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2.5 ドイツとの比較

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 キム・ヨンス氏は「ドイツがナチスの戦争責任と関連し、これまで一貫してとってきた戦後処理の姿勢は日本の戦争責任回避を皮肉る『万国共用』の事例として広く引用されてきた。ナチスの戦犯事を清算するためのドイツの努力は、よく知られている事実だ。潜跡してしまったナチスの戦犯を追跡する作業は、今も執拗に続けられており、数十年の追跡の末、捕らえられた戦犯たちを法廷に立て、処断する仕事もいまだに続いている」とドイツの事例を挙げ、ドイツが過去清算の先進国であるのに対し、日本は過去清算の後進国であると論じている(51)。
 たしかに、今日までのドイツの戦後補償実績が評価に値するものであることはいうまでもない。先述のような、今後続けられるであろうドイツの補償見積もり総額、1200億マルクという巨額の数字はその裏付けでもある。
 しかし、日本とドイツの戦後補償の比較をするには、戦時中あるいは戦前の両国の加害行為の内容を比較検討する作業を欠かしてはならない。ドイツの戦争中の犯罪行為とは何であったのか、何が補償対象となっているのかをあきらかにしたうえで、日本においての戦後補償とは何かを論じるべきであり、その検討を省いて、日本の戦後補償に評価付けをおこなうことは不可能である。
 第二次大戦後、ドイツの戦後補償の大きなきっかけとなったのは、先にも述べたとおりナチズムの残虐性であった。
 1995年10月13日、名古屋で開催されたシンポジウム「日本とドイツ」で、ゲンシャー元ドイツ副首相兼外相は「過去の克服がドイツで日本より早く始まった理由は、ユダヤ人大虐殺の問題にある。もし、歴史に例をみないこの事件がなければ、過去の克服の問題も日本と同じような形で行われていた可能性は十分にある」と述べた(52)。ナチスの行為、しかもユダヤ人大虐殺が、ドイツの第二次大戦後の補償問題において、重要な意味をもっていたという指摘である。
 ユダヤ人迫害問題はナチスの思想と非常に深い関わり合いをもつ。ユダヤ人問題とナチズムとの関係について、ワルター・ホーファー氏は以下のように説明している。

 「ヒトラーが予言した政治的宗教の中心にあるものは人種思想であって、それは次のような内容を持つ観念である。あらゆる歴史現象、あらゆる国家形成および文化創造の根本要素は人種的要素である(中略)文化能力をもつが故に最高・最良の人種は、いわゆる「アリアン」人種である。(中略)「支配人種」たるドイツ人が支配すべきものであり、価値の低い諸民族はドイツに服従して、労働に従事するか、または、全く抹殺されねばならない。ここにおいて人種思想が反ユダヤ主義と結びつく。なぜなら、ナチズムの教義によればユダヤ人は価値の低い人種であるのみならず、アリアン人種の壊滅を目的としている「敵対人種」だからである。ユダヤ寺院は「寄生虫」でありながら、アリアン人に敵対しているのであるから、徹底的に抹殺されねばならない。」(53)

 また、ナチスのユダヤ人敵対視についてはヒトラーの著書、「我が闘争」から次のような文章が紹介されている。

 「金融ユダヤ人層は、イギリスの国家福祉の利益に反して、ただドイツの徹底的な経済破滅のみならず、完全な政治的奴隷化をも望んでいる。(中略)それ故、今やユダヤ人はドイツの徹底的破滅の大扇動者である。我々が世界中にドイツに対する攻撃を看取するところにはどこでも、ユダヤ人は、ユダヤ人工場主を扇動し、平時にも戦時にも、ユダヤ人の取引所新聞やマルクス主義新聞を扇動して、ドイツに対する憎悪を計画的にあおりたて、ついには、国家が国家を犠牲にして中立を放棄し、世界戦争連合のために、民族の真の利益を断念するまで、この扇動をやめない。」(54)

 ナチズムの人種思想のイデオロギーは、敵対人種としてのユダヤ人をつくりあげ、これを弾圧、迫害した。そしてあの残虐行為が生まれたのである。しかしかつての日本帝国に、はたしてこのような、ある民族絶滅を目論むイデオロギーが存在したであろうか。朝鮮半島をはじめアジアの諸地域で展開した皇民化政策は、他民族絶滅の手段として用いられたとの解釈がある。言語、風習、信仰などの精神面における同一化政策は、その民族の精神的、文化的伝統を絶滅の危機に陥れ、それらの地域に多大な苦痛を与えてしまったことは否めない。しかし、これとナチズムの人種思想とを同列に論じるべきであるかどうかは、大きな疑問である。ヒトラーは、1939年1月30日の国会における演説で「もしヨーロッパ内外の国際的金融ユダヤ層が、諸民族を再び世界戦争に巻きこむことに成功するならば、その結果は世界のボリシェズム化と、それに伴うユダヤ人種の勝利とはならず、却ってヨーロッパにおけるユダヤ人種の絶滅となるだろう」とヨーロッパにおけるユダヤ人の絶滅を予告した(55)。しかし、日本にはこのような敵対関係を前提としたある特定民族の絶滅を目指す思想はなかった。日本とドイツを比較する際、まずこの違いを念頭に置く必要がある。
 またドイツの戦後補償をみる場合、日本との比較のうえで、その補償対象となる加害行為が、真に戦争遂行のためになされた行為なのか、あるいは戦争との関連性がいかに強いかの点で注目すべき差異がある。
 たとえば、日本が挑戦人労働者を本格的に動員するために設けた「国家総動員法」や「労働力動員法」は1938年、1939年に公布されたものであり、これには1937年に勃発した中国との戦争が大濃いな影響を及ぼしたと考えられる。すなわち、戦争の結果引き起こされた労働不足が、朝鮮民族の労働力を動員する動機になったのである。
 リチャード・H・ミッチェル氏は、1931年の満州事変以後、日本はそれまでの不況から好景気に転じ、労働力不足に悩むようになり、日本への渡航を奨励した。その当初の時点での労働力の動員は強制的なものではなく、強制連行がなされるようになったのは労働力動員法の公布以降の1939年からであったという(56)。つまり、少なくとも日本が戦争中におこなった強制連行という行為は、戦争遂行のための行為だったのである。
 これに対し、ドイツの反ユダヤ主義は、すでに1920年のナチ党綱領25箇条に明文化されており(57)、その絶滅政策の目的は、戦争の遂行と直接的な関係をもたない。ドイツ本国から追放されたユダヤ人に対する最初の絶滅政策が実施されたのは、1941年11月であり、当時まさに、ドイツは戦争中であった。しかし、ユダヤ人絶滅政策の前提をなすものは、ユダヤ人を絶滅したいというヒトラー以下ナチス当局の固い意志であり、その残虐な政策を現実に開始させたのは、袋小路に追いつめられた強制的追放政策の脱出路を切り開く必要に迫られたためであった(58)。ナチスのイデオロギー、ユダヤ人絶滅政策は、戦争と切り離してとらえられなければならず、ナチスの行為は、日本の戦争中の行為とははっきりと性格を異にするのである。
 ナチスは戦前から、人種思想にもとづくユダヤ人絶滅政策を内に秘めていた。それが戦争中、具現化するようになり、戦争終結を契機として裁かれるようになったのである。ドイツにおける戦後補償という概念にはこうした背景があるのであり、これをそのまま引用し、戦時中の行為の性格がまったく異なる日本にあてはめ、議論するのはあまりにもナンセンスである。
 ドイツと日本の戦後には、いくつかの共通点もみられるが、両国の戦後処理をめぐる議論は、両者を単純に比較して展開することはできない。上述のように、ドイツと日本の戦後処理をめぐる事情には大きな違いがあり、ドイツの戦後補償をもって、日本の戦後補償云々を論じるのは不可能なのである。したがって、日本の戦後補償について論じようとする場合には、ドイツとはまた違う、日本なりの戦後補償の論理を確立する必要があるのである。

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