常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

哀しみを背負う強さ

2007年09月05日 | ヒーロー&アニメ

少々古いかもしれませんが、「北斗の拳」という漫画をご存知でしょうか。簡単に言えば、暴力が支配する世界にあって、北斗神拳の伝承者ケンシロウが悪者たちと戦うというストーリーです。この「北斗の拳」、残忍な殺戮の場面があったりして、結構暴力的なイメージがあるのですが、意外にもこの漫画のテーマは「愛」だったり「哀しみ」だったりします。

主人公のケンシロウは、哀しみを知る男です。ケンシロウは好んで戦う人ではないし、自分自身の強さを求めて戦うような人ではありません。誰よりも他人を愛する力をもつ人なのです。

暴力に支配された世界の中で、誰もが暴力(より強い力)を持って、生き残ろうとします。しかし、暴力の連鎖は歯止めを知りません。だから、そんな世界に生きる強者たちは、自らの本来の意思と関係なく暴走を始め、誰かによって倒されることでしか止まらなくなってしまうのです。

ケンシロウは、そんな強者たちの運命を知っており、心で泣きながら、仕方なく彼らを打ち倒していくのです(なかには、そうではない悪者キャラもいますが、それらは強者キャラではありません)。そしてケンシロウは、そういう強者たちとの戦いのなかで、彼らの運命を哀れみ、それを力に変えて、どんどんと強くなっていくのです。

ここでふと思うことは、その哀れむ気持ちである「かなしみ」は、「悲しみ」ではなく「哀しみ」ではないかということ。

「悲」は「心非ず」と書きます。心を失ってしまうほど、心が心でなくなるほど悲しく、それに打ちひしがれてしまうような感覚が「悲しみ」だと思うのです。「悲しみ」というマイナスの感情に心が負けてしまっているような状態が、いわゆる「悲しい」ではないかと思えてなりません。

一方で「哀」は、「衣に口が挟まった」というつくりになっている漢字。これは口が衣で覆われているように、口には出せないような感情という意味ではないかと思うのです。要は「哀しい」は、単に悲しいとか辛いというマイナスの感情だけでなく、愛らしい、喜ばしいといったプラスの感情も併せ持っていて、そうした混在した複雑な状態で、口には出せない感情が「哀しい」ではないかと思ったりするのです。

だから「哀しい」は、「かなしい」かもしれないけれども、それだけではない状態で、けっしてそのマイナスの感情に心が負けているのではなく、それを打ち消すプラスの感情が混在していて、むしろそうした感情があることによって、心を強く保てるのはないかと思うのです。

ケンシロウにとって、戦うことは仕方がないこと。勝利の喜びもあるけれども、相手を倒さなければならないという辛さもある。どちらかに偏っているわけではない。だからこそ強いと思うのです。

感情は豊かであるべき。けれども「悲」のように、感情に振り回されたり、支配されてはいけないと思います。

豊かな感情を大切にしながら、内に秘めるということが「哀しみを背負う」ということであり、それが人間に求められている真の強さではないかと思います。

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師匠の姿から学ぶこと

2007年09月03日 | ヒーロー&アニメ

日曜日の朝、大事な日課はヒーロー番組を観ることです。そのうちのひとつが「ゲキレンジャー」という番組です。それぞれ変身すると、赤・青・黄の姿になる3人(最近4人になりましたが)のヒーローは、「獣拳」という拳法をマスターした師匠(数人います)のもと、日々修行に励みながら強くなっていきます。

それら師匠のうち、個人的に愛嬌を感じるのが、エレハン・キンポーという象の格好をしたお師匠です。これが相当ふざけています。あるとき、本当に真面目に修行に集中したいと思っているゲキイエロー(黄)の邪魔ばかり。エレハン・キンポーは、どうしもようもなダジャレを含め、とにかくくだらないことばかりするのです。そのせいか、修行もまったくうまくいきません。

修行もうまくいかず、余裕がないゲキイエローは、精神的にもイライラした状態で、しばらくの間、エレハン・キンポーをまったく相手にしませんでした。ところが、それにも構わず、ふざけ続けるエレハン・キンポーの言動があまりに可笑しくて、思わず笑ってしまいます。そして、その瞬間修行がうまくいくのです。

-なるほど、笑いが大切なんだ-

これに気付いたゲキイエローは、必殺技を会得するのです。

ここでふと思うのは、エレハン・キンポーの師匠としての姿です。弟子のゲキイエローが必殺技を会得したのはいいけれど、やっぱりエレハン・キンポーはふざけた師匠だと思うのです。しかし、同時にこういう師匠が、他にもいたような気がするのです。ドラゴンボールに出てくるカメ仙人や、らんま1/2の八宝菜もそんな雰囲気の「お師匠」でした。

そこでまた、ふと思うのです。人生なんて多かれ少なかれ、辛いことばかりです。いや、結局人生のあり方なんて心の持ち方次第です。見方によって、人生は辛くもなり、楽しくもなります。それだけのこと。「師匠」と言われる人たちは、ものすごく辛いことを経験して、それを乗り越えてきた人たちです。だからこそ、その辛い経験を単に辛いと捉えるのではなく、いかに楽しいと思うかを知っているのではないかと思うのです。

ただ、人生を楽しむうえで重要なことがあります。バカと天才は紙一重と言いますが、単に辛いことを忘れて、バカ騒ぎをすればいいというのではありません。大切なことは、現実から逃避せずに、それを乗り越えるということだと思います。辛い現実から逃げて、単に楽な方に流れるというのでは「バカ」になってしまいます。辛い現実と向き合って、それをポジティブに捉えて乗り越えていく。そんな発想ができるようになると、人生は豊かになっていくのだと思うのです。

ただし、そうは言っても、エレハン・キンポーのような師匠の姿は、表面上「何も考えていないバカ」に映るでしょう。その姿が、「現実を乗り越えた姿」なのか、「現実逃避した姿」なのか。この区別は、実は相当に難しいのです。逆に、その違いについて自信をもって見分けられるようになったとき、その人は成長したと言えるでしょうし、師匠を超えたと言えるようにもなるでしょう。

その見分けがつかない方は、どんな「バカ」にみえる人でも、例外なく自分の「師匠」と思ったほうがいいかもしれません。

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