少々古いかもしれませんが、「北斗の拳」という漫画をご存知でしょうか。簡単に言えば、暴力が支配する世界にあって、北斗神拳の伝承者ケンシロウが悪者たちと戦うというストーリーです。この「北斗の拳」、残忍な殺戮の場面があったりして、結構暴力的なイメージがあるのですが、意外にもこの漫画のテーマは「愛」だったり「哀しみ」だったりします。
主人公のケンシロウは、哀しみを知る男です。ケンシロウは好んで戦う人ではないし、自分自身の強さを求めて戦うような人ではありません。誰よりも他人を愛する力をもつ人なのです。
暴力に支配された世界の中で、誰もが暴力(より強い力)を持って、生き残ろうとします。しかし、暴力の連鎖は歯止めを知りません。だから、そんな世界に生きる強者たちは、自らの本来の意思と関係なく暴走を始め、誰かによって倒されることでしか止まらなくなってしまうのです。
ケンシロウは、そんな強者たちの運命を知っており、心で泣きながら、仕方なく彼らを打ち倒していくのです(なかには、そうではない悪者キャラもいますが、それらは強者キャラではありません)。そしてケンシロウは、そういう強者たちとの戦いのなかで、彼らの運命を哀れみ、それを力に変えて、どんどんと強くなっていくのです。
ここでふと思うことは、その哀れむ気持ちである「かなしみ」は、「悲しみ」ではなく「哀しみ」ではないかということ。
「悲」は「心非ず」と書きます。心を失ってしまうほど、心が心でなくなるほど悲しく、それに打ちひしがれてしまうような感覚が「悲しみ」だと思うのです。「悲しみ」というマイナスの感情に心が負けてしまっているような状態が、いわゆる「悲しい」ではないかと思えてなりません。
一方で「哀」は、「衣に口が挟まった」というつくりになっている漢字。これは口が衣で覆われているように、口には出せないような感情という意味ではないかと思うのです。要は「哀しい」は、単に悲しいとか辛いというマイナスの感情だけでなく、愛らしい、喜ばしいといったプラスの感情も併せ持っていて、そうした混在した複雑な状態で、口には出せない感情が「哀しい」ではないかと思ったりするのです。
だから「哀しい」は、「かなしい」かもしれないけれども、それだけではない状態で、けっしてそのマイナスの感情に心が負けているのではなく、それを打ち消すプラスの感情が混在していて、むしろそうした感情があることによって、心を強く保てるのはないかと思うのです。
ケンシロウにとって、戦うことは仕方がないこと。勝利の喜びもあるけれども、相手を倒さなければならないという辛さもある。どちらかに偏っているわけではない。だからこそ強いと思うのです。
感情は豊かであるべき。けれども「悲」のように、感情に振り回されたり、支配されてはいけないと思います。
豊かな感情を大切にしながら、内に秘めるということが「哀しみを背負う」ということであり、それが人間に求められている真の強さではないかと思います。