常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

「仮説と検証」のすすめ

2007年02月17日 | 科学

世界は、分からないことだらけです。謎だらけの現実を目の前にして、どのように思考すべきでしょうか。

分かっているものだけに焦点を当てて、「分かった」と思い込み、分からないものは、単に「分からないものだ」で終わらせてしまうのか。あるいは分からないものについても、「もしかしたらこうかもしれない」という思考を続けるのか。このふたつの間には天と地ほどの差があります。

人間は不完全で弱い存在であるがゆえに、分からないものを分からないと認めることを恐れます。だから、既に分かっているものに焦点を当てて、すべてのことが分かっていると思い込もうとし、そこで安心しようとするのです。しかし、それでは真実は見えてきません。

ひとつ例え話を挙げたいと思います。

ここに、二次元の世界だけを認識できる知的生命体がいるとします。彼らは、自分たちが住む二次元世界の法則を解明し尽くしました。二次元世界のなかだけで起こる事象は、その法則ですべて矛盾なく説明できるようになったのです。したがって、彼らが生み出した法則は正しいことになります。しかし、それだけがすべてではありません。世界には三次元もあります。例えば、上からモノが落っこちてくるという現象は、二次元世界の法則だけでは説明できません。二次元に住む彼らからすると、モノが落ちてきた場所では、突然目の前に物体が現れるという不思議な現象として認識されます。そこで頭をひねって考えられるかがポイントになります。

「はて、不思議なことがあるものだ」で終わらせてしまうか。
「何故だろう?もしかしたら・・・」という思考を続けることができるか。

ここでひとつの仮説を置けるかどうかが重要になるのです。

「何故だろう?もしかしたら、世界には三次元まであるのではないだろうか?」

二次元までしか認識できない彼らにしてみれば、あまりにも突拍子のない仮説です。しかし、この仮説を置くことで、分からないものを単に分からないで終わらせることなく、思考を続けることができるのです。大事なことは、「三次元まであるかもしれない」という仮説を置くことで、その仮説を検証する作業に入ることができるということです。

この検証の結果、仮説の裏づけができれば、その仮説はその分だけ説得力を増します。100%の信憑性が得られるわけではありませんが、まったくのバカ話ではない仮説になるのです。そして、その検証を重ねていけば、その仮設がどんなに突拍子のないものであっても、強固で説得力のある仮説に変身していくのです。

ところで検証を繰り返していく過程で、その仮説が否定されることもあります。そのときには、また新たに別の仮説を立てればよいのです。少なくとも新しく立てた仮説は、否定された仮説よりも正しい可能性があり、より可能性がある仮説を立てられたという意味で、そこには前進があります。そしてあらためて、その新しい仮説の信憑性を確認するために、検証を重ねていけばよいのです。

仮説を立てる
 →検証する
  →間違った時点で、別の仮説を立てる
   →検証する
    →間違った時点で、さらに別の仮説を立てる
     →検証する・・・

この繰り返しを延々と続けていくことで、結果として、非常に説得力のある仮説を生み出していくことができるわけです。ただし、この仮説は100%証明されるわけではありません。あくまでも、非常に説得力のある強固な仮説で、「確からしい」ということです。しかし、限りなく100%に近い仮説を生み出していくことで、限りなく真理に近づいていくことができるということが大切なのです。そして、人間は限りなく真理に近づいていく仮説に対して、それを真理そのものであると理解する能力があると考えます。三次元の存在を仮説としておいた二次元の生物は、その検証を限りなく続けていくことで、最終的に三次元があると理解できるようになるのです。

分からないものを考えるうえでのポイントは、証明された論理の積み重ねだけでは、新しいものは見出せないということであり、新しいものを見出すには、未だ解明されていない仮説を立てて、それを検証していくという作業が絶対に必要になるということであると考えます。

アキレスとカメという話をご存知でしょうか(詳細は、「アキレスとカメの行方」参照)。

足の速いアキレスという人が、ノロノロ歩くカメを追いかけるのですが、アキレスがカメを追い越すことができるかというのが話のテーマです。これを考えるにあたり、以下のような前提を置きます。

①「アキレスが前に向かって進んでいる以上、いつか必ずカメがいた場所にはたどり着く」
②「アキレスが、カメがいた場所にたどり着いたとき、少なくともその時点で、カメはそれよりも前には進んでいる」

このふたつを組み合わせていくと、アキレスはカメのいた場所まではたどり着きますが、延々とその繰り返しとなり、どんなにアキレスの足が速くても、カメを追い抜けないことになるのです。コンピューターのような論理の積み重ねでは、アキレスはカメに限りなく近づきますが、アキレスがカメに追いつくという結論は出ないのです。

しかし、本当にアキレスはカメを追い抜けないのでしょうか。この思考法の繰り返しでは、たしかにアキレスはカメに追いつくことすらできませんが、その差は限りなくゼロに近づいていきます。そのことから、人間は直感的に理解します。

「究極まで突き詰めていくとアキレスはカメに追いつき、そして追い越すだろう」

これを理解したとき、人間はこれまでの論理の限界に気付きます。
「これまでの論理は、アキレスがカメに追いつく地点よりも手前の地点で起こる事象を説明しているに過ぎない」

そして、同時に以下のことにも気付くようになるのです。
「アキレスもカメも、アキレスがカメに追いつく地点よりも先に進み続けるのであり、そのときにはアキレスはカメを追い越している」

人間はコンピューターではありません。与えられた論理だけで思考を続けるのではなく、常にその枠組みを越えた論理を生み出して、それに基づいて考えることができるのです。その能力をきちんと活用するには、絶え間ない「仮説と検証」を続けていくことが必要なのです。人間は諦めてはなりません。分からないことだらけの世界のなかにあっても、限りない思考の連続によって、いつか人類は世界を理解することができるようになるはずです。

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武士と騎士の違い

2007年02月10日 | 武術

人間は、現代の競争社会に生きながら、常に他者と戦っています。他者を陥れることで、自分を優位に立たせようとします。ところが、戦いは勝者を生む一方で敗者を生み、必ず禍根を残します。この連鎖は、断ち切られることなく続いていき、さらなる戦いの種を撒き散らしながら、大きくなっていくのです。これが人間の戦いの歴史であると考えます。

しかし、戦わなくて済むかというと、けっしてそういうわけでもありません。既に戦いの連鎖が始まってしまっている以上、そこでまったく戦わないなどという選択肢はないのです。残念ながら、人間は戦っていかなければならないということも、また事実でしょう。

それでは、人間はどのように戦っていかなければならないのでしょうか。そのヒントは、古来の戦う人々の生き方にあると思います。

日本には「武士」という戦う人々がいました。そして武士には、武士として生きるべき道、武士道というものがあります。これに対して、西洋にも戦う人がいました。騎士です。そして騎士にも、日本の武士道と同じように騎士道というものがあるといいます。

ところで武士にしても、騎士にしても同じ「戦士」ではありますが、その精神は全く異なるのではないかと思います。以下、端的に比較してみました。

騎士道には十戒というものがあります。

 1.不動の信仰と教会の教えへの服従
 2.教会擁護の気構え
 3.弱者への敬意と憐れみ、弱者を擁護する確固たる気構え
 4.愛国心
 5.敵前からの退却の拒否
 6.封主に対する厳格な服従。ただし神に対する義務に反しない限り
 7.異教徒に対する休み無き、慈悲無き戦い
 8.真実と誓いに忠実であること
 9.惜しみなく与えること
 10.悪の力に対抗して、何時いかなる時も、どんな場所でも正義を守ること

もともと騎士道は、キリスト教を守る戦士のための戒律であるため、「弱者への敬意と憐れみ」といったキリスト教的思想が入ると同時に、「教会の守護」や「教会への服従」のほか「異教徒との戦い」といった考え方が取り込まれています。

これに対して、武士道にはさまざまな考え方、解釈があるため一概には言えませんが、例えば梅谷忠洋氏著の「武士道の智恵」では、武士道を以下10の言葉で表しています。

 1.仁:苦しんでいる人の隣にいて、苦しみを共にすること
 2.義:相手に迷惑を掛けないこと
 3.礼:他人に対する思いやりを形で表現すること
 4.智:知っているだけでなく行動に移すこと
 5.信:義と誠を身につけることで自ずとついてくるもの
 6.勇:社会や他人に不愉快な思いをさせないこと
 7.誠:嘘をつかないこと
 8.名誉:名を汚さぬ心
 9.廉恥:自分の未熟を悟り、恥を知ること
 10.忠義:義があれば自ずとたどりつくもの

この武士道と騎士道を比較すると、以下のことが言えると思います。

1.他者の位置づけ
武士道にも、騎士道にも同じように「他者」が出てきます。騎士道の場合には「弱者」、「悪」、「異教徒」、「封主」、「教会」というように、同じ「他者」についても、いくつかの分類がなされています。これに対して、武士道では「弱者」も「強者」もなく、「善」も「悪」もなく、「仲間」も「敵」もありません。あるのは単に「他人」、少し表現を変えるとしても「社会」、あるいは「相手」といった程度です。そこにはその「他者」とは何であるかを問題にしておらず、すべての「他者」は等しく「他者」であるのです。

2.意思の所在
人間は意思を持つ生物ですが、武士と騎士では、明らかに意思の所在が異なります。武士は自らの意思をもち、それに伴う責任において行動をとります。これに対して、騎士は自分の意思を持たず、行動規範を他人に預けてしまっています。教会は明らかに他者ですが、それが正しいかどうかの自ら判断することは許されておらず、その教会や教えに対する不動の信仰心は、まずそれありきである。教会や封主に対する厳格な服従も然り。そこには、自ら考えるということが許されておらず、その姿はほとんど機械に等しいのです。

3.戦うことの意味
騎士道では「教会の擁護」、「封主への服従」、「異教徒の殲滅」、「悪への対抗」といった理由を挙げつつ、これに対する慈悲なき戦いこそが正義であると位置づけています。決められた正義のために多くの人々を殺す、そのことこそが騎士としての価値になっています。これに対して、武士道のなかにはそもそも「戦う」という言葉がありません。敢えて言うなら「名誉」を守るため、名を汚さぬために最後の手段として戦うことがある、といったところでしょうが、決して「戦え」と言っているわけではないのです。

以上のことを整理すると、端的に表現すれば、騎士とは自ら考えることを許されず、与えられた正義のために、ひたすら多くの人を殺す、いわば戦闘マシーンです。これに対して、武士とは尊厳ある意思をもった人間であり、常に自らの正義を問い詰め、またそれを他人に押し付けることはなく、好んで戦わず、しかし尊厳や名誉を守るためには、やむを得ず剣を抜く戦士であるということができるでしょう。

競争原理で成り立っている現代社会において、人間は戦っていかなければなりません。けれども、騎士のように自らの正義について、真剣に問い詰めることもなく、ひたすら人を陥れていくような戦い方をしていては、この戦いの連鎖はけっして断ち切れないと思うのです。

戦いの連鎖を断ち切っていくためには、人間ひとりひとりが、常に武士の心持ちでいることが大切です。人間としての尊厳をもち、自ら考え、そもそも戦うべき相手が誰なのかを問い詰めていくという思考を続けていくことが必要であると思います(「打ち克つべき相手」参照)。すべての人間が騎士ではなく、武士のような戦い方ができる戦士になったとき、人類の戦いの歴史には終止符が打たれるはずです。

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打ち克つべき相手

2007年02月07日 | 人生

己に打ち克て。よく使われる言葉です。

人間は常に葛藤をしながら生きています。社会は矛盾だらけで、そのなかで生きる人間も矛盾を抱えながら、生きていくことを強いられます(「欲するものへの心持ち」参照)。

例えば、幸せな人生を送るためには、お金はとても大事です。しかしこれは、真であると同時に偽にもなります。お金は大切ですが、それに固執して懸命にお金を稼いでみても、けっして幸せにはなれません。むしろ、金持ちになったことで、周囲の人々が自分ではなく、自分が持っているお金に興味を抱いて近づくようになったりします。自分自身を見てくれる人がいなくなることの不幸。そして、築いた財産であるお金を守っていかなければならない。得たものを失うのではないかという不安や恐怖に駆られる不幸が生まれるのです。

お金で幸せにはなれないと知っている人たちは、他の幸せを探そうとします。「愛する人がいてくれさえすれば」、「可愛い子供が元気に暮らしてくれさえいれば」・・・。ところが、愛する人と一緒にいようとしても、子供を育てるにも、結局お金がなければ、それらは叶わない夢に終わります。結局、お金がたくさんあることはよいことで、そのことで幸せになれることになるのです。

矛盾を解くのは難しいことです。そうした矛盾だらけの社会において、幸せは常に「喜び」と「苦しみ」が表裏一体となったかたちとして存在します(「生きがいと幸せ」参照)。

したがって、実は幸せは常に目の前に存在するものであると言うことができます。苦しみがあれば、必ずそれと同じように喜びが存在し、それこそが幸せなのであるということです。しかし、不完全で弱い人間は、幸せを目の前にしても、喜びに焦点を当て、その幸せをきちんと感じることができず、苦しみの部分に目を向け、それをもって不幸だと感じてしまいます。

人間とはもともと不完全なものです。だからこそ、常に人間は「幸せとは何か」、「生きるとは何か」といった問いに対する明確な答えをみつけられないまま、苦悩し続けるのです。そして、その苦悩の暗闇のなかで、弱い人間ほど、目の前に幸せがあるにもかかわらず、その喜びの部分ではなく、苦しみに焦点を当てて悩む。そこで必死にその原因を探っていったりしてしまうのです。

その結果、他人のせいにする人がいます。
 「気に食わないあいつが悪いのでは?」
 「だらしないあの人の責任?」
 「自分を笑った彼がいけないのでは?」
 「適当で無責任なあいつらのせいではないか?」等等等

社会のせいにする人もいます。
 「そもそも方針もビジョンもない会社がいけないのでは?」
 「談合やら汚職やらにまみれている社会に問題があるのではないか?」
 「あんなとんでもない人たちが平気で暮らせる社会なんておかしくないか?」等等等

挙げていったらキリがありません。これらの原因分析は、往々にして合っています。間違ったものではありません。おそらく真でしょう。しかし、そもそも社会は矛盾だらけです。だから、それらの答えは真であり、同時に偽でもあるのです(「「いい会社」と資本主義」参照)。

他人や社会のせいにしても、何も変わらりません。苦しみから解放されたような気になるだけで、その苦しみからはまったく脱却できないままなのです。自分の苦しみを他人や社会のせいにするだけでは、そこから何の発展も期待できないし、そのことで自分の苦しみの元を変えられるわけではありません。単に自分の苦しみから逃げて、向き合おうとしていないだけでなく、むしろ相手に傷をつけて、恨みや憎しみを買い、ネガティブな方向に物事が進んでいくという結果を招きます。「打ち克つ」相手を他人にするという行為は、まさに現在の弱い人間の論理であり、問題から逃げ回る不完全な人間としての振る舞いそのものです。そして、そのことを続けることは、事態をネガティブな方向に加速化させていくという結果を招くだけなのです。

人間は変わっていかなければなりません。実は、変えられるものがひとつあります。それこそが自分自身です。

自分の苦しみは、すべて自分の責任であると思う。己が至っていないせいであると考える。それは、ときに罪の意識のようなものにもなるし、自己嫌悪に陥りそうにもなるでしょう。だから、自分の責任として考えるということは、大変辛いことでもあります。しかし、それらの意識は自分自身のものです。いくらでも変えられます。

当然、すべてが自分の責任に帰するなどと考えることは、自分が強くなくてはできません。だから、小さなことからでも構いません。そのことの繰り返しによって、人間はどんどん強くなっていくのです。大切なことは、いわゆる「自問自答」を続けることです。打ち克つ相手は、他者ではなく、自分自身なのです(「全員が真のリーダーたれ」参照)。

「これはお前のせいだ」、「あいつのせいだ」、「社会のせいだ」と言ってしまっては、必ず他者との争いになります。結果を突き詰めていくと、自分か他者のどちらかに非があるという結論にならざるを得ません。矛盾だらけの社会で、その答えでは問題の片方のみしか解決しないことになるのです。

辛くても「これは自分のせいだろう」と、もう一人の自分に向き合ったつもりで、問いかけ続けるのです。そして、同時に向き合って問いかけてきた自分に対して、答えるつもりで、真剣に答えを探していくのです。結局、すべての非は自分に帰する。辛いと同時に、そこで出てくる答えは、自分がすべきことであり、そしてそれは生きがいでもあり、それをみつけることそのものが「喜び」となるのです。これ即ち、幸せなのです。

こうした自問自答を続け、答えを出していくこと。このことこそが己に打ち克つということであり、人生そのものであり、それを通じて、幸せを手に入れることができるのです。これは、今日を生きる人間ひとりひとりが幸せになるためにも、社会が変わっていくためにも必要な思考であると思います。

ただし、誰かひとりだけが、それを続けていても社会は変わりません。これをみんな(社会)が逃げずに、それぞれの度量のなかで続けていかなければならないのです。各自の自問自答は異なるはずです。己に打ち克つときの、テーマもレベルもそれぞれでしょう。大事なことは、異なる次元でも構いません。それぞれが己に打ち克つ努力を続けていけば、人間ひとりひとりも、社会全体も大きく変わるということです。

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あるべき「世界統一」の姿

2007年02月03日 | 社会

現存の国家にせよ、宗教にせよ、統一的な志向を持たざるを得ないと思います。人間のエゴが存在する以上、それは当然のことでしょうい。

国家は国家の利益を追求し、宗教は信者を増やしていくことを求めていきます。国家も宗教も複数存在する以上、これらの欲求は必ずぶつかり合い、矛盾をきたし、争いごとを起こすようになるでしょう。しかし、本来人間は、互いに尊重し、平和的に生きていかなければならず、そうした世界を実現していくためには、国家や宗教がひとつにまとまらなければならないのです。

だから、あるべき姿として国家も宗教も統一的な志向を持つようになるのです。そして実際に、そうした思想に基づき、世界の国家(政府)や宗教を統一させようと考えているグループがいるかもしれないのです。

そうしたグループがあるとして、彼らの意図は、アメリカという国を通じて垣間見ることができると思います。アメリカといえば、世界の覇権国家であり、キリスト教の影響を大きく受けている国です。そもそも、アメリカという国は、人類の長い歴史のなかで、土着文化を育みながら生まれてきた国ではありません。よく知られているように、もともとインディアンと呼ばれる土着の人々がいたところに、ヨーロッパから乗り込んできた人々が、彼らを虐殺し、追い出して作った国です。その人々とは、どのような人々だったのでしょうか。この類のテーマは、既存のメディアでは、なかなか取り上げられませんが、インターネットが発達した現在においては、真偽はともかく大量の情報を得ることができます。「友愛団体」、「1ドル札の裏」、「新世界秩序」、「世界統一政府」・・・。

これらの情報には、にわかには信じられないようなものもあるし、当然ニセの情報も含まれているでしょう。しかし、だからといって、これらの情報がすべてウソであると決め付けてはなりません(「オカルトが作る仕組み」参照)。世界は分かっているものが非常に少なく、むしろ未知なる事象に満ちているということを謙虚に受け止めなければならないのです(「万能でない科学」、「脳力の可能性」参照)。そうした分からない状況のなかで、答えを出していけるのは自分自身(「頼るべきは「自分」」参照)なのであり、自分の力で考えるということが、非常に重要なことなのです(「情報はパズルのピース」参照)。

そのような思考法をもってして、集まってくる情報を考察しながら組み合わせていくと、ひとつの仮説が生まれてきます。

世界は特定の権力グループ(あるいは権力者)によって大きく動かされており、彼らは国家や宗教の世界統一を目指している。

この仮説には、多くの検証が必要になってきますが、それは読者の皆さんが各々検証されればいいと思います。ひとまずここでは、それらの検証が終わっているという前提で、議論を進めたいと思います。

複数の国家や宗教が存在することによって、人間のエゴがぶつかり合い、殺し合いが起きているという現実を鑑みれば、そうした権力グループが目指す世界統一の方向性自体は、決して間違っていないと考えます。国家も、宗教も人間が生きていくために都合がいいから作ったものです。人間が本来的に平和を求める以上、争いごとが起きないようにしなければならず、人間が都合よく生きるために作った国家や宗教のせいで争い合い、殺し合うといったことがあってはなりません。

しかし、彼らの手法では、絶対に事は成しえないとも思いますj。問題はその手法にあります。 彼らは特定の国をもってして、他の国を屈服させて、統一しようとしています。またその力をもってして、特定の宗教に統一しようとしているように見受けられます。このかたちでは、統一するためには、相手を屈服させなければならず、その過程で必ず争いごとが起きてしまうでしょう。争いごとは必ず禍根を残します。相手側は負けて、仕方なく軍門に下りますが、このことによって成し遂げられる統一は、極めて表面的なものになってしまいます。人間の心は縛れません。こうした統一のかたちは、必ず反発を招き、のちに争いごとの種となるでしょう。人間の戦争の歴史は、そうやって繰り返されてきているのです。

つまり、これからの世界が統一されていくことは必要ではありながらも、それを今の枠組みのなかで、実現させていこうというのは、真の解決にはなりえないということです。

では、真の解決たる世界統一とは何でしょうか。ヒントは、今の国家の仕組みや宗教を越えるという点にあると考えます。

真の統一は国家や宗教の枠組みを越えていなければいけません。そもそも国家も宗教も、人間が生きていくのに都合がいいから作ったのであり、単なる道具に過ぎません。もう少し突っ込んだ言い方をすれば、欲やエゴに縛られた弱い人間が必要としていた道具であり、その道具があるゆえに人間が争い合い、殺し合い、地球がおかしくなり、結果として人間が生きていけなくなるようであるならば、人間はそのような道具を積極的に捨てていかなければならないのです。ましてや、その道具が人間にとっての生きる目的にはなりえないし、その道具に縛られてはならないはずです(「道具の目的化の危険性」参照)。

道具が必要なのは、人間が弱いからでにほかなりません。強くあれば、人間はそれらの道具を必要としなくなります。次の時代を迎えるにあたって、人間はもっともっと、自分たちの強さを磨いていかなければならないでしょう(「頼るべきは「自分」」、「全員が真のリーダーたれ」参照)。そして、人間が強く生まれ変わったとき、国家も宗教も必要ではなくなると思います。

究極の無国家主義、究極の無宗教主義。人間の心を縛りつけるかたちで、ひとつにするのではありません。あらゆるものから解放され、本来的な自由を手にしたときに、自ずとひとつになるのです。これこそが、現存の国家や宗教を超えた本来あるべき統一の姿であり、人類が新しく迎える世界の常識になっていくのではないかと思うのでした。

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分からないことは言わない

2007年02月01日 | 人生

人間には、必ず美点と欠点があります。人間が不完全な存在である以上、これは仕方がないことでしょう。そして同時に、人間には他人よりも優れており、価値がある存在でありたいと願う心があるため、美点をなるべく大きく見せて、欠点をなるべく隠そうとする習性を併せもつのです。人間社会は競争原理で動いており、こうした人間の習性は連鎖反応を起こし、人間社会における本質の一部を成していると言えるでしょう(「人間の優劣と競争社会」参照)。

ところで、こうした競争社会のなかでは、他人を陥れることは、自己の生存にとって欠かせない行為となっていきます。このため結果的に人は見栄を張ったり、他人にどう思われるかを常に気にする、疲れた生き方を強いられるようになっているのです。

こうした生き方は、現代の競争社会を生き抜くうえでの大切な知恵であり、人間誰しも、多かれ少なかれ、こうした知恵を利用しながら生きているものです。しかし、こうしたものは、単に競争原理のうえに成り立っている現代社会を生き抜くための知恵に過ぎず、この知恵そのものが、人間にとって絶対的な本質であると考えてはならないと思います。

こうした知恵は、自分を守ってくれるし、自分の尊厳を保ってくれます。不完全な人間は、弱い存在であるため、こうした知恵を使っていないと、自己崩壊を招きます。いわば、競争社会で生きていくための、必要不可欠な「バリアー」です。

しかし同時に、バリアーを張った状態の人間の生き方は、本来あるべき姿ではないとも思います。人を傷つけ、人に傷つけられながら、競争して生きていくのは、今の世の中では仕方がないだけであって、そのために必要なバリアーというのは本来的に必要なものではないはずであると思うのです。人間は、競争をしなくても生きていられるように自分自身を磨き、徐々に自分なりの強さを身につけていきながら、このバリアーを解いていかなければならないと考えます。

しかし、バリアーを解くとはどういうことでしょうか。自分自身を磨いて、強さを身につけていくとはどういうことでしょうか。

人は自分の尊厳を守りたいと思うがゆえに、他人から愚かであるとみられることを恐れます。その結果として、たとえば実は分かっていないことに対しても、分かったようなフリをしようとします。本来、分かっていないにもかかわらず、分かっていると言って、自分が愚かであると思われぬように隠そうとするわけです。これは、人間が知らず知らずに張ってしまう大きなバリアーのひとつです。そして、このバリアーを張っているうちに、分かってもいないくせに、分かっているフリをすることで、本当に分かったようなつもりになってしまいます。ここが恐ろしいところです。

分からないものは、正直に分からないものとして、そのまま置いておくべきです。しかし、たとえば他人と議論をしているなかで、分からないものは分からないといって、そのことについて発言をしないということは、非常に辛いことでもあります。他人と議論を展開しているなかで、それについて雄弁に語る人がいる傍らで、沈黙を守るというのは、時には愚かにみえるし、自分の存在価値を実感できずにいるという状況を受け入れる忍耐力が必要となります。このことは、競争社会を生きる人間にとって、大変辛いことであるはずです。

しかし、人間はこれに耐えるべきです。発言ができない自分でいつづけることで、他人からは自分が愚かな人間であると思われるという不安を抱えることでしょう。そのことが、いわゆるバリアーを解くということです。だがそれでも、耐えることを通じて、人間は大いに悩むべきです。悩む過程において、自ずと自問自答を繰り返すようになります。「物事を言えない自分が辛い。本当はどうなのだろうか。答えは何なのだろうか」。こうした問いを繰り返していくことこそ、自分を磨くということであり、強さを身につけるということなのです。

この辛さに耐え抜き、自信をもって発言できるようになるときは、自分なりに答えをみつけ、自らの信念に基づき、自分の言葉で語れるようになったときでしょう。そのことは、自分自身に打ち克ち、バリアーを取り払っても、きちんと他人と向き合える強さを備えるようになるという意味でもあります。そのような人の言葉には、自ずと迫力が生まれるし、人の心を突き動かすパワーが宿るようになります。

本当に人間が尊厳ある存在になるためには、その人の発言には重い責任が伴うのであり、そのような責任ある発言をするためには、その人がきちんと信念をもって言葉を発しなければなりません。分からないことは、分からない。分かったようなフリをして無理をする必要もないし、気取る必要もないのです。分からないのだから、そのことを謙虚に受け入れなければなりません。しかし、ひとたび分かるようになったのであれば、そのことについては、きちんとした信念を持ち、それを曲げてはなりません。こうしたメリハリをきちんと持つべきであると思います(「風林火山と「武」のあり方」参照)。

これは本来、リーダーたるものの資質として求められるものです(「全員が真のリーダーたれ」参照)。これから人類は、大変な時代を生き抜いていかなければなりません。そうした時代を迎えるにあたって、人間ひとりひとりが、大きな責任と尊厳ある存在としての自覚をもつことが大切なのです。分からないことについては、分かっていないことを謙虚に認め、自分の力でじっくりと考えていく強さを持つことが求められています。

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