精神は、この宇宙の形成に深く関わっている可能性があると思います(「創造主の正体」参照)。

ただ、ここでは妄想について、もう少し解釈を加えます。例えば「決死の覚悟」というのも、なかなか面白いものです。このブログでも、繰り返して述べている通り、本当に大切なものを拾いたければ、それを捨てる勇気を持つことも大切です(「欲するものへの心持ち」参照)。つまり命を拾いたければ、「決死の覚悟」が必要なわけですが、それは言い換えると、自分が死ぬという「死の妄想」でもあります。「死の妄想」は、自分が死ぬというひとつの可能性を強力にイメージすることであり、これは自分が死ぬ「別宇宙の形成」にも繋がると考えることができます。しかし、実際にその別宇宙が形成されたとしても、その別宇宙においては、自分が死んでしまうため、結果として、そうした別宇宙に存在する自分はいなくなり、それとは引き換えに、「死の妄想」をしたこの宇宙における自分が強く生きることに繋がると言えるわけです。このときの「別宇宙に存在する自分がいなくなる」ということは、別の言い方をすれば、雑念や迷いを滅することだと言えるでしょう。

逆に、別宇宙にいる自分の存在を許しているということは、迷ったり、後悔したりする状態にあるということであり、他の可能性を引きずっていることだろうと考えられます。このうち、過去における他の可能性を引きずるということが、後悔するということでしょう。だからこそ、強く生きたければ、過去を受け止め、後悔の念を消し去ることが肝要なのです。なぜならば、そうすることで別宇宙に存在する自分を打ち消し、この宇宙における自分の存在を高めることができると思われるからです(「時間との付き合い方」参照)。

いずれにせよ、私たちが住む現実世界などというのは、とてもいい加減にできている可能性があるということです。語弊があるかもしれませんが、だからこそ「この宇宙は自分のもの(自分は別宇宙に存在しない)」と言い切った者勝ちなのだとも思うのです(「「自分教」の薦め」参照)。

そして最も大切なことは、そう言い切れるために、迷いや雑念を拭い去り、自分自身を磨き続けることだろうと考えます。

《おまけ》
何かとアニメの話に結び付けたくなるのですが、「決死の覚悟」の話で言えば、「黒神」のなかに登場する「マスタールート」には、誰でもなれるということです。つまり別宇宙に存在する自分、言い換えれば雑念や迷いに毒された「サブ」を殺して、その「テラ」を吸収することで、自分が「マスタールート」となり、この宇宙で力強く生きていくことが可能になるということです。

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