「知恵の実」、ずいぶんと景気が良さそうですなぁ。
まぁ、「知恵の実」が悪いとは思いませんし、ちょっとかじる程度はあって良いだろうと思います。ただ一方で、これに頼り過ぎると足元を掬われるとも思います。
仏教的には、「知恵」よりも「智慧」なるものを重要視するそうですが、この意味、大変よく分かる気がします。
食べ過ぎると、楽園追い出されちゃうぞぉ・・・きっと。
「知恵の実」、ずいぶんと景気が良さそうですなぁ。
まぁ、「知恵の実」が悪いとは思いませんし、ちょっとかじる程度はあって良いだろうと思います。ただ一方で、これに頼り過ぎると足元を掬われるとも思います。
仏教的には、「知恵」よりも「智慧」なるものを重要視するそうですが、この意味、大変よく分かる気がします。
食べ過ぎると、楽園追い出されちゃうぞぉ・・・きっと。
「B型H系」を見ていて、ツッコまずにはいられなくなりました。
修学旅行で、座禅をすることになった面々。そのなかで、金城さんの見事な座禅は、お寺のお坊さんたちを唸らせました。
-この少女、既に禅の道を体得している-
いやしかし、実際のところ、金城さんの内側では大変な煩悩が渦巻いていたのです。
悟りの境地を体得? |
もちろん、これは単なるアニメのお笑いネタです。しかし、実際のところ、この話のなかには、本来の悟りの境地に通ずるものがあるとも思うのです。
生きていると、いろいろな感情を持つことになります。しかし、世の中、嬉しい時にただ笑っていればよいというものではなかったり、腹が立った時にただ怒ればよいというものではなかったりします(「感情の主人たれ」参照)。この点、もし阿修羅像のように顔が3つあったら、ひとつは泣いて、ひとつは怒って、ひとつは笑って・・・という使い分けをしながら、相手に応じて、都合のよい顔を見せておけばよいということになるのでしょう(そういう意味で、「キン肉マン」に出てくるアシュラマンは、至極、正しいのではないかとも思います)。
けれども、残念ながら、人間の顔はひとつです。つまり、どれだけ大きく複雑な「喜怒哀楽」を抱えていようとも、それをいくつもの顔で表すことはできず、どれかひとつの表情をするしかないわけです。そしてそれは、最終的に無表情に近い、究極の「穏やかな顔」に落ち着くのではないかと思います(「達人が見せる早業」参照)。もう少し突っ込んだ言い方をすれば、「喜怒哀楽」の度合いが深ければ深いほど、それを安易に表情に出すことは適わず、それを奥深くに沈めた「穏やかな顔」になっていかざるを得ないのではないかという気がするのです。
「ある程度の年齢になったら、自分の顔に責任を持て」などという言い方をしたりもします。それはつまり、そうした表情の積み重ねによって、「たったひとつの顔」が形作られていくということを意味しているのでしょう。
いずれにしても、そんなことを考えつつ、内に大いなる煩悩を抱えた金城さんの禅は、単なるお笑いネタで済ますのはもったいなく、ひとつの悟りの境地に向かっていると解すべきではないかと思ったのでした。
※記事の本旨を分かりやすく伝えるため、アニメ作品のカットを掲載してしまっております。著作権関係者の方々には、大変申し訳ございませんが、もし問題があるようでしたらご一報ください。即、削除させていただきます。
「閃光のナイトレイド」を見ていたら、こんなやり取りがありました。
============================
《軍人》
あんたには見えているのか?この先の行方やこの国の進む道筋が。
《預言者》
(コクリ)
《軍人》
ならば答えよ。我々の成すべきことを。
《預言者》
それは聞いてはなりません。
(中略)
《軍人》
預言者は具体的には道を示さず、可能性を語るだけだと聞く。
============================
これは、大変興味深いやり取りです。
預言者を超能力者のように捉える人もいるかと思いますが、私は、必ずしもそうではないと考えます。預言者の能力というのは、本来、誰にでも備わっているものでしょう。つまり、無我や滅私の境地を経て、「神と呼べる存在」と一体化した者には、ビジョンが見えるということです。ここで言う「神と呼べる存在」について、「コードギアス 反逆のルルーシュR2」に登場するC.C.の言葉を借りるならば、「集合の意識、人の心と記憶の集合体、輪廻の海、大いなる意思、神と呼ぶものもいる」ということにでもなるのでしょう(「既にある結論」参照)。
いずれにせよ、預言者なる存在は、それほど特別なものではなく、自分を滅して全体に向けられた目を見開いている者であり、そうした大局を眺めているからこそ、未来を見通すことができるのだろうと考えます。
ただ一方で、世界の未来が、それを構成する一人一人の振る舞いによって決定するということも、またひとつの事実です。だからこそ、預言者は、その未来に対して無責任な断定をするのではなく、(たとえそれが見えていても)世界の構成員である人々の力こそが、それを決めるという意味も込めて、上記の通り、「具体的には道を示さず、可能性を語るだけ」ということになるのだろうと思うのです。
-具体的に言及しないのは、外れた時の予防線を張っているだけだ-
こう決めつけてしまうのも結構です。しかし、それは預言者の本質、世界の仕組みを理解していないだけかもしれない点、注意が必要です。
そうしたことを思いつつ、他者の具体的な言動に対して、「それは聞いてはなりません」と答えるあたり、これこそが本物の預言者の振る舞いだろうという気がするのでした。
《おまけ》
預言者とは、ビジョンが見えていても、ただ「言葉を預かる者」ということになります。一方で、たとえ預言者と言えども、世界の構成員の一人であり、能動的に動くことができる存在でもあります。このことを意識した預言者は、ビジョンを持ちつつも、能動的に動くことができる「リーダー」ということになるのだろうと考えます。私なりには、預言者も結構ですが、これからの世界では、どうせなら一人一人がビジョンを持って、能動的に動ける「リーダー」になるくらいが、ちょうどいいのではないかと思っています(「全員が真のリーダーたれ」参照)。
裏切られたと思うことはあるものです。裏切りというのは、とても残念なことですし、それをもってして、相手を非難したくなる気持ちも分からないではありません。
しかし、私なりには、どんな状況であれ裏切られたことには、常に相手を信じた自分の側にも問題があるものだと思います。これには、いろいろな言い方ができます。つまり、「信じるべき者を間違えた」、「できない者をできると信じた」、「相手を都合よく見過ぎた」等ということです。
-いや、相手が「できる」、「やる」と言ったんだ!-
繰り返しですが、そう言いたくなる気持ちも十分理解します。だからこそ、裏切り行為なのです。しかし、約束を違える人間であることを見抜けなかったのは、自分自身の問題です。大切なことは、その裏切り行為から、それを自分自身の問題としてどう受け止め、今後、どのように自分の生き方に反映させていくかということでしょう。
そして、その対処法は、大きく二つに分かれるだろうと考えます。
ひとつは、引き続き相手を信じるという道です。相手が、自分の裏切り行為を詫びて、今後、二度とそのようなことを繰り返さないことを誓った場合、それを信じてあげるというのも、ひとつの手です。元々、信じていた相手でもありますし、それをもう一回試してみるというのは、何も悪いことではありません。ただし、その結果として、さらに裏切られた場合、それも含めて、自分自身の責任となることは、覚悟しておく必要があるでしょう。そして万が一、それでも裏切り行為が繰り返されるような時には、ふたつめの対処法に移行するのかもしれません。
もうひとつの対処法は、相手の限界を受け入れて、自分自身の相手に対する接し方を変えるというものです。
信じることは重要です。私自身、性善説的思考を尊重したいと思っているので、相手を「裏切らない人間」と信じたいところです。しかし残念ながら、現実問題として、裏切りを繰り返す人というのはいるものだとも思います。こうした人間を信じ続けて、相手に裏切りを繰り返させ、また自分自身もその度に傷付くというようでは、両者にとっての大変な不幸です。したがって、その裏切られた点については、相手を一切信じないことが、重要になってくるわけです。
もう少し別の言い方をすると、相手のあるがままの姿や限界を認めるということです。つまり、裏切り行為を繰り返すというのは、何かが大きく歪んでいるのであり、その歪みは、その人間に対して、過大な期待がかかってしまっていることに起因しているかもしれないということでもあります。つまり、「できない人間」は、きちんと「できない人間」として認め、それに相応しい処遇をすることが大切だということです。
「相手を信じること」と「相手を認めること」は、どちらも大切なのです。
裏切り者を「裏切らない者」と信じるのではなく、そういう行為をしてしまう人間として、そのあるがままの姿を受け入れた時、相手に対する見方は、はっきりと変わってくるでしょう。そのことによって、裏切り者は、将来における「裏切る者」ではなくなるのです。自分が持っていた過大な期待が外れ、その限界がはっきりした上で、相手が見えるようになれば、相手を苦しめることも、自分が傷付くこともなくなります。
当然のことながら、過度な期待をせず、限界がある人間としての相手に対しては、それに相応しい処遇というものが、自ずと決まってくるはずです。そして、そのように処遇を変える、接し方を変えるということは、誰の力に頼ることもなく、明らかに自分自身の力でできることであると言えます。
このように考えれば、裏切り者に対して、カリカリと怒る必要はなくなります。どのような状況で裏切られたとしても、それはあくまでも自分自身の問題であり、自分自身の力で解決できる問題なのです。
これからの時代、社会のあらゆるところで、数々の難題に直面することになるでしょう。そうなると、何かと「裏切られた」、「約束を破った」等という話が多くなるような気がしています。しかし、そう嘆くだけでは何の解決にもなりません。裏切り行為に遭っても、ただそれを嘆くのではなく、自分自身の力によって、物事を前進させることができれば、必ず未来は拓けていくように思うのです。
《おまけ》
過大な期待、安易な信頼は人間を歪めてしまうものだと思います。アニメ、「喰霊-零-」に登場する黄泉と神楽の姉妹、とても好きだったのですが、黄泉が悪霊に化けてしまった原因は、神楽の「黄泉は人を殺めていない」という安易な信頼にあったように考えます。神楽が、黄泉が人を殺めてしまっている事実を認め、それはそれとして、黄泉と接することができたら、黄泉が悪霊に堕ちることはなかったと思うのです。もちろん、その流れの中で、神楽は黄泉を冷遇することになるのかもしれません。ただそれでも、それが最終的なハッピーエンドに繋がるのであれば、とても喜ばしいことだと思うのでした。
正しく生きる人間のスイッチは必ず入る。
世界は、正しく生きている人間に都合よくできている。
ただし、そのスイッチが何なのかは分からない。
これが分からないから、人生楽しいのだ!・・・と思うであります。
あ、分かった時は分かった時で、それはそれなりに楽しいんだけどね。
4月からの新番組が始まって1ヶ月が経過しました。今回のアニソンのキーワードは、ズバリ「中毒性」のような気がします。聞いてるだけでノリノリになるというのもありますが、聞いた後も、何だか頭の中をグルグル回るような曲が多いように思うのです。
順位 | タイトル | アーティスト | 元作品名 |
一言感想 | |||
1位 | SOMEONE ELSE | 種島ぽぷら 等 | WORKING!! |
「さむわん わんわん」の入りから最高です。OPアニメのぽぷらも大好きです! | |||
2位 | GO! GO! MANIAC | 放課後ティータイム | けいおん!! |
1位にしてもよいのですが、オリコンチャートにも入ったし、このあたりで・・・。 | |||
3位 | 勇気凛凛 | 演義ノ三乙女 | 真・恋姫†無双 〜乙女大乱〜 |
二頭身キャラが、「いやいやーん」で首振るところとか、たまりません(笑)。 | |||
4位 | おしえてAtoZ | 田村ゆかり | B型H系 |
この曲を聴くと、自動的にあのハチャメチャな「山田」を思い出します。 | |||
5位 | Brave Song | 多田葵 | Angel Beats! |
本編との関係で、「こんなしっとりした曲でいいのか?」等とも思ってみたり・・・。 |
ここでは挙げていませんが、「けいおん!!」や「真・恋姫†無双 〜乙女大乱〜」は、OPとED共に良曲だと思います。また、個人的には「一騎当千 XTREME XECUTOR」の曲も、割と好きだったりしています。
それにしても、昔、オリコンチャートと言ったら、「社会がこう言っている」というくらいの迫力がありましたが、最近ではまったくそうした迫力を感じなくなりました。何となく「オリコンさん」という人がいて、「へぇ、オリコンさんはそれが好きなんだ・・・」くらいの感覚でしかないように思います。
そういう意味でも、新しいメディアシステムの構築と共に、人気ランキングの仕組み等もきちんと整えねばと思うのでした。
-最近、アメリカでMBAを取っているのは中国や韓国人ばかりだ-
先日、年配の方から「日本は情けない!」というコメントとともに、こんなお叱り(?)を受けました。MBAは、「経営学修士」等と訳されます。要はビジネスの専門家であり、それを科学的アプローチによって育成させたものです。お叱りの意味は分かりますし、MBAのような資格に対して、コンプレックスを抱くような日本の若者がいるとしたら、それは少々、残念だったりもします。
ただし、少なくとも私の場合、胸を張って「MBAは必要ない!」と言い切ることができます(もちろん、私自身、MBA取得者ではありません)。
例えば、こうした課程においては、様々なビジネスモデルを検証したり、扱ったりするといいます。けっしてそれが無駄であるとは言いませんし、それなりに意味があるであろうことは認めます。しかし、そもそもビジネスモデルとは何であるかについて、きちんと理解しなければなりません。つまり、ビジネスモデルの位置付けを知らない限り、自分が何を学んだのかを知ることもないわけです。そうした思考もないまま、大量のMBA取得者を生み出してしまっていては、それは即ち、大量の「井の中の蛙」を生み出すのと同じになってしまいます。それは、けっして褒められたものではありません。
逆の言い方をすれば、ビジネスモデルとは何であるかを理解した者は、その全体像の中から、それを位置付けることができ、それが故に、それを深く掘り下げて学ぶ必要はないと考えることもできるということです。
以下、私見ですが、ビジネスモデルとは単なる思想や哲学の表現物に過ぎないと考えます。換言すれば、その思想や哲学が何であるかを理解できていれば、いちいちそれを精査する必要はないし、そのビジネスモデルの発展型や限界等、容易に推し量ることができるということです。
思想や哲学というのは、目に見えるものではありませんし、それを分かりやすく可視化させるというのは難しいことなのかもしれません。そして、それが故にそれらとビジネスモデルとの間を結ぶ線が不鮮明になり、単なる表現物であるビジネスモデルの方にフォーカスしてしまうということが起こってしまうのかもしれません。
しかし、だからと言って、それに甘んじていては、三流の誹りを免れないでしょう。ビジネスモデルにフォーカスしているという時点で、そこに大きな落とし穴があるかもしれないということです。もう少し厳しい言い方をすると、ビジネスや経営の本質は「見えないものを見ること」であるとも言えます。そして、真にそれができている者は、そもそもビジネスモデルの裏にある思想や哲学等、容易に見透かすことができるはずであり、そうであるからこそ、そうした思想や哲学に裏付けられたプレイヤーが次に何をやるのか、どこまでの範囲でビジネスを展開できるかというのが、極めて鮮明に見えるものだと思うのです。
繰り返しですが、私自身、ビジネスモデルを学ぶこと自体、否定するつもりはありません。そして、冒頭で述べたようなお叱りについては、それはそれとして、真摯に受け止める必要もあろうかと思います。しかし、そうかと言って、むやみにビジネスモデルなるものを有り難がって学ぶ者は、それが単なる表現物であることを知らないか、あるいはその裏にある思想や哲学とは何かを理解していない者かもしれない点についても、きちんと指摘しておきたいと思うのでした。
《おまけ》
ビジネス誌等の媒体で、GoogleやApple等、アメリカの最先端とされる企業のビジネスモデルを扱った記事が多々あるように思います。あくまで私自身の話ではありますが、同じようにコンピューターやインターネットビジネスを手掛けていく身として、そうした記事の中に新しい事実を確認することはあっても、新しい何かを学ぶことはないと思っています。・・・否。もはや、そこに学んでいるようでは、既に大きく出遅れているように思うのです。これからの時代、日本人の多くが、自らオリジナルモデルの発信者になっていかなければならないと思います。
鳩山さんが明言してきた普天間基地移設の問題が、ずいぶんと世間の耳目を集めています。いろいろな意見がありますし、「所詮、実力のない人が出しゃばっただけ」という見方もできますが、もう少し建設的な考え方も必要だろうと思います。
特に現在、政界にいらっしゃる方々は、この問題について、ずいぶん威勢よく現政権に噛み付いているように見えます。しかし、それだけでは何も生まれません。もう少し言えば、現政権批判等、少々知恵がついた小学生にだってできることです。それにも関らず、そうした批判を繰り広げることが、政治家(野党?)の役割であると考えているとしたら、それは大きな間違いであると言わざるを得ません。
鳩山さんも、野党時代にはずいぶんと威勢よく与党批判を展開していました。しかし結果として、それらは見事に自らの首を絞めています。「ブーメラン効果」等という言葉を使う人もいるようですが、このことは鳩山さんに限らず、あらゆる人々に対して、共通して言えることであると考えるべきでしょう。それを読み切れず、相変わらず現政権批判を繰り返す人々は、鳩山さんの二の舞を演じることになるだけのような気がしてなりません。
重要なことは、解決策を示すことです。社会を導く役割を担っている人々が成すべきは、基地撤廃に向けた明確なビジョンを示すことであると言えるでしょう。
私自身、現時点において、政治家になるつもり等サラサラありませんし、また、なろうと思ってもできるような状況にはありませんが、それでも一応、一人の国民として思うことはあるので、ここにその要点をかいつまんで整理しておきたいと思います。
1.最高の抑止力は文民統制
基地撤廃の議論を始めると、まず最初に挙げられるのが、戦争抑止力や平和構築のための代案です。基地撤廃は、実現しなければいけない課題でありつつも、米軍基地を抜きにどのようにして国土を防衛するのかという視点が抜けてしまっては、単なる「間抜けな理想論者」になってしまいます。
ここには、戦争の本質まで掘り下げた考え方が必要でしょう。つまり、戦争の抑止力として、「武力には武力」といった従来のパワーバランスではなく、最も有効な戦争抑止力は、隈なく広がる強大な情報ネットワークに裏付けられた文民統制であろうということです。(詳細は「ウイグル暴動に思うこと」、「四次元戦争の時代」等参照)。
基地撤廃を論じるのは、平和を実現するための議論として、大いに結構だとは思います。しかし、それに代わる抑止力、私なりには、その力としての文民統制をいかに機能させるかという準備を進めておくことも、極めて重要であると考えます。
2.一般市民が発信者となるメディア構築
強力な文民統制を実現するためには、強大な情報ネットワーク、メディアシステムが存在しなければいけません。そして、その可能性は、インターネットに見出せるだろうと思います。近年、インターネットの発展によって、これまで特定の人々からしか発信できなかったニュースの類が、一般の人々からも発信できるようになりました。このことによって、戦争を誘発するようなメディアのミスリーディングを避けられる可能性が出てきたと考えます。そして、この点、従来のメディアからすると、大きな革命であったと言えるでしょう。
しかし、まだまだです。
第一に、現在のインターネットは、まだまだ匿名性が高く、非常にいい加減な情報が紛れ込んでしまっています。これを排除する仕組みがない以上、これを信頼に足るツール、戦争を抑制させるだけの文民統制を実現させるツールとして使うには、難しいと言わざるを得ません(解決策については、「責任を伴う「場」の提供」等参照)。
第二に、現在のインターネットは、テレビに代わるほどのメディアにはなりえていません。このことは、インターネットが、いい加減な情報が紛れ込む「信頼度の低いメディア」であるという点もさることながら、ハードウェアとしての利便性や、その普及度合い、つまり電源スイッチさえ押せば起動するテレビのような手軽さがなく、故にテレビほど大多数の人々から見られることもないという側面もあろうかと思います(解決策については、「シン・クライアントの潜在力」等参照)。
第三に、現在のインターネットは、大量の情報から、欲する情報をえぐり出してくるという機能が貧弱です。同じメディアシステムであるテレビが、適当にチャンネルを変えさえすれば、(不要、あるいは不適切な情報をフィルターしたうえで)それなりの情報を届けてくれるのに対して、今のインターネットは、そこまで便利ではありません。こうした問題を克服しない以上、インターネットが戦争抑止力までをも担える、テレビに代わるようなメディアになることはないでしょう(解決策については、「共有という楽しみ方」、「個別最適化する倫理規定」等参照)。
こうした問題は、政治家の口先だけでどうにかなるような問題ではなく、もっと国全体を挙げて、取り組まなければいけない課題になるだろうと思います。
3.日本とアメリカという国を知る
「彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず」と言います。米軍基地の問題は、言うまでもなく、アメリカという国との交渉事になるわけです。「勝ち負け」という言い方は好きではないので、「交渉事に勝つため」とは言いませんが、「百戦して殆うからず」という言葉通り、「交渉事に負けない」ためには、日本という国、アメリカという国を、それぞれ熟知しなければなりません。
まず、日本とはどういう国かを知る必要があります。それには、建国史にまで遡った歴史を見つめ直すという作業も含まれます。私なりには、そうしたものを踏まえたうえで、ようやく日本という国に宿る精神が見えるのであり、そこで初めて、世界における日本の役割というものがはっきりするのではないかと考えます。こうした作業は、同じくアメリカについても言えることです(「脱亜入欧の終焉」等参照)。
交渉をする上で、そうした作業がきちんとできていれば、基地の扱いに関する話し合いも、十分に可能になるでしょう。これは、アメリカという国や米軍自体を否定するような類のものではなく、日米両国が、互いに気持ちよく手を結んでいける道筋の延長線上に、基地撤廃の姿を見出すということでもあります。
以上、本当にポイントを示しただけなので、これらが基地撤廃に向けた方策にどのように繋がっているのか、見えにくい部分があるかもしれません。ただ少なくとも、こうしたポイントを挙げる等して、ビジョンを示していくということが、社会の指導者の成すべき仕事であろうことは間違いないと思います。
ひとまず、私は私なりに、一国民として、できることから上記を実現するためのアクションを起こしています。それらが実を結ぶまでの間、私はあくまでも一人の国民として、社会の指導者とされる方々がどのように動いていくのか、その一挙手一投足を注意深く見守っていきたいと考えます。