常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

限りなく想像し、創造せよ

2007年07月31日 | 政治

財務省の発表によると、2007年3月時末時点での国債など、いわゆる「国の借金」は、834兆円を超え、過去最高を更新したといいます。国民一人あたりに換算すると約653万円というとんでもない数字です。年間の赤字が30兆円を越えるなか、有効な対策はないままであり、一部消費税の引き上げで対応するといった意見もありますが、それによって「国の借金」が解消すると信じる人々が、いったいどれだけいることでしょうか。

これだけの大問題が横たわっているなか、先の参院選挙で、最も大きな争点のひとつは年金問題でした。このまま「国の借金」が膨れ上がり、日本の財政が破綻すれば、経済的な日本の国家信用が失われ、その通貨である円紙幣など紙くず同然となるかもしれません。そんなことになれば、そもそも年金などもらえたところで、何の役にも立たなくなるという現実が待ち受けているのです。

結局のところ、多くの人々は、数多くのメディアから流れる報道、警鐘から日本の財政は破綻すると薄々感じていても、そのことを真剣に想像していないのでしょう。現実世界のなかで、人々が気にするのは自分個人、あるいは家庭の収入であり、少し大きくみて会社などの組織、もっと大きく広げたところで業界の成長や安定程度ではないでしょうか。

「国の仕組みまでは変えられない」。大きな変化や変革を諦めているが故に、人々は真剣に想像しなくなり、思考を停止させ、ひとまず自分が当面できる個人や家庭の収入の増大や安定に努めるようになってしまうのです。しかし、そうやって一所懸命蓄財したところで、待ち受けているのは国や社会全体の沈没であり、貧困です。これでは、すべてが水泡に帰してしまいます。

こうした問題は、日本の国家財政に係るものだけではありません。エネルギー問題、食糧問題、環境問題・・・。もはや国家規模ではなく、地球規模で我々の生活や生命を脅かす問題が顕在化しつつあり、タイムリミットが迫っていると思うのです。

人間はこうした現実、大きな問題から目を背けず、勇気を持って想像していかなければならないのではないでしょうか。想像は人間特有の素晴らしい能力です。どんな高性能コンピューターでも、人間の想像力を超えることはできません。想像力は人類の貴重な財産なのです(「「仮説と検証」のすすめ」参照)。未来を真剣に想像することで、現実と向き合うことができ、そのなかで未来において自分が何をすべきか、未来の社会をどのように創造すべきかがみえてきます。逃げることなく、目を背けることなく、妥協することなく真剣に想像すればこそ、創造していく力を得ることができるようになるのです。想像するにも、創造するにも勇気を持って臨むことが大切であると思います。

ところで、少々話題は変わりますが、人間はいつか死にます。死んだら、どうなるのか。こうしたテーマについても、恐れることなく大いに想像すべきであると考えます。

人生は一度きり。少なくとも、自分が死んだら、自分という人間は二度と復活することはありません。自分が死んだ後も、限りなく時間は流れ続けるし、いろいろな出来事が起き続けるでしょう。自分に子供がいれば、子供がその子供を生み、さらにその子供が・・・といったかたちで血が受け継がれ、人類という種が存続していくのです。それが地球上でいつまでも続くわけではないとしても、宇宙は存在し続けます。太陽が一生を終えるとき、膨張した太陽に地球は飲み込まれ、太陽系にはチリとガスしか残らなくなります。しかしそれでも、宇宙は存在し続けるのです。このように、宇宙では想像を絶するような大きな出来事が起こり、またそれだけ限りない時間が延々と流れても、自分という存在は二度と復活することがないのです。人生が一度きりしかないということは、人の一生というものが、それだけ儚いということでもあり、死とはそれだけ恐ろしいものでもあるということなのです。

このように命について真剣に考えると同時に、想像しなければならないのは「死」の瞬間です。死は誰にでもやってきます。一般的に死は、最も恐ろしいものであり、特別な事情がない限り、その恐ろしいものについて、真剣に考えたくはないし、常日頃からそれと向かい合う生き方をしたいとは思いません。しかし、想像すべきです。この世に生きるものは、例外なくいつかは死を迎えるのであり、誰にとっても死は必然なのです。そうであればこそ、どのように死を迎えるかを想像しなければなりません。

そして死をリアルに、そして真剣に想像できる人は、自らの命のあり方や使い方を見出すことができるようになります。なぜなら、死と対面できる人は、儚くはあるが、せっかくいただいた自分の命を何かの役に立たせたい、死の恐怖を乗り越えて、強く生きていきたいと心から願うことができるからです。

自らの生命をかけて何をすべきか、どのように人生を送るべきかについて答えを見つけることは、生きるうえでの最大のテーマです。宗教や他人に頼ることなく、自らの力でそれを成しえたとき、その人は幸せとは何か、何をして生きるべきかを知る真に強い人間になると思います。そうした強い人間こそが、次の時代を切り拓き、明るい未来を創造していくことになるでしょう。

いつか自分は死ぬ。

その現実を大いに想像してはいかがでしょうか。そしてそれを乗り越え、共に明るい未来を想像し、創造していきたいものです。

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抜かせてはならぬ最強の剣

2007年07月27日 | 武術

「武」という字は、戈(ほこ)を止めると書くといいます。「武」の真髄は相手を傷つけたり、殺したりすることにあらず。傷つけず、殺し合わぬことこそに「武」の真髄があるのです。したがって最強の武者は、むやみに剣を抜きません。強者が剣を抜くときには、確実に相手を殺すときです。けっして、戯言で剣を抜くことはなく、剣を抜いたときは、すべてが終わるときなのです。強者にとって、物事を終わらせることは簡単です。切り捨てる所作は一瞬であり、確実に決められます。だからこそ強者は、そのようないつでもできることは敢えてせずに、じっとしていられるのです。このように最後の最後まで、抜くことをしないのが強者の剣です。

この逆が、弱者の剣です。弱者は、一瞬で相手を殺すことができないし、その自信もありません。一太刀、二太刀と重ねながら、相手を傷つけつつ、その延長線上で相手を殺すことを試みるのです。だから、むやみに剣を振ります。けっして抜いたときが終わりではないから、さっさと剣を抜いてしまうのです。しかも剣を抜いた後は、「もしかしたら、自分が死ぬかもしれない」という内なる恐怖と戦いながら、外にいる相手との斬り合いに臨みます。その意味で、弱者には、立ち向かうべき敵が多いと言えます。自分の内にも外にも敵がいるのです。これは非常に辛いことでもあります。

ただし、言い方によっては、その不安や恐怖こそが、弱者にとっての強さの源泉であるとも言えるでしょう。おおよそ、子供向けの漫画やアニメの悪役キャラクターの力の源泉はここにあります。つまり、弱者が内に抱える不安や恐怖は、「死にたくない」という必死さや、「それを受け入れたくない」という憎しみの感情を生み出し、その者の強さになるということです。しかし、実際には、そうした不安や恐怖は、弱者の証であり、ゆえに迷うのです。そうした心の迷いは、必然的にその者の剣を曇らせ、けっして一撃必殺の剣になることはないのです。

-俺の奥義をみたときは、貴様が死ぬときだ-

漫画の主人公の台詞に、こんな言葉があります。これはつまり、真の強者に剣を抜かせてはならないということです。強者に中途半端はありません。戦うときは奥義を尽くすし、そのときは確実に相手が死ぬのです。

ところで逆説的ですが、実は真の強者、最強の武者は奥義を出すことすらしません。何故ならば、そもそも最強の武者は、自分より強い者がいないということを知っているし、またそのことに絶対的な自信をもっているため、真剣に相手と戦う必要がないからです。

したがって、最強の武者が、彼に対して剣を振りかざす者にするのは、これと戦わず、ひたすら遊び、相手の攻撃に耐えることなのです。そして、「武」とは何かを教えるのです。

「真の武とはこんなものではない。真の武を知るときは、本当にお前が死ぬときだ。しかし、それは知らずにおればよい。死んでしまっては、何もかもがおしまいだ。自分はお前を殺そうとはしていない。お前は死ななくてよい。恐怖を乗り越えて、心を安らかに保て。そして剣を収めろ。殺しあう必要はないのだ。そうすれば、貴様も生きるし、俺も生きる。」

最強の武者は、こうして遊びや忍耐を通じて、剣を振り回さない真の「武」を教えていくのです。平和を保つための真の強さとは、こうした真の「武」の実践であり、このことこそが戈(ほこ)を止めるという「武」の真髄でもあります。

ところで、このような剣の扱いや「武」の実践の話は、物理的な次元においてのみ語られるべきものではありません。現代社会においては、人間の心のあり方についても、まさに同じような強さが求められていると思います。つまり、いろいろな大きな問題が山積している現代社会において、それらに関連して他人を非難したり、中傷したり、責任を押し付けたりする人間の行動は、まさに弱者が剣を振り回すのと同じ行為であり、その人間の弱さの表れであるということです。

人間とは弱い存在です。しかし、それに甘んじていては人類に未来はありません。人間は、未来に向かって強い存在になっていかなければならず、そのために安易に剣を抜くようなことをしてはならないのです。さまざまな問題について、謂れのない理由で非難され、中傷され、責任を押し付けられたとしても、それに対して同じように剣で返してはなりません。何があろうと、剣を抜かずに受け止めるだけの心の強さを持つ(「打ち克つべき相手」参照)。このことは、高い忍耐力を求められる行為であり、非常に辛いことでもありますが、こうしたことこそが、これからの時代において、真に求められてくる人間の強さなのです。次の時代で大切なことは、人間ひとりひとりが、自分が最強の武者であるという自信と強さを持つということであり、自分が携えている剣は、最後まで抜かせてはならない一撃必殺の最強の剣であるという誇りとプライドを持つということでもあります(「全員が真のリーダーたれ」参照)。

強くあれ。そして、剣を振り回すことなかれ・・・。

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