常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

真価を発揮していく日本人

2011年03月28日 | 短編

真価は逆境にこそ発揮される。

今が逆境の底だとは思わない。
むしろ始まりかもしれない。

まだまだ深まるかもしれない逆境の中で、
日本人は、その真価をますます発揮していくだろう。

そして、世界を大きく変えていく・・・。

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大虐殺の全地球的議論

2011年03月10日 | 政治

今日は、東京大空襲があった日です。東京大空襲では、10万人近い方々が亡くなったとされています。そして、この攻撃は、アメリカによる無差別爆撃であるという点で、大変、重大な問題を孕んでいたといえます。ここで、敢えて「孕んでいた」という過去形を使ったのは、既にこの問題が、サンフランシスコ平和条約等、国際社会における戦後処理の過程の中で、一旦の決着がつけられているからです。

翻って、アジアに目を移してみると、一部の国から、日本による民間人大量虐殺があったというような批判や主張が見受けられます。そうした議論を全否定するつもりはありません。ただし、アジアにおける日本加害者論については、まずもって根拠となる事実認識がはっきりしないところもあり、そうしたことをきちんと検証していくことが、大切であると思われます。そして、何よりも重要なのは、そうしたアジアにおける問題も、ごく一部のケースを除いて、基本的に各国との戦後処理問題が終結しており、現在の政府にとっては、ほとんど外交イシューになり得ないということです。

そういう意味で、こうした問題について、外交要素や力学が働くというのは、けっしてあってはならないことだろうと考えます。

一方で、こうした過去の問題について、学術的観点から研究や検証を行っていくというのは、あって然るべきでしょう。そこに言論の自由があるのも、至極当然だろうと思います。しかし、そうした学術的観点からの問題整理をする上で、グローバルな視点、世界のボーダレス化に相応しい視点というのは、非常に重要ではないかというのが私見です。

兎角、アジアの中における日本責任論は、アジアに限定された世界観の中で展開されているような気がしてなりません。しかし、そのように責任を問われるべき行為というのは、全地球的規模で検証されるべきものであり、それこそがグローバルやボーダレスと呼ばれるようになって久しい世界において、極めて当然ではないかと思うのです。

即ち、グローバルという視点から、日本の責任を論じるのであれば、これと同時に、東京大空襲のようなアメリカの無差別爆撃による民間人大量虐殺の責任についても、併せて論じられるべきではないかということです。グローバルな世界観が定着した現代において、アジアの中の日本責任論だけでは、問題の全体像や本質は見えてこないでしょう。したがって、仮に日本の政治家が、学術的な意味合いで、こうした問題について言及するにしても、そうしたグローバルな視点を持って発言すべきではないかと考えます。

さらにボーダレスという観点からは、例えば中国共産党による文化大革命のような、中国国内における大虐殺の責任について論じることも軽視できなくなります。文化大革命では、1000万人以上の人々が犠牲になったとも言われています。情報のボーダレス化が進めば、議論や論点のボーダレス化が進むというのも、とても自然なことです。従来であれば、内政干渉とされ得るような海外からの議論や指摘も、ボーダレス化が進むことで、それらが重大な意味を持つようになるわけです。中国共産党が、自分のことを棚に上げて、日本責任論ばかりを論じるようなわけにいかなくなるというのが、世界のボーダレス化がもたらすひとつの効果かもしれません。このことは、中国に限らず、内政問題のガス抜きに、日本責任論を外交問題化させるという一部の外国政府の手法に、大きな影響を及ぼし得ます。日本の政治家は、外交イシューとしてではなく、学術的な意味での日本責任論についても、安易に振り回されなくなるでしょう。

過去の問題を、あれこれ論ってネガティブな発想をしていくというのは、未来を生きるべき私たちにとって、必ずしも良いことではないと思います。東京大空襲の日に、過去のアメリカの責任ばかりを論じるのもフェアではないとも考えます。ただし仮にそうした問題について論じようというのであれば、上述のようなグローバル、ボーダレスといった全地球的視点が、今後、とても重要になってくるのではないかと思うのでした。

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